晶子鑑賞
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:平野万里 

 紫は作者の最も好む色彩でこれだけは放さないが、三十を越えたしるしにとわざと寒さうな鼠色の下著を重ねて、年をとりましたからと謙遜して見る、それも興なしとはしない。これは恐らく実景であつたことだらう。

我昔前座が原の草に寝て忘るゝ術を知らざりしかな

 これは昭和二年八月那須での作。もし前座が原が那須山上の高原の名でもあるなら、若い頃一度那須へ来た事がある様に思はれるが、その証跡歌などには残つてゐない。意は、私は昔ここへ来て草の上に横になつて心の悩みを忘れようとしたことがあつたがそれが出来なかつたことを覚えてゐる。今から見れば夢の様な話だが、若い頃の真剣な気持はそんなものであつたといふのであらうか。

若き日に帰らんことを願はざりただ若さをば之に加へよ

 若いといふことは一面愚かなことでもある。だから若い頃にも一度帰りたいなどとは決して思はない。しかし若いといふことは逞しい力の働くことでもある。私は今若さから遠ざかつて愚かしさはなくなつて行くが、元気も同様に減つてゆく。そこで今日の熟成はその儘にしてその上に元気のよい若さだけを加へて欲しいと思ふ。ここにも常に進歩して止まない作者の心柄が出てゐる。

移り住みやがて都の恋しさに心の動く秋の夕風

 夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成してここに移り再び里住みの身となつた。ただ往来のみあつて家のなかつた当時の辺鄙な荻窪は都人の住み得る処ではなかつた。私は当時芝三光町に居てさへさう思つた。この歌は移居の後暫く経つて[#「経つて」は底本では「径つて」]秋の進んだ夕方に詠まれたものらしい。

わが鏡顔はよけれど寒げなる肩のあたりは写らずもがな

 歌が散文でなく外国の詩のやうに韻は踏まないまでも定形の律文である以上必ず「調べ」が存在し、それが歌の価値を最高度に支配するものであることを私は固く信じ且つ史的にも実証してゐるから誰が何と云はうと変らない。私にすれば、最も調べの高かつたのは藤原期までで、奈良朝となつては最早下り坂である。古今集以下「調べ」などいふほどのものは最早存在しなくなつたが、定家頃に至つて漸く一種の型が出来て来た。しかしそれは恐ろしく人工的なもので、丸で精巧な細工物に過ぎず、生命など籠り様もない代物であつた。而して明治に至つたのである。その間にも幾人か万葉を取り上げ、定家型式の破壊を試みた人があつたがものにならなかつた。その理由は万葉の善悪を識別する丈の眼識に欠けてゐたからである。万葉に眩惑せられたからであつた。それを與謝野先生が出て先づ「小生の歌」で徹底的に破壊してしまつた。新詩社の新風はその大破壊の上に酷しい修練の結果打ち建てられたもので、少くも私の信ずる処では、直ちに万葉でいへばその初期即ち奈良朝以前の健全な調べに亜ぐものと思つてゐる。この歌の如きは勿論近年の円熟した高雅な調べから見れば大したものではないが晶子さん以前には誰も示し得なかつた「張り」を示してゐる。

田楽の笛ひゆうと鳴り深山(しんざん)に獅子の入るなる夕月夜かな

 大正十四年九月津軽板柳の大農松山銕次郎氏の宅で同地の獅子舞を見て作られた歌の一つで蓋し傑作と称すべき作の一つである。柳の枝で深山をかたどり、そこへ紫の獅子が舞ひ込むのださうで、 深山は柳の枝にかたどられ舞ひぞ入り来る紫の獅子 とあるのでそれが分るのであるが、田楽の笛ひゆうと鳴りとは何といふすばらしい表現であらう、まるで歌その者が夕月の下獅子になつて動き出す感じだ。前の歌で「調べ」のことを高調したが、古くは人麻呂か赤人でなければこれだけの高さには歌へない。近年では寛先生の霧島の歌にその比を見る。

貧しさをよき言葉もて云はんとす行者の浴ぶる水ならんこれ

 私が今嘗めて居る貧しさはどんなものですか、それを一つ感じのよい言葉で云つて見ませう、寒中行者が浴びる水の様なものです。行者が冷い水を浴びることを苦にしない様に私は貧しいことなどを苦にしない。進んで冷いとも思はず頭から何杯でも引き被つて之に堪へ、行者が六根の清浄を得るやうに私は自己を磨くのである。こんな風にも解せられるが、果して当つてゐるか如何か少し心許ない。

湖の鱒の産屋の木の槽に流れ入るなる秋の水音

 十和田湖の有名な和井内姫鱒孵化場の光景である。あの清冷氷の様な十和田湖の水のとうとうと流れ込む水音が泉の涌く様に聞こえる。

われ昔長者の子をば羨みぬけふ労ふもその病のみ

 私は子供の時長者の子を羨んだことがあるが、けふ労つてゐるのも同じ貧といふ八百八病の外の病である。作者の中年迄の貧苦は相当ひどいもので色々貧の歌のある理由である。

冬も来て青き蟷螂きりぎりす炉をめぐりなばをかしからまし

 斯ういふ歌は目前の小景の写生などより一般読者には余程難有い作でなければならない。もし詩人が空想してくれなければ決して味はふことの出来ない感想である。而してとても面白い感想ではないか。この位の余裕は常に誰の心にもあつて欲しいものである。

君と我が創造したる境にて一人物をば思はずもがな

 この家この環境は君と我と二人して合作創造したものである。物思ひがあるなら二人して分つべきであつて、一人でくよくよ物を思ふ法はない。それなのに二つに分けることの出来ぬ物思ひが次々に出て来るのは如何したことであらう。したくもない物思ひである。

婚姻の鐘鳴り親はふためきぬものの終りかものの初めか

 昭和元年七瀬さんが山本直正氏とカトリツク教会で婚姻式を挙げた時の歌。これが作者の経験した子女の婚姻の最初のものであつた丈その印象も深かつたものと思はれ、自己の手から、その手しほにかけたものの一人が初めて引き離された。それは子女としてのものの終りである、しかし新生活の発足であるから同時にものの初めでもなければならない。そこに親の心がふためき迷ふのである。

魚の我水に帰りし心地して湯舟にあれば春雨ぞ降る

 魚になつた様な気持がして、とは誰もがいふであらう、入湯と春雨、よく調和したいい気分である。この場合しかしさう云つたのでは鈍い感じしか起らない。それを「魚の我水に帰る」といへば、人の意表に出て新鮮な感想を喚び起すことになる。ここらは学んで出来ることであるから歌を作る人の参考までに申し上げる。

湖の奥に虹立ちその末に遠山靡く朝朗かな

 大正十五年五月日光に遊ばれた時の作。湖は中禅寺湖で、湖畔の宿から見た朝の景色で、調子のすらりと整つた気持のよい歌である。

春ながら風少し吹き小雨降る夕などにも今似たるべし

 今私達の間は大体に於て春の様ななごやかさが支配してゐる、しかしその中にも風が少し許り吹き、雨が少し許り降るけはひがなしとはしない。しかし春の夕方雨風の少しあるのも必ずしも悪くはないとも云へる。私達の中は今はその辺の処で決してまづいものではありません。

山山と湖水巴に身を組みて夜の景色となりにけるかな

 同じ中禅寺湖畔の夜色迫る光景。山と湖水と又山と巴に身を組んで夜となるとは恐ろしい程の表現で、それによつて光景は直ちに読者の脳裏に再現される。詩人は魔法使ひでもある。

拝むもの拝まるゝもの二つなき唯一体の御仏の堂

 晶子さんといふ人は矜恃の高い人であつたから、人の感情を真似たり、共通の思想を我が物顔に取り入れたりはしなかつた。然るに此の歌を見るに浄土教信仰の極致が示されてゐる外何もない。一首の道歌とも見れば見られ、蓋し晶子歌中の珍物である。まさか晶子ともあらうものが真宗坊さんの御説教を聞く筈もなしその教理を取り入れる筈もない。然らばそんな既成観念とは関係なく晶子さんの頭に直接にひらめいた実感と見るべきである。然らば実に驚くべき直覚力と云はなければならない。私などは観念的には学んで知つてゐるが、浄土教信仰に於てそんなことが容易に実現されようとは信じない。然るにそれを老婆か誰かの拝仏の姿を見て之を直覚し得たのだから驚かされる。

物思ひすと云ふほどの唯事の唯ならぬ[#「唯ならぬ」は底本では「唯よらぬ」]世も我ありしかな

 誰でも若い内は物思ひ位はするだらう、そんなことは何でもない唯事に過ぎない。しかし私の場合にはその唯事が唯事でなくなる様な非常事態もよく起つたものだと今はすつかり学者になりすましたありし日の情熱詩人が静かに往時を囘顧するものであらう。

後の世を無しとする身もこの世にてまたあり得ざる幻を描く

 既成宗教を信じない作者は来世を信ずることはない。それなのにこの世であり得ざる幻を描いて喜んだり悲しんだりしてゐる。それは凡愚の迷信にも劣る愚かしさであるがどうにもならない。

死ぬ日にも四五日前の夢とのみ懐しき儘思ふあらまし

 この堪らない懐しさ私は忘れないであらう、例へば死ぬ時が来ても四五日前に見た夢のやうに思ひ浮べることであらう。旅の歌が作の全部となつた頃僅に見出される純抒情詩で縹渺たる趣きはあるが中味の捕へようのないものが多い。

山桜夢の隣りに建てられし真白き家の心地こそすれ

 作者は自ら白桜院の院号を選んだだけに桜を賞すること常人に過ぎ、その癖染井吉野を木のお化けだとけなしつつも、沢山の歌をよんでゐる。その第一は 天地の恋はみ歌に象どられ全かるべく桜花咲く といふので桜花の気持がよく出てゐる。次に 朝の雲いざよふ下に敷島の天子の花の山桜咲く といふのがあるが、之は盛な様子を十分に歌つたものだが余音に乏しい憾みがある。その第三がこの歌で、この歌では一歩深く入つてその夢の様な美しさの象徴されてゐて申し分がない。

尽く昨日となれば百歳の人も己れも異ならぬかな

 百歳の御婆さんとまだまだ若い私との違ひは現在のあり方であつた。私はもう若くないに違ひなかつたが、まだまだ色々のものが残つてゐて全部が全部過ぎ去つた訳ではなかつた。それがどうであらう。全部を全部忘却の過去へ送つてしまつた今となつては百歳のお婆さんと何の違ひがあらう。現在零である点に於て全く同じことになつてしまつた。 悲しみも羊の肝の羹も昨日となれば異ならぬかな[#「かな」は底本では「からな」](草の夢)

ただ一人柱に倚れば我家も御堂の如し春の黄昏

 これは歌集大正七年出版の「火の鳥」にある作である。この「火の鳥」は晶子歌に一時期を画するもので、即ちこれ以後の歌は作者のいふおだやかな人間になつて作つたもので、それ迄のものとは厳然と区別される。激動期は既に去つた。柱に倚つて一人静観しうる春の夕となつた。我が家さへ神聖な御堂の様に思はれるのであつた。

身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん

 昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。遠い昔の女性さへ偲ばれる哀調を帯びて珍しく弱音を吐かれたものであつた。なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。

うつむけば暗紅色の牡丹咲く胸覗くやと思ふみづから

 唯一寸うつむいただけでこれだけの想像が浮ぶのである。常に動いてやまない豊富な詩人の思想感情が窺はれる。さうして若い時から中年期、成熟期から晩年とその想像力の描き出す形は少し宛違つて来てはゐるが最後迄涸渇することを知らなかつた。

衰へてだに悲しけれ死ぬことを容易(たやす)きものに何思ひけん

 作者は一面激しい感情の持主であつたから折にふれて幾度か死を決したこともあつたらう。それを初老といはれる五十近くになつて顧みたものであらう。然るにさういふ口の下から、相当の事情があつたにせよその後幾年もなくまた死を決せられたやうで、その時はこんな歌を詠んで居る。 わが在りし一日片時子の為めに宜しかりしを疑はぬのみ 又 汝(な)が母は生きて持ちつる心ほど暗き所にありと思ふな しかし結局思ひ過ぎであつた。しかしそれを最後としてあとは一二囘の波瀾はあつたが比較的静かな境遇に入られたやうである。

自らは半人半馬降るものは珊瑚の雨と碧瑠璃の雨

 フアウスト第二部に人首馬身のヒロンがあるが、この半人半馬は女性で詩歌芸術の世界、その世界には紅い珊瑚の雨と碧い瑠璃の雨とが入り混つて降つてゐる、その中を縦横無尽に駈け廻るのである。こんなロマンチツクな色彩濃厚な幻想でありながら少しも若い頃のやうなけばけばしさがなく、ゆつたり落付いてゐるのはやはり作者の心の落付きを反映してゐるのであらう。

日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花

 人の漸く老いて好刺戟あれども何の反応も示さなくなつた様子を象徴するものであらう。これも五十頃の作で体験に本づくこと勿論である。

君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て囀りし夢また見ずもがな

 私の嫉妬はずゐ分激しかつたがこの頃はもう争ひの種もなくなり、至極平静な生活を続けてゐる。君の鳥が他の女の鳥と囀り交す様な夢でさへもう見たくはない。

知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず

 神は愛なり、この位よく分ることは私にはない。なぜなら私の心は愛で一杯になつてゐて、何ものをも愛し得るからである。恋の如きもこの愛より深いものとは私は思はない。こんなことの云へるのも一面年老いて最早当時の情熱など思ひ出せないからでもあらう。

ありと聞く五つの戒の一つのみ破りし人も物の歎かる

 この場合破つた一つの戒と認めらるるのは不飲酒戒で、破らないも同じことである。さういふ真面目な正しい落度のない人も物を歎くとは如何したことであらう。仏の教へも頼るに足りない。

足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米と我

 植米はもし生きてゐたら八十位の御爺さんではなからうか。釆花荘の植木は全部この御爺さんの指図で麦畑の中へ植ゑられたのである。私の今居る家のも亦殆どさうである。実にいい爺さんであつた。その好々爺と連れ立つて偶□東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を見て歩く風貌が目に見えるやうである。恋などとは何の関係もない心の満足である。

天人の一瞬の間なるべし忘れはててん年頃のこと

 思へばこれ十余年せまじき恋をした許りに私の嘗めた辛酸労苦思ひ出すさへ堪へられぬ、きれいさつぱり[#「さつぱり」は底本では「さぱつり」]と皆忘れてしまひたい。何忘られないことがあらうか、十余年などは命の長い天人から見れば一瞬間のことに過ぎない。而して今から新らしい瞬間を作りませう。

あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙の雫かかれば

「似ぬ」はこの作者が好んで用ひる語尾の変化で、私なら決して用ひないものだ。私なら「似る」といふであらう。何故なら似ぬといふと似ないといふ意味が紛れこむ虞れがあるからである。作者はしかしさういふ感じがしないと見え至る所にこの変化を用ひてゐる。今まで倚つてゐた黒木の机に涙がかかつたので急に冷えて岩ででもある様に感じられるといふのであらうか。或は相対する人の涙がかかつてさう感ぜられるといふのであらうか。

わが街へ高き空より雪降りぬ寂し心の一筋の街

 之は象徴詩である。何とでも読者が勝手に映像を作るが宜しい。「高い空」といふ一つの観念を思ひ浮べ、夏に「寂しい一筋の街」を思ひ浮べる。その二つを雪でつなぐのである。さうするとそこにぼんやりした映像が浮んで来る。それは何を象徴するものであらうか。

侮られ少し心の躍りきぬ嬉し薬に似ぬものながら

 若さが退くと共に心の平静が得られるやうになつたが、同時に心躍りもしなくなつてそれは我ながら寂しいことであつた。それに如何であらう。私を侮るものが出て来た。私は人の侮りを受けた体験が今度初めてで少し心が躍つて来て嬉しい。薬と侮りとは凡そ似てゐないがその作用は相類してゐないでもない。

夏の夜の鈍色の雲押し上げて白き孔雀の月昇りきぬ

 夏の夜の月の出の印象で、まことにはつきりしてゐる。象徴でも写生でもない、唯印象を伝へんとするもので、この作者以外には余り例が多くない風だ。拙くやると比喩になつてしまつて著しく価値が低下する。この風は先づ余りやらぬ方が賢い。

かぐや姫二尺の桜散らん日は竹の中より現はれて来よ

 二尺の桜といふから鉢植の盆栽の桜か何かであらう。その可哀らしさ美しさは如何見ても昔話のかぐや姫の化身としか思はれない。そこでこの歌になるので、この桜が散つたらす早く竹の中に忍び入つて、今度は人間のかぐや娘として出て御いでなさいといふのであらう。不思議な空想である。

そのかみの日の睦言を塗りこめし壁の如くに倚りて歎かる

 この壁を見るとその中には君と私との中に交はされたありし日の睦言が一杯塗りこめられてゐる様に思はれる。この壁に倚つて凡てが話されたからである。何といふ懐しい壁だらうと思つて倚りかかつて私は泣くのである。

家にあり病院にある子と母の隔たる路に今日は雨降る

 作者は十一人の子女を育てられたが最も可愛がられたのは長男の光さんと末娘の藤子さんとで、特に藤子さんは一人で十人分位の慈愛に浴したやうだ。その藤子さんがまだ小さくて病気をし、近所の小児科病院に入院させた時の歌である。母子の情洵に濃やかで雨のやうに降りそそぐ感じがする。なほこの時の歌二首を上げる。 絵本ども病める枕を囲むとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開(あ)きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室

仄かにも煙我より昇るとて君もの云ひに来給ひしかな

 恋を卒業した作者が今度は心を溌まして、恋の明るい一面を美しく歌はうと試みたのが「火の鳥」以後の作者の態度である。これなどもその一つで恋人の訪問をもの静かに美しく描くものである。

繭倉に蚕(こ)の繭ならば籠らまし我が身の果を知られずもがな

 これは大正十四年正月下諏訪温泉の亀屋に滞在中の作。あの辺に多い繭倉を見ての作。しかし感じは蛹の繭に籠つて遂にその姿を見せない所から自分の最後の姿もさういふ風に隠したい気持が動いたのであらう。それを拡げて繭倉へ持つていつたのであらう。

津の国の武庫の郡に濃く薄く森拡がりて海に靄降る

 大正六年の夏六甲の苦楽園に滞在中の作。これがあの辺に遊ばれた最初の行であつたやうだ。まだあの辺が開けてゐなかつた当時で、その中に苦楽園が唯一つの存在であつた。当時の森に掩はれてゐた六甲の傾斜面がよく写されてゐる。

諏訪少女温泉(いでゆ)を汲みに通ひ侯松風のごと村雨のごと

 上諏訪と違ひその頃の下諏訪は温泉の量が極めて少く、塩汲女が海水を汲んで帰るやうにある町角の湯口から湯を汲んでゆくのが見られた。それを謡曲の松風に通はせたものであるが、それによつて反つて光景が彷彿するのである。

夕暮の浅水色の浴室にあれば我身を月かとぞ思ふ

 作者この時四十歳、まだ若かつたしめつたに温泉などにも行かず、苦楽園の浴室さへ作者には珍しかつたと見え、その心の躍つた様がよくあらはれてゐる。

大船も寄らん許りの湖の汀淋しき冬の夕暮

 小波が騒いでゐる許りで何物もない大きな湖水を見て居ると大洋を行く様な大船が今にもそこへ這入つて来さうな気がする。さういはれてみるとさういふ気のする(それ迄気がつかなかつたが)冬の夕暮の汀の景色であつた。同行した私はその時さう思つてこの歌を読んだものである。

自らを証(あかし)となして云ふことに折節涙流れずもがな[#「もがな」は底本では「もかな」]

 私の経験では斯う思ふと云ふ様なことを挟んでは話を進めて行くのであるが、やはりその時の事が思ひ出されて折節涙が出て来て困つた。せめて冷静な話の間だけは涙が出なければと思ふ。

夜の二時を昼の心地に往来する家の内かな子の病ゆゑ

 子が重病に罹つた場合どの親でも経験したことを代つて云つて貰つた歌である。かうは誰にも云へなかつたのである。

一言の別れに云ひも忘れしは冬の月夜の凄からぬこと

 一言のは別れのあと、云ひもの前へ来る句で、一言云ひ忘れたのである。それは何かと云へば、冬の月夜は少しも凄いものでないといふことである。理由はいはずして明白だ。君と一しよだつたから。

しどけなくうち乱れしも乱れぬも机は寂し君あらぬ時

 之は富士見町の家の書斎の光景、離れの様に突き出した狭い書斎に夫妻は机を並べて仕事をしてゐた。それで先生が居ない折は、乱れた机と乱れない机と並んでゐる様子が一角を欠くが故にいかにも寂しく見えるのである。

わが肩と建御名方の氏の子の島田と並ぶ夜の炬燵かな

 山国の冬は何事も炬燵がその中心である。建御名方は諏訪明神の本体であるからその氏子の島田といふのは諏訪芸者といふことになる。一晩小宴を開いた所芸者が這入つてくるといきなり炬燵にすべり入つた。晶子さんの隣へ坐つた子は小さい子で見ると島田が肩の処にある。炬燵は毎日這入つてゐて珍しくないが芸者の這入つたのが珍しくてこの歌が出来たわけである。

古へを持たず知らずと為ししかど昔のものの如く衰ふ

 古人の糟粕を嘗めるを屑しとしない故に私は古い物を持たない又それを知らないといつて新風を誇つて来たのである。それが如何であらう、この頃のやうに衰へて来ると昔の人の衰へた様を詠じたのと少しも変らない。

師走来て皿の白さの世となりぬ少女の如く驚かねども

 十二月となれば世の中がざわつき、心持に落付きがなくなり皿の白さの持つ荒涼たる光景が現出する。もしそれが少女の新鮮な感覚なら驚きに値しようが、古女にその驚きはないものの、興ざめた次第である。之も印象歌の一例。

夕月を銀の匙かと見て思ふ我が脣も知るもののごと

 夕月を銀の匙と迄は或は感じ得るかも知れない。しかしいちどクリイムを食べた時私の脣に触れたので、私の脣の感触も知つてゐる筈だとまで進みうるものは先づ無からう。それが詩人の詩人たる所因である。

恋衣裘(かはごろも)より重ければ素肌の上に一つのみ著る

 恋衣といふ衣は裘などに比べればとても重い衣なので私は素肌の上にたつた一枚著て居るだけです。重くてとても二枚とは著られません。一枚で沢山です。

いかにして児は生くべきぞ天地も頼もしからず思ふこの頃

 大正五六年の頃の作で、子女が皆大きくなり、学費等も自然嵩んで来る、如何にしてこの大家族を養うべきかそれのみに日夜心を砕き若くして得た名声を利用して色紙、短冊、半切、屏風などを書きなぐるなど全力を尽くすといへど幾度か自信を失はれたことであらう。その時の溜息である。

穂芒や琵琶の運河を我は行く前は粟田の裏山にして

 大正十二年仲秋の月を石山に賞し疏水に舟を浮べて京に入られた時の作。普通疏水と云はれるものを運河と呼びかへたなどにも多少の配慮が払はれてゐる。この短い詩形の中へ当時の環境から感得した名状すべからざる混沌感を捺印するのであるから、用語は十分に吟味されなければならない。適当な用語が適当に配置されて初めて朧げながら感じの一部分が再現されるのである。用語が適当なれば適当なだけ、その範囲が拡大され、その極限に於て完全に再現されることになるが、そんなことは神技に属する。私はあの疏水を自身流れたことはないが、その心持は殆ど完全にこの歌から感得出来るやうだ。

秋の夜はわりなし三時人待てば哀れに痩せし心地こそすれ

 これは秋も大分たけて淋しくなつた夜の心持を歌つたもので、人を待つことにしたのは心持を表現する一手段である。それに依つて秋の夜の心持が哀れに痩せた若い女の形となつて顕はれてくるのである。

粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな

 瀬田川に沿ひ少しく彎曲した気持のいい遊歩道を仲秋明月の下逍遥する純な混り気のない心持が其の儘再現されてゐる。恐らくかへるべき何物もなく取り去るべき一字もない。

花咲きぬむかしはて無き水色の世界に我とありし白菊

 これほど新らしい、又縹渺として捕へ難い趣きもあり、又一種の哲理のやうなものをさへ含んでゐる歌は晶子さんにさへ一寸珍しい。日本のやうな局限された天地に置いておくべき詩ではない。といつて又世界の諸民族中この歌の分るのは或はフランス人位のものかも知れないといふ様な気もする。水色の世界とは即ちロゴスであり混沌であり、万法帰源の当体である。その中で晶子さんと白菊とがものの芽として共存してゐた。それが時至つて一つは詩人として日本に生れ、一は白菊として今日その花を著けここに再び相会したのである。

石山の観月台に立ちなまし夜の明けんまで弥勒の世まで

 弥勒の世とは五十六億七千万年後の世であるから永遠といふ言葉のよき代用である。西洋風にいつたら聖蘇再誕の日までとなる。誰でも、又いくらよい月でもまさか夜明しも出来ない。その内厭きても来るし眠くもなつて観月台から引き上げたであらう。しかし唯引き上げたのでは面白くない、何とか捨ぜりふを残したい。この歌は即ちその捨ぜりふである。それがみろくの世などいふ結構な説話があるのでものになつたわけだ。

もの憎む心ひろがる傍にあれども君は拘はりも無し

 その起りは何にあつたのか、初めは一寸したことからであらうが、心が変調を来したと見え次第に何もかも憎らしくなつて来た。それなのにそれに気がつかずにのんきな男心はすましてゐる。よくそんなことで恋が出来るものだ。先づこんな所であらうか。これはしかし恋人同志の間だけではなく、一般の対人現象として常に私共の体験する所である。

山早く月を隠せば大空へ光を放つ琵琶の湖

 自然現象を物理的に詠じたものには違ひない。月が西山にはいつてしまへば観月台上は蔭となり、見るものは東方琵琶湖面から反射する月光のみとなる。しかし大空へ光を放つとは大した云ひ方で、その為にこの物理現象も詩化されるわけである。

紫の魚あざやかに鰭振りて海より来しと君を思ひぬ

 若い女が紫好みの春著を著て新年の挨拶にでも来たのであらう。それを晶子さんがまあ綺麗なこととほめながら自分の前へ立たせ魚が鰭を振る形に袖をふらせて見る。先づそんな場合の歌でもあらうか。

人の来て旅寝を誘ふ言ふ様に雲に乗らまし靄に消えまし

 今日から見れば丸で夢の様な昔話であるが、我が日本にもさういふことの出来た時代があり、選ばれた少数のものにはそれが出来た。作者夫妻はこの頃以後少し宛それが出来るやうになつたのは何と云つても羨ましい限りで、而してそれは最後まで続き、遂に靄の中に消え去つた形となつたが、この歌は其の儘実現されたのである。

頻りにも尋ぬる人を見ずと泣くわが肩先の日の暮の雪

 街角で落合ふ約束だつた人がどうしても見えない、その内に雪が降り出して肩先を白くする、日は暮れかかる。全く泣きたくなつて来た。それを代つて肩先に積つた雪が泣いてくれるといふのである。之も晶子万有教の一節。

人間の世は楽みて生きぬべき所の如しよそに思へば

 大正十三年頃の作で、この頃は多少の余裕も生じたので、人生の明るい面を見たい心持が動いてゐたやうで、それを抒した歌が残つてゐる。この歌はその一つで、他は 人の世を楽しむことに我が力少し足らずと歎かるゝかな いみじかる所なれども我にのみ憂しと分ちて世を見ずもがな の二つである。楽しみたいが力が足りない、私にのみ辛かつたといふ風に分けたくない、人の世をよそから見ると、如何しても楽しんで生きてゆくべき所としか見えない、それが出来ないのは力が足りないからだと思ひ又いい所なのだが私に限つて、辛いのだと初めから分けて考へることを止めたらどうだらうなどと思ひ悩むのであつて、これは連作として三首併せて読まねば意味が完結しないわけだ。

自らの心乱してある時の息のやうなる雪の音かな

 雪の音は雨の音と異つて、聞こえるやうでもあり聞こえない[#「やうでもあり聞こえない」は底本では「やうでもあ聞こえりない」]様でもあり、淋しい様な暖かい様なあいまいなものであるが、作者はそれを心の乱れた若い女の息のやうに感じたのである。雪の音を外界から切り離して抽象的に詠むことは作者以前には蓋し無かつたであらうし、又出来ることでもない。それを作者は敢て試みたわけで、之を読んで同感し得る人から見れば成功した作といへる。

川上の峨峨の出湯に至ること思ひ断つべき秋風ぞ吹く

 これは大正十三年九月陸前青根に遊んだ時の作。青根の奥深く、蔵王の麓でもあらうか峨々といふ恐ろしく熱い山の温泉のあることを聞いて少し心を動かしたが、車でなど行かれる所でもないので問題にはならなかつた。そこで罪を秋風に著せて思ひ止ることにしたのである。

何時見てもいはけなき日の妹の顔のみ作る紅椿かな

 作者はあらゆる花を愛し、あらゆる花を歌つてゐるが、椿も亦その最も好むものの一つであつて歌も多い。蓋しこんな所にもその所因があつたのかも知れない。この歌では何時見てもといふ句が字眼である。特殊の場合に恐らく誰にでも経験のあるらしい事だが唯気がつかないのだと思ふ。それを作者がこの椿の花の場合について代つて云つてくれたのである。

夕暮に弱く寂しく予め夜寒を歎く山の蟋蟀

 この歌では「予め夜寒を」が字眼で之が無ければ歌にはならない。(世間ではこの歌から予めを抜いたやうな歌を作つて歌と思つてゐるらしいが、いらぬ時間つぶしである。)初秋とはいへ山の上では夜ふけは相当寒い。それを啼き初めの弱い声をきいて蟋蟀も夜寒を感じてゐると思ふのである。

春の夜の月の光りに漂ひて流れも来よや我が思ふ人

 久しぶりで音楽歌(うた)が出て来た。この歌などが日本文学中の一珠玉になつて若い人達の間に日常口誦されるやうな日が早く来ればよいと思ふ。蓋し日本抒情詩はそこから前進するであらうから。

陸奥の白石川の洲に立ちて頼りなげなる一むら芒

 青根から降り来て白石川の川添ひに暫く車を走らせた時見た川の洲の芒である。当時のあくまでもさびれてゐた東北の姿がそこにもあらはれてゐるやうで頼りなげに見えたのである。

別れつる鼠の色の外套がおほへる空の心地こそすれ

 今し方男に別れて来た女の心をその上にある曇り空で象徴しようとした試みであつて、別れた男の外套の鼠色が空に拡がり、それが心にうつることにしたのである。

しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きし思ひ出

 フランスを思ひ出した歌の一つ。夫妻の巴里の宿は近代画を収めて居るリユクサンブル博物館の辺にあつたやうで、そこへは夏の日の長い巴里では夕食後に行つても尚明るく、夕風がしめやかに旅の心を吹いたのであらう。巴里に居たのは大正元年でこの歌の出来たのは十三年であるから十余年の歳月がその間に流れ、作者の歌人としての技量はぐんと進んだ。思ひ出の歌の方がすぐれてゐるのはその所である。

もの云はじ山に向へる心地せよ君に加ふる半日の刑

 ものやはらかな刑であつて、作者の漸く成長したことを思はせる。紅梅どもは根こじてほふれといつた様な時代であつたらこんな事では済まされなかつたであらう。それにしても山に向へる心地せよとはうまいことをいつたものである。この歌などもその内に恋をする若い女性の常識となる日が来るであらう。又その位に日本女性の趣味教養が高まらねばだめである。

二夜三夜ツウルの荘に寝る程に盛りとなりしコクリコの花

 コクリコの花とは虞美人草の俗名ででもあるらしい。作者はひなげしとちやんぽんに使つてゐる。ツウルの荘はピニヨン夫人のロアル川上の水荘である。当時の歌の ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコ我もコクリコ の大に盛なのに対し、この歌には十余年を経てすつかり落付いた作者の心境が示されてゐる。

額髪ほほけしを撫で何となく春の小雨の降れと待たれぬ

 たわいない歌のやうであるが、棄て難い味なしとしない。ほほけしを撫でといふ所もよいのであらう、それが春の小雨といふ小さな期待であることもよいのであらう、何となくもよいのであらう、小さいことだがそれらが三つ重つて軽い楽しい持味を作り出すのであらうか。

歌の本絵の本尋ね何時立たんセエヌの畔(ほとり)マロニエの下

 これはフランス囘顧の歌ではなく、四十になつた作者が夢に巴里に遊び、例の河岸の石垣の上に店を出した古本屋を覗き込む歌である。

よそごとになしてその人死にぬなど話を結ぶありのすさびに

 短篇小説の筋でも話すやうに一くさり我がロマンスを話したがその話の真剣なのに似ず、簡単によそよそしくその人は今は死んでゐないといつて話の結末をつけてしまつた。自分でもそれが一寸面白かつたのである。

前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋の傍

 作者この時四十八歳。尚しかし恋の傍らといへるほどの若さと戯れにダンスをさへ弄ぶ快活さとを失つてゐなかつたのである。それでゐて、私が今頃になつて漸く感じ出した冬の長さを感じて一生よりも長いやうだと云ひ現はしてゐるのには全く感心させられる。感覚の感度の相違である。しかし私の場合とは反対にこの冬は恐ろしい冬でなく楽しい冬である。さあ恋の傍ら何をしようとするのであらうか。

足をもて一歩退き翅もて百里を進むわりなさか是れ

 自分には人の持たぬ翅がある。この翅は前へ飛ぶことを知つて退くことは出来ない。退くには足を以てしなければならない。人が一歩歩く間に百里飛んでしまつたのでは調子が合はないから後退しようとするが、足で一歩退くのではどうにもならない。まづさういつたやうな不合理である。世間の凡俗と自分との距離の大きさを痛感し当惑したものであらう。例へばこんな場合がある。源氏の作者を二人に分け、宇治十帖を娘の大貳三位の作と断じたのなどは、自分には極めて明白で疑ふ余地のないことである。文章を読み破る力のある人、歌の調子又そのよしあしを判別し得る人なら誰でも気がつく筈である。それを今日迄誰一人気づくものもなく、又今日私がそれを云ひ出しても一人の同意者も得られない。当惑せずにはゐられないではないか。

落葉ども昔住みつる木の影の写ると知るや暖き庭

 これもいつもの万有教的観察のあらはれで、冬の日の暖かい日ざしはそのまま作者の人間の心の暖かさを呼び出し、地上一面に散らばつて落葉にまで話しかけさせるのである。

青海波金に摺りたる袴して渡殿に立つわが舞の仕手

 美しい若い女の子の仕舞姿をたたへるものであらう。之に続いて 皷よしいみじく清き猩々が波の上をばゆらゆらと行く といふ歌があるので、その舞の猩々であることが分る。

鴉ども落日の火が残したる炭の心地に身じろがぬかな

 ここに又印象歌(うた)の内でも最も濃淡のはつきりした一例が見られる。冬の落日の印象で、日が沈み終つても尚裸木に止つた儘動かない鵜を火の消えた火鉢の炭のやうに感じたのである。

束の間も我を離れてあり得じと秋は侮る君の心も

「君の心も」は「君の心をも我が心をも」の略であらう。倦怠の夏が過ぎ、快い秋ともなれば、恋の引力が急に増大して離れられなくなる。それを見る秋は人の心の弱さ頼りなさを侮らずには居られないであらう。

寂しさを華奢の一つに人好み我は厭へど逃れえぬかな

 この人は誰でもよい、古人でもよい、寛先生であつてもよい。兎に角日本人には寂しさを好むものが多い。私は華やかなことは好きだが、寂しさやしをりは大嫌ひだ。しかし人生の一面である以上それから逃れるわけにもゆかないのである。

秋風は長き廊ある石の家吾が為めに建つ目には見えねど

 作者は巴里滞在中、油絵の手ほどきを受け、帰朝後も暫く写生を続け、素人としては雅致なしとしない幾枚かを作り富士見町の壁に懸けてゐたことがある。それも作者が造形芸術家としてその資格を欠かない一証ではあるが、この歌などは作者の造形芸術家としての面目を明瞭に表してゐる。或は音楽として或は美術として自由自在に自己を表現して余す所のなかつた作者は珍重されなければならない。

信濃川鴎もとより侮らず千里の羽を繕ひて飛ぶ

 大正十三年八月新潟での作。日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。これは同時に象徴歌(うた)であつて、どんなことにも全力を尽くして当る作者自身の心掛を鴎に見出したのである。

天地に解けとも云はぬ謎置きて二人向へる年月なれや

 夫婦生活の謎である。その謎は遂に解かれずして今日に至つたが、思へば変な年月を暮したものだ。他人も皆さうなのであらうか。道歌の一歩手前で止まつた形ともいへる。少し匂ひがするがこの位はよからう。「なれや」は少し若い。

大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな

 荒海や佐渡に横たふ天の川 がある以上その上に出来て居る作だと云はれても仕方がないが、詩としての価値はそんなことで左右されはしない。詩人としての才分を比較すれば、晶子さんの方が数等上であらうが、この句と歌とだけを比較すれば一寸優劣はつけにくい。芭蕉もいい句はやはり大したものである。

誰れ見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕暮の風

 晶子さんの心が漸く生長して少しのことでは尖らなくなつた頃の作。その心持が偶□夏の夕暮の涼風に反映したものであつて、同時にそれは又万国和平の心でもある。

近づきぬ承久の院二十にて遷りましつる大海の佐渡

 佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。近頃の人ならおけさを思ふであらう。作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた。歌人として史家としてさうあるべきであるが、その感動がよくこの一首の上にあらはれてゐて、自分をさへ一流人として感ずるものの様に響く。

水の音激しくなりて日の暮るゝ山のならはし秋のならはし

 大正九年初秋北信沓掛の星野温泉に行つた時の作。あそこは水の豊富な所だから特にこの感が深かつたのであらう。

菊の花盛りとなれば人の香の懐しきこと限り知られず

 菊の花の真盛りと人懐しさの極限に達することとの間に如何いふ関係があるのであらうか。詩人はものを跳び越えるので、橋を渡して考へなければ分らないことが多い。先づ気候が考へられる。菊の花盛りは十一月の初旬で空気が澄み一年中一番気持のよい気節で、人間同志親しみ合ふのも最も適してゐる、結婚などもこの月に多いやうである。も一つ考へられる橋は菊の匂ひである。この匂ひは木犀やくちなしの様に発散しないし、薔薇のやうに高くもないが、近く寄つて嗅ぐ時は一種特別の匂ひがする、それは香水の匂ひなどと違つて極く淡い忘れ難い匂ひである。詩人の嗅覚にはそれが人の香のやうに感じたのかも知れない。さうだとすれば、人の香の懐しきこと限り知られずとは即ち菊の花に顔を当てた時の感じだ。私にはこれ位より考へられないからこれで負けて貰ふことにする。

薄白く青く冷たき匂ひする二人が中の恋の錆かな

 作者は第十六集「太陽と薔薇」の自序で斯う言つて居る。「三十一音の歌としての外形は従来の短歌に似て居ます。似てゐるのは唯だそれだけです。読者は何よりも先づ、私の個性がどんなに特異な感動を持つて生きてゐるかを、私の歌から読まうとなさつて下さい。唯だ感覚に就てだけでも何か他人と違つた私の個性が現はれてゐるとしたら、とにかく私の歌の存在の理由が成立つ訳です。」 洵に作者の感覚は従来の日本人のそれとは大分違つてゐる。私もこの本でそのことを幾度か説いた様に思つてゐる。しかしこの歌のそれは明かに近代感覚であつて、意識して取り入れたものである。試みに外国語に訳して見れば分る、少しも日本臭などはせず、近代人なら誰でも其の儘受入れることが出来よう。もしこの歌を読んで何のことだか分らないものがあるとすれば、それは万葉集の外何も知らない短歌人か、古今集以下を習ふ和歌人かであらう。

白銀の笛の細きも燃ゆる火の焔の端も嘗むる脣

 対照の美である。対照の美が高級の美となる為には照応すべきものの選び方が大切である。もしそれが誰でも思ひつく程度のものなら美は成立しない。フルウトの歌口と火焔の端とは可なり距離があつて同日の談でない。しかも一方は物そのものであり、一方は恋をする若い女の象徴である。その同日の談でないものを同一の脣に当てるから初めて美が成立し、その程度も可なり高いものとなるのである。

桜疾く咲きたる春と驚きぬ我が送る日のいと寒き為め

 この歌なら誰にでも分るであらう。またこの位な体験なら誰にでもあらうから。唯その言葉遣ひの甚だ滑らかにおだやかに不自然な所のないのを私は尚ぶ。

音高く鳴る鈴を皆取り捨てぬ昨日に変ることはこれのみ

 もとより象徴的であるからその解釈は読者の勝手である。例へばこんな風の場合がその一つ。世間に喧伝してゐる晶子さんの歌は若い時のもの許りで絢爛として目を射るやうなものが多い。 罪多き男懲らせと肌清く黒髪長く創られし我 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人皆美くしき 咒ひ歌書き重ねたる反古取りて黒き胡蝶をおさへぬるかな 春はただ盃にこそ注ぐべけれ智恵あり額の木蓮の花 人の子に借ししは罪か我が腕白きは神になど譲るべき などいふ様な「乱れ髪」調がそれだとすれば之等は即ち音高く鳴る鈴である。そんな鈴は皆取り捨ててしまつた。昨日と違ふのはそれだけのことである。私自身は少しも変つてゐはしないのに世間はもはや振り向かうともしない。鈴などは借物である。その借物の音を彼此言はれるのがいやだし特に高い音には厭になつたので皆捨ててしまつたまでである。

空青し雁の渡るを眺むらん孝標の女も国府の館に

 葛飾の十橋荘で作つた歌。そこから国府の台が近く見える。そこは更科日記の作者が少女の時代、父の国司(菅原孝標)の手許で過した所である。今日は空が晴れて美しい日だから古への文学少女も外を眺めて渡る雁がねを聞いてゐることであらう。孝標の女は源氏物語のフアンでこの点晶子さんと同好のよしみがありお気に入りの一人と思はれる。

紫に墨しみ入りて我が心寂し銀糸の紋を縫はまし

 紫は作者の最も好む色でそれを以て心の象徴としてゐた処、いつしか時の流れの墨の色がしみこんで大分くすんでしまつた。それだけでは少し寂しすぎるので、銀糸で縫ひ取りでもしようといふのであるが、さて銀糸の紋とは何であらうか。李白でも読まうか、絵でも習はうか、梅蘭芳を見に行かうか、それとも温泉へでも行かうか。詩人の心も欲しいものは好ましい刺戟であらう。

屋根の雪解けて再び雨と降る更に涙にならんとすらん

 屋根の雪(第一変化)の解けて雨垂れになつて落ちる(第二変化)のを眺めてゐると、第三番目に変化したら何になるのだらうと考へるに至つた。その時は疑もなく人の涙線に入つて涙となつて流れる様に思はれる。もとは同じ水蒸気であるからさうなくてはならぬのであらう。

薔薇少し米(よね)用なしと法師より使来たらばをかしからまし

 美と実生活、難しい問題である。そこへ更に宗教が出て来て世間と出世間の問題が加はつたのがこの歌である。出世間人が出世間人であること、実生活を捨てて美を取ることは現代に於ては勿論いつの世でも一寸珍しい図面ではなからうか。そんなことがあつたらそれこそ面白い珍重すべきことなのであるが、実はおあいにく様である。不可能事を空想することそれは古人もやつたことであるが、往々にして好詩を形成することがある。

何事か知らず篝の燃えに燃え宿の主人に叱らるゝ馬

 大正十年八月再び沓掛の星野温泉に遊んだ時の作。この時は私も一緒に行つた。私は第十七集「草の夢」の為に序を作つたが、その中でこの歌の成立した時の光景を書いてゐるので一寸思ひ出して見る。それはある夕方軽井沢の莫哀山荘に尾崎先生を御尋ねしたその帰りに沓掛駅まで歩いて来たことがある。 ほととぎす沓掛橋を渡る頃夫人の脚は労れたるかな といふ歌を十年振りで私が詠んだ時の事である。沓掛駅に来て星野温泉の馬車に乗らうとすると今汽車が著いた所と見え満員で乗れなかつた。そこで止むを得ず労れた足を引ずつてあの埃ぽい路を歩いて帰つたことがあつた。帰つて見るともう日も暮れてしまひ、捕虫の目的であらう庭には篝がたかれてゐたが、私達が歩いて帰つたのを見て、なぜ迎へに出なかつたのかと主人が馬車を仕舞うとしてゐた馭者を叱かつた。それを馬が叱られた様に思つたのである。馬は叱られてその意味が分らずきよときよとして向うを見ると篝火が燃えさかつてゐて、それが小言と関係があるやうにも思へるが、この暑いのに何の為に火を焚くのかそれも分らずに当惑して居る形である。

夏草を盗人のごと憎めどもその主人より丈高くなる

 その頃の星野温泉はまだ出来た許りで、将来庭となるべき所も未だ夏草の原であつた。主人は早く草でも刈つてきれいにしたいが何分にも人手がないのでとか何とか言ひわけをすると、それを聞いた寛先生はとんでもない。山荘の庭などといふものは草あるが故に貴いので、草を刈つてしまつては町家の庭も同じことになつてさつぱり値打ちがなくなつてしまふとか何とか、主人も主人だが寛先生の方も少し無理な負けず劣らずの夏草問答があつた。それを聞いて居て良人の肩を持つたのがこの歌である。

女郎花山の桔梗を手弱女の腰ほど抱き浅間を下る

 今の千が滝の地は当時は落葉松の植わつた唯の高原で、そこから山の秋草を一抱へ持つて宿の男でも帰つて来たのであらう。その束が余り大きかつたので、ダンスをして相手を抱いてゐる形などを聯想したのであらう。

姑と世にいふものが片隅にある心地する暗き浴室

 姑だけは晶子さんの知らない存在である。また許し難い存在であつたかも知れない。その姑さんが居るやうだといふのだから余程暗い気味のわるい風呂場だつたに違ひない。或は自家発電による暗い電灯の為だつたかも知れない。

越の国斯かる幾重の山脈の何処を裂きて我来りけん

 前と同じ行、初めて赤倉温泉に浴した時の作。北の方日本海に向つて大きく開けてはゐるが、他の三方は皆山で、特に東方は上信越の山々が屏風を重ねたやうに屹立して居る。成るほどさう云はれて見ると東から来た筈の私達はトンネルも潜らずに何処を如何して来たものか怪しまずには居られない山の立たずまひである。

山涼し馬を雇はん値をばもろともに聞く初秋の月

 同じ行赤倉を出て渋の奥にある上林温泉へ廻つたが環境がもの足りなかつたのでも少し奥へ這入りたかつた。ここから上州白根へ抜ける路に発甫(ほつぽ)といふ小温泉のあることが温泉案内に書かれてある。しかし馬でなければ行かれぬ。そこで馬子を呼んで貰つて打ち合せをした。初秋の月がその相談を上から聞いて居た。しかし雨が降つたか如何かしてこの発甫行きは実現しなかつた。

大木の倒さるゝ事幾度ぞ胸をば深き森と頼めど

 千古斧鉞を入れぬ処女林のやうに思つて頼みにして来た我が胸にもいつの間にやら忍び入るものがあつてその度に大木が地響打つて伐り倒された。ああ人生の悲劇、幾度か幕が降りたがどこ迄続いて行くのであらう。

賜りし牡丹に代りもの云はん長安の貴女人を怨まず

 天下無双の容色を誇り帝寵を一身に集むる楊貴妃のやうな女に人を怨むといふことはない。牡丹の花を見るに、海棠の雨に濡れて怨むが如く訴ふるが如き姿態などは夢にも知らぬ様だ。折角頂いた牡丹だが、牡丹に口なし、乃ち代つて私がその美を語らう。私は長安の貴女楊氏です、人を怨むなどといふさもしい事は知りません。

蘭の鉢百も並べて百体の己を見るも寂しはかなし

 澁川玄耳さんが山東省へ行つたきり遂に帰つて来ない。しきりに蘭を蒐集して閑を遣るものの如くである。一鉢一鉢に自己を打ち込めば百鉢には百鉢の玄耳があらはれるわけだが、我と我が姿を見てもはじまらぬではないかと遠くその心情を憐んだ[#「憐んだ」は底本では「憐むだ」]歌である。も一首 泰山を捨てゝ来よとも云ひなまし玄耳の翁唯人(ただびと)ならば といふのがある。常人でない玄耳さんの事故泰山なんか捨ててしまつて帰つて御出でなさいと単純にも云へないのである。

錦木に萩もまじれる下もみぢ仄かに黄なる夕月夜かな

 錦木の下に萩の植込みがあり、錦木は牡丹色に萩は黄色にもみぢしてゐる。その上に夕月が掛つた。そのうちに錦木の紅は黒く消えてしまつて萩もみぢの黄色のみが仄かに浮き出して来るのである。これは純な日本の伝統を襲ふものであるから晶子歌でも翻訳は出来ない。

物見台さることながら目を閉ぢて我は木の葉の散る音を聴く

 武蔵野にある久保田氏の都築園といふのに遊んだ時の作。その中に物見台といふ小高い所があつて登つて見たが、私は物を見る代りに目を閉ぢて反つて木の葉の散る昔を聴いてゐる。極く軽いユウモアはあるが別に皮肉ではない。さうして反つてよく武蔵野の晩秋の光景があらはれてゐる。

森に降る夕月の色我が踏みて木の実の割るゝ味気なき音

 これは珍しく押韻の歌があつた。啄木流に三行に書くと
森に降る夕月の色
我が踏みて
木の実の割るゝ味気なき音
 はつきりものの音が響いて来て一寸面白い。意識して作つたものでは勿論ないが、将来ロオマ字歌が作られる様になつたらこんな方向にも進む機会がないとも限らない。

降る雪も捕手が伸ばす足も手もうるさき中の美くしき人

 作者は必ずしも芝居好きでなく余り度々も行つて居ないが、それでも芝居の歌をいくつか詠んでゐる。これもその一つ。芝居のことに暗い私にはこの光景が何の幕切れであるか知る由もないが、見たことはあるやうだ。女のやうでもあるが、羽左衛門なら男でも当て嵌まる。雪や手や足が邪魔になるやうで邪魔にならずそれぞれの効果を挙げてゐる所が「うるさき」で表現されてゐるのである。

殿上に鱶七も居て煙草飲むかかる世界を賞でて我来(こ)し

 考へて見れば歌舞伎劇の世界こそ途方もない世界である。千本桜なども正にその一つであらうが、途方もない世界であることもさう云はれて見れば人はやはり忘れてゐる。事々物々作者を泣かさぬといふことのないこの世の中で、独り一番目の舞台に限り全くの別世界である。感覚の鋭い作者故にこの感も深いのであらう。

序の曲の急なりあはれ何事にならんと涙滝のごと落つ

 さう思つて芝居には来たのに既にして大ざつまが初まれば、もう駄目である。何か非常なことの行はれる予感がして涙が滝のやうに落ちて来る。家にあつてはこんな涙は出ないのに。

何すらん船の数ほど人居たり口野の浦の春の黄昏

 大正十一年二月畑毛から昔の馬車に乗つて静浦に出た。海岸には漁夫らしい男が一塊居た。何か初まりさうなけはひが感ぜられた。その光景が旅の心を打つたのである。

限りなき命を持ちて居給ふと思ひしならね頼みし如し

 鴎外先生を弔ふ歌の一つ。鴎外先生は晶子さんの心から畏敬した先輩の一人であつた。従つて同先生から認められたことはどれ位嬉しいことか知れなかつた。巴里行の場合なども、偶□満洲から出て来た私が一日夫人の行きたがつてゐる趣きを先生の耳に入れた処、先生は即座にさうだらう、行きたいだらう、宜しいそれでは俺も一つ骨を折らうと言つて三越に話されその方からも何程かの費用が出た筈である。それ位晶子さんを可愛がつてゐた先生が俄になくなられたので、その失望は大きかつたらしく、それがこの歌の「頼みし如し」によく現はれてゐる。又 何事を思ふともなき自らを見出でし暗き殯屋の隅 といふ歌もあるが、それにも同じ心が出て居る。

夢醒めて我身滅ぶと云ふことの味ひに似るものを覚ゆる

 夢が浮世か浮世が夢か、畢竟夢の世の中に唯一つ確なことは夢の存在である。夢だけは確に夢である。その夢の醒めることは即ち我が身の滅びることでなければならない。仏教哲学的に云へばさういふ理窟にもなるが、この歌はそんなことには関係なく単に作者の瞬間的の感覚を抒したもので、私にも同じ様な醒め際があるのでよく分る。しかしその感覚の根底を為す潜在意識といふものがありとすれば前の理窟のやうなものでは無からうか。

宮城野の焼石河原雨よ降れ乾く心はさもあらばあれ

 大正十一年十月初めて箱根仙石原に遊んで俵石閣に泊したその時の作。丁度早川の水涸れの時期であつたらしい。焼石のごろごろして居る河原は見るも惨たらしいが、それは実はわが心が同じ様に乾いてゐるので、それが反映して痛ましく感ぜられるのではないか。せめて雨が降つて河原だけでも濡らして欲しい。それを見たら私の心も少しは沾ふことだらう。といふ様な意味の歌だが、そんなことは如何でも宜しい。読者はその調子のすばらしさを味はつて生甲斐を感じて欲しい。

水落つる中に蹄の音もして心得難き朝朗かな

 作者が単行本として出した最後の集は第十九集「心の遠景」である。この集に就いて作者はこんなことを云つてゐる。「若し私が長生するならば、斯くいふ今日の言葉に自ら冷汗を覚える日が無いとも限らないのであるが、とにかく小さい私の作物として、今日は「心の遠景」を最上の物として考へてゐるのである。」それは昭和四年の事であつたが、その後の事実は作者の予想した通りで、作者の表現法は年と共に進んで極る所がなく、「心の遠景」なども忘却の靄の中に埋没してしまふ許り影の薄い存在となつたのである。しかし今私が若い頃からの全詠草を順序を立てて見直して来てすぐ気が付いたことは、まだまだこの辺までは真の自由を得て居ないといふことである。その証拠は「太陽と薔薇」の自序にある。曰く「私は久しく歌を作つて居ながら、まだ自分の歌に満足する日が無く、絶えず不足を感じて忸怩としてゐる人間です。自分はもう歌が詠めなくなつたと悲観したり、歌と云ふものはどうして作るものであつたかと当惑したりすることが毎月幾囘あるか知れません。内から自然に湧き上る熾烈な実感の嬉しさに折々出合ふ時でさへ、それの表現に行詰つて唖に等しい苦痛の中に人知れず困り切つてゐることがあります。その難関を突破して表現の自由を得た刹那に詩人らしい自負の喜びを感じるにしても、次の刹那にはまた現在の不満を覚えて、自分の歌に対する未来の不安を抱かずにゐられません。」私などもつひこの間まで詩人としての自覚がないのでその程度は尚浅いにしても同じ悩みを持つてゐたから、その苦心の状態がよく分る。しかしその不自由もやがて完全に縄の解ける日が来て遂には昔の夢になつてしまつた。この歌などがその自由を得た日の極く初めの方を記念するものの一つであらう。思つたこと――それは摩訶不可思議な、仙人の見る夢のやうな、名状すべからざるものの影に過ぎない――がそのまま歌になつて少しの渋滞の跡も示さない、斯ういふのを表現の自由といふのであつて、作者の如き才分の豊かさを以てしてもここに達するには二十年の苦しい修練を要したのである。この作も前のと同じく俵石閣で作つたもの。その庭には池があつて山の水が落ちてゐた。下の街道には荷を著けた馬が通つてゐた。ふと目がさめて見ると不思議な音が聞こえてゐてそれは明かに東京の家ではなかつた。ここのこの感じが歌はれてゐるのである。

上なるは能の役者の廓町落葉そこより我が庭に吹く

 これは富士見町の崖下の家の実景で、秋の終りともなれば崖上の木の葉、中でも金春舞台を囲む桐、鈴懸、銀杏、欅皆新詩社をめがけて散つたのであらう。この辺もしかし空襲ですつかり焼けてしまつたといふことである。

手綱よく締めよ左に馬置けと馬子の訓へを我も湯に読む

 大正十二年一月天城を越えて南伊豆の初春を賞した。その時谷津温泉で作つたもの。自動車交通の開ける以前の伊豆旅行は凡て円太郎馬車か、馬の背に頼る外無かつた。従つて初めて馬に乗るものの為に乗馬の心得が浴場の壁に掛けてあつたとしても必ずしもあり得べからざる事でもない。南伊豆の狭い海岸の天城颪の吹きまくる谷津の湯の湯船の中で女の私が乗馬訓を読まうなどとは思はなかつたとをかしいのであるが、しかし如何にもよい訓へだと感心してゐる趣きも見える。

藤原の理髪の家の前の土馬車を待つ間に夕霜の置く

 私は行つた事がないが藤原の湯とは蓮台寺温泉の事でもあらうか。今夜は下田へ行つて泊らうと宿を出て、理髪屋の前で下りの馬車を待つてゐると日が暮れかかつていつの間にか夕霜が白く置いてゐた。恐ろしく細かい観察であり、又時所位の限定でもある。さうしてそれ故に特殊の美が生ずるのである。

山に居て港に来れば海といふ低き世界も美くしきかな

 蓮台寺から下田へ来ての感想であるが、「海といふ低き世界」は今では私共の間では熟語になつてしまつてゐる。感覚の正確妥当さを証する一例である。

洞門と隣れる家に僧の来て鉦打ち鳴らす多比の夕暮

 静浦から韮山の方へ出るトンネルの付近は地方有数の石切り場で、いくつかの洞が出来てゐて、一寸風変りな光景を呈してゐる。そこへ念仏僧か何か来て鈴を鳴らす。日の暮の薄靄が海面を這ふといふ様な光景である。

七月の夜能(やのう)の安宅陸奥へ判官落ちて涼風ぞ吹く

 安宅がすんだ、判官は通過した、緊迫が解けた、まあよかつた、ほつとして一息つくと、七月の夜も既に更けて涼しくなつてゐた。

切崖の上と下とに男居てもの云ひ交はす夕月夜かな


次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:310 KB

担当:undef