晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

少女子が呼び集めたるもののごと白浜にある春の波かな

 昭和十年早春偶□上京した蘆屋の丹羽氏夫妻等と伊豆半島を一週し、その途上二月二十六日先生の六十三の誕生日が祝はれた。即ち 浅ましや南の伊豆に寿し君が[#「が」は底本では「か」]六十三春かこれ といふのがそれであるが、この行病を得て遂に起たず 歓びとしつる旅ゆゑ病得て旅せじと云ひせずなりにけり とそれが先生の最後の旅行になつてしまつた其の件、下田から白浜へ来て作られた歌の一つ。びちやびちや打ち寄せる静かな春の波の様子が情趣豊かにあらはされてゐる。又同じ波は 白浜の砂に上りて五百波暫し遊ぶを遂ふことなかれ とも歌はれてゐる。

生れける新しき日に非ずして忘れて得たる新しき時

 私達の間に新らしい日が産れて、その為に仲が直り過去の気まづいいきさつが一掃された[#「一掃された」は底本では「一掃さた」]といふのではありません、それは唯過去を忘れた報酬として新らしい時が得られただけのことです、ですから少しでも思ひ出せば折角の新らしい時も亦旧い時に変ります、御互に気をつけて徹底的に忘れませう。それが一番よいことなのです。

十字架の受難に近き島と見ゆ上は黒雲海は晦冥

 十年の二月、熱海の水口園に泊られた時、暴風雨に襲はれてゐる前の初島を詠んだ歌で、十字架の難に逢つて居るとはいかにも適切な言ひ廻しであるが、同時にそれは作者の同情のいかに細かいかを物語つてゐると言へるのである。上は黒雲海は晦冥も十割表現で之亦作者の特技の一つであらう。又同じ島が今度は靴になつて 雨暗し棄てたる靴の心地して島いたましく海に在るかな とも歌はれてゐるが、感じが強く出てゐるだけこの方を好む人が多いかも知れない。

君来ずて寂し三四の灯を映す柱の下の円鏡かな

 円鏡は昔の金属製のものを斥すのであらうからこの灯も電灯ではなく、ぼんぼりか行灯であらう。三四の灯といふので相当広い室でなければならないことになる。併し女主人公一人より居ない様子だ。それで一寸環境が忖度しにくいのであるが、男の来ないことをそれほど気にも留めず、鏡が寂しさうだといふのであるから女主人公もただの女ではなささうな気もする。

拝殿の百歩の地にて末の世は油煙をあぐる甘栗の鍋

 昭和十年作者夫妻は鎌倉の海浜ホテルで最後の正月を過ごされた。一日鶴が岡八幡に参詣して み神楽を征夷将軍ならずしてわが奉る鶴が岡かな と歌ひ上げたが、その帰りにその征夷将軍の殺された石段を降りて来ると直ぐその下に甘栗屋が店を出してゐた。その対照が余りをかしいので、この歌が出来たのであらう。好個の俳諧歌。

人妻は六年(とせ)七年暇(いとま)無(な)み一字も著けず我が思ふこと

 先づ一字の難もない完璧とも絶唱ともいふべき歌であらう。結婚後七年として即ち三十歳位の時の作であるから油も乗りきつてゐるわけだが。一字も著けずわが思ふことなどの旨さは歌を作つたことのないものには分るまいが、それは大したものなのですよ。しかし調子の上の先縦はそれらしいものが全く無くはない。私はすぐ石川の女郎の  志可の海人(あま)は布(め)刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに を思ひ出した。

初春に乗る鎌倉の馬車遅し今年の月日これに似よかし

 讖を為すといふ事があるが、この歌などもそれらしく思はれる。ヰクトリア型とかドロシユケとかいふのであらう簡易な馬車が不思議に鎌倉にだけ残つてゐて見物人を便した、夫妻も正月気分で物好にその馬車に乗つたものらしい。久しく自動車に慣れた近代人には牛の歩みの遅々としていかにも初春の気分になる。年を取るに従つて一年の立つ早さが段々早くなる、糸の先に石をつけて廻すやうだと云はれてゐる。この馬車の遅い様に今年だけは月日の立つのもゆつくりして欲しいと希つたのであるが、思ひ設けぬ結果となつてそれから三月目に良人を失ひ、その後の八九ヶ月の長さは果して如何であつたであらう。感慨なしにこの歌は読まれない。

飲みぬけの父と銅鑼打つ兄者人(あじやひと)の中に泣くなる我が思ふ人

 サアカスの娘の歌である。昔我々は天地人間あらゆるものを歌つてやらうとした事があつた。この歌などもその試みの一つであるが、その後いつしかさういふ企てもやんでしまつたので、落し種ででもあるやうにぽつねんと今に残つてゐるのである。しかし眼前の小景や日常茶飯事を詠む許りが歌の能でもあるまい。大に眼を開いて万般の事象特に人間界の種々相に歌材を求める時代がその内には来ようから、この歌などもさういふ際には好個の御手本とならう。この歌の姉妹歌がもう一つある。曰く 兄達は胡桃を食らふ塗籠の小さきけものの類に君呼ぶ

沙川の大方しみて海に出づ外へ流るる我が涙ほど

 遠浅の沙浜を歩いてゐると川の水の大部分は沙にしみ込みその末が僅に海に落ちるのを渡ることがよくある。由井が浜にもあつたやうだ。私の泣くのをこの頃人はあまり見かけないであらうが、それは涙が外へ流れないからである。水が沙にしむ様に中へしみ込んでしまつて外に出ないから人の目に触れないだけのことである。

花草の原のいづくに金の家銀の家すや月夜蟋蟀

 月夜の蟋蟀の声を金鈴銀鈴と聞く心持からその栖家が「金の家銀の家」となるので、交感神経による音感と視感との交錯である。花草の原は少し未熟だが月夜蟋蟀の造語は成功してゐる。(造語ではなく昔の人の使ひ古した言葉かも知れないが)

正月の五日大方人去りて海のホテルの廊長くなる

 正月休みで雑沓してゐた海浜ホテルも五日になれば大方引上げて客が疎らになつた、そのために廊下が長くなつたやうな気がする。この感覚は清少納言の持つてゐたもので、また優れた多くの詩人の生れながらに持つてゐる所のものである。我が国でも芭蕉、蕪村、一茶近くは漱石先生など持ち合せて居たが、不幸歌人中には一人も見当らない。

風吹けば馬に乗れるも乗らざるもまばらに走る秋の日の原

 之を写生と見たいものは見ても宜しいが、私は広い草原に野分だつた風の吹いて居る心持を人馬の疎らに走る象によつてあらはした一種の象徴詩だと思ふ。私は少年の日多分二百十日の頃だと思ふが寛先生に連れられて渋谷の新詩社を出て玉川街道を駒沢辺まで野分の光景を見に行つたことがある。その頃の草茫々たる武蔵野を大風の吹きまくつて居た光景がこの歌を読むとどうやら現はれて来る。

僧俗の未だ悟らず悟りなばすさまじからん禅堂の床

 円覚寺の僧堂で居士を交じへて雲水達の坐禅をしてゐる処へ偶□行き合せたものらしい。平常でも石の様に冷い僧堂が寒中のこととて凍りつく許りに見えたことであらう。しかしその一見冷い中にも修行者の集中した精神力から自然に迸る生気は脈々として感ぜられる、まだ悟らないからいい様なものの、もし一時にこれだけの人数が悟つたらどんなことになるだらう、その凄じい勢ひに禅堂の床などは抜けてしまふであらうと云ふのである。寛先生は若い時、天竜寺の峨山和尚に就いて参禅し多少得る処があつた様であるから、這般の消息は分つてゐるが、夫人は何らその方の体験なく唯禅堂の様子を窺つた丈で悟の前後の歓喜をよくこれだけ掴まれ、又適確に表現されたものだと思ふ。

古里を恋ふるそれよりやや熱き涙流れきその初めの日

 男を知つた第一夜の心を自分から進んで歌ふことは余りなかつたことと思はれるが、作者は臆する処なく幾度か歌つてゐる。その時流れた涙の温度をノスタルジアのそれに比して明かにしてゐる。之亦生命の記録の一行として尊重さるべきであらう。

夕明り葉無き木立が行く馬の脚と見えつつ風渡るかな

 疎らな冬木立に夕明りがさして歩いてゆく馬の脚の様に思へる、そこへ風が吹いて来て寒むさうだ。馬の脚などといふとをかしい響きを伴ふのでぶちこわしになる恐れのあるのを、途中で句をきつてその難を免れてゐる所などそんな細かい注意まで払はれてゐる様だ。

緋の糸は早く朽ち抜け桐の紋虫の巣に似る小琴の袋

 家妻の為事に追はれ何年か琴など取り出して弾いたこともない。大掃除か何かで偶□取り出されたのを見ると、縫ひ取つてあつた緋の糸は朽ち抜け桐の紋などは虫の巣の様になつてゐる。歳月の長さが今更思はれるといふ歌である。之より先楽器の袋を歌つた歌がも一つある。それは 精好(せいがう)の紅(あけ)と白茶の金欄の張交箱に住みし小鼓 といふので、之亦偶□取り出して見た趣きであらう。精好とは精好織の略で絹織物の一種である。

十二月今年の底に身を置きて人寒けれど椿花咲く

 十二月今年の底とは何といふすばらしい表現だ。かういふ少しも巧まぬ自然さを達人の筆法といふ。十二月は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれた位で、早咲きの椿を十二月に見る事は作者に取つては嬉しいことなのである。

粉黛の仮と命のある人と二あるが如き生涯に入る

 生命のある真の人間と、人前に出る白粉をつけ紅をさした仮の人間と二人が同じく私の中に住むやうな生活がとうとう私にも来てしまつた。而してこの間までの若い純真さは半ば失はれてしまつたが、人生とは斯ういふものなのであらう。

東京の裏側にのみある月と覚えて淡く寒く欠けたる

 師走の空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を照らすとは言ひ得て妙といふべく、或はこれ以上の表現はあるまいとさへ思はれる位だ。誰か旨い英語に訳して見たら如何かと思ふ。

思ふ人ある身は悲し雲涌きて尽くる色なき大空のもと

 野に立つて目を放つと地平からむくむく雲が涌き上つてきていつ果てるとも知れない。思ふことなしに見れば一つの自然現象に過ぎまいが、人を思ふ私が見ると丁度物思ひの尽きない様にも見えて悲しくなる。

正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごとそそのかすごと

 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しよに私の家などで運座をやつた仲間の生き残つてゐるのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けてゐるのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であつたが、その時は最早小包便など利かなくなつてゐたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまつたが今頃は如何して居られることだらうか。その山城君は五十になつて恋をした、しかも熱烈な純真なものでさへあつたらしく沢山歌を詠んでゐる。それを本人は隠さうともしなかつた。恋の猛者とは年老いてなほ若い者に負けない気力を示した意味であるが、大勢の子供があり既に初老を越えた身の何事だといふのが戒むる意味、その純真な態度を知つては大に若返るのもいい事だ少しはやるがよいといふのがそそのかす意味、あなたを恋の猛者だと冷かすがその中には以上二つの意味が這入つてゐるのですよ。といふわけである。何となく奥行のある俳諧歌だとは思ひませんか。尚山城君は近年「紙銭を焼く」といふ歌集を出してゐる。琉球の郷土色が濃厚に出て居て珍しい集である。

高き屋に登る月夜の肌寒み髪の上より羅(ら)をさらに著ぬ

 月を見て涼を入れようと半裸体の麗人が高殿へ登つてゆく、いくら夏でも上層は冷い、そこで髪の上からトルコの女のするやうに羅(うすもの)を一枚被いて残りの階を登つて行く。少し甘いが、紫色の一幅の画図を試みたものである。

山行きて零れし朴の掌(たなぞこ)に露置く刻(こく)となりにけるかな

 秋の漸く深い水上温泉へ行つた時の歌。奥利根に添ひどこ迄も上つて行くと秋の日の暮れ易く道端に零れてゐた朴の葉の上にもう露が置いてゐた。では帰りませうといふ心であらう。

半生は半死に同じはた半ば君に思はれあらんにひとし

 生きるならば全生命を燃やして生きます。半分生きるといふのは半分死ぬことですいやなことです、丁度あなたが半分だけ私を思つて、あとの半分で外の人を思ふのと同じです、私の堪へ得る所ではありません。恐らくは、はた半ば以下を言ひ度い為に、前の句を起したので目的は後の句にあるのであらう。

月出でん湯檜曾(ゆびそ)の渓を封じたる闇の仄かにほぐれゆくかな

 月出でんで勿論切る。その底を利根川の流れる湯檜曾渓谷にはもう二時間も前から闇といふ真黒な渦巻とも気流とも分らないものが封じ込まれてゐたが、それが少しづつではあるがほぐれ出すけはひの見えるのは月が出るのであらう。闇がほぐれるとは旨いことを云つたものだ。

神無月濃き紅の紐垂るる鶏頭の花白菊の花

 十一月といふ季節を音楽的に表現したものである。写生画を見るやうな積りで見てはならない。花の写生をしようなどいふ意図は毛頭ないからである。

承久に圓位法師は世にあらず圓位を召さず真野の山陵

 この一首の調子の気高さ、すばらしさ、帝王の讃歌として洵に申し分のない出来だ。真野の山陵は佐渡に残された順徳院のそれである。作者は二囘佐渡に遊びその度にこの院を頌してゐる。院は歌人でもあり、歌学者としても一隻眼を具へ八雲御抄の著があつて当時の大宗匠定家にさへ承服しない見識が見えてゐて、晶子さんはそれを嘗て、定家の流に服し給はずと歌つてゐる位のお方だ。又西行は当時の権威に対し別に異は立てなかつたが窮屈な和歌を我流に解放した人である。もし西行が承久に生きて居たら、白峰に参つたやうに佐渡へも必ず渡つてもしそれが生前であつたら院の御機嫌を伺つたことであらう、院はどれほど喜ばれたことであらう。しかし時代が違つた為山陵すら白峰のやうに之を召すことはなかつた。一人の知音なく遠い佐渡で淋しく崩ぜられた院の上がいかにも帝王らしい高雅な調べで表現されてゐる。

梅雨(つゆ)去りぬ先づ縹草初夏の瞳を上げて喜びを云ふ

 梅雨が上つていよいよ夏だといふはればれしい感じは恐らく凡ての草木の抱く所であらう。この歌ではその最初の声を発するものが縹草即ち小さい露草で、可哀らしい紫の瞳を上げて子供らしく嬉しい嬉しい嬉しいといふ様に見える。成るほどさうかも知れない。

大きなる護岸工事の板石の傾く上に乗れる青潮

 これは新潟港の所見である。護岸工事の傾斜したコンクリイトの板石に秋の潮がさして来る、その心を濡らす様な青さ。青潮にはその中に作者の心が溶けてゐて抒情性がそこに生れるのである。単純に天地の一角を切り取つた無情の写生ではない。

雨の日は我を見に来ず傘さして朝顔摘めど葵を摘めど

 私は花作りです、いつも庭へ出て花の世話をします、それをあの人は見に来ます、私を恋して居るのでせう、私はさう思つてゐました、さうして見られるのを楽しみました。それに如何でせう、雨の日は来ません、私は見られたさが一杯で傘をさして葵の日には葵を摘み、朝顔の日には朝顔を摘んで待ちましたが、遂に見に来ませんでした、そんな浅はかな恋があるでせうか、あの人のことはもう考へないことにしませう。

はてもなき蒲原の野に紫の蝙蝠のごとある弥彦かな

 越後蒲原の平野から弥彦山を望んだ第一印象で、同地を故郷とする堀口大學君が激賞してゐる歌だ。私の知らぬ景色だから批評の限りでないが、堀口君が感心してゐるのだから間違ひはあるまい。

二十三人をまねびて空笑みす男のすなる偽りも云ふ

 人を見ればをかしくもないのに作り笑ひをして歓心を求めたり、又男の様にうそを云つたり私も大分違つて来た。何時頃からこんなになつたのであらう、さうだ二十三の時だ、そんなことを覚えたのは。これも作者の場合に示された人間記録の一である。

永久(とこしへ)と消えゆく水の白波を一つのことと思はるべしや

 過去とか未来とかいふものは思想上には考へられるが実在はしない、実在するのは現在だけである。従つて永久といつても現在の外にはない、現在が永久であり、永久は現在である。こんな哲理を考へながら渓流を見て居ると岩にせかれて白波の立つては消えるのが注意を惹く。現在と永久とが一つのものならば、消えてゆく波と永久とが同一物といふことになる。そんなことはどうしても考へられない。現象即実在、差別即平等、沙婆即寂光土など同一カテゴリイに属する思想で皆詩人の厳定しにくい処であらう。

火に入らん思ひは激し人を焼く炎は強し何れなりけん

 私は火の中に跳び込んで自分を焼いてしまふ位激しい感情の持主です、又私の情熱は相手を焼き殺してしまふ位強烈なものです、そのどちらが働いてこんなことになつたのでせう、分りますか、どちらも同じものですよ。

川東中井の里は五十度の傾斜に家し爪弾きぞする

 昭和九年の秋上州四万に遊ばれた時の作。私は四万へは行つたことがないので説明しかねるが、渓流に臨んだ急勾配の斜面に川東の中井部落といふのがあり、そこから爪弾きの音が聞こえて来た。今にも滑り落ちさうな崖の途中の様な処に住みながらいきな爪弾を楽しんでゐるとは如何した人達であらうと感心して居る心であらう。五十度の傾斜といふ新らしい観念と爪弾といふ古い情趣との対照がことに面白い。

火の中の極めて熱き火の一つ枕にするが如く頬燃えぬ

 頬が燃えるやうに熱くなるのは如何いふ場合であらうか。それによつて情熱を言ひ現はすことも考へられないではないが、羞恥に堪へられぬやうな場合の方が当つて居るやうに思はれる。この歌の場合も最上級の羞恥を現はしたものと見てよいやうである。燃らば唯一度しかない場合のものとも見られる。

川の幅山の高さを色ならぬ色の分けたる四万の闇かな

 山の蛾が飛び込むので閉めてあつた障子をあけ廊へ出て九月の外気に触れて見た。谷底の様な四万の夜は真暗だ。しかしその色のない闇の中にも川の幅を示してゐる闇もあり、山の高さを現はしてゐる闇もあつて、ちやんと区分され、その上に星空が乗つてゐるのであつた。これだけのことが色ならぬ色の分けたるで表現されてゐる。

なつかしき心比べといと辛(から)き心比べと刻刻移る

 劇が決闘であるやうに、愛も亦決闘である。唯常の状態ではそれが極めて温和に行はれる為少くも闘争の外観を示さず、「心比べ」といふ程の静的な様相を呈するのである。併しその本質はやはり決闘であつて、色々の種類の決闘が相ついで行はれる。懐しい決闘が行はれるかと思へば次には辛辣なのが行はれ、時間はどんどん立つてゆく。

人間に灯の見まほしき欲ありと廊を踏みつつ知れる山の夜

 これも前の闇の歌の続きである。長い廊を踏んで湯殿に通はうとするに、灯のついてゐる座敷とて一つもなく、山の夜は唯真暗で水の音のみその中に高い。ああ明りが欲しいと思ふとその瞬間人間には五欲の外に灯の見たい欲がも一つあつたのだといふことに気がついた。

実(まこと)しき無き名なりけり実しき名なりし故に今日も偲ばゆ

 無き名を立てられて思はぬ悲劇となり、又は大に困つたり、少くも迷惑した様な場合が昔からいろいろ歌にも詠まれてゐる。しかしこの歌のやうにそれが懐しい記憶となつて残つてゐる場合は恐らくないだらう。こんな体験は誰にでもあるのだらうが、今まで歌へないでゐたのを作者が取り出して歌つたのである。

武蔵野の風の涼しき夜とならん登場したり文三と月と

 この春(二十一年)栄養失調でなくなつた江南文三君である。文三君は近年先生の近くに住んでゐたので、いつもぶらりと出掛けたものらしい。そこで「登場したり」となるので、客のするやうな常の訪問でないことが分る。ぶらりとやつて来たのは文三許りでなく月も昇つた、けふは暑さもそれほどでない、今に風も出て涼しくならうから大にとぼけた話でもしませうといふ心持である。江南君は渋谷時代からの古いお弟子で少しエキセントリツクな人物だから「登場」することにもなるのである。

なつかしきものを偽り次次に草の名までも云ひ続けけり

 わたくしの一番なつかしいのはあなたですとそれが云へない許りに、清少納言のやうにそれほどでもない自然現象から人事百般に渉つて並べ立てしまひには草の名までも数へたが皆□であつた。そんなこともあつたがをかしいわけのものである。

恋のごと旧恩のごと身にしむと月の光を思ふ秋かな

 昔から今まで月の歌は数限りなく作られこれからも作られるであらうが、月の光その物を抽象して示す場合は極く少く、大抵は月光を浴びた環境及び之に対する印象を詠むのであらう。然るにこの歌は秋といふ以外は一切の外境に触れず月光そのものに恋を感じ旧恩を感じて之を人に伝へるのである。ことに旧恩と月光などは詩人の媒介なくしては結合する機会はあるまい。

憂き十年一人の人と山小屋の素子の妹背の如く住みにき

 明治三十四年から十年間の晶子さんは相当世間に認められ独り歌許りではなく新訳源氏を出しては上田敏さんから紫女と才分を等しうするものと折紙をつけられ、太陽に鏡影録といふエツセイを書いては鴎外先生に平塚明子さんと並称されるなど文壇人としては相当華やかな存在であつた。しかるにその暮しは如何であつたかといふに、お話にならぬほど粗末なものであつた。それに大家のお嬢さんとして何不足なく育つた人であるだけ、生活のみじめさは人一倍身にしみて味はれたに違ひない。この歌などもその現はれである。成るほど憂き十年であつたに違ひない。山小屋の炭焼夫婦も二人なればである。その様に共に住む一人の人があればこそ来たのであるが、さてこの先は如何なることであらう。

比が根山秋風吹けど富士晴れず拠なく靡く草かな

 十国峠を通るに相当強い秋風が海の方から吹いて来る、けれども中天の雲を吹き飛ばすだけの力はなく富士は曇つた儘姿を現はさない。而してそれに失望するのは自分だけではない、それより富士を拠として日々その生を続けてゐるこの比加根山の草の方が可哀さうだ、頼りなささうに秋風に靡いて居るその姿。十国峠の草山の物足らぬ心持が淋しい位よく出てゐる。

わが産屋(うぶや)野馬が遊びに来ぬやうに柵つくらせぬ白菊の花

 これも昔の渋谷辺の心持で、産屋の前に数本の白菊が咲いてゐる。それを斯ういふ形で表現したわけだ。あの辺から玉川へかけては昔の武蔵野の俤が残つてゐて野馬でも遊んでゐさうな心持がしてゐた。そこで外の時ならよいが、御産のすまないうちにそんな闖入者があつては困るので白菊を植ゑて柵にしたのです。さて闖の字を書いて見るとここにも野馬の遊びにくる趣きが出てゐてをかしい。

御堂より高かる空に五山浮き松風の鳴る広業寺かな

 明治の画家寺崎廣業氏の山荘を禅寺にしたらしく信州渋の上林にある。小さくとも寺であるから主家(おもや)を御堂と呼び、その上の空に山々の聳えてゐるのを禅宗寺院に因んで五山と呼び、松風を添へて山寺の風致を引き出すわけである。

撥に似るもの胸に来て掻き叩き掻き乱すこそ苦しかりけれ

 掻き叩きといふから丁度長唄の撥の気持であらう、さういふものが来て胸を叩くので感情は忽ち混乱してしまふ、その苦しさといつたら無い。そんなことが往々あつたが、今また丁度来て私の胸を掻きむしつてゐる最中だ。その正体は何物か、それは分らない。しかし撥のやうなものらしい。苦しいが打ち払ふ術もなく叩くに任せてゐるのである。之では説明も要領を得ないが象徴詩は仕方がない。

駅二つ裾野の汽車は越えつれど山の蛍は飛ぶを急がず

 妙高山腹の赤倉温泉での作。今しがた田口を出た遠い汽車の灯が見て居るうちに裾野を廻つて二本木に着き、そこをも越えて大急ぎで山を走り下りてゆく。その間同じ小さい灯ながらこの辺を飛ぶ山の蛍はどうかといへば、何の目的もなくふわりふわり飛んでゐる許りで、汽車の灯などどうあらうと見向きもしない。僅に二種の小さい灯を比較するだけで越後平野を見渡す妙高の夜景をぼんやりではあるが描出してゐる。

男にて鉢叩きにもならましを憂しともかこち恨めしと云ふ

 どうですこの頃の私のこぼし方、朝から晩まで不平許り、辛いと云つたり恨めしいと云つたり、誰の為にこんな苦労をするのだらう。もし私が男だつたら、私はいつそ鉢叩きにでもなりますよ、さうしてお念仏を申しながら瓢箪を叩いて廻りますよ、その方がどれほど苦労が少いでせう。

薬師山霧に化(かは)りて我が岸の板屋楓が薬師に化る

 昭和九年七月赤城山上大沼でひどい霧に会はれたその時の歌。対岸の薬師山が忽ち化して霧になつたと思つたら、此の岸の板屋楓が今度は反つて薬師に化けた。をかしいこともあるものだといふ座興であるが、対岸の薬師山には恐らく薬師を本尊とするお寺か何かあるか、或は伝説でもあつて薬師に関係があるのであらう。さうでないと面白くない。

物語二なき上手(じやうず)の話よりものの哀れを思ひ知りにき

 私は嘗て年寄許りの席で老妓の昔話を聞いたことがある。大阪の話である。一つは滑らかな大阪弁がさうさせたのでもあつたらうが、私は感に堪へて聞いてゐた。この歌を読んでその時のことを思ひ出すが、確にもののあはれを思ひ知つたといふのであらう。恐らく誰にでもさういう体験はあらうか。

恋をして徒になる命より髪の落つるは惜しくこそあれ

 恋をすればいふ迄もなく命はすりへつてしまふ、かけ替のない命をすりへらすとは何といふ惜しいことだらう。しかしそれよりも尚惜しいのはこの頃のやうに髪の落ちることだ、かう毎日毎日落ちていつたら一体どうなるのだ。有形無形何れかと問はれた若い女の答である。

山の霧焔なりせば如何ならん白き世とのみ見て許せども

 これは実に恐ろしい想像である。霧が寄せて山も湖水も草も木も青白いものになつた。見るものはそれを白い世界が出来た位に安心して見てゐるが、もし霧でなくて火焔であつたらどんなものだらう、思つても恐ろしい事だと自分の空想に自分で怯へる不思議な歌である。

やごとなき君王の妻(め)に等しきは我がごと一人思はるゝこと

 作者にははじめ山川登美子さんといふ恋の競争者がゐて、その為にどれ程悩んだか知れなかつた。しかしそれは登美子さんの知つたことではなかつたし、その内この妹のやうなお友達も若くして世を去つたので、漸くこの歌のやうな境界が出現した。その後は多少の葛藤はあつても其の儘遂に変ることはなかつた。それを思ふと幸福な一生だつたと言はざるを得まい。この歌の嬉しさうな調子を見ればさう評して間違ひはあるまい。

ほととぎす妄りに鳴かず一章を読み終へて後一章を次ぐ

 咢堂先生を嘗て莫哀山荘に御尋ねした時軽井沢では梅雨期にはほととぎすが喧しい位啼くといふ御話であつた。私はさういふほととぎすをラヂオの録音以外には聴いた事がない。このほととぎすは伊豆の吉田のそれで私の隠宅尚文亭で毎年聞くものと同じものらしく、少しく間を置いて啼いたものらしい。この歌の鳥は咒文か真言か鳥の国の文章を読むものと見做されてゐるが、一章を読み了へて後一章を次ぐとはよく聴いたもので、これ以上的確な写生はあるまい。

髪あまた蛇頭する面振り君にもの云ふ我ならなくに

 メヅウサはもとは美しい女であつたが、ミネルバの怒りに触れて、髪の毛を蛇に変へられ、その目で見られたものは恐ろしさに何物も皆化石してしまふといひ伝へられる女である。そんなメヅウサのやうな顔をしてあなたに物を云つて居る私ではないとは思ふものの、もしさうであつたら如何しよう、あり得ないことでもないから。半信半疑又は我を疑ふ場合であらう。

誓ふべし山の秘密を守るべし蛾よ我が路に寄り来る勿れ

 若葉の頃塩原での歌。散歩の途上であらう余程多くの山の蛾に襲はれたらしく悲鳴をあげた形である。悲鳴のあげ方が人間扱ひで面白い。この様に何もかも人間扱ひにする、それを晶子さんの常套手段だとするのは当つて居ない。さうではなく晶子さんの神経には万有が直ちに人間として感ぜられるのである。

朝顔の蔓来て髪に花咲かば寝てありなまし秋暮るゝまで

 例の千代の 朝顔に釣瓶とられて貰ひ水 といふ句を子規がけなしつけて理窟だと言つた。その通りだと思ふ。しかしもしこの歌を同じ理由でけなすものがあつたら、それは当らない。この歌は朝顔の美を詠んだものではない。朝寝がしたいのである。朝顔でもはつて来て髪に花が咲いたらそれをよいことに起きないのだがといふので、句の様に理窟ぜめに朝顔の美を称するのでも何でもない。

馬遣れば山梨えごの白花も黄昏時は甘き香ぞする

 馬遣ればは馬に乗つてその木の下を通ればといふ意味だと思ふが、即ち花の咲いてゐる直ぐ下を通るので、何の匂ひもしない白い花だが黄昏時にはさすがに甘い匂ひが感ぜられるといふのではなからうか。山梨えごの花なるものを知らないからはつきりは分らない。

青白し寒し冷たし望月の夜天に似たる白菊の花

 いく度か云つた様に斯ういふ歌は一種の音楽である。それ故内容などに就いて彼此れ野暮な詮索をしないことだ。唯高声に或は低声に朗々と吟じ去り吟じ来つて日本語の美を味はへばそれが一番よいことであつて、精神生活はその都度向上するわけである。

心経を習ひ損ねし箒川夜のかしましき枕上かな

 心経は般若心経で門前の小僧誰も知つてゐる短いお経である。しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響きの代りに途方もない乱調子が続いて、やかましくて寝つかれないといふのである。

冬の夜を半夜寝ねざる暁の心は君に親しくなりぬ

 冬の夜長を殆ど眠らず尖つた心の儘に物思ひにふけつてしまつた。しかし段々労れてくるにつれにぶつたとげも遂にはぼろりと落ちて、もとの円味のある心になり、夜の明ける頃にはやうやく親しむ気分にさへなつた。つまり疲労のお蔭で仲直りが出来たといふわけなのであらうか。

五月の夜石舟にゐて思へらく湯の大神の縛(いましめ)を受く

 石舟は石の湯舟でいはふねと読むのではないかと思ふが確かではない。五月といへば山の夜も寒くはない、外は暗い、外から若葉の匂ひがしみこむ様だ。渋い感触の石造の湯舟に浸つて目を閉ぢて居ると心気朦朧としてこの儘いつまでも浸つて居たい様な出るにも出られない様な心持になる、それは丁度湯の神の咒文で縛られて居る感じである。

逢はましと思ひしものを紅人手一つ拾ひて帰りこしかな

 鎌倉の様な処へ出養生に行つてゐる少女の歌である。逢へるだらうと思つた何時も逢ふ人に今日は逢へず、その代りに紅人手を一つ拾つて帰つてきたが、その物足りなさ。自分の知らぬ間に私はあの人を思ふ様になつてゐたのであらうかなど自問する場合であらう。

峯々の胡粉の桜剥落に傾く渓の雨の朝かな

 これも塩原の朝の小景。散り際の一重の深山桜が峰々にあちこち残つてゐる、それに雨が降りかかつて渓に散りこむ姿は塗つた胡粉のぽろぽろ剥げてゆく感じである。それを「胡粉の桜」と直截に云つた所がこの歌の持つ新味である。

石七つ拾へるひまに我が心大人になりぬ石捨ててゆく

 少し道歌の気味はあるが、人間の欲望の哲学が平易に語られてゐるので捨て難い歌だ。人間は生長するに従つて欲望に変化を来し、最後に無欲を欲するに至つて人格が完成する。欲望とは独楽のやうなものだと云ふ人があるが、この歌ではそれが七つの石――何の役にも立たぬ石ころ――になつてゐる。

いと寒し崑崙山に降る如し病めば我が在る那須野の雪も

 九年の正月那須で雪に降りこめられその中で俄に重態に陥つた時の作。病床から硝子戸越しに降りしきる那須野の雪を見て居ると寒さが身にしみ入る様で、西蔵境の崑崙山脈に降つてゐる雪の様に感ぜられる。氷点下何度といふ代りに標高一万米突の崑崙山を持つて来たわけもあるが、「病めば我がある」といふ件、重態に落ちた体験の持主なら容易に同感出来る境地である。私も若い時冬の最中寒い大連で生死の境に彷徨し同じ様な心細さを感じたことがあつた。

紫に春の風吹く歌舞伎幕憂しと思ひぬ君が名の皺

 昔の劇場風景。昔の芝居は朝から初まり幕合が長かつた。快い春風が明け放たれた廊下から吹き込んで引幕に波を打たせる、それは構はないが、大事の君の名の所に雛が寄つて読めなくなるのが悲しい。大きくなつた半玉などの心であらうか。

那須野原吹雪ぞ渡る我が上をそれより寒き運命渡る

 この時は大分の重態で御本人も寛先生も死を覚悟された模様であつた。この歌にもそれがよく現はれてゐる。那須野原吹雪ぞ渡るといふ調べの荘厳さは死そのものの荘厳さにも比べられるが、一転してそれより寒き運命渡ると死に向ふ心細さを印し以て人間の歌たらしめてゐるのであるが、蓋し逸品と称すべきものの一つであらう。

人捨つる我と思はずこの人に今重き罪申し行なふ

 人捨つるは人を捨てるの意であらう。人を捨てることの出来るやうな残酷な強情な私とは思ひません、ですからどこまでも捨てずに行きます、しかしこの度のことは何としてもただでは許せません、これから重い刑を申し渡しますからその積りでおいでなさい。要するに口説歌とでも解すべき、抒情デテエルであるが、これも新古今辺から躍出して多少とも新味のある明治の抒情詩を作り出さうとした作者の試みである。

雪積る水晶宮に死ぬことと寒き炬燵となど並ぶ[#「並ぶ」は底本では「茲ぶ」]らん

 私は今雪の降り積る水晶宮の中で氷の様な冷い神々しい感じで静かに死んでゆく。それだのにその側に那須温泉の寒さうな炬燵が置いてある、どうしたことであらう。これは恐らくは実際に見た重病人の幻像であらう。

昔の子なほかの山に住むといふ見れば朝夕煙たつかな

 明治の末年故上田敏先生が大陸の象徴詩を移植しようとして訳詩の業を起され、当時の明星が毎号之を発表してそのめざましい新声を伝へたことがある。それらは後にまとめられて海潮音一巻となつた。この訳詩は、上田さんの蘊蓄がその中に傾けられたとでも言はうか、その天分が処を得て発揮されたとでも言はうか、実に見事な出来で、寛先生の数篇の長抒事詩以外日本の詩で之に匹敵するものはないと私は信じてゐる。私は今定形詩に就いて云つて居るので、律動のみの自由詩には触れない言である。この海潮音は当時私達新詩社の仲間に大きな感激を齎らし、他から余り影響を受けない晶子さんとて免れるわけはなかつた。この歌などがその現はれではないかと思ふ。斯ういふ現実放れのした歌は、その後我々の方でも余り作られなくなつてしまつたが惜しいわけである。自縄自縛といふことがあるが、現在の歌作りがそれである。

白山に天の雪あり医王山(いわうさん)次ぎて戸室(とむろ)も酣の秋

 昭和八年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。白山は加賀の白山で、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山これも冬景色に近い、次が前の戸室だが、ここは今秋酣で満目の紅黄錦のやうに美しい。三段構への秋色を手際よく染め上げた歌。

見えぬもの来て我教しふ朝夕に閻浮檀金の戸の透間より

 閣浮檀金とは黄金の最も精なるものの意であらう。詩を斎く黄金の厨子があつて、その戸の透間から目に見えぬ詩魂が朝に晩に抜け出して来ては私に耳語する。その教へを書きとめたものが私の歌である。さういつて大に自負したものの様に思へるが、果してどうか、別に解があるかも知れない。

美くしき陶器(すゑもの)の獅子顔あげて安宅の関の松風を聞く

 昔は海岸にあつた筈の安宅の関が今では余程奥へ引込んでゐると聞いてゐる。その安宅の関へ行かれた時の作。そこに記念碑でも立つてゐて九谷焼の獅子が据つてゐるものと見える。天高き晩秋、訪ふものとてもない昔の夢の跡に松風の音が高い。それを聞くもの我と唐獅子と。

いそのかみ古き櫛司[#「櫛司」はママ]に埴盛りて君が養ふ朝顔の花

 これも写生歌ではないと思ふ。詩人が朝顔を作るとしたらこんな風に作るだらう、またかうして作つて欲しいといふ気持の動きが私には感ぜられる。そこがこの歌の値打ちである。

秋風や船、防波堤、安房の山皆痛ましく離れてぞ立つ

 昭和八年の秋、横浜短歌会席上の作。空気が澄んで遠近のはつきり現はれた横浜港の光景である。その舟と防波堤と安房の山との間に生じた距離が三者の間のなごやかな関係を断ち切つて、離れ離れに引き離してしまつた。その離散した感じが作者の神経に触れて痛ましい気持を起させたのである。

誓言わが守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る

 我々がまだ若かつた時分、パンの会の席上であつたと思ふが、寛先生が内の家内は魔物だと冗談の様に云はれた言葉を、印象が強かつた為であらう、私は遂に忘れなかつた。この歌で見ると、それは夫である寛先生の見方であつた許りでなく、夫人自身が自らさう思つて居たらしい。勿論いつもいつも魔であられては堪らない。神様の様な素直な大人しい女である時の方が多く、それは誓言を守つて居る時であるが、少しでもそれを忘れると本来の魔性があらはれて猛威を振ふことになる、又晩年の作にこんなのもある。 我ならぬ己れをあまた持つことも魔の一人なる心地こそすれ

わが梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと

 これは昭和八年二月寛先生六十の賀――梅の賀が東京会館で極めて盛大に行はれた時の歌で、草紙はいふ迄もなく源氏物語、二条の院は紫の上を斎く若い源氏の本拠。そこに咲いた紅梅の様に盛大であつたと喜ぶのであるが、その調べの高雅なこと賀歌として最上級のものである。

心先づ衰へにけん形先づ衰へにけん知らねど悲し

 心が先に衰へれば心の顕現したものに外ならぬ形の従つて衰へるのは理の見易い所である。しかし反対に形が先に衰へても、それが鏡などで心に映れば心もそれに共感して衰へ出すであらう。私の場合はどちらであらうか。はずまなくなつた心が先か、落ち髪がして痩せの見える形が先か、それは分らない、しかし悲しいのはどちらも同じことである。

梅に住む羅浮の仙女も見たりしと君を人云ふ何事ならん

 羅浮の仙女とは、隋の趙師雄の夢に現はれて共に酒を汲んだ淡粧素服の美人、梅花の精で、先生も若い時分には羅浮の仙女にも会はれたことだらうといふ話を人がして居るが何のことだらうととぼけた歌。之も前と同じ時の賛歌で同じく梅に因んでの諧謔である。めでたく六十にもなつたのだ、若い時があつたといふ証拠のやうなそれほどの事を今更誰が咎めませうといふ心であらうか。

先に恋ひ先に衰へ先に死ぬ女の道に違はじとする

 女庭訓にあるやうな日本の婦道を歌つたものでも何でもない。私はかう思ふ。この頃しきりに髪が落ち目のふちに小皺が見え自分ながら急に衰へを感じ出したが、さてどうにもならないといふ時、自分に言つて聞かせる言ひ訳だらうと思ふがどうであらうか。

秋寒し旅の女は炉になづみ甲斐の渓にて水晶の痩せ

 秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

一端の布に包むを覚えけり米(よね)と白菜(しらな)と乾鮭(からさけ)を我

 世話女房になりきつた巾幗詩人の述懐であるが、流石に明治時代は風流なことであつた。今なら「こめ」「はくさい」「しほざけ」と云ふに違ひない。

いつまでもこの世秋にて萩を折り芒を採りて山を行かまし

 伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。島谷さんの抛書山荘から歩いて行ける。この歌の舞台で、奈良の三笠の山を大きくし粗野にした景色である。終日山を行つて終日山を見ず、萩を折り芒を採つてどこまでも行きたい様な心持を作者に起させたに違ひない。

表町我が通る時裏町を君は歩むと足ずりをする

 足ずりをするは悔しがることである。事余りに明白なので解説の必要もないが、その表象する場合は数多くあらう。誰でも一度や二度覚えはあらうから読者は宜しく自己の体験に本づいて好きな様にあてはめて見るべし。歌が面白く生きて来るだらう。

黄昏に木犀の香はひろがれど未だつつまし山の端の月

 夕方になると木犀の香は一層高くなり遠くへもひろがる。空気の澄んだ湖の家のこととて尚更いちじるしい。その強烈な匂ひに対して山の端に出た三日月のこれはまたつつましいこと、形は細く色は淡い。作者は人の気のつかない色々の美を、その霊妙な審美眼を放つて瞬間的に之を捕へ、歌の形に再現して読者に見せてくれる為に生きてゐた様な人であるが、対照の美をいはゞ合成する場合も往々ある、この歌などがその例で、これは自然の知らない作者の合成した美である。

水無月の熱き日中の大寺の家根より落ちぬ土のかたまり

 天成の詩人も若い頃即ち修養時代には色々他の影響を受ける。この歌には蒲原有明さんの匂ひがしてゐる。ある近代感を現はさうとした作で、この人には一寸珍しい。

天草の西高浜の白き磯江蘇省より秋風ぞ吹く

 昭和七年九月、九州旅行の最後の日程として天草へ廻られた時の作。西高浜の白砂に立つて海を見てゐると快い初秋風が吹いて来る。対岸の江蘇省から吹いてゐるのだから、潮の匂ひの中には懐しい支那文化の匂ひもまじつてゐるに違ひない。そんな心持であらうか。この歌も恐ろしくよい歌だが、同じ秋風の歌でこれに負けない寛先生の作がある。私は一度ある機会に取り出して賞美したことがあつたが、序にも一度引用しよう。 開聞のほとり迫平(せひら)の松にあり屋久の島より吹き送る秋 前の天草が日本の西端なら、この開聞が岳は日本の南端で、その点もよく似てゐるがその調子の高いことも同じ程で何れもやたらに出来る種類の歌ではない。

水隔て鼠茅花の花投ぐる事許りして飽かざらしかな

 幼時を思ひ出した歌。斯ういふ種類の歌には余りよい歌はない、その中でこの歌など前の鏡の歌と共に先づ無難なものの一つであらう。

天草の白鶴浜の黄昏の白沙が持つ初秋の熱

 これは何といつても天草であること、白鶴浜であることが必要で、房州の白浜辺の砂ではこれだけの味は出て来ない。固有名詞の使用によつて場所を明確にし、その場所の持つ特有の味、色、感じを作中に移植する方法は、作者の最も好んで用ゐる所であるが、この歌などはその代表的なもので、それに依つて生きて居るのである。

君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ

 これは勿論下の方の思はぬことも云ふあまつさへを言ひたい許りに出来てゐる歌で、この句によつて恐らく不朽のものとならう。外国語に翻訳されたら例へば巴里のハイカイといふ如き形を取つて世界的の短詩となるであらう。

巴浜、巴の上に巴置く岬、松原、温泉が岳

 これも天草の歌。温泉岳が見えるのだから東側の浜であらう。巴のやうな形をして居るのであらう、その巴の上に岬と松原と海を隔てた温泉岳が三つ巴を為して乗つてゐるといふのであらう。巴の字が巴の様に三つ続く所に音楽があつて興を添へてゐる。

翅ある人の心を貰ふてふ事は危し得ずば憂からん

 翅ある人とはキリスト教の天の使か羽衣の天女か何れでもよいが、うそ偽りのない清い心の持主を斥すのであらう。さういふ清い心を貰つて自分の心としたら如何であらう。危いことだ。この恐ろしい世の中には一日も生きてゐられないかも知れない。さうかと云つて貰はないことはなほいけない。汚い心で生きるのでは生甲斐もありはしない。何れも不可である、それが人間の真実の姿なのであつた。

牛の群彼等生くれど争ひを知らず食めるは大阿蘇の草

 晶子さんは人と争つたことがない、徹底的に闘争が嫌ひであつた。徹底した平和主義者であつた。その繊細な神経が暫時の不調和をも許さなかつたからである。阿蘇の大草原に放牧されてゐる牛の群の争ひを知らずに生きて居る姿に人生の理想を見た作者であつた。
 寛先生の発明であるが、私達は昔絶句と呼んで短歌に二音加へた新らしい形式を試みたことがある。即五・七・七の片歌に短歌の下の句を加へたものとも見られ、又は片歌を二つ重ねた旋頭歌の第四句の五音を削つたものと見てもよい、五・七・七・七・七といふ形である。七が重るので七絶から思ひ付いて絶句と呼んだのでもあらうか、故大井蒼梧君がある日席上で作つたのに斯ういふのがあつた。 天地に草ある限り食ふと大牛よい哉その背我に貸さずや 席上大に賞讃を博したものなので未だに覚えてゐるが、同君も基督教徒の平和主義者であつた。牛と平和とはよく同調する。

いみやらんわがため恋しき人生みし天地思ひ涙流るゝ

 あの人を恋した許りにこんなに苦しんでゐる。私の為には悪人であるあの人もいつの日か天地の生んだものである事を思ふと私を生んでくれた同じ天地が恨めしくなる。もし天地があの人をあの時生んでくれなかつたらこんな悩みもなかつたであらうと思ふと悔しくて涙がこぼれる。

石は皆砒素を服せる色にして河原寂しき山の暁

 上野原を流れる桂川の河原である。砒素を毎日少しづつ呑むと肌の色艶がよくなつて若返るといはれ、欧洲の女優などが試みるさうである。河原の石のつやつやしたしかしどことなく寂しい色をした山の暁である。砒素を服した様な色だといへば少し心持が出る。いくらつやがあつても元来毒である。しまひには毒に中つて死んでしまふ色であるから寂しいのであらう。

昨日わが願ひしことを皆忘れ今日の願ひに添ひ給へ神

 我が儘勝手な願ひであつて、恋愛の本質亦然り、それを歌ふ抒情詩の内容も同じやうなものであらう。そこが面白いのである。義理、人情、宗教、道徳から解放された自由な人間活動がその中で行はれるのである。

倶忘軒百歩離れて我れ未だ世事を思はず桜散り敷く

 熱海の藤原さんの別墅を尋ねた時の光景。満開の桜があまり見事なので荘を離れて百歩いまだ世事を思ふ暇さへなく桜吹雪に吹きまくられてしまつたといふのである。倶忘軒は亭の名であらう。又同じ桜花の光景が 断崖(きりぎし)に門(もん)あり桜を霞這ひ天上天下(てんじやうてんげ)知り難きかな とも歌はれてゐる。

子等の衣皆新しく美くしき皐月一日花菖蒲咲く

 晶子さんは学者として論客として女性解放者として教育者として各方面に女らしくない大活動を転囘した人であつたが、その本質はやはり抒情詩人であつた。何よりの証拠はその衣装道楽である。女らしさと芸術家気質とが混合したものであらう。従つて少しでも余裕が出来れば御子さん方の衣類も新調されたであらう。従つて斯ういふ歌が出来るわけだ。子供達が新らしい著物を著る衣替への心持と花菖蒲の咲くメイデイの心持との快い共鳴と同時に母親としての満足もよくあらはれてゐる歌である。

小室山黒髪の夜となりにけり雨は梅花の油なりけん

 早春の雨が降つて寒さのゆるんだ心持を歌つたもので、小室山は川那ホテルの上の草山。女の黒髪の様な艶に柔い夜が小室山を包んでしまつた。先程の雨は髪の油ででもあつたのだらう。梅花の油は椿の油に梅花の匂ひをつけた香油の意であらう。しかしこの梅花を点じた所に早春の気持が覗いて居るのである。

おどけたる一寸法師舞ひ出でよ秋の夕の掌(てのひら)の上

 をかしみ多く歌つてはあれど、底には秋の夕のやるせない心持が流れてゐる様に響く。一体おどけた歌の少い人であるからこれなどは珍しい方だ、この外にも前の句を思ひ出せないが、あとの句は 御名は鳥帽子ゆらゆらの命 といふのがあつた。

掌に峠の雪を盛りて知る涙が濡らす冷たさならず

 物を規定するのに大抵の人は正攻法を用ひ肯定的にやる、それ故に微に入り細に入る時は忽ちつかへて匙を投げてしまふ。然るに逆に搦手から否定的に行くと案外旨くゆくものである。作者はこの呼吸をよく知つて居る。この雪の冷さを肯定的に規定することは短い歌のよくする所でないが、この歌の様にやれば随分細かい温度の差まで相当明白に表現することが出来る。それ許りでない、涙の温度迄知れるといふ副産物さへあるのである。

ある時のありのすさびも哀れなる物思ひとはなりにけるかな

 今の歌の様でもない、昔からある詠み人知らずの名歌のやうな歌である。或はこれに似たものが多くの中には一首位あるかも知れない。なぜならこれほどの体験は誰にでもあることで、従つて一人位は歌つただらうと推定し得るからである。作者の歌としては寧ろ凡作に属するものであらうが、それにも拘らず、普遍的実相に触れた小さなクラシツクとして存在の価値はありさうである。

雪ぞ降る人磨くべき要無きか越の平の白玉の山

 雪の名所上越線湯沢の光景である。あとからあとから雲が降つて白玉の山はむやみに上へ許り高くなつてゆく。一体それで宜しいのか、形をととのへ白玉をして光あらしむるには折々磨いてやらねばならないのではないかと反問しそれによつて前景を彷彿させるのであるが、さういふ反問の出るのは同時にやむにやまれぬ芸術心の現はれたものでもある。

わが肱に血塗るは小き蚊の族もすると仇を誘ひけるかな

 私のけんまくが少しあらすぎた為か、君の気勢がさつぱり上がらず、抵抗もなく反能もなく反撃もない。これでは劇は進行しない。私はしまひにかういつてやつた。私の血で肱を塗る位の事は蚊でもやつてのけますよ。それを大の男がこれだけ攻撃されて手だしをしないとは如何した事です、どこからでも突いて御いでなさい、女の赤い血を出して見たいとは思ひませんかとこれでもかといふ風に敵慨心を刺戟して見ました。

月出でて昼より反(そ)りし心地すれ鈴虫の啼く三津の裏山

 いつであつたか三津浜の五松山荘に行つた時の作。私もこの時には御伴をした。残暑の酷しい折で裏山の叢で鈴虫が鳴いてゐた。か細い夕月が出て居た。著いて風呂から上がつた時の光景である。三ヶ月を昼から反つて居たやうに思ふといふことであるが、これなどは霊感に近い詩人の直覚によらなければ出て来ない考へである。

男来て狎れ顔に寄る日を思ひ恋することは懶くなりぬ

 恋にも上中下何階かの品等がある。雨夜の品定めの如きも未だその全貌を尽しては居まい。その最下級のもの、それが最も多い場合なのであらうが、ふとそんなまぼろしが浮んだ、男がなれなれしく寄つてくる、ああいやなことだ、そんなのも恋なら、恋などしたくもないと云つた心であらうか。又は、恋をしてもよいと思つて居る男ではあるが、あの男とてそのうちに狎れ顔に寄つてくるのではないか、さう思ふと進んで恋をする気にはならなくなる。こんな風にも取れる。

初蛙淡路島ほど盛り上る楓の下に鳴く夕かな

 楓の若葉が独り盛り上がる様な勢で、行く春の庭を圧倒してゐる心持を須磨から見た淡路島の感じで表現したすばらしい出来の歌である。前にも 青空の下に楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな といふ歌を出したが、初夏を代表するものとしてはやはり楓の若葉が一番であらう。

憂き指に薄墨散りぬ思ふこと恨むことなど書きやめて寝ん

 日記など書き出したが筆もつ指に薄墨が散つた。ああこの可哀さうな指、朝から色々のことに使はれて労れてゐるだらう可哀さうなこの指をこの上労するには忍びない。墨でよごれたのをよい折に書かうと思つた考へや恨みごとなどは止めにして寝ることにしよう。

下総の印旛の沼に添ふ駅へ汽車の入る時散る桜かな

 うしろに漫々たる印旛沼を控へ白い雲の様に見える満開の桜が、入つた汽車のあふりではらはらと散つた田舎の小駅の光景が捨て難く、三里塚へお花見に行つた時序に読まれたものであるが、歌も亦捨て難い。この時の三里塚の歌の中には 四方より桜の白き光射す総の御牧(みまき)の朝ぼらけかな などいふ佳作もある。

たをやめは面変りせず死ぬ毒といふ薬見て心迷ひぬ

 心中の情景でもあらうか。この薬は青酸カリか何かであらう。一寸見はただの塩の様なものだ。それを男から見せられた。もとより覚悟の前であるから心動ぜず面変りもしなかつた。唯その薬が余り他愛ないものなので、反つてこんなものを呑んで果して死ねるのだらうか、もし死ななかつたら如何だらうと心が迷つたのみである。一応こんな風に説いて見たが余り自信はない。或は象徴詩かも知れない。又さうでもなく心中とは全然無関係のものかも知れない。

麻雀の牌の象牙の厚さほど山の椿の葉に積る雪

 この雪は伊香保の正月の雪であるが、この歌はそんなことに一切触れず、反つて麻雀牌に張つてある象牙の厚さを寸法として椿の葉に積つた山の雪の厚さを測定してそれだけで恐ろしい程の印象を与へるのである。

長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする

 若い時代の歌の内、最も平和な最も幸福な而してまた最もプラトニツクなものを求めたらこの歌が出て来るだらう。歌の中の人物の為に私は今更めて乾杯したい。時是昭和二十一年クリスマスイイヴ[#「イイヴ」はママ]。

二荒山雲を放たず日もこぼれ雨もこぼるる戦場が原

 男体白根は雲中に出没し、戦場が原は秋霧が渦を巻いて白け渡り索漠たる光景を呈してゐる。それでも霧の去来する僅の間隙から日光のこぼれることもあり、又反対に濃い霧が来た時は雨になつてばらばら零れることもある。併し何れも零れる程度だと省筆を用ゐて霧を抒した歌である。

君に文書かんと借りしみ吉野の竹林院の大硯かな

 竹林院に泊つた人の話によると大硯があるさうだといつであつたか何かの話の序に誰かそんなことを云ひ出して大笑ひをした事があつた。この歌は蓋し調子がいいからであらう、それ程即ち「大硯」が供へつけられる程有名な歌であつた。今読んで見ても実に調子がよい。名調子とでも云ひたい位だ。

もろもろの落葉を追ひて桐走しる市川流の「暫」のごと

 落葉の歌は世間にも随分多いし、この作者も実に沢山作つてゐる。しかしこの「暫」の様なのは二つとない。その見立ての凄さ、地下の団十郎も舌を巻くであらう。

はかなごと七つ許りも重なれば離れ難かり朝の小床も

 つまらない頼りにもならない様なことでもそれが七つも重ると自ら意味も生じ頼もしさも出て来てはかないながらそれらしい形が具つて来る。そんなわけもないまぼろしを追ふ許りにつひ朝の床も離れにくくなる。しかし幾ら重つてもはかなごとは遂にはかなごとなのであらうが。こんな風に考へて見たがこれでよいとも思へない。誰でも別に考へて見て下さい。

木枯しす妄語戒など聞く如く君と語らずなりにけるかな

 五戒十戒何れの戒にも妄語戒はある。外には木枯しが吹いてゐる。木枯しの声は厳しい。妄語戒のやうだ。薄い舌でべらべら口から出任せの□を一夏しやべり続けた罰に凡ての木の葉を打ち落してしまふぞといふ木枯しの妄語戒は厳しい。さう思ふと君と話すことさへ憚られ、つい言葉少なになつて行つた。

逆に山より水の溢れこし驚きをして我は抱かる

 初めて男に抱かれた時の感じはこんなものであらうと女ではないが分る気がする。この歌がなければ遂に分らなかつたかも知れないから、読者の情操生活はそれだけ豊富になるわけだ。よい歌の功徳である。

霧積の泡盛草の俤の見ゆれど既にうら枯れぬらん

 霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。しかし秋も既に終らうとしてゐる今頃はとうにうら枯れてしまつたことだらう。蓋し凋落の秋の心持を「泡盛草」に借りて表現するものであらうか。

左右を見後ろを見つつ恋せよと祖のいひしことならなくに

 四方八方見廻しながら注意深く恐る恐る恋をしろなどと私達の祖先はそんな教訓は残して居ません、それだのに如何でせう、私の態度はそんな教訓でも残つてゐて、それに従つてでも居るやうではないか、何といふ恥知らずなことであらう。

いと親し疎しこの世に我住まずなりなん後も青からん空

 十年後私が死んで地上に居なくなつた場合の秋の空を思ふと、やはりけふの様に青い事だらう、さう思つて改めて空を見ると、空の青さが親疎二様に見えて来る。親しいのは今の青。親しくないのは後の青。

よき人は悲しみ淡し我がどちは死と涙をば並べて思ふ

 善人賢人の悲しみを見るに淡々として水の様だ。それに対して我々のそれは如何かと云ふと、涙の隣に死が並んでゐる。悲しむ時は死ぬほど悲しむ。これは作者晶子さんの飾らぬ衷情で、或一時期には悲壮な覚悟をさへしたことのある事実を寛先生の口から私は聴いてゐる。

風立てば錦の如し収まれば螺鈿の如し一本桜

 桜を歌つた歌はこの作者には特に多い。荻窪の御宅には弟子達の贈つた数本の大木の染井吉野もあつて、春ともなれば朝夕仔細に観察する機会が与へられた。この歌の如きもその結果の一つであらう。動静二相を物の形態を借りて表現せんとしたものであるが、螺鈿の静相はよく分る、静かなる螺鈿の如しと云つてもをかしくない。錦の動相は如何か。昔から紅葉を錦に譬へるが川を流れる紅葉の場合などは正に動相である。しかしこの場合の動相はそんなことではない。錦のきらきらする心、それが風にもまれる桜の心なのであらう。

神ありて結ぶといふは二人居て心の通ふことをいふらん


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