晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

 これなどは昭和二十年春浅くとでもした方がどれ程適切か分らない。それにしても晶子さんはよい時に死んだものである。

天地崩(く)ゆ命を惜む心だに今暫しにて忘れ果つべし

 命を惜む心は人間最後の心であつて、それより先にものはない。その最後の心をも忘れる許りに恐ろしかつたのである。あの繊細な感覚の持主にして見れば無理はない。

空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月昇りきぬ

 二十五年も前の事だが九月二日三日とまだ烟の立ち昇る焼跡に昇つた満月の色を私は忘れない。日は沈み月は昇るがそれは空の事、人間世界は余震と流言と夕立とでごつた返してゐたのであつた。

十余年我が書き溜めし草稿のあとあるべしや学院の灰

 作者の新訳源氏物語の出たのは與謝野寛年譜によると大正元年になつてゐるが如何ももつと前のやうな気がする。この草稿といふのはそれは併し文語体を以てした抄訳であつた。詳細を極めた源氏の講義録のやうなものでそれを土台にして完訳を試みる積りであつたらしい。何しろ異常な精力をかつて十年間に書き溜めたのだから厖大な嵩のもので、麹町の家に置くことを危険として文化学院にあづけて置いたものである。それを焼いてしまつたのだからその失望の程思ひやられる。しかしその灰からフエニツクスのやうに復活したのが一人となつて晩年に書き出して遂に完成した新々訳源氏物語である。それがまるで創作のやうによくこなれてゐて他人の追随を許さないのも遠因はここにあるのである。

鈴虫が何時蟋蟀に変りけん少し物などわれ思ひけん

 鈴虫を聴いて居た筈であつたのに、どうしたことか蟋蟀が鳴いてゐる。いつの間に鈴虫は鳴き止んだのであらう、また何時蟋蟀が之に代つたのであらう、私は何か考へてゐたに違ひないといふのである。私は音楽を聴きながら常に之と同じ感じを持つ、何か物を考へて居てかんじんの曲を聞いてゐない、さうして時々気がついては曲に耳をかたむけるのである。これは私の音楽の場合であるが、蒲原有明さんの場合はそれが芝居で起るのである。蒲原さんは芝居を見て居て物を考へてしまふ、といふことは芝居を見てゐて見ないことを意味する。それ故に蒲原さんは決して芝居を見ないといふことを御本人から聞いて、私の音楽の場合と同じだなと思つたことがある。その最も軽いオケエジヨナルの場合がこの歌である。

思へらく岳陽楼の階を登りし人も皆己れのみ

 昔聞洞庭水。今上岳陽楼。呉楚東南拆。乾坤日夜浮。親朋無一字。老病有孤舟。戎馬関山北。憑軒悌泗流(杜甫)もしこの詩から出たものとすれば岳陽楼の階を登つた人とは杜甫のことになる。然らば「皆」の中には李白、白居易、蘇軾等々が数へられ、それらの詩人文人皆我が前身又分身である。私は自身をさう考へてゐるとなるのであらう。

皆人の歩む所に続く路これとも更に思はぬを行く

 我が行く路は荊棘の路であつて、因習に循ふ諸人の道にそれが続くとはどうしても思はれない。けれども私はかまはずそれを進んでゆく。晶子さんはこの心構へで一生を貫き通した人であつた。洵に壮なりといふべきである。

山の馬繋ぐ後ろを潜るには惜しき我身と思ひけるかな

 越後関山の関温泉へ行つた時作つたもの。たまたまかういふ破目に陥つたのであるが、何が幸ひになるか分らない。こんな面白い歌もその為に生れて来る。矜誇もこの位の程度なら誰でも同感出来るであらう。

海は鳴り人間の子は歎けども瞬きもせぬ沙の昼顔

 晶子中年の近代調を代表するものの一つで、この頃から晶子歌の世間性がなくなり、其の傾向は年を追ひて甚しくしまひには時代と詩人とは全くの他人となり終つたのである。それであるから世間の知つてゐる晶子歌は若い頃の比較的未熟なものに限られることになり、作者は常にそれを歎いてゐたが、しまひにはそれも諦めてしまひ、人に読んで貰はうなどと思ふことなく唯ひたぶるに詠みまくつて墓へ這入つてしまつたのである。成るほどこの歌の如きにしても 柔肌の熱き血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然とは行かない。男が一人悄然として物思はしげに立つてゐる。その前は涯知らぬ大海で汐がごうごう鳴つてゐる。沙の上に昼顔が咲いてゐるが何の表情も示さない。この三者を取り合せて一枚の絵を構成し、一小曲を組織したのがこの歌である。それ故にこの歌にあらはれてゐる美術なり音楽なりを受け入れる準備が読者に出来てゐなければ何のことだか分らないわけだ、それではいつ迄経つてもどうにもならないので私が今度これを書き出して少しづつ受け入れの準備をすることになつた訳だ。

妙高の山の紫草にしみ黄昏方となりにけるかな

 作者は何万といふ歌を作つたがその三分の二は所謂旅の歌である。旅の歌はしかし第三者には余り興味のあるものではない。而してそれが何十何百と一度に出て来られては堪らない、ことにそれが毎月続かれては尚堪らない。昭和五年雑誌「冬柏」が出てからはさういふ状態が最後まで続いた。よほど根気のよいものでなければ読みきれるものではない。私如きも正直にいつて読んでゐない。私の読んだのは改造社版の全集であるから既に作者の手で厳選を経た沙金のやうなものであつた。「晶子秀歌選」を作るに当つて私の閲した二万五千首はさういふ沙金歌で、その外にまだ本人の捨てたものが相当数ある訳でその内暇が出来たらこの沙の分も一度調べて見たいと思つてゐる。さうすると一生涯に作つた歌の数も概数が分つてくるわけである。閑話休題、さてその沢山の旅の歌の中で最も光つてゐるもう一つにこの歌を数へてよからう。大正十三年八月再度赤倉へ遊んだ時の作。落日をその背面に収めた妙高山の紫の影が山肌の草にしみ入る様を正叙したものであるが、光景は其の儘読者の脳裏に再現せられ、読者はその中で呼吸し得るのである。名歌とはさういふものでなければなるまい。

母我に白き羅与へたる夏より知りぬ人に優ると

 作者は自己の優逸を賞賛した歌を幾つか作つてゐるが、之を誇る色はない。唯因縁として運命として偶然として観ずる丈で誇るべきものとは思つてゐない様だ、そこが嫌味とならない所因である、この歌なども唯自覚した機会を美しく平叙するだけで少しも誇つてはゐない。

夕焼の紅の雲限り無く乱るる中の美くしき月

 西妙高から初まつて東信越の山々に終る大きな夏の空には真赤な夕焼雲が絵具皿の絵具のやうに散らかつてゐる。その雲の間に白い夕月がちんと収つてゐる。山の様子が少しも示されてないので唯の天球の歌と見るより仕方がないが実はさういふ環境で作られたものである。

長持の蓋の上にて物読めば倉の窗より秋風ぞ吹く

 堺の駿河屋の土蔵の中で更科日記か何か取り出して読んでゐる町娘の姿が浮んで来た。それは正しく自分である。倉の窓からは初秋風が涼しく吹き込んでゐた、丁度今日の様に。

深山鳥朝(あした)の虫の音(ね)にまじり鳴ける方より君帰りきぬ

 郭公がしきりに啼くのでどの辺だらうかとその方角を尋ねて居ると暁の露を踏んで早くから散歩に出た良人が、丁度その声のする方から帰つて来た。個中の消息誰か之を知らんといふ訳であらう。

古里の蓬の香など匂ひ来よ松立つ街の青き夕ぐれ

 正月の街は松が立つてゐて外に色がない為何となく青味が勝つて見える。そこに若草の萠え出る早春の感じが出て来る。さうして故郷の和泉平野の蓬の匂ひが今にもしさうに思へる。そんなことを思ひながら暮れてゆく正月の街を見てゐた作者であつた。さうしてさういふ正月の街も嘗てはこの東京にもあつたのである。

昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな

 夏の朝の山上の虹のいつまでも消えない消息を逆に喩への方から引出さうとするので、少し変だが有効な手段でもあるやうだ。

春立ちぬ人と為したる約束を皆忘れ得ば嬉しからまし

 大晦日から元旦にうつる気分は色々表現され得るであらうが、これなどはその最も適切なものの一つであらう。元来時に大晦日も元旦もあつたものではない。それすら人の約束である。一切の約束を忘れてしまへば空気が残るだけで、それがきれいさつぱり洗はれた立春の本来の姿でもある。

雲深き越の国なる関の湯に柄杓を持ちて人通ひけり

 関温泉はスキイ人のみが知る不便な山の上の昔風の温泉で私は行つたことがないが、柄杓を持つて田舎の湯治客の通ふ光景は想像することが出来る。その柄杓は湯を呑む為もあらうが、それよりも床に寝て湯を汲み上げて体にかける目的のものであらう。それほど旧式な山の湯の光景が第一句の雪深きに照応して分るのである。

うちつけに是は東の春の海鳴ると覚ゆる大鼓かな

 大鼓がぽんと鳴つた。さうしてぽんぽんと続くのを聞くといきなり春の海が寄せてでも来たやうな心持になつた。富士見町の家の直ぐ上に金春の舞台があつて鼓の音はそこから常にきこえて来た。或日突如として起つた大鼓の音がこんな風に聞こえたのであらうが、詩人が之を翻訳すると読者はゐながらにして反つて海潮音を聞くことにさへなる。

三千の裹(くわ)頭の法師山を出づこれは王法興隆の為め

 平家物語を詠じた歌の一つで、頭を裹(つつ)んだ叡山の山法師どもが日吉の神輿を担いで山を降る件である。鎮護国家の道場とあるから仏法王法何れを重しとする理由もないが、それは明かに仏法興隆のためではないから、勢ひ王法興隆のためであらうが果して如何かといふ様なことであらう。

白雲と潮の煙(けぶり)と妄執の渦巻く島の春夏秋冬

 これは俊寛僧都の歌、島は無論鬼界が島。白雲は有王島に著き初め山を尋ぬる件に「嶺に攀ぢ谷に下れども白雲跡を埋んで往来の道も定かならず」から取つたもの、「妄執」は都へ帰りたい一念、[#「、」は底本では欠落]春夏秋冬は三年の歳月である。

西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな

 これは寂光院に入られた建禮門院の上である。後白河法皇の大原御幸は卯月二十日余りのことで春も開け山にはつつじ藤の咲出づる頃である。女院は花篋肘にかけ花摘みに行かれた留守であつた。緑濃き春色に西海の青を見て平家没落の跡を思ふのである。

電柱のまぢかく立つを一本の梢としたるわが家の月

 庭木など低いのが少しはあるが喬木の全くない都内の月見風景である。かく観ずれば立派に家にあつて御月見が出来、こみあふ乗物などに乗つてわざわざよそへ出掛けるにも当らないのである。

凋落も春の盛りのある事も教へぬものの中にあらまし

 子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。教へなくとも子は自覚する。自覚したものでなくては用を為さぬからである。これも尋常の考へではない。尋常なら凋落だけであつて、それでは歌にはならないのである。

炉はをかし真白き灰の傍に二つ寄せたる脣も見ゆ

 長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする といふ歌が成長するとこの歌になる。前の場合では作者は第二人とともに歌ふのであるが、この場合は第三者たる「炉」の位置に身を置いて観察するので、何れの場合も一寸目先が変つてゐて珍しい、さうしてそこに新鮮味が生れるのである。

激しきに過ぐと思ふは涙のみ多く流るゝ自らのこと

 激し過ぎるといふものがあつたらどんなことだらう、又誰の事だらうと考へて見るとそれは自分のことであつた、それは自分の流す涙の多いことであつた。何事につけ晶子さんの涙は流れた、その多過ぎることを御本人が最もよく知つてゐたのである。

音立てて石の山にも降れよかし下の襟のみ濡らす雨かな

 陰気な五月雨などの降りつづくのをもう沢山だ、降るなら夕立のやうに音をたてて石の山にでも降つたら如何であらう、さうしたら定めて降り足りるであらうに、めそめそ女の泣くやうに降られては人間もあきてしまふといふのである。

かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴ひて春風通る

 これは町家の春の風景で、春著を著飾つた女の子が四五人羽子板か何か持つて急ぎあしで通つた。まさに春風に率ゐられた形だ。風の擬人を作者は幾度か試みたが、この歌が最も成功してゐる様である。

重ぐるし春尽く我が上に残り止まる心地こそすれ

 春の終りの湿気の多い頭の重い状態である。詩人のものを考へるや、ある時は自己を中心として世界が囘転するやうに考へ、ある時は自己を空虚にして対境のみ存するやうに思ふのであるが、この歌は初めの場合の最も極端な例で、自己の外に何物も見ない形である。詩は常識ではない。常識はまた詩であり得ない。逆にいへば非常識は詩になり得るわけである。それと同じに極端は多くの場合詩になり得るので、この歌では「尽く」がそれに当る。

高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな

 高力士は玄宗皇帝の取巻き、薔薇の花が楊貴妃になつてめをさまし、高力士と呼ぶ形である。薔薇の花の妖艶な姿もここ迄来ればよくあらはれる。

ソロモンの古き栄華に勝(まさ)るもの野の百合のみと思はぬも我

「思ふも我」がどこかに略されてゐなければならぬ言葉遣ひである。しからば何と思ふのであらう。勝るもの色々あるだらうが例へば恋などは第一だと思ふも我といふ句が隠れてゐるわけである。読者は各自、自身の「思ふも我」を補足して見なければならぬ。

さかしげに君が文をば押へたり柏の葉より青き蟷螂

 秋も漸く進んで少し寒くなりかけた頃によく蟷螂が家に上つて来て机の上などを横行することがある。歌はそれを詠んだものである。しかしそれだけでは面白くないから君の文を机にのせ、それが君の文であるから行為はをかしげになり、それで上の句が出来たわけだ。さて「蟷螂」を生かして目に見えるやうにするには如何すればよいか。作者は色彩を限定することによつて目的を達しようとした、即ち「柏の葉より青き」とやつたのである。

箱根路の明神山にともる火を忘れぬ人となりぬべきかな

 大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。この時の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へられない。

彫刻師凡骨をかし湯の宿に人をまねびて転寝ぞする

 日本木版の技術を洋画に応用することは寛先生の考案であり、凡骨がそれを実行したのである。恩義に感じた凡骨は死ぬまで與謝野家に出入して変らなかつた。その凡骨は元来職人ではあるし少し変つた所もあり可哀らしい所もあつたので、夫人はこれを愛してよく冗談を云つたりからかつたりしたものである。旅行にもよくついて行つたがこの時も同行した。凡骨に一寸人並みでない所があるので、人並みに昼寝をするのがをかしいのである。

涙落つ箱根の谷を上る靄またためらはず為すにまどはず

 晶子さんは思ひ切つたことをよく実行した人である。しかしそれをする迄には幾度かためらひ又迷つたことであらう。今箱根の谷から靄の上つて来る様子を見ると少しも躊躇することなく為たいと思ふことを迷はず断行するものの様だ。しかしその前まだ谷に隠れてゐた間は私と同じ様に幾度かためらひ迷つたことであらう、それを思ふと涙がこぼれて来る。

二三本芒靡けば目に見えぬ支那の芝居の沛公の馬

 この歌なども今では立派なクラシツクとして国宝あつかひを受けて然るべきものであらう。解釈したり解剖したり批判したりする必要は更にない。唯秋風の吹く土堤か何かを逍遥しつつ朗誦すれば用は足るのである。

恋をする心は獅子の猛なるも極楽鳥のめでたきも飼ふ

 あらゆる恋がさうであらうとは思はれない。ただ作者好みの恋はさうなくてはなるまい。獅子の猛なるとは 春短し何に不滅の命ぞと力ある乳を手に探らせぬ であり 我を問ふや自ら驕る名を誇る二十四時を人をし恋ふる であり かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るゝ人の子の夢 である。極楽鳥のめでたきとは うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな であり 春の磯恋しき人の網もれし小鯛かくれて潮けぶりしぬ であり 来鳴かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ であり 恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花 である。

形よき維摩居士かな思ふこと我等に似ざる像といへども

 維摩像を正叙したものであらうが一面象徴詩でもある様だ。それは維摩居士の特殊の地位による。維摩は居士即ち俗人でありながら仏法即真理を体得し反つて聖者たる仏菩薩を叱咤指揮して憚らない。そこに既成宗教の嫌ひな晶子さんをしてこの像を喜ばしめる理由が存するやうに思へるからである。

人聞きて身に泌むと云ふこと云ひぬ物の弾みはすべてわりなし

 かういふ体験は私にもある。唯それが云ひ現はせなかつただけである。それを作者が代つて云つてくれたのである。要するに物の弾みだ、どれ程多くの行為がもののはずみに行はれ、どれ程多くの言説がもののはづみに人の口から出たことであらう。理窟で分ることではない。

明日といふよき日を人は夢に見よ今日の値は我のみぞ知る

 作者の現在観は幾度か歌はれてゐるが、真正面から堂々と高調してゐる場合が多い。然るにこの歌では珍しく他を顧みて、我以外のものが皆今日を忘れ期待を明日以後にかけて人生を送つて居るのを見て、そんなことでよいのかと警告を発する趣きが見える。私の少し人より余分に人のなし得ない事をやり了せるのは、今日の値を知つてそれを一杯に使ふからである。

若き日は安げなきこそをかしけれ銀河の下(もと)に夜を明かすなど

 この歌は大正十年版の第十六集「太陽と薔薇」にあるのだから四十三四歳の作である。子女の一人も未だ成人せず、文化学院も出来てゐない時とて、親として又教育家として青年子女に対する必要のなかつた頃であるから極く楽な気持で詠まれて居る。末の弟の夜遊びを喜んで傍観する姉の態度で、何物をか求めてやまない青年の不安な心持にもよい理解が示されてゐる。

雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪

 大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。

雪かづく穂高の山と湖と葡萄茶の繻子の虎杖の芽と

 昔は皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に脚下のすかんぽの芽に及んで最も精しく之を叙し読者を現場に誘引する手法である。

遠方の七重の峰と対ひ咲く榛名の山の山吹の花

 これは峠から湖の方に半ば下つた傾斜面に咲いてゐた山吹の花であらう。この歌などは「調べ」がその生命であつて、そこから山吹の花の黄いろい情緒が僅に空中に発散するのである。かういふ歌特有の持味は字余りや口語歌では決して出て来ない。人間生活が伝統の鎖の一小環であると同様、日本歌の伝統も俄に断ち切るわけには行かぬ。

娘にて倉の板敷踏みたるにまさり冷き奥山の路

 聯想といふか錯覚といふかとても面白い聯想である。こんな聯想、錯覚が浮ぶ丈でその人は既に立派な詩人だと私は思ふ。現に私などにはめつたに浮ばない。それを凡人といひ、浮ぶ人を非凡人といふ。非凡人の数は極めて少いのだから珍重されなければならない。早春の奥山の路の冷さは非凡人の感覚を通して初めて味はふことが出来る。非凡人あるが故に凡人の精神生活はかうして豊かになるのである。

舟の人唄を唄へばいと寒き夢かと思ふ湖畔亭かな

 わかさぎ釣の舟でもあらう、舟の男が唄を唄ひ出したので湖畔亭の平静が破れ、初めて生命の躍動が感ぜられた、それはしかし寒い夢でも見てゐる以上のものではなかつた、その位春とはいへ山の上は寒かつたのである。

雫して黒髪のごと美しき洞に散るなり山桜花

 その中に温泉の涌き出す洞窟でもあらうか、上から雫が落ちてぬれ髪のやうな艶をして居るその口へ今や満開の桜の花が二三片散りこむ湯治場の光景である。国破れても、山河あり、伊香保の桜は今年も濡髪色の洞の口へ散るのであらうが、今ではそれを見に行く方法もなし、そんな気分にもなれない。せめて先人の歌でも読んで仄かにその趣きを偲ぶことにしよう。

野焼の火心につくを思はずば人に涙の流れざらまし

 冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らじかもわが心焼く と大昔から歌はれてゐるやうに、春の野を焼く炎の美しさ早さ激しさ恐ろしさは、若い心を焼き尽す胸の炎の好象徴である。これは作者が榛名山上で野焼を眺め今にもわが心につくかの如き思ひで涙をこぼしてゐる姿を自ら憐むで[#「憐むで」はママ]作つたもの、惻々として人心を打たずには置かない。

この山の泉にありと朝まだき我を見知れる風の驚く

 この風は 紫の我よの恋の朝ぼらけ諸手の上の春風かをる の春風であり、 伶人めきし奈良の秋風 [#空白は底本では欠落]であり 花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の風 であり又 君まさず葛葉ひろごる家なればひと叢と寝に来た風 であり、更に かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴つて通つた春風 である、既にそれ位親しい風である、その作者を見知らない筈はあり得ない。まさかと思つた伊香保の湯槽でぱつたり出会つたのだから風が驚いたわけだ。

はらはらと葩(はなびら)のごと汗散ると暑き夏さへ憎からぬかな

 心の持ちやうで人生は如何にでも変化する、それは唯心論の立場であるが、それほどでなくとも芸術化することによつて地上もある程度住みよい所になる。作者などはその心掛けを忘れなかつた人だけに人よりも数倍よい浮世に住んだ人でもあつた。

羅を昼の間は著るごとし女めきたる初秋の雨

 静かに降る糸のやうな初秋雨の印象である。その鮮かさは岩佐又兵衛の墨絵でも見るやうだ。

大きなる桐鈴懸を初めとし木の葉溜りぬ海の幸ほど

 麹町の家は崖下の低い所にあつたので、秋の暮ともなればこの歌のやうに狭い前庭は落葉で埋つたことであつたらう。「海の幸ほど」は面白い、網の底に魚の溜つた光景で、落葉が生きてぴしぴしはねかへる概がある。

聖書にて智恵の木の実と読みたりし木の実食らひて智恵を失ふ

 聖書にある智恵の木の実とは何であるか。アダム・イヴはそれを食べた許りに智恵が出てその罰として天国を追はれた。しかし私は同じ木の実を食べながら反つて智恵を失ひ愚かしい行をも敢てするやうになつた。否々私許りではない、恋をするほどのものは皆智恵を失つてしまふのである。

櫨の葉の魚のさまして匍ひ寄るも寂しき園となりにけるかな

 櫨の葉は真赤だから、魚としたら錦魚か緋鯉といふ所であらう、それが池の中でなく、地上を匍ひ歩くのであるから思つた許りでも寂しいのに、それが歌の調子に乗り映つて索漠たる冬の近いことを知らせるもののやうである。

常磐木の冬に立つなる寂しさを覚ゆる人と知られずもがな

 風霜に会つてその操守を変へぬ常磐木の心は君子の心であり、その寂しさは君子の寂しさである。さういふ寂しさを私が感じてゐるなどとは思はれたくない。君子などにはなりたくない。

炉の火燃ゆフランチエスカのこの中にありとも見えて美しきかな

 ダンテの神曲の中のフランチエスカ・ダ・リミニのことであらう。炉の火から煉獄の火を思ひ、フランチエスカの出場となるので、斯うなれば富士見町の崖下に捨去られた一本のストオヴも大したものである。

東山青蓮院のあたりより桃色の日の歩み来るかな

 雀百まで踊忘れずといふほどでもないが、久しぶりで昔の晶子調が出て来た珍しさを感じてその当時読んだ記憶がある。私は晶子秀歌選を作るに当つて「古京の歌」なる一巻を作り、そこへ京畿の風物の上に作られた若い時の作八十五首を収めたが「春泥集」以後この種の作はなくなつた。それが突如として第十六集「太陽と薔薇」の中へ出て来たのが、この歌である。流石にその調子には隙もなくなり落付きも出来てゐるが、内容の若さにはその日に少しも変つてゐない。それは中年に至るも少しも若さを変へなかつた作者の心そのままである。

雫する好文亭の萩の花清香閣の秋風の音

 大正八年頃の秋水戸に遊んだ時の作。今の公園、昔の水戸城内の建物の名を二つ並べただけのことだが、その並べ方が天下無双で、丁度遠州や雪舟が庭石を並べるやうなものである。

わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな

 おなじ折の歌。那珂川の河口にある橋であらう。いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。

光悦が金を塗りたる城と見ゆ銀杏めでたき熊本の城

 大正七年秋十一月九州に遊んだ折の作。清正は武人でありながら算数に明るく土木建物に長じた許りでなく美術をさへ解して居た様で、その作る所名古屋城にしても熊本城にしても立派な美術品である。高く自ら標榜する光悦でも喜んで金を塗りさうな城の構へである。金はいふ迄もなく銀杏のもみぢである。

旅寐する人のささやき雨の声潮の響き噴泉の音

 昔の別府、亀の井旅館の雨の夜のシンフオニイである。折から十一月の海が荒れて潮の響きさへ遠く聞こえたものらしい。旅寝する人のささやきは同行四人の自分らのささやきであらう。

君と在る紅丸の甲板も須磨も明石も薄雪ぞ降る

 その帰途、紅丸が明石の門(と)にかかつた時雪が降り出した。よい時によい雪が降り出したものだと歎息したい位だ。もしこの時雪が降らなかつたらこの歌は出来なかつたであらう。為に日本文学は一つの大きな損失を来す所であつた。その位この歌の値打ちを私は高く評価するものである。晶子歌が何程勝れたものであらうと、神品といふべきものだけを拾つたらさう沢山ある筈はない。その第一はこの歌でないかと私は思つてゐる。再びナチかミリタリズムの世になつて晶子歌が全部亡ぼされる日が来たら、私はこの一首だけを石に彫して地に埋めるであらう。私は幾度か別府通ひの船に乗つた、紅丸にも二度乗つた。その度に甲板に立つてこの歌を朗誦する私を内海の鴎は聞きあきたことであらう。

少女達田蓑の島に禊して人忘るとも舞を忘るな

 田蓑の島は淀川河口の三角洲で、難波名所の一つであつたらしい。この歌は大正九年五月大阪に行かれた時蘆辺踊りか何かを見て作つた歌。田簑の島で禊をして恋を忘れるといふ話を寡聞にして知らないが、蘆辺踊りに興じて毎年やつて欲しいと思ふ心持を少くも田蓑の島に寄せて時所を明かにしたものであらう。或は当夜難波十二景といふ様なものを出した中に昔の田蓑の島の場でもあつたのかも知れない。

貧しさの極り無きと服したる不死の薬は別様のこと

 詩人文人多しといへども私の家ほど貧しい家はなからう。しかしそれにも拘らず昂然として私は呼吸してゐる。それは私が不死の薬を服し、従つてその作る処は不朽であることを知つてゐるからである。それと今現実に貧しい暮しをしてゐることとは別に関係はないのである。

柏の葉青くひろがり朴の花甘き匂ひす鳥にならまし

 春になつて少しく山路に這入れば、朴の花が白く匂ひ、柏の葉の青く拡がる景色はどこでも見られる。唯鳥になりたいとは誰も思ひつかない所であつて、それがこの歌以前にこの歌のなかつた理由である。

月夜よし海鳥の像の傍らのテラスに合はす杯の音

 巴里のことは今ではすつかり忘却の霧の中に這入つてしまつたのでどこに海鳥の像があつたか思ひ出せない。兎に角夏の夕の大きなカフェエのテラスで東洋の客がボツクの杯を合はしたのであらう。それを稍十年の後作者が思ひ出して作つた歌である。私は巴里を去つて既に二十五年になる。何にも思ひ出せないわけだ。

衆人の喜ぶ時に悲しめど彼等歎けば我も歎かる

 一歩と云はず数歩と云はず世に先んずるものは皆さうであらう。人の憂ひに先立つて憂ふるが故である。しかし衆人の歎く時には我もまた歎くのである。つまり喜ぶといふことを知らずに死んでしまふのが、優れたものの持つて生れた悲しい運命なのである。




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