晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

 心経は般若心経で門前の小僧誰も知つてゐる短いお経である。しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響きの代りに途方もない乱調子が続いて、やかましくて寝つかれないといふのである。

冬の夜を半夜寝ねざる暁の心は君に親しくなりぬ

 冬の夜長を殆ど眠らず尖つた心の儘に物思ひにふけつてしまつた。しかし段々労れてくるにつれにぶつたとげも遂にはぼろりと落ちて、もとの円味のある心になり、夜の明ける頃にはやうやく親しむ気分にさへなつた。つまり疲労のお蔭で仲直りが出来たといふわけなのであらうか。

五月の夜石舟にゐて思へらく湯の大神の縛(いましめ)を受く

 石舟は石の湯舟でいはふねと読むのではないかと思ふが確かではない。五月といへば山の夜も寒くはない、外は暗い、外から若葉の匂ひがしみこむ様だ。渋い感触の石造の湯舟に浸つて目を閉ぢて居ると心気朦朧としてこの儘いつまでも浸つて居たい様な出るにも出られない様な心持になる、それは丁度湯の神の咒文で縛られて居る感じである。

逢はましと思ひしものを紅人手一つ拾ひて帰りこしかな

 鎌倉の様な処へ出養生に行つてゐる少女の歌である。逢へるだらうと思つた何時も逢ふ人に今日は逢へず、その代りに紅人手を一つ拾つて帰つてきたが、その物足りなさ。自分の知らぬ間に私はあの人を思ふ様になつてゐたのであらうかなど自問する場合であらう。

峯々の胡粉の桜剥落に傾く渓の雨の朝かな

 これも塩原の朝の小景。散り際の一重の深山桜が峰々にあちこち残つてゐる、それに雨が降りかかつて渓に散りこむ姿は塗つた胡粉のぽろぽろ剥げてゆく感じである。それを「胡粉の桜」と直截に云つた所がこの歌の持つ新味である。

石七つ拾へるひまに我が心大人になりぬ石捨ててゆく

 少し道歌の気味はあるが、人間の欲望の哲学が平易に語られてゐるので捨て難い歌だ。人間は生長するに従つて欲望に変化を来し、最後に無欲を欲するに至つて人格が完成する。欲望とは独楽のやうなものだと云ふ人があるが、この歌ではそれが七つの石――何の役にも立たぬ石ころ――になつてゐる。

いと寒し崑崙山に降る如し病めば我が在る那須野の雪も

 九年の正月那須で雪に降りこめられその中で俄に重態に陥つた時の作。病床から硝子戸越しに降りしきる那須野の雪を見て居ると寒さが身にしみ入る様で、西蔵境の崑崙山脈に降つてゐる雪の様に感ぜられる。氷点下何度といふ代りに標高一万米突の崑崙山を持つて来たわけもあるが、「病めば我がある」といふ件、重態に落ちた体験の持主なら容易に同感出来る境地である。私も若い時冬の最中寒い大連で生死の境に彷徨し同じ様な心細さを感じたことがあつた。

紫に春の風吹く歌舞伎幕憂しと思ひぬ君が名の皺

 昔の劇場風景。昔の芝居は朝から初まり幕合が長かつた。快い春風が明け放たれた廊下から吹き込んで引幕に波を打たせる、それは構はないが、大事の君の名の所に雛が寄つて読めなくなるのが悲しい。大きくなつた半玉などの心であらうか。

那須野原吹雪ぞ渡る我が上をそれより寒き運命渡る

 この時は大分の重態で御本人も寛先生も死を覚悟された模様であつた。この歌にもそれがよく現はれてゐる。那須野原吹雪ぞ渡るといふ調べの荘厳さは死そのものの荘厳さにも比べられるが、一転してそれより寒き運命渡ると死に向ふ心細さを印し以て人間の歌たらしめてゐるのであるが、蓋し逸品と称すべきものの一つであらう。

人捨つる我と思はずこの人に今重き罪申し行なふ

 人捨つるは人を捨てるの意であらう。人を捨てることの出来るやうな残酷な強情な私とは思ひません、ですからどこまでも捨てずに行きます、しかしこの度のことは何としてもただでは許せません、これから重い刑を申し渡しますからその積りでおいでなさい。要するに口説歌とでも解すべき、抒情デテエルであるが、これも新古今辺から躍出して多少とも新味のある明治の抒情詩を作り出さうとした作者の試みである。

雪積る水晶宮に死ぬことと寒き炬燵となど並ぶ[#「並ぶ」は底本では「茲ぶ」]らん

 私は今雪の降り積る水晶宮の中で氷の様な冷い神々しい感じで静かに死んでゆく。それだのにその側に那須温泉の寒さうな炬燵が置いてある、どうしたことであらう。これは恐らくは実際に見た重病人の幻像であらう。

昔の子なほかの山に住むといふ見れば朝夕煙たつかな

 明治の末年故上田敏先生が大陸の象徴詩を移植しようとして訳詩の業を起され、当時の明星が毎号之を発表してそのめざましい新声を伝へたことがある。それらは後にまとめられて海潮音一巻となつた。この訳詩は、上田さんの蘊蓄がその中に傾けられたとでも言はうか、その天分が処を得て発揮されたとでも言はうか、実に見事な出来で、寛先生の数篇の長抒事詩以外日本の詩で之に匹敵するものはないと私は信じてゐる。私は今定形詩に就いて云つて居るので、律動のみの自由詩には触れない言である。この海潮音は当時私達新詩社の仲間に大きな感激を齎らし、他から余り影響を受けない晶子さんとて免れるわけはなかつた。この歌などがその現はれではないかと思ふ。斯ういふ現実放れのした歌は、その後我々の方でも余り作られなくなつてしまつたが惜しいわけである。自縄自縛といふことがあるが、現在の歌作りがそれである。

白山に天の雪あり医王山(いわうさん)次ぎて戸室(とむろ)も酣の秋

 昭和八年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。白山は加賀の白山で、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山これも冬景色に近い、次が前の戸室だが、ここは今秋酣で満目の紅黄錦のやうに美しい。三段構への秋色を手際よく染め上げた歌。

見えぬもの来て我教しふ朝夕に閻浮檀金の戸の透間より

 閣浮檀金とは黄金の最も精なるものの意であらう。詩を斎く黄金の厨子があつて、その戸の透間から目に見えぬ詩魂が朝に晩に抜け出して来ては私に耳語する。その教へを書きとめたものが私の歌である。さういつて大に自負したものの様に思へるが、果してどうか、別に解があるかも知れない。

美くしき陶器(すゑもの)の獅子顔あげて安宅の関の松風を聞く

 昔は海岸にあつた筈の安宅の関が今では余程奥へ引込んでゐると聞いてゐる。その安宅の関へ行かれた時の作。そこに記念碑でも立つてゐて九谷焼の獅子が据つてゐるものと見える。天高き晩秋、訪ふものとてもない昔の夢の跡に松風の音が高い。それを聞くもの我と唐獅子と。

いそのかみ古き櫛司[#「櫛司」はママ]に埴盛りて君が養ふ朝顔の花

 これも写生歌ではないと思ふ。詩人が朝顔を作るとしたらこんな風に作るだらう、またかうして作つて欲しいといふ気持の動きが私には感ぜられる。そこがこの歌の値打ちである。

秋風や船、防波堤、安房の山皆痛ましく離れてぞ立つ

 昭和八年の秋、横浜短歌会席上の作。空気が澄んで遠近のはつきり現はれた横浜港の光景である。その舟と防波堤と安房の山との間に生じた距離が三者の間のなごやかな関係を断ち切つて、離れ離れに引き離してしまつた。その離散した感じが作者の神経に触れて痛ましい気持を起させたのである。

誓言わが守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る

 我々がまだ若かつた時分、パンの会の席上であつたと思ふが、寛先生が内の家内は魔物だと冗談の様に云はれた言葉を、印象が強かつた為であらう、私は遂に忘れなかつた。この歌で見ると、それは夫である寛先生の見方であつた許りでなく、夫人自身が自らさう思つて居たらしい。勿論いつもいつも魔であられては堪らない。神様の様な素直な大人しい女である時の方が多く、それは誓言を守つて居る時であるが、少しでもそれを忘れると本来の魔性があらはれて猛威を振ふことになる、又晩年の作にこんなのもある。 我ならぬ己れをあまた持つことも魔の一人なる心地こそすれ

わが梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと

 これは昭和八年二月寛先生六十の賀――梅の賀が東京会館で極めて盛大に行はれた時の歌で、草紙はいふ迄もなく源氏物語、二条の院は紫の上を斎く若い源氏の本拠。そこに咲いた紅梅の様に盛大であつたと喜ぶのであるが、その調べの高雅なこと賀歌として最上級のものである。

心先づ衰へにけん形先づ衰へにけん知らねど悲し

 心が先に衰へれば心の顕現したものに外ならぬ形の従つて衰へるのは理の見易い所である。しかし反対に形が先に衰へても、それが鏡などで心に映れば心もそれに共感して衰へ出すであらう。私の場合はどちらであらうか。はずまなくなつた心が先か、落ち髪がして痩せの見える形が先か、それは分らない、しかし悲しいのはどちらも同じことである。

梅に住む羅浮の仙女も見たりしと君を人云ふ何事ならん

 羅浮の仙女とは、隋の趙師雄の夢に現はれて共に酒を汲んだ淡粧素服の美人、梅花の精で、先生も若い時分には羅浮の仙女にも会はれたことだらうといふ話を人がして居るが何のことだらうととぼけた歌。之も前と同じ時の賛歌で同じく梅に因んでの諧謔である。めでたく六十にもなつたのだ、若い時があつたといふ証拠のやうなそれほどの事を今更誰が咎めませうといふ心であらうか。

先に恋ひ先に衰へ先に死ぬ女の道に違はじとする

 女庭訓にあるやうな日本の婦道を歌つたものでも何でもない。私はかう思ふ。この頃しきりに髪が落ち目のふちに小皺が見え自分ながら急に衰へを感じ出したが、さてどうにもならないといふ時、自分に言つて聞かせる言ひ訳だらうと思ふがどうであらうか。

秋寒し旅の女は炉になづみ甲斐の渓にて水晶の痩せ

 秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

一端の布に包むを覚えけり米(よね)と白菜(しらな)と乾鮭(からさけ)を我

 世話女房になりきつた巾幗詩人の述懐であるが、流石に明治時代は風流なことであつた。今なら「こめ」「はくさい」「しほざけ」と云ふに違ひない。

いつまでもこの世秋にて萩を折り芒を採りて山を行かまし

 伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。島谷さんの抛書山荘から歩いて行ける。この歌の舞台で、奈良の三笠の山を大きくし粗野にした景色である。終日山を行つて終日山を見ず、萩を折り芒を採つてどこまでも行きたい様な心持を作者に起させたに違ひない。

表町我が通る時裏町を君は歩むと足ずりをする

 足ずりをするは悔しがることである。事余りに明白なので解説の必要もないが、その表象する場合は数多くあらう。誰でも一度や二度覚えはあらうから読者は宜しく自己の体験に本づいて好きな様にあてはめて見るべし。歌が面白く生きて来るだらう。

黄昏に木犀の香はひろがれど未だつつまし山の端の月

 夕方になると木犀の香は一層高くなり遠くへもひろがる。空気の澄んだ湖の家のこととて尚更いちじるしい。その強烈な匂ひに対して山の端に出た三日月のこれはまたつつましいこと、形は細く色は淡い。作者は人の気のつかない色々の美を、その霊妙な審美眼を放つて瞬間的に之を捕へ、歌の形に再現して読者に見せてくれる為に生きてゐた様な人であるが、対照の美をいはゞ合成する場合も往々ある、この歌などがその例で、これは自然の知らない作者の合成した美である。

水無月の熱き日中の大寺の家根より落ちぬ土のかたまり

 天成の詩人も若い頃即ち修養時代には色々他の影響を受ける。この歌には蒲原有明さんの匂ひがしてゐる。ある近代感を現はさうとした作で、この人には一寸珍しい。

天草の西高浜の白き磯江蘇省より秋風ぞ吹く

 昭和七年九月、九州旅行の最後の日程として天草へ廻られた時の作。西高浜の白砂に立つて海を見てゐると快い初秋風が吹いて来る。対岸の江蘇省から吹いてゐるのだから、潮の匂ひの中には懐しい支那文化の匂ひもまじつてゐるに違ひない。そんな心持であらうか。この歌も恐ろしくよい歌だが、同じ秋風の歌でこれに負けない寛先生の作がある。私は一度ある機会に取り出して賞美したことがあつたが、序にも一度引用しよう。 開聞のほとり迫平(せひら)の松にあり屋久の島より吹き送る秋 前の天草が日本の西端なら、この開聞が岳は日本の南端で、その点もよく似てゐるがその調子の高いことも同じ程で何れもやたらに出来る種類の歌ではない。

水隔て鼠茅花の花投ぐる事許りして飽かざらしかな

 幼時を思ひ出した歌。斯ういふ種類の歌には余りよい歌はない、その中でこの歌など前の鏡の歌と共に先づ無難なものの一つであらう。

天草の白鶴浜の黄昏の白沙が持つ初秋の熱

 これは何といつても天草であること、白鶴浜であることが必要で、房州の白浜辺の砂ではこれだけの味は出て来ない。固有名詞の使用によつて場所を明確にし、その場所の持つ特有の味、色、感じを作中に移植する方法は、作者の最も好んで用ゐる所であるが、この歌などはその代表的なもので、それに依つて生きて居るのである。

君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ

 これは勿論下の方の思はぬことも云ふあまつさへを言ひたい許りに出来てゐる歌で、この句によつて恐らく不朽のものとならう。外国語に翻訳されたら例へば巴里のハイカイといふ如き形を取つて世界的の短詩となるであらう。

巴浜、巴の上に巴置く岬、松原、温泉が岳

 これも天草の歌。温泉岳が見えるのだから東側の浜であらう。巴のやうな形をして居るのであらう、その巴の上に岬と松原と海を隔てた温泉岳が三つ巴を為して乗つてゐるといふのであらう。巴の字が巴の様に三つ続く所に音楽があつて興を添へてゐる。

翅ある人の心を貰ふてふ事は危し得ずば憂からん

 翅ある人とはキリスト教の天の使か羽衣の天女か何れでもよいが、うそ偽りのない清い心の持主を斥すのであらう。さういふ清い心を貰つて自分の心としたら如何であらう。危いことだ。この恐ろしい世の中には一日も生きてゐられないかも知れない。さうかと云つて貰はないことはなほいけない。汚い心で生きるのでは生甲斐もありはしない。何れも不可である、それが人間の真実の姿なのであつた。

牛の群彼等生くれど争ひを知らず食めるは大阿蘇の草

 晶子さんは人と争つたことがない、徹底的に闘争が嫌ひであつた。徹底した平和主義者であつた。その繊細な神経が暫時の不調和をも許さなかつたからである。阿蘇の大草原に放牧されてゐる牛の群の争ひを知らずに生きて居る姿に人生の理想を見た作者であつた。
 寛先生の発明であるが、私達は昔絶句と呼んで短歌に二音加へた新らしい形式を試みたことがある。即五・七・七の片歌に短歌の下の句を加へたものとも見られ、又は片歌を二つ重ねた旋頭歌の第四句の五音を削つたものと見てもよい、五・七・七・七・七といふ形である。七が重るので七絶から思ひ付いて絶句と呼んだのでもあらうか、故大井蒼梧君がある日席上で作つたのに斯ういふのがあつた。 天地に草ある限り食ふと大牛よい哉その背我に貸さずや 席上大に賞讃を博したものなので未だに覚えてゐるが、同君も基督教徒の平和主義者であつた。牛と平和とはよく同調する。

いみやらんわがため恋しき人生みし天地思ひ涙流るゝ

 あの人を恋した許りにこんなに苦しんでゐる。私の為には悪人であるあの人もいつの日か天地の生んだものである事を思ふと私を生んでくれた同じ天地が恨めしくなる。もし天地があの人をあの時生んでくれなかつたらこんな悩みもなかつたであらうと思ふと悔しくて涙がこぼれる。

石は皆砒素を服せる色にして河原寂しき山の暁

 上野原を流れる桂川の河原である。砒素を毎日少しづつ呑むと肌の色艶がよくなつて若返るといはれ、欧洲の女優などが試みるさうである。河原の石のつやつやしたしかしどことなく寂しい色をした山の暁である。砒素を服した様な色だといへば少し心持が出る。いくらつやがあつても元来毒である。しまひには毒に中つて死んでしまふ色であるから寂しいのであらう。

昨日わが願ひしことを皆忘れ今日の願ひに添ひ給へ神

 我が儘勝手な願ひであつて、恋愛の本質亦然り、それを歌ふ抒情詩の内容も同じやうなものであらう。そこが面白いのである。義理、人情、宗教、道徳から解放された自由な人間活動がその中で行はれるのである。

倶忘軒百歩離れて我れ未だ世事を思はず桜散り敷く

 熱海の藤原さんの別墅を尋ねた時の光景。満開の桜があまり見事なので荘を離れて百歩いまだ世事を思ふ暇さへなく桜吹雪に吹きまくられてしまつたといふのである。倶忘軒は亭の名であらう。又同じ桜花の光景が 断崖(きりぎし)に門(もん)あり桜を霞這ひ天上天下(てんじやうてんげ)知り難きかな とも歌はれてゐる。

子等の衣皆新しく美くしき皐月一日花菖蒲咲く

 晶子さんは学者として論客として女性解放者として教育者として各方面に女らしくない大活動を転囘した人であつたが、その本質はやはり抒情詩人であつた。何よりの証拠はその衣装道楽である。女らしさと芸術家気質とが混合したものであらう。従つて少しでも余裕が出来れば御子さん方の衣類も新調されたであらう。従つて斯ういふ歌が出来るわけだ。子供達が新らしい著物を著る衣替への心持と花菖蒲の咲くメイデイの心持との快い共鳴と同時に母親としての満足もよくあらはれてゐる歌である。

小室山黒髪の夜となりにけり雨は梅花の油なりけん

 早春の雨が降つて寒さのゆるんだ心持を歌つたもので、小室山は川那ホテルの上の草山。女の黒髪の様な艶に柔い夜が小室山を包んでしまつた。先程の雨は髪の油ででもあつたのだらう。梅花の油は椿の油に梅花の匂ひをつけた香油の意であらう。しかしこの梅花を点じた所に早春の気持が覗いて居るのである。

おどけたる一寸法師舞ひ出でよ秋の夕の掌(てのひら)の上

 をかしみ多く歌つてはあれど、底には秋の夕のやるせない心持が流れてゐる様に響く。一体おどけた歌の少い人であるからこれなどは珍しい方だ、この外にも前の句を思ひ出せないが、あとの句は 御名は鳥帽子ゆらゆらの命 といふのがあつた。

掌に峠の雪を盛りて知る涙が濡らす冷たさならず

 物を規定するのに大抵の人は正攻法を用ひ肯定的にやる、それ故に微に入り細に入る時は忽ちつかへて匙を投げてしまふ。然るに逆に搦手から否定的に行くと案外旨くゆくものである。作者はこの呼吸をよく知つて居る。この雪の冷さを肯定的に規定することは短い歌のよくする所でないが、この歌の様にやれば随分細かい温度の差まで相当明白に表現することが出来る。それ許りでない、涙の温度迄知れるといふ副産物さへあるのである。

ある時のありのすさびも哀れなる物思ひとはなりにけるかな

 今の歌の様でもない、昔からある詠み人知らずの名歌のやうな歌である。或はこれに似たものが多くの中には一首位あるかも知れない。なぜならこれほどの体験は誰にでもあることで、従つて一人位は歌つただらうと推定し得るからである。作者の歌としては寧ろ凡作に属するものであらうが、それにも拘らず、普遍的実相に触れた小さなクラシツクとして存在の価値はありさうである。

雪ぞ降る人磨くべき要無きか越の平の白玉の山

 雪の名所上越線湯沢の光景である。あとからあとから雲が降つて白玉の山はむやみに上へ許り高くなつてゆく。一体それで宜しいのか、形をととのへ白玉をして光あらしむるには折々磨いてやらねばならないのではないかと反問しそれによつて前景を彷彿させるのであるが、さういふ反問の出るのは同時にやむにやまれぬ芸術心の現はれたものでもある。

わが肱に血塗るは小き蚊の族もすると仇を誘ひけるかな

 私のけんまくが少しあらすぎた為か、君の気勢がさつぱり上がらず、抵抗もなく反能もなく反撃もない。これでは劇は進行しない。私はしまひにかういつてやつた。私の血で肱を塗る位の事は蚊でもやつてのけますよ。それを大の男がこれだけ攻撃されて手だしをしないとは如何した事です、どこからでも突いて御いでなさい、女の赤い血を出して見たいとは思ひませんかとこれでもかといふ風に敵慨心を刺戟して見ました。

月出でて昼より反(そ)りし心地すれ鈴虫の啼く三津の裏山

 いつであつたか三津浜の五松山荘に行つた時の作。私もこの時には御伴をした。残暑の酷しい折で裏山の叢で鈴虫が鳴いてゐた。か細い夕月が出て居た。著いて風呂から上がつた時の光景である。三ヶ月を昼から反つて居たやうに思ふといふことであるが、これなどは霊感に近い詩人の直覚によらなければ出て来ない考へである。

男来て狎れ顔に寄る日を思ひ恋することは懶くなりぬ

 恋にも上中下何階かの品等がある。雨夜の品定めの如きも未だその全貌を尽しては居まい。その最下級のもの、それが最も多い場合なのであらうが、ふとそんなまぼろしが浮んだ、男がなれなれしく寄つてくる、ああいやなことだ、そんなのも恋なら、恋などしたくもないと云つた心であらうか。又は、恋をしてもよいと思つて居る男ではあるが、あの男とてそのうちに狎れ顔に寄つてくるのではないか、さう思ふと進んで恋をする気にはならなくなる。こんな風にも取れる。

初蛙淡路島ほど盛り上る楓の下に鳴く夕かな

 楓の若葉が独り盛り上がる様な勢で、行く春の庭を圧倒してゐる心持を須磨から見た淡路島の感じで表現したすばらしい出来の歌である。前にも 青空の下に楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな といふ歌を出したが、初夏を代表するものとしてはやはり楓の若葉が一番であらう。

憂き指に薄墨散りぬ思ふこと恨むことなど書きやめて寝ん

 日記など書き出したが筆もつ指に薄墨が散つた。ああこの可哀さうな指、朝から色々のことに使はれて労れてゐるだらう可哀さうなこの指をこの上労するには忍びない。墨でよごれたのをよい折に書かうと思つた考へや恨みごとなどは止めにして寝ることにしよう。

下総の印旛の沼に添ふ駅へ汽車の入る時散る桜かな

 うしろに漫々たる印旛沼を控へ白い雲の様に見える満開の桜が、入つた汽車のあふりではらはらと散つた田舎の小駅の光景が捨て難く、三里塚へお花見に行つた時序に読まれたものであるが、歌も亦捨て難い。この時の三里塚の歌の中には 四方より桜の白き光射す総の御牧(みまき)の朝ぼらけかな などいふ佳作もある。

たをやめは面変りせず死ぬ毒といふ薬見て心迷ひぬ

 心中の情景でもあらうか。この薬は青酸カリか何かであらう。一寸見はただの塩の様なものだ。それを男から見せられた。もとより覚悟の前であるから心動ぜず面変りもしなかつた。唯その薬が余り他愛ないものなので、反つてこんなものを呑んで果して死ねるのだらうか、もし死ななかつたら如何だらうと心が迷つたのみである。一応こんな風に説いて見たが余り自信はない。或は象徴詩かも知れない。又さうでもなく心中とは全然無関係のものかも知れない。

麻雀の牌の象牙の厚さほど山の椿の葉に積る雪

 この雪は伊香保の正月の雪であるが、この歌はそんなことに一切触れず、反つて麻雀牌に張つてある象牙の厚さを寸法として椿の葉に積つた山の雪の厚さを測定してそれだけで恐ろしい程の印象を与へるのである。

長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする

 若い時代の歌の内、最も平和な最も幸福な而してまた最もプラトニツクなものを求めたらこの歌が出て来るだらう。歌の中の人物の為に私は今更めて乾杯したい。時是昭和二十一年クリスマスイイヴ[#「イイヴ」はママ]。

二荒山雲を放たず日もこぼれ雨もこぼるる戦場が原

 男体白根は雲中に出没し、戦場が原は秋霧が渦を巻いて白け渡り索漠たる光景を呈してゐる。それでも霧の去来する僅の間隙から日光のこぼれることもあり、又反対に濃い霧が来た時は雨になつてばらばら零れることもある。併し何れも零れる程度だと省筆を用ゐて霧を抒した歌である。

君に文書かんと借りしみ吉野の竹林院の大硯かな

 竹林院に泊つた人の話によると大硯があるさうだといつであつたか何かの話の序に誰かそんなことを云ひ出して大笑ひをした事があつた。この歌は蓋し調子がいいからであらう、それ程即ち「大硯」が供へつけられる程有名な歌であつた。今読んで見ても実に調子がよい。名調子とでも云ひたい位だ。

もろもろの落葉を追ひて桐走しる市川流の「暫」のごと

 落葉の歌は世間にも随分多いし、この作者も実に沢山作つてゐる。しかしこの「暫」の様なのは二つとない。その見立ての凄さ、地下の団十郎も舌を巻くであらう。

はかなごと七つ許りも重なれば離れ難かり朝の小床も

 つまらない頼りにもならない様なことでもそれが七つも重ると自ら意味も生じ頼もしさも出て来てはかないながらそれらしい形が具つて来る。そんなわけもないまぼろしを追ふ許りにつひ朝の床も離れにくくなる。しかし幾ら重つてもはかなごとは遂にはかなごとなのであらうが。こんな風に考へて見たがこれでよいとも思へない。誰でも別に考へて見て下さい。

木枯しす妄語戒など聞く如く君と語らずなりにけるかな

 五戒十戒何れの戒にも妄語戒はある。外には木枯しが吹いてゐる。木枯しの声は厳しい。妄語戒のやうだ。薄い舌でべらべら口から出任せの□を一夏しやべり続けた罰に凡ての木の葉を打ち落してしまふぞといふ木枯しの妄語戒は厳しい。さう思ふと君と話すことさへ憚られ、つい言葉少なになつて行つた。

逆に山より水の溢れこし驚きをして我は抱かる

 初めて男に抱かれた時の感じはこんなものであらうと女ではないが分る気がする。この歌がなければ遂に分らなかつたかも知れないから、読者の情操生活はそれだけ豊富になるわけだ。よい歌の功徳である。

霧積の泡盛草の俤の見ゆれど既にうら枯れぬらん

 霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。しかし秋も既に終らうとしてゐる今頃はとうにうら枯れてしまつたことだらう。蓋し凋落の秋の心持を「泡盛草」に借りて表現するものであらうか。

左右を見後ろを見つつ恋せよと祖のいひしことならなくに

 四方八方見廻しながら注意深く恐る恐る恋をしろなどと私達の祖先はそんな教訓は残して居ません、それだのに如何でせう、私の態度はそんな教訓でも残つてゐて、それに従つてでも居るやうではないか、何といふ恥知らずなことであらう。

いと親し疎しこの世に我住まずなりなん後も青からん空

 十年後私が死んで地上に居なくなつた場合の秋の空を思ふと、やはりけふの様に青い事だらう、さう思つて改めて空を見ると、空の青さが親疎二様に見えて来る。親しいのは今の青。親しくないのは後の青。

よき人は悲しみ淡し我がどちは死と涙をば並べて思ふ

 善人賢人の悲しみを見るに淡々として水の様だ。それに対して我々のそれは如何かと云ふと、涙の隣に死が並んでゐる。悲しむ時は死ぬほど悲しむ。これは作者晶子さんの飾らぬ衷情で、或一時期には悲壮な覚悟をさへしたことのある事実を寛先生の口から私は聴いてゐる。

風立てば錦の如し収まれば螺鈿の如し一本桜

 桜を歌つた歌はこの作者には特に多い。荻窪の御宅には弟子達の贈つた数本の大木の染井吉野もあつて、春ともなれば朝夕仔細に観察する機会が与へられた。この歌の如きもその結果の一つであらう。動静二相を物の形態を借りて表現せんとしたものであるが、螺鈿の静相はよく分る、静かなる螺鈿の如しと云つてもをかしくない。錦の動相は如何か。昔から紅葉を錦に譬へるが川を流れる紅葉の場合などは正に動相である。しかしこの場合の動相はそんなことではない。錦のきらきらする心、それが風にもまれる桜の心なのであらう。

神ありて結ぶといふは二人居て心の通ふことをいふらん

 一寸無味乾燥な aphorism のやうにも聞こえるが、二人居て心の通ふといふ処を重く見て、二人が同じ席に居て無言の儘心を通はしてゐる状態を思ひ浮べ、神ありて結ぶを御添へ物の様に軽く扱へば歌らしく響いて来てやはり面白いのである。

春寒し未だ南の港にて復活祭を燕待つらん

 斯ういふ歌の作者こそ、読者から厚い感謝を捧げらるべきであらうと私は思ふ。なぜなら春が寒いといふ事象の外この場合何もないので本来なら歌は成立しない筈である。然るにその無の中へ詩人の空想が躍り出し形を造り出し生命を与へ、それによつて初めて春寒の感じが具象化され、読者の心の糧となるのである。仍てその功は徹頭徹尾詩人の空想が負ふべきである。

言葉もて謗りありきぬ反(そむ)くとは少し激しく思ふことかな

 言葉に出た所では批謗としか思はれぬ様な事をしやべり歩く私である、人が聞いたら恋の反逆者のやうに思ふかも知れない、併しそれは言葉の上だけのことである。反逆と見えるのは実は前より少し許り激しく思ふことで、逆どころか順に進んで居たのである。日本の女性にも数個の好抒情詩を残した人が少しはある。額田女王、狹野茅上娘子、小町、和泉式部の様な人々である。しかしその内容は何れも大らかなのびのびした強烈ではあつても単純な古代人の情操を出るものはなく、近代人の複雑な感覚に働きかけることは出来ない。そこで日本の抒情詩に複式近代性を与へようと意識的に挺身したのが晶子さんであつた。さうして幾首かの傑作、幾十首かの秀作を残した。中に意味の取りにくい晦渋な難物の混じつてゐるのもその為である。惜しいことに之を次ぐものがない。これからの若い人に期待される。

美くしき秋の木の葉の心地して島の浮べる伊予の海かな

 私も幾囘か美しい島の浮んでゐるあの辺を船路で通つたことがあるが、これ程の歌は遂に作れなかつた。これはしかし陸地から見た感じで、洵にたわいない様なものだが、精選された快感が風の様に吹いてゐる。

いと熱き火の迦具土の言葉とも知らずほのかに心染めてき

 今思へば、母の胎をさへ焼いたといふ赤熱した雷火のやうな言葉だつたのを、さうとも知らず、やさしいことを言ふものだと思つてなつかしい心持さへ起したが、未熟な少女心とは云へ見当違ひもひどかつた、と生成した心は思ふのである。

伊予路より秋の夕暮踏みに来ぬ阿波の吉野の川上の橋

 これは形の上では単なる報告である。報告が詩になる為にはそれぞれの条件が備はらねばなるまい。この場合にはそれは何であらうか。作者はこの日伊予と阿波との国境を目指して車を駆つた。そんな経験はめつたにないことである。之が一つ。その国境は四国第一の大河吉野川が源を発して南向する地点である。之が一つ。しかもその谿流には橋がかかつてゐて、それを渡れば現に阿波の国である。之が一つ。時は何物をも美化しなければやまない、[#「、」は底本では欠落]しかも淋しい感じも伴ふ秋の夕暮である。之が一つ。作者はその橋桁の上を現に踏んでゐる。この時こんなことの出来るのは日本人中唯数人に過ぎない。之が一つ。以上の条件が具つて初めて詩になつたわけである。仇やおろそかには出来ない。

毒草と教へ給へど我が死なぬ間は未だそのあかしなし

 無論象徴詩である。そんな考へは美しいがいけないことで身を亡ぼす基であると、世の賢人達は教へて下さるが、私は承服出来ない、私の死なない間はさういふ証拠はありません。思想の代りに感情を持つて来て賢人の代りに平凡な恋人をして云はしめてもそれでもよい。

讃岐路のあやの松山白峰に君ましませばあやにかしこし

 この歌の下に流れてゐる感じは、前にあげた圓位と順徳院の真野の山陵の場合と全く同一で五百年を隔てて古への薄幸な帝王を忍ぶ悲壮ではあるが冷静な心持である。さればその感じも自らあらはれてその調子の高いこと、前の歌にも劣らない。あやの松山は崇徳院の流され給ふた所、又山陵の存在地でもあつた。保元物語に 浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞ泣く といふ御歌がありその頂を白峰といふらしい。あやは阿野又は繞で郡の名、そのあやにあやにかしこしのあやを引かけ、ここに寛先生の短歌革新運動以来追放されて久しいかけ言葉が復活した次第である。しかも大真面目に壮重に復活したのであつて、かけ言葉もここ迄来れば立派な音楽でもある。

春につぎ夏来ると云ふ暇無さ黒髪乱し男と語る

 晶子さんの秀歌の中には、同じ程の本分のある人なら作れさうな歌も少くはない。しかしこの歌に限つて晶子さんでなければ出来ない。私はさう思つてこの歌をよむのであるが、理由はよく説明が出来ない。或は作者の俤が裸で躍る様な感じが四五両句に感ぜられる、その為かも知れない。一首の意は恋愛三昧に日もこれ足りないのであらうが、ヰインの女のそれのやうに心易いものでなく、相当深刻なものであることは黒髪乱しが語つてゐる。

雲遊ぶ空と小島のある海と二つに分けて見るべくもなし

 秋の空が海に映り、海の青が空に映る瀬戸内の風光を、空には雲を遊ばせ、海には島を浮せ各その所を得しめた儘、之を併せて帰一させ、二にして一の実相として彷彿させる大手腕の歌だ。

隣り住む南蛮寺の鐘の音に涙の落つる春の夕暮

 暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて暮された事があつた。その時の歌。これは秋の夕暮ではいけないので、又夏や冬ではなほいけない、春でなければならないことは少しく歌を解するものなら分るであらう。唯私は涙を盛つた袋のやうな人であつたことを斯ういふ歌を読んで思ひ出す。涙が出ることを泣くといふならば一生泣き暮した人でもあつた。それは併し最も自然に立琴が風に鳴るやうなものであつた。

渓に咲くをとこへしぞと我が云へど信ぜぬ人を秋風の打つ

 歌の一面には、その相が特殊化されればされるほど段々価値の高まつてゆく一面がある。他面にはその反対の場合もあり、天地創造にも比すべき茫漠たる美が存在する、晶子さんの場合は、その両面とも人の行かれない極限迄行つて居る。それだからこそ秀歌が多いわけでもある。この歌には第一の場合の恐ろしい特殊面が出て居る。これは上州の奥の法師温泉――高村光太郎君によつて我々の間に紹介された古風な炭酸泉――に滞在中一日赤谷川の渓谷伝ひに三国峠へ登つたことがあつた。その途での出来事。見なれない花が咲いて居るのを、作者は、これは女郎花の一種で、渓に咲くをとこへしといふものだと教へた。それを聴いた人がそんな変な話があらうかといふ様な顔をした。作者は本草にはとても詳しいので決してでたらめは云はない、それに信じないとは怪しからんと思つた途端に秋風が吹いて来てその人の頬を打つた。残暑の酷しい折とて快い限りであつた、それをいい気味だ、人のいふことを信じない罰だと戯れたのである。何と細かい場面ではないか、これだけの特殊相がこの一首に盛られてゐるのである。凡庸の作家の企て及ぶ所でないことがこれで御分りであらう。

人の世にまた無しといふそこばくの時の中なる君と己れと

 貴方も私も未だ若いのですよ、若い時は人生に二度とないといふではありませんか、しかしその時は余り長くはありません、私達は今その貴重な時の中に起居してゐます、思ひの儘に振舞つて能率をあげませう。

その下を三国へ上る人通ひ汗取りどもを乾す屋廊かな

 法師温泉は川原に涌くのを其の儘囲つたもので、主屋は放れた小高い処に建てられて居り、其の間が長い廊でつながり、廊について三国街道が走つてゐる、廊には昨日三国へ上つた婦人客の汗取りがずらつと干してある、その下を三国を経て越後へ通ふ旅人が通るのである。これも山の温泉の特殊相である。

恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花

 橘が咲き茴香が咲き夏が来た、短い夜はいよいよ短くなつた、たまの逢瀬を楽しむ恋人達には気の毒だが、せめては暗にも著しいこれらの茴香の匂ひ、橘の匂ひでも嗅がせたい。

山涼し少し蓮葉に裾あげて赤土坂を踏める夕立

 赤土の坂道に山の夕立の降る光景である。さつと来てさつとあがる女の様な夕立だ。蓮葉に少し裾をかかげて赤土の坂を上つて行く。お蔭で涼しくなつたといふのであるが、夕立が赤土の坂に当つて泥がはね返り、もし人が通つてゐたら裾をよごしさうなので、それを避ける気持が動いて、「少し蓮葉に裾あげて」となつたものでもあらうか。兎に角さういふ場合の夕立の心持がよく出て居る。

一人はなほよし物を思へるが二人あるより悲しきはなし

 この歌も既にクラシツクとして登録されてゐるものではないか。一人で物を思ふさへ辛いことだがなほ忍ぶべし、それを二人して同時に物を思ふとは何といふ悲しいことだ。斯う私が書き流してさへ面白いのであるから、外国語にも翻訳出来る。

こころみに都女を誘へりと霧のいふべき山の様かな

 昭和六年九月の法師温泉吟行には夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんと四人の派手な都女が加はつて、当時電灯さへ点かなかつた奥山を驚かした。しかし霧の方から云へば逆で、都女を誘つたのは自分で、けふはどんな反応があるか一つためして見るのだ、きつと驚くに違ひないと云ひたさうに山を降りて来たのである。

限りなく思はるゝ日の隣なる物足らぬ日の我を見に来(こ)よ

 これはもとより女から来た誘ひの手紙である。どういふ場合に来たものか、受取つた男になつて考へてごらんなさい。随分難渋な文句だから一つ分離して見よう。[#「。」は底本では欠落]限りなく思はれる日即ち大満足の日の次に物足らぬ日のあるのはよく分る。その物足らぬ日に来いといふなら、その前日も来てゐたのであるから、結果は毎日来いといふことになる。何だつまらない。毎日来いならさう云へばよいのに、こんな廻りくどいことをいふのは如何いふ訳だ。その答がこの歌である。

蟋蟀の告ぐる心を露台にて旅の女が過たず聞く

 昭和六年八月六甲山上の天海菴に泊した時の作。山の上は既に秋で蟋蟀が鳴いてゐる、その訴へが旅の女にはよく分る、分りすぎる位よく分る。しかしその訴へが何であるかを歌は語らない。読者自ら聞いて知るべきであらう。

脚下(あしもと)の簪君に拾はせぬ窗には海の燐光の照る

 海に臨むホテルのサロンで起つた極めて小さい出来事ではあるが、それが詩人に拾はれ不朽化されて音楽になる、さうするとこの歌になるのである。どうした拍子か簪が落ちた。それを男が拾つて差し出した。女はそれを受け取つて髪にさした。さうして窗から首を出して海を見た。海には燐光が燃えてゐた。しまりのない口語詩に直すとこんな風になる。

生田川白く長きと炎天と相も向ひて何となるべき

 万葉の頃の生田川は少しは水も流れてゐたらうに、今見るそれは一本の長い白い沙の帯に過ぎない。それが夏の炎天の下で乾き切つて居る。この儘ではどうにもなりさうにない、その名の様に川などには断じてなれさうもないが、それでよいのであらうかとあやしむ心であらう。炎天下の生田川は私も知つてゐるが、これ以上何と歌へよう。

宿世をば敢て憎まず我涙いと快く涌き出づる日は

 作者は仏教の因果観を信ずるものでないだらうから、現在が宿世の結果だなどとは思ふまい。ここで宿世といふのは従来の観念を借りただけで、ただ現状をといふほどの意味であらう。こんなに気持よく泣ける日はない。こんなことなら辛い悲しいと思ひ勝ちであつた現在の境遇も憎むには当らない気がして来た。果然快い涙も流れるのである。

教坊の楽(がく)と脂粉の香のまじる夏の夕に会へるものかな

 昭和八年八月高野山の夏期大学の講義を終へた夫妻は大阪へ出て然る人の饗宴に列した、南地宗右衛門町の富田屋らしい。教坊の楽は芸者楽の支那名である。涼しい結界即ちいとも神聖な山から降りて来て暑い大阪の夏の夕に出会はした。しかもその夕たるや教坊楽とべにおしろいの交錯したいとも賑やかな華やかな夕で、我が上ながら急激な変化に驚く。歌によると当夜の板書中には艶千代、里榮、里葉、玉勇などの名が見える。

よそごとに涙零れぬある時のありのすさびに引合せつつ

 涙の多い作者のことであれば、自分には何の関りもないよそごとにも涙が零れたのであらう。別にいつの場合かに起つたひよつとした出来事を思ひ出すにも当るまいと思ふが、なぜかと反問すれば自分にもそれに似た些事があつたのだといふ訳なのであらう。

宝蔵の窗の明りの覚束な鳥羽の后の難阿含経

 高野山のムゼウムの覚束ない照明をそしり、鳥羽院の皇后が難阿含経を手写し、高野に収めたものなども陳列されてゐるが、いかにも暗くて字体の鑑賞も出来ないと訴へるのである。高野山では親王院に宿られ沢山歌をよまれてゐるが余りよいのはない。

一人寐て雁を聴くかな味わろき宵の食事の幾時の後

 一人寝の所在なさに聴き耳を立てると雁の声が聴こえて来た。それにしても晩の食事のまづかつたこと。夫婦生活十年の後に到達した境地である。昔は秋になれば東京の空にも雁の声が聞こえたのである。

亡き人の札幌と云ふ心にて降りし駅とも人に知らるな

 この亡き人は有島武郎さんのことで有島さんは札幌出でもあり、又ここの大きな耕地を相続されたのを小作人に無償で分配して処分されたこともある。そこで亡き人の札幌となる。武郎さんと晶子さんとは暫時ではあつたが心と心と相照した間柄で、無言の恋をお互に感じつつそれも相当の程度に昂じたが遂に発せずに武郎さんは死んでしまつたのであつた。これは寛先生もよく知つてゐた事実である。併し人が誤解しないとも限らないから「人に知らるな」と断つたのである。しかし又面白さうにわざわざ人に吹聴してゐる気味もなくはない。

少女子の心乱してあるさまを萩芒とも侮りて見よ

 ひどいめに会はせますからといふ続きが略してあるらしい。

夜の十時ホテルに帰り思へらく錦の如し函館の船

 人の少い北海道を旅しつづけ今帰らうとしてホテルから見れば連絡船に美しき灯が這入つて居て錦の感じだ。ぱつと明るい感じが読者にも感ぜられる。

もの恐れせずと漸く思ふ日は生みし娘の髪尺を過ぐ

 作者も漸く長じて物恐れをしない自信が出来て来た。それも道理、娘の髪の長さが一尺以上にも達してゐるのだから。女が一人前の人間になつたといふ感じと、少し盛りを過ぎたなといふ感じとが接続してゐる心持でもあらうか。

海峡の船に又あり五月より六月となり帰り路となり

 青函連絡船の歌で棄て難い趣きはあるが、無意識に踏んだ韻が一面音楽的効果をあげてゐるせゐでもあらう。即ち第二句以下にりの音が五つも踏まれてゐる。

君未だ大殿籠りいますらん鶯来啼く我は文書く

 しやれのめした歌である。作者も漸く成長してこれ許りの余裕が出来たわけだ。

爪哇[#「爪哇」は底本では「瓜哇」]のサラ印度のサボテ幸ひも斯くの如くに海越えて来よ

 人間は四六時中、意識するかしないかの違ひはあるが、幸ひを求めて居る。生きるとは幸ひを求めることでもある。しかし之を得るものは少い。しかしもし幸ひが爪哇のサラサのやうに印度のサボテンの様に海を渡つて向うから遺つてくるものだつたらどうだらう。そんな幸ひが私の家へも来ないかしらといふので、こんな愉快な想像も類が少いが、サラサやサボテンと幸ひを並べたのも等しくサの頭韻を頂くものではあるが突飛で面白い。

髪乱し人来て泣きぬうらがなし豆の巻き髭黄に枯るゝ頃

 女友達が訴へに来たが、心の乱れが髪の乱れにもあらはれて、しきりに泣くので私も悲しくなつた。初夏の庭にはスヰイトピイの花が終つて、巻髭が黄色に枯れかかつてゐる、それも寂しい光景だ。

ホテルなる小松の垣よ嵐など防がんとせで逃げてこよかし

 逗子の渚ホテルらしい光景である。葉山へ行つてひどい嵐にあはれた時の歌の一つ。この歌位作者を見る様にはつきりあらはしてゐるものも少からうと思はれるので引いて見たが、外境に対する作者にはいつも同じ心が動いてゐるのである。

夏の夜は馬車して君に逢ひにきぬ無官の人の娘なれども

 明治末年の頃の華族女学校出の令嬢なにがしの上であらう、極めて稀な例ではあるが日本開明史上の一風俗たることを失はない。歌も極めて気持よく出来てゐて階級意識など余り挑発もしないやうである。

阿修羅在大海辺と云ふことも思ふ長者が崎の雨かな

 現今の趨勢を以て進むならば或は日本語もその内ロオマ字で記される時期が来ないとも測られない。これから歌でも作る人はその覚悟も多少は持ち合す必要があるかも知れない。その意味は耳から聴いただけで分る歌でなければ将来性はないといふことである。新聞記事のやうな一日の生命しかない歌ならとにかく、日本語の亡びぬ限り永久に伝はるやうな立派な歌を作る場合には一考を煩はして置きたい。御経にあるやうな文句が浮んで来たるべき所だといふ春だといふのに長者が崎から逗子の海を吹き捲くる嵐の様を見て居ると印度神話にある阿修羅が荒れてゐるやうだ。さう思ふと阿修羅在大海辺といふ文句が浮んで御経の中の光景になる。字を見れば意味が分つてとても面白い歌であるが、これをロオマ字で写したら如何であらう、註釈をつけなければ単に音楽的に耳に快い感じを与へるだけで止んでしまふわけだ。ロオマ字問題は私達が若い時から考へ続けて来たものであるがいよいよ本気に考へ且つ実行に移す時期が近づいたやうだ。平家有王島下の条に諸阿修羅等故在大海辺といふ御経の文句が引いてある。

軒近く青木の茂る心地よさそのごと子等の丈伸びてゆく

 いつもみづみづしい大きな葉を拡げて四時変ることなく真赤な頬つぺたのやうな色の実さへ一杯つけてゐる青木は成るほどさういはれて見ると、どんどん背の伸びて育ちゆく子供達を象徴するものの様に思はれる、私達凡人は詩人に教へられて初めてさういふことが分るのである。

大山寺笹の幾葉の隠岐見えて伯耆の海の美くしきかな

 昭和五年五月山陰に遊ばれた時の作。大山寺から見た光景。絵の様に眼前に展開する。洵に申し分のない歌ひ様で、折から端午の節句で笹で包んだ粽でも出たのであらうか、熊笹でもその辺りに繁つてゐたのであらうか、そんな縁で笹の葉が出たのであらうが初夏らしい趣きが現はれる。

三十路をば越していよいよ自らの愛づべきを知り黒髪を梳く

 若い女が年をとるに従ひ少し宛若さの失はれてゆくのを感じて歎く心持は多く歌はれてゐるが、この歌の様に反対に三十を越えていよいよ人間としての我が貴さを感じ勢ひ込んで黒髪を梳くといふ様な例は余りあるまい。しかしそれがほんとうなのであつて人間はいつも現在を最上のものとして生きてゐるやうだ。現在を過去に比して歎く類は何れかといへば因習的な型にとらはれた感じなのではなからうか。それだからこの歌のやうに逆に現在を讃美する方に新らしさが生れるのである。

普明院書院の障子匍ひあるく大凡隠岐の島ほどの蟻

 やはり大山頂上にある御寺であらう、普明院の書院の障子を偶□大きな蟻が登つてゐた。先程から海中にぽつんと浮んでゐる隠岐の島が何とか歌ひたくて仕方がなかつた作者は、直ちにこの蟻を捕へてそれに結び付けて詩心を満足させたわけなのであらう。

春の日の形は未だ変らずて衰へ方の悲しみも知る

 単純に若いのでもない、衰へきつて若さが失はれてしまつたのでもない、その中間にあつて両者の相反した感じを同時に味はへる現在の環境を楽しむものでもあらうか。

元弘の安養の宮ましたりし御寺の檐に葺く菖蒲かな

 作者は読史家としても一隻眼を具へてゐて特に国史は大方誦じてゐた。諸処を吟行する場合もそれが史蹟でさへあれば必ず詠史の作を残してゐる。元弘は後醍醐天皇の年号であるから安養の宮はその皇女でもあらうか。安養寺に居られた故の御名であらう。その安養寺へ来て見ると、折も折端午の節に当つて古風に檐に菖蒲が葺かれてゐた。それが、史蹟であるだけ一層趣き深く見えたのである。同じ時の歌に 安養寺歯形の栗を比(たぐ)ひなき貴女の形見に数へずもがな といふのもあり、又山の雪を見ては隠岐から還幸された天皇を偲んで 御厨の浜より上りましたりし貴人の如き山の雪かな とも詠まれてゐる。

五人は育み難し斯く云ひて肩の繁凝(しこり)の泣く夜となりぬ

 五人目の子の生れた頃の作。太陽へ鏡影録を書いたり、色々の新訳物を出したり一家の経済は殆ど夫人の手一つで切り盛りされてゐたらしい。その余憤の洩らされた歌で、溜息のやうなものである。しかしそれにも拘らず事実は十一人の子女が見事に育て上げられたのである。

自らを五月の山の精としも思ふ卯つ木は思はせておけ

 毒うつぎともいはれる卯つ木が紅白とりどりに初夏の山に咲き誇る勢ひは大したもので、藤にしろ躑躅にしろ蹴押され気味である。而して我こそ五月の山の精であると自負して居るらしいがそれもよからう、勝手に思はせて置くがよい。大してえらくもない連中の威張つて居る世相が同時に象徴されても居るやうだ。

天地のものの紛れに生れにしかたは娘の人恨む歌

 人並はづれた才分をたまたま持たされて生れて来た許りに、人並はづれた恋もし人を恨む歌を読むことにもなつたといふ述懐で、かたは娘は反語であらう。

蜂蜜の青める玻璃の器より初秋来りきりぎりす啼く

 所謂近代感覚による象徴詩で、ある時期に作者も試みたがその数は多くない。今後短歌もこの方向に進む余地が大にありさうだ。この歌のきりぎりすは蟋蟀の古語でなく、今の青い大きいきりぎりすとすべきでそれでなくては近代感と合はない。

高々と山の続くはめでたけれ海さばかりに波立つべしや

 丹後与謝の大江山辺の景色。ここからは下に橋立浜の絶景も見える。両者を見較べて山の高きを称へ同時に海は平らな海としてその美を存する趣きである。

都をば泥海となしわが子等に気管支炎を送る秋雨

 今日の東京も滅茶滅茶にこはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京の道路と来たらお話にもなにもあつたものではなかつた。外国の記者が之を評して潜航艇に乗つて黄海を行くが如しと言つた。靴など半分位もぐつてしまつたからである。この歌を読むと当時が思ひ出され歴史的意義も少くない。

落葉よりいささか起る夕風の誘ふ涙は人見ずもがな

 銀杏や欅の落葉の美しく地に散り敷いた処へ夕風が起つてさつと舞ひ上つた。それを見て何の訳もなく涙が出て来た。悲しんででも居る様に人は思ふだらうから見られないやうにしよう。これも悲しくない涙の例。

嬉しさは君に覚えぬ悲しさは昔の昔誰やらに得し

 誰やらとは誰の事だらう。嬉しさの与へ手はその昔、悲しさの与へ手ではなかつたか。その覚えなしとは云はさぬといふほどの寸法であらう。

春霞何よりなるぞ桃桜瀬戸の万戸の陶器の窯

 昭和四年四月尾張の瀬戸に遊んだ時の作。春霞とは一体何か。私は知つてゐる。それは桃の花から立ち登るガス、桜の花から立ち昇るガス、葉もあらうかと思はれる焼物窯から立ち昇るガス、さういふものの合成したものがこの町の上に棚曳いてゐる春霞である。

相寄りてものの哀れを語りつと仄かに覚ゆそのかみのこと

 そもそもの逢ひ初めはどんな風であつたか。私はかすかに思ひ出すが、近く寄つて物の哀れを語り合つただけである。それが如何であらう、けふのこの二人の中は。

光悦の喫茶の則に従ひて散る桜とも思ひけるかな

 鷹が峰の光悦家を尋ねた折、折から満開の桜の散るのを見て光悦の御茶の規則に従つて散るものと思つたのである。これが晶子さんの見方で他人の決して見ることの出来ない見方である。

三月見ぬ恋しき人と寝ねながら我が云ふことは作りごとめく

 前に 君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ といふのを説いたが、それは若い恋の場合であつた。今度のこの歌は夫婦生活長い後のものであるが、会話に平板を破らうと労力してゐる跡が見え興味が深い。

青春の鬼に再び守らるる禁獄の身となるよしもがな

 若き日の夢を再び追ひたい心持ではあるが、鬼といひ禁獄といふ恐ろしい言葉の使つてあるのは意味がある。年をとつて酸いも甘いも噛み分けた今は大した欲望とてもない謂はば自由の身である。それから見ると強烈な内の促しの支配する若い頃は、青春鬼とでもいふ獄卒の見張りをする獄中にゐるに等しいが、それがも一度さういふ目にあつて見たいのである。

男をば日輪の炉に灸るやと一時(ひととき)磯に待てばむづかる

 鎌倉の様な海浜の夏の逢引で、少し待たされた男の言ひ分で面白い。しかし日本の海の夏の沙はまさにこの通りで誇張でも何でもない。であるからむづかるのでもある。

我は泣くこれをば恋の黄昏の景色と見做す人もあらまし

 今私は泣いてゐる。これを見る人は私の恋もいよいよ終りに近く正に黄昏の景色だと思ふ人もあらう、さうでもないのだが。斯んな風に直き泣く様ではさうなのかも知れない。

後ろより危しと云ふ老の我れ走らんとするいと若き我

 青春と老熟の入り交つて平衡状態を保つ三十過ぎの心の在り方は恐らくこんなものであらうかなれど、何しろ三十年も前の事だから私自身は忘れてしまつて何とも云へない。

三角帆墨の気(け)多き海に居て片割月にならんとすらん

 武蔵の金沢に遊んだ時、夕暮に小高い丘に登つて海を見た景色、私も一しよに見たのでよく知つてゐる。少し暗くなつた海面に小ヨツトの三角帆がたつた。一つ浮いてゐた。私もそれを詠んだ筈だ。夫人は何と詠むだらうと興味を以て臨んだが遂にこの歌になつた。その第一印象の的確にして過らざるに感心したことがあるが、今取り出して見ても浮き出すやうに鮮やかな印象を受け取る。

髪未だ黄ばまず[#「黄ばまず」は底本では「黄ばます」]心火の如し悲みて聴く喜びて観る

 三十を越えたといふ自覚はあつても髪はまだ黄色にはなつてゐない、火の様な心はその目の様に燃えてゐる。人の話をきくにも悲しい話は涙を流して聴き、面白い芝居は心を躍らして見ることが出来る。私はまだ若いのだ。

凋落は我が身の上になりぬると云ひ過ぎすなり思はざること

 今思ひ出して見ると何と云ひ過ぎの多かつたことよ。私の如きもいひ過ぎ許りして居た様だ。夫人も相当云ひ過ぎがあつた。それに気がついた歌である、いよいよ私の凋落する番が来たなど思ひもしないことをつひ云つてしまつた。しかし潜在意識にそんなことがあつて出て来たのかも知れない。さうとすればうそでもないのだ、言ひ過ぎだとするのは自ら欺くものである。何だかそんな裏の意味もありさうだ。

紅の海髪(おごのり)の房するすると指を滑りぬ春の夜の月

 すこし霞んだ春の夜の月の昇つてくるのを見るとあのぬらぬらする紅い海髪の房がするすると指の間をすり抜ける感触だ。暖かい風の吹いて居る静かな海岸の岩の間に顔を出す人魚、近代人の感触は例へば斯ういふ媒介者があつて感ぜられるとも云へる。

何時となく思ひ上がれる我ならん君も仇も憎からぬかな

 人間も漸く成熟すると斯ういふ境地に立つ、即ち恩讐一等の境地である。それをさうといはずに殊更に卑下して思ひ上がれるといつたのであらう。

恋もせじ人の恨みも負はじなど唯事として思ひし昔

 私は少女の頃から色々の古典も新作も読んで恋の葛藤の悲しさ痛ましさ浅ましさ恐ろしさを十分知るにつけ、私は恋などはしない、人の恨みも受けまいと簡単に考へてゐたのであつた。それだのに如何だらう。人の恨みを受けるやうな人並はづれた危い恋をしてしまつた、恋を知らない少女心はそんなものでしかない。

島の雨紅襷して樫立の若衆が出でて来る時も降る

 八丈島へ遊びに行つた時、偶□大賀郷の広場で樫立部落の若衆によつて八丈音頭の踊られるのに出会つた。その時は夏の暑い日盛りであつたが、一年二百五十日は降るといふ島の雨が折しも夕立となつて降り出した。それがをかしかつたのである。

仄白き靄の中なる苜蓿(うまごやし)人踏む頃の明方の夢

 私は今明方の夢を見てゐる。今頃は仄白い大方脚気を直したい人達が靄を分けつつ柔い苜蓿の上をはだしで踏んでゐる頃であらう、それもよし、わが快い夢もよい。

芝山を桐ある方へ下りて行く女犬ころ初夏の風

 山本さんの野方の九如園で歌会が開かれた事がある。五月牡丹未だ散らず、空には桐の花の咲く日であつた。その匂ひをしたつて芝山を婦人客と犬と微風とが降りてゆくのである。

漸くに思ひ当れる事ありや斯く物を問ふ秋の夕風

 昔から秋風を歌つた歌は大変な数に達するだらうが、さて余りよい歌はない。最初のものは額田の女王の 君待つと吾が恋ひをれば吾が宿の簾動かし秋の風吹く で之はよろしい。万葉はこれ一首。次は一足飛びに源重光に来る。 荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ 以上二首は積極的であるが、以下は凡て消極的になる。[#底本では4字分の空白]源道濟のは 思ひかね[#「思ひかね」は底本では「思ひがね」]別れし野辺を来て見れば浅茅が原に秋風ぞ吹く 西行からは典型性を帯びて来る。 荻の葉を吹き棄てて行く風の音に心乱るゝ秋の夕暮 後鳥羽院のは一段とすぐれてゐる。
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