墨汁一滴
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:正岡子規 

 病める枕辺(まくらべ)に巻紙状袋(じょうぶくろ)など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾(わかざり)をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据(す)ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林(きつりん)黒竜江(こくりゅうこう)などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何(いか)に変りてあらんか、そは二十世紀初(はじめ)の地球儀の知る所に非(あら)ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱(ほうらい)なり。
枕べの寒さ計(ばか)りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも
(一月十六日)
 一月七日の会に麓(ふもと)のもて来(こ)しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠(かご)の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座(かめのざ)といふ札あるは菫(すみれ)の如(ごと)き草なり。こは仏(ほとけ)の座(ざ)とあるべきを縁喜物(えんぎもの)なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行(ごぎょう)とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子(たびらこ)の札あり。はこべらの事か。真後(まうしろ)に芹(せり)と薺(なずな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾(つぼみ)のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜(すずな)とあるは丈(たけ)三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白(すずしろ)の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅(くれない)の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊(こと)にきはだちて目もさめなん心地する。『源語(げんご)』『枕草子(まくらのそうし)』などにもあるべき趣(おもむき)なりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来(こ)し病めるわがため
(一月十七日)
 この頃根岸倶楽部(クラブ)より出版せられたる根岸の地図は大槻(おおつき)博士の製作に係(かか)り、地理の細精(さいせい)に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯(うぐいす)横町といへど昔は狸(たぬき)横町といへりとぞ。
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一(ほういつ)が句に「山茶花(さざんか)や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣(ふうしゅ)ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹(ちく)の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦(れんが)の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水□(くいな)の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々(うんぬん)
と博士は記(しる)せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空(むな)しく帰る俗客もあるべしかし。(一月十八日)
 蕪村(ぶそん)は天明(てんめい)三年十二月二十四日に歿したれば節季(せっき)の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日(きじつ)を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。(一月二十日)
 伊勢山田の商人(あきんど)勾玉(こうぎょく)より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。
祈平癒呈(へいゆをいのりてていす)
御両宮之真境(古版)              二
御神楽之図(おかぐらのず)(地紙)               五
五十鈴(いすず)川口のはぜ(薬といふ丑(うし)の日に釣(つ)る)    六
高倉山のしだ                  一
いたつきのいゆといふなる高倉の御山(みやま)のしだぞ箸(はし)としたまへ
  辛丑(かのとうし)のはじめ
大内人匂玉 まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。(一月二十二日)
 病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍(かたわ)らに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は健(すこや)かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。(一月二十三日)
 年頃苦しみつる局部の痛(いたみ)の外に左横腹の痛去年(こぞ)より強くなりて今ははや筆取りて物書く能(あた)はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何(いか)にして病の牀(とこ)のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終(つい)に墨汁一滴(ぼくじゅういってき)といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限(かぎり)とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間(ひま)をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見(まみ)えんとにはあらず、朝々(あさあさ)病の牀にありて新聞紙を披(ひら)きし時我書ける小文章に対して聊(いささ)か自ら慰むのみ。
筆(ふで)禿(ち)びて返り咲くべき花もなし
(一月二十四日)
 去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹(てっかん)子規(しき)と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾以為(おも)へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是(ぜ)ならば子規非(ひ)なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。乃(すなわ)ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星(みょうじょう)』所載(しょさい)の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために妄(もう)を弁ぜんとなり。爾後(じご)病牀寧日(ねいじつ)少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規不可(ふか)並称(へいしょう)の説を以て尊卑(そんぴ)軽重(けいちょう)に因(よ)ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁(こうろんおつばく)喧擾(けんじょう)を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益□加はり殊に筆を取るに悩む。終(つい)に前約を果す能はざるを憾(うら)む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ幸(さいわい)なり。(一月二十五日)
 俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を逞(たくまし)うし後半はいたく衰へたり。我(わが)短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一頓挫(とんざ)したるが如し。こは固(もと)より伎倆(ぎりょう)の退(しりぞ)きたるにあらず、されど進まざるなり。吾(わが)見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて僅(わず)かに新作と為(な)しつつあるには非(あらざ)るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心労(つか)れ眼(まなこ)眠たき者は永(なが)き夜の眠(ねむり)を貪(むさぼ)るに如(し)かず。眠さめたる時浦島(うらしま)の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何(いかん)。(一月二十七日)
 人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂(わいろ)に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨(そこつ)のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒(だいこく)のはがきさし、夷子(えびす)の絵はがき、千人児童の図、八幡太郎(はちまんたろう)一代記の絵草紙(えぞうし)など。いとめづらし。此(これ)を取り彼をひろげて暫(しばら)くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自(おのずか)らこの取り合せの中にあらはれて興(きょう)尽くる事を知らず。
年玉を並(なら)べて置くや枕もと
(一月二十八日)
 一本の扇子を以て自在に人を笑はしむるを業(わざ)とせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者なりとか聞きぬ。芳菲山人(ほうひさんじん)の滑稽家(こっけいか)たるは人の知る所にして、狂歌に狂文に諧謔(かいぎゃく)百出(ひゃくしゅつ)尽くる所を知らず。しかもその人極めてまじめにしていつも腹立てて居るかと思はるるほどなり。我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石(そうせき)なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影(しえい)の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚(はなは)だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為(な)し能(あた)ふ者にやあるべき。古(いにしえ)の蜀山(しょくさん)一九(いっく)は果して如何(いか)なる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる一茶(いっさ)は必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。(一月三十日)
 人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀(びょうしょう)における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉(うれ)しからん、と思ひしだに余りに小さき望(のぞみ)かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早(もはや)我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零(ゼロ)となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦(しゃか)はこれを涅槃(ねはん)といひ耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。(一月三十一日)
『大鏡(おおかがみ)』に花山(かざん)天皇の絵かき給ふ事を記して
さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひて大(おおき)さのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見え侍(はべ)る。また筍(たけのこ)の皮を男のおよびごとに入れてめかかうして児(ちご)をおどせば顔赤めてゆゆしうおぢたるかた云々
などあり。また俊頼(としより)の歌の詞書(ことばがき)にも
大殿(おおとの)より歌絵(うたえ)とおぼしく書たる絵をこれ歌によみなして奉(たてまつ)れと仰(おおせ)ありければ、屋のつまに女(おみな)をとこに逢ひたる前に梅花風に従ひて男の直衣(のうし)の上に散りかかりたるに、をさなき児(ちご)むかひ居て散りかかりたる花を拾ひとるかたある所をよめる
などあるを見るに古(いにしえ)の人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しき画(え)を作りにけん。土佐派狩野派(かのうは)などいふ流派盛(さかん)になりゆき古の画を学び師の筆を摸(も)するに至りて復(また)画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。(二月一日)
 われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃馬琴(ばきん)が『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に
文渓堂(ぶんけいどう)及(また)貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人を索(たずぬ)るに意に称(かな)ふさる者のあるべくもあらず云々
とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に
吾(わが)孫興邦(おきくに)はなほ乳臭(ちのか)机心(つくえごころ)失せず。かつ武芸を好める本性なれば恁(かか)る幇助(たすけ)になるべくもあらず。他(かれ)が母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中音音(おとね)が大茂林浜(おおもりはま)にて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使(かなづかい)を誨(おしゆ)るに、婦人は普通の俗字だも知るは稀(まれ)にて漢字(からもじ)雅言(がげん)を知らず仮名使てにをはだにも弁(わきま)へず扁(へん)旁(つくり)すらこころ得ざるに、ただ言語(ことば)をのみもて教へて写(かか)するわが苦心はいふべうもあらず。況(まい)て教(おしえ)を承(うけ)て写(か)く者は夢路を辿(たど)る心地して困じて果はうち泣くめり云々
など書ける、この文昔はただ余所(よそ)のあはれとのみ見しが今は一々身にしみて我上(わがうえ)の事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早く已(すで)に大団円に近づかんとすると固(もと)より同日に論ずべくもあらず。(二月二日)
○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇崩(ほう)ず八十余歳。李鴻章(りこうしょう)逝く七十余歳。
○星亨(ほしとおる)訴へられ、鳩山和夫(はとやまかずお)訴へられ、島田三郎(しまださぶろう)訴へらる。
○朝汐(あさしお)負け、荒岩(あらいわ)負け、源氏山(げんじやま)負く。
○神田の歳(とし)の市に死傷あり。大阪の十日夷(とおかえびす)に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。
○背痛み、臀(しり)痛み、横腹痛む。(二月三日)
 節分に豆を撒(ま)くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。その日になれば男女(なんにょ)の乞食(こじき)ども、女はお多福(たふく)の面を被(かぶ)り、男は顔手足総(すべ)て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門(かど)の内に入り、手に持てる升(ます)の豆を撒くまねしながら、御繁昌様(ごはんじょうさま)には福は内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入(はい)らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来(き)なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しよにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰(もら)ひ歩行(ある)くなり。やがてその日も夕(ゆうべ)になれば主人は肩衣(かたぎぬ)を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方(えほう)に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨(くりや)にては田楽(でんがく)を焼き初む。味噌の臭(におい)に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団(ふとん)の下に敷きて寐(いぬ)れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払(やくばらい)にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯(いわし)の頭さしたるを戸口々々に挿(はさ)むが多けれど柊(ひいらぎ)ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(二月四日)
 節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。しかしこれも古き風俗と見え、『滑稽太平記(こっけいたいへいき)』といふ書(ふみ)に
  回禄以後鹿相成家居に越年して
去年(こぞ)たちて家居もあらた丸太かな       卜養
宝の船も浮ぶ泉水              玄札
この宝の船は種々(くさぐさ)の宝を船に積たる処を画(え)に書(かき)回文(かいぶん)の歌を書添へ元日か二日の夜しき寐して悪(あ)しき夢は川へ流す呪事(まじないごと)なりとぞ、また年越(としこし)の夜も敷(しく)事(こと)ある故に冬季ともいひたり、しかるに二つある物は前の季に用る行年(ゆくとし)をとらんためなればこの理近かるべしといへるもあり、されども玄札老功たり既にする時は如何(いかん)とも春たるべしといふもありけり
と記せり。「元日か二日の夜」とあれば昔は二日の夜と限りたるにも非(あらざ)るか。(二月五日)
 節分にはなほさまざまの事あり。我(わが)昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて燭(しょく)あまたともし大般若(だいはんにゃ)の転読とかをなす。本堂の檐(のき)の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを画(えが)き各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善(よ)過ぎてかへつて悪きなり半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。またこの夜四辻にきたなき犢鼻褌(ふんどし)、炮烙(ほうろく)、火吹竹(ひふきだけ)など捨つるもあり。犢鼻褌の類(たぐい)を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち袂(たもと)に入れなどして往きたるは効(かい)なし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直す呪(まじない)、火吹竹は瘧(おこり)の呪とかいへどたしかならず。
四十二の古ふんどしや厄落し
(二月六日)
 我国語の字書は『言海(げんかい)』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村黄塔(こうとう)(鍛(きたう))は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就(じょうじゅ)し得ざるを以て彼は字書編纂(へんさん)の約束を以て一時書肆(しょし)冨山房(ふざんぼう)に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。尋(つい)で九月始めて肺患に罹(かか)り後赤十字社病院に入り療養を尽(つくし)し効(かい)もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交(まじわり)一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
 我旧師河東静渓(かわひがしせいけい)先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を嗣(つ)ぐ。第四子は可全(かぜん)。第五子は碧梧桐(へきごとう)。黄塔三子あり皆幼。(二月七日)
 雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物月旦(げったん)、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点(けんてん)の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。(二月八日)
 近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑(かん)類、越後(えちご)の鮭(さけ)の粕漬(かすづけ)、足柄(あしがら)の唐黍(とうきび)餅、五十鈴(いすず)川の沙魚(はぜ)、山形ののし梅、青森の林檎羊羹(りんごようかん)、越中(えっちゅう)の干柿(ほしがき)、伊予の柚柑(ゆずかん)、備前(びぜん)の沙魚、伊予の緋(ひ)の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅(やつはしせんべい)、上州(じょうしゅう)の干饂飩(ほしうどん)、野州(やしゅう)の葱(ねぎ)、三河(みかわ)の魚煎餅、石見(いわみ)の鮎(あゆ)の卵、大阪の奈良漬、駿州(すんしゅう)の蜜柑(みかん)、仙台の鯛(たい)の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の□(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。(二月九日)
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『金草鞋(かねのわらじ)』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論(もちろん)、驚くべき誤も多かるが如(ごと)し。試みに四国八十八ヶ所廻(めぐ)りの部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図断崖(だんがい)の上に伽藍(がらん)聳(そび)えその傍(かたわら)は海にして船舶を多く画(えが)けり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は此処(ここ)を詠(よ)みし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるに因(よ)るとか聞きたれど歌は忘れたり。
 この寺の建築は小き者なれど此処の地形は深山の中にありてあるいは千仞(せんじん)の危巌(きがん)突兀(とっこつ)として奈落を踏(ふ)み九天を支ふるが如きもあり、あるいは絶壁、屏風(びょうぶ)なす立ちつづきて一水潺々(せんせん)と流るる処もあり、とにかくこの辺無双の奇勝として好事家(こうずか)の杖を曳(ひ)く者少からず。(二月十日)
 朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻(ひるがえ)し、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊(こと)にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝みて万歳を三呼したる後余は復(また)学校の行列に加はらず、芝の某(なにがし)の館(やかた)の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて仮店(かりみせ)太神楽(だいかぐら)などの催しに興の尽くる時もなく夜(よ)深(ふ)けて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚(はなは)だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して能(よ)く歩行し得るや否や。(二月十一日)
『日本』へ俳句寄稿に相成候(あいなりそうろう)諸君へ申上候(もうしあげそうろう)。筆硯(ひっけん)益□御清適(ごせいてき)の結果として小生の枕辺(ちんぺん)に玉稿(ぎょっこう)の山を築きこの冬も大約一万句に達し候(そうろう)事(こと)誠に御出精(ごしゅっせい)の次第とかつ喜びかつ賀(が)し奉(たてまつ)り候。しかるところ玉稿拝読致候(いたしそうろう)に御句(おんく)の多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以て填(うず)め兼候(かねそうろう)場合も不少(すくなからず)候。選抜の比例を申候(もうしそうら)はんに十分の一以上の比例を取り候は格堂(かくどう)寒楼(かんろう)ら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら有之(これあり)候。多作第一とも称すべき八重桜(やえざくら)氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るに徒(いたずら)に多きを貪(むさぼ)る者の如く平凡陳腐の句も剽窃(ひょうせつ)の句も構(かま)はずやたらに排列(はいれつ)せられたるはやや厭はしく感じ申候。また一題百句など数多(あまた)寄せらるる人も有之候。一題百句は第一期の修行として極めて善き事なれどその中より佳句を抜き出す事は甚だ困難なるべく、ましてその題が火燵(こたつ)、頭巾(ずきん)、火鉢(ひばち)、蒲団(ふとん)の類(たぐい)なるにおいては読まずしてその句の陳腐なること知れ申候。故に箇様(かよう)なる場合においては初めの十句ほどを読みその中に佳句なくば全体に佳句なき者として没書致すべく候。小生も追々衰弱に赴き候に付(つき)二十句の佳什(かじゅう)を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒(なにとぞ)御自身御選択(ごせんたく)の上御寄稿被下候様(くだされそうろうよう)希望候。以上。(二月十二日)
 毎朝繃帯(ほうたい)の取換をするに多少の痛みを感ずるのが厭(いや)でならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さを紛(まぎ)らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を睨(にら)んで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔関羽(かんう)の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。(二月十三日)
 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最(もっとも)善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵(かものまぶち)を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義(ひらがもとよし)といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇(ちゅうちょ)なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣(もほう)し万葉調の歌を世に残したる者実に備前(びぜん)の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之(ぎし)を尊敬せざる書家なく、杜甫(とほ)を尊敬せざる詩家なく、芭蕉(ばしょう)を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有(けう)なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚(はなは)だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸(ひとまろ)を歌聖とする事において全く一致しながらも毫(ごう)も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非(あらざ)るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然(たくぜん)として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧(かえりみ)ざりしはけだし心に大(おおい)に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)
 天下の歌人挙(こぞ)つて古今調(こきんちょう)を学ぶ、元義笑つて顧(かえりみ)ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を宗(むね)とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の裏(うち)に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
 忘られ了らんとする時、平賀元義なる名は昨年の夏羽生(はにゅう)某によりて岡山の新聞紙上に現されぬ、しかれどもこの時世に紹介せられしは「恋の平賀元義」なる題号の下に奇矯(ききょう)なる歌人、潔癖ある国学者、恋の奴隷としての平賀元義にして、万葉以来唯一の歌人としての平賀元義には非(あらざ)りき。幸にして備前児島(こじま)に赤木格堂(あかぎかくどう)あり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆(しんぴつ)十数枚とかの羽生某の文をも併(あわ)せて余に示す。是(ここ)において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。けだし余は幾多の歌集を見、幾多の歌人につきて研究したる結果、真箇(しんこ)の万葉崇拝者をただ一人だに見出だす能はざるに失望し、歌人のふがひなく無見識なるは殆(ほとん)ど罵詈(ばり)にも値せずと見くびり居る時に当りて始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。まぬけのそろひともいふべき歌人らの中に万葉の趣味を解する者は半人もなきはずなるにそも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。(二月十五日)
 元義の歌は醇乎(じゅんこ)たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非(あらざ)れば歌に詠みし事なし。故にその歌真摯(しんし)にして古雅毫(ごう)も後世繊巧(せんこう)□媚(ぶび)の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
 
  天保八年三月十八日自彦崎至長尾村途中
うしかひの子らにくはせと天地(あめつち)の神の盛りおける麦飯(むぎいい)の山

  五月三日望逢崎
柞葉(ははそば)の母を念(おも)へば児島(こじま)の海逢崎(おうさき)の磯浪(なみ)立ちさわぐ

  五月九日過藤戸浦
あらたへの藤戸の浦に若和布(わかめ)売るおとひをとめは見れど飽かぬかも

  逢崎賞月
まそかゞみ清き月夜(つくよ)に児島の海逢崎山に梅の散る見ゆ

  望父峰
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ

  小田渡口
古(いにしえ)のますらたけをが渡りけん小田の渡りを吾(あれ)も渡りつ

  神崎博之宅小飲二首
こゝにして紅葉(もみじ)を見つゝ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも
盃に散り来(こ)もみぢ葉みやびをの飲む盃に散り来もみぢ葉
(二月十六日)
 元義の歌
 
  児島備後(びんご)三郎大人(うし)の詩の心を
吾大君(おおきみ)ものなおもほし大君の御楯とならん我なけなくに

  失題
大君の御門(みかど)国守(くにもり)まなり坂月(つき)面白しあれ独り行く(御門国守まなり坂は皆地名)
高島の神島山を見に来れば磯まの浦に鶴(たず)さはに鳴く
妻ごみに籠(こも)りし神の神代より清(すが)の熊野に立てる雲かも
うへ山は山風寒しちゝの実(み)の父の命の足冷ゆらしも

  三家郷八幡大神の大御行幸(おおみゆき)を拝み奉りて
掛(かけ)まくも文(あや)に恐(かしこ)き、いはまくも穴に尊き、広幡(ひろはた)の八幡(やはた)の御神(みかみ)、此浦の行幸(いでまし)の宮に、八百日日(やおかび)はありといへども、八月(はつき)の今日を足日(たるひ)と、行幸して遊び坐(いま)せば、神主(かみぬし)は御前に立ちて、幣帛(みてぐら)を捧げ仕(つか)ふれ、真子(まなご)なす御神の子等は、木綿(ゆう)あさね髪結(ゆ)ひ垂(た)らし、胸乳(むなぢ)をしあらはし出だし、裳緒(もひも)をばほとに押し垂れ、歌ひ舞ひ仕へまつらふ、今日の尊さ

  十一月三日芳野村看梅作歌
板倉と撫川(なずかわ)の郷(さと)の、中を行く芳野の川の、川岸に幾許(ここら)所開(さける)は、誰(たが)栽(うえ)し梅にかあるらん、十一月(しもつき)の月の始を、早も咲有流(さきたる)
(二月十七日)
 元義の歌

  送大西景枝
真金(まがね)吹く吉備(きび)の海に、朝なぎに来依(きよ)る深海松(ふかみる)、夕なぎに来依る○みる、深みるのよせて来(こ)し君、○みるのよせて来し君、いかなれや国へかへらす、ちゝのみの父を思へか、いとこやの妹(いも)を思へか、剣(つるぎ)太刀(たち)腰に取佩(とりは)き、古(いにしえ)の本(ふみ)を手(た)にぎり、国へかへらす

  十二月五日御野郡の路上にて伊予の山を見てよめる歌并短歌
百足(ももた)らず伊予路を見れば、山の末島の崎々、真白にぞみ雪ふりたれ、並立(なみたち)の山のこと/″\、見渡(みわたし)の島のこと/″\、冬といへど雪だに見えぬ、山陽(かげとも)の吉備の御国は、住(すみ)よくありけり

  反歌
吹風ものどに吹なり冬といへど雪だにふらぬ吉備の国内(くぬち)は
(二月十八日)

 元義の歌には妹(いも)または吾妹子(わぎもこ)の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名(あだな)を負へりとぞ。けだし元義は熱情の人なりしを以て婦女に対する愛の自(おのずか)ら詞藻(しそう)の上にあらはれしも多かるべく、彼が事実以外の事を歌に詠まざりきといふに思ひ合せても吾妹子の歌は必ず空想のみにも非(あらざ)るべし。『古今集』以後空想の文字に過ぎざりし恋の歌は元義に至りて万葉の昔に復(かえ)り再び基礎を感情の上に置くに至れり。吾妹子の歌左に

  失題
妹(いも)と二人暁(あかとき)露に立濡れて向(むか)つ峰上(おのえ)の月を看(み)るかも
妹が家の向(むかい)の山はま木の葉の若葉すゞしくおひいでにけり
鴨山(かもやま)の滝津(たきつ)白浪(しらなみ)さにつらふをとめと二人見れど飽かぬかも
久方(ひさかた)の天(あま)つ金山(かなやま)加佐米山(かさめやま)雪ふりつめり妹は見つるや
(二月十九日)
 元義吾妹子(わぎもこ)の歌

  遊于下原
石上(いそのかみ)ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅

  正月晦日
皆人の得がてにすちふ君を得て吾(わが)率寝(いぬ)る夜は人な来(きた)りそ

  自玉島至下原途中
矢かたをうち出て見れば梅の花咲有(さける)山辺(やまべ)に妹が家見ゆ

  河辺渡口
若草の妻の子故に川辺(かわべ)川しば/\渡る嬬(つま)の子故に

  自下原至篠沖村路上
吾妹子(わぎもこ)を山北(そとも)に置きて吾(わが)くれば浜風寒し山南(かげとも)の海

  夜更けて女のもとに行きて
有明(ありあけ)の月夜(つくよ)をあかみ此園(このその)の紅葉(もみじ)見に来(き)つ其(その)戸令開(ひらかせ)

  従児島還一宮途中
妹(いも)に恋ひ汗入(あせり)の山をこえ来れば春の月夜に雁(かり)鳴きわたる

  失題
妹が家の板戸押(おし)ひらき吾(わが)入れば太刀の手上(たがみ)に花散りかゝる
夕闇の道は暗けど吾妹子に恋ひてすべなみ出(いで)てくるかも
遠くともいそげ大まろ吾妹子に早も見せまくほしき此文
吾妹児破(わぎもこは)都婆那乎(つばなを)許多(ここだ)食□良詩(くいけらし)昔見四従(むかしみしより)肥坐二□林(こえましにけり)

  讃岐(さぬき)の国に渡りける時吉備(きび)の児島の逢崎にて
逢崎(おうさき)は名にこそありけれはしけやし吾妹(わぎも)が家は雲井かくりぬ

  美作(みまさか)に在ける時故郷の酒妓のもとより文おこせければ
春の田をかへす/″\も妹が文見つゝし居れば夜ぞあけにける
 妹に関する歌は実に元義の歌の過半を占め居るなり。(二月二十日)
 元義の熱情は彼の不平と共に澆(そそ)ぎ出されて時に狂態を演ぜし事なきに非(あらざ)るも、元来彼は堅固なる信仰と超絶せる識見の上に立ちて自己の主義を守るを本分としたる者にして、決して恋の奴隷となりて終るが如き者に非ず。さればその歌に吾妹子の語多きに対してますらをの語多きが如きまた以て彼が堂々たる大丈夫(だいじょうぶ)を以て自(みずか)ら任じたるを知るに足る。ますらをの歌

  西蕃漢張良賛
言(こと)あげて雖称(ほむとも)つきじ月の没(い)る西の戎(えみし)の大丈夫(ますらお)ごゝろ

  望加佐米山
高田のや加佐米(かさめ)の山のつむじ風ますらたけをが笠吹きはなつ

  自庭妹郷至松島途中
大井川朝風寒み大丈夫(ますらお)と念(おも)ひてありし吾ぞはなひる

  遊于梅園
丈夫(ますらお)はいたも痩(や)せりき梅の花心つくして相見つるから

  失題
天地(あめつち)の神に祈りて大丈夫を君にかならず令生(うませ)ざらめや
鳥が鳴くあづまの旅に丈夫が出立(いでたち)将行(ゆかん)春ぞ近づく
石竹(なでしこ)もにくゝはあらねど丈夫の見るべき花は夏菊の花

  業合大枝を訪ふ
弓柄(ゆつか)とるますらをのこし思ふこととげずほとほとかへるべきかは
 元義は妹(いも)といはでもあるべき歌に妹の語を濫用(らんよう)せしと同じく丈夫(ますらお)といはでもあるべき歌に丈夫の語を濫用せり。此(かく)の如き者即ち両面における元義の性情をあらはしたる者に外ならず。(二月二十一日)
 元義は大丈夫を以て、日本男児を以て、国学者を以て自ら任じたるべく、詠歌(えいか)の如きは固(もと)よりその余技に属せしものならん。古学に対する彼の学説は必ず大いに聞くべきものありしならんも、今日において遺稿などの其(それ)を徴(ちょう)するに足るものなきは遺憾なり。今その歌について多少その主義を表したりと思ふものを挙げんに

  失題
おほろかに思ふな子ども皇祖(すめおや)の御書(みふみ)に載(の)れる神の宮処(みやどころ)

  喩高階騰麿
菅(すが)の根の長き春日(はるひ)を徒(いたずら)に暮らさん人は猿にかもおとる

  題西蕃寿老人画
ことさへぐ国の長人(ながひと)さかづきに其が影うつせ妹(いも)にのません

  和安田定三作
今日よりは朝廷(みかど)たふとみさひづるや唐国人(からくにびと)にへつらふなゆめ

  備中闇師城に学舎をたてゝ漢文よませらるゝときゝて
暗四鬼(くらしき)の司人等(つかさびとたち)ねがはくは皇御国(すめらみくに)の大道(おおみち)を行け

  失題
大君(おおきみ)の御稜威加賀焼(みいつかがやく)日之本荷(ひのもとに)狂業須流奈(たわわざするな)痴廼漢人(おそのからびと)
(二月二十二日)
 以上挙ぐる所を以て元義の歌の如何なるかはほぼこれを知る事を得べし。元義は終始万葉調を学ばんとしたるがためにその格調の高古(こうこ)にして些(いささか)の俗気なきと共にその趣向は平淡にして変化に乏しきの感あり。されど時としては情の発する所格調の如何(いかん)を顧みるに遑(いとま)あらずしてやや異様の歌となる事なきに非ず。例

  高階謙満宅宴飲
天照皇御神(あまてらすすめらみかみ)も酒に酔ひて吐き散らすをば許したまひき

  述懐
大(おお)な牟遅神(むちかみ)の命(みこと)は袋負(お)ひをけの命は牛かひましき

  失題
足引(あしびき)の山中治左(じさ)が佩(は)ける太刀(たち)神代(かみよ)もきかずあはれ長太刀
五番町石橋の上で我(わが)○○をたぐさにとりし我妹子(わぎもこ)あはれ
弥兵衛(やひょうえ)が十(と)つかの剣(つるぎ)遂に抜きて富子(とみこ)を斬(き)りて二(ふた)きだとなす
弥兵衛がこやせる屍(かばね)うじたかれ見る我さへにたぐりすらしも
吾独(ひとり)知るとまをさばかむろぎのすくなひこなにつらくはれんか
弓削破只(ゆげはただ)名二社在□列(なにこそありけれ)弓削人八(ゆげびとは)田乎婆雖作(たをばつくれど)弓八不削(ゆみはけずらず)
 これらの歌多くは事に逢ふて率爾(そつじ)に作りし者なるべく文字の排列(はいれつ)などには注意せざりしがために歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫(てんしんらんまん)なる処に元義の人物性情は躍如(やくじょ)としてあらはれ居るを見る。(二月二十三日)
 羽生(はにゅう)某の記する所に拠(よ)るに元義は岡山藩中老池田勘解由(かげゆ)の臣(しん)平尾新兵衛長治(ながはる)の子、壮年にして沖津氏の厄介人(やっかいにん)(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化(こうか)四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓(りゅうぐう)し後遂(つい)に上道(じょうとう)郡大多羅(おおたら)村の路傍(ろぼう)に倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
格堂(かくどう)の写し置ける元義の歌を見るに皆天保(てんぽう)八年後の製作に係(かか)るが如く天保八年の歌は既に老成して毫(ごう)も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非(あらざ)るが如し。
(二月二十四日)
 元義の岡山を去りたるは人を斬(き)りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。
 元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋(たび)を穿(うが)ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名(あだな)を負ひたりといふ。
 元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年磐梨(いわなし)郡某社の巫女(みこ)のもとに入夫(にゅうふ)の如く入りこみて男子二人を挙げしが後長子(ちょうし)は窃盗(せっとう)罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔(こうほんなど)は散佚(さんいつ)して尋ぬべからずといふ。
 元義には潔癖あり。毎朝歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠(かわや)用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。
 元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭(いと)はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。
 元義ある時刀の鞘(さや)があやまつて僧の衣に触れたりとて漆(うるし)の剥(は)ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。
 元義は藤井高尚(ふじいたかなお)の門人業合大枝(なりあいおおえ)を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。
 元義には師匠なく弟子なしといふ。
 元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸(ひとまろ)の太子(たいし)追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自(おのずか)ら分るものなり、といひきといふ。
 脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
 元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。
 以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程(かほど)の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐(あわれ)むべく悲しむべきにあらずや。(二月二十五日)
 格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。
 元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様(からよう)なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。
 万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝(みなもとのさねとも)、徳川宗武(とくがわむねたけ)、井手曙覧(いであけみ)、平賀元義(ひらがもとよし)これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固(もと)より賤(いや)しききはにていづれも世に容(い)れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年(てんねん)を全うするに至らざりしは千古の惨事とすべし。元義の終始不遇なるに対して曙覧が春嶽(しゅんがく)の知遇を得たるは晩年やや意を得たるに近し、しかも二人共に王家の臣たる能はざりしは死してもなほ遺憾あるべきにや。
 曙覧は汚穢(おわい)を嫌はざりし人、されど身のまはりは小奇麗(こぎれい)にありしかと思はる。元義は潔癖の人、されど何となくきたなき人には非(あらざ)りしか。
 四家の歌を見るに、実朝と宗武とは気高くして時に独造の処ある相似たり。但(ただし)宗武の方、覇気やや強きが如し。曙覧は見識の進歩的なる処、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但伎倆の点において調子を解する点において曙覧は遂に元義に如かず。故に曙覧の歌の調子ととのはぬが多きに反して元義の歌は殆(ほとん)ど皆調子ととのひたり。されど元義の歌はその取る所の趣向材料の範囲余りに狭きに過ぎて従つて変化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以(ゆえん)なり。彼にしてもし自(みずか)ら大歌人たらんとする野心あらんかその歌の発達は固(もと)より此(ここ)に止まらざりしや必せり。その歌の時に常則を脱する者あるは彼に発達し得べき材能の潜伏しありし事を証して余(あまり)あり。惜しいかな。(二月二十六日)
 近来雑誌の表紙を模様色摺(いろずり)となしかつ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす。
 雑誌『目不酔草(めざましぐさ)』の表紙模様不折(ふせつ)の意匠に成る。面白し。但(ただし)何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。
 雑誌『明星(みょうじょう)』は体裁の美麗(びれい)なる事普通雑誌中第一のものなりしが遂に廃刊せし由(よし)気の毒の至なり。今廃刊するほどならば最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添へたらんかと思ふ。是非なし。
 雑誌『精神界』は仏教の雑誌なり。始に髑髏(どくろ)を画(えが)きてその上に精神界の三字を書す。その様何とやら物質的に開剖(かいぼう)的に心理を研究する意かと思はれて仏教らしき感起らず。髑髏の画(え)のやや精細なるにも因(よ)るならん。
 雑誌『みのむし』は伊賀より出づる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕪(ばしょう)の葉を画けるにその画拙(つたな)くしてどうやら蕪(かぶら)の葉に似たるやう思はる。蕪村(ぶそん)流行のこの頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにやといと可笑(おか)し。
 雑誌『太陽』の陽の字のつくり時に易(えき)に从(したが)ふものあり。そんな字は字引になし。(二月二十七日)
『日本』へ寄せらるる俳句を見るに地方々々にて俳句の調にもその他の事にも多少の特色あり、従つて同地方の人は万事をかしきほどに似よりたる者あり。同一の俳句または最も善く似たる俳句が同地方の人二人の稿に殆ど同時に見出ださるる事などしばしばあれど、この場合にはいづれを原作としいづれを剽窃(ひょうせつ)とせんか、ほとほと定めかねて打ち捨つるを常とす。総じてその地方の俳句会盛(さかん)なる時はその会員の句皆面白く俳句会衰ふる時はあるだけの会員悉(ことごと)く下手になる事不思議なるほどなり。
 句風以外の特色をいはんか、鳥取の俳人は皆四方太(しほうだ)流の書体巧(たくみ)なるに反して、取手(とりで)(下総(しもうさ))辺の俳人はきたなき読みにくき字を書けり。出雲(いずも)の人は無暗(むやみ)に多く作る癖ありて、京都の人の投書は四、五十句より多からず。大阪の人の用紙には大阪紙と称(とな)ふるきめ粗き紙多く、能代(のしろ)(羽後(うご))の人は必ず馬鹿に光沢多き紙を用ゐる。越中の人に限りて皆半紙を二つ切にしたるを二つに折りて小く句を書くなり。はがきに二句か三句認めあるはいづれの地方に限らず初心なる人の必ずする事なり。(二月二十八日)
 黄塔(こうとう)まだ世にありし頃余が書ける漢字の画(かく)の誤(あやまり)を正しくれし事あり。それより後よりより余も注意して字引をしらべ見るに余らの書ける楷書(かいしょ)は大半誤れる事を知りたれば左に一つ二つ誤りやすき字を記して世の誤を同じくする人に示す。
 菫謹勤などの終りの横画は三本なり。二本に書くは非なり。活字にもこの頃二本の者を拵(こしら)へたり。
 達の字の下の処の横画も三本なり、二本に非ず。
 切の字の扁(へん)は七なり。土扁に書く人多し。
 助の字の扁は且なり。目扁に書く人多し。
 ※[#「麾−毛」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「手」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「石」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「鬼」」、42-8]などの中の方を林の字に書くは誤なり。この頃活字にもこの誤字を拵(こしら)へたれば注意あるべし。
 ※[#「兎」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]※[#「免」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]共に四角の中の劃(かく)を外まで引き出すなり。活字を見るに兎(と)の字は正しけれど免(めん)の字はことさらに二画に離したるが多し。しかしこれらは誤といふにも非(あらざ)るか。
「つか」といふ字は冢□にして豕(いのこ)に点を打つなり。しかるに多少漢字を知る人にして※[#「わかんむり/一/豕」、42-12]※[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-12]の如く豕の上に一を引く人多し。されど※(ぼう)[#「わかんむり/一/豕」、42-13]※(ほう)[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-13]皆東韻(とういん)にして「つか」の字にはあらず。
 ※[#「入/王」、42-14]※[#「兪/心」、42-14]などの冠(かんむり)は入なり。人冠に非ず。
 分貧などの冠は八なり。人にも入にも非ず。
 神※[#「示+氏」、43-1]の※[#「示+氏」、43-1]の字は音「ぎ」にして示扁(しめすへん)に氏の字を書く。普通に祗(し)(氏の下に一を引く者)の字を書くは誤なり。祗は音「し」にして祗候(しこう)などの祗なり。
 廢は広く「すたる」の意に用ゐる。□(やまい)だれの癈は不具の人をいふ。何処にでも□だれの方を用ゐる人多し。
○正誤 前々号墨汁一滴にある人に聞けるまま雑誌『明星』廃刊の由(よし)記したるに、廃刊にあらず、只今印刷中なり、と与謝野(よさの)氏より通知ありたり。余はこの雑誌の健在を喜ぶと共にたやすく人言(じんげん)を信じたる粗相(そそう)とを謝す。
(三月一日)
 二月二十八日 晴。朝六時半病牀(びょうしょう)眠起。家人暖炉(だんろ)を焚(た)く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯(ほうたい)を取りかふ。粥(かゆ)二碗(わん)を啜(すす)る。梅の俳句を閲(けみ)す。
 今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶(こおけ)に活(い)けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛(ひな)を祭れと命ず。古紙雛(ふるかみびな)と同じ画(え)の掛物、傍(かたわら)に桃と連翹(れんぎょう)を乱れさす。
 左千夫(さちお)来り秀真(ほつま)来り麓(ふもと)来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋(ふた)は近頃秀真の鋳(い)たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休(りきゅう)手簡(しゅかん)の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓(もっけい)の画(え)をほめて
我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代(いくよ)出ぬらん
といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。
 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。
 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。
味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実(み)は嫁菜(よめな)、二椀代ふ。
鱠(なます)は鯉(こい)の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵(すりわさび)ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟(おきて)に心づきて俄(にわか)に当惑し山葵(わさび)を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。
平(ひら)は小鯛(こだい)の骨抜四尾。独活(うど)、花菜(はなな)、山椒(さんしょう)の芽、小鳥の叩き肉。
肴(さかな)は鰈(かれい)を焼いて煮(に)たるやうなる者鰭(ひれ)と頭と尾とは取りのけあり。
口取は焼玉子、栄螺(さざえ)(?)栗、杏(あんず)及び青き柑(かん)類の煮(に)たる者。
香の物は奈良漬の大根。
 飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各□椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半(なかば)を残して得(え)喰はず。飯終りて湯桶(ゆとう)に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚(こころおぼえ)のため書きつけ置く。
 点燈(てんとう)後茶菓(さか)雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音如何(いかん)。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃(すなわ)ち
  題釜
氷(こおり)解けて水の流るゝ音すなり     子規
(三月二日)
 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁にある由(よし)、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでもなし。味噌を選ぶは勿論(もちろん)、ダシに用ゐる鰹節(かつおぶし)は土佐節の上物(じょうもの)三本位、それも善き部分だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価(あたい)三円以上にも上るといふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵(こしら)へて余す例(ためし)なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、知らざる事とはいへ、山葵(わさび)をまぜて啜(すす)りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆(あき)れつらん。この話を聞きて今更に臍(ほぞ)を噬(か)む。
 茶の道には一定の方式あり。その方式をつくりたる精神を考ふれば皆相当の理(ことわり)ある事なれどただその方式に拘(かかわ)るために伝授とか許しとかいふ事まで出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道(さどう)はなるべく自己の意匠(いしょう)によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といへども二度用ゐれば陳腐に堕(お)つる事あるべし。故に茶人の茶を玩(もてあそ)ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室は甚だ妙なり。されど百畳の広間にて茶を玩ぶの工夫もなかるべからず。掛軸と挿花(そうか)と同時にせずといふも道理ある事なり。されど掛軸と挿花と同時にするの工夫もなかるべからず。室(へや)の構造装飾より茶器の選択に至るまで方式にかかはらず時の宜(よろ)しきに従ふを賞玩(しょうがん)すべき事なり。
 何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ましき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその結果の有効なる程度に止めざるべからず。
 茶道に配合上の調和を論ずる処は俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客各□そのきまりを乱さざる処甚だ西洋の礼に似たりとある人いふ。(三月三日)
 誤りやすき字左に
 盡は書畫の字よりは横画一本少きなり。聿(いつ)の如く書くは誤れり。行書(ぎょうしょ)にて聿の如く書くことあれどもその場合には四箇の点を打たぬなり。
 □と□とには点あり。この点を知らぬ人多し。
 學覺などいふ「かく」の字と與譽などいふ「よ」の字とは上半(じょうはん)の中の処異なり。しかるに両者を混同して書ける者たとへば學の字の上半を與(よ)の字の如く書ける者書籍の表題抔にも少からず。
 ※[#「内」の「人」に代えて「入」、47-7]兩共に入(にゅう)を誤りて人に書くが多し。
 喬の夭(よう)を天に誤り、※[#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、47-8]※[#「門<壬」、47-8]の壬(じん)を王に誤るが多し。
 傘は人冠に人四箇に十なり。しかるに十字の上にも中にも横の棒を引く事古きよりの習ひと見えたり。
 吉の士(さむらい)を土に誤り書く者多し。
 舍は人冠に舌なり。されど人冠に土に口を書きし字も古き法帖(ほうじょう)に見ゆ。
 臼の下の処は一を引くなり。兒も同じ。されどこの一の棒の中を切りて二画に書くは書きやすきためにや。
 鼠(ねずみ)の上の処は臼(うす)なり。しかるにこの頃□(ろう)の字を書く人あり。後者は□獵臘などの字の旁(つくり)にて「ろふ」「れふ」の音なり。
 易は日に勿なり。賜の字。□の字など皆同じ。されど陽揚腸場楊湯など陽韻(よういん)に属する字の旁は易(えき)の字の真中に横の棒を加へたるなり。
 □獺□懶などの旁は負なり頁(おおがい)に非ず。
「ちり」は塵なり。しかるに艸冠(くさかんむり)をつけて□の字を書く人あり。後者は艸名(そうめい)(よもぎの訓あり)ならん、「ちり」の字にはあらず。こは塵(ちり)の草体(そうたい)が艸冠の如く見ゆるより誤りしか。
 解は角(つの)に刀に牛なり。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:176 KB

担当:FIRTREE