舞馬
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著者名:牧逸馬 

「知らねえよおらあ、そんなこと。はははは」
「何とか言ってらあ――」
 茂助はてれてこう言った時、植木屋だけにちょっと洒落た柴折戸(しおりど)をあけて、売物の植木が植わっているなかを、家のほうへ歩いてくる下駄の跫音がした。特徴のある、引きずるような歩調が、峰吉の帰ってきたことを知らせていた。
「あ! 親方だよ」
 お八重は突っ立った。そして、
「おかみさん、何をするんだね」
 と茂助があわてているうちに、すうっと手を上げて電燈を消してしまった。
 くらい茶の間の縁側のまえまで来て、足音が訊いた。かすれている峰吉の声だった。
「お! 暗えな」と、それから「誰もいねえのかよそこに」
「はい」障子のなかからお八重が答えた。「お帰んなさい」
「おお、お八重か。もすは?」
「あのね――」
「うん」
「電気をね――」
「うん」
「――直して貰ってんの」
「電気が消えたのか」
「ええ。故障なの。だからね、もすさんに直してもらってたの。もう点くわ」
「そうか――もす!」
「へ。今つきます。もうすぐ」
 仕方なしにしばらく電燈をがちゃがちゃやったのち、茂助は頃あいを見てスウィッチを捻った。暗いあいだに、お八重がそこらの酒や小皿を片づけた。これでよしと見て、
「つきました――お帰り――」
 茂助が障子をあけると、庭には松の枝に月がさすきりで、誰もいなかった。

          3

 その晩、それから間もなくだった。娘のいる近所の湯屋が火事になって、二、三軒にひろがって朝まで燃えつづけた。
「はい、点きました――お帰り――」
 さっき、こういって障子をあけて見ても、いままで声のしていた親方がどこにもいないので、茂助もお八重もいささか怖いような気がして、それからは障子を開け放して、二人とも縁側に出て何ということもなく話しこんでいた。
 すると、夜中に近くなって、また峰吉が帰ってきたが、すぐ寝るというので、めいめいその仕度にかかった。すりばんが鳴って、湯屋から植峰へかけての空が真赤になったのはこの時である。峰吉は副小頭、茂助は梯子の係りとして、装束を固めて逸早く本部へ駈けつけて行った。そこから勢ぞろいして火元の湯屋へ繰り出したのだが、その夜は乾いた北西が吹いていて、どうにもならなかった。で、比較的大きくなって明方に及んだ。
 ところが、さわぎはこれだけではなかった。というわけは、湯屋の焼跡から二つの焼屍体が発見されたのだった。一つは湯屋の娘おとめちゃんで、他の一つは茂助だった。だから、こうして茂助を殉職消防夫として死後表彰することになったのである。
 怪火だった。火の気のあるべきはずのない物置から発火したとあって、放火だろうと警察が活躍していた。おとめちゃんの死んだのは逃げおくれたからで、これは気の毒だがまず致方(いたしかた)ないとしても、茂助は、事実世評のごとくおとめちゃんを助けに這入って死んだものなら、恋仲だろうが何だろうが消防夫として火事で死んだ以上は、町としてうっちゃってはおけない――よろしく町葬にすべし、表彰すべしというので在(ざい)から茂助の伯父伯母を呼んで、ちょうど火事から三日後の今日が、そこでこの茂助の町葬の日なのである。
 午後三時、町の有志をはじめ消防夫一同が役場のまえに集って、行列をつくって智行寺(ちぎょうじ)へねりこむことになっている。
 いそがないと間にあわない。植峰では、副小頭の峰吉が、お八重を急がせて羽職袴(はおりはかま)をつけていた。縞の銘仙(めいせん)に、紋の直径が二寸もある紋付を着て、下にはあたらしいめりやすが見える。こうして見るとうちの人も立派な男ぶりだと思いながら、お八重はうしろから袴の腰板を当てている。そのくせ、弟のように思っていたもすさんの葬式だもの、これが泣かずにおられようかといって、眼を真赤にしているのだ。泣きながら、なぜ自分は茂助の子なんか生むようなことになったんだろう。しかし、このおじいさんが茂助のように力づよくあたしを可変がってくれたら――そうだよ、きっとこれからはもっともっと眼をかけてくれるよ。そうしたら、これはおとっつぁんの子なの、えええ、おとっつぁんの子ですともさ――峰吉は火事以来黙ったまんまだ。
「ねえ、おとっつぁん」お八重がいう。「もすさんの死んだ時どうだったのさ」
 これは何度となくお八重が発した質問である。「なに、何(ど)うだったといったところで」峰吉ははじめて口をひらいた。「おりゃあ見ていたわけじゃねえから――」
「うそ、うそ、うそ! そりゃあうそだ」
「――?」
「それ御らん。あんた、何も言えないじゃないか」
「それが、だからよ、おりゃあ見てたわけじゃなし――」
「お湯屋のおとめちゃんが死んでお気の毒さま」
「何を言ってるんだ」
「けどねえ、おとめちゃんともすさんとは惚れあってた仲なんですからね」
「だからよ。心中だろうってみんなも言ってるじゃねえか。止(よ)せ。面白くもねえ」
「そらね、二人が心中したというと直(す)ぐ怒る」
「てめえこそもすのこととなると嫌にしつこいじゃねえか。そのわけをあとで聞くからな、返答を考えとけ」
「わけも何もあるもんか。一つお釜のご飯を食べてた人が死んだんだから――それに、心中でもないものを心中だなんて!」
「こら! 口惜しいかよ、お八重」
「くやしかないさ。口惜しかないけど――おとっつぁんもあんまりじゃないか。死人に口なしだと思って――」
「だからよ、誰も心中だとは言い切ってやしねえ。心中のようなものかも知れないと――」
「ようなものもあるもんか。ふん! 自分が殺しといて」
「これ、お八重、何をいう?」
「おとっつぁんが殺したんだろう?」
「誰をよ?」
「もすさんをさ。火をつけたのもおとっつぁんだろう?」
「しょうのねえ女(やつ)だ」
「そら! もうそんな蒼い顔をしてる! ねえ、おとっつぁんが殺したんだ。ほかの人に聞けば、もすさんはあの晩纏いを持ってお湯屋の屋根へ上ってたってけど、梯子がまといを持って屋根へ上るわけはないじゃないか」
「やかましいっ! 纏持ちの源が手に怪我して――」
「うそをお言いでないよ、うそを。あたしはね、源さんにききましたよ。手に怪我をしたのは火事の最中で、最初(はな)行った時に、お前さんが源さんからまといを取って、もすさんに渡して、もすや、今夜おまえこれを持って俺と一しょに屋根へ来いって――」
「そうよ。そうすると、屋根へ火が抜けたんだ。なあ、見るてえと下におとめちゃんが燃えてる。いいか、よせってのに、もすの野郎が覗きこんでて動かねえから、もす、さあ来い、下りべえと俺が言った拍子に、あの水だ、滑りやがる――」
「へん! そこを一つ突いたんだろう」
「誰を?」
「もすさんをさ、滑るところを」
「何を言やがる! 助かるものなら助けてえって下の娘を覗いてやがるから、おれが――」
「突いたんだ。ついたんだ、やっばり突きおとしたんだ!」
「ばか言え!」
 峰吉は土いろをしていた。一生懸命だった。袴へ片足入れたまま、羽織の袖をひろげて茂助の滑る真似をして見せた。それは、いまにも泣きだしそうな不思議な顔だった。
「こうよ――いいか――こう滑って、足をはずして――こう廻ってな、な、こう――いいか、こう――」
「突き落したのかい」
「そうじゃねえってのに! ただこう右足が左足に絡んでよ――いいか、こう転がってよ――」
「もういいじゃないの。何だなえ、嫌だよ、へんな恰好をして――わかったっていうのに」
 お八重はとうとう笑い崩れた。きょとんとして、峰吉が首すじの汗をふいていると、いきなり御めんと障子があいて、巡査が顔を出した。
「あ! 旦那!」峰吉は尻もちをついた。
「何です、にぎやかですねえ。あ、これね、署長があんたへ渡すようにと――なに、表彰文だよ、校長さんに書いてもらったんでね、あんたが式で読むんだそうだ。や、では」
 巡査が行こうとすると、お八重が、「あの、旦那」
 と呼びとめた。峰吉はぎょっとして表彰文を読み出した。
「何だね」
「いえ、あの、お世話さまでございました」
 巡査が立ち去ると、あとは峰吉の大声だった。
「消防組梯子係り故石川茂助君は、資性温順(しせいおんじゅん)にして――資性温順にして、か、何だこりゃあ――職に忠、ええと、職に忠――忠、忠、と――」
 ちゅう、ちゅうが可笑しいといってお八重は腹を抱えた。で、峰吉は、汗と涙で濡れた顔を、出来るだけ「滑稽」に歪めて、黒子(ほくろ)の毛を引っぱりながら、いつまでもちゅうちゅうちゅうちゅうとつづけていた。
(〈新青年〉昭和二年十月号発表)



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