晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

逃げ水の不思議を聞けど驚かず満洲の野も恋をするのみ

 昭和三年五、六月夫妻は満洲に遊んだ。これから暫くその時の歌が出て来る。大石橋から営口へかけた沙地では時折例の武蔵野の逃げ水の様な現象が見られる、理由はよく分らないと人のいふのを、作者は心の中で、何の不思議があるものか満洲の野が恋をしてゐるだけで、人を誘惑しておいでおいでをしてゐるわけだと微笑しながら聞く歌である。

昼の程思ひ沈むも許すべし夜は人並に気の狂へかし

 その頃の巴里の夜は世界の歓楽境を現出し、カルチエ・ラテン辺の小カフェエでも特に美術生の巣であるだけ相当の狂態が見られたものであらう。既にして夫人は郷愁にかかつて沈み勝ちであつたらしい。それを先生や梅原君などに連れられてカフェエに行つて見るとその通りである。せめて夜だけでもあの人達の様に気が狂つてくれたら心も楽にならうものをと思ふのであつた。

浅緑梨の若葉のそよぐ頃轎して入りぬ千山の渓

 湯崗子温泉から東方五里の処に千山がある。満洲第一の勝地と聞いて、わざわざ轎の用意をして貰つて登山した。さうして多数の佳什を残したが、その心の喜びが一見報告のやうなこの歌にもよく出て居る。

何れぞや我が傍に子の無きと子の傍に母のあらぬと

 今私が巴里で斯うして居ることは、三千里外に母と子とを引離して居ることであるが、何れの側が一番寂しい辛い思ひをして居るのであらう。そばに子のゐない私か、それとも母の居ない麹町の子供達か。心にもない日を送りたくない為に私は思ひきつて夫の側へ来たのであるが、それは同時に子供達から遠ざかることとなつて志と違つてしまつた。夫人の郷愁はここから生じて遂にまたまた一人で帰朝してしまつたのである。

無量観わが捨て難き思ひをば捨て得し人の青き道服

 千山には仏寺の外に道教の廟観がある。無量観と名づけ仙骨を帯びた道士がゐて夫妻等を迎へたが、夫人は之等道士達の風貌にいたく好感を寄せてゐる。この歌はその現はれで、断ち難き恩愛を断ち切つて山に入つた道士をその著てゐる青服を借りて称へたものである。

象を降り駱駝を降りて母と喚びその一人だに走りこよかし

 これはロンドンの動物園で子供達が象や駱駝に乗つて遊んでゐるのを見て作つた歌で、一人位は母さんと呼びながら跳びついて来さうなものだといふ悲しい母の真情がその儘吐露されてゐて、どうでも人を動かさずにはやまない慨がある。

道士達松風をもて送らんと云ひつる如く後ろより吹く

 無量観を出て帰途につくと後から風が吹いて来た。分れ際に道士達が松風を吹かせて山の下を送つて上げませうと云つた様な趣きである。仙骨を帯びた道士の挨拶迄現はれてゐて面白い。

手の平に小雨かかると云ふことに白玉の歯を見せて笑ひぬ

 表情沢山な歯並みの美しい巴里女は、一面耽美主義者でもある作者の大に気に入つたらしくこの歌などその一つのあらはれであらう。

旅人を風が臼にて摺る如く思ふ峠の大木のもと

 これも千山から降りて来た時の光景であるが、満洲の風がどんなものであるか窺はれて面白い。

いか許り物思ふらん君が手に我が手はあれど倒れんとしぬ

 ミユンヘンへ行つた頃の夫人のノスタルヂアは余程昂進してゐてこの歌の通りであつたらしく幾許もなくマルセイユから乗船してまた一人で帰朝されたのであつた。

夕月夜逢ひに行く子を妨げて綿の如くに円がる柳絮

 遼陽の白塔公園辺の見聞であるが、柳絮の飛ぶ所なら満洲だらうが、フランスだらうが構はない。柳絮と逢引との間に感情の関連を発見した歌である。

飛魚は赤蜻蛉ほど浪越すと云ふ話など疾く語らまし

 印度洋の所見であるが、帰心箭の如く、頭の中は子供のことで一杯だつた。そこで印度洋上の飛魚も日本の赤とんぼになる訳である。

尺とりが鴨緑江の三尺に足らぬを示す蘆原の中

 安東で鴨緑江を見に行つた。岸には蘆が繁つてゐる。その蘆の一本に尺取虫がゐて、しきりに茎を上つて行く、それを見て居て分つたことだが、この国境の大河鴨緑江の幅も尺取のはかる茎の長さを以て測れば三尺にも足りないことであつた。虫の世界ではさういふ風に物をはかるのだらうが面白いことである。虫に代つて鴨緑江の幅を測量したわけである。

子を思ふ不浄の涙身を流れ我一人のみ天国を墜つ

 芸は長く命は短しといふが、芸術の都巴里を天国とすれば、私の場合には子を思ふ人間性即ち短い命の方が勝ちを占め、その為一人だけ天国を追はれて帰つて来たのである。

江の中の筏憩へる小景に女もまじり懐かしきかな

 大陸の大きな河を流れる筏は頗るのんびりしたもので、日本の筏とはその心持が丸で違ふ。日本の筏に女が乗る事などは決してあるまい。採木公司の筏がついて憩んでゐるのを見ると女が乗つてゐる。それが女性である作者の目に珍しく懐しく映つたのである。

白玉は黒き袋に隠れたりわが啄木はあらずこの世に

 啄木を傷んだ歌である。我々の仲間でいへば啄木はやはり歌が旨かつた。私などはいつも啄木には叶はないと感じてゐた。しかし友人としては私の方が少し兄貴格であつたので、可哀らしい弟分としか映らなかつた。今でも啄木を思ふと両国の明星座の楽屋で鶯笛を吹いた可哀らしい啄木が浮んで来る。この歌で白玉に比較されてゐる啄木は、私の記憶にある彼その儘で、晶子さんも同じ様な気持で啄木に対してゐたのではないかと私には思はれる。

嫩江を前に正しく横たへて閻浮檀金の日の沈みゆく

 チチハルで見た満洲の赤い夕日であるが、その色は閻浮檀金といふ金中の精金、その前に興安嶺を発した嫩江が真直ぐに流れて居る光景。斯ういふ光景も最早日本人の目には当分映るまい。

心いと正しき人がいかさまに偽るべきと思ひ乱るる

 どう□をいふべきか、私にも覚えがあるが、心の正しい人だつたらその悩みは一しほ深からう。可哀さうに麻の如く思ひ乱れてゐるやうだと□を云つてゐる相手に深く同情する歌でもあらうか。

旅人に呉竹色の羅を人贈る夜の春の雁がね

 チチハルの大人呉俊陞の若い夫人李氏に招かれ嫩江の畔の水荘に一夕を過した時、御別れに美しい虹の様な支那の織物の餞を受けた。先程からシベリアに向ふ春の帰雁が江の上をしきりに鳴いて通る。

白き鶏罌粟の蕾を啄みぬ我がごと夢に酔はんとすらん

 阿片は罌粟の実の未だ熟さないのを原料として採るので、花の咲かない蕾には無いのかも知れない、しかし下向きに垂れてゐる蕾は反つて重さうでその中には阿片がつまつてゐさうに見える。それを鶏が来てちよいと啄んだ。今にこの鶏も私のやうにその毒に酔つて沢山夢を見ることだらう。

哈爾賓は帝政の世の夢のごと白き花のみ咲く五月かな

 私は明治四十三年頃帝政の世のハルピンに一度遊んだ事があつてその公園の夜の賑はひを知つてゐる。夫人の行かれたのは今のソ□エトになつてからではあるが、尚相当当時の俤を存してゐたに違ひない。その後満洲事変直後に私の行つた時は、その風貌は全く違つてゐた。その後は更に急変したことであらうから、この歌などは今では当時の記録のやうなものだ。

小鳥来て少女の様に身を洗ふ木蔭の秋の水溜りかな

 小鳥の水を浴みてゐる姿に何となく羞らふ様子が見える、それを少女の様にと云つたのでその観察の細かさ詳しさはやはり作者のものである。

マアルシユカ、ナタアシヤなどの冠りもの稀に色めく寛城子かな

 寛城子は長春のロシヤ側の駅名で今日ではとうにそんな駅はあるまいが、当時でも随分なさびれ方であつた。マアルシユカ、ナタアシヤはロシヤ少女の尋常の名で、ロシヤ風の冠りものをした女が稀に歩くほか人の気はひも感ぜられない光景を描くものであるが、その不思議に柔い響きを持つロシア名を並べて雰囲気を醸し出した所流石に大家の筆触は違つたものだ。

寒げなる筵の上に手を重ね瞽女(ごぜ)ぞいませる心覗けば

 物乞ひ女の哀れな姿をふと心内に認めて驚いた形である。しかしよくよく見ればこの乞食女は誰の心中にも居るのである。

公主嶺豚舎に運ぶ水桶の柳絮に追はれ雲雀に突かる

 公主嶺にはもと農事試験所があり、種畜場を兼ねてゐたので支那豚を改良する目的の立派な豚舎があつた筈だ。その豚舎へ苦力が水桶を運ぶ。その周囲を柳絮が舞ひ、雲雀が縫ふ様に飛んでゆく。満洲らしいのびのびした光景である。日本ではそんな低い所を雲雀は飛ばない。日本なら燕であるべき所が満洲では雲雀なのであるが、雲雀に突かれるとは面白い。

わが横に甚(いた)く頽(くずほ)れ歎く者ありと蟋蟀とりなして鳴く

 蟋蟀の鳴くのを聞いてゐると、私の横に人がひどく泣いてゐるが、可哀さうなわけがあるのだからと取りなし顔にいつてゐる様に聞こえる。この頃即ち大正の初めの頃の歌はその後に比しては勿論、それ以前に比しても少しく劣つてゐるやうに思へるが、この歌などは立派なもので、他の時期の秀歌に比し少しも遜色はない。

重なれる山は浅葱の繻子の襞渾河は夏の羅の襞

 奉天から撫順へ曲る渾河添ひの景色である。折から初夏の山の色水の色の淡い取り合せが色彩の音楽のやうに美しかつたのであらう、その通り歌にあらはれてゐる。

少女子は夏の夜明の蔓草の蔓の勢ひ持たざるもなし

 たとへば朝顔の蔓のやうにか細く柔いが、その物にしつかりからみついて夏の夜明にずんずん延びる勢ひは即ち少女の勢ひで誰もこれを押へることは出来ない。

山桑を優曇華の実と名づけたり先生いかに寂しかりけん

 尾崎咢堂先生の軽井沢の莫哀山荘は夫妻が吟行の途次必ず立ち寄る処で、私も一度御伴をして行つて咢堂先生も加はつて席上の歌を作つたことがあつた。この頃既に先生は何の党にも属せず清教徒として政治的に孤立し大半ここに閑居して居られた形であつた。炭窯まであつた広い山荘を歩き廻つた時、山桑が紫の実をつけてゐるのを先生が戯れにうどんげの実といふ名をつけて珍重する由など話されたのであらう、それを直ちに主人の現在の心境を写すに借用した訳で、情景相即した趣きの深い歌である。

冬来り河原の石も人妻の心の如く尖り行くかな

 冬ともなれば人妻の仕事が一段とふえるので、それに伴つて心が円味を失ひ自ら尖つてくる。丁度その様に河原の石も暖か味を失ひ、堅い影を帯びて尖つて行く様に見える。これは河原の石の印象を人妻の心であらはさうとしたものの様であるが、反対に人妻の心の尖つてゆくことを云ひたい許りに河原の石をかりたのかも知れない。

従はぬ心は心いとせめて変りはてぬと人の云へかし

 どうも心が進まない、強いて心を翻へす様にし向けて貰ひたくない、又片くなな心だと思はれたくもない、従はぬ心はその儘そつとしてそれには触れずに、せめて晶子さんもすつかり変つてしまつたと位に云はれてやみたいものである。まあこんな風にやつて見たが、少しむつかしくてよく分らないのが真相である。

女より選ばれ君を男より選びし後の我が世なり是れ

 このみじめさは如何です。これが沢山の女の中から私をあなたが選び、私がいひ寄つてくる多くの男の中からあなたを選んで、はじめて私達の恋は実を結んだのです。その結果が今日の有様です。これは悲観面であるが、反対に今日を讃美したものとも取れる。何れでも読者の好むやうに。

彗星の夜半に至りて出づるとよ胸を云へるか空を云へるか

 これは何彗星かの出た頃の作である。今度の彗星は夜中にならなければ見えないと人のいふのを聞いて、はてそれでは丸で恋をして居るものの胸の中の様だと思つたのである。

千万の言葉もただの一言も云はぬも聞きて悲し女は

 女はどんな場合でも悲しい。千万言を聴いて悲しむ場合もあり、唯の一言を聴いて悲しむ場合もあり、甚しい場合には云はぬ言葉さへ聴いて悲しむのである。而してこの最後の場合があつて一層悲しいわけでもある。

町名をば順に数ふる早わざを妹達に教へしは誰れ

 小娘時代の囘顧で、幼時を思ひ出すいくつかの作の中でも最も罪のないもので、微笑を禁じ得ないがどこか才はじけた作者らしい俤があらはれてゐて面白い。

夜明方喉いと乾くまだ斯かる心の苦には逢はずして死ぬ

 昭和三年頃病気をして入院された時の作。作者は結婚以来今日まで二十数年間其の間大小様々のことで心を苦しめて来たが、今朝夜明の苦しさに比すべき程の苦しみを覚えてゐない。それを忍び難い苦痛の様に思つたのは知らなかつたのであると共に、けさの喉の乾きに比すべきものに出逢はずに死んでゆけることをよしとせねばなるまい。これは兼て肉体を一方ならず重んずる作者に新たに一の例証を与へた経験でもある。

ただ子等の楽しき家と続けかしわが学院の敷石の道

 文化学院の学監としての女史の面目がこんなによく出て居る歌はないと共に、女学校の教師の中にこれほど親切な心を持つた先生が一人でも多くあつて欲しいと思はれる様な歌である。つまり文化学院のやり方は生徒を楽しませながら教養を与へるやり方で著々その実をあげてゐる、唯その楽しい生徒が帰つてゆく家庭も等しく楽しい所であつて欲しい、それが憂鬱な場所、不幸な場所、悲惨な場所でないことを望まずにはゐられないといふのである。卒業式の日に一人一人が花束を貰ふなどいふ暖か味は晶子さんでなければ持ち合せなかつたことではないか。

歎くこと多かりしかど死ぬ際に子を思ふこと万にまさる

 重態で死の幻を見た刹那の感想である。やはり子を思ふ不浄の涙が最後の涙である事を知つた偽らざる母性愛の姿である。精神は肉体に劣るが、強烈な恋愛も母性愛には若かないのである。

真白くて五月桜の寂しきを延元陵に云へる僧かな

 昭和三年の晩春吉野に遊び後醍醐帝の延元陵に参られた時如意輪堂の僧でもあらうか、既に桜は散りはて五月桜の残つてゐたのをさう批判したのであらう。その心持はしかし吉野朝の心持でもあるのでこの歌となつたのであらう。

人よりも母のつとめも知れるごと君あらぬ日に振舞ふは誰

 良人の留守ともなれば文人としての又愛人としての一面は後退し、母としての晶子さんだけが前進し活躍するのであるが、それが一寸自分にも面白いのである。

山吹の白花となり零るゝや春の夕も冷やかにして

 山吹の白くなつてやがて枝から落ちるのは春も進んだ五月になつてのことであるが、そのうら淋しい様子を見ると冷い感じがするのであらう。

衰ふるもの美くしく三十路をば後に白き山桜散る

 私も三十を越えて衰へ方に向つた。しかしそれは若い時考へたやうないとふべきものではなかつた。衰へも亦美しい。丁度山桜のあの散り方のやうなものである。あの桜は三十を過ぎた私のやうなものだ、而してあの満開時に見られぬ散り方の美しさを見るがよろしいといふので、この人の人柄からすればやはり人生肯定の歌であらう。

窗鎖さで寐れど天城の頂と今さら何を語るべき我

 昭和二年頃の歌。熱海ホテルに泊られ夏のこととて窗をささずに寐た。私も少し若かつたら窗から見える筈の大室山の頂きに対して或は心の丈を訴へたり不満を洩らしたりしたかも知れない。しかしすつかり大人になつてしまつた今は語るべき材料もなくなつた。唯窗をあけたまま眠る許りである。

我にある百年は皆若き日と頼みて之を空しくもせじ

 日日是好日の端的であるが、作者などは生れながらにして之を体得しその覚悟を以て日々最善を尽くしてこられた。あれだけの幅のある大きな業績と結果とを残したのは全くその御蔭である。

雪の後紅梅病めり嘴のあらば薬を啄ませまし

 晶子の万有教の最も顕著な現はれの一つである。荻窪の釆花荘には直ぐ窓際に早咲きの紅梅があつて一月頃にはもう咲く慣はしであつた。従つて雪の方が後になる。これは紅梅を鶯のやうな鳥の一種と観じ嘴のないのを惜しむ[#「惜しむ」は底本では「憎しむ」]心であつて、比喩でも、象徴でもない、万有を友とする詩人の真情の其の儘吐露しただけのものである。

憎むにも妨げ多き心地しぬわりなき恋をしたるものかな

 憎みたいのである。それなのにそれが出来ない色々のわけがあるとは困つた恋をしてしまつたものである。歎くが如く喜ぶが如く甚だ単純でない所が晶子さんの開拓した明治抒情詩の新境地であるが、それ許りではない、この歌は調子もよくそつもなくこの時代の作としてはよく出来て居て、円熟した後年の風が既に見えてゐる。

川ならぬ時の流れの氷れかし斯くの如くに踏みて行かまし

 これは昭和二年の正月函根の小涌谷の三河屋に滞在中、強羅へ出掛けたことがあつたが、その途で早雲山から流れ落ちる山川の氷つてゐた上を渉つて行つた、その時の歌である。形なきものに形を与へ、目に見えぬものを目に見えるものにすることが芸術家、詩人の仕事である。然らば時の流れを川の流れに変へさせること位は詩人の茶飯事であらうが、人から見れば面白い感想である。

後より来しとも前にありしとも知らぬ不思議の衰へに逢ふ

 三十を越えると自分にも漸く衰へが見えて来たが、しかしよく案ずると不思議なものだ。衰へといふものが前途にゐて私の来るのを待つて居た様にも思へるし、若い時色々心を苦しめ身を悩ましたその為に衰へたのであらうから、私のあとから私について来たものの様にも思へる、不思議なものにいよいよ出会つてしまつた。これは遂に男の感じない感じでもあるしこの歌のよしあしは私には分らない。

蜩の声に混じりて降る雨の涼しき秋の夕まぐれかな

 西行にあつて欲しい歌であり、伏見院にあつて欲しい歌であり、その使つてある文字一つとして珍しいものはない。それにも拘らずやはり晶子以前には誰もこれほどの組み合せを作つてゐない。言葉のコンビネエシヨンの如何に微妙で又摩訶不可思議なものであるかが分る。

紫と寒き鼠の色を著て身をへりくだり老いぬなど云ふ

 紫は作者の最も好む色彩でこれだけは放さないが、三十を越えたしるしにとわざと寒さうな鼠色の下著を重ねて、年をとりましたからと謙遜して見る、それも興なしとはしない。これは恐らく実景であつたことだらう。

我昔前座が原の草に寝て忘るゝ術を知らざりしかな

 これは昭和二年八月那須での作。もし前座が原が那須山上の高原の名でもあるなら、若い頃一度那須へ来た事がある様に思はれるが、その証跡歌などには残つてゐない。意は、私は昔ここへ来て草の上に横になつて心の悩みを忘れようとしたことがあつたがそれが出来なかつたことを覚えてゐる。今から見れば夢の様な話だが、若い頃の真剣な気持はそんなものであつたといふのであらうか。

若き日に帰らんことを願はざりただ若さをば之に加へよ

 若いといふことは一面愚かなことでもある。だから若い頃にも一度帰りたいなどとは決して思はない。しかし若いといふことは逞しい力の働くことでもある。私は今若さから遠ざかつて愚かしさはなくなつて行くが、元気も同様に減つてゆく。そこで今日の熟成はその儘にしてその上に元気のよい若さだけを加へて欲しいと思ふ。ここにも常に進歩して止まない作者の心柄が出てゐる。

移り住みやがて都の恋しさに心の動く秋の夕風

 夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成してここに移り再び里住みの身となつた。ただ往来のみあつて家のなかつた当時の辺鄙な荻窪は都人の住み得る処ではなかつた。私は当時芝三光町に居てさへさう思つた。この歌は移居の後暫く経つて[#「経つて」は底本では「径つて」]秋の進んだ夕方に詠まれたものらしい。

わが鏡顔はよけれど寒げなる肩のあたりは写らずもがな

 歌が散文でなく外国の詩のやうに韻は踏まないまでも定形の律文である以上必ず「調べ」が存在し、それが歌の価値を最高度に支配するものであることを私は固く信じ且つ史的にも実証してゐるから誰が何と云はうと変らない。私にすれば、最も調べの高かつたのは藤原期までで、奈良朝となつては最早下り坂である。古今集以下「調べ」などいふほどのものは最早存在しなくなつたが、定家頃に至つて漸く一種の型が出来て来た。しかしそれは恐ろしく人工的なもので、丸で精巧な細工物に過ぎず、生命など籠り様もない代物であつた。而して明治に至つたのである。その間にも幾人か万葉を取り上げ、定家型式の破壊を試みた人があつたがものにならなかつた。その理由は万葉の善悪を識別する丈の眼識に欠けてゐたからである。万葉に眩惑せられたからであつた。それを與謝野先生が出て先づ「小生の歌」で徹底的に破壊してしまつた。新詩社の新風はその大破壊の上に酷しい修練の結果打ち建てられたもので、少くも私の信ずる処では、直ちに万葉でいへばその初期即ち奈良朝以前の健全な調べに亜ぐものと思つてゐる。この歌の如きは勿論近年の円熟した高雅な調べから見れば大したものではないが晶子さん以前には誰も示し得なかつた「張り」を示してゐる。

田楽の笛ひゆうと鳴り深山(しんざん)に獅子の入るなる夕月夜かな

 大正十四年九月津軽板柳の大農松山銕次郎氏の宅で同地の獅子舞を見て作られた歌の一つで蓋し傑作と称すべき作の一つである。柳の枝で深山をかたどり、そこへ紫の獅子が舞ひ込むのださうで、 深山は柳の枝にかたどられ舞ひぞ入り来る紫の獅子 とあるのでそれが分るのであるが、田楽の笛ひゆうと鳴りとは何といふすばらしい表現であらう、まるで歌その者が夕月の下獅子になつて動き出す感じだ。前の歌で「調べ」のことを高調したが、古くは人麻呂か赤人でなければこれだけの高さには歌へない。近年では寛先生の霧島の歌にその比を見る。

貧しさをよき言葉もて云はんとす行者の浴ぶる水ならんこれ

 私が今嘗めて居る貧しさはどんなものですか、それを一つ感じのよい言葉で云つて見ませう、寒中行者が浴びる水の様なものです。行者が冷い水を浴びることを苦にしない様に私は貧しいことなどを苦にしない。進んで冷いとも思はず頭から何杯でも引き被つて之に堪へ、行者が六根の清浄を得るやうに私は自己を磨くのである。こんな風にも解せられるが、果して当つてゐるか如何か少し心許ない。

湖の鱒の産屋の木の槽に流れ入るなる秋の水音

 十和田湖の有名な和井内姫鱒孵化場の光景である。あの清冷氷の様な十和田湖の水のとうとうと流れ込む水音が泉の涌く様に聞こえる。

われ昔長者の子をば羨みぬけふ労ふもその病のみ

 私は子供の時長者の子を羨んだことがあるが、けふ労つてゐるのも同じ貧といふ八百八病の外の病である。作者の中年迄の貧苦は相当ひどいもので色々貧の歌のある理由である。

冬も来て青き蟷螂きりぎりす炉をめぐりなばをかしからまし

 斯ういふ歌は目前の小景の写生などより一般読者には余程難有い作でなければならない。もし詩人が空想してくれなければ決して味はふことの出来ない感想である。而してとても面白い感想ではないか。この位の余裕は常に誰の心にもあつて欲しいものである。

君と我が創造したる境にて一人物をば思はずもがな

 この家この環境は君と我と二人して合作創造したものである。物思ひがあるなら二人して分つべきであつて、一人でくよくよ物を思ふ法はない。それなのに二つに分けることの出来ぬ物思ひが次々に出て来るのは如何したことであらう。したくもない物思ひである。

婚姻の鐘鳴り親はふためきぬものの終りかものの初めか

 昭和元年七瀬さんが山本直正氏とカトリツク教会で婚姻式を挙げた時の歌。これが作者の経験した子女の婚姻の最初のものであつた丈その印象も深かつたものと思はれ、自己の手から、その手しほにかけたものの一人が初めて引き離された。それは子女としてのものの終りである、しかし新生活の発足であるから同時にものの初めでもなければならない。そこに親の心がふためき迷ふのである。

魚の我水に帰りし心地して湯舟にあれば春雨ぞ降る

 魚になつた様な気持がして、とは誰もがいふであらう、入湯と春雨、よく調和したいい気分である。この場合しかしさう云つたのでは鈍い感じしか起らない。それを「魚の我水に帰る」といへば、人の意表に出て新鮮な感想を喚び起すことになる。ここらは学んで出来ることであるから歌を作る人の参考までに申し上げる。

湖の奥に虹立ちその末に遠山靡く朝朗かな

 大正十五年五月日光に遊ばれた時の作。湖は中禅寺湖で、湖畔の宿から見た朝の景色で、調子のすらりと整つた気持のよい歌である。

春ながら風少し吹き小雨降る夕などにも今似たるべし

 今私達の間は大体に於て春の様ななごやかさが支配してゐる、しかしその中にも風が少し許り吹き、雨が少し許り降るけはひがなしとはしない。しかし春の夕方雨風の少しあるのも必ずしも悪くはないとも云へる。私達の中は今はその辺の処で決してまづいものではありません。

山山と湖水巴に身を組みて夜の景色となりにけるかな

 同じ中禅寺湖畔の夜色迫る光景。山と湖水と又山と巴に身を組んで夜となるとは恐ろしい程の表現で、それによつて光景は直ちに読者の脳裏に再現される。詩人は魔法使ひでもある。

拝むもの拝まるゝもの二つなき唯一体の御仏の堂

 晶子さんといふ人は矜恃の高い人であつたから、人の感情を真似たり、共通の思想を我が物顔に取り入れたりはしなかつた。然るに此の歌を見るに浄土教信仰の極致が示されてゐる外何もない。一首の道歌とも見れば見られ、蓋し晶子歌中の珍物である。まさか晶子ともあらうものが真宗坊さんの御説教を聞く筈もなしその教理を取り入れる筈もない。然らばそんな既成観念とは関係なく晶子さんの頭に直接にひらめいた実感と見るべきである。然らば実に驚くべき直覚力と云はなければならない。私などは観念的には学んで知つてゐるが、浄土教信仰に於てそんなことが容易に実現されようとは信じない。然るにそれを老婆か誰かの拝仏の姿を見て之を直覚し得たのだから驚かされる。

物思ひすと云ふほどの唯事の唯ならぬ[#「唯ならぬ」は底本では「唯よらぬ」]世も我ありしかな

 誰でも若い内は物思ひ位はするだらう、そんなことは何でもない唯事に過ぎない。しかし私の場合にはその唯事が唯事でなくなる様な非常事態もよく起つたものだと今はすつかり学者になりすましたありし日の情熱詩人が静かに往時を囘顧するものであらう。

後の世を無しとする身もこの世にてまたあり得ざる幻を描く

 既成宗教を信じない作者は来世を信ずることはない。それなのにこの世であり得ざる幻を描いて喜んだり悲しんだりしてゐる。それは凡愚の迷信にも劣る愚かしさであるがどうにもならない。

死ぬ日にも四五日前の夢とのみ懐しき儘思ふあらまし

 この堪らない懐しさ私は忘れないであらう、例へば死ぬ時が来ても四五日前に見た夢のやうに思ひ浮べることであらう。旅の歌が作の全部となつた頃僅に見出される純抒情詩で縹渺たる趣きはあるが中味の捕へようのないものが多い。

山桜夢の隣りに建てられし真白き家の心地こそすれ

 作者は自ら白桜院の院号を選んだだけに桜を賞すること常人に過ぎ、その癖染井吉野を木のお化けだとけなしつつも、沢山の歌をよんでゐる。その第一は 天地の恋はみ歌に象どられ全かるべく桜花咲く といふので桜花の気持がよく出てゐる。次に 朝の雲いざよふ下に敷島の天子の花の山桜咲く といふのがあるが、之は盛な様子を十分に歌つたものだが余音に乏しい憾みがある。その第三がこの歌で、この歌では一歩深く入つてその夢の様な美しさの象徴されてゐて申し分がない。

尽く昨日となれば百歳の人も己れも異ならぬかな

 百歳の御婆さんとまだまだ若い私との違ひは現在のあり方であつた。私はもう若くないに違ひなかつたが、まだまだ色々のものが残つてゐて全部が全部過ぎ去つた訳ではなかつた。それがどうであらう。全部を全部忘却の過去へ送つてしまつた今となつては百歳のお婆さんと何の違ひがあらう。現在零である点に於て全く同じことになつてしまつた。 悲しみも羊の肝の羹も昨日となれば異ならぬかな[#「かな」は底本では「からな」](草の夢)

ただ一人柱に倚れば我家も御堂の如し春の黄昏

 これは歌集大正七年出版の「火の鳥」にある作である。この「火の鳥」は晶子歌に一時期を画するもので、即ちこれ以後の歌は作者のいふおだやかな人間になつて作つたもので、それ迄のものとは厳然と区別される。激動期は既に去つた。柱に倚つて一人静観しうる春の夕となつた。我が家さへ神聖な御堂の様に思はれるのであつた。

身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん

 昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。遠い昔の女性さへ偲ばれる哀調を帯びて珍しく弱音を吐かれたものであつた。なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。

うつむけば暗紅色の牡丹咲く胸覗くやと思ふみづから

 唯一寸うつむいただけでこれだけの想像が浮ぶのである。常に動いてやまない豊富な詩人の思想感情が窺はれる。さうして若い時から中年期、成熟期から晩年とその想像力の描き出す形は少し宛違つて来てはゐるが最後迄涸渇することを知らなかつた。

衰へてだに悲しけれ死ぬことを容易(たやす)きものに何思ひけん

 作者は一面激しい感情の持主であつたから折にふれて幾度か死を決したこともあつたらう。それを初老といはれる五十近くになつて顧みたものであらう。然るにさういふ口の下から、相当の事情があつたにせよその後幾年もなくまた死を決せられたやうで、その時はこんな歌を詠んで居る。 わが在りし一日片時子の為めに宜しかりしを疑はぬのみ 又 汝(な)が母は生きて持ちつる心ほど暗き所にありと思ふな しかし結局思ひ過ぎであつた。しかしそれを最後としてあとは一二囘の波瀾はあつたが比較的静かな境遇に入られたやうである。

自らは半人半馬降るものは珊瑚の雨と碧瑠璃の雨

 フアウスト第二部に人首馬身のヒロンがあるが、この半人半馬は女性で詩歌芸術の世界、その世界には紅い珊瑚の雨と碧い瑠璃の雨とが入り混つて降つてゐる、その中を縦横無尽に駈け廻るのである。こんなロマンチツクな色彩濃厚な幻想でありながら少しも若い頃のやうなけばけばしさがなく、ゆつたり落付いてゐるのはやはり作者の心の落付きを反映してゐるのであらう。

日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花

 人の漸く老いて好刺戟あれども何の反応も示さなくなつた様子を象徴するものであらう。これも五十頃の作で体験に本づくこと勿論である。

君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て囀りし夢また見ずもがな

 私の嫉妬はずゐ分激しかつたがこの頃はもう争ひの種もなくなり、至極平静な生活を続けてゐる。君の鳥が他の女の鳥と囀り交す様な夢でさへもう見たくはない。

知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず

 神は愛なり、この位よく分ることは私にはない。なぜなら私の心は愛で一杯になつてゐて、何ものをも愛し得るからである。恋の如きもこの愛より深いものとは私は思はない。こんなことの云へるのも一面年老いて最早当時の情熱など思ひ出せないからでもあらう。

ありと聞く五つの戒の一つのみ破りし人も物の歎かる

 この場合破つた一つの戒と認めらるるのは不飲酒戒で、破らないも同じことである。さういふ真面目な正しい落度のない人も物を歎くとは如何したことであらう。仏の教へも頼るに足りない。

足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米と我

 植米はもし生きてゐたら八十位の御爺さんではなからうか。釆花荘の植木は全部この御爺さんの指図で麦畑の中へ植ゑられたのである。私の今居る家のも亦殆どさうである。実にいい爺さんであつた。その好々爺と連れ立つて偶□東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を見て歩く風貌が目に見えるやうである。恋などとは何の関係もない心の満足である。

天人の一瞬の間なるべし忘れはててん年頃のこと

 思へばこれ十余年せまじき恋をした許りに私の嘗めた辛酸労苦思ひ出すさへ堪へられぬ、きれいさつぱり[#「さつぱり」は底本では「さぱつり」]と皆忘れてしまひたい。何忘られないことがあらうか、十余年などは命の長い天人から見れば一瞬間のことに過ぎない。而して今から新らしい瞬間を作りませう。

あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙の雫かかれば

「似ぬ」はこの作者が好んで用ひる語尾の変化で、私なら決して用ひないものだ。私なら「似る」といふであらう。何故なら似ぬといふと似ないといふ意味が紛れこむ虞れがあるからである。作者はしかしさういふ感じがしないと見え至る所にこの変化を用ひてゐる。今まで倚つてゐた黒木の机に涙がかかつたので急に冷えて岩ででもある様に感じられるといふのであらうか。或は相対する人の涙がかかつてさう感ぜられるといふのであらうか。

わが街へ高き空より雪降りぬ寂し心の一筋の街

 之は象徴詩である。何とでも読者が勝手に映像を作るが宜しい。「高い空」といふ一つの観念を思ひ浮べ、夏に「寂しい一筋の街」を思ひ浮べる。その二つを雪でつなぐのである。さうするとそこにぼんやりした映像が浮んで来る。それは何を象徴するものであらうか。

侮られ少し心の躍りきぬ嬉し薬に似ぬものながら

 若さが退くと共に心の平静が得られるやうになつたが、同時に心躍りもしなくなつてそれは我ながら寂しいことであつた。それに如何であらう。私を侮るものが出て来た。私は人の侮りを受けた体験が今度初めてで少し心が躍つて来て嬉しい。薬と侮りとは凡そ似てゐないがその作用は相類してゐないでもない。

夏の夜の鈍色の雲押し上げて白き孔雀の月昇りきぬ

 夏の夜の月の出の印象で、まことにはつきりしてゐる。象徴でも写生でもない、唯印象を伝へんとするもので、この作者以外には余り例が多くない風だ。拙くやると比喩になつてしまつて著しく価値が低下する。この風は先づ余りやらぬ方が賢い。

かぐや姫二尺の桜散らん日は竹の中より現はれて来よ

 二尺の桜といふから鉢植の盆栽の桜か何かであらう。その可哀らしさ美しさは如何見ても昔話のかぐや姫の化身としか思はれない。そこでこの歌になるので、この桜が散つたらす早く竹の中に忍び入つて、今度は人間のかぐや娘として出て御いでなさいといふのであらう。不思議な空想である。

そのかみの日の睦言を塗りこめし壁の如くに倚りて歎かる

 この壁を見るとその中には君と私との中に交はされたありし日の睦言が一杯塗りこめられてゐる様に思はれる。この壁に倚つて凡てが話されたからである。何といふ懐しい壁だらうと思つて倚りかかつて私は泣くのである。

家にあり病院にある子と母の隔たる路に今日は雨降る

 作者は十一人の子女を育てられたが最も可愛がられたのは長男の光さんと末娘の藤子さんとで、特に藤子さんは一人で十人分位の慈愛に浴したやうだ。その藤子さんがまだ小さくて病気をし、近所の小児科病院に入院させた時の歌である。母子の情洵に濃やかで雨のやうに降りそそぐ感じがする。なほこの時の歌二首を上げる。 絵本ども病める枕を囲むとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開(あ)きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室

仄かにも煙我より昇るとて君もの云ひに来給ひしかな

 恋を卒業した作者が今度は心を溌まして、恋の明るい一面を美しく歌はうと試みたのが「火の鳥」以後の作者の態度である。これなどもその一つで恋人の訪問をもの静かに美しく描くものである。

繭倉に蚕(こ)の繭ならば籠らまし我が身の果を知られずもがな

 これは大正十四年正月下諏訪温泉の亀屋に滞在中の作。あの辺に多い繭倉を見ての作。しかし感じは蛹の繭に籠つて遂にその姿を見せない所から自分の最後の姿もさういふ風に隠したい気持が動いたのであらう。それを拡げて繭倉へ持つていつたのであらう。

津の国の武庫の郡に濃く薄く森拡がりて海に靄降る

 大正六年の夏六甲の苦楽園に滞在中の作。これがあの辺に遊ばれた最初の行であつたやうだ。まだあの辺が開けてゐなかつた当時で、その中に苦楽園が唯一つの存在であつた。当時の森に掩はれてゐた六甲の傾斜面がよく写されてゐる。

諏訪少女温泉(いでゆ)を汲みに通ひ侯松風のごと村雨のごと

 上諏訪と違ひその頃の下諏訪は温泉の量が極めて少く、塩汲女が海水を汲んで帰るやうにある町角の湯口から湯を汲んでゆくのが見られた。それを謡曲の松風に通はせたものであるが、それによつて反つて光景が彷彿するのである。

夕暮の浅水色の浴室にあれば我身を月かとぞ思ふ

 作者この時四十歳、まだ若かつたしめつたに温泉などにも行かず、苦楽園の浴室さへ作者には珍しかつたと見え、その心の躍つた様がよくあらはれてゐる。

大船も寄らん許りの湖の汀淋しき冬の夕暮

 小波が騒いでゐる許りで何物もない大きな湖水を見て居ると大洋を行く様な大船が今にもそこへ這入つて来さうな気がする。さういはれてみるとさういふ気のする(それ迄気がつかなかつたが)冬の夕暮の汀の景色であつた。同行した私はその時さう思つてこの歌を読んだものである。

自らを証(あかし)となして云ふことに折節涙流れずもがな[#「もがな」は底本では「もかな」]

 私の経験では斯う思ふと云ふ様なことを挟んでは話を進めて行くのであるが、やはりその時の事が思ひ出されて折節涙が出て来て困つた。せめて冷静な話の間だけは涙が出なければと思ふ。

夜の二時を昼の心地に往来する家の内かな子の病ゆゑ

 子が重病に罹つた場合どの親でも経験したことを代つて云つて貰つた歌である。かうは誰にも云へなかつたのである。

一言の別れに云ひも忘れしは冬の月夜の凄からぬこと

 一言のは別れのあと、云ひもの前へ来る句で、一言云ひ忘れたのである。それは何かと云へば、冬の月夜は少しも凄いものでないといふことである。理由はいはずして明白だ。君と一しよだつたから。

しどけなくうち乱れしも乱れぬも机は寂し君あらぬ時

 之は富士見町の家の書斎の光景、離れの様に突き出した狭い書斎に夫妻は机を並べて仕事をしてゐた。それで先生が居ない折は、乱れた机と乱れない机と並んでゐる様子が一角を欠くが故にいかにも寂しく見えるのである。

わが肩と建御名方の氏の子の島田と並ぶ夜の炬燵かな

 山国の冬は何事も炬燵がその中心である。建御名方は諏訪明神の本体であるからその氏子の島田といふのは諏訪芸者といふことになる。一晩小宴を開いた所芸者が這入つてくるといきなり炬燵にすべり入つた。晶子さんの隣へ坐つた子は小さい子で見ると島田が肩の処にある。炬燵は毎日這入つてゐて珍しくないが芸者の這入つたのが珍しくてこの歌が出来たわけである。

古へを持たず知らずと為ししかど昔のものの如く衰ふ

 古人の糟粕を嘗めるを屑しとしない故に私は古い物を持たない又それを知らないといつて新風を誇つて来たのである。それが如何であらう、この頃のやうに衰へて来ると昔の人の衰へた様を詠じたのと少しも変らない。

師走来て皿の白さの世となりぬ少女の如く驚かねども

 十二月となれば世の中がざわつき、心持に落付きがなくなり皿の白さの持つ荒涼たる光景が現出する。もしそれが少女の新鮮な感覚なら驚きに値しようが、古女にその驚きはないものの、興ざめた次第である。之も印象歌の一例。

夕月を銀の匙かと見て思ふ我が脣も知るもののごと

 夕月を銀の匙と迄は或は感じ得るかも知れない。しかしいちどクリイムを食べた時私の脣に触れたので、私の脣の感触も知つてゐる筈だとまで進みうるものは先づ無からう。それが詩人の詩人たる所因である。

恋衣裘(かはごろも)より重ければ素肌の上に一つのみ著る

 恋衣といふ衣は裘などに比べればとても重い衣なので私は素肌の上にたつた一枚著て居るだけです。重くてとても二枚とは著られません。一枚で沢山です。

いかにして児は生くべきぞ天地も頼もしからず思ふこの頃

 大正五六年の頃の作で、子女が皆大きくなり、学費等も自然嵩んで来る、如何にしてこの大家族を養うべきかそれのみに日夜心を砕き若くして得た名声を利用して色紙、短冊、半切、屏風などを書きなぐるなど全力を尽くすといへど幾度か自信を失はれたことであらう。その時の溜息である。

穂芒や琵琶の運河を我は行く前は粟田の裏山にして

 大正十二年仲秋の月を石山に賞し疏水に舟を浮べて京に入られた時の作。普通疏水と云はれるものを運河と呼びかへたなどにも多少の配慮が払はれてゐる。この短い詩形の中へ当時の環境から感得した名状すべからざる混沌感を捺印するのであるから、用語は十分に吟味されなければならない。適当な用語が適当に配置されて初めて朧げながら感じの一部分が再現されるのである。用語が適当なれば適当なだけ、その範囲が拡大され、その極限に於て完全に再現されることになるが、そんなことは神技に属する。私はあの疏水を自身流れたことはないが、その心持は殆ど完全にこの歌から感得出来るやうだ。

秋の夜はわりなし三時人待てば哀れに痩せし心地こそすれ

 これは秋も大分たけて淋しくなつた夜の心持を歌つたもので、人を待つことにしたのは心持を表現する一手段である。それに依つて秋の夜の心持が哀れに痩せた若い女の形となつて顕はれてくるのである。

粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな

 瀬田川に沿ひ少しく彎曲した気持のいい遊歩道を仲秋明月の下逍遥する純な混り気のない心持が其の儘再現されてゐる。恐らくかへるべき何物もなく取り去るべき一字もない。

花咲きぬむかしはて無き水色の世界に我とありし白菊

 これほど新らしい、又縹渺として捕へ難い趣きもあり、又一種の哲理のやうなものをさへ含んでゐる歌は晶子さんにさへ一寸珍しい。日本のやうな局限された天地に置いておくべき詩ではない。といつて又世界の諸民族中この歌の分るのは或はフランス人位のものかも知れないといふ様な気もする。水色の世界とは即ちロゴスであり混沌であり、万法帰源の当体である。その中で晶子さんと白菊とがものの芽として共存してゐた。それが時至つて一つは詩人として日本に生れ、一は白菊として今日その花を著けここに再び相会したのである。

石山の観月台に立ちなまし夜の明けんまで弥勒の世まで

 弥勒の世とは五十六億七千万年後の世であるから永遠といふ言葉のよき代用である。西洋風にいつたら聖蘇再誕の日までとなる。誰でも、又いくらよい月でもまさか夜明しも出来ない。その内厭きても来るし眠くもなつて観月台から引き上げたであらう。しかし唯引き上げたのでは面白くない、何とか捨ぜりふを残したい。この歌は即ちその捨ぜりふである。それがみろくの世などいふ結構な説話があるのでものになつたわけだ。

もの憎む心ひろがる傍にあれども君は拘はりも無し

 その起りは何にあつたのか、初めは一寸したことからであらうが、心が変調を来したと見え次第に何もかも憎らしくなつて来た。それなのにそれに気がつかずにのんきな男心はすましてゐる。よくそんなことで恋が出来るものだ。先づこんな所であらうか。これはしかし恋人同志の間だけではなく、一般の対人現象として常に私共の体験する所である。

山早く月を隠せば大空へ光を放つ琵琶の湖

 自然現象を物理的に詠じたものには違ひない。月が西山にはいつてしまへば観月台上は蔭となり、見るものは東方琵琶湖面から反射する月光のみとなる。しかし大空へ光を放つとは大した云ひ方で、その為にこの物理現象も詩化されるわけである。

紫の魚あざやかに鰭振りて海より来しと君を思ひぬ

 若い女が紫好みの春著を著て新年の挨拶にでも来たのであらう。それを晶子さんがまあ綺麗なこととほめながら自分の前へ立たせ魚が鰭を振る形に袖をふらせて見る。先づそんな場合の歌でもあらうか。

人の来て旅寝を誘ふ言ふ様に雲に乗らまし靄に消えまし

 今日から見れば丸で夢の様な昔話であるが、我が日本にもさういふことの出来た時代があり、選ばれた少数のものにはそれが出来た。作者夫妻はこの頃以後少し宛それが出来るやうになつたのは何と云つても羨ましい限りで、而してそれは最後まで続き、遂に靄の中に消え去つた形となつたが、この歌は其の儘実現されたのである。

頻りにも尋ぬる人を見ずと泣くわが肩先の日の暮の雪

 街角で落合ふ約束だつた人がどうしても見えない、その内に雪が降り出して肩先を白くする、日は暮れかかる。全く泣きたくなつて来た。それを代つて肩先に積つた雪が泣いてくれるといふのである。之も晶子万有教の一節。

人間の世は楽みて生きぬべき所の如しよそに思へば

 大正十三年頃の作で、この頃は多少の余裕も生じたので、人生の明るい面を見たい心持が動いてゐたやうで、それを抒した歌が残つてゐる。この歌はその一つで、他は 人の世を楽しむことに我が力少し足らずと歎かるゝかな いみじかる所なれども我にのみ憂しと分ちて世を見ずもがな の二つである。楽しみたいが力が足りない、私にのみ辛かつたといふ風に分けたくない、人の世をよそから見ると、如何しても楽しんで生きてゆくべき所としか見えない、それが出来ないのは力が足りないからだと思ひ又いい所なのだが私に限つて、辛いのだと初めから分けて考へることを止めたらどうだらうなどと思ひ悩むのであつて、これは連作として三首併せて読まねば意味が完結しないわけだ。

自らの心乱してある時の息のやうなる雪の音かな

 雪の音は雨の音と異つて、聞こえるやうでもあり聞こえない[#「やうでもあり聞こえない」は底本では「やうでもあ聞こえりない」]様でもあり、淋しい様な暖かい様なあいまいなものであるが、作者はそれを心の乱れた若い女の息のやうに感じたのである。雪の音を外界から切り離して抽象的に詠むことは作者以前には蓋し無かつたであらうし、又出来ることでもない。それを作者は敢て試みたわけで、之を読んで同感し得る人から見れば成功した作といへる。

川上の峨峨の出湯に至ること思ひ断つべき秋風ぞ吹く

 これは大正十三年九月陸前青根に遊んだ時の作。青根の奥深く、蔵王の麓でもあらうか峨々といふ恐ろしく熱い山の温泉のあることを聞いて少し心を動かしたが、車でなど行かれる所でもないので問題にはならなかつた。そこで罪を秋風に著せて思ひ止ることにしたのである。

何時見てもいはけなき日の妹の顔のみ作る紅椿かな

 作者はあらゆる花を愛し、あらゆる花を歌つてゐるが、椿も亦その最も好むものの一つであつて歌も多い。蓋しこんな所にもその所因があつたのかも知れない。この歌では何時見てもといふ句が字眼である。特殊の場合に恐らく誰にでも経験のあるらしい事だが唯気がつかないのだと思ふ。それを作者がこの椿の花の場合について代つて云つてくれたのである。

夕暮に弱く寂しく予め夜寒を歎く山の蟋蟀

 この歌では「予め夜寒を」が字眼で之が無ければ歌にはならない。(世間ではこの歌から予めを抜いたやうな歌を作つて歌と思つてゐるらしいが、いらぬ時間つぶしである。)初秋とはいへ山の上では夜ふけは相当寒い。それを啼き初めの弱い声をきいて蟋蟀も夜寒を感じてゐると思ふのである。

春の夜の月の光りに漂ひて流れも来よや我が思ふ人

 久しぶりで音楽歌(うた)が出て来た。この歌などが日本文学中の一珠玉になつて若い人達の間に日常口誦されるやうな日が早く来ればよいと思ふ。蓋し日本抒情詩はそこから前進するであらうから。

陸奥の白石川の洲に立ちて頼りなげなる一むら芒

 青根から降り来て白石川の川添ひに暫く車を走らせた時見た川の洲の芒である。当時のあくまでもさびれてゐた東北の姿がそこにもあらはれてゐるやうで頼りなげに見えたのである。

別れつる鼠の色の外套がおほへる空の心地こそすれ

 今し方男に別れて来た女の心をその上にある曇り空で象徴しようとした試みであつて、別れた男の外套の鼠色が空に拡がり、それが心にうつることにしたのである。

しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きし思ひ出

 フランスを思ひ出した歌の一つ。夫妻の巴里の宿は近代画を収めて居るリユクサンブル博物館の辺にあつたやうで、そこへは夏の日の長い巴里では夕食後に行つても尚明るく、夕風がしめやかに旅の心を吹いたのであらう。巴里に居たのは大正元年でこの歌の出来たのは十三年であるから十余年の歳月がその間に流れ、作者の歌人としての技量はぐんと進んだ。思ひ出の歌の方がすぐれてゐるのはその所である。

もの云はじ山に向へる心地せよ君に加ふる半日の刑

 ものやはらかな刑であつて、作者の漸く成長したことを思はせる。紅梅どもは根こじてほふれといつた様な時代であつたらこんな事では済まされなかつたであらう。それにしても山に向へる心地せよとはうまいことをいつたものである。この歌などもその内に恋をする若い女性の常識となる日が来るであらう。又その位に日本女性の趣味教養が高まらねばだめである。

二夜三夜ツウルの荘に寝る程に盛りとなりしコクリコの花

 コクリコの花とは虞美人草の俗名ででもあるらしい。作者はひなげしとちやんぽんに使つてゐる。ツウルの荘はピニヨン夫人のロアル川上の水荘である。当時の歌の ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコ我もコクリコ の大に盛なのに対し、この歌には十余年を経てすつかり落付いた作者の心境が示されてゐる。

額髪ほほけしを撫で何となく春の小雨の降れと待たれぬ

 たわいない歌のやうであるが、棄て難い味なしとしない。ほほけしを撫でといふ所もよいのであらう、それが春の小雨といふ小さな期待であることもよいのであらう、何となくもよいのであらう、小さいことだがそれらが三つ重つて軽い楽しい持味を作り出すのであらうか。

歌の本絵の本尋ね何時立たんセエヌの畔(ほとり)マロニエの下

 これはフランス囘顧の歌ではなく、四十になつた作者が夢に巴里に遊び、例の河岸の石垣の上に店を出した古本屋を覗き込む歌である。

よそごとになしてその人死にぬなど話を結ぶありのすさびに

 短篇小説の筋でも話すやうに一くさり我がロマンスを話したがその話の真剣なのに似ず、簡単によそよそしくその人は今は死んでゐないといつて話の結末をつけてしまつた。自分でもそれが一寸面白かつたのである。

前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋の傍

 作者この時四十八歳。尚しかし恋の傍らといへるほどの若さと戯れにダンスをさへ弄ぶ快活さとを失つてゐなかつたのである。それでゐて、私が今頃になつて漸く感じ出した冬の長さを感じて一生よりも長いやうだと云ひ現はしてゐるのには全く感心させられる。感覚の感度の相違である。しかし私の場合とは反対にこの冬は恐ろしい冬でなく楽しい冬である。さあ恋の傍ら何をしようとするのであらうか。

足をもて一歩退き翅もて百里を進むわりなさか是れ

 自分には人の持たぬ翅がある。この翅は前へ飛ぶことを知つて退くことは出来ない。退くには足を以てしなければならない。人が一歩歩く間に百里飛んでしまつたのでは調子が合はないから後退しようとするが、足で一歩退くのではどうにもならない。まづさういつたやうな不合理である。世間の凡俗と自分との距離の大きさを痛感し当惑したものであらう。例へばこんな場合がある。源氏の作者を二人に分け、宇治十帖を娘の大貳三位の作と断じたのなどは、自分には極めて明白で疑ふ余地のないことである。文章を読み破る力のある人、歌の調子又そのよしあしを判別し得る人なら誰でも気がつく筈である。それを今日迄誰一人気づくものもなく、又今日私がそれを云ひ出しても一人の同意者も得られない。当惑せずにはゐられないではないか。

落葉ども昔住みつる木の影の写ると知るや暖き庭

 これもいつもの万有教的観察のあらはれで、冬の日の暖かい日ざしはそのまま作者の人間の心の暖かさを呼び出し、地上一面に散らばつて落葉にまで話しかけさせるのである。

青海波金に摺りたる袴して渡殿に立つわが舞の仕手

 美しい若い女の子の仕舞姿をたたへるものであらう。之に続いて 皷よしいみじく清き猩々が波の上をばゆらゆらと行く といふ歌があるので、その舞の猩々であることが分る。

鴉ども落日の火が残したる炭の心地に身じろがぬかな

 ここに又印象歌(うた)の内でも最も濃淡のはつきりした一例が見られる。冬の落日の印象で、日が沈み終つても尚裸木に止つた儘動かない鵜を火の消えた火鉢の炭のやうに感じたのである。

束の間も我を離れてあり得じと秋は侮る君の心も

「君の心も」は「君の心をも我が心をも」の略であらう。倦怠の夏が過ぎ、快い秋ともなれば、恋の引力が急に増大して離れられなくなる。それを見る秋は人の心の弱さ頼りなさを侮らずには居られないであらう。

寂しさを華奢の一つに人好み我は厭へど逃れえぬかな

 この人は誰でもよい、古人でもよい、寛先生であつてもよい。兎に角日本人には寂しさを好むものが多い。私は華やかなことは好きだが、寂しさやしをりは大嫌ひだ。しかし人生の一面である以上それから逃れるわけにもゆかないのである。

秋風は長き廊ある石の家吾が為めに建つ目には見えねど

 作者は巴里滞在中、油絵の手ほどきを受け、帰朝後も暫く写生を続け、素人としては雅致なしとしない幾枚かを作り富士見町の壁に懸けてゐたことがある。それも作者が造形芸術家としてその資格を欠かない一証ではあるが、この歌などは作者の造形芸術家としての面目を明瞭に表してゐる。或は音楽として或は美術として自由自在に自己を表現して余す所のなかつた作者は珍重されなければならない。

信濃川鴎もとより侮らず千里の羽を繕ひて飛ぶ

 大正十三年八月新潟での作。日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。これは同時に象徴歌(うた)であつて、どんなことにも全力を尽くして当る作者自身の心掛を鴎に見出したのである。

天地に解けとも云はぬ謎置きて二人向へる年月なれや

 夫婦生活の謎である。その謎は遂に解かれずして今日に至つたが、思へば変な年月を暮したものだ。他人も皆さうなのであらうか。道歌の一歩手前で止まつた形ともいへる。少し匂ひがするがこの位はよからう。「なれや」は少し若い。

大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな

 荒海や佐渡に横たふ天の川 がある以上その上に出来て居る作だと云はれても仕方がないが、詩としての価値はそんなことで左右されはしない。詩人としての才分を比較すれば、晶子さんの方が数等上であらうが、この句と歌とだけを比較すれば一寸優劣はつけにくい。芭蕉もいい句はやはり大したものである。

誰れ見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕暮の風

 晶子さんの心が漸く生長して少しのことでは尖らなくなつた頃の作。その心持が偶□夏の夕暮の涼風に反映したものであつて、同時にそれは又万国和平の心でもある。

近づきぬ承久の院二十にて遷りましつる大海の佐渡

 佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。近頃の人ならおけさを思ふであらう。作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた。歌人として史家としてさうあるべきであるが、その感動がよくこの一首の上にあらはれてゐて、自分をさへ一流人として感ずるものの様に響く。

水の音激しくなりて日の暮るゝ山のならはし秋のならはし

 大正九年初秋北信沓掛の星野温泉に行つた時の作。あそこは水の豊富な所だから特にこの感が深かつたのであらう。

菊の花盛りとなれば人の香の懐しきこと限り知られず

 菊の花の真盛りと人懐しさの極限に達することとの間に如何いふ関係があるのであらうか。詩人はものを跳び越えるので、橋を渡して考へなければ分らないことが多い。先づ気候が考へられる。菊の花盛りは十一月の初旬で空気が澄み一年中一番気持のよい気節で、人間同志親しみ合ふのも最も適してゐる、結婚などもこの月に多いやうである。も一つ考へられる橋は菊の匂ひである。この匂ひは木犀やくちなしの様に発散しないし、薔薇のやうに高くもないが、近く寄つて嗅ぐ時は一種特別の匂ひがする、それは香水の匂ひなどと違つて極く淡い忘れ難い匂ひである。詩人の嗅覚にはそれが人の香のやうに感じたのかも知れない。さうだとすれば、人の香の懐しきこと限り知られずとは即ち菊の花に顔を当てた時の感じだ。私にはこれ位より考へられないからこれで負けて貰ふことにする。

薄白く青く冷たき匂ひする二人が中の恋の錆かな

 作者は第十六集「太陽と薔薇」の自序で斯う言つて居る。「三十一音の歌としての外形は従来の短歌に似て居ます。似てゐるのは唯だそれだけです。読者は何よりも先づ、私の個性がどんなに特異な感動を持つて生きてゐるかを、私の歌から読まうとなさつて下さい。
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