沈黙の水平線
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著者名:牧逸馬 

      1

 嘗つてそんな船は存在もしていなかったように、何らの手懸りもなく、船全体から乗客、乗組員の全部が、そっくり其の儘、海洋という千古の大神秘に呑まれ去った例は、古来、かなりある。が、この行方不明船のなかでも、ここに述べる客船ワラタ号 The S.S Waratah の運命は、比較的近頃の出来事であり、そしてまた此の種の怪異のなかで最も有名な事件であると言えよう。一万六千余噸の大客船が、文字通り泡のように、何処へともなく消え失せたのである。まるで初めから空想の船で、てんで実在していなかったかの如く、その船客と乗員とともに、完全に蒼い無の中へ静かに航行して行ったのだ。一団の煙りが海面を這って、やがて吹き散らされ、水に溶け込むかのように――。
 一九〇九年、七月二十六日、ワラタ号は倫敦(ロンドン)へ向けて南亜弗利加ダアバンの港を解纜した。乗組員は船長以下百十九人、船客九十二人。英本国・濠洲間の定期客船で、この時は帰航だった。濠洲を発して此の南亜のダアバンへ寄港したもので、今も言ったように倫敦を指しての復航だから、ダアバンの次ぎの投錨地は、同じく南亜の突端ケエプ・タウンである。新造船で、ロイドの船籍簿にはA1――いの一――の級別(クラス)に登録された当時最新式の優秀船、処女航海を済まし、二度目に濠洲へ行った其の帰りだった。処女航海は何事もなく終り、船長も、その試験航海の成績に特にこれと言う異状は認めなかったが、ただ、何うも大洋へ押し出してすこし暴(し)けて来ると、何となく船の安定が悪いように感じて、この第二回の、そして最後の航海に出航する際も、船長は始終ちょっとそれを気にしていたという。一体、船は人と同じで、デリケイトな有機体だ。兎に角、七月二十六日ダアバンを出帆したワラタ号は、翌二十七日の午前、ワラタより少し小さなクラン・マッキンタイア号に洋上で追い付いている。このクラン・マッキンタイア号が、ダアバンを出港以後のワラタ号を見かけた唯一の船だが、この時は健康なワラタ号だった。当時のことで、両船ともまだ無線の設備はない。モウルス信号の旗を檣頭に靡かせて、海の騎士達は慇懃に挨拶を交換する。
「本船はワラタ号、ケエプ・タウンを指し航行中なり。貴船の船名、及び目的地は?」
「本船はクラン・マッキンタイア号。同じくケエプ・タウンに向う」
「貴船の安全且つ幸福なる航海を祈る」
「感謝。貴船に対し同様に祈る」
 海の通行人は礼儀深い。舷々並んだ時、この交驩の国際語を残して、ワラタ号は大きいだけに速力も早いのである。忽ちのうちにクラン・マッキンタイア号を遙かに追い抜き、軈がて水平線上一抹の黒煙となり、点となりて消えて終う。これは、ワラタ号が後に続くクラン・マッキンタイア号の視界から逸し去ったばかりでなく、此の時をもって同船は地球の表面から消え失せたのである。まるで何か大きな手が海を撫でて、船をも人をも、拭い除(と)ったかのように、ワラタ号は未だに消えたまんまだ、測り知れない海の恐怖と、神秘を残して――。
 爾来、「SSワラタ」の名はロマンティック――乗っていた人の身になれば余りロマンティックでもないが――海洋怪奇談の随一に挙げられ、詩人の夢によって幾多の詩となり、多くの作家の空想を刺激しては雄大壮麗な海洋冒険小説を生み出している。事実このワラタ号の運命にヒントを得た少年向き物語の中で、明治の末以来日本に飜案紹介されているものも尠くない。
 これは後日の事で、さて、話しは、船足の遅いために此の時追い抜かれて、ずっと背ろに取り残されたクラン・マッキンタイア号の上に移る。
 先年筆者は、一月元旦に濠洲のシドニイに着き、一月、二月と、われわれの住むこの北半球でいう冬の盛りを彼地で暮らして、南半球の真冬が何んなものであるかを経験している。正確には、それは真冬ではなく、真夏なのだ。赤道を境いに、南北の夏と冬が倒錯する。元日に筆者の発見した濠洲は、眩惑を覚える程強く日光を反射している白い砂浜と、濃い椰子の影との三伏の風景であり、大きな日傘の下に交通巡査が立って、ヘルメット白服の通行人が暑熱に喘いでいるのが、如何にも奇異に感じられたシドニイの街路だった。
 南半球では、一月二月は真夏で、七、八が真冬――と言っても、われわれ北半球人が概念するような冬ではないが――に当る。これは南亜も同じことだ。
 で、七月の末、ダアバンからケエプ・タウンに到る南亜弗利加の海上である。冬のことで、毎日緑灰色の海が大きく畝り、空は、暗い。濡れた帆布のような重い風が、時どき大粒の雨を運んで、鴎も、この遠い港と港の中間までは船を追って来ないのである。地球の真下に当る黒い海を、放浪の貨物船(トランプ・フレイタア)クラン・マッキンタイア号は、退屈な機関の音を立てて刻むように進んで行く――。
 一説には、このダアバンからケエプ・タウン迄の航海の間に、クラン・マッキンタイア号は未だ何の船も経験しなかった程の大暴風雨に逢ったとも言うし、また別の説には、暴風雨(あらし)に遭遇したことは事実だけれど、この季節の此の辺の海ではよくある程度のもので、決して非道い荒れではなかったともある。それから、第三説には、暴風雨どころか、冬の南海には珍らしいほどの凪ぎで、風一つない穏やかな日和(ひより)が続き、クラン・マッキンタイア号は静か過ぎる位いしずかな航海を持ってケエプ・タウンへ入港したのだとも言う。三つの記録物に夫れぞれ主張が別れていて、今となっては確かめようもないが、いま仮りに第一の説に従って話しを進めて行くと、ワラタ号に追い抜かれた二十七日の夜晩くからかけて、翌二十八日一ぱい、その、航海の歴史にないほどの猛烈な暴風雨に出っくわしたクラン・マッキンタイア号は、約二昼夜揉みに揉まれた末、予定が遅れて、やっとのことで飜弄されるように目的地のケエプ・タウン港へ送り込まれた。入港と同時に、規則に依り、途中、後から来たワラタ号に追い抜かれて信号を交し、同船――ワラタ号も、此のケエプ・タウン港に向っていることを聞き知ったが――と、クラン・マッキンタイア号から早速ケエプ・タウン海事局へ届け出る。それとともに、そのワラタ号と別れてから記録的な大暴風雨に襲われ、そのため遅着した事も併せて報告された。ワラタはまだケエプ・タウンに入港(はい)っていない。が、誰も未だ心配する者はなかった。クラン・マッキンタイア号の言うような、何んな大荒海(しけ)があったにしたところで、その小さなぼろ船でさえ可うやら突破して来た位いだから、同船より遙かに大きく新しいワラタ号が、乗り切れない筈はない。皆そう考えて、ワラタ号は予定が遅れただけで今にも港外に姿を現すであろうと、待ち構えていた。きっと機関に何か故障が起って、跛足(びっこ)を引くような具合に、ぶらぶらやって来ているのだろう。エンジンが参ったり、その為めに応急舵制動機(ジュリイ・ラダア)でも掛けていたりすると、虫が這うように暇のかかるものだから、遅れているのに不思議はない、と、そう話し合って、最初は比較的呑気に構えていた。ところが、二日が三日となり、四日と過ぎても、ワラタ号は、ケエプ・タウン港外の水平線上に浮かび上って来ない。そこで、真剣に騒ぎ出した。船客の家族や友人達が、憂慮に閉ざされてケエプ・タウンの船会社支店へ殺到する。が幾ら訊かれても、会社のほうにも、発表す可き何らのニュウスが這入っていないのである。ワラタ号は、まるで夢の船のように、波の上に掻き消されてしまった。海がぽっかりと口を開けて、船と、其の不幸な人々を呑んだものとしか言い様がない。クラン・マッキンタイア号が、同じ方向の水平線の彼方に去り行くワラタ号を見送った後は、割りに往き来の多い航路なのにも係らず、同船を見かけた船は一隻もないのである。難破船らしい船影を認めたとか、或いは漂流貨物、非常時に船足を速めるために、犠牲に投げ棄てる所謂打荷の破片――そういった、難船につきものの手懸りも、何一つ発見されない。
 出帆したダアバンと、到着すべきケエプ・タウンと、二つの港で大騒ぎを演じているうちに、日は経って行く。

      2

 大颶風の時などには、普段人家に近い海岸に沿って流れてる木片、器具の毀れ等が、遠く沖に攫い出されて、潮の調子で群がって漂流し、素人眼には、宛然(さながら)難船でもあった現場のような観を呈することがあるものだが、この時は、こういう現象さえもなく、ワラタ号の行方は何うにも説明の附けようがないことになった。英国政府は特に駆逐艦を出動させる。その他、南亜海岸防備船、会社の捜索船、ケエプ・タウンとダアバン両市の義勇船隊、海洋関係の諸団体の呈供した夥しい捜索船、沿岸を点綴(てんてつ)する村々から出た漁船の群れ、土人舟に到るまで、南亜の海の全勢力を挙げて大規模の捜査を開始した。これが数箇月続く。が、ワラタ号の神秘を解く可き鍵の瞥見だに獲られない。難船なら難船で、何らかの形でそう認めることの出来る痕跡――例えば漂流物などを発見するのが普通だが、度びたび言う通り、此の場合は何一つそういう手掛りもないのだ。絶望と確定した後も、青錨汽船会社(ブルウ・アンカア・ライン)は尚三箇月間、責任の捜索船を置いて、延べ航程一万五千海里も附近一帯の海上を遊弋(ゆうよく)させてワラタ号の破片でもと探し求めたが、これ又何の得るところもなかった、爪立ちして待っている陸の会社へ、捜索船隊は次ぎつぎに失望を齎して帰って来る。最早ワラタ号の行方不明に関して、一つとして満足な説明はないのである。今日まで無い。
 その当時、多くの人が多くの理論を提げて、此の神秘に断案を下すべく現れた。
 A説――ワラタ号は機関に重大な故障を生じて、廃船状態の儘、まだ何処かの洋上を漂っているに相違ない。きっと舵のコントロウルを失って、遠く南極洋へ彷徨い出たのだろう。そうだと、不安と飢餓と寒気が、乗っている人を一人ずつ歯のこぼれるように殺しつつあるだろう。そして、その行手に待っているものは、文明社会との永遠の絶縁だけだ。
 B説――いや、そうではあるまい。水の漏る箇所が出来たか、或いは、浪が高くなって甲板上の開いた船艙(ハッチ)から浸水し、そのために、そっくり船の形のままで沈没したに決まってる。だから、破片や屍体が一つも浮かばないのだ。
 C説――それならば、クラン・マッキンタイア号の報告した大暴風雨を受けて、あっという間に安定(バランス)を失い、忽ち覆伏したものと考えるのが一番簡単ではないか。殊に、今度の第二回の航海に出るに当り、処女航海の経験に徴してワラタ号の船長は、非常に船の安定を気にしていたという事を思い合わすならば、此の想像は最も妥当性のあるものとなる。
 この解釈が一般に行われて、今もそういうことになっているのだが、しかし、此れは何処までも、クラン・マッキンタイア号の報告するような大暴風雨が事実あったものということを前提にしての話しである。尤もワラタ号は「頭の重い(タップ・ヘヴイ)」気味があって、何うかすると非道く動揺し易い傾向の船だったことは、色いろ証拠が残っている。荷物も、うんと積んでいたらしい。で、荒海(しけ)を食らって揺れが激しくなる。船艙(ハッチ)の荷物が動いて片方へ寄る。こうなると傾斜は直らないところへ、益ます猛烈に浪をかぶる。一際大きな怒濤が来れば、即座に万事解決、簡単に引っくり返るであろうことは想像出来るのである。濠洲からダアバンまでワラタ号に乗って来て、余り「頭が重く」て揺れの激しいとこに、不安を感じて旅程を変更し、ケエプ・タウン港まで行く筈だったのが、他の便船に依る心算(つもり)で急にダアバン港でワラタを下りた客が一人あった。普段から信神深い人だった――か何うかは知らないが、差詰め夢枕か何かで、神のお告げでもあったのだろう。実に運の好い人で、虫の知らせでこのダアバン、ケエプ・タウン間のワラタ号に乗っていなかったばっかりに助かった訳だが、この人は、幾らか船の知識や経験があったらしく、今も言ったように、濠洲からダアバンまでのワラタの揺れ具合いで、こいつあ危ないと感じたのだ。ほかにも、この前の処女航海に乗った人があちこちに現れて、皆ワラタは「頭の重い」の感じで不安な船だったと口を合わしている。これらが一層覆伏説を裏付けて、ワラタ号は大颶風に捲き込まれて瞬く間にくるりと船底を見せ、海中深く呑まれ去ったもの――という臆説が、先ず満足に近い解決として今日に及んでいるのだが、併し、それにしては、あれだけ長期に亙る大規模の捜査に係らず、船体の破片、船具、荷物、屍体などが、一つとして発見されないのは確かに神秘である。何か漂流しているか、海岸に流れ着くか、兎に角、一万七千噸もある大客船が沈没した以上、何かしらそれだけの証跡がなければならない。あるのが理窟であり、また常例でもある。ところが、くどいようだが、ワラタ号の最後を語る何らの発見物も無いところに、この事実物語の魅力があるので、ワラタ号を題材にした幾多の海洋冒険小説は、実にこの点に生れた。或いは、全員、海図にない無人島に漂着して新しい社会を営んでいることの、そこでは、新型式の結婚――九十二人の船客の中には女性も沢山いたに相違ない――によって子孫が殖え、新しい都会と、農作と、議会と、牧畜と、産業と、平和と闘争と秩序と、一言には、すべて新奇のそして小型の人類生活が開始されているというのやら、あるいは、いまだかつて人間の知らない海の巨大動物が現れて、ワラタ号を人諸とも一呑みにしたのだことのと[#「したのだことのと」はママ]、怪異な事実によってスタアトした空想は、限りなく伸びる。見て来たような話しが伝わった揚句、おれこそはワラタ号の生き残りだなどと言い出すいんちき人物も、其処此処に現れたものだ。筆者らが少年時代に胸を轟かせた押川春浪式の読物は、多くこの「ワラタ号後日物語」といった形式のものである。全く今でも、ワラタ号の人々は何処か絶海の孤島に生きていて、理想的な小さな共和国でも作っていると思っている、物語的な人があるかも知れない。沈黙の水平線上に、人は自由にロマンスを描く――雲の峰のように。
 過去百数十年間にさえ、大小二十余隻の軍艦や汽船が、何らの手掛りなく海上に消え失せているが、これら海の怪異の記録の中でも、斯うしてワラタ号事件は比較的最近の出来事であり、当時の事情其の他から観て、実に独自(ユニイク)な位置を占めているのだ。
 以下少しダブるが、全経過をもう一度詳述してみる。
 S.S. Waratah は、英国青錨汽船会社(ブルウ・アンカア・ライン)―― The Blue Anchor Line ――所属の、会社自慢の一等船で、遠洋向き客貨物船だった。バアクレイ・カアル造船会社によって、クライド船渠(ドック)で建造された。船体の各部、設備とも、凡べて船主であるB・A・Lブルウ・アンカア・ライン側の明細な注文に従って作られたのだ。双推進機式(トウイン・スクウル)、船首船尾に三層の装鋼甲板、排水量一万六千八百噸、前に言った通りに、無電の装備がないだけで、万事に近代科学の精を集めた当時の最新船である。一九〇八年の十月に進水して、通商局とロイドの審査を受ける。「百点(ハンドレッド)、A1」としてパスしたが、B・A・Lの意向では、この船は喜望峰廻り濠洲行きの、主として移民船に設計した関係上、内務省移民局の検査も受けなければならない。やがてそれも通過して、船長は処女航海も、第二の、そして最後の航海もイルベリイ氏―― Captain Ilbery ――で、この人は、一八六八年に船長として青錨会社(ブルウ・アンカア)に入社してから、この一九〇九年、事件が起るまで四十一年間、ずっと事故無しで荒海を乗り廻して来たB・A・L切っての海の古武者(つわもの)だった。

      3

 処女航海から帰英した時、老船長イルベリイ氏は、ワラタ号に別に不完全なところはないが、只ドックへ這入るのにバラスト――安定を与えるために船底に積み込む砂、砕石、又は水の類――の重みを藉りなければならない程、すこし安定が取れていないようだということを、会社へ報告した。すると、丁度其の時会社は、竣工期限超過の日割払戻金の問題で、バアクレイ・カアル造船所との間にごたごたを生じていた際だったので、早速この、船長のレポウトをその戦術に利用して、新造船ワラタ号は、二年前同じ造船所で進水した姉妹船 The Geelong 号に較べて、著しく安定が悪い。そして安定の悪いのは造船の不出来だから、約束の値段を負けろという談判を始めた。何でもかんでも負けさせるのが目的だから、この、ワラタ号の不安定という事は、会社側から非常に大袈裟に相手方の造船所へ通じられ、また外部の船舶関係へ向っても幾分声を大にして呼ばれた訳である。で、ワラタ号が不安定であるということは、斯ういう事情から、事実以上に宣伝されて、そのために船長も会社も、ちょっと自繩自縛的に困惑を感じていた位いなのだった。が、品物が出来て渡して終ってから、けちをつけられて値引きをされたのでは遣り切れない。バアクレイ・カアル造船所も躍起になって、断じてそんな事はないと言い張る。空船(カラ)でも、荷物を満載しても、ワラタは立派にバランスが取れていると言って一歩も退かない。かなり長いあいだ大喧嘩が続いた。この争論の最中に運命の第二航海に上ったので、そう言えば最初から問題の多い、嫌な船だった。
 英国の植民地政策華やかなりし時代である。英濠間を結ぶ生命線上第一の花形として、竣工の翌年、一九〇九年四月二十七日に、ワラタ号は濠洲へ向けて第二回の航海に出発する。イルベリイ船長、コックス機関長、T・ノルマン一等運転士の他は、高級船員から乗組員全部、この一航海だけを期間に雇われた者許りだった。船と一緒に行方不明になるために、この乗組契約に署名のペンを走らせた人達だ。前に言ったように乗組員百十九名濠洲の港にあちこち寄港した後、七月七日、アドレイドを出帆する。Adelaide ここは、タスマニア海峡をすこし北上したところで、筆者も訪れたことがある。如何にも濠洲らしく鄙びてはいるが、鳥渡した港町で、大学などもある。このアドレイド港で濠洲に離れたワラタ号は、同月二十五日に南亜のダアバンへ着き、補炭とともに、新たに二百四十八噸の貨物を積み込む。で、一万噸以上の積荷で二十六日ダアバン港を出たと言われているが、次ぎの寄港地は、何度も言う通りにケエプ・タウンである。翌二十七日の午前六時に、ワラタ号より数時間先だってダアバンを出港し、イースト・ランドンへ向っていた例のクラン・マッキンタイア号―― The Clan Mackintyre ――を追い抜く。その時、両船の間に交換した信号の会話の中に、
 クラン・マッキンタイア「濠洲よりの途、貴船は如何なる天候を持ちしや」
 ワラタ「南西及び西の稍強風、横風(アクロス)」
 クラン・マッキンタイア「Thanks, Goodbye Pleasant passage」
 ワラタ「Thanks, Same to you, Goodbye.」
 などと言っている。人間同士の立話しのようで、この、船の挨拶というものは仲なか面白い。が、此の時は、面白いなどという騒ぎではないので、これがワラタ号の最後の声だった。
 そこで、またクラン・マッキンタイア号だが、もう一つの記録によると、こうしてワラタ号に追い残された日の午後から、軽い南西の風が起って、ちょっと浪が高かったが、決して厄介な程の天候ではなく、殊にクラン・マッキンタイア号よりずっと大きなワラタ号は、何ら荒れを感じなかったろうとある。そして其の南西の風も間もなく止んで、後は北西の微風に変り、至極く平穏な航海だったと言う。こうしてここでは、ワラタ号が暴風雨(あらし)のために覆伏したという推測を、完全に覆伏している訳である。
 このクラン・マッキンタイア号がケエプ・タウンに入港して、それから、ワラタ号の後からダアバンを出帆した船も、幾つとなく同じコウスを通ってケエプ・タウンへ着いた後までも、ワラタ号は遂に姿を見せないので、ようよう騒動は大きくなったのだ。ケエプ・タウンへ来る途中、クラン・マッキンタイア号は、二十七、八日の両日に、ワラタ号の他に十隻の船を海上で見かけている。それに、若しワラタ号が遭難したものならば、何かしら其の証跡――桿浮標(スパア)、救命帯、甲板椅子、屍体など、比較的浮揚力の多い物――が現場附近の海面に流れていて、船の運命を暗示していなければならないことは前に言った。ところが、これも何度もいうようだが、そういう発見物は何一つないのである。
 では、ほかにワラタ号を見た船はないか。
 ハアロウ号―― The Harlow ――という小さな貨物船。これが七月二十七日に、南亜の海岸を去る一哩半から二哩半の沖合いを、北東に向って航行していた。同日午後六時、船長のジョン・ブルウスという人が、約二十哩の距離に汽船の黒煙らしいものを認めたが、煙突のけむりにしては太く、高く上り過ぎているような気がしたので、一等運転士に向って、おい、あの船は火事じゃないかな、と言ったが、そのうちに暗くなると、其の黒煙の見えた方に当って、今度は、檣頭灯が二つと、赤い船尾の側灯とが眼に這入った。二時間程して、ハアロウ号がヘルメズ岬の沖一哩ほどの海上に差掛った時、気がつくと、それらの灯は約十二哩背ろに近づいて来ていて、それはハアロウ号より遙かに大きく速い船が、後を追って迫って来ているような印象を受けた。此の時ブルウス船長は、コウスを安定(セット)するために一寸海図室に入り、直ぐ船橋(ブリッジ)に引っ返したのだが、見ると、後方に、二つの明るい火が、「燃えるように」輝いていた。それが、不思議な事には、一つは海面から千呎、もうひとつの閃火(フラッシュ)は約三百呎高い夜空の中空に眺められたのだ。汽罐の爆破か何かで火が打ち上げられたのではないかと、ブルウス船長は言ったが、一等運転士は簡単に、野火です、この時候には、この沿岸の断崖上に非常に野火が多い、それがああして空に火が燃えているような錯覚を起して見えるのですと、軽く打ち消した。先刻ハアロウ号の後を追って来ているように見えていた船の灯は、この時分にはもう、何処へ行ったのか、すっかり消えて終っていた。只これ丈けの事で、ブルウス船長もそれ切り忘れていたのだが、其の後ワラタの失踪を耳にして、この、実見したところを参考にまでと申出て来た。が、これだけでは如何にも薄弱であり、それに、甚だ矛盾している点が多い。第一、そのハアロウ号の後方に望見された灯が、果してワラタならば、同船は何らかの理由で航路を転じてダアバン港へ引っ返す途にあったものと考えなければならない。そういうこともあり得なくはないけれども、これは矢張り他の船の灯で、そして空高く燃えていた火というのは、一等運転士の言う通り、ヘルメズ岬の野火だったのだろう。海の、殊に、南の夜の海の空気は、様ざまの魔術を起して、経験ある船乗りの眼をさえ、狐につままれたように迷わすことがある。ブルウス船長の眼は、其の時、この、南海の闇夜のマジックにかかって何うかしていたに相違ない。
 ゲルフ号―― The Guelph ――という船も、最後にワラタ号を見たと言う。このゲルフ号はユニオン・キャッスルの近海廻りで、二十七日午後九時半――ハアロウ号のブルウス船長が船影らしいものを認めてから三時間余の後――イースト・ランドンに近いフッド岬を去る八哩手前の海上で、約五哩隔たったところに大きな客船の灯を見た。で、二隻の船は、例に依ってモウルス信号灯を掲げて会話を始めようとしたのだがゲルフ号の船橋で信号をしている三等運転士ブランチャアドは、何うしても相手の信号を読み取り得なかった。向うのモウルス・ランプの灯が非常に薄いのである。で、ブランチャアドはこの事を航海日誌にも記さなかったのだが、ナタアル港へ着いてからワラタ号事件のことをきき、思い出してこの事実を報告したのだけれど、これも何うやら、他の船だったらしいと言われている。第一、時間が合わないのである。若しこれがワラタ号だったとすれば、同日午前六時にクラン・マッキンタイア号を追い越してから、その日の夜九時半までに、ワラタは、たった七哩しか前進していない勘定になる。ところがワラタ号は時速平均十三ノットの、当時としては快速船なのだ。尤も、何か機関部の故障で、のろのろ航行していたのかも知れないと考え得られるけれど、それなら、この同じコウスを後から来る例のクラン・マッキンタイア号に追い抜かれなければならない。尠くとも、再び同船の視野に這入っている筈である。

      4

 客船トテナム S.S Tottenham の二等運転士が、八月十一日に、イースト・ランドンとバッシイ河口との間に二、三の屍体が浮かんでいるのを見たと言った。赤いドレッシング・ガウンに包まれた七、八歳の少女の溺死体が、浪のあいだに漂っていたというのだ。この話しは詳細を極めたもので、少女は深紅の頭巾をかぶり、黒い靴下を穿いて、両膝が露出していたという。この「赤いガウンの少女」は、その後もあちこちの海に現れて、多くの船員の眼に止まっている。年齢は見る人に依って十歳とも十二歳とも言われたが、何時も膝がむき出しで、黒い靴下をはいて波の間に間に浮かんでいる。ジイン・オリファント号という船の機関長も、この少女の屍体を見たと断言しているし、今いったトテナム号の一支那人火夫も、「Red girl in water」と証言するようにいった。そこでトテナム号の船長カックス氏は、わざわざ船を引っ返して、少女の浮かんでいたという海面を捜してみたが、その時は何も見えなかったと言う。飜車魚(サン・フィッシュ)でも見誤まったのだろうということになって、その二等運転士と支那人の火夫は、うんと叱られたが、二人は、確かに「赤いガウンの少女」だったと主張して止まなかった。ジイン・オリファント号や其の他の船で此の少女の屍体を見たというのは、ずっと後のことで、何うも怪談のような、掴まえどころのない話しに終っている。S.S Insizwa という船の船長も、八月半ばの晴れた日の海面に、矢張りバッシイ河口に近く、この「赤いガウンの少女」を認めたとある。そんなら何故ボウトを下ろして収容しなかったのか、そこは何とも言っていない。船の名や人名など尤もらしく色いろ出ているものの、恐らくこれは、よく斯うした怪奇事件に附きものの、根も葉もない噂に過ぎなかったのだろう。
 ワラタ号の行方捜査に当っては、英本国から派遣された三双の軍艦の他に、濠洲政府は Seven 号を出して一箇月半、約二千七百哩を巡航させたし、B・A・Lは特にセエビン号―― The Sabine ――を傭船(チャアタア)して、九月十一日にケエプ・タウンを出帆して八十八日間、実に一万四千哩以上の海面を捜索せしめている。これが最後の捜査だったが、このセエビン号は、ちょっと興味のある理論を立てて捜索に従事した。と言うのは、この十年前、一八九九年に、ワイカト号 Waikato という船が、丁度ワラタ号が失踪した通りで遭難し、航路を外れて長く行方不明だったことがある。このワイカト号は一と月程後に、聖(セント)ポウル孤島の近くに漂流しているところを発見救助されたが、セエビンはここに着眼して此処らに特殊の潮の流れがあるに相違ないと観、記録にあるワイカト号の漂流の跡を忠実に辿って行ったのだが、軈て果してセント・ポウル島には着いたものの、矢張り、ワラタ号に関する手がかりは杳(よう)として挙がらなかった。
 前にも言ったことだが、斯うなると、色んな連中が物識り顔に、勝手な事をいって現れる。船体の上部が重過ぎて、大体航海に適しない船だったことの、そう言えば、やれドックでも一遍引っ繰り返ったことの、いや、アドレイドでは浅瀬へ乗り上げたの、ジェリイみたいに船体に締まりが無く、処女航海でも甲板がばらばらに緩んで、おまけに救命艇は飾り物だったし、第一、あの船は、静かな海でも滅茶苦茶に揺れたものだ――などという類である。もっと不届きなのは、何時の時代、何処の国にも、人さわがせ屋(センセイション・モンガア)というものはあるもので、濠洲と南亜の海岸彼地此地(あちこち)で、空壜に這入った手紙や、遺書のようなものが六つも、浜に流れ着いたと言って届け出られた。まさに沈まんとするワラタ号から、誰かが其のメッセイジを書いて、壜に封じて海中へ投げ込んだものに相違ないと言うのだ。これが、六つの場所から六本提出された。生死の境に嫌に落ち着いて、死の哲学といったようなことを長ながと書いてあるのもあれば、女学生の詩みたいに変にセンチ一方のもある。そうかと思うと、如何にも倉皇の際に認めたらしく、字など狼狽(あわ)てていて殆んど判読出来ないながらも、沈没に到る経路を、可成り専門的に要領よく書いてあったり、中には、
「二十八日 午前二時三十七分! これぞ余に約束せられたる死の時間なりしとは! いま、船室にありて之を認め居る余の足は、既に海水に洗われ、膝を没せんとす。船内灯火尽(ことごと)く消えて、僅かに星明りにてペンを走らすのみ。余が妻は嬰児を抱きて、石像の如く余が傍らに立てり。相顧みて千万無量の微笑、最早や凡べては畢(おわ)んぬ。海中に投じらるるも離れじと、妻は今己が帯革もて、余と児と自らを縛しつつあり。おお神よ、今し余らは御許に急ぐ――」
 などというのがあって――これは原文を載せると余程面白いのだが、ちょっと長いから省く――驚いたことには、これにはちゃんと船客名簿に載っている人の署名までしてある。かと思うと、家族に宛てた細ごまとした書置き風のもあったが、当局が調査してみると、呆れたことには、この六つが六つとも立派ないんちきだった。好奇な悪戯者が、自分で書いて尤もらしく壜へ入れて持込んだり、或いはそっと海へ流し、人に拾わせて騒ぎを起そうとしたのだった。
 要するにワラタ号のことは、あの、二十七日の朝六時に、クラン・マッキンタイア号が前方の水平線下に黒煙を見送って以来、何も判らない。が、二百の人名と夥しい財物を積んでいる一万六千八百噸の船である。解らないがわからないでは済まない。会社の体面もあるし、何とか解釈をつけなくては、遺族へ顔向けも出来ないのだ。そこで、倫敦で船舶局の海事査問が開かれることになって、ワラタ号に対する一般の興味は、また、嫌が上にも掻き立てられた。海事裁判と言っても、生存者も証拠も何ひとつないのだし、それに会社支店の関係者、証人としての他船の船員などは、みな遠く濠洲、南亜から呼ばれて来るので、開廷は延び延びになり、事件後一年半を経た一九一〇年十二月十六日、倫敦のカックストン会館でひらかれた。査問委員長は治安判事J・ディッケンスンで、この海事裁判は二箇月続く。何時、何処で、如何にして、何故ワラタ号は沈んだか――若し沈んだものとすれば――と、この問題を解決しようというのが査問の目的だが、結局色いろと想像を持出して、それをまた多勢で反駁し合うだけのことで、どこまで行っても限(き)りがない。貨物の積み込み方が拙くて、片方へ寄ったのだろうという説も出たが、これは、ダアバンで積荷を請負ったマアシアルという人が出て、ワラタ号の船艙の見取図に就いて説明し、その疑いは氷解した。円材甲板(スパア・デック)に六百十四噸の石炭を積む能力があって、そのために安定を失ったのではないか、との話しもあったが、調べてみると、当時ダアバン港で二百五十噸の石炭しか取っていないことが判り、これも根拠のない事になった。海事工廠の造艦学泰斗ウイリアム・ホワイト卿、ロバアト・ステイル氏なども出廷して、参考人として意見を徴されている。殊にステイル氏は、ワラタ号の設計図を研究した後、暴風雨や浪ぐらいで覆伏するようなことは絶対にあり得ないと断言した。余程重大な、致命的な事故が起ったに相違ないというのである。とうとう、「神の御業」などという言葉まで出て来て、つまり一同は匙を投げて終った。B・A・L会社の支配人ランド氏は、最初からこの「神の御旨」を主張していたものだった。前に言った、濠洲からダアバンまでワラタ号で来て、危険を感じて下船したという人―― Mr. Claud Sawyer という弁護士だったが、その他、バアクレイカアル造船所技師ジェイムス・シャンク、姉妹船ジイロング号機関長メエスン、一等運転士オウエン、処女航海に乗ったエブスウオウスという新聞記者、ブラッグというシドニイの大学教授、これらの人々が喚問されて、ワラタに関する素人観を述ぶる。処女航海だけで下りたハアバアトというボウイなども現れたが、勿論何ら神秘を解く手懸りにはならない。一九一一年二月二十三日に此の査問会は閉じている。神の御業である以上、人間の知識で判定の下しようがないのに不思議はない。




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