一太と母
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著者名:宮本百合子 

「今じき何か出来るそうだが、それまでのつなぎに一つ珍らしいもんがあるよ」
 その人は、焜炉の網に白い平べったい餅の薄切れのようなものをのせ、箸で返しながら焙(あぶ)った。手許を熱心に眺め、口の中に唾を出していた一太は喫驚(びっくり)して母親を引張った。
「あらあら、おっかちゃん、大きくなって来たよ、これ」
「ほら大きくなるぞ……大きくなるぞ」
 小さかった白い餅のようなものは、もりもりもりもりと拡って、箸でやっと持つ位大きく扁平な軽焼になった。
「さ、ちっと冷(さま)してから食うと美味(うま)いよ。芳ばしくて。――自分で焼いて見なさい」
 一太は片手で焙りながら、片手で軽焼を食った。とても甘く、口に入ると溶けそうだ。
「本当に美味(おい)しいや」
「本当とも」
 一太は、
「もういい? もう返してよござんすか」
と云いながら焙り出した。
「こんどのおっかちゃんに上げようね」
 一太の母は、陰気に気落ちのした風でそっちへ目をやりながら、
「いいよ、先生に上げるものですよ」
 そして、
「その方はお偉い先生で御本をお拵えなさるんですよ」
と云った。
「ふーん……」
 一太は、考えていたが、
「じゃああの本も拵えたんですか」
と藪から棒に尋ねた。
「どの本だね」
「あの本――少年倶楽部……僕よんだことあるよ、島村大尉ってとても勇ましいんだね」
「ハハハハそれは違うよ、それは別の人が拵えたんだよ多勢で……ハハハハハハ」
 その人が一太の顔を気持良く輝く日向みたいな眼で真正面から見て笑うので、一太もいい気持で何だか一緒にふき出したくなって来た。一太は、
「なーんだ」
と云うとクスクス、しまいにはあははと笑った。一太は紺絣の下へ一枚襦袢を着ているぎりであったから、そうやって小さい火を抱えているのは暖くて楽しい気分だ。今に出て来る物って何だろう……。
 一太は母親が、突かかるような口調で、
「今もこれが心配して、母ちゃん大丈夫って涙ぐむんでございますよ」
と云っているのを聞いた。一太はそんなことを訊かなかったし、涙ぐみなんぞしなかった。それは一太が知っている。けれども、一太はもう一つのこともよく知っている。――母はよそでは時々一太の知らないことや云わないことを、よく一太がどうこうと話す。
 そんなことより一太にはもっと面白いことが今ある。この軽焼を黒こげにしたら縮かんでちっとも拡がらない。さっと引くりかえして、ほら、こうふくれたら、またさっとかえして……。
 一太は口をしっかり締め、落っことさないように心でかけ声かけつつ一番大きい軽焼をこさえてやろうと意気込んで淡雪を火に焙った。




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