ズラかった信吉
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著者名:宮本百合子 

    (□)[#「(I)」は縦中横]

        一

 東海道本線を三等寝台車が走るようになった。だがあれは、三段にもなっていて、狭く、窮屈で養鶏所の人工孵卵器(ふらんき)みたいだ。
 シベリア鉄道の三等は二段だ。広軌だから、通路をへだてたもう一方にも窓に沿って一人分の座席があって、全体たっぷりしてる。
 信吉は、そういう三等列車の上の段で腹んばいになり、腕に顎をのっけて下の方を眺めていた。下では三人の労働者風なロシア人が、カルタをやっているところだ。肩のところにひどいカギ裂きの出来た海老茶色(えびちゃいろ)のルバーシカを着たの。鳥打帽をぞんざいに頭の後ろに引っかけたの。剛(つよ)そうな灰色の髪の小鬢(こびん)へどういうわけか一束若白髪を生やしたの。三人ともまるで仕事みたいに気を入れてやってる。海老茶色ルバーシカの男は、真面目くさった顔つきで、ときどき横っ腹を着ているものごと痒(か)きながら、札をひろったり、捨てたりしている。
 信吉は、丸まっちい鼻へ薄すり膏汗(あぶらあせ)をにじませたまま、暫く勝負を見ていたが、
「あーァ」
 起きあがって、伸びをした。
「そろそろ飯(めし)か……」
 この三人は、きまって飯時分になるとカルタをやる。そして、互に負けを出し合い、停車場へ着くと物を買いこんで来て飯(めし)にするんだ。
 ところでここは、モスクワ行三等列車の棚の中だ。どっちを向いて何と云ったところが、信吉の独言をわかってくれるような者はありっこない。
 信吉はズボンのポケットから蟇口を出した。蟇口は打紐でバンドにくくりつけてある。下唇を突き出し、鼻の穴をふくらがして銭を算(かぞ)えた。モスクワまで、まだあと五日か、チェッ!
 一枚の紙を、信吉は胡坐(あぐら)をかいている膝の上へのばした。果しないシベリアを夜昼鋼鉄の長い列車は西へ! 西へ! 砂塵を巻いて突っ走る。信吉は棚の上で日に一度はきっとこの紙を出しかけた。所在なかったり、寂しくなったりすると読む。
 手紙だ。甥の卯太郎がよこした手紙だ。
「信(しん)あんちゃ。おかわりありませんか。うちではみんな丈夫ですから安心して下さい。けんど、村は不景気だヨ。山上ん田でも、佐田んげでも小作争ギおこった。源さや忠さや、碌さは警察さあげられて、まだ帰ってきねえ。村で新聞とっているのは田村さんげと(これは東吉の村で村長をやってる男だ)忠さげだけんなったど、忠さんは警察さあげられたから、新聞ことわるようにすっぺと婆さまが云っていた。碌さの家へ電気会社の人が来て線を切って行ったから夜はローソクをつけています。
 新井の伯母が裏の川さはまって死んだよ。ゴム工場があんまり熱くて目がくさって、うっかと川さ落ちて死んだそうです。東京新聞さそのことが出ていたそうです。おっちゃんが今朝土間で新井の伯母が川さはまって死んだそうだ。せえってたら玉子集めの六婆さがへって来て、んでも東京新聞さ出たちゅうでねえけ。東京新聞さ書かれたら伯母も成仏すっぺと云ったら、おっちゃんがおっかない顔してコケ! かえられるこつか! と怒りました。
 あんちゃとこの爺さま、きのう着物着てげんめん運動でみんなと町さ行ったよ。おら、地蔵でいきあったら婆さまもいっしょに歩いていた。信あんちゃさ手紙書くだ。せえったら、ばさまが気いつけてニンニクかめと云ってくれと云いました。
 信あんちゃ、エハガキもっとおくれよ。おらも行ってみてえな」
 へん! 生意気云ってらあ。真黒な裸足(はだし)で末っ子の糸坊を脊負わされて学校へ通っている卯太郎の顔が、ありあり目の前に見えて信吉は苦笑いした。町で、自転車屋に働いてた時分、信吉はよくこっそり卯太郎を自転車の後へのっけて村を一まわりしてやった。それで親類じゅうの誰よりなついて手紙までよこしたんだ。――どうかいいとこみてえに思ってやがる。……
 何一ついいことは知らしてない手紙でも故郷からだんだん遠くへ遠くへと行く信吉にとっては、懐しいたよりだ。信吉は鼻をほじくりながら、長いこと膝の上の雑記帳から引ぱいだ紙を眺めていた。

        二

 地図で見ると、日本は実に小さい国だ。小学校でつかう千八百万分の一地図で、樺太(からふと)の端から台湾までたった六寸五分だ。幅はと云えば一等ひろいところで五分だ。
 この上に現在ぎっしり詰って生きている九千万人の人間を彫り出せと云ったら、いかな豆彫の達人もちょっと閉口するだろう。
 東は太平洋だ。いろんな冒険家がアメリカとの間を横断飛行やろうとしているがまだ成功した者は一人もない。そんなに広い太平洋だ。
 西は日本海だ。狭い日本で急速に資本主義が発達した。儲けるすき間のなくなった資本家が、先ず朝鮮をしゃぶり抜いて満州や沿海州へ侵入し、ひと当てやろうとしていることは知らない者のない歴史的事実だ。
 大きいところでは南満州鉄道、北樺太石油、最近借区料問題でソヴェトとの間に大ごたごたをまき起し、さも日本の大衆に直接利害のあることみたいな体裁で騒ぎたてた露領漁業組合。――
 信吉が働いていた××林業株式会社というのも、たちはそれだった。木材をやすくアルハラの山奥から伐り出し、筏(いかだ)で船まで流して内地へ製紙原料、製箱用材として売り込む。それが商売だ。
 去年の秋、××林業株式会社現場行人夫募集の広告を見たとき、自転車屋が潰れてあぶくれていた信吉は、気が動いた。
 村じゃ、あぶくれの三男坊なんかにっちもさっちも行くもんじゃなかった。十日に二日ぐらい日雇がある。日雇は三十銭から七十銭どまりだ。それで食うのはこっち持ちだ。
 分家も出来ないでふけた兄貴二人が、板の間の火の気のない炉ばたで、ときどき煙管(きせる)で炉縁をはたきながら額をつき合わしている。
 親父は裏の納屋の方でゴトゴトやってる。親父は小心で何かにつけて、兄貴たちを憚(はばか)っているんだ。
 信吉自身は、重苦しい空気を背中にこらえて、切戸の前へころがり、掌の中へかくして、半分吸いのこりのバットを、ふかしていた。
 徴兵のがれで嬉しいと思ったのなんか、こうなって見りゃあ糠(ぬか)よろこびだ。――
 ええ、行ってやれ!
 監獄部屋や蟹工船の話をきいている信吉には、××林業の現場とはどんなところか、不安でないこともなかった。だが、村を出るに贅沢云っちゃいられない。
 親分のハゲ小林という半ズボンに引率されて、アルハラの現場小舎へ着いたら、山また山の黒っぽい樅(もみ)の葉にサラサラロシアの粉雪が降りだした。
 日本人が事務員を入れて三十人足らず。ほかにロシア人の労働者が五六十人稼ぎに来ている。日本人は日本人のバラック、ロシア人はロシア人のバラックと、山の斜面に四棟の小舎が建っていた。
 根元へ斧を入れられた樹は先ず頭から振れ出し、細かい雪煙をたてて四辺(あたり)の下枝を折りながら倒れる。それにたかって枝をおろす。それから雪の上、林の間を馬に引っぱらせてアムグーン川の上流まで運び出す。
 そこでは日本人夫の経験のあるのが、材木をドシドシ氷結したアムグーン川へころがし込んだ。春、解氷期になると、ロシアじゅうの川は気ぜわしく泡立ちながら氾濫する。今こうやって氷の上へぶちこまれている材木は、アムグーン川の氷がとけて水嵩(みずかさ)がますと一緒に、河口までひとりでに押し出されるという寸法だ。
 人夫募集広告には、日魯林業株式会社直営現場となっていた。が、それは表面上のことで、内実は伐り出しから船渡しまでがいくらと、親分の請負だ。信吉のような平人夫は日給二円。一人前の仲仕が二円八十銭位とった。金は、いきなり事務所の会計では渡さず親分のハンコがいった。山でいるだけの小遣いは露貨で貰って、残りは日本の金で宅渡しだ。
 ××林業が現場を開いた年から毎年出稼ぎに来ているという源が、或る日バラックで腹掛のドンブリから受けとって来た金を出しながら、
「畜生、なめてやがんな。ルーブリをいつだって六十五銭よりやすかあ換算しやがらねえ。手前たちの税なんか、どんなルーブリで払ってやがるか知れやしねえのに……」
と云った。信吉には初耳だ。
「相場あ、違うのけ?」
「ルーブリはお前、国定相場と暗黒相場ってえのと二通りあるんだ。国定で行きゃあ一ルーブリは一円がちょいと足を出すのよ。ところが、国法で、ソヴェトは金(きん)を国外へ持ち出すことを許さねえ。そこでチャンコロが密輸入で儲けたルーブリをみんなロシアの国境で投げ売りする。奴等あちゃんと人を使ってそいつを片っぱしから買わせてやがるんだ。ソヴェトへ払う税や、お前、労働者に払う金は、図々しくそういうルーブリでゴチャマカしてやがるから、会社あ肥るんだ。ソヴェト対手(あいて)の利権会社あみんなその手をつかってるのよ」
「そうかい!」
 どうりで分った。ハゲ小林が、人夫への換算払出しには割方鷹揚なわけだ。人夫への換算率は六十五銭だが実は三十銭ぐらいで買ったルーブリだとすりゃ、もうそこで三十五銭は丸儲けだ。円で払う分(ぶん)が減りゃ減るほど奴等が得するんだ。
「ようし、畜生! じゃ俺あ帰るまで一文だって換えねえぞ!」
 信吉が例の丸まっちい鼻をいからかして力んだら、源が、
「雪のあるうちゃ誰しもそう思うのさ。今に見ろ。春んなってアムグーンが流れ出して見ろ。つい、そんなことを云っちゃいられねえようなときがあるんだ」
 だんだん会社のからくりがバレた。
 それでも、××林業の現場はソヴェトの領土にあるおかげで、労働条件が内地よりズットましだった。ここでは日本人経営の会社に対してもソヴェト労働法がものを云うんだ。山また山の雪の中だが日本人もロシア人なみに八時間労働制だ。時間外労働は二時間ずつ一区切りで割ましがついた。ここでだけは、病気、怪我で休んでも日給は一文もさっぴかれずにとれた。

        三

 信吉が現場へ来て二ヵ月ばかり経った一月の或る朝だ。ロシアの真冬、七時と云えばまだ暗い。壁の高みに吊ったカンテラの光をぼんやりうけながらストーブを中央に二十何人寝ているのが、ぼつぼつ起きだした。
「……こりゃ今朝はひでえぞウ……かけてる布団の襟がバリバリだあ」
 すると、二重硝子をはめた窓下に寝ていたのが、つづいて頓狂に叫んだ。
「ヤッ、こりゃえげねえ! もちっと知らずと寝てたら、ハアそれなりオダブツだぞウ」
 いつの間にか細かい雪が窓から入って来て、夜具の裾へ手で掬うほど吹きだまりをこしらえていた。
 みんな、厚いメリヤス・シャツのまんま寝る。信吉はその上へジャケツを着こみながら、窓んところへ額をおっつけて戸外を見た。何とも云えぬ艶をもって壮厳な碧黒い空が枝という枝の端まで真白く氷花に覆われた林の間から重く見える。
「ほんとに凍(し)みらあ」
 信吉は、起きぬけの素足の指を布団の上で海老にした。
 ひどく凍ると空気は板みたいに強(こわ)ばって、うまく吸いこめるもんじゃない。飯場へ行くまでにも髭は白くなるし、頬っぺたや口のまわりが針束で刺されるように痛んだ。
 ガヤガヤ云って汁かけ飯を食ってると、信吉なんか口も利いたことない若いのが、防寒帽をかぶって外から飛びこんで来るなり、
「おーい、二十七度だぞウ!」
と怒鳴った。
「ほんとけ?」
 嬉しそうな声がした。
「そうはなるめえ、こんでも……」
「見て来たんだぞ、わざわざ事務所へ行って! 二十七度強だアしかも」
「占めた!」
 ドスン。誰かが飯台をはった。
「今日は休みだぞウ」
 信吉は、キョトンとした顔で、わきの疣政(えぼまさ)に訊いた。
「二十七度だと休みなんかね?」
「零下、二十五度より寒けりゃ働かしてなんねえっていう規則がソヴェト政府から出てるんだ」
 みんながゆっくり飯場にかまえこんでいるところへ、ハゲ小林が入って来た。
「出ねえのか?」
 すると、さっきの若いのが威勢のいい声で、
「今日は二十七度だ」
と云った。ハゲ小林は、それなりストーブの前へ行って暫くあたってたが黙ってまた出て行った。
 信吉は、何だか愉快でたまらなかった。今日はゾックリ自分たちの身丈が伸びて、ハゲ小林も事務所の奴等も目の下に見るようだ。寒暖計が下ってるうちは奴等あ、何としたって働かすことは出来ねえ。日給つきの休みだ!
 日が出きれないうちに吹雪(ふぶ)きになった。
 昼すぎ、バラックから小便しに出た信吉は、ロシア人バラックに人がたかってるのを見つけた。
 喧嘩がはじまったか?
 休み気分でブラリと行って見たら、バラックの内では茶番みたいなことをやってる。
 ルバーシカを着て鳥打帽かぶった若い男が本を抱えて歩いて行く。すると、こっちから、空罐のデカイのを頭へのっけて、外套へあっちこっちに手を通した髯の長い奴が、チョコチョコ小刻みにやって来た。
 鳥打帽は、それを見るといそいで寝台のかげへかくれた。やりすごしといて、いきなり後から組つき、はりとばした。頭から空罐がスッ飛んでがんがららん。えらい騒ぎだ。ぶっこかされながら外套へあっちこっちに手を通した奴が、大きな声で何か云った。ワーッ。見物が笑う。
 鳥打帽はとうとうとりかえっこに、自分が空罐かぶって、髯長に本をもたせて、鳥打帽をかぶせちまった。そして素早くまたかくれた。
 今は鳥打をかぶらされ、ルバーシカだけになった髯長がヨタヨタ行きかけようとすると、またまた忍びよった者がある。棒をもってる。ルバーシカの胸にビールの口金をとって勲章につけている。
 こん畜生!
というような掛声もろとも、これは手荒い。さんざん棒でひっぱたいて、クタリとなった奴をひっかついで、勲章を撫で撫で引こんだ。かくれていた元の鳥打が、姿を現す。
 何とかかんとか、ウラーッ!
 ウラーアッ! バラックを揺がす大喝采だ。
 信吉にも、労働者らしい鳥打の方がよくて、ビールの口金を勲章にしたのや空罐をかぶったのは敵役だということだけは分る。伸びあがって笑いながら、山羊皮外套に防寒帽をかぶったまんまでつめかけてるロシア人に混って手を叩いていたら、
「――どうだい」
 声かけた者がある。朝、二十七度だぞウと怒鳴った若い男だった。

        四

 これがきっかけで信吉は松太と、だんだん親しく話をするようになった。
 ちょうど、二十七度休みがあった十日ばかり後の宵のくちだ。ロシア労働者たちが、星空の下に白く凍った雪を絶えず、キ、キ、と鳴らしながら林の間を三号バラックの方へ集ってゆく姿が見えた。
 この間の茶番以来、信吉はロシアバラックの生活ぶりに好奇心を抱いている。いい加減集りきった頃をはかって、自分も行って覗きこんだ。
 へえ。……今日はまた、やに真面目なんだね。演説だ。バラックの奥ではランプの明りで赤い髪を火のように光らせながら、一人の若い男が立って喋ってる。ときどきつっかえる。そうかと思うとタワーリシチー! レーニン何とかかんとか□ 大きな声で叫んで拳固を上から下へ振りまわす。
 その男がすむと、眼っかちの、無精髭をはやした小男だ。唾をとばしながら何か云っちゃあ、裾のひきずるほどだぶだぶな自分の山羊皮外套を、片手にひっ掴んだ防寒帽でもってバサッ、バサッとしばく。
 信吉は、丸まっちい鼻をおかしそうにひくつかせて、のり出した。こいつ! 見覚があるぞ。山で馬を追うときまるだしの恰好で喋ってやがる――。
 だが、みんな何をいきまいて演説してるんだろう?
 袖を通さず羽織った外套の襟を押えてちょっと前へ出ようとしたときだ。誰かが後から肩を押えた。ロシア人だろうと思って振向くと、ハゲ小林だ。
「来い」
 信吉には訳がわからない。
「出ろ。聞えねえのか」
 体をよじってロシア人の間をバラックの外へ出ると、
「何していた」
 歩きながら、ハゲ小林が低いドス声で訊問した。
「何って……見てただけだ」
「うろつくんじゃねえ。変な真似して見ろ、敦賀へ上るなり引っくくらせるぞ!」
 ハゲ小林が事務所の方へ行ってしまうと、信吉はチェッ! 雪の上へ唾をした。演説を見物したからって一々引っくくられて堪るけ!
 翌日、昼休みの後で、松太が、
「昨夜(よんべ)、どした」
 信吉の働いてるわきへよって来た。
「……いたのか? お前も」
「…………」
「何の演説だったんだろ」
「レーニンの死んだ日よ、昨日は」
「ふーん――ハゲの奴、ちょいちょい三号バラックなんぞさ行くのか?」
「見張ってやがんのよ」
「なして! バカバカしい。一つとこで働いてるロシア人にも近よっちゃいけねのか?」
「だって、お前」
 松太は、ゆっくりした口調で云った。
「日本人夫がみんなソヴェト労働者のやり振りを知った日にゃ、このまんまじゃ〔五字伏字〕」
 橇へつけて出す材木へ二人して符牒を入れているところだ。
「会社は日本人夫をあっちさ近づけめえ、近づけめえとしているんだ」
「…………」
「ロシア人夫あ、お前、俺等みてえにてんでんバラバラに狩りあつめられて来たんじゃねえ。自分の組合もってて、政府の職業紹介所から団体契約で来てるんだ。そんだから、××林業にとっちゃ日本人夫なんぞ一人や二人どうしようとこわくねえ。奴等の都合で難癖つけて今日んでもボイこくれるが、ロシア人夫にそりゃ出来ねえんだ」
「なしてだい」
「組合の規則でよ!」
 太い声を松太が出した。
「ソヴェトじゃ、組合の規則で労働者がてんでの権利ってものをちゃんときめているんだ。賃銀のたかも、解雇するにも組合の規則でやらなくちゃなんねえ。工場なんかじゃ、お前、一年に一ヵ月も有給休暇があって、労働者が休みに行く家まで政府からわり当てられているんだとよ」
 また別なとき、松太がこんなことを云った。
「こんな山ん中じゃわかんねえが、なんでもモスクワは今大した景気でおっつけアメリカ追いこすぐれえだとよ。どこもかしこも人増しで、引っぱり凧だとよ。日本の不景気た大ちげえだ!」
 信吉は、だんだん自分が来ている土地について考えるようになった。
 山から上って、バラックでみんな寝ころがってボヤボヤしているようなとき、信吉は急に、こうしちゃいられね! という気になって坐り直した。とってもおかしいじゃねえか。ここは世界のどこにもまだ無い労働者の国なんだ。ソヴェトだ。××林業の日本人足のバラックだけが、わざと痺(しび)らされて何にも知らずボーとしてるが、つい山の外じゃ、もっと、もっと何か素晴らしいことがあるに違えねんだ! そうじゃねえか? ここの地べたに生えてる木を伐ってるだけで、八時間労働に有給休日という、内地じゃめぐり会えねえ思いをしているんだ。
 信吉は、目立たないようにハゲ小林からルーブリをひき出した。
 春になった。アムグーン川が流れだした。日本人夫は、トビ口をかついで、春の泥濘(ぬかるみ)にすべりながら低い川岸に散らばった。
 村に近い番屋で働くようになると、人夫の金使いが荒くなった。
 山から吹く風は冷たいが、太陽は汗ばむぐらいにぬくんで濁って水嵩のましたアムグーンの面や、そこを浮いて行く材木を照らした。川岸の腐った落葉の下から白い小さい雪割草の花が開いている。
 源がジャケツに腹がけ姿でトビ口に靠(もた)れながら或るとき、
「この川っぷちとも今年でおさらばか……」
と云った。わきに蹲(しゃが)んで、草の芽生えを眺めてた信吉は、顔をあげて訊いた。
「……なしてだい」
「この会社も、もう来年までやっちゃいかれめえよ。何せソヴェトじゃ労働者が主人で労働法がガン張ってるから、内地みてえにいろんな口実つけちゃ労働者をキッキと搾れねえ。内地の景気あガタ落ちでも、ここで材木一本伐り出す費用にゃかわりがねえんだ。それに、なんだってえもの、この頃は逆にこっちの景気がよくって、今に日当が三四割がた上るって話だもん、お前、会社あたまらねえや」
 源は、手洟(てばな)をかんだ。〔十七字伏字〕が土台から違うんだ。
 いよいよ、××林業の現場引あげが目の前に迫ると、若い信吉の心は苦しくなった。
 半年、大きくゆったりしたロシアの山の中で働いた後、喜久地村のいじけた希望のない暮しへは何としても戻る気になれない。この折をのがしたら、もう二度と日本は出られない。手をのばしさえしたら、途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。今、この折をのがしたら。――
 ロシアの春の夜の濃い闇の中で、信吉は幾晩も長いこと寝がえりうった。この機会をのがしたら、今はずしたら、いつ、うだつの上るときが来べ?――
 信吉はとうとう、明日××林業株式会社事務所出張所へ総集合という前の晩、谷間の六号番屋をズラかった。

        五

 だから、モスクワ行三等列車の棚の上で、卯太郎の手紙を眺める信吉の心は、しんみりしている。
 上(のぼり)列車がジマーというところで停ったときのことだ。みんながらがら汽車を出て行く。信吉も、カラーなしの縞シャツの上から黒い上衣をひっかけて、片手にヤカンをぶらさげ、群集にまじって熱湯配給所へ出かけた。
 もう、ずらっと男女の列だ。昔から、ロシアの停車場にはこういうところがついていて、旅客はただで湯をとり、自分の坐席で茶を入れて飲む習慣だ。
 熱湯配給所の小舎のわき、棚の前へ土地の物売りが並んでいる。
 ゴムの尻当てみたいな輪パンがあるナ。いくらだ? 四十五カペイキ? たけえ!
 樺の木の皮へつつんだバタを売ってる女がある。
 次は――玉子。
 バケツに塩漬胡瓜(きゅうり)を入れて足元においている婆さんから信吉はそれを三本買った。ナイフで薄くきってパンにのせて食うんだ。
 焼豚の脂肉(あぶらみ)――
 鶏の丸焼もあるが、ヤカンを下げた連中は値をきくだけで通りすぎちまう。
 やっぱり気をつけて金をつかってるんだ。
 柵が終ろうとするところに、桃色の布をかぶった十五六のぼってりしたロシア娘が、可愛らしい口に細かい黄色い花の小枝を咬えながら、牛乳を売っている。
 信吉は何しろ財布があやしいから胡瓜やオーブラ(干魚)で幾日もしのいで来ている。不意と濃い牛乳を流しこんで見たくなった。
「なんぼ?」
 四合瓶に一杯つめたのを指して訊いた。
「五十カペイキ」
 しめ、しめ! 確にそうきいたと思い、信吉は牛乳瓶をとって、娘の手へ五十カペイキわたした。
 すると、どうしたこった! 娘はいきなり口から花の枝をほき出すなり大きな声で何か叫んだ。信吉の手元へとびついて来て、持ってる牛乳瓶をひったくろうとする。冗談か? そうじゃない。何すんだ! 不意をくらった信吉が思わず肱で娘をよけようとした拍子に、ヤカンからちょんびり湯がこぼれた。娘の足にそれがかかった。娘は大業な悲鳴をあげた。
 瞬間の出来ごとだった。が、忽ちまわりに人がたかって来た。
 何だい。
 どうしたんだ。
 支那人じゃないか?
 すると娘は、涙も出ていないのに甲高な啜(すす)りあげるような早口で、何か訴える。何を云うのかわかりゃしない。
 信吉は面倒だから、人の間をぬけて出てしまおうとした。どっこい! いつの間にか、四十がらみの黒ルバーシカを着た大きい男が信吉の肱を軟かく、しかし要領よく掴んでいる。
「買ったんだよ(クピール)! 買ったんだよ(クピール)! うるせえ奴だナ」
 それをおっかぶせて、娘がまた啜りあげるような早口でまくしたてる。――
 途方にくれた信吉が、そのときオヤという顔をして人だかりのあっちを見た。視線を追って、数人がそっちを見た。
 何だ?
 ――日本人だ。
 いい装(なり)をしているんで、尊敬をふくんだ云いかただ。
 話しながらブラリ、ブラリこっちへやって来ていた二人の日本人は、その声でヒョイと顔を向けた。そして、立ちどまった。
「何です?」
 年とった方が奇麗に剃った顎をあげて、上気(のぼ)せた穢い顔をしている信吉の方を見た。
「――朝鮮人だよ!」
「へえ……」
 そのまんま、またブラリブラリ……。
 ムラムラっとして信吉は、息が早くなった。どいてくれ! 近くの一人へ体あたりにぶつかった。何だと思ってやがるんだ。どけったら!
「国家保安部(ゲーペーウー)はいないのか」
 ピーッ。誰かが口笛を鳴らした。信吉の、若々しい生毛のある唇からは血の気が引いている。やけくそに、もう一遍つっかかって行こうとしたとき、
「どしたんだ?」
 おお。日本語だ! 新しくもない鳥打をかぶって、縁無眼鏡をかけた男が直ぐ、達者なロシア語で牛乳売の娘に何か云った。それから信吉に、
「君、いくら払ったんだ?」
「五十カペイキだ」
「この女は、一ルーブリ五十カペイキと云ったって云ってるんだ」
 二人の問答がはじまると、群集は和(やわら)いでガヤつきだした。
「この女の足へ、湯ぶっかけて逃げようとしたって、そうか?」
「冗談じゃねえ! そいつがとびつきやがった拍子に、ちっとぱっかこぼれたんです」
 縁無眼鏡が、ロシア娘にうまいこと一本参らしたと見えて、群集は機嫌よくドッと笑った。さすがにテレて娘は桃色の布の端をひっぱりながら、外方(そっぽ)を向いてる。――
 一ルーブリ五十カペイキもする牛乳なんぞ、誰が買うか!

        六

「どうもありがとうござんした」
 やっと人垣をぬけ出た信吉は洋服の袖で顔を拭いた。
「いきなりまくしたてられて、ドマついちゃった!」
 また顔を拭いた。
 少しはなれて、一緒に停ってる汽車の方へ戻りながら、縁無眼鏡が、
「どこまで行くんです」
ときいた。
「モスクワへ行くつもりなんですが……」
「誰かいるのかね」
「いいや」
「働く口があるんですか」
「そうじゃねんです」
 信吉は、人なつこい気になってチラリと相手の男を見た。風采は上らないが、自分より学問している人間なことが感じられた。
 汽車の下まで来たとき、その男は腕時計を見た。
「まだ二分ある」
 ――さっきから耳につくのはどこの訛りなんだろ。信吉は何心なく、
「あんた、どっからけ?」
ときいた。
「……朝鮮です。――ずっと北の雄基(ゆうき)の先だ……じゃ、また」
 スタスタ自分の乗っている車の方へ行ってしまった。
「ヤ」
 遅ればせに声を出したっぱなしで、汽車が動き出しても信吉は、ボンヤリしていた。――鮮人かい!……内地で鮮人と云えば、土方か飴売りしかないもんと思ってる。自分はそれよりひどい暮しをしている内地人だって、〔十四字伏字〕。
 震災(××)のとき、何でえ、〔八字伏字〕! 〔四字伏字〕! ハッハッハと新井の伯父は裏の藪で竹槍(××)の先を油の中で煮ていた。〔十九字伏字〕。だが、大した罰をくったこともきかなかった。
 その鮮人に計らず信吉は自分の難儀を助けられたんだ。
 次の朝、建物の前へ赤い横旗を張りわたした小さいステーションへとまったとき、あっちからやって来る縁無眼鏡の姿を見ると、信吉は何だか気がさした。
 けれども、対手は一向頓着ない風だ。
「やあ」
とむこうから声をかけた。
「きのうは、ありがとうござんした」
「いや」
 手にもっていた新聞をひろげながら、
「今日はノボシビリスクだね、シベリアもあと半分だ」
 信吉の気がほぐれた。ぶっきら棒に、
「日本語うめえね。俺、ホントに日本人かと思った」
「……日本人じゃないか!」
 縁無眼鏡は皮肉に薄笑いした。
「どこで言葉覚えたのけ? 東京かね?」
「ああ」
「勉強したのかね」
「うん」
「大学か?」
 その男は黙って煙草ふかしていたが、低い声で、
「旅券もってるか?」
と信吉にきいた。信吉はドキッとした。こいつ――知ってやがんだべか、ズラかって来たのを。――
「……お前は持ってるのか」
「…………」
 今度はその男が黙っていた。
 日本人夫の旅券は一まとめにハゲ小林が持っていて勝手にさせないんだ。
「どっからだ?」
 しばらくして対手が訊いた。
「――アルハラの奥だ」
「鉱山か?」
「林業だ」
 パッと力を入れて吸殻をプラットホームの土へ投げつけ、縁無眼鏡は靴でそれを丹念に踏みけした。
 縁無眼鏡の名は李と云った。
「じゃあ〔四字伏字〕と親類ぶんだハハハハ」
 汽車が動いてる間でも、信吉の場席へブラリと李がやって来るようになった。
「ホ。ホ。これだけの石油がウラルから来るようになったんだなア」
 引こみ線に止っているタンク型の石油運搬貨車を見て李がひとりで感服することがある。そうかと思うと信吉が窓から日本の十九倍もあるシベリアの広い耕地の果を指して、
「あれ、あげえな機械が動いてる、何だべ」
と叫んだ。
「どれ?」
「ほれ、近眼で駄目か?」
「ああ、トラクターだ。耕作機械だ。近頃ソヴェトじゃあれで耕して蒔くようになったんだ」
「ふーむ。何しろでけえ土地だもんなあ……」
 シベリア黒土地方の春を突っきって走る浦塩(うらじお)モスクワ直通列車の、万国寝台車では、ジェネワの国際連盟へ出かける二人の日本人とカナダのソヴェト農業視察団がめいめいの車室でウイスキーをなめている。三等車の板の棚の上では、どういう目的でモスクワへ行くのかはっきりわからない知識的な朝鮮人と、漠然プロレタリアートの幸運にあこがれている日本の若者信吉とが、黒パンの屑を捏(こ)ねてポツポツ喋りながら、揺られておった。

    (□)[#「(II)」は縦中横]

        一

 ひとり。
 ふたり。
 さんにん。
 よにん――
 十から十三四ぐらいまでの男の子が鉄柵の前へ並び、小さい木の磨台をおっぴらいた両脚の間へ置いて靴磨きをやってる。
「小父さん、磨かせな、よ!」
「黒靴みがき! 黒靴みがき、十カペイキ!」
 トントン、パタパタ、
 トン、パタパタ。
 商売道具の細長い刷毛(はけ)で赫っ毛のチビが台をたたいてる。後は日の照りつけるクレムリンの壁だ。鉄柵との間に狭い公園があって、青草が茂っている。
 信吉は、大通りのこっち側で、煉瓦砕きをやっている。教会の取こわしで、屋根はブッコぬけて、壁だけがまだ残っている。壁に細かい薄色煉瓦をはめこんで、天使だの、獅子だのの模様がついていた。信吉が、左手はミットみたいに先の四角な帆布の袋へつっこんで、せっせと砕いている煉瓦屑の表にも、そういう模様がついている。
 モスクワへついて十五日目の、天気のいい昼まえだ。
 ――……だがどうもわからねえ。
 モスクワへ着くなり、西も東もわからない信吉はすっかり李の厄介になっちゃった。住居権のことから、職業紹介所、住むとこのことまでして貰った。そして三日目にもう職にありついて、いい塩梅にこうやって働いてるんだが――わからねえ。
 ソヴェトは労働者の国だ。働くものの天下だ。アルハラの山奥で松太がそう云ったし、信吉もバラックのロシア労働者ののんびりした自信ありげな様子で、それを感じた。
 ところがモスクワへ来て見ると、そのソヴェトでも、決してみんな一様に暮してるんではねえ。
 現に信吉はここで八時間一ルーブリ六十カペイキの煉瓦砕きをやっている。案外暮しは楽じゃねえ。
 その信吉の目の前を立派な赤条入りの自動車にのった男が通って行く。しかし、下もあって、たとえば、あっち側の大きなパン店のところを見ろ。きっといつだって乞食の一人や二人ブルブルしながら立っているんだ。
 なるほど、特別いい装をした男や女ってものはモスクワじゃ見当らない。シベリアを汽車で来る間に見ていたような男や女が、いそがしそうに一日じゅう踵を鳴らして歩いてる。
 全国の職業紹介所は連絡していて、十日目ずつに労働省へ報告を出し、政府じゃ、どの産業に何人労働者が不足しているか、またあまってるかってことを、いつもハッキリ知って、ドシドシわりあてて行く。
 ソヴェトでは、産業を他の資本主義国みたいに箇人箇人の儲け専一にやってくんではねえ。ソヴェトには人間が一億六千万いるんだそうだ。その人間が食って、働いて、休んで勉強するには、一年これこれのものがいる。だんだんいいものを沢山拵えなければなんねえから、その元手がなんぼいる。その勘定を土台にして全同盟の産業をやって行くんだそうだ。
「そこが、社会主義の世の中の価(ね)うちだ」
 李がいつか汽車んなかで、松の実を食いながら信吉に話してきかせた。
「だから、ソヴェトじゃ、だんだん工場がいい機械もっているだけのものを廉く沢山こさえられるようになるにつれて、労働者の働く時間が短くなって来てるんだ。今はざっと八時間だが、二三年するとたった六時間と少し働けばすむようになるんだ」
 そして、これを見たことあるか、と李は一つの図をあけた。なんだね、この両手ポケットさつっこんで眼玉ばっか引んむいてるのは。――ははん。資本家だナ。こいつが一九一三年に原料と機械に三十八億四千万ルーブリ出した。
 盛に働いてるなあ労働者二百五十万人か。そして三十八億なにがしから、五十六億二千万ルーブリ稼いだ。儲がつまり十七億八千万ルーブリ! でけえもんだなあ。
 そこでと、何だって? 労働者の賃銀はそのでけえ儲の中から八億二千万ルーブリ? あと九億六千万ルーブリってものは誰が分けて奪っちまうんだ。筆頭が企業家=資本家だね。なるほど。そいから実業家、政府の役人、地主。――ふうむ。奴等のおこぼれで食ってるのは何だ?
「これが宗教家さ、次が淫売婦、ペンがついてるのが御用学者に新聞雑誌記者、政治家、役者だ」
 この時計は何だね。労働者が資本家に稼ぎ出してやった十七億八千万ルーブリを、労働時間に換算して見た図だ。
 これだけの金は、一人の労働者が一日十一時間ずつ働き通して、年六百六十ルーブリ稼いだことになる。しかし、本当に労働者が貰う賃銀は全体で八億なんぼで、それを一人宛の労働時間に割ると、たった五時間分だ。後の六時間というものを、そっくり資本家の腹をこやすために労働者が搾られているわけなんだ。
「ドウでえ!」
 信吉は思わずその図の上を叩いた。
「ドイツの学者は、こういうことまで調べているんだ。現在ドイツにあるだけの機械をちゃんと労働者のために使えば、ドイツじゅうの労働者が一生のうちにたった八年間、それも一年に一月近い休暇をとって、一日八時間ずつ働けば、本当の必要は充分みたせるんだそうだ。――だがドイツの労働者がソヴェトみたいに資本家ボイコくらないうちゃ、夢物語だ……」
 李の話がまんざら嘘でないことは信吉にもわかる。
 だがその理屈が毎日の暮しの中にはそんなに手にとるように現れてはいねえ。やっぱり社会の段々というものは目に見えるところにあって、信吉はモスクワで、自分がそのてっぺんにいる身分だとは思えないんだ。……
 トントン、パタパタ、
 トン、パタパタ。
 呑気(のんき)にかまえてた靴磨きのチビ連が、俄に台をひっさらって、鉄柵の前からとび退(の)いた。
 どいた! どいた! 水撒きだ。
 長靴ばきの道路人夫が、木の輪のついた長いゴムホースを、角の反宗教書籍出版所の壁についてる水道栓から引っぱって、ザアザア歩道を洗いだした。
 絶え間ない通行人はおとなしく車道へあふれて通った。
 四つ角で、巡査が赤く塗った一尺五寸ばかりの棒を、
 トマレ! ススメ!
 鼻の先へ上げたり、下したりして交通整理をやってる。遠くの板囲から起重機の先が晴れた空へつん出ていた。タタタタタタ、鋲打ちの響がする。
 仲間の一人が屑煉瓦の中から往来へ電気時計を見に行った。
「――おう、子供等茶の時刻だゾ」
 信吉は、ゆっくり伸びをしながら立ち上り、帆布手袋をぬいで鎚といっしょにそれを砕いた煉瓦の間へ隠した。――どれ、一時まじゃあ休み、と。――

        二

 焼きたてのパンの熱気と押し合う人いきれで、三方棚に囲まれたパン販売店の中はムンムンしている。
 信吉は煉瓦埃りのくっついたままのズボンで列の後にくっついて、辛棒づよく一歩ずつ動き、先ず勘定台で十二カペイキ払って受取の札を貰い、今度はパンをうけとるために続いてる列に立った。
 のろのろ前進しながらむこうの往来を眺めると、石油販売店の前から、ズット歩道の角まで列がある。
 よくよくものが足りねえんだなア。
 まさかモスクワがこんなじゃあるまいと思ったが、ひどい有様だ。こんなに列に立って買うパンが而も制限されている。めいめい住宅管理部から手帖をわたされて、その一コマが一人一日分だ。
 肉も、石鹸も、布地も、砂糖から茶までそれぞれ日づけがきまっていて、その手帖から切ったコマできまった分量だけ買うんだ。
 金があったって、手帖なしには買えないんだ。
 信吉のズッと前にいる婆さんは何枚コマを持ってるのか、白い上っ被(ぱり)を着た女売子が両手で白パンをかかえては籠の中へ入れてやってる。ホイ、もう一本か。そう慾ばるない。
 次は、派手な緑色の帽子をかぶって折鞄をもった役人みたいな男だ。見ていると、白パンと黒パンをまぜて一斤半しか渡さない。コマの色が信吉のと違う。茶色だ。
 誰でも二斤貰ってるんだろうと思っていた信吉は、それから注意して見ると、労働者らしくない体恰好の男女だけ、一斤半だ。ソヴェトだナ。体を使う者とそうでないものとは、ちゃんと区別してきめられているのだった。
 窮屈なりに、考えてら。
 信吉は、ちょっとわるくない心持になって、パンを食い食いブラリと先のコムナール(消費組合販売所)へよって見た。モスクワ市中で食糧品は野菜から魚肉類まで大抵コムナールで買うようになっているんだ。
 ところがこの頃ときたら、コムナールにはジャガ薯(いも)、玉ネギ、鰊ぐらいがあるっきりだ。
 見物がてらブラついていたんだが、信吉は急にパンをかむのをやめて一つの硝子箱へ鼻をおしつけた。
 米だぜ、こりゃ……!
「おい、ちょっと」
 順を待ち切れずに信吉は、若い男の売子を呼んだ。
「この米、なんぼ?」
「半キロ一ルーブリ三十五カペイキ――子供の手帖もってるかね?」
「子供の手帖?」
 バカにすんねえ。憚りながら一人前の大人だよ。信吉は威勢よく、
「これだ!」
と、ポケットからまだ新しい手帖を出して見せた。
「それじゃ駄目だ」
 どうして□ すると、売子に砂糖をはからしていた若い女が愛嬌いい眼付で、笑いながら、
「米は、子供の手帖でだけ分けてくれるんだよ。それでなけりゃ、こういう手帖でなけりゃ駄目なのさ」
 そう云って自分の赤い色の手帖を見せてくれた。
 勢が挫けた信吉はおとなしく、
「それ、何の手帖だね」
ときいた。
「消費組合員の手帖さ……」
 そして、いかにも気軽い調子でその女は信吉に云った。
「お前さんもお買いなね……どうして買わないの? 働いてるんだろ? じゃ何でもありゃしない。――あの窓口へ行ってそうお云い……ホラ、あの窓……」
 年かさの女にすすめられ、信吉は断りきれなくなって、空箱をつみ上げた横の窓口へ行った。振向いて見ると、世話好きな女はちゃんとまだこっちを見ていて、
「そこ、そこ!」
 指さして、首をふってる。
 その様子を見て耳飾りを下げた若い窓口の娘が声をかけた。
「お前さん、なに用?」
 モスクワじゃ役所でも店でも、どっちを向いても女が多勢働いている。信吉は、頭を掻いちまった。
 娘は、おかしそうに、小脇にパンを抱えたなり云うことが解らないでいる信吉の恰好を見ていたが、
「若しお前さんが組合員になりたいなら、はじめ一ルーブリだけ、出しゃいいんですよ。それから後は、毎月お前さんがいくら稼ぐか、それによって、割合で払うの」
と、ゆっくり、言葉を区切って説明した。
「――俺、今金ないんだ」
「それがどうなのさ! じゃ、またあるときにお出でな」
 わかんねえことがまた一つ出来た。組合へ入っていない者だって労働者という点では同じだ。ソヴェトが労働者の国って立て前で、一応手帖で金の威光を封じてるように見せてるが事実金だして買った別の手帖もってれば、食物でも何でも余分に貰える。そうとすりゃ、同じこっちゃねえのかしら? やっぱし、金のある者が金のねえもんより沢山取ることんなるんじゃねえか?――
 その金をどうしてとるかと云えば働いてとる。社会を運転して行くために必要な労働なら、仕事に上下はないと李が云ったのを思い出し、一層わけが分らなくなった。
 信吉が煉瓦砕きしてとってる金は、決して、折鞄抱えてあるいてる技師の月給と同じじゃない。労働者の権利が平等な筈のソヴェトで、何故賃銀の違いが在るんだろうか。
 二百三十万近い人間のいるモスクワで、信吉がこんなことをきける者が五人いる。第一が李だ。それから劉と女房のロシア女アンナ。次がその劉の室へカーテンで仕切りをこさえて一緒に住んでる若い靴職のミチキンと、女房のアグーシャだ。
 アグーシャは、劉、アンナと同じ絹織工場の型つけ職工だが、区の代議員ていうのをやっている。女でも演説が出来るんだ。
 信吉が訊けば、きっと話してくれるんだろうが、不自由なもんだなあ、言葉がダメだ。
 李なら、いいんだが、この頃、滅多に会えなくなっちゃった。どっかへ行って、まるで信吉の分んない仕事を忙がしくやってるんだ。――

        三

 或る夕方のことだ。
 ぶるッと身震いして、信吉は目を覚した。いつの間に眠ったのか、靠れていた窓の外で庭がすっかり暗くなってる。菩提樹(ぼだいじゅ)の下にいつも夜じゅう出しっぱなされている一台の荷馬車の轅(ながえ)が、下の窓から庭へさす電燈の光で、白く浮上っている。ブーウ……隣の室で石油焜炉の燃える音がする。
 おや、親爺今日は休みか……思う間もなく、クッシャン。嚔(くさめ)が出た。またクッシャン。つづけ様に嚔をした信吉があわててしっとり冷えたシャツの上へ上衣をひっかけていると、
「いいかね」
 宿主の大坊主グリーゼルがのっそりと現れた。
 やっぱり信吉ぐみで、シャツはカラなしだ。コーカサス製の上靴をひっかけてる。血管の浮出たギロリとした眼で信吉を見据えながら、
「ソラ、お前さんへだ!」
 横柄に手紙みたいな書付をつき出した。
 実のところ、信吉にとってこの親爺は苦手だ。というのは、こいつには、何だかほかのロシア人と違うようなところがある。親しみ難くて、この親爺の剃った頭とドロンとして大きい眼を見ると、腹ん中では何を考えているのかわからないという気がいつもするんだ。
 信吉は、疑りぶかく手を出して手紙をうけとった。手紙なんて……一体、どっから来るんだ。――
 親爺は、信吉があけてそれを見るのを突立って待っていて、
「何だね?」
と云った。信吉はムカついた。親爺はちゃんと自分で知ってるのにわざと訊いてるような調子だ。
「知らね、俺(お)らよめねえよ」
 口惜しかったが、仕方がない。
「何だい」
 ジロリと信吉を見て紙を受とり、親爺はそれを開いて、
「……こりゃ裁判所の呼び出しだ」
 信吉に紙をかえした。
 ――裁判所?……冗談じゃねえ。何を俺がしたんだ。――ムキになりかけた。が、……畜生! 信吉は、その手を食うもんか! と手紙をいそいで畳んで上衣の内ポケットへ入れ、鳥打帽をつかんで室を出た。
 アグーシャは、この親爺がどんな奴だかよく知らなかったんだ。ただ、この古い木造の家全体を管理している女が、絹織工場でアグーシャと一緒だもんで、信吉をここへ世話してくれた。
 モスクワは古い町なのに、革命からこっち政府が引越して来たんで、住民は殖える一方だがとても住居が足りない。政府は補助金をどっさり出し、職業組合の共同住宅はドシドシ建つがまだそれでも足りない。
 だから靴職ミチキンや信吉みたいな二重の間借人が出来る。信吉は入道のもってる七尺に九尺ばかりのところを一月五ルーブリの約束で借りてる。親爺は、信吉に、
「この室は、音楽家が」
 ヴァイオリンを弾く真似をして見せて、
「二十ルーブリで住んでたんだ」
と云った。住居は、ソヴェトでは殆ど全部が国有だ。借りては、自分の収入に応じて、家賃を払う仕組みなんだ。ふむ。そうなけりゃなんねえ!
 だが、古いこの木造の家に幾世帯も住んでるのは工場へ出ている労働者より、馬車引きや、信吉んとこの親爺のように許可露天商人みたいな稼業のものが多い。
 この親爺は信吉が字がよめないもんだから、この前も、何だかスタンプ押した紙を見せて警察がどうとかだから一ルーブリ五十カペイキ出せと云った。
 警察(ミリチア)、警察(ミリチア)って云って紙を押しつけ、手の平をつきつけた。警察にビクつく癖のついてる信吉は、あやうく一ルーブリ五十カペイキ出しかけたが、銭の惜しさが先立って、その紙を劉のところへ持ってって見せた。
 そしたら親爺め! 信吉の住居届けを倍にふっかけようとしていたじゃねえか。大方、今度もそんなこったべ。
 若葉の並木道はアーク燈に照らされ、歩いてゆく左右に高く青々した梢が見えた。ベンチはどれにも人がいるが静かで、アーク燈の下をブラブラ歩いてる者の声高の話だけが、しっとりした夜気に響く。
 信吉は、いつもみたいに、わざと男と女とかけているベンチのあっち側を歩くような悪戯もせず、トット劉の住居へ向って歩いた。
 革命まで一流のホテルだったという建物は大きくて、町の表通りや横通りにも入口がある。各階の踊り場に色硝子をはめた大窓なんかがあるが、エレベータアはこわれていて動かない。
 信吉は一段トバシに五階まで強行し、劉の住んでる戸を叩いた。
 返事がない。
 ドン、ドンドン。
 ひっそり閑としている。チェッ! 誰もいやがらねえのかしら。
 ――どうとも仕様がない。もとの並木道を、三人の赤襟飾のピオニェールにくっついて歩いて来た信吉は、不意と微かに顔色を変えた。
 若しや……。まさかそんなこたあるめ。国柄が違うもん。なんぼ、俺がズラかって来たからって……
 だが裁判所。法律。というと、日本のプロレタリアの信吉には頭がモヤモヤとなって先へ監獄しか見えない。
 貧乏人に法律は、実際おっかないんだ。〔四字伏字〕ぐらいになれば何万という金をちょろまかしたって、〔三字伏字〕がいい塩梅にやってくれて、「今日こそ晴天白日の身」と新聞にまで出せるが、全くの貧乏人は、困って困ってただの十円どうかしたって懲役だ。ひでえもんなんだ。
 信吉は心配で、それなり家へは帰れなくなった。そんなところから呼び出しを食う覚えねえだけ、薄っ気味わるい。
 信吉は、暫く待って、もう一遍劉のところへ行って見ることにした。アーク燈のすぐ下にベンチが空いている。そこへ腰かけた。一服しようとポケットをさぐったら、あわくって飛び出して来たんで、生憎(あいにく)、煙草もマッチもない。
 信吉は内ポケットからさっきの紙をとり出し、踏んばった両膝へ肱をつき、パンとひろげて眺めたが――。
 我知らずロシア人のするように肩をすくめ、信吉は悲しそうに紙をもったなり両腕を拡げた。
 いけねえ。……字を知らねえじゃいけねえ。
 しっとり黒い夜の梢の下で白い紙は、寒そうにアーク燈の光を浴びた。

        四

 ビショビショ雨降りだ。
 モスクワの雨樋はちょっとよそのとかわってる。一番下の、雨水を吐くところがまるで大ラッパの口みたいに、いきなり人道へ向ってあいている。だから、ウッカリその傍なんか歩くと、グワワワワワと、四階五階のてっぺんから溢れて来る雨水で容赦なく足をぬらされる。
 信吉は、現にズボンの裾を濡らしてる。靴も幾分ジクついてるのだが、そんなことには気をとめず、熱心に四辺(あたり)の様子を見まわしていた。
 へえ……ソヴェトの人民裁判所ってのは、こういうもんなのか。
 第一、裁判所と云ったって、普通の家と同じ建物だ。ただ玄関の上のところに一つ横看板がついている。それにソヴェトの国標、槌と鎌とのブッ違えを麦束で囲んだ標とソコリニチェスキー区第二人民裁判所という字が書いてある。
 入った直ぐのところに、巡査がタッタ一人ブラブラ後手をくんで歩いていただけだ。
 濡れた靴と襟を立てたレインコートのまんまで入って来る男連は、穢れた廊下の左右にいくつもある室のどれかへさっさと姿を消す。
 信吉が、巡査に紙を見せて教えられた一つの室では、ちょうど休憩だ。
 開けっぱなしたドアのまわりで多勢が喋りながら煙草をのんでる。室内の幾側にも並んだベンチ半数ばかりに男女がかけて、或る者は前と後とで頻りに話ししている。
 信吉自身、今日はもう心配していない。宿の親爺グリーゼルが女から訴えられた。その証人に立てばいいんだそうだ。
 けれど、こう見まわしたところ、みんな実にゆったりとしている。
 尤も、ソヴェトの人民裁判所というのは、人殺しや放火犯は扱わない。つまり刑事裁判所ではない。民事裁判所なんだ。
 前から五側目のベンチの端に信吉は腰をおろした。
 すぐ隣に、薄い毛のショールを頭からかぶった労働者の女房風な婆さんがいる。偶然隣りあわせになったらしい若い男をつかまえくどくど云ってる。
「……それでね、お前さん、その乳牛を売った二百ルーブリの金を盗んだ子供はどこにかくれてたと思いなさる? 住宅監理者の室だよ!……この頃の子供なんて、ほんとに……大人よりおっかない奴らさ」若いおとなしそうな近眼の男は、幾分迷惑そうに脱いで膝の間へ持ってるレインコートの紐をいじりながら、
「……われわれのところじゃ、まだ大人がほんとに子供の育てかたを知らないんだよ、お婆さん。ホントニ社会主義的な教育ってのはどんなもんだか――思うにお婆さんだって知らないだろ?」
「そりゃそうともさ――無学だもん」
「もう十年も待ってて見な。ソヴェトはよくなるよ」
「……大方、今は十六で赤坊を生む娘が十三で生むようにでもなるんだろう……」それっきり二人ともつぎ穂なく黙りこんでしまった。
 古びた窓ガラスは雨の滴に濡れ、外の樹の緑が濃くとけてその面に映っている。
 小声だが絶え間ない話し声と煙草の煙が室へ流れこんで、信吉はだんだん裁判所のベンチの上で落付いた気持になって来た。
 ――それにしても、入道奴、まだ来ねえんだろか。図々しいなア、相変らず。
 ちょいちょい信吉は人の多勢いるドアの方を見た。それらしい姿が見えないうちに休憩が終って、みんなガタガタ室へ入って来た。
 ベンチは一杯だ。窓のところへよっかかって立っている数人の男女もある。
 つき当りのドアがあいた。書類を抱えたキチンとした身装の二十三四の男が現れ、赤い布をかけた一段高い大机に向って腰かけた。続いてもう一人。――
 ははあ、あれが劉の云った陪審官てんだな。
 信吉は、鳥打帽を握って頸をのばし、一心にそっちを眺めた。
 女の書記が着席した。
 いよいよ裁判官の番だ。が、同じドアから軽い靴音を立てて入って来た裁判官を見ると、信吉はホホウと目を大きくした。女だ。四十三四の、細そりした落着のある女の裁判官だ。
 ソヴェト同盟へ来てから信吉はいろいろ新しいことを見た。が、女の裁判官たア……。室は水をうったように鎮まった。
 深く卓子(テーブル)の上へ両腕をのせ、書類をひらく質素な白ブラウズの女裁判官の様子はいかにも物馴れてる。一言、一言ハッキリ語尾の響く声で何か読み上げはじめた。
 それがすむと、重ねてある書類の一つをとり出して、
「ナデージュダ・コンスタンチーノヴァ・ミチコヴァ」
 呼びあげながら、一わたり室内の群集をゆっくり端から端へと見渡した。信吉の一側前のベンチから、紺色の服を着た若い女がいそいで立って、壇の前へ出た。
 信吉は、顎をツン出して女裁判官の方を見ながら、今に自分の名が呼ばれるかと気を張った。ちがった。別の名だ。
「ワルワーラ・アンドリェヴナ・リャーシュコ」
 ――誰も出て来ない。
 女裁判官は、練れた声を少し高めてもう一遍呼んだ。
「いないんですか?」
 みんな、ザワめいた。赤い布で頭を包んだ女がベンチから立ち上りながら、
「さっき、ここにいたのに」
と、廊下の方へさがしに行った。
 すると、
「同志裁判官……」紺ルバーシカを着た猫背の薄禿げの男が前列のベンチから立ち上って、妙に押しつけがましい口調で女裁判官に云った。
「私は……ワルワーラ・アンドリェヴナの良人です……彼女は頭痛がして来たもんでちょっと……私が質問に答えたいと思います……」
「それには及びません」
 女裁判官は見透したように微笑んで云った。
「きっと急に工合がわるくなって来たんでしょう……私共は待てますよ」
 相手が出て来ないもんでポツネンと頼りなさそうに壇の下に立っている若い女に、質問をはじめた。
 水上救護協会書記の妻ワルワーラが同じ借室の、裁縫女ナデージュダに絹ブラウズを縫わせた。ところが出来がわるいと云って金を払わず、請求するたんびにひどい悪態をついて辱しめる。その訴訟だ。「証人、グラフィーラ・イリンスカヤ」

        五

 声に応じて出て来たのは、体がしぼんでしぼんで、どんなにタクシ上げても裾が引きずるというような恰好をした七十余の婆さんだ。
 婆さんは、赤い布をかけた机の下へ行きつくと、旧知の人にでも会ったように首をさしのばして、
「今日は。――女市民さん」
と愛嬌よく女裁判官に挨拶した。
 思わず室の半分ばかりがふき出した。
「――私の訊くことだけに答えて下さい。よござんすか」
 女裁判官が澄んだ瞳に笑を泛べしずかに云った。
「はいはい、わかりますよ。可愛いお方。私はもうこの年で、どうして嘘なんぞを吐きますべ。人の罪はわが罪でございますよ。――神よ、護り給え!」
 婆さんは胸の前でいくつも十字をきりながら裁判官の後の壁にかかってる大きいレーニンの肖像へ向って恭々(うやうや)しく辞儀した。
 滑稽にハメをはずしながら、婆さんはワルワーラがナデージュダに唾をしっかけたことまで証言した。
「同志裁判官! 御免なさい、一言」
 チェッ! 信吉は小鼻の横を指でこすった。裁判官が女だもんで、こいつは何とかごまかそうとかかってるんだ。
「妻に代って一言――」
「市民! あなたおわかりでしょう。ソヴェト権力は男と女とを平等な権利で認めているんです。あなたの妻に関係したことにあなたが口をはさむことは許されません」
「同志裁判官! そりゃ官僚主義です」
 猫背の男は、演説をするように片手を前へのばして叫んだ。
「妻は病気になったんです。それにも拘らず」
 裁判官は、穏やかに、キッパリそれを制した。
「ちっとも官僚主義じゃありません。私共は明後日でも、あなたの妻の体がなおるまで、いつまででも待ちます。彼女が出廷出来るまで事件は保留です。そう伝えて下さい」
 そしてナデージュダと婆さんに、
「おかけなさい」
 場内に満足のざわめきが起った。
 左右の若い陪審員も、やっぱりこの女裁判官を尊敬し好いていることは、ちょっとした動作――例えば鉛筆をとってやったりするときのそぶりにだって現れている。
 信吉は、感服して、こわい、だが道理のわかる小母さんみたいな女裁判官を眺めた。ソヴェトみたいな国になると、へ、女までこんなに違うんだべか!
 ゆっくり厚紙の表紙をめくりながら、
「チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼル」
 ソラ来た!
 信吉はびんとなって、ベンチからのり出した。いよいよ親父の番だゾ。
 返事がないんで、女裁判官がもう一度、
「チホン……」
と云いかけたとき、
「ここです」
 思いがけず、赤い布をかけたテーブルの直ぐわきに立ってる一かたまりの群集を肩でわけて、グリーゼルが剛腹そうな坊主頭で現れた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナ・パタキン」
 布団にくるんだ乳呑児を両手で抱えた弱そうな若い女が、グリーゼルと並んで立った。図体の大きいグリーゼルのわきで、女は彼の娘ぐらいの小ささに見えた。
「本事件はエレーナ・アレークサンドロヴナ・パタキンによって、チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼルに対して提起された養育費(アリメント)請求に関する訴訟です」
 爺め! 信吉は変な気になった。
 だって、この見栄えのしない小さな女とは一つ建物に棲んでいて、朝晩見かける。グリーゼルと、内庭のベンチに並んで腰かけたりしているのを見たこともある。
 そんなときでも親父は、パイプをくわえて、相変らず意地わるいドロリとした眼付で物も云わずかけている。女は、赤坊をかかえて、チョコンとその横にいる。信吉は、女を今日までグリーゼルの親類、姪かなんか、と思ってた。年だってその位違うんだ。
 身分調べがすむと、女裁判官は、エレーナに訊いた。
「あなたは、どういう機会でグリーゼルと知り合いになったんですか?」
 女は、フイとうつむいて、赤坊をつつんだ布団をいじくりながら黙った。
「……きまりわるがることはないんですよ」
 励ますように女裁判官が説明してきかせた。
「すっかり事情がわからなければ、私共はあなたを助けたげることが出来ないわけです」
「私、仕事がほしかったんです」
「――それで?」

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