女肉を料理する男
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著者名:牧逸馬 

こうなると、もうこれは、人事を超越した自然現象のように思われて、初めのうちこそ恐怖に戦(おのの)いてその筋の鞭撻を怠らなかったロンドン市民も、日を経(へ)るにしたがって慣れっこになり、他人事のように感じだし、そこはユウモア好きな英国人のことだから、いつしか新聞雑誌の漫画漫文に、寄席のレヴュウに舞踏会の仮装に、このジャック・ゼ・リッパアが大もて大流行という呑気至極(のんきしごく)な奇観を呈するにいたった。するとまた、この人獣をこういうふうに人気の焦点に祭り上げるのは風教(ふうきょう)に大害あり、第一、不謹慎きわまるとあって反対運動がおこるやら、とにかく、肝心の犯罪捜査を外れた傍(わき)道に種々の挿話を生んだものだが、この、漫画に出てくる「ジャック」、舞台や仮装舞踏会の彼の扮装(ふんそう)は、かならずその、あまりにも有名な「長い黒の外套(がいとう)」を着ることにきまっていた。それほど、この犯人とは切り離すことのできない外套である。彼はこれを、犯行の際はいちじ脱いでかたわらへ置き、「手術」をすますと同時に血だらけの着衣の上からこの外套を着て、それで血を隠し、行人の注意を逃れて平然と往来を歩いて帰宅したものであろうと想像するにかたくない。さもなくて、血を浴びたままの姿でたとえ深夜にしろ、どんな短距離にしろ、道中のできるわけがないからである。そして、この目的のためには、それはたしかに「黒く」かつ「長い」ほうが便利だったに相違ない。イースト・エンドは眠らない町である。男を探す夜鷹(よたか)と、夜鷹をさがす男とが夜もすがらの通行人だ。場末とはいえ、けっして淋(さび)しい個所ではない。それにその時は、毎夜戒厳令(かいげんれい)のような大規模の非常線が張りつめられて、連中の捜査に疲れた警官も倦(う)まず撓(たゆ)まず必死の努力を継続した。不審訊問はだれかれの差別なく投げられた。些少(さしょう)でも疑わしい者は容赦なく拘引(こういん)された。その網に引っかかっただけでも、おびただしい人数といわれている。しかるに、その間を、たったいま人を殺し、屍体を苛(さいな)み、生血と遊んで、全身絵具箱から這い出したようになっているはずの男だけが、この密網の目を洩れてただの一度も誰何(すいか)されなかったのだ。否、誰何されたかもしれないが、追及すべく十分怪しいと白眼(にら)まれなかったのだ。この点が、そしてこの一点が、全リッパア事件の神秘の王冠といわれている。前後をつうじて数千数百の人間が、街上に停止を命じられ凍烈な質問を浴びせられ、身分証明を求められ、即刻身体検査を受けているのに――眼ざすただ一人の人間だけついにこの法の触手にふれることなくして終ったとは、なんという皮肉であろう!

        5

「斬裂人(リッパア)のジャック」は、何かのことでホワイトチャペル界隈(かいわい)の売春婦全部を呪い、相手選ばずその鏖殺(ほうさつ)を企てたのだというのが、いま一般に信じられているジャックの目的である。憎悪と怨恨(えんこん)に燃えて、その復讐欲を満たすために、かれはあれほど血に飽きるところを知らなかったというのだ。その根本の原因は何か! いまとなってはただ、そこにたんなる推定が許されるにすぎない。ジャックは、この付近の売春婦から悪性の梅毒でも感染し、それが彼の人生を泥土(でいど)に突き入れたのであろう。すくなくとも、彼はそう感じて、その自暴自棄(じぼうじき)の憤怒(ふんぬ)――かなり不合理な――が彼を駆って盲目的に、そして猪進(ちょしん)的に執念(しゅうねん)の刃を揮(ふる)わせ、この酷薄な報復手段を採(と)らしめたに相違あるまい。病毒の媒体としてもっとも恐るべきイースト・エンドの哀れな娼婦の一人が、肉体的に、また精神的に、ジャックの一生をめちゃくちゃにしたのだ。悪疾に侵されたかれの頭脳において、一人の罪は全般が背負うべきものという不当の論理が、ごく当然に醗酵(はっこう)し生長したかもしれない。
 その間も、ロンドン警視庁へは海外からの情報がしっきりなしに達していた。
 このすこし以前、北米テキサス州で、冬から早春にかけて、リッパア事件に酷似(こくじ)した犯罪が連続的に行なわれたことがあった。もっとも、ロンドンのほど野性に徹した犯行ではなかったが、同じような性器の解剖が屍(し)体に加えてあった。この被害者は、限定的に、同地方に特有の黒人の売笑婦だった。
 犯人は外国生れの若いユダヤ人であるといわれていたが、もちろん自余(じよ)のことはいっさい不明で、やはり捕まっていない。ロンドンでリッパア事件が高潮に達した時、テキサス州の有力新聞アトランタ・カンステチュウション紙は、この黒婦虐殺事件の顛末(てんまつ)を細大掲げて両者の相似点を指摘し、ジャック・ゼ・リッパアは、このテキサスの犯人が渡英して再活躍を始めたに相違ないと論じたが、その当否はとにかく、ロンドンでリッパア騒動が終塞(しゅうそく)するとまもなく、その翌年の初夏、同じような悪鬼的横行(おうこう)が今度はマナガ市の心胆(しんたん)を寒からしめている。
 マナガ市は、中央アメリカニカラガ共和国の首府である。同市に事件が発生すると同時に、ロンドン警視庁はさっそく同市警察に照会して該事件に関する委細(いさい)の報告を受け取ったが、それによると、書類の上では、犯罪の状況、生殖器の「斬り裂」き方、犯人をめぐる神秘の密度など、すべて「斬裂人(リッパア)ジャック」の手口と付節を合するがごときものがあって、ここに当然、ジャックはロンドンにおける最後の犯行後、大西洋を渡って中米に現われたのだという説を生じた。これは一見付会(ふかい)の観あるが、再考すればおおいにありそうなことである。はたしてニカラガの犯人がロンドンの屠(と)殺者ジャックであったかどうか――それは、ニカラガでも犯人は捕まっていないのだから、肯定するも否定するも、ようするに純粋の想像を一歩も出ない。犯罪もこうまで不思議性を帯びてくると、そこにいろんな無稽(むけい)の挿話が付随してくるのは当然で、ことに、犯罪者には、いよいよとなると自己を英雄化して飾ろうとする妙な共通心理があるものとみえる。それから当分、ほかの事件で死刑になるやつがきまって公式のように「この自分こそジャックである」と大見得の告白をするのが続出して、当局を悩ました。はじめのうちは公衆も沸いたが、われもわれもとぞくぞく流行のように、そう何人も自称ジャックが現われるに及んで、またかともうだれも真面目に相手にしなくなっている。
 ただ、テキサス犯人の若いユダヤ人がジャックではなかったかという説だけは、いまだにリッパア事件の研究者の間にそうとう重く見られている。ライオンスも、その夜の男の言葉に米国訛(なま)りを感得したと主張しているし、あの、セントラル・ニュース社へ宛(あ)てた手紙と葉書の冒頭語、Dear Boss なる文句は、明白にアメリカの俗語で、英国では絶対に使わないといっていい。が、例のパッカアだけは、葡萄(ぶどう)を売った客の言語にも、なんら米国を暗示するものは感じられなかったと言っているが、彼の応対はほんの瞬時であり、それは、声や語調は意識して変装(デスガイス)することもできるから、この点パッカアの証言はあまりあてにならない。
 それに、もう一つ、これは後から発表されたのだが、ハンベリイ街二九番事件の時である。被害者アニイ・チャプマンが格闘の際犯人の着衣から□(も)ぎ取ったのだろう、屍(し)体の真下、背中の個所に、一個のボタンが落ちていた。裏に、H&Qという小さな商標が押字してあった。このボタンの研究は、警視庁の依頼を受けてロンドン商工会議所が引き請(う)けた。そして、日ならずして、H&Qのボタンは、米国シカゴのヘンドリックス・エンド・クエンティン会社の製品であることが判明した。このゆいいつのそして表面漠として雲を掴(つか)むような手がかり――ほとんど手がかりとも呼びがたい――を頼りに、もっとも他にもなにかあったのかもしれないが、即日アンドルウス警部が警視庁を飛び出してそのままサザンプトンからニューヨーク行きの船に投じている。その筋の努力がいかに涙ぐましいものであったかは、この一事でも知れよう。が、このボタンの調査もなんらの結果を齎(もたら)さなかったとみえて、アンドルウス氏は、いつ帰ったともなく、まもなく空手でロンドンに帰ってきていた。
 数年後、マナガ市の精神病院で客死(かくし)した、かつてそうとう知名の外科医だった英国人の一狂人が、その死の床において、リッパア事件とニカラガ事件の真犯人であると告白したという話が伝わってきて、忘れかけていた世間を、もう一度「ジャック」の名で騒がせたことがあるが、もちろん完全なでたらめにすぎない。すくなくとも当局は一笑に付した。第一、「狂人の告白」というのからして、なんと、痛快なナンセンスではないか。




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