晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

いと熱き火の迦具土の言葉とも知らずほのかに心染めてき

 今思へば、母の胎をさへ焼いたといふ赤熱した雷火のやうな言葉だつたのを、さうとも知らず、やさしいことを言ふものだと思つてなつかしい心持さへ起したが、未熟な少女心とは云へ見当違ひもひどかつた、と生成した心は思ふのである。

伊予路より秋の夕暮踏みに来ぬ阿波の吉野の川上の橋

 これは形の上では単なる報告である。報告が詩になる為にはそれぞれの条件が備はらねばなるまい。この場合にはそれは何であらうか。作者はこの日伊予と阿波との国境を目指して車を駆つた。そんな経験はめつたにないことである。之が一つ。その国境は四国第一の大河吉野川が源を発して南向する地点である。之が一つ。しかもその谿流には橋がかかつてゐて、それを渡れば現に阿波の国である。之が一つ。時は何物をも美化しなければやまない、[#「、」は底本では欠落]しかも淋しい感じも伴ふ秋の夕暮である。之が一つ。作者はその橋桁の上を現に踏んでゐる。この時こんなことの出来るのは日本人中唯数人に過ぎない。之が一つ。以上の条件が具つて初めて詩になつたわけである。仇やおろそかには出来ない。

毒草と教へ給へど我が死なぬ間は未だそのあかしなし

 無論象徴詩である。そんな考へは美しいがいけないことで身を亡ぼす基であると、世の賢人達は教へて下さるが、私は承服出来ない、私の死なない間はさういふ証拠はありません。思想の代りに感情を持つて来て賢人の代りに平凡な恋人をして云はしめてもそれでもよい。

讃岐路のあやの松山白峰に君ましませばあやにかしこし

 この歌の下に流れてゐる感じは、前にあげた圓位と順徳院の真野の山陵の場合と全く同一で五百年を隔てて古への薄幸な帝王を忍ぶ悲壮ではあるが冷静な心持である。さればその感じも自らあらはれてその調子の高いこと、前の歌にも劣らない。あやの松山は崇徳院の流され給ふた所、又山陵の存在地でもあつた。保元物語に 浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞ泣く といふ御歌がありその頂を白峰といふらしい。あやは阿野又は繞で郡の名、そのあやにあやにかしこしのあやを引かけ、ここに寛先生の短歌革新運動以来追放されて久しいかけ言葉が復活した次第である。しかも大真面目に壮重に復活したのであつて、かけ言葉もここ迄来れば立派な音楽でもある。

春につぎ夏来ると云ふ暇無さ黒髪乱し男と語る

 晶子さんの秀歌の中には、同じ程の本分のある人なら作れさうな歌も少くはない。しかしこの歌に限つて晶子さんでなければ出来ない。私はさう思つてこの歌をよむのであるが、理由はよく説明が出来ない。或は作者の俤が裸で躍る様な感じが四五両句に感ぜられる、その為かも知れない。一首の意は恋愛三昧に日もこれ足りないのであらうが、ヰインの女のそれのやうに心易いものでなく、相当深刻なものであることは黒髪乱しが語つてゐる。

雲遊ぶ空と小島のある海と二つに分けて見るべくもなし

 秋の空が海に映り、海の青が空に映る瀬戸内の風光を、空には雲を遊ばせ、海には島を浮せ各その所を得しめた儘、之を併せて帰一させ、二にして一の実相として彷彿させる大手腕の歌だ。

隣り住む南蛮寺の鐘の音に涙の落つる春の夕暮

 暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて暮された事があつた。その時の歌。これは秋の夕暮ではいけないので、又夏や冬ではなほいけない、春でなければならないことは少しく歌を解するものなら分るであらう。唯私は涙を盛つた袋のやうな人であつたことを斯ういふ歌を読んで思ひ出す。涙が出ることを泣くといふならば一生泣き暮した人でもあつた。それは併し最も自然に立琴が風に鳴るやうなものであつた。

渓に咲くをとこへしぞと我が云へど信ぜぬ人を秋風の打つ

 歌の一面には、その相が特殊化されればされるほど段々価値の高まつてゆく一面がある。他面にはその反対の場合もあり、天地創造にも比すべき茫漠たる美が存在する、晶子さんの場合は、その両面とも人の行かれない極限迄行つて居る。それだからこそ秀歌が多いわけでもある。この歌には第一の場合の恐ろしい特殊面が出て居る。これは上州の奥の法師温泉――高村光太郎君によつて我々の間に紹介された古風な炭酸泉――に滞在中一日赤谷川の渓谷伝ひに三国峠へ登つたことがあつた。その途での出来事。見なれない花が咲いて居るのを、作者は、これは女郎花の一種で、渓に咲くをとこへしといふものだと教へた。それを聴いた人がそんな変な話があらうかといふ様な顔をした。作者は本草にはとても詳しいので決してでたらめは云はない、それに信じないとは怪しからんと思つた途端に秋風が吹いて来てその人の頬を打つた。残暑の酷しい折とて快い限りであつた、それをいい気味だ、人のいふことを信じない罰だと戯れたのである。何と細かい場面ではないか、これだけの特殊相がこの一首に盛られてゐるのである。凡庸の作家の企て及ぶ所でないことがこれで御分りであらう。

人の世にまた無しといふそこばくの時の中なる君と己れと

 貴方も私も未だ若いのですよ、若い時は人生に二度とないといふではありませんか、しかしその時は余り長くはありません、私達は今その貴重な時の中に起居してゐます、思ひの儘に振舞つて能率をあげませう。

その下を三国へ上る人通ひ汗取りどもを乾す屋廊かな

 法師温泉は川原に涌くのを其の儘囲つたもので、主屋は放れた小高い処に建てられて居り、其の間が長い廊でつながり、廊について三国街道が走つてゐる、廊には昨日三国へ上つた婦人客の汗取りがずらつと干してある、その下を三国を経て越後へ通ふ旅人が通るのである。これも山の温泉の特殊相である。

恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花

 橘が咲き茴香が咲き夏が来た、短い夜はいよいよ短くなつた、たまの逢瀬を楽しむ恋人達には気の毒だが、せめては暗にも著しいこれらの茴香の匂ひ、橘の匂ひでも嗅がせたい。

山涼し少し蓮葉に裾あげて赤土坂を踏める夕立

 赤土の坂道に山の夕立の降る光景である。さつと来てさつとあがる女の様な夕立だ。蓮葉に少し裾をかかげて赤土の坂を上つて行く。お蔭で涼しくなつたといふのであるが、夕立が赤土の坂に当つて泥がはね返り、もし人が通つてゐたら裾をよごしさうなので、それを避ける気持が動いて、「少し蓮葉に裾あげて」となつたものでもあらうか。兎に角さういふ場合の夕立の心持がよく出て居る。

一人はなほよし物を思へるが二人あるより悲しきはなし

 この歌も既にクラシツクとして登録されてゐるものではないか。一人で物を思ふさへ辛いことだがなほ忍ぶべし、それを二人して同時に物を思ふとは何といふ悲しいことだ。斯う私が書き流してさへ面白いのであるから、外国語にも翻訳出来る。

こころみに都女を誘へりと霧のいふべき山の様かな

 昭和六年九月の法師温泉吟行には夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんと四人の派手な都女が加はつて、当時電灯さへ点かなかつた奥山を驚かした。しかし霧の方から云へば逆で、都女を誘つたのは自分で、けふはどんな反応があるか一つためして見るのだ、きつと驚くに違ひないと云ひたさうに山を降りて来たのである。

限りなく思はるゝ日の隣なる物足らぬ日の我を見に来(こ)よ

 これはもとより女から来た誘ひの手紙である。どういふ場合に来たものか、受取つた男になつて考へてごらんなさい。随分難渋な文句だから一つ分離して見よう。[#「。」は底本では欠落]限りなく思はれる日即ち大満足の日の次に物足らぬ日のあるのはよく分る。その物足らぬ日に来いといふなら、その前日も来てゐたのであるから、結果は毎日来いといふことになる。何だつまらない。毎日来いならさう云へばよいのに、こんな廻りくどいことをいふのは如何いふ訳だ。その答がこの歌である。

蟋蟀の告ぐる心を露台にて旅の女が過たず聞く

 昭和六年八月六甲山上の天海菴に泊した時の作。山の上は既に秋で蟋蟀が鳴いてゐる、その訴へが旅の女にはよく分る、分りすぎる位よく分る。しかしその訴へが何であるかを歌は語らない。読者自ら聞いて知るべきであらう。

脚下(あしもと)の簪君に拾はせぬ窗には海の燐光の照る

 海に臨むホテルのサロンで起つた極めて小さい出来事ではあるが、それが詩人に拾はれ不朽化されて音楽になる、さうするとこの歌になるのである。どうした拍子か簪が落ちた。それを男が拾つて差し出した。女はそれを受け取つて髪にさした。さうして窗から首を出して海を見た。海には燐光が燃えてゐた。しまりのない口語詩に直すとこんな風になる。

生田川白く長きと炎天と相も向ひて何となるべき

 万葉の頃の生田川は少しは水も流れてゐたらうに、今見るそれは一本の長い白い沙の帯に過ぎない。それが夏の炎天の下で乾き切つて居る。この儘ではどうにもなりさうにない、その名の様に川などには断じてなれさうもないが、それでよいのであらうかとあやしむ心であらう。炎天下の生田川は私も知つてゐるが、これ以上何と歌へよう。

宿世をば敢て憎まず我涙いと快く涌き出づる日は

 作者は仏教の因果観を信ずるものでないだらうから、現在が宿世の結果だなどとは思ふまい。ここで宿世といふのは従来の観念を借りただけで、ただ現状をといふほどの意味であらう。こんなに気持よく泣ける日はない。こんなことなら辛い悲しいと思ひ勝ちであつた現在の境遇も憎むには当らない気がして来た。果然快い涙も流れるのである。

教坊の楽(がく)と脂粉の香のまじる夏の夕に会へるものかな

 昭和八年八月高野山の夏期大学の講義を終へた夫妻は大阪へ出て然る人の饗宴に列した、南地宗右衛門町の富田屋らしい。教坊の楽は芸者楽の支那名である。涼しい結界即ちいとも神聖な山から降りて来て暑い大阪の夏の夕に出会はした。しかもその夕たるや教坊楽とべにおしろいの交錯したいとも賑やかな華やかな夕で、我が上ながら急激な変化に驚く。歌によると当夜の板書中には艶千代、里榮、里葉、玉勇などの名が見える。

よそごとに涙零れぬある時のありのすさびに引合せつつ

 涙の多い作者のことであれば、自分には何の関りもないよそごとにも涙が零れたのであらう。別にいつの場合かに起つたひよつとした出来事を思ひ出すにも当るまいと思ふが、なぜかと反問すれば自分にもそれに似た些事があつたのだといふ訳なのであらう。

宝蔵の窗の明りの覚束な鳥羽の后の難阿含経

 高野山のムゼウムの覚束ない照明をそしり、鳥羽院の皇后が難阿含経を手写し、高野に収めたものなども陳列されてゐるが、いかにも暗くて字体の鑑賞も出来ないと訴へるのである。高野山では親王院に宿られ沢山歌をよまれてゐるが余りよいのはない。

一人寐て雁を聴くかな味わろき宵の食事の幾時の後

 一人寝の所在なさに聴き耳を立てると雁の声が聴こえて来た。それにしても晩の食事のまづかつたこと。夫婦生活十年の後に到達した境地である。昔は秋になれば東京の空にも雁の声が聞こえたのである。

亡き人の札幌と云ふ心にて降りし駅とも人に知らるな

 この亡き人は有島武郎さんのことで有島さんは札幌出でもあり、又ここの大きな耕地を相続されたのを小作人に無償で分配して処分されたこともある。そこで亡き人の札幌となる。武郎さんと晶子さんとは暫時ではあつたが心と心と相照した間柄で、無言の恋をお互に感じつつそれも相当の程度に昂じたが遂に発せずに武郎さんは死んでしまつたのであつた。これは寛先生もよく知つてゐた事実である。併し人が誤解しないとも限らないから「人に知らるな」と断つたのである。しかし又面白さうにわざわざ人に吹聴してゐる気味もなくはない。

少女子の心乱してあるさまを萩芒とも侮りて見よ

 ひどいめに会はせますからといふ続きが略してあるらしい。

夜の十時ホテルに帰り思へらく錦の如し函館の船

 人の少い北海道を旅しつづけ今帰らうとしてホテルから見れば連絡船に美しき灯が這入つて居て錦の感じだ。ぱつと明るい感じが読者にも感ぜられる。

もの恐れせずと漸く思ふ日は生みし娘の髪尺を過ぐ

 作者も漸く長じて物恐れをしない自信が出来て来た。それも道理、娘の髪の長さが一尺以上にも達してゐるのだから。女が一人前の人間になつたといふ感じと、少し盛りを過ぎたなといふ感じとが接続してゐる心持でもあらうか。

海峡の船に又あり五月より六月となり帰り路となり

 青函連絡船の歌で棄て難い趣きはあるが、無意識に踏んだ韻が一面音楽的効果をあげてゐるせゐでもあらう。即ち第二句以下にりの音が五つも踏まれてゐる。

君未だ大殿籠りいますらん鶯来啼く我は文書く

 しやれのめした歌である。作者も漸く成長してこれ許りの余裕が出来たわけだ。

爪哇[#「爪哇」は底本では「瓜哇」]のサラ印度のサボテ幸ひも斯くの如くに海越えて来よ

 人間は四六時中、意識するかしないかの違ひはあるが、幸ひを求めて居る。生きるとは幸ひを求めることでもある。しかし之を得るものは少い。しかしもし幸ひが爪哇のサラサのやうに印度のサボテンの様に海を渡つて向うから遺つてくるものだつたらどうだらう。そんな幸ひが私の家へも来ないかしらといふので、こんな愉快な想像も類が少いが、サラサやサボテンと幸ひを並べたのも等しくサの頭韻を頂くものではあるが突飛で面白い。

髪乱し人来て泣きぬうらがなし豆の巻き髭黄に枯るゝ頃

 女友達が訴へに来たが、心の乱れが髪の乱れにもあらはれて、しきりに泣くので私も悲しくなつた。初夏の庭にはスヰイトピイの花が終つて、巻髭が黄色に枯れかかつてゐる、それも寂しい光景だ。

ホテルなる小松の垣よ嵐など防がんとせで逃げてこよかし

 逗子の渚ホテルらしい光景である。葉山へ行つてひどい嵐にあはれた時の歌の一つ。この歌位作者を見る様にはつきりあらはしてゐるものも少からうと思はれるので引いて見たが、外境に対する作者にはいつも同じ心が動いてゐるのである。

夏の夜は馬車して君に逢ひにきぬ無官の人の娘なれども

 明治末年の頃の華族女学校出の令嬢なにがしの上であらう、極めて稀な例ではあるが日本開明史上の一風俗たることを失はない。歌も極めて気持よく出来てゐて階級意識など余り挑発もしないやうである。

阿修羅在大海辺と云ふことも思ふ長者が崎の雨かな

 現今の趨勢を以て進むならば或は日本語もその内ロオマ字で記される時期が来ないとも測られない。これから歌でも作る人はその覚悟も多少は持ち合す必要があるかも知れない。その意味は耳から聴いただけで分る歌でなければ将来性はないといふことである。新聞記事のやうな一日の生命しかない歌ならとにかく、日本語の亡びぬ限り永久に伝はるやうな立派な歌を作る場合には一考を煩はして置きたい。御経にあるやうな文句が浮んで来たるべき所だといふ春だといふのに長者が崎から逗子の海を吹き捲くる嵐の様を見て居ると印度神話にある阿修羅が荒れてゐるやうだ。さう思ふと阿修羅在大海辺といふ文句が浮んで御経の中の光景になる。字を見れば意味が分つてとても面白い歌であるが、これをロオマ字で写したら如何であらう、註釈をつけなければ単に音楽的に耳に快い感じを与へるだけで止んでしまふわけだ。ロオマ字問題は私達が若い時から考へ続けて来たものであるがいよいよ本気に考へ且つ実行に移す時期が近づいたやうだ。平家有王島下の条に諸阿修羅等故在大海辺といふ御経の文句が引いてある。

軒近く青木の茂る心地よさそのごと子等の丈伸びてゆく

 いつもみづみづしい大きな葉を拡げて四時変ることなく真赤な頬つぺたのやうな色の実さへ一杯つけてゐる青木は成るほどさういはれて見ると、どんどん背の伸びて育ちゆく子供達を象徴するものの様に思はれる、私達凡人は詩人に教へられて初めてさういふことが分るのである。

大山寺笹の幾葉の隠岐見えて伯耆の海の美くしきかな

 昭和五年五月山陰に遊ばれた時の作。大山寺から見た光景。絵の様に眼前に展開する。洵に申し分のない歌ひ様で、折から端午の節句で笹で包んだ粽でも出たのであらうか、熊笹でもその辺りに繁つてゐたのであらうか、そんな縁で笹の葉が出たのであらうが初夏らしい趣きが現はれる。

三十路をば越していよいよ自らの愛づべきを知り黒髪を梳く

 若い女が年をとるに従ひ少し宛若さの失はれてゆくのを感じて歎く心持は多く歌はれてゐるが、この歌の様に反対に三十を越えていよいよ人間としての我が貴さを感じ勢ひ込んで黒髪を梳くといふ様な例は余りあるまい。しかしそれがほんとうなのであつて人間はいつも現在を最上のものとして生きてゐるやうだ。現在を過去に比して歎く類は何れかといへば因習的な型にとらはれた感じなのではなからうか。それだからこの歌のやうに逆に現在を讃美する方に新らしさが生れるのである。

普明院書院の障子匍ひあるく大凡隠岐の島ほどの蟻

 やはり大山頂上にある御寺であらう、普明院の書院の障子を偶□大きな蟻が登つてゐた。先程から海中にぽつんと浮んでゐる隠岐の島が何とか歌ひたくて仕方がなかつた作者は、直ちにこの蟻を捕へてそれに結び付けて詩心を満足させたわけなのであらう。

春の日の形は未だ変らずて衰へ方の悲しみも知る

 単純に若いのでもない、衰へきつて若さが失はれてしまつたのでもない、その中間にあつて両者の相反した感じを同時に味はへる現在の環境を楽しむものでもあらうか。

元弘の安養の宮ましたりし御寺の檐に葺く菖蒲かな

 作者は読史家としても一隻眼を具へてゐて特に国史は大方誦じてゐた。諸処を吟行する場合もそれが史蹟でさへあれば必ず詠史の作を残してゐる。元弘は後醍醐天皇の年号であるから安養の宮はその皇女でもあらうか。安養寺に居られた故の御名であらう。その安養寺へ来て見ると、折も折端午の節に当つて古風に檐に菖蒲が葺かれてゐた。それが、史蹟であるだけ一層趣き深く見えたのである。同じ時の歌に 安養寺歯形の栗を比(たぐ)ひなき貴女の形見に数へずもがな といふのもあり、又山の雪を見ては隠岐から還幸された天皇を偲んで 御厨の浜より上りましたりし貴人の如き山の雪かな とも詠まれてゐる。

五人は育み難し斯く云ひて肩の繁凝(しこり)の泣く夜となりぬ

 五人目の子の生れた頃の作。太陽へ鏡影録を書いたり、色々の新訳物を出したり一家の経済は殆ど夫人の手一つで切り盛りされてゐたらしい。その余憤の洩らされた歌で、溜息のやうなものである。しかしそれにも拘らず事実は十一人の子女が見事に育て上げられたのである。

自らを五月の山の精としも思ふ卯つ木は思はせておけ

 毒うつぎともいはれる卯つ木が紅白とりどりに初夏の山に咲き誇る勢ひは大したもので、藤にしろ躑躅にしろ蹴押され気味である。而して我こそ五月の山の精であると自負して居るらしいがそれもよからう、勝手に思はせて置くがよい。大してえらくもない連中の威張つて居る世相が同時に象徴されても居るやうだ。

天地のものの紛れに生れにしかたは娘の人恨む歌

 人並はづれた才分をたまたま持たされて生れて来た許りに、人並はづれた恋もし人を恨む歌を読むことにもなつたといふ述懐で、かたは娘は反語であらう。

蜂蜜の青める玻璃の器より初秋来りきりぎりす啼く

 所謂近代感覚による象徴詩で、ある時期に作者も試みたがその数は多くない。今後短歌もこの方向に進む余地が大にありさうだ。この歌のきりぎりすは蟋蟀の古語でなく、今の青い大きいきりぎりすとすべきでそれでなくては近代感と合はない。

高々と山の続くはめでたけれ海さばかりに波立つべしや

 丹後与謝の大江山辺の景色。ここからは下に橋立浜の絶景も見える。両者を見較べて山の高きを称へ同時に海は平らな海としてその美を存する趣きである。

都をば泥海となしわが子等に気管支炎を送る秋雨

 今日の東京も滅茶滅茶にこはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京の道路と来たらお話にもなにもあつたものではなかつた。外国の記者が之を評して潜航艇に乗つて黄海を行くが如しと言つた。靴など半分位もぐつてしまつたからである。この歌を読むと当時が思ひ出され歴史的意義も少くない。

落葉よりいささか起る夕風の誘ふ涙は人見ずもがな

 銀杏や欅の落葉の美しく地に散り敷いた処へ夕風が起つてさつと舞ひ上つた。それを見て何の訳もなく涙が出て来た。悲しんででも居る様に人は思ふだらうから見られないやうにしよう。これも悲しくない涙の例。

嬉しさは君に覚えぬ悲しさは昔の昔誰やらに得し

 誰やらとは誰の事だらう。嬉しさの与へ手はその昔、悲しさの与へ手ではなかつたか。その覚えなしとは云はさぬといふほどの寸法であらう。

春霞何よりなるぞ桃桜瀬戸の万戸の陶器の窯

 昭和四年四月尾張の瀬戸に遊んだ時の作。春霞とは一体何か。私は知つてゐる。それは桃の花から立ち登るガス、桜の花から立ち昇るガス、葉もあらうかと思はれる焼物窯から立ち昇るガス、さういふものの合成したものがこの町の上に棚曳いてゐる春霞である。

相寄りてものの哀れを語りつと仄かに覚ゆそのかみのこと

 そもそもの逢ひ初めはどんな風であつたか。私はかすかに思ひ出すが、近く寄つて物の哀れを語り合つただけである。それが如何であらう、けふのこの二人の中は。

光悦の喫茶の則に従ひて散る桜とも思ひけるかな

 鷹が峰の光悦家を尋ねた折、折から満開の桜の散るのを見て光悦の御茶の規則に従つて散るものと思つたのである。これが晶子さんの見方で他人の決して見ることの出来ない見方である。

三月見ぬ恋しき人と寝ねながら我が云ふことは作りごとめく

 前に 君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ といふのを説いたが、それは若い恋の場合であつた。今度のこの歌は夫婦生活長い後のものであるが、会話に平板を破らうと労力してゐる跡が見え興味が深い。

青春の鬼に再び守らるる禁獄の身となるよしもがな

 若き日の夢を再び追ひたい心持ではあるが、鬼といひ禁獄といふ恐ろしい言葉の使つてあるのは意味がある。年をとつて酸いも甘いも噛み分けた今は大した欲望とてもない謂はば自由の身である。それから見ると強烈な内の促しの支配する若い頃は、青春鬼とでもいふ獄卒の見張りをする獄中にゐるに等しいが、それがも一度さういふ目にあつて見たいのである。

男をば日輪の炉に灸るやと一時(ひととき)磯に待てばむづかる

 鎌倉の様な海浜の夏の逢引で、少し待たされた男の言ひ分で面白い。しかし日本の海の夏の沙はまさにこの通りで誇張でも何でもない。であるからむづかるのでもある。

我は泣くこれをば恋の黄昏の景色と見做す人もあらまし

 今私は泣いてゐる。これを見る人は私の恋もいよいよ終りに近く正に黄昏の景色だと思ふ人もあらう、さうでもないのだが。斯んな風に直き泣く様ではさうなのかも知れない。

後ろより危しと云ふ老の我れ走らんとするいと若き我

 青春と老熟の入り交つて平衡状態を保つ三十過ぎの心の在り方は恐らくこんなものであらうかなれど、何しろ三十年も前の事だから私自身は忘れてしまつて何とも云へない。

三角帆墨の気(け)多き海に居て片割月にならんとすらん

 武蔵の金沢に遊んだ時、夕暮に小高い丘に登つて海を見た景色、私も一しよに見たのでよく知つてゐる。少し暗くなつた海面に小ヨツトの三角帆がたつた。一つ浮いてゐた。私もそれを詠んだ筈だ。夫人は何と詠むだらうと興味を以て臨んだが遂にこの歌になつた。その第一印象の的確にして過らざるに感心したことがあるが、今取り出して見ても浮き出すやうに鮮やかな印象を受け取る。

髪未だ黄ばまず[#「黄ばまず」は底本では「黄ばます」]心火の如し悲みて聴く喜びて観る

 三十を越えたといふ自覚はあつても髪はまだ黄色にはなつてゐない、火の様な心はその目の様に燃えてゐる。人の話をきくにも悲しい話は涙を流して聴き、面白い芝居は心を躍らして見ることが出来る。私はまだ若いのだ。

凋落は我が身の上になりぬると云ひ過ぎすなり思はざること

 今思ひ出して見ると何と云ひ過ぎの多かつたことよ。私の如きもいひ過ぎ許りして居た様だ。夫人も相当云ひ過ぎがあつた。それに気がついた歌である、いよいよ私の凋落する番が来たなど思ひもしないことをつひ云つてしまつた。しかし潜在意識にそんなことがあつて出て来たのかも知れない。さうとすればうそでもないのだ、言ひ過ぎだとするのは自ら欺くものである。何だかそんな裏の意味もありさうだ。

紅の海髪(おごのり)の房するすると指を滑りぬ春の夜の月

 すこし霞んだ春の夜の月の昇つてくるのを見るとあのぬらぬらする紅い海髪の房がするすると指の間をすり抜ける感触だ。暖かい風の吹いて居る静かな海岸の岩の間に顔を出す人魚、近代人の感触は例へば斯ういふ媒介者があつて感ぜられるとも云へる。

何時となく思ひ上がれる我ならん君も仇も憎からぬかな

 人間も漸く成熟すると斯ういふ境地に立つ、即ち恩讐一等の境地である。それをさうといはずに殊更に卑下して思ひ上がれるといつたのであらう。

恋もせじ人の恨みも負はじなど唯事として思ひし昔

 私は少女の頃から色々の古典も新作も読んで恋の葛藤の悲しさ痛ましさ浅ましさ恐ろしさを十分知るにつけ、私は恋などはしない、人の恨みも受けまいと簡単に考へてゐたのであつた。それだのに如何だらう。人の恨みを受けるやうな人並はづれた危い恋をしてしまつた、恋を知らない少女心はそんなものでしかない。

島の雨紅襷して樫立の若衆が出でて来る時も降る

 八丈島へ遊びに行つた時、偶□大賀郷の広場で樫立部落の若衆によつて八丈音頭の踊られるのに出会つた。その時は夏の暑い日盛りであつたが、一年二百五十日は降るといふ島の雨が折しも夕立となつて降り出した。それがをかしかつたのである。

仄白き靄の中なる苜蓿(うまごやし)人踏む頃の明方の夢

 私は今明方の夢を見てゐる。今頃は仄白い大方脚気を直したい人達が靄を分けつつ柔い苜蓿の上をはだしで踏んでゐる頃であらう、それもよし、わが快い夢もよい。

芝山を桐ある方へ下りて行く女犬ころ初夏の風

 山本さんの野方の九如園で歌会が開かれた事がある。五月牡丹未だ散らず、空には桐の花の咲く日であつた。その匂ひをしたつて芝山を婦人客と犬と微風とが降りてゆくのである。

漸くに思ひ当れる事ありや斯く物を問ふ秋の夕風

 昔から秋風を歌つた歌は大変な数に達するだらうが、さて余りよい歌はない。最初のものは額田の女王の 君待つと吾が恋ひをれば吾が宿の簾動かし秋の風吹く で之はよろしい。万葉はこれ一首。次は一足飛びに源重光に来る。 荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ 以上二首は積極的であるが、以下は凡て消極的になる。[#底本では4字分の空白]源道濟のは 思ひかね[#「思ひかね」は底本では「思ひがね」]別れし野辺を来て見れば浅茅が原に秋風ぞ吹く 西行からは典型性を帯びて来る。 荻の葉を吹き棄てて行く風の音に心乱るゝ秋の夕暮 後鳥羽院のは一段とすぐれてゐる。 あはれ昔いかなる野辺の草葉よりかかる秋風吹きはじめけん 家隆にも一首あり 浅茅原秋風吹きぬあはれまたいかに心のあらんとすらん 伏見院のは 我も悲し草木も心痛むらし秋風触れて露下る頃 永福門院のは 夕暮の庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむら雨ぞ降る で之は少し趣きが違ひ風も荒く村雨も降る場合だが、その他は大抵似よつた心持が歌はれて居て日本の秋風がどんなものであるかは大体推定される。以上あげたのは秋風中の秀歌で、あとの何千首かは凡て風の様に吹かせて置けばよいので問題とするに足りない。さて之等に比較する時いかにこの歌が特殊面をもつた近代的のものであるかが分るであらう。この場合の近代性は分化を意味するのである。

桃浦に古船待てり乗るべきかいかに鹿島の事触もなし

 いかにで切る。鹿島の事触れとは、正月の行事の一つ、鹿島大明神の神話と称し神主姿の男が襟に御幣をさし銅拍子を鳴らして年の豊凶、吉凶を触れ歩いたものださうである。この歌は昭和六年二月筑波山へ登り霞が浦を渡つて鹿島へ参詣された時の歌。「桃浦」は土浦の前の入江の名であらう。さて船へ乗らうとするとその待つて居る汽船がいかにも古いぼろ船でとても遥か彼方の潮来までは行けさうもなく途中でこはれてしまひさうに見える。さあ乗るべきか止めるべきか、せめてこれから詣らうとする鹿島の神の事触れでもあれば心が極るのに、その前触れもなく困つてしまふといふのである。鹿島の事触れなどいふ古い行事を知つて居てその場所に生かして使はれたこと、これなども他人の企て及ばぬ所である。

生れ来て一万日の日を見つつなほ自らを頼みかねつも

「一万日[#「一万日」は底本では「一万日は」]」は三十年弱に当るが、三十年と云つたのではこの場合歌にならない。観音様の縁日に四万八千日といふのがあつて珍しく日を以て年を数へてゐるがこんな例は多くはない。多くない例を用ひるから歌が成立するので、この場合は万といふ大きな数が歌を動かす動力となつてゐるわけである。

衰へし身とは夢にも思はれず苦しき毒を服しけるかな

 もし少しでも自らの衰へを感じてゐたなら、こんな苦しい毒は呑むのでなかつた。自分の既に若くないことに気づかず、衰へたなどとは夢にも思つてゐなかつたことの罪である。毒は恋で、中年女の悩みを歌つたものであらう。

不可思議は天に二日のあるよりも我が体に鳴る三つの心臓

 先に七瀬八峰の二女を双胎として生んだ体験から今度もきつとさうだと思ひ込まれて作られた歌である。この時は余程心を悩まされたものと見え この度は命危ふし母を焼く迦具土二人我が胎に居る とも作られてゐる。

雑草は千万行の文章も人に読まれずうら枯れにけり

 これは独り雑草の運命である許りでなく、数十億の人類の運命であり、又一切万有の辿る途でもある。唯誰も思ひ到らないだけだ。作者はよくこの事に気づいた。作者の如きは雑草の書く千万行の文章の内の数十行数百行は読み得たものであらう。

悪竜となりて苦しみ猪となりて啼かずば人の生み難きかな

 産科の近江湖雄三博士を感憤せしめた歌で、同博士が独逸から無痛安産法を携へて帰朝されたのもこれに本づくのである。夫人も一囘体験されて好結果を得られた。しかし時代が早かつたと見えこの方法はいつの間にか我が国からその影を絶つたが、この頃の米国辺の空気から察すると大に将来性がありさうで、しまひにはお産の苦痛も昔語りになる時がありさうにも見える。さういふ苦しいことも晶子さん以前には誰も本気に歌はうとしなかつたやうで、その事が反つて驚くべきことなのではないか。

さらさらと土間の中にも三鷹川浅く流るる島田屋の秋

 武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。まだバスなどのない時分で、境から歩いて行つたのである。深大寺は余程古い寺でもあり、その環境もよかつた。当時は人も行かず、ゆつくり秋の心を楽しませることが出来た。島田屋はその門前にある農家の兼ねた蕎麦屋で手打ち蕎麦を食べさせたさうである、先生達はよくそこへ行かれた。一度歌会を開かうといふ話もあつたが当時交通が不便だつたので之は実現されなかつた。その大きな構への家の中を、直ぐこの境内に湧き出た許りの水量の頗る豊富な三鷹川――作者の命名ではないか――が流れてゐる光景である。再び島田屋の蕎麦の食べられる日がいつ廻つて来ることだらう。又同じ時の歌に 紫の幕の草を掛け渡す小家に廻る水車かな といふのもある。斯ういふあか抜けのした写生の歌は誰にもは出来ない。

母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ

 女人の母としての一面をその出発点に於て規定するものであるが、これほどの事さへ晶子さん以前には考へる人がなかつたのではなからうか。

思へらく千戸の封は得ずもあれ梅見ん窗を一つ持たまし

 作者は私などに比すればその志は極めて大きかつた。千戸の封といふ如き言葉の出て来るのがそれを証明してゐる。私も同じあこがれを持つてゐたので、この歌の気持が実によく分つた。しかし志の小さい私にはこんな歌は出来なかつた。私は作者の晩年、機縁熟して伊東に小菴を結び尚文亭と名づけ、日夕海を見て暮すことが出来るやうになつた。そこで如何かして作者をそこへ移したかつたのであるが、既にして遅過ぎた、又遠過ぎることになつてしまつた。移動は上野原が最大限であつた。その事を私は今でも残念に思つてゐる。

雲渡る多くの人に覗かれて早書をする文の如くに

 斯ういふ早書きの体験は誰にもあらう、又なくとも容易に想像出来る。けれどもそれを歌材とすること更にそれを雲の運動と結び付けることなど決して出来ることではない。千態万状測り知られぬ雲の運動もその一つの相がこれで正確に固定されたわけである。

事もなく鎌倉を経て逗子に著き斯くぞつぶやく「昔は昔」

 暫く別居して鎌倉に住んだことがあつた。あの時はひどかつた。今日は事もなく鎌倉を通り過ぎて逗子に著いた。それが少し変にも思はれる。そこで昔は昔、今は今別にをかしくはないのだと自分に云つてきかせたといふのであらうか。

あながちに忍びて書きし跡見れば我が文ながら涙こぼるゝ

 親のもとに居た頃の昔の手紙が、探し物をしてゐると思ひがけなく出て来た。試みに読んで見ると無理をして人にかくれて書いた様子がはつきり出てゐて、その頃のことが思ひ出され涙がぽろぽろ落ちて来た。

風起り藤紫の波動く春の初めの片山津かな

 昭和六年一月、北陸吟行の途上、片山津温泉に泊した時の作。私はその地を知らないので何とも云へないが、いかにも春の初めらしい気持のよい出来なので幾度か朗誦してあきることがない。

めでたきもいみじきことも知りながら君とあらんと思ふ欲勝つ

 斯うすれば富貴も得られ幸福も得られるといふ途を私はよく知つてゐる。それにも拘らず、あなたと一しよに居たいと思ふ欲の方が勝つて貧しい暮しを続けてゆくのです。大欲は無欲に似たりでせうか。

入海を囲む岬と島島が一つより無き櫓の音を聞く

 能登の和倉温泉での作。この歌の中には実際櫓の音がしてゐるやうだ。印象もこの位はつきり出ると神に近い。この時の作も一つ、 海見れば淋し出島の和倉にて北陸道の尽くるならねど 寒い一月の北の入海の心持がよく出て居る歌である。

腹立ちて炭撤き散らす三つの子を為すに任せて鶯を聞く

 鴎外先生は決して子女を叱らなかつたさうであるが、晶子さんもまたさうであつたらしい。その面目がこの歌に躍如としてあらはれてゐる。鶯を聞くといふからもうこの頃は中六番町に移られてゐたことであらう。

わが踏みて落葉鳴るなり恋人の聞く音ならばをかしからまし

 昭和四年頃の作で作者五十二歳、血のにじむ様な猛修行をした後に恋を卒業した作者が昔を忘れず今の恋人に聞かせたい様な趣きの見える面白い歌である。さうして若い恋人が聞いたら、この落葉を踏む音が天にも昇るやうに響くかも知れないと思ふのである。

吉原の火事の明りを人あまた見る夜の町の青柳の枝

 余り繁華な町とは思はれないが青柳の枝は柳の並木らしいので六番町ではないかも知れない。その頃吉原に大火があつて全部焼けてしまつたことがあつたが、その時の歌であらう。火事を直接詠ぜず、青柳の枝を表に出して悲惨事は之を人の想像に任せる、悪に堪へぬ作者の手法であるが、印象は相当はつきり出てゐる。

由紀の殿主基の宮居に夜を籠めて祈り給ふも国民の為め

 昭和の御時の大嘗会の歌である。作者は色々の場合に歌を作つた。作らせられた場合の方が恐らく多かつたであらうが、さういふ中によい歌はやはり殆どない。しかしこの今上御即位の時のものには相当よいのがある。それは何といつても今上の人並の人主でないことに本づくものであらう。この歌なども真に作者がさう感じて作つて居るので、月並のやうで生命が籠つてゐる。

何事に思ひ入りたる白露ぞ高き枝よりわななきて散る

 木の下を歩いてゐると上から朝露が落ちて襟に散りひやりと心を冷した。見上げると枝にはなほ露の玉がたまつてゐて今にも散りさうだ。それは丁度何事かに深く思ひ入つて慄えながら身を投げる形である。さう作者は感じたのであるが、さう云はれればいかにもそんな感じがしさうだ。

秋風に白く靡けり山国の浅間の王の頂きの髪

 軽井沢には何度か行かれたが、之は昭和五年頃の作である。浅間の煙が颯爽として秋風に靡く壮大な光景を抒し、道理なれそれは山の王の白髪であつたといふわけで、之亦一種の表現法ではあるが、余り屡□用ひない方がよいだらう。

秋の夜の灯影に一人物縫へば小さき虫の心地こそすれ

 自己の天分を信じて高く自ら評価し寛弘の女房達に比較されて嬉しいとも思はない才女も秋の夜の灯影で一人淋しく縫物をして居ると平生の矜誇などはどこへやらきりぎりすの様な小さい虫になつた感じである。

暁に馬悲しめり白露の厩の軒に散れるなるべし

 明方ふと目をさますと馬の嘶くのが聞こえる。その声が哀調を帯びてゐる。それはきつと秋の白露が木の枝から厩の軒に散りかかるのを見て物の哀れを感じたからであらう。ある時は万有の心を以て心とし、ある時はわが心を以て万有の心とする詩人でなくてはたとへ同情はしてもこの高さには至り得ない。これも軽井沢での作。

鎌の刃の白く光ればきりぎりす茅萱を去りて蓬生に啼く

 このきりぎりすも昼鳴く虫□で、今でも玉川の土堤へ行けばこの光景が見られる。しかし見てもなかなか歌へる光景ではない。歌つても人が出て来て虫が主にならない。特に人を抜いて独り鎌の刃を躍らせて居る所が人の意表に出てそこに新鮮味が生れるのである。

山の池濁る身ならば濁れかし労ふ如し秋雨の中

 雲場の池に秋雨が降り込んで濁るに非ず澄むにあらず落ち付きのない池の面をいたづき労ふものの如く見て、濁るならいつそ濁つてしまへば安心が出来るのにと、女らしいデリケエトな感じを出してゐる歌。

芝居より帰れば君が文著きぬ我が世も楽し斯くの如くば

 見た所こんな楽しい明るい歌は晶子二万五千首中にも多く類を知らない。しかしほんとうは辛いきびしい人生にも一日位こんな日があつてもよからうといふ意味で思つた程楽しい歌ではないのかも知れない。

霧積の霧の使と逢ふほどに峠は秋の夕暮となる

 碓氷の坂を登つてゆくと霧の国霧積山から前触れのやうに霧がやつて来て明るかつた天地もいつしか秋の夕暮の景色になつてしまつた。

飽くをもて恋の終りと思ひしにこの寂しさも恋の続きぞ

 私の恋は遂に達せられた、十分に堪能した、それ故そこで恋は終るものと考へてゐたのに、歓喜の後の悲哀らしい今の寂しさ、これも恋の続きで、少しも終つてはゐなかつたのであるといふわけだが、しかし之は言葉の綾であつて本来の目的は私は今寂しいのだと言ひ度いことにある。しかしそれだけでは歌にならないので前の文句を拈出したのである。

曙をかつて知らざる裏山の雑木林の夕月夜かな

 軽井沢の奥の三笠山邑の光景で、昼なほ暗い程繁り合つた雑木林の心を曙を一度も知らないといつたので、それによつて影の多い夕月夜の印象がくつきりと浮んで来るのである。

相あるを天変諭し人さわぎ君は泣く泣く海渡りけん

 寛先生が渡欧されたのは明治の末年のことで詩人の洋行した最初であり、当時としては相当思ひきつた壮挙であつた。日本の詩を世界的の標準にまで高めたい目的を以て行かれたのであつた。しかしそれでは面白くないので、恋に結び付け、自分達の恋は世間の批難を買つた許りか、天変まで起つて一所に居てはいけないと諭してゐる、そこでやむを得ず泣く泣く海を渡つて祖国を離れ私から遠ざかつたのであると斯う説明したわけであらう。

大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我

 恋などはとうの昔に卒業し学者として静かに書斎に立籠り古書に親しむ作者の俤が其の儘出てゐる。日記は吾妻鏡などでもあらうか。

海越えんいざや心にあらぬ日を送らぬ人と我ならんため

 良人の跡を追つて渡欧せんと決心した頃の作で、これが晶子さんの一生を通じて持ち続けて変らなかつた処世哲学である。即ち心にもない日を送らぬことで、これが因習から解放されることにもなるのである。大抵の人は因習の囚となつて心にもない日を送つてあたら一生を無駄に過してしまふのに、独り、我が晶子さんは子の愛をさへ犠牲にして心に叶つた日送りをした。普通の日本婦人の何人分かの仕事を一人で、成し遂げたのはその精力が絶倫であつた許りではない、この心掛けがあつてそれを実行に移しえたからであつた。

呉竹を南の隅に植ゑし[#「植ゑし」は底本では「植えし」]より片寄る春の夕風となる

 夫人の友人の一人で夫人の真価を最もよく了解する詩王高村光太郎君は白桜集の序で、「人知れぬかくれた著想の微妙」なことを挙げてゐるが、この歌などもその一例であらう。春の夕風が片寄つて吹くなどといふ妙想はいくら竹叢を横にしてでも誰も思ひつけるわざではない。

同じ世の事とは何の端にさへ思はれ難き日をも見るかな

 良人を渡欧させて一人留守をして見ると世の中は正に一変して、何事につけ同じ世の中とは思はれない様な日送りをすることになつた。今に至つてこんな思ひもしなければならぬのだらうか。

茅が崎は引潮時に蛙鳴きいかに都の恋しかりけん

 七瀬さんの良人即ち唯一人のお婿さんが茅が崎の別邸で若い身空で亡くなつた時之を悼んだ作であるが、その子を思ふ切々たる哀調は永く読むものの心を打たずには置かないであらう。

その妻を云ひがひなしと憎みつつ罵りつつも帰りこよかし

 一人留守をすることは最早堪へられない。子女養育の大責任を負ひながらその言ひがひなさは何事だと憎まれても罵られても構はない、それよりも帰つて貰ひたいのです。

崩れたる牡丹昨日の夕風の如何なりしかは我のみぞ知る

 崩れたる牡丹我のみぞ知ると続くのであらう。昨夕のあの風の恐ろしかつたこと、それはそのために崩れた牡丹の私丈が知つて居ることです。さういふ牡丹の述懐で、その調子に一抹の凄味が感ぜられる。

十の子と一人の母と類ひなく頼み交はすも君あらぬ為め

 何といふやさしい真情の溢れた歌であらう。私はこの歌を取つて、同じ様な子を持つ或は夫を失ひ、或は留守をする若い母親にすすめて日常口誦させたいと思ふ。彼女等はそれによつてどの位慰められることであらう。

ゆくりなく流れ会ひたるものながら沙にあらめと勿告藻(なのりそ)と抱く

 これは鎌倉の海岸で作者が見賭した一静物を歌つたものではあるが、実は人生そのものの象徴で、あらゆる夫婦あらゆる恋仲はこのあらめとなのりそとに過ぎないのである。

人の世の掟の上の善き事もはたそれならぬ善き事もせん

 これは晶子さんの道徳標識ともいふべきで、正にこの通りのことを実行された。世の中でいふ善事は凡て之を行つた。しかし同時に世の中で必ずしもよしとしない善事を躊躇せずに行つた。女性解放の如き、男女共学の如き、敬語廃止の如き、死者尊重をやめその代りに生者尊重を力説する如き、御堂関白礼賛の如きその例は無数にあつて因習に囚はれた世人の大多数の肯ぜざる所を善事と信ずるが故に或は行ひ或は説いたのであつた。

腰越へ向ふ車を見送りて寂し話を海人の継げども

 昭和四年頃暫く鎌倉姥ヶ谷に行つてゐた時の歌。ある日七里が浜へ出て漁師を捕へてしきりに話をしてゐた。その時鎌倉の方から一台の自動車が来て腰越へ向つて去つた。それを見送つて何故か急に淋しい心持がして来た。漁師はそれとも知らずに話を続けてゐる。どうですこの一瞬の捕へ難い光景、それが見事に固定されて人心の糧となつてゐるのである。

臆病か蛇か鎖か知らねどもまつはる故に涙こぼるる

 本来の晶子調から離れてゐて少し借物の気味があるが、尚よく近代感覚が消化され、再現されてゐる。何か私にまとひついてゐる、何だか分らない、それは臆病といふ心の病かも知れない、気味のわるい生き物の蛇かも知れない、人を恐ろしい牢獄につなぐ鎖かも知れない。それは分らないが何かがまとひついてゐる、さう思ふと涙がぽろぽろこぼれてくる。

大町の辻読経をば二階にて聞く鎌倉の夕月夜かな

 大町の辻読経といふことが別にあるのかも知れないが、大町の方向で、日蓮辻説法の格で高声に御経を読んでゐるものがあつて、自分の借りてゐる二階まで聞こえて来る。鎌倉は爽やかな初夏の夕月夜だ。それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月の光のやうにさしてゐる。

我が造る諸善諸悪の源をかへすがへすも健かにせん

 これも晶子哲学の真髄を示すものであり又自ら策励するものでもある。行為として現はれることなどは抑□末である。それが善であらうと悪であらうと構はない。それよりそれらの行為の出て来る根本観念だけは何としても健全なものにして置かねばならぬ。私の努力はそのために払はれる。

海の月前の浜にて人死ぬとなど鎧戸を叩かざりけん

 朝起きて見ると、前の浜に死人があると罵り合ふ声が聞こえる。空には残月が懸つてゐる。ああこの月は昨夜海の上で見てゐたのだ、前の浜で人が死ぬと一言言つて鎧戸を叩いてさへくれたら、直ぐにも起きて助けにいつたものをと詩人は私かに悔ゆるのである。

家の内薄暗き日もあてやかに白きめでたき雛の顔かな

 三月の雛祭のある曇り日のスナツプで、尋常人の気のつかない細かい感触が捕へられてゐる。

白き門死なん心の進むべき変に備へて固く閉すらん

 同じく鎌倉での作。海に出る白塗の門が固く閉ざされてゐる。死なうとする心が私にあつてその進行する方向はいふ迄もなくあの門である。そこで変に備へて決して開かないのである。「タンタジイルの死」などの思ひ出される感じである。

天地の薄墨の色春来れば塵も余さず朱に変りゆく

 一陽来復の心持を色彩を以て現はせば、こんなものであらう。塵も余さずと云つて万有にしみ通る春の恩沢をあらはし、然らざれば平板に陥る処を脱出させた。

古の匂ひ未来の香を放つ薬かがせよ我が胸迫る

 これも前に幾首か例のあつたやうに言葉の音楽であつて大した意味はない。唯朗々と読み上げて一関[#「一関」はママ]の感動を覚えればそれでよいのである。而してこの歌も既にクラシツクになつてゐる。

霜月や恋の積るになぞらへて衣重ぬる夜となりしかな

 十一月になつては一枚一枚重ね著をする枚数が増えて行く、とんと年を重ねるにつれて恋の積るのに似てゐると、その頃五十二三でなほ若さの残つてゐた作者はさう感じたのである。序だからいふが、発句では「や、かな」を使はないことになつてゐるさうだ。それには十分な理由がある。然るにこの作者は若い時からお構ひなしに盛に使つてゐる。私はその多くの場合にやはり承服出来ないものがある。例へば 鎌倉やみ仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな の如き歌では如何にも耳ざはりである。然るにこの歌の場合に限つて少しも障らないのは如何いふわけであらうか。

快き秋の日早く来たれかし飽ける男のその証(あかし)見ん

 早く気持のいい秋が来て欲しい。あの男は十分恋を満喫し、もう沢山だといつて寄りつかなくなつてしまつたが、果してそれが事実なら、秋になつたらその証拠があがることだらうから。私の見解では、満喫したと思つたのは暑さのせいで、私はあの男を満足させた覚えはない。それ故気持のよい秋が来たら、腹が急に減つて満腹感などはつひ忘れて必ずまた来るに違ひない。而して逆に満腹して居なかつた証拠を見せるであらう。

過りて病を得たり生れ来ていくそのことを過りて後

 病気にかかつた期会[#「期会」はママ]に過去を顧ると私は生れ落ちてからどれだけ多くの過ちを犯したことであらう、今日斯うして居るのもそれらの過ちの集つた結果である。而して最後の過ちが今度の病気である。人生とは私の場合には畢竟過誤の別名であるらしい。

三味線の一の絃のみ掻き鳴らし時雨通りぬ文書ける時

 巴里の夫の所へ遣る文を書いてゐるとばらばらと少し鈍い音の時雨が通つた。三味線の一の絃の感じである。

塩の湯の浅き所に腹這へる二人の女奔流と月

 霧島の明礬温泉の夏の月夜の風景。湯滝が落ちて奔流となつて溢れてゐる、女が二人腹這ひになつてつかつて居る、昼の様な月がその上を照してゐる。こんな光景が浮ぶが果して如何あらうか。表現法が面白いから抜き出した。

わが泣けばロシヤ少女来て肩撫でぬアリヨル号の白き船室

 作者が渡欧は大正元年五月で、三十六歳、往きは西伯利亜を通つた。アリヨル号は敦賀浦塩間のロシヤ側の定期船。例の涙脆い作者は何に感じてか船室で泣き出した、さうすると可哀らしい女ボオイが来て肩を撫でてくれた。三十六歳になる当時既に世界に名を知られてゐた女詩人の肩を名もない少女が慰め顔にさするのだから洵にほほゑましい光景である。

我が友の弱き涙の一しづく混りし後の寒き温泉

 湯に浸りながら四方山の話をしてゐると友達の目からほろりと涙がこぼれた。友達の弱い心から落ちた一雫である。それを知ると温泉が急にぬるくなつたやうに思つた。これも晶子さんでなければ詠めない歌だ。弱き涙といふが如き句でさへその通りであつて、豊富な内容を唯一言で簡潔に表現してゐるのである。

風吹けば右も左も涯知らぬ水の中なる芦の葉光る

 之はバイカル湖の景色であるが、その調べの持つ寂しさは異境を通過する旅人の心が自ら反響してゐるのであらう。

月日をばよそに雲涌く霧島の山にありとも告げずあらまし

 昨日といはず今日と云はず朝と云はず昼と云はず西からも東からも雲が涌いて変幻限りない様相を呈する霧島に来て居るとでも書いたら子供達は心配するだらう、そんなことは書くまい。

夕ぐれは車の卓の肱濡れぬ胡地の景色の心細さに

 胡地はシベリヤである。私も一囘シベリヤを通過したことがあるが、風光明媚な内地の景色に慣れてゐる旅人が朝夕シベリヤの荒涼たる風貌に接する場合、特にそれが感覚の鋭敏な女の一人旅である場合、洵に想像に余りがある。当時大連にゐた私は夫人のこの壮挙を勇気づける為にハルピンに向け電報を打つたことがあるが、よくも決行されたことであつた。

山の台対する海はさしおきて心惹かるゝ青蓬かな

 霧島温泉のある山の台からはその中に桜島の浮く鹿児島湾の東の水面が遥に展望される。しかしそれはそれとして、展望台に生えてゐるつまらない青蓬が私の心を惹く、大方武蔵野のそれを思ひ出させるからであらう。

初夏やブロンドの髪黒き髪ざれごとを云ふ石のきざはし

 欧羅巴で妙なのは女の髪の色のまちまちなことであるが、特に巴里では黒髪の割合が多い。この歌では半々になつてゐるが、それ程でない迄も東洋人たる作者はなつかしく黒髪の方を見たことであらう。この石段はどこであらう、その近くに居たと思はれるリユクサンブル絵画館のそれでもあらうか。

霧島にあれど子等ある武蔵野の家を忘れず都を忘る

 もし都を忘るといふ結句がなかつたとしたら如何であらう。その位な歌なら誰にでもどこででも作れる。しかしこの結句を加へることは容易に出来ることではない。又その反対に都を忘るといふ事だけであつたら之亦誰にでも出来る。忘不忘両者の並ぶ所が珍しいのである。荻窪の家がずつと郊外にあつて東京といふ観念から逸脱してゐることもこの歌を作らせた有力な動機ではあつたらうが。

紅の杯に入りあな恋し嬉しなど云ふ細き麦藁

 赤い桜んぼか、いちごのシロを飲むのに麦藁を用ひること日本の欧化に従ひ近頃では当り前のことであるが、もとは全くないことで、もしそんなことを東京の真中ででもしたら皆吹き出してしまつたであらう、これはさういふ時代に出来た歌である。初めて巴里で斯ういふ飲み方のあることを知つて面白く思つたに違ひない。その心持がよく出て居る。

霧島も霧の如くに時流れ昔の夢となりぬべきかな

 試みに身を将来に置いて現在をふり返るわけで億劫なことをやつたものだ。又縁語を使ふことも枕言葉やかけ言葉と共に明治以来禁断同様であつたが、之も作者は構はずに使ふのである。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟

 作者夫妻の巴里に遊んだのは欧洲大戦以前の爛熟時代で、私は之を知らないから大に羨ましく思つてゐるが、五月のフランスはこの歌の様に自然も人も恋愛の渦巻に巻き込まれた一個の花園であつたに違ひない。

闇広く続ける中の市比野を探りて借れる草枕かな

 市比野の温泉に著いて見ると、既にして薩摩平野は真暗な闇に掩はれてゐて、その中で僅か許りの灯を頼りに探り当てた様な市比野であつた。そこ許りが少し明るい日本の片隅の小さな温泉の心持がはつきり出て居る。

物売りに我もならまし初夏のシヤンゼリゼエの青き木の下

 五月のシヤンゼリゼエの大通りは、両側のマロニエの街路樹が花をつけ、小さいシヤンデリエヤを一面に飾り立てたやうに見える。さうしてエトアルからコンコルドまで何キロかの間それが真直ぐに続く光景は洵に夢の様に美しい。その木の下には花売り、新聞売り、くだもの売りの御婆さん達娘達が嬉々として生を楽しんでゐる。東洋の旅の女もじつとしては居られないわけだ。

久見崎の沙の斜面を打ちし如打たざりし如晴れし雨かな

 小舟を川内河口に浮べ長く海中に突き出した沙の堤防の様な久見崎に遊んだ。その途上軽い夕立がしてやがて晴れてしまつた。著いて見ると沙が少し濡れて居る、しかしそれは乾いてはゐないといふ程度であるその心持を詠んだものであらうか。

月射しぬロアルの河の水上の夫人ピニヨンが石の山荘

 巴里滞在中の夫妻は和田垣謙三博士に連れられ同博士入魂のピニヨン夫人といふ人のツウルの山荘に泊したことがある。山荘といふのであるからツウルの町から尚遡つた川上にあるのであらう。その石の山荘に射した異国の月は、酔ふ様な初夏の夕とはいへ、旅愁を誘はずには置かなかつただらう。

逃げ水の不思議を聞けど驚かず満洲の野も恋をするのみ

 昭和三年五、六月夫妻は満洲に遊んだ。これから暫くその時の歌が出て来る。大石橋から営口へかけた沙地では時折例の武蔵野の逃げ水の様な現象が見られる、理由はよく分らないと人のいふのを、作者は心の中で、何の不思議があるものか満洲の野が恋をしてゐるだけで、人を誘惑しておいでおいでをしてゐるわけだと微笑しながら聞く歌である。

昼の程思ひ沈むも許すべし夜は人並に気の狂へかし

 その頃の巴里の夜は世界の歓楽境を現出し、カルチエ・ラテン辺の小カフェエでも特に美術生の巣であるだけ相当の狂態が見られたものであらう。既にして夫人は郷愁にかかつて沈み勝ちであつたらしい。それを先生や梅原君などに連れられてカフェエに行つて見るとその通りである。せめて夜だけでもあの人達の様に気が狂つてくれたら心も楽にならうものをと思ふのであつた。

浅緑梨の若葉のそよぐ頃轎して入りぬ千山の渓

 湯崗子温泉から東方五里の処に千山がある。満洲第一の勝地と聞いて、わざわざ轎の用意をして貰つて登山した。さうして多数の佳什を残したが、その心の喜びが一見報告のやうなこの歌にもよく出て居る。

何れぞや我が傍に子の無きと子の傍に母のあらぬと

 今私が巴里で斯うして居ることは、三千里外に母と子とを引離して居ることであるが、何れの側が一番寂しい辛い思ひをして居るのであらう。そばに子のゐない私か、それとも母の居ない麹町の子供達か。心にもない日を送りたくない為に私は思ひきつて夫の側へ来たのであるが、それは同時に子供達から遠ざかることとなつて志と違つてしまつた。夫人の郷愁はここから生じて遂にまたまた一人で帰朝してしまつたのである。

無量観わが捨て難き思ひをば捨て得し人の青き道服

 千山には仏寺の外に道教の廟観がある。無量観と名づけ仙骨を帯びた道士がゐて夫妻等を迎へたが、夫人は之等道士達の風貌にいたく好感を寄せてゐる。この歌はその現はれで、断ち難き恩愛を断ち切つて山に入つた道士をその著てゐる青服を借りて称へたものである。

象を降り駱駝を降りて母と喚びその一人だに走りこよかし

 これはロンドンの動物園で子供達が象や駱駝に乗つて遊んでゐるのを見て作つた歌で、一人位は母さんと呼びながら跳びついて来さうなものだといふ悲しい母の真情がその儘吐露されてゐて、どうでも人を動かさずにはやまない慨がある。

道士達松風をもて送らんと云ひつる如く後ろより吹く

 無量観を出て帰途につくと後から風が吹いて来た。分れ際に道士達が松風を吹かせて山の下を送つて上げませうと云つた様な趣きである。仙骨を帯びた道士の挨拶迄現はれてゐて面白い。

手の平に小雨かかると云ふことに白玉の歯を見せて笑ひぬ


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