晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

 茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。

裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の侮り難しあきらめぬ蝉

 これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。諦めないといふことも斯くては侮り難い。東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に 山裾に汽車通ひ初めもろもろの蝉洗濯を初めけるかな といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては もろともに引き助けつつこの山を越え行く虫の夜の声と聞く といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。

恋人は現身後生善悪(よしあし)も分たず知らず君をこそ頼め

 ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向(ひたむき)な心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。

松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁

 下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。こんな歌は、いくら作者でもさう沢山は出来ないと私は思ふ。その一読之亦何の奇もないところに高手の高手たる所因が存するのであらう。清水のやうな風味が感ぜられる。

形てふ好むところに阿ねるを疚しと知りて衰へ初めぬ

 女は己れを愛するものの為に形づくるといふ教へもあり、麗色は君の好む所であり我が好む所でもある。しかし容色の上に私達の愛は成立してゐるのではない、もつと精神的なつながりであり、全身全霊を以てするものである。だから、容色を整へる為に憂き身をやつすのはどうも面白くない。さういふ考へになつたため我が身に構はなくなつたり急に衰へてしまつた、困つたことになつてしまつた。表の意味はその通りであらう。しかし実は我が身の衰へ初めたのを気にして、それはきつと構はなくなつた為でその外に理由はないのだと自ら言ひわけをする心持を歌つたのではなからうか。

筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し諏訪蓼科は立縞の雨

 十年の八月八ヶ岳の麓の蓼科鉱泉に行かれた時の歌。夏の山の雨が立縞のやうに音を立てて降つてゐる。しかし西の空、その下は筑摩川が流れ、伊那の渓谷が横たはり安曇の連山の起るその西空には真赤な雲が出てゐる。周囲身近かな現象と山国信濃の大観とを併せ抒した素晴らしい歌である。

なほ人は解けず気(け)遠し雷の音も降れかし二尺の中に

 君と我との隔りは僅に二尺しかない。それに私の出来るだけのとりなしはして見たが、まだすつきりと心が解けない、そして寂しいうとましいこの場の空気は晴れようともしない。ええ一そのこと夕立がして私のきらひな雷でも鳴るがよい。さうすれば局面が展開されよう。それを二尺の間隔へ雷の音が降るとやつたきびきびしさはいつものこととは言へ感歎に値する。

荷を積める車とどまり軽衿(かるさん)[#「軽衿」はママ]の子の歩み行く夕月夜かな

 カルサンは即ち「もんぺ」で今では日本国中穿たざる女もないが、この間までは山国の女だけしかしなかつた。その「もんぺ」を穿いた女が、着いたトラックから降りて自分だけの荷を担いで夕月の中を我が家へ帰つてゆく。それを作者はなつかしさうに見送つてゐる。これも八ヶ岳山麓の月のある夕の小景で、カルサンといふ洵に響きのよい舶来語を使つて昔のもんぺ姿を抒してゐるのが面白い。今や漸く一般化した婦人の労働服をあらはす言葉としてこれを使つて見たら如何だらう。

わが鏡撓(たわ)造らせし手枕を夢見るらしき髪映るかな

 鏡に写つた我が黒髪には紛ふ方なき大きな撓が出来てゐる、その撓を見てゐると影の形に添ふ様に之を造らせた手枕の形が現はれる、さうして鏡は、私が今しがた迄手枕をして横になり物思ひにふけつてゐたのだといふことをはつきり示してくれる。私はその間何を思つてゐたのだらうか。先づそんな様な趣きの歌ではなからうかと思はれる。作者はここでも例によつて我が黒髪をさへ擬人して夢を見させてゐる。

山の霧寂滅為楽としも云ふ鐘の声をば姿もて告ぐ

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響ありといふ、平家の書き出しから進んで道成寺の文句となり、甚だ耳に親しくなつてゐる鐘声にこもる四句の偈中寂滅為楽の妙境が鐘声といふ音楽に現はれる代りに、絵画的の姿、形をとつて現はれたものが目前の山の霧であつて、即ち仏法最後の涅槃境に外ならないのであらう。

夕には行き逢ふ子無き山中に人の気(け)すなり紫の藤

 夕方になれば人も通らない淋しい山の径だが、春が来れば紫の藤が咲く。それの艶にやさしい姿を見るとまるで人にでも逢つたやうで懐しい。作者の何にでも注がれる深い同情心がたまたま山中の野生ひの藤に注がれた一例である。

蓼科に山と人との和を未だ得ぬにもあらで物をこそ思へ

 わたしは山を愛して常に山に遊ぶ、山と人との調和の如きは、私の場合には、直ぐに出来て何の面倒も入らない。この蓼科でも同じことで私と山とは既にすつかり溶け合つてゐて、その間につけこむ空虚はないのである。それだのになほ物思ひに沈むのは如何したことだ。しかしそれは山の罪ではない、別に理由があるからだ。

木の下に白髪垂れたる後ろ手の母を見るなり山ほととぎす

 皐月が咲き蜜柑の花が咲くやうになると人里近くにも山ほととぎすが出て来てしきりに啼く。その声を聞いてゐると何の理由もなく年老いた母の姿が目の前にあらはれる。それは木の下に白髪をかき垂れ後ろ手をして立つてゐる姿だが、不思議なこともあるものだ。聴覚と視覚と相交錯し相影響する詩人の幻像であるからどうにもしやうがないが、歌が旨ければ読者はつり込まれてついそんな気になるのである。それだけでよいのであらう。

暗き灯を頼りて書けば蓼科も姥捨山の心地こそすれ

 山の中の電灯の火が恐ろしく暗い。その暗い灯の下で物を書いてゐると、ふと、この蓼科も今の世の姥捨山で年老いた自分はここに捨てられてゐるのだといふ気がして来た。全くありさうな連想でその頃の心の寂しさやるせなさがよくあらはれてゐる。

武蔵野は百鳥栖めり雑木の林に続く茅(かや)草の原

 この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうにかしましいものであつた。それを百鳥栖めりとやつたのである。

山寺に五十六億万年を待てと教へて鳴り止める鐘

 寛先生の百日祭がつゆ晴れの円覚寺で行はれた。恐ろしく蒸し暑い日で法要終了後帰源院で歌を作つたが、暑さに堪へないで外に出て鐘楼へあがつて諸人鐘を撞いた。それで当日は皆鐘の歌がある。これもその一つで、五十六億万年とは弥勒仏出現の日で、その日が来ればまた逢へるかも知れないからそれまでは待てといつて鐘が鳴り止んだ。山寺の鐘の教ふる所であるから正しいのであらうが、さりとては余りに長過ぎる話ではないか、とても待てさうにもない。

海底の家に日入りぬ厳かる大門さしぬ紫の雲

 これは海の落日を、日の大君のお帰りといふ程の心を晶子さん得意の筆法で堂々と表現したものである。日の入つたあとに紫雲が涌き出して厳かに大門を閉ぢるなど印度の経文にでもありさうだ。

笹川の流れと云ふに従ひて遠く行くとも君知らざらん

 越後の寺泊から北上して出羽に向ふ車中での作。一人淋しく辺土を旅する心がこんなによく現はれてゐる歌は少い。ただ静かに打ち誦して老女詩人の旅情に触れ、少しでも私達の魂を洗はせて貰はう。同じ時の作には 遠く来ぬ越(こし)の海府の磯尽きて鼠(ねず)が関見え海水曇る などがある。

自らの腕によりて再生を得たりし人と疑はで居ん

 もし私といふものがあつて此の人を愛してやらなかつたら、此の人はとうに死んで居たらう、少くとも精神的には。して見れば私は此の人を再生させた大恩人で誰もかなはない貴重な存在でなければならない。私はそれを疑はない、何も心配はしないといふのであるが、実は心許ない感じがあつての事であらう。

北海の唯ならぬかな漲るといふこと信濃川ばかりかは

 越後の寺泊で五月雨に降りこめられた時の歌。海さへ為にふくれ上つて信濃川の漲るやうな心持が北海の上にも見られた。それが作者には唯ならぬ様子として映つたのである。唯ならぬとは女の孕んだ時などに使はれる言葉で、さういふ気持がこの時にも動いてゐる。

君乗せし黄の大馬とわが驢馬と並べて春の水見る夕

 春宵一刻千金とまでは進まぬその一歩手前の夕暮の気持を象徴的に詠出したものであらうか。男は黄の大馬――そんなものはあるまいが――に乗り女は小さいから驢馬に乗り、それが並んで川に映つてゐる。春の夕の心が詩人の幻にあらはれてこんな形を取つたのであらう。

寺泊馬市すてふ海を越え佐渡に渡さん駒はあらぬか

 今日は馬市が立つといふので表がざわめいてゐる。一躍して海を越え佐渡に渡すことの出来るやうな駿馬が多くの中には一頭位居ないであらうか。佐渡には旧友渡邊湖畔さんが蹲つて居られるが、私が突然行つてあげたら喜ばれるだらうになどいふわけである。

思はるる我とは無しに故もなく睦まじかりし日もありしかな

 初めの頃の事を思ふとまだ恋などといふ形も具へずに子供同志の何の理由もなく唯睦じく語り合つたのであつた。何時頃からそれが恋になつたのであらうか。それは兎に角としてさういふ初めの頃の事も懐しく思ひ出される。善良なやさしい非難の余地のない斯ういふ歌も作者はいくつか作つてゐる。

良寛が字に似る雨と見てあればよさのひろしといふ仮名も書く

 寺泊の海に降る五月雨を何とはなしに眺めて居るとそれが段々良寛の字に似て来た。良寛はこの辺りの人であるから、その事が頭にあつてこんな感じも出て来たのであらう。さて降る雨に良寛の字といつても雨の事だからせいぜい仮名であらう、それを書かせてゐるとそのうちによさのひろしといふ仮名の書かれてゐることをも発見したといふのである。何といふ面白い歌だらう。俗調を抜き去つた老大家でなくては考へも及ばない境地である。しかしこの仮名の署名は実際に故人によつても幾度か使はれたことのある字句だ。

天地(あめつち)のいみじき大事一人(いちにん)の私事とかけて思はず

 私の様な非凡人のする事は、それが一私人の私事であつても、それは同時に天地間の重大事件となり得るのである。私はさう思つて事に当つてゐる。君を愛する場合もその通り、これは私事ではありません、天地間の重大事件です、ですからその積りで御出でなさい。この歌は如何といふ場合にも当て嵌まるが、こんな風に取つても差支ないであらう。

山山を若葉包めり世にあらば君が初夏我の初夏

 故人に死に別れた年の初夏、始めて家を離れ箱根強羅の星さんの別荘に向はれ、傷心を青葉若葉に浸す事になつた時の作。去年までの世の中なら一しよに旅に出て心ゆく迄初夏を味はつたことであらうに、今年は一人強羅に来て新緑の山々に相対してゐる。唯一年の違ひが何という変り方だ。実際その前年も故人と共に塩原に遊んで、君の初夏我の初夏を経過してゐる位だから感慨も深い筈だ。

人ならず何時の世か著し紫のわが袖の香を立てよ橘

 前にも一度 rebers[#「rebers」はママ] した古今集の 五月待つ花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を本歌とすることいふ迄もない。「人」は他人の意で、昔の人と云はれて居るが、それは他人ではない、前生の私である、昔の人の袖の香とは、何時の世にか私の著た紫の袖の移り香のことである。歌の様にも一度立てておくれ、私はそれを嗅いで前生の若かつた日を思ひ出すことにしよう。私は古今集の中ではこの歌が最も好きだが、作者も亦好まれてゐるやうだ。

山に来てこよなく心慰めば慰む儘に恋しきも君

 家にあつて嘗めたこの四十日程の苦しさ辛さから逃れて山に来たが、柔い若葉の山を見ては傷ついた心もすつかり慰められる、さて慰められて見ると悲しいにつけ嬉しいにつけやはり恋しいのは君である。

語らねば夜離人(よがれびと)とも旅行きし人とも憎み添臥して居ぬ

 少し許り仲違ひをして物を言はぬ情景である。夜離れ人は平安語で、この頃女の許に通はなくなつた男、即ち今日も来ない男のやうに又は旅に出て行つてしまつた男のやうに憎んで、ここには居ないことにしよう、さうすれば物を言はぬこと位さして問題にするにも当るまい位のことであらう。

強羅にて蘆の湖見難きと見難くなりし君と異なる

 強羅から蘆の湖は見えない、見えないが山の後には確かにある、その証拠にぐるりと山を一廻りすればいつでも湖を見ることが出来る。しかし君を見ることの難しいのはそれとはわけが違ふ。山を廻らうが、秋が来ようが、再び見る由はない。斯ういふ風に一つの歌に一つの新味が盛られて居て飽くことを知らないのが作者の境界で珍重すべき限りである。

ひろびろと野陣(のぢん)立てたり萱草は遠つ代よりの大族(うから)にて

 萱草は恐ろしい繁殖力を持つ宿根車で忽ち他を圧倒し去り萱草許りの一大草原を為すことも珍しくない様だ。この歌はさういふ萱草の大草原を歌つたもので、花が咲いて真赤になつた光景を平家の陣とも見立て、何しろ上代からの大家族なのでそれも道理だといふのである。

人伝に都へ為べき便り無し唯病のみ宜しとも云へ

 心中の苦悩の如きは山の消息とは違つて人伝に伝へやうがない。帰つたら唯病気は少し宜しいと云つて下さい。言伝はそれ丈です。之も箱根の歌。

独り寝はちちと啼くなる小鼠に家鳴りどよもし夜あけぬるかな

 偶□君の留守に一人寝をする夜など、鼠が天井でちいちい鳴くのが、家鳴り鳴動するやうに耳を刺戟し、おちおち眠ることもならず、遂に夜が明けてしまふ。をかしいほどの弱虫だが、事実はさうなのだから仕方がない。

紫の乾くやうにもあせて行く箱根の藤に今は似なまし

 一人になつたこれからの私のあるべきやうは。それは唯この箱根の藤の花の、時過ぎては乾くやうに日々少しづつ衰へて行けばそれでよいのであらう。

遠き火事見るとしもなきのろのろの人声すなり亥の刻の街

 火事は一つばんで遠い。それにも拘らず、火事とさへ云へば見えても見えずとも飛び出して見るのが街の人だ。遠いので話し声も一向弾まないが、これが今夜午後十時の街の光景である。冬になると毎晩半鐘を聞いた昔の東京の場末の情調がよく出て居る。

足柄の山気(さんき)に深く包まれてほととぎすにも身を変へてまし

 ほととぎすを不如帰と書くのはその啼き声の写音であらうが、帰るに如かずといふ言葉の意味から色々支那らしい伝説が生れ、ほととぎすに転身して不如帰不如帰と啼く話なども出来てゐる。そんなことも或はこの歌のモチイフになつて居るかも知れないが、初夏の山深い処で直ちにその啼くのを聞いたら、傷心の人誰も血に泣くほととぎすに為り度くなるであらう。しかしこの歌の響きは必ずしもそんな血涙数行といふ様な悲しいものではない。むしろ前三句の爽快な調子が、伝説的悲劇性を吹き飛ばしてゐるので、反つて明朗なすがすがしい気分のほととぎすが感ぜられる許りである。

まじものも夢も寄りこぬ白日に涙流れぬ血のぼせければ

 明るい真昼間、何の暗い影もない白日の下で、涙が溢れるやうに出て来るのは如何したことであらう。虫物(まじもの)のせゐでも夢のせゐでもあり得ない。血が頭に上つたからだ、外にわけはない。それならなぜ血が上つたのか、答ふるにも及ぶまい。

許されん願ひなりせば君が死をせめて未来に置きて恐れん

 この歌の値打ちは最後の「恐れん」の一句にある。この考へは遂に常人の考へ及ばざる所で、一人晶子さんに許された天恵のやうなものだ、これあるが為に歌が生きて来るのである。君の死を未来に置きたい位は誰も望む所であるが、置いて恐れようとは普通は考へないのである。既に恐れようといふのであるから、未来へ持つていつても現在に比しそれほどよいことにはならない。そこで許されん願ひなりせばと大袈裟にはいふものの、無理なえて勝手な願ひでも何でもない、今と大した変化を望んではゐないことになる。非望は人の同情を惹かない、もし「恐れん」がなかつたら非望になるのである。この歌の生命を分解すると先づこんなことにならうか。

ほととぎす東雲時(しののめどき)の乱声(らんじやう)に湖水は白き波立つらしも

 これも赤城山頂の大沼などを想像しての作であらう。山上の初夏、明方ともなれば、白樺林にはほととぎすが喧しい位啼き続けることだらう、その声が水に響いて静かなまだ明けきらぬ湖水には白波が立つことだらう。作者はこんな想像をめぐらして楽しんでゐる、而してそれを歌に作つて読者に頒つのである。

宮の下車の夫人おしろいを購ひたまふさる事もしき

 多分同行の近江夫人が先に帰られるのを送つて宮の下まで車で行かれた時、作者が降りると夫人も降りて、序に店へ入つて汽車中の料にする積りか何かの白粉を買つたのであらう。それを見て嘗ては私もこんなこともしたのだと往時を囘顧したわけである。この歌の面白さは、しかし、買ふものが白粉である所に存するので、さういふことは優れた作者だけが弁へてゐる。

ませばこそ生きたるものは幸ひと心めでたく今日もありけれ

 生の喜びまたは生命の幸福感を詠出したものであらうが、そののんびりした調子に何となく源氏の君を迎へる紫の上のやうな心持が感ぜられないでもない。

山山が顔そむけたる心地すれ無残に見ゆる己れなるべし

 山を見るに、けふは如何したことか、どの山にも皆顔を背けたやうな形が見える。私の姿がけふは特にみじめに見える為、見るに忍びないのであらう。一種のモノロオグで、わが衰へを自ら怪しむ心の影が山に映じ山をして顔をそむけしむるのである。

椿散る島の少女の水汲場信天翁は嬲られて居ぬ

 伊豆の大島の様なのどかな風光を描出する歌。椿と、少女と、水の少い島にたまたま涌き出してゐる泉と、阿房鳥の信天翁と、これ丈の景物を絵具として描出した一枚の絵である。これを鑑賞するものは、果してそれらが旨く纏つて一個の小天地を成してゐるか如何か、それを調べて見るわけである。

ほととぎす雨山荘を降りめぐる夜もまた次の暁も啼く

 ほととぎすが一晩中啼く、それを作者は強羅の山荘で聞くのであるが、夜は大雨で山荘を中にとり囲む様な気持で降つて居る、その雨の音を衝いて甲高いほととぎすの声が聞こえる、[#「、」は底本では欠落]作者はそれを聞きながら寝てしまつた、夜が明けて目が覚めると雨はやんだがほととぎすはなほ啼いてゐる、恐らく一晩中啼いてゐたのであらう。この歌にはさういふ場合が特定されてゐるのである。

旅人は妻が閨なる床(ゆか)に栖む蟋蟀思ふ千屈菜(みそはぎ)の花

 旅人が留守する妻を思ふ歌の代表的なものの一つに軍王の 山越しの風を時じみ寝る夜落ちず家なる妹をかけて偲びつ といふのがある。上代人の単純な線の太い健康さの出てゐる歌である。当時私達は万葉集をしきりに研究した。晶子さんは別に理由があつて余り好まれなかつたが、それでも埒外には出なかつた。唯我々は他と違つて万葉をまねようとはしなかつた。しかし旅に出た男が家にある妻を思ふといふ様なテマのあるのは、やはり万葉を読んだ影響のあらはれでもあらう。しかしテマを万葉に仮りただけで、吾々の作る処は常に現代の歌であつた。而して万葉人などの夢にも想到しない繊度と新味とを出さうと努めたのであつた、作者は千屈菜の花の咲いてゐるのを見てふと蟋蟀の事を思つた。これは近代人の感覚である。併しそれはモチイフであつて詩即ち芸術品にはまだならない。この感じは何かに具象されなければならない、而してその場合が特殊なものであるほど芸術品としての値は高くなるわけである。そこで作者は先づその蟋蟀を閨の床下で啼くものに特定し、またその閨を夫を旅に出した妻の空閨に限定し、感覚の持主をその旅に出てゐる夫としたのである。さういふ段取りで一個の芸術品としてのこの歌が出来上る。これは私の勝手気儘な臆測であるが順序立てて考へるとこんな風にもなるかといふ事を歌を作る人の御参考までに記したに過ぎない。而してモチイフたる感覚が近代感覚であるので、結果も万葉の旅人の感情などとは丸で違つてくるのである。

ほととぎす明星岳によりて啼く姿あらねどさばかりはよし

 朝早く起き日の覚める様な青葉の色を楽しんでゐると、向ひの明星山でほととぎすが啼き出した。声はあるがほととぎすの常として姿は見えない。姿の見えないといふ事は故人の場合には既にこの世の中に居ないといふことを表はしてゐて、私はその為に日夜悲しんでゐる。然るにほととぎすの場合は姿が見えずともちやんと生存して啼いてゐるのだ。姿のないのもこの程度なら歎くにも当るまいに、私の場合はさうでないから困るのである。

白刃もて刺さんと云ひぬ恋ふと云ふ唯事千度聞きにける子に

 私の手には白刃があります、これであなたを刺す為に私は来ました。私は斯う云つてしまつた。何故ならその男は多くの女に思はれ、その度に I love you のノンセンスを千度も聞いたわけで、何の感じもあるまいと思つたからである。私の場合に限つてそれがどんなに他の友達の遊戯と違つてゐるかを初めから知らせる為であつた。しかしそれは冗談ではない。私としてはほんとうに刺し兼ねないのだ。作者の之を作つた時の気持の中にはこんな感じも少しはあつただらうか。

ゆくりなく君を奪はれ天地も恨めしけれど山籠りする

 寛先生の亡くなられたのは全く偶然の結果であつて罪は旅行にある。それ故に「ゆくりなく」といひ、天地即ち山川を恨むといふのである。君を奪つたのは天地であり自然の風光である、それを思へば恨めしいが、その恨めしい天地の恩を得るためにまた私が来て山籠りをする、[#「、」は底本では欠落]をかしいことがあるものだ。

素足して踏まんと云ひぬ病める人白き落花の夕暮の庭

 早く盛りを過ぎた桜が夕暮の庭を白く見せる程吹雪のやうに散つて居る。直り方の病人が出て来てそれを見て、ああ素足でその上を踏んで見たいなと云つた。家の中を歩くのが漸くでまだ外へは出ない病人のことだから、降りてあの柔かさうな落花を素足で踏んだらさぞ気持のよい事だらうと思うのは成るほどもつともだと作者の同情してゐる歌であらう。

足柄の五月の霧の香に咽ぶ君あらぬ後杜鵑と我と

 五月の若葉時の足柄は好天必ずしも続かず雨や霧の日も多い。その霧の足柄山を包んだ日にその中でほととぎすがしきりに啼き出した。君と共に咽ぶ筈の山の霧であるが君なき後とて図らずも杜鵑と二人で咽んでゐる所ですとあの世の人へ報告する心持も持つてゐるやうな歌である。

戸を繰れば厨の水に有明の薄月射しぬ山桜花

 昔はどこの家にも水甕といふものがあつて一杯水が張つてあつたものだ。朝起きた主婦が台所の戸を繰ると水甕の水から怪しい光が反射してゐる。それは有明の月の光のやうな明るさである。よく見ると外(そと)の山桜の花が映つてそれが光つてゐたのであつた。つまり春の朝の山桜の花の心が薄月の感じで表現されてゐるわけだ。

ほととぎす山に単衣(ひとへ)を著れば啼く何を著たらば君の帰らん

 山の初夏も稍進んで袷を単衣に著替へたらその日からほととぎすが啼き出した。今度何に著替へたら君が帰つてくるのだらう。一々の景物が一々心を掻き乱す種となつた時期の作。

喜びは憂ひ極る身に等し二年三年高照る日見ず

 心に大きな心配事を持つてゐる人は自分の頭の上に杲々と日が輝いてゐることなどは忘れてゐる。それはさうあるべきことだ。しかし私の場合はその反対で、喜びに溢れてゐるのであるが、この二年三年といふものやはり太陽など見上げたこともない。して見れば喜びも憂ひもそれが大きい場合には結果は同じである。物を対照させて効果をあげる一班の表現法があるがこれもその一例である。

ほととぎす虎杖(いたどり)の茎まだ鳥の脚ほど細き奥箱根かな

 青葉若葉に掩はれた早雲山の自然林は目が覚める様に美しいが、その下を歩いて根方を観察すると虎杖の茎などまだ鳥の脚の様に細い。さすがに奥箱根である。それだからほととぎすも啼くのだ。

鳥立(とだち)見よ荊棘(おどろ)のかげの小雀(こがら)だに白鷹羽(は)伸(の)す形して飛ぶ

 鳥の飛び立つ勢ひを見るがよい。籔蔭から飛び立つ小さな雀でさへ、白鷹の羽根を伸ばす形と同じ形をして飛び立つではないか。まして人間、為すあらんとする人間の出発だ、よく見るがよい、勢ひのよさを。先づこんな意味ではないかと思ふがはつきりは分らない。

山暗し灯の多かりし湯本とてはた都とてかひあるべしや

 さすがに山奥の庭は暗い。暗いので余計にものが思ひ出され悲しさも加はるやうだ。しかしそれだからと云つてここへ来る途に立ち寄つた灯の多くついた湯本へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じことだ。

花鎮祭に続き夏は来ぬ恋しづめよと禊してまし

「花鎮祭」は昔、桜の花の敵る頃、疫病を鎮める目的で神祇官の行つた神事。鎮花祭も済んでいよいよ夏になつた。それにつれて私の恋心も日ましに猖獗を極める、そこで今度は恋鎮祭です、そのため禊をして身を浄めませう。鎮花祭の行事の如きは忘られて久しい、作者が古典の中から採り出して之に新生命を吹き込む手腕の冴えいつもながら見事なものだ。

見出でたる古文によりやるせなく君の恋しき山の朝夕

 寛先生歿後書翰などの蒐集が行はれた。それを夫人は先に 亡き人の古き消息人見せぬ多少は恋に渡りたる文 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。その中の一通にひどく昔を思ひ出させるものがあつたのであらう。

河芒ここに寝ばやな秋の人水溢れてば君と取られん

 これも亦昔の秋の玉川の風景である。芒が暖かさうに秋の強い日射しを受けて真綿のやうに光つて居る。それを折敷いて寝たらさぞ気持がよからう。秋の水が溢れて来たらそのまま溺れてしまはう、君と一しよならかまはない。秋をテマにした軽快な情調である。

茫々と吉田の大人(うし)に過去の見えそれよりも濃く我に現る

 寛先生歿後、先生と晩年十五年間親交を続けた説文学者吉田學軒氏は五七日に当つて夫人に一詩を呈した。曰く。楓樹蕭々杜宇天。不如帰去奈何伝。読経壇下千行涙。合掌龕前一縷香。志業未成真可恨。声名空在転堪憐。平生歓語幾囘首。旧夢茫々十四年。夫人は直ちにこの詩の五十六字を使つて五十六首の挽歌を詠まれ寝園と題して公表された。何れも金玉の響きを発する秀什である。これからその内の幾つかを拾つて当時を偲ぶことにしよう。吉田さんには旧夢茫々とうつる過去も私の目にはもつと濃い形に現はれる。「それよりも濃く我に現はる」とは如何だ、日本語も斯うなると字面から光が射すやうだ。

ある宵の浅ましかりし臥所思ひぞ出づる馬追啼けば

 道を迷ひその内日が暮れてしまひ山小屋みたやうな所で仮寝をしたことがある。それを思ひ出した。灯を慕つて飛んで来た馬追が啼き出した為である。その夜も馬追がしきりに啼いてゐた。浅ましかりしとは云ふものの実は懐しい楽しい思ひ出なのである。

青空の下(もと)に楓の拡りて君亡き夏の初まれるかな

「青空の下に楓が拡がる」初夏の光景を抒してこれ以上に出ることは恐らく出来まい。それだけはじめての夏を迎へる寡婦の心持がまざまざと出て居る。

河烏水食む赤き大牛を美くしむごと飛び交ふ夕

 これも亦玉川の夏の夕らしい光景であるが、万有の上に注がれるこの作者の温かい同情がここでは河烏の上に及んで、牛を中心に一幅の平和境を形作らせてゐることが注目される。作者の自然を見るやいつもかうして同情心が離れない。それ故に景を抒しつつ立派な抒情詩となるのである。

我机地下八尺に置かねども雨暗く降り蕭かに打つ

 寛先生は如何いふわけか火葬が嫌ひだといふことなのでその感情を尊重して特に許可を受けて土葬にした。その為、多摩墓地の赤土に恐ろしく深い穴を掘つて棺をその中へ釣り降ろした。この歌の地下八尺はそれをいふのであるが、字面は木下杢太郎君の発明したものを借用したらしい。五月雨がしとしと降つて居る、世の中は暗い。丸で地下八尺の処に眠つてゐる君の側へ私の机を据ゑた感じだ。

わが心寂しき色に染むと見き火の如してふ事の初めに

 火の如き事の初めとは恐らく交歓第一夜を斥すのであらう。その時心を走つた一抹の寂しさがあつた、それを私は忘れることが出来ないといふのであらう。これは炉上の雪でなく、火の中の氷といふ感じで誰も恐らく味はつたのでは無からうか。

一人にて負へる宇宙の重さよりにじむ涙の心地こそすれ

 君と暮した四十年間十余人の子女を育てて私は重荷を負ひ続けて来た、しかし半ばは君に助けられつつ来たのである。今は一人で全宇宙を背負ふことになつたのであるから、その重さからでも涙はにじみ出るであらう。又ついで 業成ると云はば云ふべき子は三人他は如何さまにならんとすらん とも歎いて居られるが結果は一人の例外なくこれら凡ての子女をも女の手一つで立派に育て上げられたのであるから驚き入る外はない。

もの欲しき汚な心の附きそめし瞳と早も知りたまひけん

 君に対する時だけは少くも純真な心でありたいと心掛けて来たが、この頃はいつしか人間の本性が出て来てそれが色にも顕はれるやうになつた。敏感な君のことだからとうにそれに気づいて居られるのであらう。ああいふ御言葉が出るのもその為であらう。「どうしたらよからう、恥しいことでもある」先づこんなことでは無からうかと思はれるが、よくは分らない。

君が行く天路に入らぬものなれば長きかひなし武蔵野の路

 何時の日であつたか、皆で多摩墓地へ詣でた事がある。その帰途車がパンクして仕方なしにぽつぽつ歩き出したことがあつた。それによつて多摩に通ずる街道の真直ぐでどこまでも長いことを皆身にしみて経験した。君の辿られる天路へ之が通ずるものならこの長い長い武蔵野の路もその甲斐があるのだがと、この一些事さへ立派な歌材を提供したわけであつた。

来啼かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ

 愛情の最も純粋な優にやさしい一面を抽出して他を忘れた場合斯ういふ歌が出来る。糸の様な春雨が降り出した。それに今朝は鶯の声がしない、きつと雨を聞きながら巣の中で仲よく朝寝をして居るであらう。今日の様な世相からこんな歌の出来た明治の大御代を顧るとまるで□のやうな話である。

魂は失せ魄滅びずと道教に云ふごと魄の帰りこよかし

 人の生じて始めて化するを魄と曰ひ、既に魄を生ず、陽を魂と曰ふ(左伝)又魂気は天に帰し、形魄は地に帰す(礼記)とあつて古くは少し違つてゐるが、道教では精神を亡びる魂と亡びざる魄との二つに分けて魄は亡びないことになつてゐる。私は既成宗教を信じないからそんなことは如何でもよいが、この道教の言ひ分は俗身に入り易く信じ易い、そこで魄は亡びないといふことにしてそれだけでも帰つて貰ひたい。どんなに喜んで私はそれを迎へることだらう。

椿散る紅椿散る椿散る細き雨降り鶯鳴けば

 これは音楽である。春雨と鶯と椿とを合せるトリオである。唯その中では椿が飛び出して甲高い音を出してゐるわけで、それが頗る珍しい歌である。

いつとても帰り来給ふ用意ある心を抱き老いて死ぬらん

 心の赴くままに矩を越えざる哲人の境地はやがて寂しい我が家刀自の境地でもあつた。女史晩年の作の秀れて高い調子は斯る境地から流れ出す自然の結果で、諸人の近づく能はざる所以も亦ここに存するのであらう。

紫の蝶夜の夢に飛び交ひぬ古里に散る藤の見えけん

 ドガの描いたバレエの踊り子の絵を思ひ出して下さい。その踊り子達が絵の中から抜け出して舞台一面に踊り出したら、この歌の紫の蝶の飛び交はす夢の様な気分になるかも知れない。(ほんとうの踊り子は俗で駄目だ。)又古里に散る藤の見えけんと言つても上の夢の説明ではありません、別の夢を並記して色彩の音楽を続けたまでの事です。何の意味もありはしない。音楽の中から意味を探すこと丈はしない方が賢明だ。

亡き魄の龕と思へる書斎さへ田舎の客の取り散らすかな

 寛先生の葬儀当時の有様は雑誌「冬柏」を見れば窺はれるが、文壇から退かれて久しい割には極めて賑やかに進行し従つて采花荘[#「采花荘」は底本では「菜花荘」]の混雑も一通りではなかつた。先生の書斎だらうが何だらうが客で溢れてゐた。その際は仕方がないとしてもあとから出て来た人達の内誰かが多少の不行儀を繰り返したかも知れない。こんな歌の残つたことは少し残念だが、実はそれほどの事はなかつたやうだ。之は前記吉田さんの詩中にある「龕」といふ字を詠み込む為に作られた歌だからである。私はさう思つてゐる。しかし事実は如何であらうと、歌としては実に面白い歌だからここにも抜くのである。

浅ましく涙流れていそのかみ古りし若さの血はめぐりきぬ

 枕言葉などいふのんきなものを我々はめつたに使はなかつたが、この石の上だけは晶子さんが時々使つた。オオルドミスといふ程でもない古女の場合が考へられる。恋など再びしようとは夢にも思つてゐなかつた古女が、人の情にほだされてうかうか近づいて行つたが、或日その人の告白と強い抱擁とに逢つたやうな場合ではないか。止め度もなく涙が流れ出る一方久しく眠つて居た昔の若い血が突然目を覚まして心臓から踊り出す。涙はいよいよ流れて止まない。そんなことではないかと思ふが如何であらうか。

我死なず事は一切顛倒す悲しむべしと歎きしはなし

 昭和九年正月雪の那須で病まれた夫人は一時相当の重態であつたらしく、寛先生は痛心の余り血を吐く様な歌を沢山詠んで居られる、この悲しむべしと歎くといふのがそれである。例へば 妻病めば我れ代らんと思ふこそ彼の女も知らぬ心なりけれ 我が妻の病めるは苦し諸々に我れ呻(うめ)かねど内に悲む 世の常の言葉の外の悲しみに云はで守りぬ病める我妻 など殆ど助からない様な様相を一時は呈したらしい。その時死ぬべきであつた私が死なずに事は一切顛倒し、歎いたものが逆に歎かれるものになつた不思議な運命を直截簡明に抒し去つたものだが、純情に対する純情の葛藤であるから人心を打たずには置かない。

これ天馬うち見るところ鈍の馬埴馬の如きをかしさなれど

 これ作者の自負であらう。作者は若くしてその異常な本分を発揮した為世間も早くから天才女と認めて清紫二女に比べ、自分もそれを感じてゐた。しかし一面美しくもなし、話は下手だし、字は拙し(後には旨くなつたが)、才気煥発などとは凡そ縁の遠い地味な存在でもある。見た所鈍な馬であり埴馬の様なをかしい馬だが[#「だが」は底本では「だか」]、これでも一度時至れば空をゆく天馬になれるのだ。あんまり見くびつて貰ひ度くないといふのであらう。何か憤る所でもあつて発したものであらう。

在(ま)し在さず定かならずも我れ思ひ人は主人(あるじ)の無しとする家

 この家の主人は死んでしまつてゐないのだと他人は簡単に極めてしまつて疑はない。しかし妻である私はさうは思はない、半信半疑である、死んだやうでもあり、そのうちに旅から帰つて来さうでもある。他人の様に簡単に片づけられないのが妻の場合である。

麦の穂の上なる丘の一つ家隈無く戸あけ傘造り居ぬ

 恐らく昔の渋谷の奥の方ででも見た実景を単に写生したものであらうが、隈なく戸あけが旨いと思ふ、景色の中心がよく掴まれてゐる。

人の世に君帰らずば堪へ難し斯かる日既に三十五日

 如何かしてまた帰つて来るうな気がして毎日を送つて居るのだが、ほんたうにこの世へは帰らないのだとすればそれは堪へ難いことである。斯ういふ空頼めを抱いての日送りも既に三十五日になるが何時迄続くのであらう。

十三の絃弾きすます喜びに君も命も忘れける時

 恋愛を超え、生命を超えて芸術の三昧境に入る心持であるが、その場合音楽が一番適当なので昔のこと故十三絃の箏を選んだのであらう。実際晶子さんの琴を弾くのを聞いたこともなし、そんな話も聞かないが、琴の歌は相当多いから習はれたのではあらう。

源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず

 紫式部が源氏を書き出したのは夫に死に別れた後であるが、その年は若かつた。私も今一人になつたが、既に六十になる。大変な違ひだ。何が書けようか。といふのであるが、しかし作者は既にこの時には源氏の新々訳に着手して居たのではなかつたらうか。

雨の日の石崩道(いしくえみち)に聞きしよりけものと思ふ山ほととぎす

 雨中赤城登山の記念の一つであらう。負へる石かと子を迷ひといつたあの大雨の中で、石の崩れ落ちる山路で聞いたほととぎすは何としても猿のやうな形のけものの声としか思はれなかつた。その記憶があるので今でもほととぎすを聞くとそんな気がする。

移り住む寂しとしたる武蔵野に一人ある日となりにけるかな

 作者の設計に成る荻窪の家が落成して移られた当時の歌に 身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん 恋しなど思はずもがな東京の灯を目に置かずあるよしもがな など云ふのがあつて余程寂しかつたものに違ひない。何しろ荻窪の草分けで、東京へ通勤するものなどは一人も居なかつた時代のことであるから肯かれる。その寂しい思ひ出のある武蔵野に一人取り残されたのである。

みくだもの瓜に塩してもてまゐる廊に野馬嘶く上つ毛の宿

 胡瓜をむいてそれに塩をふりかけ、みくだものとして恭しく献上に及ぶ、その廊下には塩でも嘗めたい風に放牧の野馬が遊びに来て人なつかしく嘶く、これが上州の一宿屋の風景であるといふのであるが、これも赤城山上青木屋のそれであらう。

思ひ出は尺取虫がするやうに克明ならず過現無差別

 思ひ出といふものは尺取虫が尺をとりつつ進む様に規則正しくそれからそれと遡つたり又はその逆に昔から順を追つて思ひ出すなどといふものではない。過去現在一切無差別に一度に出て来て頭を混乱させる、それが今の私を苦しめる思ひ出[#「思ひ出」は底本では「思ひ出で」]の実態である。

泣寝してやがてその儘寝死(ねじに)してやさしき人の骸(から)と云はれん

 作者には斯ういふ女らしいやさしい一面がある。その一面を抽出して手の平の上で愛撫してゐる心持、それがこの歌である。

少女子が呼び集めたるもののごと白浜にある春の波かな

 昭和十年早春偶□上京した蘆屋の丹羽氏夫妻等と伊豆半島を一週し、その途上二月二十六日先生の六十三の誕生日が祝はれた。即ち 浅ましや南の伊豆に寿し君が[#「が」は底本では「か」]六十三春かこれ といふのがそれであるが、この行病を得て遂に起たず 歓びとしつる旅ゆゑ病得て旅せじと云ひせずなりにけり とそれが先生の最後の旅行になつてしまつた其の件、下田から白浜へ来て作られた歌の一つ。びちやびちや打ち寄せる静かな春の波の様子が情趣豊かにあらはされてゐる。又同じ波は 白浜の砂に上りて五百波暫し遊ぶを遂ふことなかれ とも歌はれてゐる。

生れける新しき日に非ずして忘れて得たる新しき時

 私達の間に新らしい日が産れて、その為に仲が直り過去の気まづいいきさつが一掃された[#「一掃された」は底本では「一掃さた」]といふのではありません、それは唯過去を忘れた報酬として新らしい時が得られただけのことです、ですから少しでも思ひ出せば折角の新らしい時も亦旧い時に変ります、御互に気をつけて徹底的に忘れませう。それが一番よいことなのです。

十字架の受難に近き島と見ゆ上は黒雲海は晦冥

 十年の二月、熱海の水口園に泊られた時、暴風雨に襲はれてゐる前の初島を詠んだ歌で、十字架の難に逢つて居るとはいかにも適切な言ひ廻しであるが、同時にそれは作者の同情のいかに細かいかを物語つてゐると言へるのである。上は黒雲海は晦冥も十割表現で之亦作者の特技の一つであらう。又同じ島が今度は靴になつて 雨暗し棄てたる靴の心地して島いたましく海に在るかな とも歌はれてゐるが、感じが強く出てゐるだけこの方を好む人が多いかも知れない。

君来ずて寂し三四の灯を映す柱の下の円鏡かな

 円鏡は昔の金属製のものを斥すのであらうからこの灯も電灯ではなく、ぼんぼりか行灯であらう。三四の灯といふので相当広い室でなければならないことになる。併し女主人公一人より居ない様子だ。それで一寸環境が忖度しにくいのであるが、男の来ないことをそれほど気にも留めず、鏡が寂しさうだといふのであるから女主人公もただの女ではなささうな気もする。

拝殿の百歩の地にて末の世は油煙をあぐる甘栗の鍋

 昭和十年作者夫妻は鎌倉の海浜ホテルで最後の正月を過ごされた。一日鶴が岡八幡に参詣して み神楽を征夷将軍ならずしてわが奉る鶴が岡かな と歌ひ上げたが、その帰りにその征夷将軍の殺された石段を降りて来ると直ぐその下に甘栗屋が店を出してゐた。その対照が余りをかしいので、この歌が出来たのであらう。好個の俳諧歌。

人妻は六年(とせ)七年暇(いとま)無(な)み一字も著けず我が思ふこと

 先づ一字の難もない完璧とも絶唱ともいふべき歌であらう。結婚後七年として即ち三十歳位の時の作であるから油も乗りきつてゐるわけだが。一字も著けずわが思ふことなどの旨さは歌を作つたことのないものには分るまいが、それは大したものなのですよ。しかし調子の上の先縦はそれらしいものが全く無くはない。私はすぐ石川の女郎の  志可の海人(あま)は布(め)刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに を思ひ出した。

初春に乗る鎌倉の馬車遅し今年の月日これに似よかし

 讖を為すといふ事があるが、この歌などもそれらしく思はれる。ヰクトリア型とかドロシユケとかいふのであらう簡易な馬車が不思議に鎌倉にだけ残つてゐて見物人を便した、夫妻も正月気分で物好にその馬車に乗つたものらしい。久しく自動車に慣れた近代人には牛の歩みの遅々としていかにも初春の気分になる。年を取るに従つて一年の立つ早さが段々早くなる、糸の先に石をつけて廻すやうだと云はれてゐる。この馬車の遅い様に今年だけは月日の立つのもゆつくりして欲しいと希つたのであるが、思ひ設けぬ結果となつてそれから三月目に良人を失ひ、その後の八九ヶ月の長さは果して如何であつたであらう。感慨なしにこの歌は読まれない。

飲みぬけの父と銅鑼打つ兄者人(あじやひと)の中に泣くなる我が思ふ人

 サアカスの娘の歌である。昔我々は天地人間あらゆるものを歌つてやらうとした事があつた。この歌などもその試みの一つであるが、その後いつしかさういふ企てもやんでしまつたので、落し種ででもあるやうにぽつねんと今に残つてゐるのである。しかし眼前の小景や日常茶飯事を詠む許りが歌の能でもあるまい。大に眼を開いて万般の事象特に人間界の種々相に歌材を求める時代がその内には来ようから、この歌などもさういふ際には好個の御手本とならう。この歌の姉妹歌がもう一つある。曰く 兄達は胡桃を食らふ塗籠の小さきけものの類に君呼ぶ

沙川の大方しみて海に出づ外へ流るる我が涙ほど

 遠浅の沙浜を歩いてゐると川の水の大部分は沙にしみ込みその末が僅に海に落ちるのを渡ることがよくある。由井が浜にもあつたやうだ。私の泣くのをこの頃人はあまり見かけないであらうが、それは涙が外へ流れないからである。水が沙にしむ様に中へしみ込んでしまつて外に出ないから人の目に触れないだけのことである。

花草の原のいづくに金の家銀の家すや月夜蟋蟀

 月夜の蟋蟀の声を金鈴銀鈴と聞く心持からその栖家が「金の家銀の家」となるので、交感神経による音感と視感との交錯である。花草の原は少し未熟だが月夜蟋蟀の造語は成功してゐる。(造語ではなく昔の人の使ひ古した言葉かも知れないが)

正月の五日大方人去りて海のホテルの廊長くなる

 正月休みで雑沓してゐた海浜ホテルも五日になれば大方引上げて客が疎らになつた、そのために廊下が長くなつたやうな気がする。この感覚は清少納言の持つてゐたもので、また優れた多くの詩人の生れながらに持つてゐる所のものである。我が国でも芭蕉、蕪村、一茶近くは漱石先生など持ち合せて居たが、不幸歌人中には一人も見当らない。

風吹けば馬に乗れるも乗らざるもまばらに走る秋の日の原

 之を写生と見たいものは見ても宜しいが、私は広い草原に野分だつた風の吹いて居る心持を人馬の疎らに走る象によつてあらはした一種の象徴詩だと思ふ。私は少年の日多分二百十日の頃だと思ふが寛先生に連れられて渋谷の新詩社を出て玉川街道を駒沢辺まで野分の光景を見に行つたことがある。その頃の草茫々たる武蔵野を大風の吹きまくつて居た光景がこの歌を読むとどうやら現はれて来る。

僧俗の未だ悟らず悟りなばすさまじからん禅堂の床

 円覚寺の僧堂で居士を交じへて雲水達の坐禅をしてゐる処へ偶□行き合せたものらしい。平常でも石の様に冷い僧堂が寒中のこととて凍りつく許りに見えたことであらう。しかしその一見冷い中にも修行者の集中した精神力から自然に迸る生気は脈々として感ぜられる、まだ悟らないからいい様なものの、もし一時にこれだけの人数が悟つたらどんなことになるだらう、その凄じい勢ひに禅堂の床などは抜けてしまふであらうと云ふのである。寛先生は若い時、天竜寺の峨山和尚に就いて参禅し多少得る処があつた様であるから、這般の消息は分つてゐるが、夫人は何らその方の体験なく唯禅堂の様子を窺つた丈で悟の前後の歓喜をよくこれだけ掴まれ、又適確に表現されたものだと思ふ。

古里を恋ふるそれよりやや熱き涙流れきその初めの日

 男を知つた第一夜の心を自分から進んで歌ふことは余りなかつたことと思はれるが、作者は臆する処なく幾度か歌つてゐる。その時流れた涙の温度をノスタルジアのそれに比して明かにしてゐる。之亦生命の記録の一行として尊重さるべきであらう。

夕明り葉無き木立が行く馬の脚と見えつつ風渡るかな

 疎らな冬木立に夕明りがさして歩いてゆく馬の脚の様に思へる、そこへ風が吹いて来て寒むさうだ。馬の脚などといふとをかしい響きを伴ふのでぶちこわしになる恐れのあるのを、途中で句をきつてその難を免れてゐる所などそんな細かい注意まで払はれてゐる様だ。

緋の糸は早く朽ち抜け桐の紋虫の巣に似る小琴の袋

 家妻の為事に追はれ何年か琴など取り出して弾いたこともない。大掃除か何かで偶□取り出されたのを見ると、縫ひ取つてあつた緋の糸は朽ち抜け桐の紋などは虫の巣の様になつてゐる。歳月の長さが今更思はれるといふ歌である。之より先楽器の袋を歌つた歌がも一つある。それは 精好(せいがう)の紅(あけ)と白茶の金欄の張交箱に住みし小鼓 といふので、之亦偶□取り出して見た趣きであらう。精好とは精好織の略で絹織物の一種である。

十二月今年の底に身を置きて人寒けれど椿花咲く

 十二月今年の底とは何といふすばらしい表現だ。かういふ少しも巧まぬ自然さを達人の筆法といふ。十二月は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれた位で、早咲きの椿を十二月に見る事は作者に取つては嬉しいことなのである。

粉黛の仮と命のある人と二あるが如き生涯に入る

 生命のある真の人間と、人前に出る白粉をつけ紅をさした仮の人間と二人が同じく私の中に住むやうな生活がとうとう私にも来てしまつた。而してこの間までの若い純真さは半ば失はれてしまつたが、人生とは斯ういふものなのであらう。

東京の裏側にのみある月と覚えて淡く寒く欠けたる

 師走の空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を照らすとは言ひ得て妙といふべく、或はこれ以上の表現はあるまいとさへ思はれる位だ。誰か旨い英語に訳して見たら如何かと思ふ。

思ふ人ある身は悲し雲涌きて尽くる色なき大空のもと

 野に立つて目を放つと地平からむくむく雲が涌き上つてきていつ果てるとも知れない。思ふことなしに見れば一つの自然現象に過ぎまいが、人を思ふ私が見ると丁度物思ひの尽きない様にも見えて悲しくなる。

正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごとそそのかすごと

 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しよに私の家などで運座をやつた仲間の生き残つてゐるのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けてゐるのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であつたが、その時は最早小包便など利かなくなつてゐたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまつたが今頃は如何して居られることだらうか。その山城君は五十になつて恋をした、しかも熱烈な純真なものでさへあつたらしく沢山歌を詠んでゐる。それを本人は隠さうともしなかつた。恋の猛者とは年老いてなほ若い者に負けない気力を示した意味であるが、大勢の子供があり既に初老を越えた身の何事だといふのが戒むる意味、その純真な態度を知つては大に若返るのもいい事だ少しはやるがよいといふのがそそのかす意味、あなたを恋の猛者だと冷かすがその中には以上二つの意味が這入つてゐるのですよ。といふわけである。何となく奥行のある俳諧歌だとは思ひませんか。尚山城君は近年「紙銭を焼く」といふ歌集を出してゐる。琉球の郷土色が濃厚に出て居て珍しい集である。

高き屋に登る月夜の肌寒み髪の上より羅(ら)をさらに著ぬ

 月を見て涼を入れようと半裸体の麗人が高殿へ登つてゆく、いくら夏でも上層は冷い、そこで髪の上からトルコの女のするやうに羅(うすもの)を一枚被いて残りの階を登つて行く。少し甘いが、紫色の一幅の画図を試みたものである。

山行きて零れし朴の掌(たなぞこ)に露置く刻(こく)となりにけるかな

 秋の漸く深い水上温泉へ行つた時の歌。奥利根に添ひどこ迄も上つて行くと秋の日の暮れ易く道端に零れてゐた朴の葉の上にもう露が置いてゐた。では帰りませうといふ心であらう。

半生は半死に同じはた半ば君に思はれあらんにひとし

 生きるならば全生命を燃やして生きます。半分生きるといふのは半分死ぬことですいやなことです、丁度あなたが半分だけ私を思つて、あとの半分で外の人を思ふのと同じです、私の堪へ得る所ではありません。恐らくは、はた半ば以下を言ひ度い為に、前の句を起したので目的は後の句にあるのであらう。

月出でん湯檜曾(ゆびそ)の渓を封じたる闇の仄かにほぐれゆくかな

 月出でんで勿論切る。その底を利根川の流れる湯檜曾渓谷にはもう二時間も前から闇といふ真黒な渦巻とも気流とも分らないものが封じ込まれてゐたが、それが少しづつではあるがほぐれ出すけはひの見えるのは月が出るのであらう。闇がほぐれるとは旨いことを云つたものだ。

神無月濃き紅の紐垂るる鶏頭の花白菊の花

 十一月といふ季節を音楽的に表現したものである。写生画を見るやうな積りで見てはならない。花の写生をしようなどいふ意図は毛頭ないからである。

承久に圓位法師は世にあらず圓位を召さず真野の山陵

 この一首の調子の気高さ、すばらしさ、帝王の讃歌として洵に申し分のない出来だ。真野の山陵は佐渡に残された順徳院のそれである。作者は二囘佐渡に遊びその度にこの院を頌してゐる。院は歌人でもあり、歌学者としても一隻眼を具へ八雲御抄の著があつて当時の大宗匠定家にさへ承服しない見識が見えてゐて、晶子さんはそれを嘗て、定家の流に服し給はずと歌つてゐる位のお方だ。又西行は当時の権威に対し別に異は立てなかつたが窮屈な和歌を我流に解放した人である。もし西行が承久に生きて居たら、白峰に参つたやうに佐渡へも必ず渡つてもしそれが生前であつたら院の御機嫌を伺つたことであらう、院はどれほど喜ばれたことであらう。しかし時代が違つた為山陵すら白峰のやうに之を召すことはなかつた。一人の知音なく遠い佐渡で淋しく崩ぜられた院の上がいかにも帝王らしい高雅な調べで表現されてゐる。

梅雨(つゆ)去りぬ先づ縹草初夏の瞳を上げて喜びを云ふ

 梅雨が上つていよいよ夏だといふはればれしい感じは恐らく凡ての草木の抱く所であらう。この歌ではその最初の声を発するものが縹草即ち小さい露草で、可哀らしい紫の瞳を上げて子供らしく嬉しい嬉しい嬉しいといふ様に見える。成るほどさうかも知れない。

大きなる護岸工事の板石の傾く上に乗れる青潮

 これは新潟港の所見である。護岸工事の傾斜したコンクリイトの板石に秋の潮がさして来る、その心を濡らす様な青さ。青潮にはその中に作者の心が溶けてゐて抒情性がそこに生れるのである。単純に天地の一角を切り取つた無情の写生ではない。

雨の日は我を見に来ず傘さして朝顔摘めど葵を摘めど

 私は花作りです、いつも庭へ出て花の世話をします、それをあの人は見に来ます、私を恋して居るのでせう、私はさう思つてゐました、さうして見られるのを楽しみました。それに如何でせう、雨の日は来ません、私は見られたさが一杯で傘をさして葵の日には葵を摘み、朝顔の日には朝顔を摘んで待ちましたが、遂に見に来ませんでした、そんな浅はかな恋があるでせうか、あの人のことはもう考へないことにしませう。

はてもなき蒲原の野に紫の蝙蝠のごとある弥彦かな

 越後蒲原の平野から弥彦山を望んだ第一印象で、同地を故郷とする堀口大學君が激賞してゐる歌だ。私の知らぬ景色だから批評の限りでないが、堀口君が感心してゐるのだから間違ひはあるまい。

二十三人をまねびて空笑みす男のすなる偽りも云ふ

 人を見ればをかしくもないのに作り笑ひをして歓心を求めたり、又男の様にうそを云つたり私も大分違つて来た。何時頃からこんなになつたのであらう、さうだ二十三の時だ、そんなことを覚えたのは。これも作者の場合に示された人間記録の一である。

永久(とこしへ)と消えゆく水の白波を一つのことと思はるべしや

 過去とか未来とかいふものは思想上には考へられるが実在はしない、実在するのは現在だけである。従つて永久といつても現在の外にはない、現在が永久であり、永久は現在である。こんな哲理を考へながら渓流を見て居ると岩にせかれて白波の立つては消えるのが注意を惹く。現在と永久とが一つのものならば、消えてゆく波と永久とが同一物といふことになる。そんなことはどうしても考へられない。現象即実在、差別即平等、沙婆即寂光土など同一カテゴリイに属する思想で皆詩人の厳定しにくい処であらう。

火に入らん思ひは激し人を焼く炎は強し何れなりけん

 私は火の中に跳び込んで自分を焼いてしまふ位激しい感情の持主です、又私の情熱は相手を焼き殺してしまふ位強烈なものです、そのどちらが働いてこんなことになつたのでせう、分りますか、どちらも同じものですよ。

川東中井の里は五十度の傾斜に家し爪弾きぞする

 昭和九年の秋上州四万に遊ばれた時の作。私は四万へは行つたことがないので説明しかねるが、渓流に臨んだ急勾配の斜面に川東の中井部落といふのがあり、そこから爪弾きの音が聞こえて来た。今にも滑り落ちさうな崖の途中の様な処に住みながらいきな爪弾を楽しんでゐるとは如何した人達であらうと感心して居る心であらう。五十度の傾斜といふ新らしい観念と爪弾といふ古い情趣との対照がことに面白い。

火の中の極めて熱き火の一つ枕にするが如く頬燃えぬ

 頬が燃えるやうに熱くなるのは如何いふ場合であらうか。それによつて情熱を言ひ現はすことも考へられないではないが、羞恥に堪へられぬやうな場合の方が当つて居るやうに思はれる。この歌の場合も最上級の羞恥を現はしたものと見てよいやうである。燃らば唯一度しかない場合のものとも見られる。

川の幅山の高さを色ならぬ色の分けたる四万の闇かな

 山の蛾が飛び込むので閉めてあつた障子をあけ廊へ出て九月の外気に触れて見た。谷底の様な四万の夜は真暗だ。しかしその色のない闇の中にも川の幅を示してゐる闇もあり、山の高さを現はしてゐる闇もあつて、ちやんと区分され、その上に星空が乗つてゐるのであつた。これだけのことが色ならぬ色の分けたるで表現されてゐる。


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