晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

平生暖かい筈の伊豆に一日寒波が襲来し、椿の大島に雪が積り、伊豆山には霰が降り故人を偲ぶわが涙は為に凍ると遠きより近きに及びその光景を抒しつつ未曾有の天気と結んだ手際のあざやかさ、洵に見事なものである。

捨て書きす恋し恨めし憂し辛し命死ぬべしまた見ざるべし

 これも紫の上のやうな若い人の歌で、たとへば草紙に手習ひをしてゐる様子を戯れて詠じたものと見てもよからう。底をついた表現とでもいひたいやうな歌ひぶりが面白い。

戸立つれば波は疲れし音となるささねば烈(はげ)し我を裂くほど

 十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。

麗色の二なきを譏りおん位高きを嘲(あざ)み頼みける才

 源氏の恋人達の中には一寸見当らない。清少納言は恋愛の対象として如何か。栄花の中の藤氏の実在人物にはあるかも知れない。或は作者自らもし平安時代にあつたら斯う歌ふであらうとも思はれる。私はあの人の様な美人ではない、あの人のやうに位も高くはない。しかし私にはあの人達の持つてゐない才がある。容色と位と才と男はどれを取るだらう、といふのである。作者に才を頼む心があつたので興が深い。

そこばくの山の紅葉を拾ひ来て心の内に若き日帰る

 十二年の秋の盛りに日光に遊ばれ、中禅寺湖畔に宿つた時の歌。この時は紅葉の歌が沢山出来てゐる。 水色の橡の紅葉に滝の名を与へまほしくなれる渓かな 掻き分けて橡の葉拾ふ奥山の紅葉の中に聖者もありと といふ様に色々の紅葉、その中には聖者のやうな橡紅葉もあつて、それを持ち帰つて並べて見ると雛でも飾るやうで久しく忘られた若い心が帰つて来た。

牡丹散る日も夜も琴を掻き鳴らし遊ぶ我世の果つる如くに

 牡丹散るとそこで切つて読むのである。またしまひは遊ぶ我が世と続くのであらう。咲き誇つた牡丹の花も遂に散つた、それを見た美女が私達は日夜管絃の遊びにふけつてゐるが其の終りもこんな風なのであらうと忽ち無常観に打たれた処であらう。

男体の秋それに似ぬ臙脂(えんじ)虎と云ふものありや無しや知らねど

 紅葉の真盛りの男体山を真向正面から抒して、まるで臙脂色の虎――もしそんなものがゐたら――赤い斑の虎のやうだといつたのである。しかし臙脂虎とは紅をつけた虎の意味で悍婦を斥すと辞書にある。従つてありやなしや知らねどといふ言葉の裏には悍婦の意も自ら含まれてゐるのであらう。又同じ時同じ山を詠んだ歌に 歌舞伎座の菊畑などあるやうに秋山映る湖の底 わが閨に水明りのみ射し入れど全面朱なり男体の山 などがあり、又戦場が原に遊んでは 宿墨をもて立枯の木をかける外は白けし戦場が原 さるをがせなどいふ苔の房垂れて冷気加はる林間の秋 といふ様なすばらしい歌もこの時出来てゐる。

男をば謀ると云ふに近き恋それにも我は死なんとぞ思ふ

 わたしといふ女はまあ何といふ女であらう。男をはかる位の軽い気持ではじまつたこの度の恋でさへ今私は死ぬほどの思ひをしてゐるとわが多情多恨を歎くのであるが、之も王朝のことにしないと味が出て来ない。

旅の荷に柏峠の塵積り心に古き夢の重なる

 柏峠は伊東から大仁へ越える峠で作者が、良人と共にいく度か通つた所である。見ると旅の鞄にほこりが厚くついて居る、柏峠のほこりだ。その様に私の心は往日の思ひ出で一杯だといふ情景を相応せしむる手法の一例である。この行それから湯が島に行かれたが、その道で 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の橋を越ゆれば伊豆寒くなる と詠まれ、又著いては 湯が島の落合の橋勢子の橋見ても越えてもうら悲しけれ と詠まれてゐる。

手に触れし寝くたれ髪を我思ひ居れば蓬に白き露置く

 家に帰れば夏の夜は早く明け、蓬には白玉の露が置く。手の先には寝くたれ髪の感覚がそのまま残つて居て、我は呆然として女を思ふ、白露の玉を見ながらといふこれも平安期の情景の一つ。

ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな

 [#全角アキは底本ではなし]御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

輦(てぐるま)の宣旨これらの世の人の羨むものを我も羨む

 手車に乗つて宮中へ出入することを許す宣旨であるから高い位の意味で、世人の羨む高い位を私も羨む。私は美しいからそれだけでよささうなものだが、手車で宮中へはいれる様な身分ならばとそれも羨しくないことはない。その位な想像をしてこの歌を読むもよからう。

川の洲の焚火に焦げて蓬より火の子の立てる秋の夕暮

 十二年の仲秋信濃の上山田温泉に遊んだ時の作。所謂写生の歌であるが、作者はこの歌に於て、尋常でない副景を描いて目に見えるやうに自然を切り取り、その上で之を秋の夕暮といふ枠の中へ収めて一個の芸術に仕上げてゐる。千曲川の川原蓬が焚火の火に焦げてそれが火の子になつて飛び出す秋の夕の光景、それをその儘抒しただけであるが、直ちに人心に訴へる力を備へ正に尋常の写生ではない。

□頭(かざ)したる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るる人の子の夢

 誰かあれ、欧洲語に熟した人があつたら試みにこの歌を訳して見たらと私は思ふ。或は既に訳されて居るかも知れない。この頃の晶子歌は相当訳されてゐて世界の読詩家を魅了したものであるから。この歌などはその内容だけで欧洲人は感心するだらうのに、日本人にはその言葉の持つ音楽さへ味はへるのだから喜びは重るわけだ。どうかその積りで味はつて頂きたい。敗残の我が民族もこんな詩を持つてゐるのだと世界に誇示して見たい。思ひ乱れるわが夢を形であらはさうか、それは髪にかざした牡丹が火になりそれが海に落ちて海が燃える、君看ずや人の心の海の火の、燃えさかる紫の炎を、それが私の夢の形だ。まづく翻訳するとこんな風にもならうか。

白波を指弾くほど上げながら秋風に行く千曲川かな

 晶子さんほど繊細で微妙な感覚の琴線を持つ人を私は知らない。欧洲の詩人の詩にはいくらもありさうであるが、わが国の少くも歌人の間には断じて第二人を知らない。千曲川を秋風が撫でて白波を立ててゐる。その白波の高さを指で弾くほどと規定して事象に具体性を与へ得るのは全く霊妙な直覚力によるもので、感覚の鋭敏な詩人に限つて許されることだ。

転寝の夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな

 とてもむつかしい歌で私にはよく分らないが、こんな風にとけるかもしれない。糸のやうな春雨が降つてゐる。静かにそれを見てゐるとこんな風な幻像が浮ぶ。男のうたたねの夢の中へ麗人が逢ひにゆく。その互ひ違ひにやさしく軽く運ばれる足跡が宙に残る。それが雨になつて降る。他の解があれば教へを受けたい。第五集「舞姫」の巻頭の歌で、作者も自信のある作に違ひないから慎重を期したい。

稲の穂の千田(ちた)階(きざ)をなし靡く時唯ならぬかな姥捨の秋

 山の上まで段々に田が重つてゐてそこへ秋風が吹いて来て稲の穂が縦にさへ一せいに靡く不思議な光景を唯ならぬの一句に抒した測り知れないその老獪さは如何だ。しかし同じ景色も之を平抒すれば 風吹きて一天曇り更科の山田の稲穂青き秋かな となる。

思ふとやすまじきものの物懲(ものごり)に乱れはててし髪にやはあらぬ

 これもむつかしくてほんとうは私には分らないが、代表歌の一つだから敬遠するわけにも行かず、強いて解釈する。すまじきものの物懲りとは勿論人を恋することで、恋などすべきでないことをした為お前の髪も心もすつかり乱れてしまつたではないか。そのお前が懲りずまにまた人を思ふといふのかと自分に言つてきかせる歌のやうにもとれるが、ほんとうは人称がないので私には見当がつかない。

寺の僧当山(たうざん)のなど云ひ出づれ秋風のごと住み給へかし

 姥捨の長楽寺での作。寺を正抒しては 秋風が稲田の階を登りくる姥捨山の長楽寺かな となるのであるが、それだけでは情景があらはれない。そこでこの歌となる。姥捨山は姥捨の伝説をもつ月の名所であるから坊さん得意になつて縁起か何かまくし立てようとするのを聞きもあえず一喝を食はせた形である。歌人だから風流に秋風のやうに住菴なさいといふだけで、折角の名所に住みながらそれでは台なしですよとは言はない。この歌に似た趣きのものが、嘗て上林温泉に遊ばれた時のにもある。曰く 上林み寺の禅尼放胆に物はいへども知らず山の名 僧尼をからかふ気持は昔からあるが元来笑談のすきな晶子さんにこの種の作のあることもとよりその所である。彫刻師凡骨などのお伴をした時は、その度によくからかはれたもので蜀山流の狂歌が口を突いて出た、それを皆で笑つたものだ。

白百合の白き畑の上渡る青鷺連(あをさぎづれ)のをかしき夕

 日常生活を一歩も出ない常識歌を作つて、それが詩でも何でもない唯言であることを忘れてゐる或は初めから御存知ない連中が斯ういふ作を見たら何といふだらう。作者の製造した景色で実景でないからそんなものは価値がない、また技巧も旨過ぎるなどといふかも知れない。しかしそんな批判はこの歌の値打を少しも減らさない。ゴエテに「詩と真実」といふ表題の本があるが、それでも分る通り、詩は真実ではないのであつて、絵そらごとといふ言葉のある様に虚の一現象である。写生が作詩の一方法であつて、この方法を取つてよい詩の生れることのあるのは否定できないが、あくまで一方法であつて全部ではない。詩は事実ではない。作者の精神の反映である。実の反映も虚であり、虚の反映はもとより虚である。美は虚であり詩は虚である。この詩は作者の空想にあらはれた美が結実し言葉に表現されたもので、丁度作曲家の脳裏に浮んだ美が形を為し音楽として五線譜上にあらはれるのと同じわけである。詩は言葉の音楽であり、音楽は音波のゑがく詩であり、等しく詩人の心の表現でその本質は同じものである。又モネの画面などは絵具で之を試みたものだ。この歌などは色彩の音楽を言葉で表現したものでそれ以上詮索は無用である。しかし強ひて試みれば和蘭陀のある地方又は輸出百合を栽培する地方などにはこんな畑もないことはあるまい。

更科の田毎の月も生死(いきしに)の理も瞬間に時移るため

 生死の理こそこの年頃作者の脳裏にこびりついて放れなかつたものの第一であらう。その作者に縁あつて姥捨の月を賞する日が廻つて来て、一夕田毎の月の実況を見た。しかし作者の場合には、その美に打たれる代りに、わが抱懐する哲学理念に比べて之を観察してしまつた。現在が次の瞬間に過去になる。生は現在、死は過去である。月が動き時が移る、その度に月影は一枚の田から次の田に移る、それが田毎の月で、前の田の月は死に、次の田の月が生れる。生死は二にして一、同じものの時を異にしてあらはれるものに過ぎない。さう作者は感じたのである。之を読むと作者は仏教哲学をもよく咀嚼してゐるやうである。

若き日のやむごとなさは王城のごとしと知りぬ流離の国に

 これも言葉の音楽の一つ。故あつてさすらひ人となつた現在を以て、若き日を囘顧すればそれば王城の様に尊貴な時であつたといふので、それだけのものであるが、わが民族の持つ言葉の音楽としてやがてクラシツクとなるであらう。さうして神楽や催馬楽の場合に亜がう。

更科の木も目あるごと恐れつつ露天湯にあり拙き役者

 上山田の温泉には露天湯があると見え、作者も物好きにそれに浸つて見た。入つては見たがそこら辺の木さへが目を持つて居て裸の私を見てゐるやうで恥しい、拙い役者が舞台の上でおどおどしてゐるやうな恰好は自分でもをかしい。木に目があるといひ、拙い役者といひ、短い詩形を活かすに有効な手段をいくらでも持ち合せて居る作者にはただ驚歎の外はない。露天湯の歌をも一つ。 我があるは上の山田の露天の湯五里が峰より雲吹きて寄る


日輪に礼拝したる獅子王の威とぞたたえんうら若き君

 前の若き日のやむごとなさの王城を生物であらはすと獅子王の威光となる。この辺の若い歌何れも晶子調が見事に完成した明治三十七年以降のもので、その内容も当時国の興りつつあつた盛な気分や情操を盛るもの多く、今日から振り返つて見ると洵に明治聖代の作であるといふ感が深い。単に調子だけでも二度とこんな歌は出来まい。

干杏(ほしあんず)干胡桃をば置く店の四尺の棚を秋風の吹く

 昔の東京なら駄菓子屋といふやうなものであらう。干杏干胡桃何れも山の信濃の名産、それを並べた店の四尺程のけちな棚を天下の秋風が吹く光景である。之は単なる写生の歌ではない、秋風が吹くといふ所に作者が強くあらはれて抒情詩の一体を成すのである。

我と燃え情火環に身を捲きぬ心はいづら行へ知らずも

 我と我が自ら燃やした情火ながら全身がそれに包まれてしまつた。さて心王は一体どこへ行つたのだらう、行へが分らない。これも我が民族の持つ最上級の抒情詩の一つで既にクラシツクになつてしまつた。私達は唯口誦することによつて心の糧とするばかりである。

更科の夜明けて二百二十日なり千曲の岸に小鳥よろめく

 前夜は出でて心ゆくまで姥捨の月を賞したのに、その夜が明けて今日は二百二十日だ。而して急に野分だつた風が吹き出し千曲川の岸では風の中で小鳥のよろめくのが見える。この歌ではよろめくが字眼でそれが一首を活かしてゐるのであるが、更科の夜明けての一句も大した値打ちを持ち、この一句で環境が明亮になるのである。

家七間霧にみな貸す初秋を山の素湯(さゆ)めで来しやまろうど

 赤城山巓大沼のほとりにその昔一軒の山の宿があつた。東京の暑気に堪へぬ高村光太郎君が夏中好んで滞在してゐた。そこへ一夏同君を尋ねて寛先生、三宅克巳、石井柏亭両画伯などと御一しよに私も行つたことがある。作者はこの時は御留守居であつたが、私達が吹聴したその風光にあこがれてその後子達を連れて登られ、途中雷雨の為にひどい目に会はれたことがある。そのために赤城の風光は一時御機嫌にふれてひどい嘲罵に会ひ、先に行つた私達のでたらめであつたと言はれたことを覚えて居る。しかしこの歌を読むとやはり当時のあの赤城の宿らしい感じがする。客など殆どなくその代りに霧が来て室を占領し、肴は山のものと大沼の魚だけである。それを山の素湯といひ、こんな所へよくいらつしやいましたといふわけである。

我が為に時皆非なり旅すればまして悲しき涙流るる

 これは上山田への途上千が滝のグリインホテルに泊つた時の作で、当時の心持がよく窺へる歌だ。家に居れば淋しさに堪へられない、そこで友を誘つて旅に出たが、旅に出て見れば家に居るにまして一草一木往時の思ひ出のしみないものもなく涙ばかり出て来る。それを一句に時皆非なりと簡潔に表現したのである。又その時の歌に わが友と浅間の坂に行き逢ふも恋しき秋に似たることかな といふのもある。

花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の風かな

 前の白百合の白き畑の場合と同じく色彩の音楽で、前のは初夏、之は仲秋の高原の心持であらう。それを旗さしものの風に靡く軍陣によそへて画面に印した迄である。

蜜柑の木門(かど)をおほへる小菴を悲しむ家に友与へんや

 相州吉浜の真珠荘は作者の最も親しい友人の一人有賀精君の本拠で、伊豆の吉田の抛書山荘と共に何囘となく行かれ、ここでも沢山の歌がよまれてゐる。今そこには大島を望んで先生夫妻の歌碑が立つてゐる。その蜜柑山に海を見る貸別荘が数棟建つてゐる。その一つを悲しむ為の家として私に貸しませんかと戯れた歌である。悲しむ家といふ表現に注意されたい。こんな一つの造句でも凡手のよく造り得る所ではない。

二十六きのふを明日と呼びかへん願ひはあれど今日も琴弾く

 過去、現在、未来を比べ、今年は私も二十六だ、過ぎ去つた若い日を未来に返し、も一度あの頃の情熱に浸りたい願ひはあるが、それもならず今日も一日琴を弾いて静かに暮してしまつた。作者二十六歳の作で実感だらう。

集りて鳴く蝉の声沸騰す草うらがれん初めなれども

 これも吉浜での作。油蝉の大集団であらうが、蝉声沸騰すとは抒し得て余蘊がない。しかしこの盛な蝉の声も実は草枯れる秋の季節の訪れを立証する外の何物でもないといふので、一寸無常観を見せた歌である。

萠野ゆきむらさき野ゆく行人(かうじん)に霰降るなりきさらぎの春

 これも言葉の音楽で別に意味はない、初めの二句はいふまでもなく額田の女王の歌茜さす紫野行き標野行きの句から出て居るのであるが、その古い日本語の音楽を今様に編曲して元に優るとも劣らないメロヂイを醸成してゐること洵にいみじき極みといふべきだらう。

わが踏みて昨日を思ふ足柄の仙石原の草の葉の露

 [#全角アキは底本ではなし]仙石原は函根の中でも作者夫妻の最も親しんだ所でその度に無数の歌が詠まれてゐる。これは朝露を踏みながらそれらを囘顧する洵に玉のやうな歌である。又 黄の萱の満地に伏して雪飛びき奥足柄にありし古事 といふ歌もこの時作られてゐるが之は昔私も御一しよに蘆の湖へ行く途上に出会つた雪しぐれの一情景を囘顧したものである。

春雨やわが落髪を巣に編みてそだちし雛の鶯の啼く

 春雨が降つてゐる、鶯が鳴いてゐる。この鶯こそ私の若い落髪を集めてこしらへてやつた巣の中でやしなはれた雛の育つたもので、いはゞ私の鶯だ。といふのであるが、少女の空想のゑがき出したものであつて差支ない。

吹く風に沙羅早く落つ久しくも我は冷たき世に住めるかな

 沙羅の花は脆いと聞くが、今日仙石に咲くこの花も風が吹く度に目の前で落ちる。落ちて冷い地上に敷く心地はその儘私の心地に通ふ。思へば私としたことが長い間冷たい世の中に住んでゐたものである。この様な感覚の共鳴によつて情と景との結ばれる例は余人の余り試みず、独り晶子歌に多く見られる処である。

遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに

 大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。日本人に斯ういふ勇気があつたればこそ満洲事変も起り大東亜戦争も起つたのであらう。雀が鳥の飛び方を知らないと凰を笑ふやうなものだ。

我もまた家思ふ時川下へ河鹿の声の動き行くかな

 十二年の夏多摩の上流小河内に遊んだ時の作。河鹿が盛に啼いたものらしい、その河鹿の声が川下の方へ移つてゆく、丁度その時私もまた遥か川下の家のことを思ひ出してゐた。同じ時の河鹿の歌に 風の音水の響も暁の河鹿に帰して夏寒きかな といふこれもすばらしい一首がある。河鹿に帰するとは何といふ旨い言廻しだらう。万法帰一から脱体したものであらうが唯恐れ入る外はない。

高き家(や)に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘鳴る

 これも亦日本語の構成する音楽。森々たる春の朝の感覚に鐘の声さへ加はつて気の遠くなるやうなリトムの波打つてゐる歌である。

荷を負ひて旅商人(あきびと)の朝立ちしわが隣室も埋むる嵐気

 これも小河内の夏の朝の光景である。川から吹き上げる嵐気が室にあふれる。この室ばかりではない。昨夜旅商人の宿つて今朝早く立つていつた小さい隣の室にさへあふれる。旅商人を点出して場合を特殊化した所にこの歌の面目は存し、それが深刻な印象を読者の心に刻むのである。この時の歌にはまた 渓間なる人山女魚(やまめ)汲み行く方に天目山の靡く道かな などいふのもある。

すぐれて恋ひすぐれて人を疎まんともとより人の云ひしならねど

 私はこの「人」を他人の意として解釈する。恋をする位なら人にすぐれた恋をし、人を疎む場合には之も人にすぐれて疎まうと云つたのは、それは他人ではなくもとより私自身であつた。それなのに実際はどうか。私にはこんな意味に取れるが果して如何。他の解あらば教へを乞ひ度い。

ことは皆病まざりし日に比べられ心の動く春の暮かな

 十二年の春四月の末つ方大磯でかりそめの病に伏した時の作の一つ。病まぬ日は昔を偲ぶをこととしたが、今病んでは事毎にまだ痛まなかつた昨日の事が思はれて心が動揺する。ましてそれは心の動き易い行く春のこととてなほさらである。この時の歌はさすがに少し味が違つて心細さもにじんでゐるが同時に親しみ懐しみも常より多く感ぜられる。二三を拾ふと いづくへか帰る日近き心地してこの世のものの懐しき頃 大磯の高麗桜皆散りはてし四月の末に来て籠るかな 小ゆるぎの磯平らかに波白く広がるをなほ我生きて見る もろともに四日ほどありし我が友の帰る夕の水薬の味 等があげられる。

われを見れば焔の少女君見れば君も火なりと涙ながしぬ

 これは作者自身の場合を正抒し、それを涙流しぬで歌に仕上げたものであるが、これほどのものも当時作者の外誰にも出来なかつたことを私は思ひ出す。

華やかに網代多賀をば行き通へ泣くとて雨よ時帰らんや

 多賀の佐野屋で網代湾に降る早春の雨を見ながら雨に話しかける歌。雨よ降るなら華やかに降つて網代と多賀の海上を勢ひよく往復するがよい、めそめそ泣いて降つたとて過ぎ去つたよい日は決して帰つてこないのだからと雨にいふ様に自分にいつてきかせるのである。

紫と黄色と白と土橋を胡蝶並びて渡りこしかな

 たとへば日本舞踊で清姫のやうな美姫を三人並べて踊らせる舞台面があつたとする。それを蝶に象徴するとこの歌になる。象徴詩はもと実体がないのであるから、読む者が自由に好きなものを空想してはめこむが宜しい。

瀬並浜宿の主人が率ゐつゝ至れる中にあらぬ君かな

 汽車が著いたので瀬並温泉の宿の主人が客を案内してどやどや帰つて来た。その中にも君は居ない。そんな気の迷ひはよさうと思ふがつい思はれるといふ位の感じであるが、目前の小景をその儘使う所にこの歌の値打ちが存するのであらう。

たたかひは見じと目閉づる白塔に西日しぐれぬ人死ぬ夕

 日露戦争は主として軍人の戦ひであつて国民はあまりあづからなかつた。せいぜい提灯行列に加はつた位のものである。非戦論も大して咎められなかつた。当時の青年層は大体に於て我関せず焉で、明星などその尤なるものであつた。晶子さんは一歩進んで有名な「君死にたまふことなかれ」といふ詩を作つて反戦態度を明かにした位で、問題にはなつたが、賛成者も多かつた。この白塔の歌はいふ迄もなく、遼陽辺の戦ひを歌つたもので白塔はまた作者自身でもある。

長岡の東山をば忘れめや雪の積むとも世は変るとも

 雪の長岡へ来て故人と共に遊んだ往年の秋を思ひ出し、雪景色とはなつたが、又世の中が変つて私は一人ぽつちになつて旅をしてゐるが、ここの東山をどうして忘れることが出来よう。誰にでも使へる様な平凡な言葉が平凡に組合されてゐるに過ぎないこの一首の歌が、反つて強く人の心に訴へる所のあるのは如何したことであらう。晶子歌の持つ不思議の一つである。この時の歌をも一つ。 我が旅の寂しきことも古へも我は云はねど踏む雪の泣く

遠方(をちかた)に星の流れし道と見し川の水際(みぎは)に出でにけるかな

 恋人達の試みる夏の夕の郊外散策の歌である。とうとう川に出ましたね、さつき星の流れた辺ですよといふのであらうが、尤も之はむかしの話で今日の様にどこへ行つても人のごみごみしてゐる時代にはこんなのどかな歌は出来ないであらう。

大海のほとりにあれば夜の寄らん趣ならず闇襲ひくる

 十二年の早春興津の水口屋に宿つてゐた時の作。家の裏は直ぐ大きな駿河湾で、大海のほとりにあるといふ感じのする宿である。日が暮れて夜が静かに忍びよるのではなく、この海辺に夜の来る感じは、いきなり暗闇(くらやみ)が襲ひかかるといふ方が当つてゐる。さうしてこの感じによつて逆に読者は自分も大海の辺に宿つてゐる気分になるのである。

春の宵壬生狂言の役者かとはやせど人はもの云はぬかな

 春の夜の恋人同志の小葛藤である。「壬生狂言」は京の壬生寺の行事となつてゐる一種の黙劇で決して物を云はない。即ちおこつて口をきかなくなつた相手をからかふのである。この狂言は念仏踊の進化したものでをかしみたつぷりのものらしい。従つてはやせどといふのである。

天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな

 久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ

春の海いま遠方(をちかた)の波かげに睦語りする鰐鮫思ふ

 終日のたりのたりかなでは曲がない。そこで遥か遠方に鰐鮫の夫婦を創造して彼等に睦語りをさせることにより、春の海の情調を具象させるのである。

君に教しふ忽忘草(なわすれぐさ)の種蒔きに来よと云ひなば驚きてこん

 この君は親しい女友達である。少しあの方の足が遠のいてゐる由の御たよりに接し意外に思ひます。しかし何でもないことですよ。斯う書いてやつて御覧なさい。春が来ました、忽忘草の種を蒔きに来て下さいと。それだけで驚いて来ますよと書き送る形であらう。これも明治の歌を代表するものの一つで、立派なクラシツクである。

薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま

 やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。外の役者ではだめである。これからの若い人達の為にこの間まで羽左といふ小さい天才役者のゐたことを書きつけて置いてこの歌の感じをよそへることにする。

君は死にき旅にやりきと円寐しぬ後ろの人よものな云ひそね

 別に説明を要しないであらう。唯その言葉の音楽の滑るやうな快調がほんとうに味はへれば、それでこの歌の観賞は終るわけである。

長閑なり衆生済度の誓ひなど持たぬ仏にならんとすらん

 同じく鉄舟寺での作。その時の住持は私も一度御目にかかつたが近頃珍しい老清僧で、知客、典座の役まで一人で引受けられる位気軽な、良寛ほども俗気のない方だつた。さういふ和尚さんを相手に何の屈托もなく春の一日を遊び暮す作者の心持、それがあらはれてこの歌になるのである。

君まさぬ端居やあまり数多き星に夜寒を覚えけるかな

 夫の留守を一人縁に出て涼んでゐたが、ふと夜空を仰ぐと降るやうな一面の星だ。それを見てゐると急に寒くさへなる。作者に於ては冴えた星の光と寒さとの間に何か感覚のつながりがあるであらう。

明星の山頼むごと訪ねきて積る木の葉の傍に寝る

 十二年の晩秋箱根強羅の星山荘にあつての作。明星の山は前の明星が岳である。あの山を頼みにして訪ねて来たのに、この落葉の積りやうは如何だ、まるで落葉の中に寝に来たやうだ。積る木の葉の傍に寝るとは何といふ旨さだ、唯恐入つてしまふ。

相人よ愛欲せちに面痩せて美くしき子によきことを云へ

 面痩せて美しき子即ち痩せの見える細面(ほそおもて)の美人が、愛欲の念断ち難く痩せるほど悩んで、未来を占はせてゐるのだ、人相見さん、ほんとうは如何あらうとこの人にだけはよいことをいつてあげておくれ、可哀さうと思ふなら。字面どほりに解釈すればこんなことになるのだが、相人が相人でない場合もあり得るので、別の解も出て来るだらう。それは鑑賞者の自由だ。

多摩の野の幽室に君横たはり我は信濃を悲みて行く

 十二年の秋大人数で奥軽井沢三笠の山本別邸に押しかけた折の作。この頃は時の作用で悲しみも大分薄らいで居られたが、軽井沢へ著いて歩いて見るとまた急に昔が思はれて、私は今かうして大勢と一しよに信濃路を歩いて居るのに同じ時に君は多摩墓地の墓標の下深く眠つて居るのだと自他を対比させ、も一度はつきり悲しい境遇を自覚する心持が歌はれてゐるやうである。

君帰らぬこの家一夜に寺とせよ紅梅どもは根こじて放(はふ)れ

 随分思ひ切つた歌である。晶子さんでなければ云へないことだ。しかし実際の晶子さんは、思想上の激しさに拘らず、どんな場合でも手荒なことの出来なかつた、つつしみ深い自省力を持つた人だつた。しかし女の嫉妬に美を認めて之をうはなり妬み美しきかなと讃美した作者は自身も相当のものであつた。この歌なども実感そのままを歌つたものと見てよからう。但し寺とせよといふ句は家を捐(す)てて寺とする平安文化の一事象から出て来たのであらうからその方に詳しい晶子さんでなければ云へない所だし、紅梅など根こじにこじて捨ててしまへなども実に面白い思ひ付きだ。

雨去りて又水の音あらはるゝ静かなる世の山の秋かな

 同じ時の歌。今思へば既に澆季に這入つてゐたといふものの、あの頃はまだ静かな世の中であつた、嘘のやうな話だが、それ故にこんな歌を詠めたのだ。晶子さんの事を思ふと私どもはいつもああいい時に死なれたと思ふ。晶子さんの神経の細さはとても戦禍などに堪へえられる際でない、さうしてその鋭さの故に、雨が止んで反つて水音の顕はれる山の秋の静けさもはつきり感ぜられるのである。同じ時朴の落葉を詠んだ歌に その広葉煩はしとも云ふやうに落とせる朴も悲しきならん といふのがあるが、この煩はしとも云ふやうな感じなどは、ただの神経の琴線には先づ触れない電波の一種ではなからうか。

やはらかに寝(ね)る夜寝(ね)ぬ夜を雨知らず鶯まぜてそぼふる三日

 今日の進歩した私達から見ればこの位の表現は何の事もないかも知れないが、明治三十七八年頃の事で作者も漸く二十七八にしかならなかつた当時、春雨が鶯をまぜて降るなどいふ考へ方をした作者の独創性(オリヂナリテ)は全く驚くべきである。快い春雨がしとしとと三日も続けて降つて居る、しかしその春雨も家の中の人が、一夜は何の気遣ひもなくよく眠れ、又次の夜はまんじりとも出来なかつたことなどは少しも知らない、唯鶯をまぜてしとしとと降るだけの芸だ。先づそんな意味であらうか。

白河の関の外なる湖の秋の月夜となりにけるかな

 十一年の仲秋岩代に遊び猪苗代湖に泊して詠んだ歌の一つ。猪苗代は緯度からいふと白河の関の直ぐ外側にあるのだからこれでいいわけだが、実は秋といふ季節が連想をそこへ運んだのかも知れない、例の秋風ぞ吹く白河の関の仲介で。そんなことは如何でもよいが猪苗代湖の秋の月夜のすばらしさが例の堂々たる詠みぶりから天下晴れてあらはれてゐる。

行く春や葛西の男鋏刀(はさみ)して躑躅を切りぬ居丈ばかりに

 今を盛りと咲き誇つてゐた躑躅も漸く散つて春も暮れようとする一日、一体に大きくなり過ぎてゐたそれらの躑躅の手入れに植木屋を入れた。来た職人は葛西寺島村の生れで堀切の菖蒲の話などをする。こんな案梅な歌であらう。行く春の郊外の静かな一日である。

後ろにも湖水を前にせざるものあらざる草の早くうら枯る

 同じ時裏磐悌の火山湖地帯にも遊んだが、その時の作。私は側まで行つてつひに行き損じたが、湖沼の水色のとても美しい処ださうだ。それで なにがしの蝶の羽(は)がもつ青の外ある色ならぬ山の湖 私ならカプリの洞の潮の色と恐らく云つたであらうと思はれる歌である。西洋の詩では句法が散文に比し大に違つてゐて誰も怪しまないのは、韻を踏む必要上さうしないことには文を成さないからである。然るに歌でも詩でも日本には韻を踏むといふ事がないから自由に歌へる。日本の詩歌には成るほど音数の制があつてリトムは具つてゐるが韻を踏むといふ厄介千万な習慣がないのではじめから自由詩のやうなものである。それだから句法も散文と違はないものが用ゐられるわけだ。しかし歌のやうな短いものの中へ、これからの新らしい複雑な思想を盛るには、形を壊してしまふか、新たに従来ない様な句法を採り入れるか何れかによらねばなるまい。前者は啄木によつて試みられたもの、後者は晶子さんが若い時乱れ髪でやつて成功しなかつた方法である。それに懲りてか晶子さんは成るべく之を避けた。教養の豊かな字彙に富んだ晶子さんなら避けることも出来るが、之からの若い人達にはそれは望めない。勢ひこれからは従来の散文にない新らしい句法のどしどし用ひられる時代が来よう。私はむしろそれを望む。この歌の初めの一句「後ろにも」は本来なら次の「湖水を」の次に来なくては意味が取りにくいのであるが、短歌のもつ制約の為にそれが顛倒したのである。こんな所からはじめて見たらどんなものであらうか。秋の進まないのに草の早く枯れかかつたのは、山の上だからでもあらうが、前後に湖沼を控へ朝夕その冷気を受けるからであらうといふのである。

うつら病む春くれがたやわが母は薬に琴を弾けよと云へど

 薬に琴を弾くといふ云ひ方は日常語では誰でも使ふが、歌の中で使つたのは晶子さんがはじめてでそれだけ、その効果は頗る大きかつた。今日の感じでもやはり面白いと思ふ。名工苦心の跡ではなく、唯の軽いタツチに過ぎないが面白い。

盆の唄「死んだ奥様(おくさ)を櫓に乗せて」君をば何の乗せて来らん

 信州松本の浅間温泉に泊つた時丁度盆で盆踊りを見た所、「死んだ奥様を櫓に乗せて」と唄ひ出した。さうだ盆といへば、君の帰る日であるが何に乗つて帰るのだらうと反射的に歌つたもので、をかしみをまじへた悲哀感がよく出てゐる。

牡丹植ゑ君待つ家と金字して門(もん)に書きたる昼の夢かな

 明治末葉寛先生のはじめた新詩社の運動には興国日本の積極性を意識的に表現しようとする精神が動いてゐた。この歌の如きもその精神のあらはれで、従来のか細い淋しい又はじみな日本的なものを揚棄して、一躍してインド的なギリシア的な積極性の中へ踊り込んだものである。この精神は相当長い間衰へずに作者の護持する所であつたが、時の経過は争はれず、晩年の作には段々かういふ強い色彩が見られなくなり、しまひにはもとの古巣の日本的東洋的なものに帰つてしまはれたのは是非もない次第だ。しかし之からの日本は再び明治の盛な精神に立戻るのであらうから、そこで若い晶子はどうあつてもも一度見直されねばならないのである。

大般若転読をする勤行(ごんぎやう)に争ひて降る山の雨かな

 十二年五月雨頃奥山方広寺に暫く滞留して水月道場の気分に浸られた折の作。大本山と呼ばれる様な大きな禅院では毎早朝一山の僧侶総出の勤行があり、さうして大抵は大般若経転読の行持も一枚挾まる様だ。転読とは御経を読むのではなく、めいめい自分の前の大きな御経の本を取つて掛け声諸共にばらばらつと翻すのである。それが揃つて行はれるので洵に見事なものだ。その時降つてゐた山の雨がその音を打ち消さうとしていよいよ強く降り出す光景である。方広寺の環境がよく偲ばれる歌だ。この時は又 奥山の白銀の気が堂塔をあまねく閉す朝ぼらけかな などいふ響のいい歌も出来てゐる。

秋の風きたる十方玲瓏に空と山野と人と水とに

 いふをやめよ、如斯は一列の概念であると。概念であらうと何であらうと優れた詩人の頭の中で巧妙に排列され、美しいリトムを帯びて再び外へ出て来た場合にはそれはやはり立派な詩である。この歌などは他の完璧に比し或は十全を称し難いかも知れないが尚、少し開いた所で野に叫ぶヨハネの心持で高声に朗誦する値打ちは十分ある。

鉄舟寺老師の麻の腰に来て驚くやうに消え入る蛍

 この鉄舟寺老師こそ先にも云つた通りの、一生参学の事了つた老翁の茶摘み水汲み徳を積む奇篤な姿である。一生の好伴侶を失つて淋しい老女詩人と少しもつくろはぬ老僧とがやや荒廃した鉄舟寺の方丈で相対してゐる。そこへ久能の蛍が飛んで来て老師の麻の衣にとまつた。とまつたと思つたら光らなくなつた。とまつた所が徳の高い菩薩僧の腰であることの分つた蛍は恐縮して光るのをやめたのである。驚くやうにといふ句がこの歌の字眼である。

川添ひの芒と葦の薄月夜小桶はこびぬ鮎浸すとて

 渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐて之もその一つである。それらはしかし東京の郊外となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の歌である。芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつた。夏の日も暮れて薄月がさしてゐる。岸には男の取つて来た鮎を窓のある小桶に入れたのを持つて水に浸けにゆく女がゐる。これも亦明治聖代の一風景である。

浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな

 三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、[#「、」は底本では欠落]そこを反つて興じたわけなのであらう。

わが哀慕雨と降る日に□(いとど)死ぬ蝉死ぬとしも暦を作れ

 君を思ふ哀慕の涙がことに雨の様に降る日がある。そんな日附の所へ、□死ぬ日、蝉死ぬ日などと書き入れた暦を作らせて記念にしたい。こんな心であらうが珍しい面白い考へだ。暦のことはよく知らないが昔の暦にはそんな書入れがあつたのであらう。これも当時から相当有名な歌であつた。

義経堂(ぎけいどう)をんな祈れりみちのくの高館に君ありと告げまし

 鞍馬山での歌。そこに義經を祭る義経堂がある。その前で祈つてゐる女がある。靜(しづか)さんのみよりのものでもあらうか、さうなら君は御無事で奥州秀衡の館に昔の様にして居られますと教へてやらうといふ歌だが、その裏にはこの女にはまだ君といふものがあるのに君のありかを知つてゐる私には反つてそれがないといふ意が隠れてゐる。

秋霧の林の奥の一つ家に啄木鳥(きつつき)飼ふと人教へけり

 故あつて失踪した人、恐らくは自分を思つてその思ひの遂げられぬことが分つた為に失踪したらしいあの人が、秋霧の深い山の奥の一軒屋にかくれ住んで啄木鳥を友として静かに暮してゐるといふ噂がこの頃聞えて来た。一つの解はかうも出来るといふ見本だ。読者は自己の好む儘に解いてそのすき腹を満たすが宜しい。

大阪[#「大阪」は底本では「大附」]の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏

 六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙[#「煤煙」は底本では「媒煙」]もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。その煙霞といつたのは写生で殊更に雅言を弄んだのではない。

後朝(きぬぎぬ)や春の村人まだ覚めぬ水を渡りぬ河下の橋

 川上の女の家を尋ねてのあした、村人さへまだ起きぬ早朝、朝靄のほのかに立ち昇る静かな春の水を見ては幸福感に浸りつつ河下の橋を渡つて家路に急ぐ心持であらう。晶子さんの所謂、恋をする男になつて詠んだ歌の無数にあるものの一つだ。

狭霧より灘住吉の灯を求め求め難きは求めざるかな

 何といふ旨い歌だ。これも十二年の初夏六甲山上の丹羽さんの別荘に宿られた時の歌。薄霧の中に麓の灯が点々として見られる。あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、故人がさうだ、だから求めても分らないものは初めから求めないことにした。眼前の夜景によそへてまたもやるせない心情を述べたものである。求めるといふ言葉の三つ重つてゐる所にこの歌の表現の妙も存するのであるが、誰にでも出来る手法ではない。

君に似しさなり賢こき二心こそ月を生みけめ日をつくりけめ

 私は君唯一人を思ふ、それだのに君はさうではなく同時に二人を思つてゐるやうだ、それは二心(ふたごころ)と云つて賢いのであらう、丁度天に日と月とがあるやうなものだ。しかし私は二心は嫌ひだ、どこまでも一人に集中する。それが愚かしいことであらうがなからうがと云ふので、之は晶子さんの初めからの信条であり又信仰でもあつた。それ故 やごとなき君王の妻(め)に等しきは我がごと一人思はるゝこと といふ歌もあり又 天地に一人を恋ふと云ふよりも宜しき言葉我は知らなく などいふのもある。

伊香保山雨に千明(ちぎら)の傘さして行けども時の帰るものかは

 十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿千明(ちぎら)の番傘をさして町へ出掛け物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。それは 氷よりたまたま大魚釣られたり榛名の山の頂の春 と歌はれ、又 我が背子を納めし墓の石に似てあまたは踏まず湖水の氷 といふ作も残されてゐる。

思はれぬ人のすさびは夜の二時に黒髪梳きぬ山ほととぎす

 少し凄い歌で人を詛ふ[#「詛ふ」は底本では「咀ふ」]やうな気持が動いてゐる。山の中の光景で、男に思はれない一人の女が夜の二時に起き出して髪を梳いてゐるとほととぎすが啼いて通つた。華やかなことの好きだつた晶子さんには斯ういふ一面もあつた。 誓ひ言我が守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る [#空白は底本では「。」]その魔に似る一面で、時には強烈な嫉妬の形を取つて現はれることもあつたやうだ。

雪被(かぶ)り尼の姿を作るとも山の愁は限りあらまし

 箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。山の愁はしかしそれだけのもの、形丈のものであらう。しかし生きてゐる限り私の心にある愁は何時迄も続いてゆくといふのである。

君が妻は撫子□して月の夜に鮎の籠篇む玉川の里

 これも昔の玉川風景の一つ。鮎漁を事とする里の若者をとらへて詠みかけた歌であらう。昼摘んだ川原撫子を簪代りに□した若い女房が月下に鮎の籠を編む洵にそれらしい情景が快く浮んで来る。

返へらざる世を悲しめば如月の磯辺の雪も度(ど)を超えて降る

 早春大磯に滞在中、雪の余り降らない暖かい大磯には珍しい大雪が偶□降り出した。返らない世を悲しむ私の心を知つてか知らずにか、この雪の降り方は尋常ではない。度を越した悲哀を形にして私に見せてくれる様でもある。そんな心であらう。この大磯滞在中の作には面白いのが多いから二三挙げよう。丁度節分だつたのでこんな歌がある。 大磯の追儺(つゐな)の男豆打てば脇役がいふ「ごもつともなり」 その大雪の光景は又 海人(あま)の街雪過ちて尺積むと出でて云はざる女房も無し と抒述されてまるで眼前に見る様だ。その雪の上を烏が一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、 この磯の一つの烏百羽ほど君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを 東京の吹雪の報の至れども君が住む世の事にも非ず と軽く片付けたのなど何れもそれぞれ面白い。

半身に薄紅(うすくれなゐ)の羅(うすもの)の衣纏ひて月見ると云へ

 さて如何いふ光景を作者は描かうとしたのであらうか、これだけでは分らない。読者は好む儘に場合を創り出してよからう。たとへば奥様は余り暑いのでベランダで半裸体になつて月を浴びてゐます、ですから御目にかかれませんと云へとのことですと小間使ひか何かに旨を含めて男を断るといつたやうな場合である。

我が手をば落葉焼く火にさし伸べて恥ぢぬ師走の山歩きかな

 自分では最後まで形の上でも若さを失はない様に努めて居られたが、年六十を越えて枯れきつた老刀自の面目はちよいちよいその片鱗を示し、これなどもその一つと見てよからう。

地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日の昇る時

 言葉といふ絵具を使つて絵を描く絵師がある。この作者もその一人であるが、若い時から特別の技量を具へてゐて容易に人の之に倣ふを許さなかつた。而して大きな光景を描く時に特にはつきり之が現はれたものである。この歌の如きもその一例である。白皚々たる積雪を照らして金の塊りの様な朝日が登つて来る、まるで一つの大きな白い蓮の花だ。作者の椽大な筆でもこれ以上の表現は先づ出来まいと思はれる極限まで書いてゐる。而して殆ど何時もさうである。

鹿の来て女院を泣かせまつりたる日の如くにも積れる落葉

 久し振りで平家をあけてこの行りを読んで見る。斯くて神無月の五日の暮方に庭に散り敷く楢の葉を物踏みならして聞こえければ、女院世を厭ふ処に何者の問ひ来るぞ、あれ見よや、忍ぶべきものならば急ぎ忍ばんとて見せらるるに、小鹿の通るにてぞありける。女院、さて如何にやと仰せければ、大納言佐の局涙を押さへて、岩根踏み誰かは訪はん楢の葉の戦ぐは鹿の渡るなりけり 女院哀れに思召して、此歌を窓の小障子に遊ばし留めさせおはしますとある。建禮門院は史上の女性の内でも作者の好んで涙を注いだ人で、既に前にもほととぎす治承寿永の歌を出したが、平家を詠ずる歌の中にも 西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな といふのがある。まだあるかも知れない。

水仙を華鬘(けまん)にしたる七少女氷まもりぬ山の湖

 赤城山頂の大沼は冬は一枚の氷となつてしまふ。それを切り出して氷室に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの産業になつてゐた。その大沼の凍つた冬の日の光景を象徴しようとしたもので、華鬘は印度風の花簪であるから従つてこの七少女も日本娘ではない、当時藤島武二画伯が好んで描かれたやうなロマンチツクな少女を空想して氷の番をさせたのである。ただ七少女だけは神武の伝説に本づくのであらうから少しは日本にも関係はある。

家家が白菊をもて葺く様に月幸ひす一村の上

 十二月の冬の月が武蔵野の葉を落した裸木と家根とを白く冷くしかし美しく照してゐる、それを白菊をもて葺くと現はし、月のお蔭でさうあるのを月幸ひすと云ひ又それを広く村全体に及ぼした差略など唯々恐れ入る。ことに月幸ひすとは何といふ旨さだ。

恐ろしき恋醒心何を見る我が目捕へん牢舎(ひとや)は無きや

 恋の醒めた心で見直すと光景は全く一変するだらう。美は醜に、善は悪に、実は虚に、真は偽に変るかも知れない。そんな恐ろしい光景を見ない様に私の目をつかまへて牢屋に入れたいが、そんな牢屋はないだらうかといふのである。目を牢獄につなぐといふ様な思ひ切つた新らしい表現法は当時から晶子さんの専売で誰も真似さへ出来なかつた。

思ひ出に非ずあらゆる来(こ)し方の中より心痛まぬを採る


 故人と共に過した四十年の人生は短いものでもなく随分忍苦に満ちた一生ではあつたが、生甲斐のあるやうに思つた年月も少くはない。私は既に年老い心も弱くなつたので、人の様に様々の思ひ出に耽る気力はない。今私の為し得ることは、一切の過去の出来事の中から老の心を痛ませない様なものだけを取り出して見ることである。それが私の思ひ出である。何といふあはれの深い歌であらうか。

今日もなほうら若草の牧を恋ひ駒は野心忘れかねつも

 こんなに好い事が重つてゐる、それだのに今日もなほ、野放しだつた頃、親の家に居て仕度い三昧に暮してゐた頃のことが忘られず、不満に似たやうな心も起きる、困つたことねと先づこんな風な心持ではないかと思はれるが、もと象徴詩の解釈だから、それは如何やうとも御勝手だ。

筆とりて木枯の夜も向ひ居き木枯しの秋も今一人書く

 之は寛先生の亡くなられたその年の暮に詠まれた歌であるが、之より先 源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず といふ身にしみる歌が作られて居り更に 書き入れをする鉛筆の幽かなる音を聞きつつ眠る夜もがな といふのもあつて、老詩人夫妻の日常生活がよく忍ばれるのであるが、それがこの場合は年も暮れんとし木枯しの吹きすさぶ夜となつただけに哀れも一しほ深いのである。

判官と許され難き罪人は円寝ぞしけるわび寝ぞしける

 判官は判事で男とすべきであらうから従つて罪人は女といふことになる。さてこの罪人の許され難き罪とは何であらうか。しかし裁判は終結しない儘休憩となり、ごろ寝をする、しかしもともと終結してゐないのであるから佗寝以上には進みやうがない。依つてその罪も相当重い罪であることが分るわけである。

冬の夜の星君なりき一つをば云ふには非ず尽く皆

 この歌が分りますか。私は一読して分らなかつた、多くの場合星を人に擬するや特定の光の強いものとか、色の美しいものとかを斥すやうである。然るにこの歌では満天の星屑尽く君だといふのであるから一寸様子が違つて分らなくなるのである。即ち星一つを一つの人格と見る癖があるので分らなくなるのではないか。もしさういふ先入見を取り去つてしまつたら如何か。作者の相対するものは星を以つて鏤めた冬の夜空全体であつて特定の星ではない。夜空全体が君となつて我に相対するのである、くり返して読む内にそんな風に私には思はれて来たが果して如何か。之も教へを乞ひたい歌の一つだ。

春の磯恋しき人の網洩れし小鯛かくれて潮煙しぬ

 春の磯を歩いてゐると静かに寄せる波が岩の間にもまれてぱつと小さい潮煙が上がる。おやと思ふと鯛の岩影にかくれる幻像が浮んだ。あの鯛はきつと恋しいと思つた人の網につひはいり損じ、ぷりぷりして岩の間にかくれたのだといふ空想が続いて浮ぶ。若い娘をかすめたいはれのない不合理な幻想ではあるが春の磯の気分がよくあらはれてゐる。

ことさらに浜名の橋の上をのみ一人渡るにあらねどもわれ

 十年の秋蒲郡に遊んだ作者は、ホテルの方にでも泊られたらしく 遠き世も見んと我して上層の部屋は借れると人思ふらん 又橋では 入海の竹島の橋踏むことを試みぬべき秋の暁 など詠まれてゐるが、その帰途出来たのが、昔なら「浜名の橋を渡るとて」といふ前書のあるべきこの歌である。殊更この橋の上に限つて一人で渡るのではない、どの橋も一人で渡り、どこへ行くのも一人きりだ。それだのにこの橋に限つて私一人で渡つてゐるやうな気がするのは如何いふわけだらう。浜名の橋といふ平安の昔懐しい名所の橋だからそんな気がするのだらうか。こんな風にも取れる歌である。

雲往きて桜の上に塔描けよ恋しき国を俤に見ん

 これも若い娘の好んで描く幻像あこがれを歌つたものらしく何のこともないが、その気分が歌の調子の上に如何にもよく出て居る。斯ういふ歌を朗誦すると私なども一足跳びに四十年位若くなる。

湖は月の質にて秋の夜の月を湖沼の質とこそ思へ

 この歌は如何あつても老晶子でなければ作れない歌だ。島谷さんの抛書山荘から上に中秋の明月が懸り下に吉田の大池のある風景を非絵画的に少しも形態に触れることなく、その本質のみを抽出して詠出したもので一寸類の少い作例である。しかも両鏡互に相映じて一塵をも止めざる趣きは同時に達人の心境でもある。

君まさず葛葉ひろごる家なれば一叢(ひとくさむら)と風の寝にこし

 茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。

裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の侮り難しあきらめぬ蝉

 これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。諦めないといふことも斯くては侮り難い。東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に 山裾に汽車通ひ初めもろもろの蝉洗濯を初めけるかな といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては もろともに引き助けつつこの山を越え行く虫の夜の声と聞く といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。

恋人は現身後生善悪(よしあし)も分たず知らず君をこそ頼め

 ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向(ひたむき)な心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。

松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁

 下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。こんな歌は、いくら作者でもさう沢山は出来ないと私は思ふ。その一読之亦何の奇もないところに高手の高手たる所因が存するのであらう。清水のやうな風味が感ぜられる。

形てふ好むところに阿ねるを疚しと知りて衰へ初めぬ

 女は己れを愛するものの為に形づくるといふ教へもあり、麗色は君の好む所であり我が好む所でもある。しかし容色の上に私達の愛は成立してゐるのではない、もつと精神的なつながりであり、全身全霊を以てするものである。だから、容色を整へる為に憂き身をやつすのはどうも面白くない。さういふ考へになつたため我が身に構はなくなつたり急に衰へてしまつた、困つたことになつてしまつた。表の意味はその通りであらう。しかし実は我が身の衰へ初めたのを気にして、それはきつと構はなくなつた為でその外に理由はないのだと自ら言ひわけをする心持を歌つたのではなからうか。

筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し諏訪蓼科は立縞の雨

 十年の八月八ヶ岳の麓の蓼科鉱泉に行かれた時の歌。夏の山の雨が立縞のやうに音を立てて降つてゐる。しかし西の空、その下は筑摩川が流れ、伊那の渓谷が横たはり安曇の連山の起るその西空には真赤な雲が出てゐる。周囲身近かな現象と山国信濃の大観とを併せ抒した素晴らしい歌である。

なほ人は解けず気(け)遠し雷の音も降れかし二尺の中に

 君と我との隔りは僅に二尺しかない。それに私の出来るだけのとりなしはして見たが、まだすつきりと心が解けない、そして寂しいうとましいこの場の空気は晴れようともしない。ええ一そのこと夕立がして私のきらひな雷でも鳴るがよい。さうすれば局面が展開されよう。それを二尺の間隔へ雷の音が降るとやつたきびきびしさはいつものこととは言へ感歎に値する。

荷を積める車とどまり軽衿(かるさん)[#「軽衿」はママ]の子の歩み行く夕月夜かな

 カルサンは即ち「もんぺ」で今では日本国中穿たざる女もないが、この間までは山国の女だけしかしなかつた。その「もんぺ」を穿いた女が、着いたトラックから降りて自分だけの荷を担いで夕月の中を我が家へ帰つてゆく。それを作者はなつかしさうに見送つてゐる。これも八ヶ岳山麓の月のある夕の小景で、カルサンといふ洵に響きのよい舶来語を使つて昔のもんぺ姿を抒してゐるのが面白い。今や漸く一般化した婦人の労働服をあらはす言葉としてこれを使つて見たら如何だらう。

わが鏡撓(たわ)造らせし手枕を夢見るらしき髪映るかな


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