牡丹
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

 膝を突くなり、がむしゃらに小箪笥の引出しを引くるかえした。
「ああ私あれをなくしちゃ大変なんですよ、あれがないと私――どうしたろう。ここにしまいやしなかったかしら」
 彼女は俄に心配し始めた。石川は、
「これですよ、ここに在りますよ、奥さん」
と手に押しつけて持たした。
「まあ、有難う。――ねえ石川さん、あなた本当に今日から親類になって、いろいろ相談にも乗って下さいね。――瀧ややお君はもうなってくれたの。……ねえ」

 原宿の計らいで看護婦が雇われて来た。奥さんは長火鉢の前に坐って、
「まあどうしてこんなにお人形が入っているんだろう」
と、眼の力が人間以上になったように灰の中にあるどんな小さい燼(もえさし)の破片でも見付け出した。
「ほら、またここに――お人形さんですよ、お人形さん」
 手当り次第傍の湯呑の中に入れる。
「おや、あの壁にもついている――そう云えば……君や、一寸おいで」
 大柄な、手など薄赤くさっぱりした看護婦が、
「何か御用ですか、私が致しましょう」
と云った。
「いいえね、さっき手水(ちょうず)に行ったとき、あすこに大きなお人形さんがいたのを思い出してね、君や、おいでよ」
 奥さんは幾時間でも壁だの湯殿のタイルだのをほじくって余念なかった。そこにはきっと蠅の糞の跡とか塵とか針の先ほどのものがついてい、人形に見えるのであった。引ずった粋なお召の裾や袂を水でびしゃびしゃにし、寒さでがたがた震えながら縁側じゅうに洗面所の水を溢らして掃除をする気のこともある。偶々(たまたま)奥さんが正気に近くなっているとき来合わせると、石川は一種異様な心持になった。世の中にはこのような廻り合せの親子さえあるものだろうか。三十近い幸雄を奥さんは幸坊幸坊と呼んだ。
「ねえ幸坊や、お前さんどうぞ早く体をよくしてまた学校へ行っておくれ、俥(くるま)でも自動車でも何でもお前の好きなものに乗せてあげるからね、そして、どうか一度母さんの前へ、十円でも十五円でもいいから、これは私が勤めてとりましたというお金を見せておくれ。……ね、幸坊や、たのみですよ」
 さめざめと母の涙が窶(やつ)れた頬を濡らすのであった。
「きいてたの? 幸坊――」
 幸雄は聞いている。一間隔てた六畳に幸雄の真鍮燦く寝台があった。その上にゆったりと仰臥(ぎょうが)したまま、永久正気に戻ることない幸雄が襖越しに、
「いいよ、心配しないでも行くよ。――いいから、福ちゃんも新橋へおかえりよ」
と返事するのであった。福ちゃんと呼ぶのがいかにも母親の果敢ない一生を云い当てているようであった。その返事を聞くと奥さんは猶嘆いた。
「どうしてそういつまでも本当でないだろうねえ――幸坊。ちゃんと散歩をおしなさいよ」
「ああ」
「ねえ石川さん、切ないんですよ私ああいうのをきいていると、ねえ石川さん」
 泣いて泣いて、また変になってしまうのであった。

 不幸な親子のうちへ訪ねて来るのは原宿だけであった。それも義務上一年に数えるほど顔を出すに過ぎない。奥さんは、寒中余り水に濡れては震えていたので肺炎を起して没した。幸雄はまったく孤独な者となったのを心のどこかで感じたらしく見えた。箪笥の中から茶箪笥の中まで異常な注意深さで管理した。台所まで口を出すので、石川は或るとき、
「台所のことは女の領分ですから、婆やにお委せなさいまし」
と云い含めた。
「あなたは旦那様ですから、ちゃんと奥にいらして、食べたいものをお云いつけなさい。そうすれば何でも出来ますから」
「――そうかい、できるかい」
「きっと出来ます」
 石川は、何の魅力でか誰の云うこともきかない幸雄の信頼を受ける唯一人の者であった。
 朝起きる、寝台で牛乳を飲む。着物を着換え、顔を洗ってから、庭に出る。ちびた下駄を穿いて昼までぶらぶら歩き廻る。午後昼寝。また散歩。夕飯後風呂に入ってきっちり八時には床に入った。九時には婆やが燈を消して歩くのだが、その間に口を利くのは朝御用ききが来たときだけであった。笑うことがない。幸雄は散歩――といっても庭内を歩き廻るためだけに、そのように威厳に満ちて生きているのだろうか。
 石川に分っている病人の心持は、花が好きということだけであった。庭にまだ霜どけがする。その時分から、病人は枯芝の上を歩きつつ、
「ねえ石川、ダリヤの球根持って来とくれよ」
と注文した。
「少し早すぎましょう」
「いいよ、もういいよ、咲くよ」
 石川は、その辺にころがっている腐った球根でもかまわずもって行って土に埋めて見せた。
「乾くといけないねえ、枯れると困るよ」
 時候が時候だし芽の出ようはないのに、病人は楽しんで朝起きると、土に水をやった。夕方歩いても水をやる。一日の中を久しい間立って眺めて育つのを待った。春の彼岸頃、石川は今度こそ本物の球根を運んで来て花床に植込んだ。
「旦那、こっちの方がようございます。あれは駄目ですよ、もう」
「そうかい」
 水をやりすぎるので、ダリヤは夏が来ると茎と葉ばかり堂々と丈高く繁った。青い繁みの頂上に、それでも少々赤い花がつく。石川が来るのを待ちかねて、病人は、
「咲いたよ――ごらんよ――よく咲いたねえ」
と、それがまるで貧弱な花でも実に悦ばしそうに賞めるのであった。気持よさが声から溢れた。
 庭に、焼材を埋めて縁にした特別の花壇がある。そこには二株の牡丹が植えられていた。石川もこれには寒肥えその他怠らず手入れするので毎年季節が来ると、二株の牡丹はそれぞれに見事な淡紅の花を咲かせた。
 五月初旬の雨上りの日、石川は久しぶりで病人の様子を見に行った。
「旦那は?」
「御散歩でしょう」
 龍の髯を植えた小径から庭へ入ろうとする石川の行手に、ぱっと牡丹の花とその前に佇んで我を忘れている幸雄の姿が写った。この間来たときはまだ十分堅そうな蕾であった。それが夜の間に豊かな春を呼吸して、一輪は殆ど満開に、もう一輪、心を蕩(とろ)かすような半開の花が露を帯びて匂っている。年来生活の活々した流れや笑を失った家と庭にはどこやらあらそえない沈滞が不健康にくろずみ澱んでいる。そこへただ一点、精気を凝して花弁としたような熾(さか)んな牡丹の風情は、石川の心にさえ一種の驚きと感嘆をまき起した。
「――見事に咲きましたな、旦那」
 幸雄は、とうに石川の来たのを知ってでもいたかのようにゆっくり云った。
「きれいじゃないかねえ、石川。――いいねえ」
「いつ咲き始めました?」
「――三日ばかり前だよ――ねえ石川、本当にきれえじゃないかねえ」
「立派です」
 石川には病人が無心な花の美しさに心を奪われている様がいじらしく感じられた。歩いては眺め、止まっては眺めしていたものと見え、例によってちびた男下駄は、足の指まで雨上りの軟い庭土でよごれきっている。石川は、
「余り立っていらっしゃるとお体に悪うござんすよ」
と注意した。
「縁側にいらしたらいいでしょう、あそこからでもよく見えますぜ」
 幸雄は黙って向きかわり先に立って歩き出した。幸雄は手の先については非常に潔癖で、一寸木の枝を弄(いじく)っただけでも石鹸で洗った。足の方になるとそれが信じられないほど平気であった。どんなによごれていても、それなりで真白い敷布の中へでも入る。今も獣のように泥でよごれた足の裏のままずかずか縁側に上った。
「お茶もっといで」
 お茶が来た。
「お茶菓子もっといで」
 幸雄は、
「石川、お菓子おあがりよ」
とすすめた。すすめながらも、幸雄は牡丹の花に見とれているのがありあり分った。実際少し遠のくと重々しく艶な淡紅の花の姿全体が、サクサクした黒土との配合、品よく張った葉の繁り工合とともに、却って近くで見るに増した趣がある。掌に、皮が干上って餡から饐(すえ)た臭のする桜餅をとって貰いながら石川は、
「――来年は一つ株分けをやりましょうな」
と云った。幸雄は何日、間に日が経っていようと、この前石川が来たとき買わせた菓子の残りをきっちりしまっておいて、丹念に次にもそれを出すのであった。
「あしたの朝、あの方もさくね」
「もうあすこまで開くと一息です」
「……いいねえ……」
 恍惚と和いだ眼に限りない満足の色を泛べて見入っていた幸雄は、とてもその素晴らしい花から遠のいていられないらしかった。彼はまた下駄を穿いた。そして、花壇に近づく一歩一歩を、味い楽しんでいるかのように静かに進んで行った。やや暫く眺めあかした後、彼はそっと片足下駄のまま花壇に踏み込んだ。大事な貴いところへ忍び込むようにそーっともう一足入って、彼は顔を極度の用心深さで花に近づけた。九分通り咲きこぼれた大輪の牡丹は、五月の午前十一時過ぎの太陽に暖められ頭痛がするほど強い芳香を四辺に放っている。幸雄は蘂に顔を押し埋めつつその香を吸い込んだ。
 ほほけ立った幸雄の黒い後頭部を見ていた石川は、うっかりしていたが不意に不安に襲われた。石川は腐った桜餅を縁側に置いて立ち上った。
「……どうなさいました?――」
 幸雄はそろそろ顔を挙げてこちらを向いた。それを見て石川は心に衝撃を感じた。一層蒼ざめた幸雄の面長な顔は牡丹の大きい照りかえしで白い焔のようであった。その白い焔を貫いて何と神々しい異常な大歓喜が揺れていることだろう。病人の心の奥の暗いところで、ああ今牡丹がこの世のものでない美しさをもって咲き拡がっている。――そう思わせる顔だ。石川はこわいような心持に打たれた。狂った人間の心が彼の心をきつく圧した。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:27 KB

担当:undef