晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

信濃川鴎もとより侮らず千里の羽を繕ひて飛ぶ

 大正十三年八月新潟での作。日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。これは同時に象徴歌(うた)であつて、どんなことにも全力を尽くして当る作者自身の心掛を鴎に見出したのである。

天地に解けとも云はぬ謎置きて二人向へる年月なれや

 夫婦生活の謎である。その謎は遂に解かれずして今日に至つたが、思へば変な年月を暮したものだ。他人も皆さうなのであらうか。道歌の一歩手前で止まつた形ともいへる。少し匂ひがするがこの位はよからう。「なれや」は少し若い。

大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな

 荒海や佐渡に横たふ天の川 がある以上その上に出来て居る作だと云はれても仕方がないが、詩としての価値はそんなことで左右されはしない。詩人としての才分を比較すれば、晶子さんの方が数等上であらうが、この句と歌とだけを比較すれば一寸優劣はつけにくい。芭蕉もいい句はやはり大したものである。

誰れ見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕暮の風

 晶子さんの心が漸く生長して少しのことでは尖らなくなつた頃の作。その心持が偶□夏の夕暮の涼風に反映したものであつて、同時にそれは又万国和平の心でもある。

近づきぬ承久の院二十にて遷りましつる大海の佐渡

 佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。近頃の人ならおけさを思ふであらう。作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた。歌人として史家としてさうあるべきであるが、その感動がよくこの一首の上にあらはれてゐて、自分をさへ一流人として感ずるものの様に響く。

水の音激しくなりて日の暮るゝ山のならはし秋のならはし

 大正九年初秋北信沓掛の星野温泉に行つた時の作。あそこは水の豊富な所だから特にこの感が深かつたのであらう。

菊の花盛りとなれば人の香の懐しきこと限り知られず

 菊の花の真盛りと人懐しさの極限に達することとの間に如何いふ関係があるのであらうか。詩人はものを跳び越えるので、橋を渡して考へなければ分らないことが多い。先づ気候が考へられる。菊の花盛りは十一月の初旬で空気が澄み一年中一番気持のよい気節で、人間同志親しみ合ふのも最も適してゐる、結婚などもこの月に多いやうである。も一つ考へられる橋は菊の匂ひである。この匂ひは木犀やくちなしの様に発散しないし、薔薇のやうに高くもないが、近く寄つて嗅ぐ時は一種特別の匂ひがする、それは香水の匂ひなどと違つて極く淡い忘れ難い匂ひである。詩人の嗅覚にはそれが人の香のやうに感じたのかも知れない。さうだとすれば、人の香の懐しきこと限り知られずとは即ち菊の花に顔を当てた時の感じだ。私にはこれ位より考へられないからこれで負けて貰ふことにする。

薄白く青く冷たき匂ひする二人が中の恋の錆かな

 作者は第十六集「太陽と薔薇」の自序で斯う言つて居る。「三十一音の歌としての外形は従来の短歌に似て居ます。似てゐるのは唯だそれだけです。読者は何よりも先づ、私の個性がどんなに特異な感動を持つて生きてゐるかを、私の歌から読まうとなさつて下さい。唯だ感覚に就てだけでも何か他人と違つた私の個性が現はれてゐるとしたら、とにかく私の歌の存在の理由が成立つ訳です。」 洵に作者の感覚は従来の日本人のそれとは大分違つてゐる。私もこの本でそのことを幾度か説いた様に思つてゐる。しかしこの歌のそれは明かに近代感覚であつて、意識して取り入れたものである。試みに外国語に訳して見れば分る、少しも日本臭などはせず、近代人なら誰でも其の儘受入れることが出来よう。もしこの歌を読んで何のことだか分らないものがあるとすれば、それは万葉集の外何も知らない短歌人か、古今集以下を習ふ和歌人かであらう。

白銀の笛の細きも燃ゆる火の焔の端も嘗むる脣

 対照の美である。対照の美が高級の美となる為には照応すべきものの選び方が大切である。もしそれが誰でも思ひつく程度のものなら美は成立しない。フルウトの歌口と火焔の端とは可なり距離があつて同日の談でない。しかも一方は物そのものであり、一方は恋をする若い女の象徴である。その同日の談でないものを同一の脣に当てるから初めて美が成立し、その程度も可なり高いものとなるのである。

桜疾く咲きたる春と驚きぬ我が送る日のいと寒き為め

 この歌なら誰にでも分るであらう。またこの位な体験なら誰にでもあらうから。唯その言葉遣ひの甚だ滑らかにおだやかに不自然な所のないのを私は尚ぶ。

音高く鳴る鈴を皆取り捨てぬ昨日に変ることはこれのみ

 もとより象徴的であるからその解釈は読者の勝手である。例へばこんな風の場合がその一つ。世間に喧伝してゐる晶子さんの歌は若い時のもの許りで絢爛として目を射るやうなものが多い。 罪多き男懲らせと肌清く黒髪長く創られし我 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人皆美くしき 咒ひ歌書き重ねたる反古取りて黒き胡蝶をおさへぬるかな 春はただ盃にこそ注ぐべけれ智恵あり額の木蓮の花 人の子に借ししは罪か我が腕白きは神になど譲るべき などいふ様な「乱れ髪」調がそれだとすれば之等は即ち音高く鳴る鈴である。そんな鈴は皆取り捨ててしまつた。昨日と違ふのはそれだけのことである。私自身は少しも変つてゐはしないのに世間はもはや振り向かうともしない。鈴などは借物である。その借物の音を彼此言はれるのがいやだし特に高い音には厭になつたので皆捨ててしまつたまでである。

空青し雁の渡るを眺むらん孝標の女も国府の館に

 葛飾の十橋荘で作つた歌。そこから国府の台が近く見える。そこは更科日記の作者が少女の時代、父の国司(菅原孝標)の手許で過した所である。今日は空が晴れて美しい日だから古への文学少女も外を眺めて渡る雁がねを聞いてゐることであらう。孝標の女は源氏物語のフアンでこの点晶子さんと同好のよしみがありお気に入りの一人と思はれる。

紫に墨しみ入りて我が心寂し銀糸の紋を縫はまし

 紫は作者の最も好む色でそれを以て心の象徴としてゐた処、いつしか時の流れの墨の色がしみこんで大分くすんでしまつた。それだけでは少し寂しすぎるので、銀糸で縫ひ取りでもしようといふのであるが、さて銀糸の紋とは何であらうか。李白でも読まうか、絵でも習はうか、梅蘭芳を見に行かうか、それとも温泉へでも行かうか。詩人の心も欲しいものは好ましい刺戟であらう。

屋根の雪解けて再び雨と降る更に涙にならんとすらん

 屋根の雪(第一変化)の解けて雨垂れになつて落ちる(第二変化)のを眺めてゐると、第三番目に変化したら何になるのだらうと考へるに至つた。その時は疑もなく人の涙線に入つて涙となつて流れる様に思はれる。もとは同じ水蒸気であるからさうなくてはならぬのであらう。

薔薇少し米(よね)用なしと法師より使来たらばをかしからまし

 美と実生活、難しい問題である。そこへ更に宗教が出て来て世間と出世間の問題が加はつたのがこの歌である。出世間人が出世間人であること、実生活を捨てて美を取ることは現代に於ては勿論いつの世でも一寸珍しい図面ではなからうか。そんなことがあつたらそれこそ面白い珍重すべきことなのであるが、実はおあいにく様である。不可能事を空想することそれは古人もやつたことであるが、往々にして好詩を形成することがある。

何事か知らず篝の燃えに燃え宿の主人に叱らるゝ馬

 大正十年八月再び沓掛の星野温泉に遊んだ時の作。この時は私も一緒に行つた。私は第十七集「草の夢」の為に序を作つたが、その中でこの歌の成立した時の光景を書いてゐるので一寸思ひ出して見る。それはある夕方軽井沢の莫哀山荘に尾崎先生を御尋ねしたその帰りに沓掛駅まで歩いて来たことがある。 ほととぎす沓掛橋を渡る頃夫人の脚は労れたるかな といふ歌を十年振りで私が詠んだ時の事である。沓掛駅に来て星野温泉の馬車に乗らうとすると今汽車が著いた所と見え満員で乗れなかつた。そこで止むを得ず労れた足を引ずつてあの埃ぽい路を歩いて帰つたことがあつた。帰つて見るともう日も暮れてしまひ、捕虫の目的であらう庭には篝がたかれてゐたが、私達が歩いて帰つたのを見て、なぜ迎へに出なかつたのかと主人が馬車を仕舞うとしてゐた馭者を叱かつた。それを馬が叱られた様に思つたのである。馬は叱られてその意味が分らずきよときよとして向うを見ると篝火が燃えさかつてゐて、それが小言と関係があるやうにも思へるが、この暑いのに何の為に火を焚くのかそれも分らずに当惑して居る形である。

夏草を盗人のごと憎めどもその主人より丈高くなる

 その頃の星野温泉はまだ出来た許りで、将来庭となるべき所も未だ夏草の原であつた。主人は早く草でも刈つてきれいにしたいが何分にも人手がないのでとか何とか言ひわけをすると、それを聞いた寛先生はとんでもない。山荘の庭などといふものは草あるが故に貴いので、草を刈つてしまつては町家の庭も同じことになつてさつぱり値打ちがなくなつてしまふとか何とか、主人も主人だが寛先生の方も少し無理な負けず劣らずの夏草問答があつた。それを聞いて居て良人の肩を持つたのがこの歌である。

女郎花山の桔梗を手弱女の腰ほど抱き浅間を下る

 今の千が滝の地は当時は落葉松の植わつた唯の高原で、そこから山の秋草を一抱へ持つて宿の男でも帰つて来たのであらう。その束が余り大きかつたので、ダンスをして相手を抱いてゐる形などを聯想したのであらう。

姑と世にいふものが片隅にある心地する暗き浴室

 姑だけは晶子さんの知らない存在である。また許し難い存在であつたかも知れない。その姑さんが居るやうだといふのだから余程暗い気味のわるい風呂場だつたに違ひない。或は自家発電による暗い電灯の為だつたかも知れない。

越の国斯かる幾重の山脈の何処を裂きて我来りけん

 前と同じ行、初めて赤倉温泉に浴した時の作。北の方日本海に向つて大きく開けてはゐるが、他の三方は皆山で、特に東方は上信越の山々が屏風を重ねたやうに屹立して居る。成るほどさう云はれて見ると東から来た筈の私達はトンネルも潜らずに何処を如何して来たものか怪しまずには居られない山の立たずまひである。

山涼し馬を雇はん値をばもろともに聞く初秋の月

 同じ行赤倉を出て渋の奥にある上林温泉へ廻つたが環境がもの足りなかつたのでも少し奥へ這入りたかつた。ここから上州白根へ抜ける路に発甫(ほつぽ)といふ小温泉のあることが温泉案内に書かれてある。しかし馬でなければ行かれぬ。そこで馬子を呼んで貰つて打ち合せをした。初秋の月がその相談を上から聞いて居た。しかし雨が降つたか如何かしてこの発甫行きは実現しなかつた。

大木の倒さるゝ事幾度ぞ胸をば深き森と頼めど

 千古斧鉞を入れぬ処女林のやうに思つて頼みにして来た我が胸にもいつの間にやら忍び入るものがあつてその度に大木が地響打つて伐り倒された。ああ人生の悲劇、幾度か幕が降りたがどこ迄続いて行くのであらう。

賜りし牡丹に代りもの云はん長安の貴女人を怨まず

 天下無双の容色を誇り帝寵を一身に集むる楊貴妃のやうな女に人を怨むといふことはない。牡丹の花を見るに、海棠の雨に濡れて怨むが如く訴ふるが如き姿態などは夢にも知らぬ様だ。折角頂いた牡丹だが、牡丹に口なし、乃ち代つて私がその美を語らう。私は長安の貴女楊氏です、人を怨むなどといふさもしい事は知りません。

蘭の鉢百も並べて百体の己を見るも寂しはかなし

 澁川玄耳さんが山東省へ行つたきり遂に帰つて来ない。しきりに蘭を蒐集して閑を遣るものの如くである。一鉢一鉢に自己を打ち込めば百鉢には百鉢の玄耳があらはれるわけだが、我と我が姿を見てもはじまらぬではないかと遠くその心情を憐んだ[#「憐んだ」は底本では「憐むだ」]歌である。も一首 泰山を捨てゝ来よとも云ひなまし玄耳の翁唯人(ただびと)ならば といふのがある。常人でない玄耳さんの事故泰山なんか捨ててしまつて帰つて御出でなさいと単純にも云へないのである。

錦木に萩もまじれる下もみぢ仄かに黄なる夕月夜かな

 錦木の下に萩の植込みがあり、錦木は牡丹色に萩は黄色にもみぢしてゐる。その上に夕月が掛つた。そのうちに錦木の紅は黒く消えてしまつて萩もみぢの黄色のみが仄かに浮き出して来るのである。これは純な日本の伝統を襲ふものであるから晶子歌でも翻訳は出来ない。

物見台さることながら目を閉ぢて我は木の葉の散る音を聴く

 武蔵野にある久保田氏の都築園といふのに遊んだ時の作。その中に物見台といふ小高い所があつて登つて見たが、私は物を見る代りに目を閉ぢて反つて木の葉の散る昔を聴いてゐる。極く軽いユウモアはあるが別に皮肉ではない。さうして反つてよく武蔵野の晩秋の光景があらはれてゐる。

森に降る夕月の色我が踏みて木の実の割るゝ味気なき音

 これは珍しく押韻の歌があつた。啄木流に三行に書くと
森に降る夕月の色
我が踏みて
木の実の割るゝ味気なき音
 はつきりものの音が響いて来て一寸面白い。意識して作つたものでは勿論ないが、将来ロオマ字歌が作られる様になつたらこんな方向にも進む機会がないとも限らない。

降る雪も捕手が伸ばす足も手もうるさき中の美くしき人

 作者は必ずしも芝居好きでなく余り度々も行つて居ないが、それでも芝居の歌をいくつか詠んでゐる。これもその一つ。芝居のことに暗い私にはこの光景が何の幕切れであるか知る由もないが、見たことはあるやうだ。女のやうでもあるが、羽左衛門なら男でも当て嵌まる。雪や手や足が邪魔になるやうで邪魔にならずそれぞれの効果を挙げてゐる所が「うるさき」で表現されてゐるのである。

殿上に鱶七も居て煙草飲むかかる世界を賞でて我来(こ)し

 考へて見れば歌舞伎劇の世界こそ途方もない世界である。千本桜なども正にその一つであらうが、途方もない世界であることもさう云はれて見れば人はやはり忘れてゐる。事々物々作者を泣かさぬといふことのないこの世の中で、独り一番目の舞台に限り全くの別世界である。感覚の鋭い作者故にこの感も深いのであらう。

序の曲の急なりあはれ何事にならんと涙滝のごと落つ

 さう思つて芝居には来たのに既にして大ざつまが初まれば、もう駄目である。何か非常なことの行はれる予感がして涙が滝のやうに落ちて来る。家にあつてはこんな涙は出ないのに。

何すらん船の数ほど人居たり口野の浦の春の黄昏

 大正十一年二月畑毛から昔の馬車に乗つて静浦に出た。海岸には漁夫らしい男が一塊居た。何か初まりさうなけはひが感ぜられた。その光景が旅の心を打つたのである。

限りなき命を持ちて居給ふと思ひしならね頼みし如し

 鴎外先生を弔ふ歌の一つ。鴎外先生は晶子さんの心から畏敬した先輩の一人であつた。従つて同先生から認められたことはどれ位嬉しいことか知れなかつた。巴里行の場合なども、偶□満洲から出て来た私が一日夫人の行きたがつてゐる趣きを先生の耳に入れた処、先生は即座にさうだらう、行きたいだらう、宜しいそれでは俺も一つ骨を折らうと言つて三越に話されその方からも何程かの費用が出た筈である。それ位晶子さんを可愛がつてゐた先生が俄になくなられたので、その失望は大きかつたらしく、それがこの歌の「頼みし如し」によく現はれてゐる。又 何事を思ふともなき自らを見出でし暗き殯屋の隅 といふ歌もあるが、それにも同じ心が出て居る。

夢醒めて我身滅ぶと云ふことの味ひに似るものを覚ゆる

 夢が浮世か浮世が夢か、畢竟夢の世の中に唯一つ確なことは夢の存在である。夢だけは確に夢である。その夢の醒めることは即ち我が身の滅びることでなければならない。仏教哲学的に云へばさういふ理窟にもなるが、この歌はそんなことには関係なく単に作者の瞬間的の感覚を抒したもので、私にも同じ様な醒め際があるのでよく分る。しかしその感覚の根底を為す潜在意識といふものがありとすれば前の理窟のやうなものでは無からうか。

宮城野の焼石河原雨よ降れ乾く心はさもあらばあれ

 大正十一年十月初めて箱根仙石原に遊んで俵石閣に泊したその時の作。丁度早川の水涸れの時期であつたらしい。焼石のごろごろして居る河原は見るも惨たらしいが、それは実はわが心が同じ様に乾いてゐるので、それが反映して痛ましく感ぜられるのではないか。せめて雨が降つて河原だけでも濡らして欲しい。それを見たら私の心も少しは沾ふことだらう。といふ様な意味の歌だが、そんなことは如何でも宜しい。読者はその調子のすばらしさを味はつて生甲斐を感じて欲しい。

水落つる中に蹄の音もして心得難き朝朗かな

 作者が単行本として出した最後の集は第十九集「心の遠景」である。この集に就いて作者はこんなことを云つてゐる。「若し私が長生するならば、斯くいふ今日の言葉に自ら冷汗を覚える日が無いとも限らないのであるが、とにかく小さい私の作物として、今日は「心の遠景」を最上の物として考へてゐるのである。」それは昭和四年の事であつたが、その後の事実は作者の予想した通りで、作者の表現法は年と共に進んで極る所がなく、「心の遠景」なども忘却の靄の中に埋没してしまふ許り影の薄い存在となつたのである。しかし今私が若い頃からの全詠草を順序を立てて見直して来てすぐ気が付いたことは、まだまだこの辺までは真の自由を得て居ないといふことである。その証拠は「太陽と薔薇」の自序にある。曰く「私は久しく歌を作つて居ながら、まだ自分の歌に満足する日が無く、絶えず不足を感じて忸怩としてゐる人間です。自分はもう歌が詠めなくなつたと悲観したり、歌と云ふものはどうして作るものであつたかと当惑したりすることが毎月幾囘あるか知れません。内から自然に湧き上る熾烈な実感の嬉しさに折々出合ふ時でさへ、それの表現に行詰つて唖に等しい苦痛の中に人知れず困り切つてゐることがあります。その難関を突破して表現の自由を得た刹那に詩人らしい自負の喜びを感じるにしても、次の刹那にはまた現在の不満を覚えて、自分の歌に対する未来の不安を抱かずにゐられません。」私などもつひこの間まで詩人としての自覚がないのでその程度は尚浅いにしても同じ悩みを持つてゐたから、その苦心の状態がよく分る。しかしその不自由もやがて完全に縄の解ける日が来て遂には昔の夢になつてしまつた。この歌などがその自由を得た日の極く初めの方を記念するものの一つであらう。思つたこと――それは摩訶不可思議な、仙人の見る夢のやうな、名状すべからざるものの影に過ぎない――がそのまま歌になつて少しの渋滞の跡も示さない、斯ういふのを表現の自由といふのであつて、作者の如き才分の豊かさを以てしてもここに達するには二十年の苦しい修練を要したのである。この作も前のと同じく俵石閣で作つたもの。その庭には池があつて山の水が落ちてゐた。下の街道には荷を著けた馬が通つてゐた。ふと目がさめて見ると不思議な音が聞こえてゐてそれは明かに東京の家ではなかつた。ここのこの感じが歌はれてゐるのである。

上なるは能の役者の廓町落葉そこより我が庭に吹く

 これは富士見町の崖下の家の実景で、秋の終りともなれば崖上の木の葉、中でも金春舞台を囲む桐、鈴懸、銀杏、欅皆新詩社をめがけて散つたのであらう。この辺もしかし空襲ですつかり焼けてしまつたといふことである。

手綱よく締めよ左に馬置けと馬子の訓へを我も湯に読む

 大正十二年一月天城を越えて南伊豆の初春を賞した。その時谷津温泉で作つたもの。自動車交通の開ける以前の伊豆旅行は凡て円太郎馬車か、馬の背に頼る外無かつた。従つて初めて馬に乗るものの為に乗馬の心得が浴場の壁に掛けてあつたとしても必ずしもあり得べからざる事でもない。南伊豆の狭い海岸の天城颪の吹きまくる谷津の湯の湯船の中で女の私が乗馬訓を読まうなどとは思はなかつたとをかしいのであるが、しかし如何にもよい訓へだと感心してゐる趣きも見える。

藤原の理髪の家の前の土馬車を待つ間に夕霜の置く

 私は行つた事がないが藤原の湯とは蓮台寺温泉の事でもあらうか。今夜は下田へ行つて泊らうと宿を出て、理髪屋の前で下りの馬車を待つてゐると日が暮れかかつていつの間にか夕霜が白く置いてゐた。恐ろしく細かい観察であり、又時所位の限定でもある。さうしてそれ故に特殊の美が生ずるのである。

山に居て港に来れば海といふ低き世界も美くしきかな

 蓮台寺から下田へ来ての感想であるが、「海といふ低き世界」は今では私共の間では熟語になつてしまつてゐる。感覚の正確妥当さを証する一例である。

洞門と隣れる家に僧の来て鉦打ち鳴らす多比の夕暮

 静浦から韮山の方へ出るトンネルの付近は地方有数の石切り場で、いくつかの洞が出来てゐて、一寸風変りな光景を呈してゐる。そこへ念仏僧か何か来て鈴を鳴らす。日の暮の薄靄が海面を這ふといふ様な光景である。

七月の夜能(やのう)の安宅陸奥へ判官落ちて涼風ぞ吹く

 安宅がすんだ、判官は通過した、緊迫が解けた、まあよかつた、ほつとして一息つくと、七月の夜も既に更けて涼しくなつてゐた。

切崖の上と下とに男居てもの云ひ交はす夕月夜かな

 これも富士見町辺で見掛けられた小景を其の儘切り取つたもの、ありのすさびの一興である。

鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ

 大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。

勢ひに附かで花咲く野の百合は野の百合君は我に従へ

 文句を云はずについていらつしやいといふべき所を女詩人らしくいふと斯うなるのである。斯う云はれて見ると附いて行かざるを得ないであらう。野の百合はソロモン王の栄華を尻目にかける頑な心の持主である。

なつかしき萩の山辺の白雲をおしろい取りて思ふ人かな

 おしろいを解きながら、唯その白いといふ色の縁だけで、白雲の飛ぶ山の景色を思ひ浮べ得るほどの人は、それだけで既に立派な女詩人である。次にこの歌に同感し得るほどの女性なら歌人になれる。この歌の分らない人は一寸難しい。

時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る

 これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。

花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし

 これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら一々の花に会釈し廻る趣きである。

君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はゞ人怪しまん

 有島武郎さんの死を悼んだ歌。この両人の関係は前にも一度触れたが、晶子さんを十分に appreciate した多くない人の中で、恋人のやうな気持で近づいたのはこの人だけであつた。それだけ晶子さんには掛け替のない男友達であり、同時代人であつた。しかし如何にその死を悼む情が痛切であつても、それが同じ年頃の異性である場合、十分に心を抒べることが出来ない。それが「苦しい」のである。因にその時の挽歌を少し引かう。 書かぬ文字言はぬ言葉も相知れど如何すべきぞ住む世隔る しみじみとこの六月程物云はでやがて死別の苦に逢へるかな 信濃路の明星の湯に友待てば山風荒れて日の暮れし秋 我泣けど君が幻うち笑めり他界の人の云ひがひもなく から松の山を這ひたる亡き人の煙の末の心地する雨

休みなく地震(なゐ)して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街

 大正十二年秋の関東大震災は今日から見れば大したことでもなかつたが、戦争以前の日本人には容易ならぬ異変であつた。しかし当時は幸に晶子さんといふ詩人がゐて歌に之を不朽化してくれたので文化史上の一齣を為し得た。然るに今囘の戦禍は如何であらう。その数倍数十倍に上る災禍も一詩人の詩に作つて之を弔つたものあるを聞かない。情ないことになつたものである。

大正の十二年秋帝王の都と共に我れ亡びゆく

 これなどは昭和二十年春浅くとでもした方がどれ程適切か分らない。それにしても晶子さんはよい時に死んだものである。

天地崩(く)ゆ命を惜む心だに今暫しにて忘れ果つべし

 命を惜む心は人間最後の心であつて、それより先にものはない。その最後の心をも忘れる許りに恐ろしかつたのである。あの繊細な感覚の持主にして見れば無理はない。

空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月昇りきぬ

 二十五年も前の事だが九月二日三日とまだ烟の立ち昇る焼跡に昇つた満月の色を私は忘れない。日は沈み月は昇るがそれは空の事、人間世界は余震と流言と夕立とでごつた返してゐたのであつた。

十余年我が書き溜めし草稿のあとあるべしや学院の灰

 作者の新訳源氏物語の出たのは與謝野寛年譜によると大正元年になつてゐるが如何ももつと前のやうな気がする。この草稿といふのはそれは併し文語体を以てした抄訳であつた。詳細を極めた源氏の講義録のやうなものでそれを土台にして完訳を試みる積りであつたらしい。何しろ異常な精力をかつて十年間に書き溜めたのだから厖大な嵩のもので、麹町の家に置くことを危険として文化学院にあづけて置いたものである。それを焼いてしまつたのだからその失望の程思ひやられる。しかしその灰からフエニツクスのやうに復活したのが一人となつて晩年に書き出して遂に完成した新々訳源氏物語である。それがまるで創作のやうによくこなれてゐて他人の追随を許さないのも遠因はここにあるのである。

鈴虫が何時蟋蟀に変りけん少し物などわれ思ひけん

 鈴虫を聴いて居た筈であつたのに、どうしたことか蟋蟀が鳴いてゐる。いつの間に鈴虫は鳴き止んだのであらう、また何時蟋蟀が之に代つたのであらう、私は何か考へてゐたに違ひないといふのである。私は音楽を聴きながら常に之と同じ感じを持つ、何か物を考へて居てかんじんの曲を聞いてゐない、さうして時々気がついては曲に耳をかたむけるのである。これは私の音楽の場合であるが、蒲原有明さんの場合はそれが芝居で起るのである。蒲原さんは芝居を見て居て物を考へてしまふ、といふことは芝居を見てゐて見ないことを意味する。それ故に蒲原さんは決して芝居を見ないといふことを御本人から聞いて、私の音楽の場合と同じだなと思つたことがある。その最も軽いオケエジヨナルの場合がこの歌である。

思へらく岳陽楼の階を登りし人も皆己れのみ

 昔聞洞庭水。今上岳陽楼。呉楚東南拆。乾坤日夜浮。親朋無一字。老病有孤舟。戎馬関山北。憑軒悌泗流(杜甫)もしこの詩から出たものとすれば岳陽楼の階を登つた人とは杜甫のことになる。然らば「皆」の中には李白、白居易、蘇軾等々が数へられ、それらの詩人文人皆我が前身又分身である。私は自身をさう考へてゐるとなるのであらう。

皆人の歩む所に続く路これとも更に思はぬを行く

 我が行く路は荊棘の路であつて、因習に循ふ諸人の道にそれが続くとはどうしても思はれない。けれども私はかまはずそれを進んでゆく。晶子さんはこの心構へで一生を貫き通した人であつた。洵に壮なりといふべきである。

山の馬繋ぐ後ろを潜るには惜しき我身と思ひけるかな

 越後関山の関温泉へ行つた時作つたもの。たまたまかういふ破目に陥つたのであるが、何が幸ひになるか分らない。こんな面白い歌もその為に生れて来る。矜誇もこの位の程度なら誰でも同感出来るであらう。

海は鳴り人間の子は歎けども瞬きもせぬ沙の昼顔

 晶子中年の近代調を代表するものの一つで、この頃から晶子歌の世間性がなくなり、其の傾向は年を追ひて甚しくしまひには時代と詩人とは全くの他人となり終つたのである。それであるから世間の知つてゐる晶子歌は若い頃の比較的未熟なものに限られることになり、作者は常にそれを歎いてゐたが、しまひにはそれも諦めてしまひ、人に読んで貰はうなどと思ふことなく唯ひたぶるに詠みまくつて墓へ這入つてしまつたのである。成るほどこの歌の如きにしても 柔肌の熱き血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然とは行かない。男が一人悄然として物思はしげに立つてゐる。その前は涯知らぬ大海で汐がごうごう鳴つてゐる。沙の上に昼顔が咲いてゐるが何の表情も示さない。この三者を取り合せて一枚の絵を構成し、一小曲を組織したのがこの歌である。それ故にこの歌にあらはれてゐる美術なり音楽なりを受け入れる準備が読者に出来てゐなければ何のことだか分らないわけだ、それではいつ迄経つてもどうにもならないので私が今度これを書き出して少しづつ受け入れの準備をすることになつた訳だ。

妙高の山の紫草にしみ黄昏方となりにけるかな

 作者は何万といふ歌を作つたがその三分の二は所謂旅の歌である。旅の歌はしかし第三者には余り興味のあるものではない。而してそれが何十何百と一度に出て来られては堪らない、ことにそれが毎月続かれては尚堪らない。昭和五年雑誌「冬柏」が出てからはさういふ状態が最後まで続いた。よほど根気のよいものでなければ読みきれるものではない。私如きも正直にいつて読んでゐない。私の読んだのは改造社版の全集であるから既に作者の手で厳選を経た沙金のやうなものであつた。「晶子秀歌選」を作るに当つて私の閲した二万五千首はさういふ沙金歌で、その外にまだ本人の捨てたものが相当数ある訳でその内暇が出来たらこの沙の分も一度調べて見たいと思つてゐる。さうすると一生涯に作つた歌の数も概数が分つてくるわけである。閑話休題、さてその沢山の旅の歌の中で最も光つてゐるもう一つにこの歌を数へてよからう。大正十三年八月再度赤倉へ遊んだ時の作。落日をその背面に収めた妙高山の紫の影が山肌の草にしみ入る様を正叙したものであるが、光景は其の儘読者の脳裏に再現せられ、読者はその中で呼吸し得るのである。名歌とはさういふものでなければなるまい。

母我に白き羅与へたる夏より知りぬ人に優ると

 作者は自己の優逸を賞賛した歌を幾つか作つてゐるが、之を誇る色はない。唯因縁として運命として偶然として観ずる丈で誇るべきものとは思つてゐない様だ、そこが嫌味とならない所因である、この歌なども唯自覚した機会を美しく平叙するだけで少しも誇つてはゐない。

夕焼の紅の雲限り無く乱るる中の美くしき月

 西妙高から初まつて東信越の山々に終る大きな夏の空には真赤な夕焼雲が絵具皿の絵具のやうに散らかつてゐる。その雲の間に白い夕月がちんと収つてゐる。山の様子が少しも示されてないので唯の天球の歌と見るより仕方がないが実はさういふ環境で作られたものである。

長持の蓋の上にて物読めば倉の窗より秋風ぞ吹く

 堺の駿河屋の土蔵の中で更科日記か何か取り出して読んでゐる町娘の姿が浮んで来た。それは正しく自分である。倉の窓からは初秋風が涼しく吹き込んでゐた、丁度今日の様に。

深山鳥朝(あした)の虫の音(ね)にまじり鳴ける方より君帰りきぬ

 郭公がしきりに啼くのでどの辺だらうかとその方角を尋ねて居ると暁の露を踏んで早くから散歩に出た良人が、丁度その声のする方から帰つて来た。個中の消息誰か之を知らんといふ訳であらう。

古里の蓬の香など匂ひ来よ松立つ街の青き夕ぐれ

 正月の街は松が立つてゐて外に色がない為何となく青味が勝つて見える。そこに若草の萠え出る早春の感じが出て来る。さうして故郷の和泉平野の蓬の匂ひが今にもしさうに思へる。そんなことを思ひながら暮れてゆく正月の街を見てゐた作者であつた。さうしてさういふ正月の街も嘗てはこの東京にもあつたのである。

昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな

 夏の朝の山上の虹のいつまでも消えない消息を逆に喩への方から引出さうとするので、少し変だが有効な手段でもあるやうだ。

春立ちぬ人と為したる約束を皆忘れ得ば嬉しからまし

 大晦日から元旦にうつる気分は色々表現され得るであらうが、これなどはその最も適切なものの一つであらう。元来時に大晦日も元旦もあつたものではない。それすら人の約束である。一切の約束を忘れてしまへば空気が残るだけで、それがきれいさつぱり洗はれた立春の本来の姿でもある。

雲深き越の国なる関の湯に柄杓を持ちて人通ひけり

 関温泉はスキイ人のみが知る不便な山の上の昔風の温泉で私は行つたことがないが、柄杓を持つて田舎の湯治客の通ふ光景は想像することが出来る。その柄杓は湯を呑む為もあらうが、それよりも床に寝て湯を汲み上げて体にかける目的のものであらう。それほど旧式な山の湯の光景が第一句の雪深きに照応して分るのである。

うちつけに是は東の春の海鳴ると覚ゆる大鼓かな

 大鼓がぽんと鳴つた。さうしてぽんぽんと続くのを聞くといきなり春の海が寄せてでも来たやうな心持になつた。富士見町の家の直ぐ上に金春の舞台があつて鼓の音はそこから常にきこえて来た。或日突如として起つた大鼓の音がこんな風に聞こえたのであらうが、詩人が之を翻訳すると読者はゐながらにして反つて海潮音を聞くことにさへなる。

三千の裹(くわ)頭の法師山を出づこれは王法興隆の為め

 平家物語を詠じた歌の一つで、頭を裹(つつ)んだ叡山の山法師どもが日吉の神輿を担いで山を降る件である。鎮護国家の道場とあるから仏法王法何れを重しとする理由もないが、それは明かに仏法興隆のためではないから、勢ひ王法興隆のためであらうが果して如何かといふ様なことであらう。

白雲と潮の煙(けぶり)と妄執の渦巻く島の春夏秋冬

 これは俊寛僧都の歌、島は無論鬼界が島。白雲は有王島に著き初め山を尋ぬる件に「嶺に攀ぢ谷に下れども白雲跡を埋んで往来の道も定かならず」から取つたもの、「妄執」は都へ帰りたい一念、[#「、」は底本では欠落]春夏秋冬は三年の歳月である。

西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな

 これは寂光院に入られた建禮門院の上である。後白河法皇の大原御幸は卯月二十日余りのことで春も開け山にはつつじ藤の咲出づる頃である。女院は花篋肘にかけ花摘みに行かれた留守であつた。緑濃き春色に西海の青を見て平家没落の跡を思ふのである。

電柱のまぢかく立つを一本の梢としたるわが家の月

 庭木など低いのが少しはあるが喬木の全くない都内の月見風景である。かく観ずれば立派に家にあつて御月見が出来、こみあふ乗物などに乗つてわざわざよそへ出掛けるにも当らないのである。

凋落も春の盛りのある事も教へぬものの中にあらまし

 子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。教へなくとも子は自覚する。自覚したものでなくては用を為さぬからである。これも尋常の考へではない。尋常なら凋落だけであつて、それでは歌にはならないのである。

炉はをかし真白き灰の傍に二つ寄せたる脣も見ゆ

 長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする といふ歌が成長するとこの歌になる。前の場合では作者は第二人とともに歌ふのであるが、この場合は第三者たる「炉」の位置に身を置いて観察するので、何れの場合も一寸目先が変つてゐて珍しい、さうしてそこに新鮮味が生れるのである。

激しきに過ぐと思ふは涙のみ多く流るゝ自らのこと

 激し過ぎるといふものがあつたらどんなことだらう、又誰の事だらうと考へて見るとそれは自分のことであつた、それは自分の流す涙の多いことであつた。何事につけ晶子さんの涙は流れた、その多過ぎることを御本人が最もよく知つてゐたのである。

音立てて石の山にも降れよかし下の襟のみ濡らす雨かな

 陰気な五月雨などの降りつづくのをもう沢山だ、降るなら夕立のやうに音をたてて石の山にでも降つたら如何であらう、さうしたら定めて降り足りるであらうに、めそめそ女の泣くやうに降られては人間もあきてしまふといふのである。

かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴ひて春風通る

 これは町家の春の風景で、春著を著飾つた女の子が四五人羽子板か何か持つて急ぎあしで通つた。まさに春風に率ゐられた形だ。風の擬人を作者は幾度か試みたが、この歌が最も成功してゐる様である。

重ぐるし春尽く我が上に残り止まる心地こそすれ

 春の終りの湿気の多い頭の重い状態である。詩人のものを考へるや、ある時は自己を中心として世界が囘転するやうに考へ、ある時は自己を空虚にして対境のみ存するやうに思ふのであるが、この歌は初めの場合の最も極端な例で、自己の外に何物も見ない形である。詩は常識ではない。常識はまた詩であり得ない。逆にいへば非常識は詩になり得るわけである。それと同じに極端は多くの場合詩になり得るので、この歌では「尽く」がそれに当る。

高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな

 高力士は玄宗皇帝の取巻き、薔薇の花が楊貴妃になつてめをさまし、高力士と呼ぶ形である。薔薇の花の妖艶な姿もここ迄来ればよくあらはれる。

ソロモンの古き栄華に勝(まさ)るもの野の百合のみと思はぬも我

「思ふも我」がどこかに略されてゐなければならぬ言葉遣ひである。しからば何と思ふのであらう。勝るもの色々あるだらうが例へば恋などは第一だと思ふも我といふ句が隠れてゐるわけである。読者は各自、自身の「思ふも我」を補足して見なければならぬ。

さかしげに君が文をば押へたり柏の葉より青き蟷螂

 秋も漸く進んで少し寒くなりかけた頃によく蟷螂が家に上つて来て机の上などを横行することがある。歌はそれを詠んだものである。しかしそれだけでは面白くないから君の文を机にのせ、それが君の文であるから行為はをかしげになり、それで上の句が出来たわけだ。さて「蟷螂」を生かして目に見えるやうにするには如何すればよいか。作者は色彩を限定することによつて目的を達しようとした、即ち「柏の葉より青き」とやつたのである。

箱根路の明神山にともる火を忘れぬ人となりぬべきかな

 大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。この時の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へられない。

彫刻師凡骨をかし湯の宿に人をまねびて転寝ぞする

 日本木版の技術を洋画に応用することは寛先生の考案であり、凡骨がそれを実行したのである。恩義に感じた凡骨は死ぬまで與謝野家に出入して変らなかつた。その凡骨は元来職人ではあるし少し変つた所もあり可哀らしい所もあつたので、夫人はこれを愛してよく冗談を云つたりからかつたりしたものである。旅行にもよくついて行つたがこの時も同行した。凡骨に一寸人並みでない所があるので、人並みに昼寝をするのがをかしいのである。

涙落つ箱根の谷を上る靄またためらはず為すにまどはず

 晶子さんは思ひ切つたことをよく実行した人である。しかしそれをする迄には幾度かためらひ又迷つたことであらう。今箱根の谷から靄の上つて来る様子を見ると少しも躊躇することなく為たいと思ふことを迷はず断行するものの様だ。しかしその前まだ谷に隠れてゐた間は私と同じ様に幾度かためらひ迷つたことであらう、それを思ふと涙がこぼれて来る。

二三本芒靡けば目に見えぬ支那の芝居の沛公の馬

 この歌なども今では立派なクラシツクとして国宝あつかひを受けて然るべきものであらう。解釈したり解剖したり批判したりする必要は更にない。唯秋風の吹く土堤か何かを逍遥しつつ朗誦すれば用は足るのである。

恋をする心は獅子の猛なるも極楽鳥のめでたきも飼ふ

 あらゆる恋がさうであらうとは思はれない。ただ作者好みの恋はさうなくてはなるまい。獅子の猛なるとは 春短し何に不滅の命ぞと力ある乳を手に探らせぬ であり 我を問ふや自ら驕る名を誇る二十四時を人をし恋ふる であり かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るゝ人の子の夢 である。極楽鳥のめでたきとは うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな であり 春の磯恋しき人の網もれし小鯛かくれて潮けぶりしぬ であり 来鳴かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ であり 恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花 である。

形よき維摩居士かな思ふこと我等に似ざる像といへども

 維摩像を正叙したものであらうが一面象徴詩でもある様だ。それは維摩居士の特殊の地位による。維摩は居士即ち俗人でありながら仏法即真理を体得し反つて聖者たる仏菩薩を叱咤指揮して憚らない。そこに既成宗教の嫌ひな晶子さんをしてこの像を喜ばしめる理由が存するやうに思へるからである。

人聞きて身に泌むと云ふこと云ひぬ物の弾みはすべてわりなし

 かういふ体験は私にもある。唯それが云ひ現はせなかつただけである。それを作者が代つて云つてくれたのである。要するに物の弾みだ、どれ程多くの行為がもののはずみに行はれ、どれ程多くの言説がもののはづみに人の口から出たことであらう。理窟で分ることではない。

明日といふよき日を人は夢に見よ今日の値は我のみぞ知る

 作者の現在観は幾度か歌はれてゐるが、真正面から堂々と高調してゐる場合が多い。然るにこの歌では珍しく他を顧みて、我以外のものが皆今日を忘れ期待を明日以後にかけて人生を送つて居るのを見て、そんなことでよいのかと警告を発する趣きが見える。私の少し人より余分に人のなし得ない事をやり了せるのは、今日の値を知つてそれを一杯に使ふからである。

若き日は安げなきこそをかしけれ銀河の下(もと)に夜を明かすなど

 この歌は大正十年版の第十六集「太陽と薔薇」にあるのだから四十三四歳の作である。子女の一人も未だ成人せず、文化学院も出来てゐない時とて、親として又教育家として青年子女に対する必要のなかつた頃であるから極く楽な気持で詠まれて居る。末の弟の夜遊びを喜んで傍観する姉の態度で、何物をか求めてやまない青年の不安な心持にもよい理解が示されてゐる。

雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪

 大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。

雪かづく穂高の山と湖と葡萄茶の繻子の虎杖の芽と

 昔は皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に脚下のすかんぽの芽に及んで最も精しく之を叙し読者を現場に誘引する手法である。

遠方の七重の峰と対ひ咲く榛名の山の山吹の花

 これは峠から湖の方に半ば下つた傾斜面に咲いてゐた山吹の花であらう。この歌などは「調べ」がその生命であつて、そこから山吹の花の黄いろい情緒が僅に空中に発散するのである。かういふ歌特有の持味は字余りや口語歌では決して出て来ない。人間生活が伝統の鎖の一小環であると同様、日本歌の伝統も俄に断ち切るわけには行かぬ。

娘にて倉の板敷踏みたるにまさり冷き奥山の路

 聯想といふか錯覚といふかとても面白い聯想である。こんな聯想、錯覚が浮ぶ丈でその人は既に立派な詩人だと私は思ふ。現に私などにはめつたに浮ばない。それを凡人といひ、浮ぶ人を非凡人といふ。非凡人の数は極めて少いのだから珍重されなければならない。早春の奥山の路の冷さは非凡人の感覚を通して初めて味はふことが出来る。非凡人あるが故に凡人の精神生活はかうして豊かになるのである。

舟の人唄を唄へばいと寒き夢かと思ふ湖畔亭かな

 わかさぎ釣の舟でもあらう、舟の男が唄を唄ひ出したので湖畔亭の平静が破れ、初めて生命の躍動が感ぜられた、それはしかし寒い夢でも見てゐる以上のものではなかつた、その位春とはいへ山の上は寒かつたのである。

雫して黒髪のごと美しき洞に散るなり山桜花

 その中に温泉の涌き出す洞窟でもあらうか、上から雫が落ちてぬれ髪のやうな艶をして居るその口へ今や満開の桜の花が二三片散りこむ湯治場の光景である。国破れても、山河あり、伊香保の桜は今年も濡髪色の洞の口へ散るのであらうが、今ではそれを見に行く方法もなし、そんな気分にもなれない。せめて先人の歌でも読んで仄かにその趣きを偲ぶことにしよう。

野焼の火心につくを思はずば人に涙の流れざらまし

 冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らじかもわが心焼く と大昔から歌はれてゐるやうに、春の野を焼く炎の美しさ早さ激しさ恐ろしさは、若い心を焼き尽す胸の炎の好象徴である。これは作者が榛名山上で野焼を眺め今にもわが心につくかの如き思ひで涙をこぼしてゐる姿を自ら憐むで[#「憐むで」はママ]作つたもの、惻々として人心を打たずには置かない。

この山の泉にありと朝まだき我を見知れる風の驚く

 この風は 紫の我よの恋の朝ぼらけ諸手の上の春風かをる の春風であり、 伶人めきし奈良の秋風 [#空白は底本では欠落]であり 花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の風 であり又 君まさず葛葉ひろごる家なればひと叢と寝に来た風 であり、更に かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴つて通つた春風 である、既にそれ位親しい風である、その作者を見知らない筈はあり得ない。まさかと思つた伊香保の湯槽でぱつたり出会つたのだから風が驚いたわけだ。

はらはらと葩(はなびら)のごと汗散ると暑き夏さへ憎からぬかな

 心の持ちやうで人生は如何にでも変化する、それは唯心論の立場であるが、それほどでなくとも芸術化することによつて地上もある程度住みよい所になる。作者などはその心掛けを忘れなかつた人だけに人よりも数倍よい浮世に住んだ人でもあつた。

羅を昼の間は著るごとし女めきたる初秋の雨

 静かに降る糸のやうな初秋雨の印象である。その鮮かさは岩佐又兵衛の墨絵でも見るやうだ。

大きなる桐鈴懸を初めとし木の葉溜りぬ海の幸ほど

 麹町の家は崖下の低い所にあつたので、秋の暮ともなればこの歌のやうに狭い前庭は落葉で埋つたことであつたらう。「海の幸ほど」は面白い、網の底に魚の溜つた光景で、落葉が生きてぴしぴしはねかへる概がある。

聖書にて智恵の木の実と読みたりし木の実食らひて智恵を失ふ

 聖書にある智恵の木の実とは何であるか。アダム・イヴはそれを食べた許りに智恵が出てその罰として天国を追はれた。しかし私は同じ木の実を食べながら反つて智恵を失ひ愚かしい行をも敢てするやうになつた。否々私許りではない、恋をするほどのものは皆智恵を失つてしまふのである。

櫨の葉の魚のさまして匍ひ寄るも寂しき園となりにけるかな

 櫨の葉は真赤だから、魚としたら錦魚か緋鯉といふ所であらう、それが池の中でなく、地上を匍ひ歩くのであるから思つた許りでも寂しいのに、それが歌の調子に乗り映つて索漠たる冬の近いことを知らせるもののやうである。

常磐木の冬に立つなる寂しさを覚ゆる人と知られずもがな

 風霜に会つてその操守を変へぬ常磐木の心は君子の心であり、その寂しさは君子の寂しさである。さういふ寂しさを私が感じてゐるなどとは思はれたくない。君子などにはなりたくない。

炉の火燃ゆフランチエスカのこの中にありとも見えて美しきかな

 ダンテの神曲の中のフランチエスカ・ダ・リミニのことであらう。炉の火から煉獄の火を思ひ、フランチエスカの出場となるので、斯うなれば富士見町の崖下に捨去られた一本のストオヴも大したものである。

東山青蓮院のあたりより桃色の日の歩み来るかな

 雀百まで踊忘れずといふほどでもないが、久しぶりで昔の晶子調が出て来た珍しさを感じてその当時読んだ記憶がある。私は晶子秀歌選を作るに当つて「古京の歌」なる一巻を作り、そこへ京畿の風物の上に作られた若い時の作八十五首を収めたが「春泥集」以後この種の作はなくなつた。それが突如として第十六集「太陽と薔薇」の中へ出て来たのが、この歌である。流石にその調子には隙もなくなり落付きも出来てゐるが、内容の若さにはその日に少しも変つてゐない。それは中年に至るも少しも若さを変へなかつた作者の心そのままである。

雫する好文亭の萩の花清香閣の秋風の音

 大正八年頃の秋水戸に遊んだ時の作。今の公園、昔の水戸城内の建物の名を二つ並べただけのことだが、その並べ方が天下無双で、丁度遠州や雪舟が庭石を並べるやうなものである。

わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな

 おなじ折の歌。那珂川の河口にある橋であらう。いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。

光悦が金を塗りたる城と見ゆ銀杏めでたき熊本の城

 大正七年秋十一月九州に遊んだ折の作。清正は武人でありながら算数に明るく土木建物に長じた許りでなく美術をさへ解して居た様で、その作る所名古屋城にしても熊本城にしても立派な美術品である。高く自ら標榜する光悦でも喜んで金を塗りさうな城の構へである。金はいふ迄もなく銀杏のもみぢである。

旅寐する人のささやき雨の声潮の響き噴泉の音

 昔の別府、亀の井旅館の雨の夜のシンフオニイである。折から十一月の海が荒れて潮の響きさへ遠く聞こえたものらしい。旅寝する人のささやきは同行四人の自分らのささやきであらう。

君と在る紅丸の甲板も須磨も明石も薄雪ぞ降る

 その帰途、紅丸が明石の門(と)にかかつた時雪が降り出した。よい時によい雪が降り出したものだと歎息したい位だ。もしこの時雪が降らなかつたらこの歌は出来なかつたであらう。為に日本文学は一つの大きな損失を来す所であつた。その位この歌の値打ちを私は高く評価するものである。晶子歌が何程勝れたものであらうと、神品といふべきものだけを拾つたらさう沢山ある筈はない。その第一はこの歌でないかと私は思つてゐる。再びナチかミリタリズムの世になつて晶子歌が全部亡ぼされる日が来たら、私はこの一首だけを石に彫して地に埋めるであらう。私は幾度か別府通ひの船に乗つた、紅丸にも二度乗つた。その度に甲板に立つてこの歌を朗誦する私を内海の鴎は聞きあきたことであらう。

少女達田蓑の島に禊して人忘るとも舞を忘るな

 田蓑の島は淀川河口の三角洲で、難波名所の一つであつたらしい。この歌は大正九年五月大阪に行かれた時蘆辺踊りか何かを見て作つた歌。田簑の島で禊をして恋を忘れるといふ話を寡聞にして知らないが、蘆辺踊りに興じて毎年やつて欲しいと思ふ心持を少くも田蓑の島に寄せて時所を明かにしたものであらう。或は当夜難波十二景といふ様なものを出した中に昔の田蓑の島の場でもあつたのかも知れない。

貧しさの極り無きと服したる不死の薬は別様のこと

 詩人文人多しといへども私の家ほど貧しい家はなからう。しかしそれにも拘らず昂然として私は呼吸してゐる。それは私が不死の薬を服し、従つてその作る処は不朽であることを知つてゐるからである。それと今現実に貧しい暮しをしてゐることとは別に関係はないのである。

柏の葉青くひろがり朴の花甘き匂ひす鳥にならまし

 春になつて少しく山路に這入れば、朴の花が白く匂ひ、柏の葉の青く拡がる景色はどこでも見られる。唯鳥になりたいとは誰も思ひつかない所であつて、それがこの歌以前にこの歌のなかつた理由である。

月夜よし海鳥の像の傍らのテラスに合はす杯の音

 巴里のことは今ではすつかり忘却の霧の中に這入つてしまつたのでどこに海鳥の像があつたか思ひ出せない。兎に角夏の夕の大きなカフェエのテラスで東洋の客がボツクの杯を合はしたのであらう。それを稍十年の後作者が思ひ出して作つた歌である。私は巴里を去つて既に二十五年になる。何にも思ひ出せないわけだ。

衆人の喜ぶ時に悲しめど彼等歎けば我も歎かる

 一歩と云はず数歩と云はず世に先んずるものは皆さうであらう。人の憂ひに先立つて憂ふるが故である。しかし衆人の歎く時には我もまた歎くのである。つまり喜ぶといふことを知らずに死んでしまふのが、優れたものの持つて生れた悲しい運命なのである。




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