晶子鑑賞
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著者名:平野万里 

牡丹植ゑ君待つ家と金字して門(もん)に書きたる昼の夢かな

 明治末葉寛先生のはじめた新詩社の運動には興国日本の積極性を意識的に表現しようとする精神が動いてゐた。この歌の如きもその精神のあらはれで、従来のか細い淋しい又はじみな日本的なものを揚棄して、一躍してインド的なギリシア的な積極性の中へ踊り込んだものである。この精神は相当長い間衰へずに作者の護持する所であつたが、時の経過は争はれず、晩年の作には段々かういふ強い色彩が見られなくなり、しまひにはもとの古巣の日本的東洋的なものに帰つてしまはれたのは是非もない次第だ。しかし之からの日本は再び明治の盛な精神に立戻るのであらうから、そこで若い晶子はどうあつてもも一度見直されねばならないのである。

大般若転読をする勤行(ごんぎやう)に争ひて降る山の雨かな

 十二年五月雨頃奥山方広寺に暫く滞留して水月道場の気分に浸られた折の作。大本山と呼ばれる様な大きな禅院では毎早朝一山の僧侶総出の勤行があり、さうして大抵は大般若経転読の行持も一枚挾まる様だ。転読とは御経を読むのではなく、めいめい自分の前の大きな御経の本を取つて掛け声諸共にばらばらつと翻すのである。それが揃つて行はれるので洵に見事なものだ。その時降つてゐた山の雨がその音を打ち消さうとしていよいよ強く降り出す光景である。方広寺の環境がよく偲ばれる歌だ。この時は又 奥山の白銀の気が堂塔をあまねく閉す朝ぼらけかな などいふ響のいい歌も出来てゐる。

秋の風きたる十方玲瓏に空と山野と人と水とに

 いふをやめよ、如斯は一列の概念であると。概念であらうと何であらうと優れた詩人の頭の中で巧妙に排列され、美しいリトムを帯びて再び外へ出て来た場合にはそれはやはり立派な詩である。この歌などは他の完璧に比し或は十全を称し難いかも知れないが尚、少し開いた所で野に叫ぶヨハネの心持で高声に朗誦する値打ちは十分ある。

鉄舟寺老師の麻の腰に来て驚くやうに消え入る蛍

 この鉄舟寺老師こそ先にも云つた通りの、一生参学の事了つた老翁の茶摘み水汲み徳を積む奇篤な姿である。一生の好伴侶を失つて淋しい老女詩人と少しもつくろはぬ老僧とがやや荒廃した鉄舟寺の方丈で相対してゐる。そこへ久能の蛍が飛んで来て老師の麻の衣にとまつた。とまつたと思つたら光らなくなつた。とまつた所が徳の高い菩薩僧の腰であることの分つた蛍は恐縮して光るのをやめたのである。驚くやうにといふ句がこの歌の字眼である。

川添ひの芒と葦の薄月夜小桶はこびぬ鮎浸すとて

 渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐて之もその一つである。それらはしかし東京の郊外となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の歌である。芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつた。夏の日も暮れて薄月がさしてゐる。岸には男の取つて来た鮎を窓のある小桶に入れたのを持つて水に浸けにゆく女がゐる。これも亦明治聖代の一風景である。

浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな

 三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、[#「、」は底本では欠落]そこを反つて興じたわけなのであらう。

わが哀慕雨と降る日に□(いとど)死ぬ蝉死ぬとしも暦を作れ

 君を思ふ哀慕の涙がことに雨の様に降る日がある。そんな日附の所へ、□死ぬ日、蝉死ぬ日などと書き入れた暦を作らせて記念にしたい。こんな心であらうが珍しい面白い考へだ。暦のことはよく知らないが昔の暦にはそんな書入れがあつたのであらう。これも当時から相当有名な歌であつた。

義経堂(ぎけいどう)をんな祈れりみちのくの高館に君ありと告げまし

 鞍馬山での歌。そこに義經を祭る義経堂がある。その前で祈つてゐる女がある。靜(しづか)さんのみよりのものでもあらうか、さうなら君は御無事で奥州秀衡の館に昔の様にして居られますと教へてやらうといふ歌だが、その裏にはこの女にはまだ君といふものがあるのに君のありかを知つてゐる私には反つてそれがないといふ意が隠れてゐる。

秋霧の林の奥の一つ家に啄木鳥(きつつき)飼ふと人教へけり

 故あつて失踪した人、恐らくは自分を思つてその思ひの遂げられぬことが分つた為に失踪したらしいあの人が、秋霧の深い山の奥の一軒屋にかくれ住んで啄木鳥を友として静かに暮してゐるといふ噂がこの頃聞えて来た。一つの解はかうも出来るといふ見本だ。読者は自己の好む儘に解いてそのすき腹を満たすが宜しい。

大阪[#「大阪」は底本では「大附」]の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏

 六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙[#「煤煙」は底本では「媒煙」]もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。その煙霞といつたのは写生で殊更に雅言を弄んだのではない。

後朝(きぬぎぬ)や春の村人まだ覚めぬ水を渡りぬ河下の橋

 川上の女の家を尋ねてのあした、村人さへまだ起きぬ早朝、朝靄のほのかに立ち昇る静かな春の水を見ては幸福感に浸りつつ河下の橋を渡つて家路に急ぐ心持であらう。晶子さんの所謂、恋をする男になつて詠んだ歌の無数にあるものの一つだ。

狭霧より灘住吉の灯を求め求め難きは求めざるかな

 何といふ旨い歌だ。これも十二年の初夏六甲山上の丹羽さんの別荘に宿られた時の歌。薄霧の中に麓の灯が点々として見られる。あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、故人がさうだ、だから求めても分らないものは初めから求めないことにした。眼前の夜景によそへてまたもやるせない心情を述べたものである。求めるといふ言葉の三つ重つてゐる所にこの歌の表現の妙も存するのであるが、誰にでも出来る手法ではない。

君に似しさなり賢こき二心こそ月を生みけめ日をつくりけめ

 私は君唯一人を思ふ、それだのに君はさうではなく同時に二人を思つてゐるやうだ、それは二心(ふたごころ)と云つて賢いのであらう、丁度天に日と月とがあるやうなものだ。しかし私は二心は嫌ひだ、どこまでも一人に集中する。それが愚かしいことであらうがなからうがと云ふので、之は晶子さんの初めからの信条であり又信仰でもあつた。それ故 やごとなき君王の妻(め)に等しきは我がごと一人思はるゝこと といふ歌もあり又 天地に一人を恋ふと云ふよりも宜しき言葉我は知らなく などいふのもある。

伊香保山雨に千明(ちぎら)の傘さして行けども時の帰るものかは

 十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿千明(ちぎら)の番傘をさして町へ出掛け物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。それは 氷よりたまたま大魚釣られたり榛名の山の頂の春 と歌はれ、又 我が背子を納めし墓の石に似てあまたは踏まず湖水の氷 といふ作も残されてゐる。

思はれぬ人のすさびは夜の二時に黒髪梳きぬ山ほととぎす

 少し凄い歌で人を詛ふ[#「詛ふ」は底本では「咀ふ」]やうな気持が動いてゐる。山の中の光景で、男に思はれない一人の女が夜の二時に起き出して髪を梳いてゐるとほととぎすが啼いて通つた。華やかなことの好きだつた晶子さんには斯ういふ一面もあつた。 誓ひ言我が守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る [#空白は底本では「。」]その魔に似る一面で、時には強烈な嫉妬の形を取つて現はれることもあつたやうだ。

雪被(かぶ)り尼の姿を作るとも山の愁は限りあらまし

 箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。山の愁はしかしそれだけのもの、形丈のものであらう。しかし生きてゐる限り私の心にある愁は何時迄も続いてゆくといふのである。

君が妻は撫子□して月の夜に鮎の籠篇む玉川の里

 これも昔の玉川風景の一つ。鮎漁を事とする里の若者をとらへて詠みかけた歌であらう。昼摘んだ川原撫子を簪代りに□した若い女房が月下に鮎の籠を編む洵にそれらしい情景が快く浮んで来る。

返へらざる世を悲しめば如月の磯辺の雪も度(ど)を超えて降る

 早春大磯に滞在中、雪の余り降らない暖かい大磯には珍しい大雪が偶□降り出した。返らない世を悲しむ私の心を知つてか知らずにか、この雪の降り方は尋常ではない。度を越した悲哀を形にして私に見せてくれる様でもある。そんな心であらう。この大磯滞在中の作には面白いのが多いから二三挙げよう。丁度節分だつたのでこんな歌がある。 大磯の追儺(つゐな)の男豆打てば脇役がいふ「ごもつともなり」 その大雪の光景は又 海人(あま)の街雪過ちて尺積むと出でて云はざる女房も無し と抒述されてまるで眼前に見る様だ。その雪の上を烏が一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、 この磯の一つの烏百羽ほど君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを 東京の吹雪の報の至れども君が住む世の事にも非ず と軽く片付けたのなど何れもそれぞれ面白い。

半身に薄紅(うすくれなゐ)の羅(うすもの)の衣纏ひて月見ると云へ

 さて如何いふ光景を作者は描かうとしたのであらうか、これだけでは分らない。読者は好む儘に場合を創り出してよからう。たとへば奥様は余り暑いのでベランダで半裸体になつて月を浴びてゐます、ですから御目にかかれませんと云へとのことですと小間使ひか何かに旨を含めて男を断るといつたやうな場合である。

我が手をば落葉焼く火にさし伸べて恥ぢぬ師走の山歩きかな

 自分では最後まで形の上でも若さを失はない様に努めて居られたが、年六十を越えて枯れきつた老刀自の面目はちよいちよいその片鱗を示し、これなどもその一つと見てよからう。

地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日の昇る時

 言葉といふ絵具を使つて絵を描く絵師がある。この作者もその一人であるが、若い時から特別の技量を具へてゐて容易に人の之に倣ふを許さなかつた。而して大きな光景を描く時に特にはつきり之が現はれたものである。この歌の如きもその一例である。白皚々たる積雪を照らして金の塊りの様な朝日が登つて来る、まるで一つの大きな白い蓮の花だ。作者の椽大な筆でもこれ以上の表現は先づ出来まいと思はれる極限まで書いてゐる。而して殆ど何時もさうである。

鹿の来て女院を泣かせまつりたる日の如くにも積れる落葉

 久し振りで平家をあけてこの行りを読んで見る。斯くて神無月の五日の暮方に庭に散り敷く楢の葉を物踏みならして聞こえければ、女院世を厭ふ処に何者の問ひ来るぞ、あれ見よや、忍ぶべきものならば急ぎ忍ばんとて見せらるるに、小鹿の通るにてぞありける。女院、さて如何にやと仰せければ、大納言佐の局涙を押さへて、岩根踏み誰かは訪はん楢の葉の戦ぐは鹿の渡るなりけり 女院哀れに思召して、此歌を窓の小障子に遊ばし留めさせおはしますとある。建禮門院は史上の女性の内でも作者の好んで涙を注いだ人で、既に前にもほととぎす治承寿永の歌を出したが、平家を詠ずる歌の中にも 西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな といふのがある。まだあるかも知れない。

水仙を華鬘(けまん)にしたる七少女氷まもりぬ山の湖

 赤城山頂の大沼は冬は一枚の氷となつてしまふ。それを切り出して氷室に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの産業になつてゐた。その大沼の凍つた冬の日の光景を象徴しようとしたもので、華鬘は印度風の花簪であるから従つてこの七少女も日本娘ではない、当時藤島武二画伯が好んで描かれたやうなロマンチツクな少女を空想して氷の番をさせたのである。ただ七少女だけは神武の伝説に本づくのであらうから少しは日本にも関係はある。

家家が白菊をもて葺く様に月幸ひす一村の上

 十二月の冬の月が武蔵野の葉を落した裸木と家根とを白く冷くしかし美しく照してゐる、それを白菊をもて葺くと現はし、月のお蔭でさうあるのを月幸ひすと云ひ又それを広く村全体に及ぼした差略など唯々恐れ入る。ことに月幸ひすとは何といふ旨さだ。

恐ろしき恋醒心何を見る我が目捕へん牢舎(ひとや)は無きや

 恋の醒めた心で見直すと光景は全く一変するだらう。美は醜に、善は悪に、実は虚に、真は偽に変るかも知れない。そんな恐ろしい光景を見ない様に私の目をつかまへて牢屋に入れたいが、そんな牢屋はないだらうかといふのである。目を牢獄につなぐといふ様な思ひ切つた新らしい表現法は当時から晶子さんの専売で誰も真似さへ出来なかつた。

思ひ出に非ずあらゆる来(こ)し方の中より心痛まぬを採る


 故人と共に過した四十年の人生は短いものでもなく随分忍苦に満ちた一生ではあつたが、生甲斐のあるやうに思つた年月も少くはない。私は既に年老い心も弱くなつたので、人の様に様々の思ひ出に耽る気力はない。今私の為し得ることは、一切の過去の出来事の中から老の心を痛ませない様なものだけを取り出して見ることである。それが私の思ひ出である。何といふあはれの深い歌であらうか。

今日もなほうら若草の牧を恋ひ駒は野心忘れかねつも

 こんなに好い事が重つてゐる、それだのに今日もなほ、野放しだつた頃、親の家に居て仕度い三昧に暮してゐた頃のことが忘られず、不満に似たやうな心も起きる、困つたことねと先づこんな風な心持ではないかと思はれるが、もと象徴詩の解釈だから、それは如何やうとも御勝手だ。

筆とりて木枯の夜も向ひ居き木枯しの秋も今一人書く

 之は寛先生の亡くなられたその年の暮に詠まれた歌であるが、之より先 源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず といふ身にしみる歌が作られて居り更に 書き入れをする鉛筆の幽かなる音を聞きつつ眠る夜もがな といふのもあつて、老詩人夫妻の日常生活がよく忍ばれるのであるが、それがこの場合は年も暮れんとし木枯しの吹きすさぶ夜となつただけに哀れも一しほ深いのである。

判官と許され難き罪人は円寝ぞしけるわび寝ぞしける

 判官は判事で男とすべきであらうから従つて罪人は女といふことになる。さてこの罪人の許され難き罪とは何であらうか。しかし裁判は終結しない儘休憩となり、ごろ寝をする、しかしもともと終結してゐないのであるから佗寝以上には進みやうがない。依つてその罪も相当重い罪であることが分るわけである。

冬の夜の星君なりき一つをば云ふには非ず尽く皆

 この歌が分りますか。私は一読して分らなかつた、多くの場合星を人に擬するや特定の光の強いものとか、色の美しいものとかを斥すやうである。然るにこの歌では満天の星屑尽く君だといふのであるから一寸様子が違つて分らなくなるのである。即ち星一つを一つの人格と見る癖があるので分らなくなるのではないか。もしさういふ先入見を取り去つてしまつたら如何か。作者の相対するものは星を以つて鏤めた冬の夜空全体であつて特定の星ではない。夜空全体が君となつて我に相対するのである、くり返して読む内にそんな風に私には思はれて来たが果して如何か。之も教へを乞ひたい歌の一つだ。

春の磯恋しき人の網洩れし小鯛かくれて潮煙しぬ

 春の磯を歩いてゐると静かに寄せる波が岩の間にもまれてぱつと小さい潮煙が上がる。おやと思ふと鯛の岩影にかくれる幻像が浮んだ。あの鯛はきつと恋しいと思つた人の網につひはいり損じ、ぷりぷりして岩の間にかくれたのだといふ空想が続いて浮ぶ。若い娘をかすめたいはれのない不合理な幻想ではあるが春の磯の気分がよくあらはれてゐる。

ことさらに浜名の橋の上をのみ一人渡るにあらねどもわれ

 十年の秋蒲郡に遊んだ作者は、ホテルの方にでも泊られたらしく 遠き世も見んと我して上層の部屋は借れると人思ふらん 又橋では 入海の竹島の橋踏むことを試みぬべき秋の暁 など詠まれてゐるが、その帰途出来たのが、昔なら「浜名の橋を渡るとて」といふ前書のあるべきこの歌である。殊更この橋の上に限つて一人で渡るのではない、どの橋も一人で渡り、どこへ行くのも一人きりだ。それだのにこの橋に限つて私一人で渡つてゐるやうな気がするのは如何いふわけだらう。浜名の橋といふ平安の昔懐しい名所の橋だからそんな気がするのだらうか。こんな風にも取れる歌である。

雲往きて桜の上に塔描けよ恋しき国を俤に見ん

 これも若い娘の好んで描く幻像あこがれを歌つたものらしく何のこともないが、その気分が歌の調子の上に如何にもよく出て居る。斯ういふ歌を朗誦すると私なども一足跳びに四十年位若くなる。

湖は月の質にて秋の夜の月を湖沼の質とこそ思へ

 この歌は如何あつても老晶子でなければ作れない歌だ。島谷さんの抛書山荘から上に中秋の明月が懸り下に吉田の大池のある風景を非絵画的に少しも形態に触れることなく、その本質のみを抽出して詠出したもので一寸類の少い作例である。しかも両鏡互に相映じて一塵をも止めざる趣きは同時に達人の心境でもある。

君まさず葛葉ひろごる家なれば一叢(ひとくさむら)と風の寝にこし

 茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。

裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の侮り難しあきらめぬ蝉

 これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。諦めないといふことも斯くては侮り難い。東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に 山裾に汽車通ひ初めもろもろの蝉洗濯を初めけるかな といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては もろともに引き助けつつこの山を越え行く虫の夜の声と聞く といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。

恋人は現身後生善悪(よしあし)も分たず知らず君をこそ頼め

 ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向(ひたむき)な心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。

松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁

 下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。こんな歌は、いくら作者でもさう沢山は出来ないと私は思ふ。その一読之亦何の奇もないところに高手の高手たる所因が存するのであらう。清水のやうな風味が感ぜられる。

形てふ好むところに阿ねるを疚しと知りて衰へ初めぬ

 女は己れを愛するものの為に形づくるといふ教へもあり、麗色は君の好む所であり我が好む所でもある。しかし容色の上に私達の愛は成立してゐるのではない、もつと精神的なつながりであり、全身全霊を以てするものである。だから、容色を整へる為に憂き身をやつすのはどうも面白くない。さういふ考へになつたため我が身に構はなくなつたり急に衰へてしまつた、困つたことになつてしまつた。表の意味はその通りであらう。しかし実は我が身の衰へ初めたのを気にして、それはきつと構はなくなつた為でその外に理由はないのだと自ら言ひわけをする心持を歌つたのではなからうか。

筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し諏訪蓼科は立縞の雨

 十年の八月八ヶ岳の麓の蓼科鉱泉に行かれた時の歌。夏の山の雨が立縞のやうに音を立てて降つてゐる。しかし西の空、その下は筑摩川が流れ、伊那の渓谷が横たはり安曇の連山の起るその西空には真赤な雲が出てゐる。周囲身近かな現象と山国信濃の大観とを併せ抒した素晴らしい歌である。

なほ人は解けず気(け)遠し雷の音も降れかし二尺の中に

 君と我との隔りは僅に二尺しかない。それに私の出来るだけのとりなしはして見たが、まだすつきりと心が解けない、そして寂しいうとましいこの場の空気は晴れようともしない。ええ一そのこと夕立がして私のきらひな雷でも鳴るがよい。さうすれば局面が展開されよう。それを二尺の間隔へ雷の音が降るとやつたきびきびしさはいつものこととは言へ感歎に値する。

荷を積める車とどまり軽衿(かるさん)[#「軽衿」はママ]の子の歩み行く夕月夜かな

 カルサンは即ち「もんぺ」で今では日本国中穿たざる女もないが、この間までは山国の女だけしかしなかつた。その「もんぺ」を穿いた女が、着いたトラックから降りて自分だけの荷を担いで夕月の中を我が家へ帰つてゆく。それを作者はなつかしさうに見送つてゐる。これも八ヶ岳山麓の月のある夕の小景で、カルサンといふ洵に響きのよい舶来語を使つて昔のもんぺ姿を抒してゐるのが面白い。今や漸く一般化した婦人の労働服をあらはす言葉としてこれを使つて見たら如何だらう。

わが鏡撓(たわ)造らせし手枕を夢見るらしき髪映るかな

 鏡に写つた我が黒髪には紛ふ方なき大きな撓が出来てゐる、その撓を見てゐると影の形に添ふ様に之を造らせた手枕の形が現はれる、さうして鏡は、私が今しがた迄手枕をして横になり物思ひにふけつてゐたのだといふことをはつきり示してくれる。私はその間何を思つてゐたのだらうか。先づそんな様な趣きの歌ではなからうかと思はれる。作者はここでも例によつて我が黒髪をさへ擬人して夢を見させてゐる。

山の霧寂滅為楽としも云ふ鐘の声をば姿もて告ぐ

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響ありといふ、平家の書き出しから進んで道成寺の文句となり、甚だ耳に親しくなつてゐる鐘声にこもる四句の偈中寂滅為楽の妙境が鐘声といふ音楽に現はれる代りに、絵画的の姿、形をとつて現はれたものが目前の山の霧であつて、即ち仏法最後の涅槃境に外ならないのであらう。

夕には行き逢ふ子無き山中に人の気(け)すなり紫の藤

 夕方になれば人も通らない淋しい山の径だが、春が来れば紫の藤が咲く。それの艶にやさしい姿を見るとまるで人にでも逢つたやうで懐しい。作者の何にでも注がれる深い同情心がたまたま山中の野生ひの藤に注がれた一例である。

蓼科に山と人との和を未だ得ぬにもあらで物をこそ思へ

 わたしは山を愛して常に山に遊ぶ、山と人との調和の如きは、私の場合には、直ぐに出来て何の面倒も入らない。この蓼科でも同じことで私と山とは既にすつかり溶け合つてゐて、その間につけこむ空虚はないのである。それだのになほ物思ひに沈むのは如何したことだ。しかしそれは山の罪ではない、別に理由があるからだ。

木の下に白髪垂れたる後ろ手の母を見るなり山ほととぎす

 皐月が咲き蜜柑の花が咲くやうになると人里近くにも山ほととぎすが出て来てしきりに啼く。その声を聞いてゐると何の理由もなく年老いた母の姿が目の前にあらはれる。それは木の下に白髪をかき垂れ後ろ手をして立つてゐる姿だが、不思議なこともあるものだ。聴覚と視覚と相交錯し相影響する詩人の幻像であるからどうにもしやうがないが、歌が旨ければ読者はつり込まれてついそんな気になるのである。それだけでよいのであらう。

暗き灯を頼りて書けば蓼科も姥捨山の心地こそすれ

 山の中の電灯の火が恐ろしく暗い。その暗い灯の下で物を書いてゐると、ふと、この蓼科も今の世の姥捨山で年老いた自分はここに捨てられてゐるのだといふ気がして来た。全くありさうな連想でその頃の心の寂しさやるせなさがよくあらはれてゐる。

武蔵野は百鳥栖めり雑木の林に続く茅(かや)草の原

 この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうにかしましいものであつた。それを百鳥栖めりとやつたのである。

山寺に五十六億万年を待てと教へて鳴り止める鐘

 寛先生の百日祭がつゆ晴れの円覚寺で行はれた。恐ろしく蒸し暑い日で法要終了後帰源院で歌を作つたが、暑さに堪へないで外に出て鐘楼へあがつて諸人鐘を撞いた。それで当日は皆鐘の歌がある。これもその一つで、五十六億万年とは弥勒仏出現の日で、その日が来ればまた逢へるかも知れないからそれまでは待てといつて鐘が鳴り止んだ。山寺の鐘の教ふる所であるから正しいのであらうが、さりとては余りに長過ぎる話ではないか、とても待てさうにもない。

海底の家に日入りぬ厳かる大門さしぬ紫の雲

 これは海の落日を、日の大君のお帰りといふ程の心を晶子さん得意の筆法で堂々と表現したものである。日の入つたあとに紫雲が涌き出して厳かに大門を閉ぢるなど印度の経文にでもありさうだ。

笹川の流れと云ふに従ひて遠く行くとも君知らざらん

 越後の寺泊から北上して出羽に向ふ車中での作。一人淋しく辺土を旅する心がこんなによく現はれてゐる歌は少い。ただ静かに打ち誦して老女詩人の旅情に触れ、少しでも私達の魂を洗はせて貰はう。同じ時の作には 遠く来ぬ越(こし)の海府の磯尽きて鼠(ねず)が関見え海水曇る などがある。

自らの腕によりて再生を得たりし人と疑はで居ん

 もし私といふものがあつて此の人を愛してやらなかつたら、此の人はとうに死んで居たらう、少くとも精神的には。して見れば私は此の人を再生させた大恩人で誰もかなはない貴重な存在でなければならない。私はそれを疑はない、何も心配はしないといふのであるが、実は心許ない感じがあつての事であらう。

北海の唯ならぬかな漲るといふこと信濃川ばかりかは

 越後の寺泊で五月雨に降りこめられた時の歌。海さへ為にふくれ上つて信濃川の漲るやうな心持が北海の上にも見られた。それが作者には唯ならぬ様子として映つたのである。唯ならぬとは女の孕んだ時などに使はれる言葉で、さういふ気持がこの時にも動いてゐる。

君乗せし黄の大馬とわが驢馬と並べて春の水見る夕

 春宵一刻千金とまでは進まぬその一歩手前の夕暮の気持を象徴的に詠出したものであらうか。男は黄の大馬――そんなものはあるまいが――に乗り女は小さいから驢馬に乗り、それが並んで川に映つてゐる。春の夕の心が詩人の幻にあらはれてこんな形を取つたのであらう。

寺泊馬市すてふ海を越え佐渡に渡さん駒はあらぬか

 今日は馬市が立つといふので表がざわめいてゐる。一躍して海を越え佐渡に渡すことの出来るやうな駿馬が多くの中には一頭位居ないであらうか。佐渡には旧友渡邊湖畔さんが蹲つて居られるが、私が突然行つてあげたら喜ばれるだらうになどいふわけである。

思はるる我とは無しに故もなく睦まじかりし日もありしかな

 初めの頃の事を思ふとまだ恋などといふ形も具へずに子供同志の何の理由もなく唯睦じく語り合つたのであつた。何時頃からそれが恋になつたのであらうか。それは兎に角としてさういふ初めの頃の事も懐しく思ひ出される。善良なやさしい非難の余地のない斯ういふ歌も作者はいくつか作つてゐる。

良寛が字に似る雨と見てあればよさのひろしといふ仮名も書く

 寺泊の海に降る五月雨を何とはなしに眺めて居るとそれが段々良寛の字に似て来た。良寛はこの辺りの人であるから、その事が頭にあつてこんな感じも出て来たのであらう。さて降る雨に良寛の字といつても雨の事だからせいぜい仮名であらう、それを書かせてゐるとそのうちによさのひろしといふ仮名の書かれてゐることをも発見したといふのである。何といふ面白い歌だらう。俗調を抜き去つた老大家でなくては考へも及ばない境地である。しかしこの仮名の署名は実際に故人によつても幾度か使はれたことのある字句だ。

天地(あめつち)のいみじき大事一人(いちにん)の私事とかけて思はず

 私の様な非凡人のする事は、それが一私人の私事であつても、それは同時に天地間の重大事件となり得るのである。私はさう思つて事に当つてゐる。君を愛する場合もその通り、これは私事ではありません、天地間の重大事件です、ですからその積りで御出でなさい。この歌は如何といふ場合にも当て嵌まるが、こんな風に取つても差支ないであらう。

山山を若葉包めり世にあらば君が初夏我の初夏

 故人に死に別れた年の初夏、始めて家を離れ箱根強羅の星さんの別荘に向はれ、傷心を青葉若葉に浸す事になつた時の作。去年までの世の中なら一しよに旅に出て心ゆく迄初夏を味はつたことであらうに、今年は一人強羅に来て新緑の山々に相対してゐる。唯一年の違ひが何という変り方だ。実際その前年も故人と共に塩原に遊んで、君の初夏我の初夏を経過してゐる位だから感慨も深い筈だ。

人ならず何時の世か著し紫のわが袖の香を立てよ橘

 前にも一度 rebers[#「rebers」はママ] した古今集の 五月待つ花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を本歌とすることいふ迄もない。「人」は他人の意で、昔の人と云はれて居るが、それは他人ではない、前生の私である、昔の人の袖の香とは、何時の世にか私の著た紫の袖の移り香のことである。歌の様にも一度立てておくれ、私はそれを嗅いで前生の若かつた日を思ひ出すことにしよう。私は古今集の中ではこの歌が最も好きだが、作者も亦好まれてゐるやうだ。

山に来てこよなく心慰めば慰む儘に恋しきも君

 家にあつて嘗めたこの四十日程の苦しさ辛さから逃れて山に来たが、柔い若葉の山を見ては傷ついた心もすつかり慰められる、さて慰められて見ると悲しいにつけ嬉しいにつけやはり恋しいのは君である。

語らねば夜離人(よがれびと)とも旅行きし人とも憎み添臥して居ぬ

 少し許り仲違ひをして物を言はぬ情景である。夜離れ人は平安語で、この頃女の許に通はなくなつた男、即ち今日も来ない男のやうに又は旅に出て行つてしまつた男のやうに憎んで、ここには居ないことにしよう、さうすれば物を言はぬこと位さして問題にするにも当るまい位のことであらう。

強羅にて蘆の湖見難きと見難くなりし君と異なる

 強羅から蘆の湖は見えない、見えないが山の後には確かにある、その証拠にぐるりと山を一廻りすればいつでも湖を見ることが出来る。しかし君を見ることの難しいのはそれとはわけが違ふ。山を廻らうが、秋が来ようが、再び見る由はない。斯ういふ風に一つの歌に一つの新味が盛られて居て飽くことを知らないのが作者の境界で珍重すべき限りである。

ひろびろと野陣(のぢん)立てたり萱草は遠つ代よりの大族(うから)にて

 萱草は恐ろしい繁殖力を持つ宿根車で忽ち他を圧倒し去り萱草許りの一大草原を為すことも珍しくない様だ。この歌はさういふ萱草の大草原を歌つたもので、花が咲いて真赤になつた光景を平家の陣とも見立て、何しろ上代からの大家族なのでそれも道理だといふのである。

人伝に都へ為べき便り無し唯病のみ宜しとも云へ

 心中の苦悩の如きは山の消息とは違つて人伝に伝へやうがない。帰つたら唯病気は少し宜しいと云つて下さい。言伝はそれ丈です。之も箱根の歌。

独り寝はちちと啼くなる小鼠に家鳴りどよもし夜あけぬるかな

 偶□君の留守に一人寝をする夜など、鼠が天井でちいちい鳴くのが、家鳴り鳴動するやうに耳を刺戟し、おちおち眠ることもならず、遂に夜が明けてしまふ。をかしいほどの弱虫だが、事実はさうなのだから仕方がない。

紫の乾くやうにもあせて行く箱根の藤に今は似なまし

 一人になつたこれからの私のあるべきやうは。それは唯この箱根の藤の花の、時過ぎては乾くやうに日々少しづつ衰へて行けばそれでよいのであらう。

遠き火事見るとしもなきのろのろの人声すなり亥の刻の街

 火事は一つばんで遠い。それにも拘らず、火事とさへ云へば見えても見えずとも飛び出して見るのが街の人だ。遠いので話し声も一向弾まないが、これが今夜午後十時の街の光景である。冬になると毎晩半鐘を聞いた昔の東京の場末の情調がよく出て居る。

足柄の山気(さんき)に深く包まれてほととぎすにも身を変へてまし

 ほととぎすを不如帰と書くのはその啼き声の写音であらうが、帰るに如かずといふ言葉の意味から色々支那らしい伝説が生れ、ほととぎすに転身して不如帰不如帰と啼く話なども出来てゐる。そんなことも或はこの歌のモチイフになつて居るかも知れないが、初夏の山深い処で直ちにその啼くのを聞いたら、傷心の人誰も血に泣くほととぎすに為り度くなるであらう。しかしこの歌の響きは必ずしもそんな血涙数行といふ様な悲しいものではない。むしろ前三句の爽快な調子が、伝説的悲劇性を吹き飛ばしてゐるので、反つて明朗なすがすがしい気分のほととぎすが感ぜられる許りである。

まじものも夢も寄りこぬ白日に涙流れぬ血のぼせければ

 明るい真昼間、何の暗い影もない白日の下で、涙が溢れるやうに出て来るのは如何したことであらう。虫物(まじもの)のせゐでも夢のせゐでもあり得ない。血が頭に上つたからだ、外にわけはない。それならなぜ血が上つたのか、答ふるにも及ぶまい。

許されん願ひなりせば君が死をせめて未来に置きて恐れん

 この歌の値打ちは最後の「恐れん」の一句にある。この考へは遂に常人の考へ及ばざる所で、一人晶子さんに許された天恵のやうなものだ、これあるが為に歌が生きて来るのである。君の死を未来に置きたい位は誰も望む所であるが、置いて恐れようとは普通は考へないのである。既に恐れようといふのであるから、未来へ持つていつても現在に比しそれほどよいことにはならない。そこで許されん願ひなりせばと大袈裟にはいふものの、無理なえて勝手な願ひでも何でもない、今と大した変化を望んではゐないことになる。非望は人の同情を惹かない、もし「恐れん」がなかつたら非望になるのである。この歌の生命を分解すると先づこんなことにならうか。

ほととぎす東雲時(しののめどき)の乱声(らんじやう)に湖水は白き波立つらしも

 これも赤城山頂の大沼などを想像しての作であらう。山上の初夏、明方ともなれば、白樺林にはほととぎすが喧しい位啼き続けることだらう、その声が水に響いて静かなまだ明けきらぬ湖水には白波が立つことだらう。作者はこんな想像をめぐらして楽しんでゐる、而してそれを歌に作つて読者に頒つのである。

宮の下車の夫人おしろいを購ひたまふさる事もしき

 多分同行の近江夫人が先に帰られるのを送つて宮の下まで車で行かれた時、作者が降りると夫人も降りて、序に店へ入つて汽車中の料にする積りか何かの白粉を買つたのであらう。それを見て嘗ては私もこんなこともしたのだと往時を囘顧したわけである。この歌の面白さは、しかし、買ふものが白粉である所に存するので、さういふことは優れた作者だけが弁へてゐる。

ませばこそ生きたるものは幸ひと心めでたく今日もありけれ

 生の喜びまたは生命の幸福感を詠出したものであらうが、そののんびりした調子に何となく源氏の君を迎へる紫の上のやうな心持が感ぜられないでもない。

山山が顔そむけたる心地すれ無残に見ゆる己れなるべし

 山を見るに、けふは如何したことか、どの山にも皆顔を背けたやうな形が見える。私の姿がけふは特にみじめに見える為、見るに忍びないのであらう。一種のモノロオグで、わが衰へを自ら怪しむ心の影が山に映じ山をして顔をそむけしむるのである。

椿散る島の少女の水汲場信天翁は嬲られて居ぬ

 伊豆の大島の様なのどかな風光を描出する歌。椿と、少女と、水の少い島にたまたま涌き出してゐる泉と、阿房鳥の信天翁と、これ丈の景物を絵具として描出した一枚の絵である。これを鑑賞するものは、果してそれらが旨く纏つて一個の小天地を成してゐるか如何か、それを調べて見るわけである。

ほととぎす雨山荘を降りめぐる夜もまた次の暁も啼く

 ほととぎすが一晩中啼く、それを作者は強羅の山荘で聞くのであるが、夜は大雨で山荘を中にとり囲む様な気持で降つて居る、その雨の音を衝いて甲高いほととぎすの声が聞こえる、[#「、」は底本では欠落]作者はそれを聞きながら寝てしまつた、夜が明けて目が覚めると雨はやんだがほととぎすはなほ啼いてゐる、恐らく一晩中啼いてゐたのであらう。この歌にはさういふ場合が特定されてゐるのである。

旅人は妻が閨なる床(ゆか)に栖む蟋蟀思ふ千屈菜(みそはぎ)の花

 旅人が留守する妻を思ふ歌の代表的なものの一つに軍王の 山越しの風を時じみ寝る夜落ちず家なる妹をかけて偲びつ といふのがある。上代人の単純な線の太い健康さの出てゐる歌である。当時私達は万葉集をしきりに研究した。晶子さんは別に理由があつて余り好まれなかつたが、それでも埒外には出なかつた。唯我々は他と違つて万葉をまねようとはしなかつた。しかし旅に出た男が家にある妻を思ふといふ様なテマのあるのは、やはり万葉を読んだ影響のあらはれでもあらう。しかしテマを万葉に仮りただけで、吾々の作る処は常に現代の歌であつた。而して万葉人などの夢にも想到しない繊度と新味とを出さうと努めたのであつた、作者は千屈菜の花の咲いてゐるのを見てふと蟋蟀の事を思つた。これは近代人の感覚である。併しそれはモチイフであつて詩即ち芸術品にはまだならない。この感じは何かに具象されなければならない、而してその場合が特殊なものであるほど芸術品としての値は高くなるわけである。そこで作者は先づその蟋蟀を閨の床下で啼くものに特定し、またその閨を夫を旅に出した妻の空閨に限定し、感覚の持主をその旅に出てゐる夫としたのである。さういふ段取りで一個の芸術品としてのこの歌が出来上る。これは私の勝手気儘な臆測であるが順序立てて考へるとこんな風にもなるかといふ事を歌を作る人の御参考までに記したに過ぎない。而してモチイフたる感覚が近代感覚であるので、結果も万葉の旅人の感情などとは丸で違つてくるのである。

ほととぎす明星岳によりて啼く姿あらねどさばかりはよし

 朝早く起き日の覚める様な青葉の色を楽しんでゐると、向ひの明星山でほととぎすが啼き出した。声はあるがほととぎすの常として姿は見えない。姿の見えないといふ事は故人の場合には既にこの世の中に居ないといふことを表はしてゐて、私はその為に日夜悲しんでゐる。然るにほととぎすの場合は姿が見えずともちやんと生存して啼いてゐるのだ。姿のないのもこの程度なら歎くにも当るまいに、私の場合はさうでないから困るのである。

白刃もて刺さんと云ひぬ恋ふと云ふ唯事千度聞きにける子に

 私の手には白刃があります、これであなたを刺す為に私は来ました。私は斯う云つてしまつた。何故ならその男は多くの女に思はれ、その度に I love you のノンセンスを千度も聞いたわけで、何の感じもあるまいと思つたからである。私の場合に限つてそれがどんなに他の友達の遊戯と違つてゐるかを初めから知らせる為であつた。しかしそれは冗談ではない。私としてはほんとうに刺し兼ねないのだ。作者の之を作つた時の気持の中にはこんな感じも少しはあつただらうか。

ゆくりなく君を奪はれ天地も恨めしけれど山籠りする

 寛先生の亡くなられたのは全く偶然の結果であつて罪は旅行にある。それ故に「ゆくりなく」といひ、天地即ち山川を恨むといふのである。君を奪つたのは天地であり自然の風光である、それを思へば恨めしいが、その恨めしい天地の恩を得るためにまた私が来て山籠りをする、[#「、」は底本では欠落]をかしいことがあるものだ。

素足して踏まんと云ひぬ病める人白き落花の夕暮の庭

 早く盛りを過ぎた桜が夕暮の庭を白く見せる程吹雪のやうに散つて居る。直り方の病人が出て来てそれを見て、ああ素足でその上を踏んで見たいなと云つた。家の中を歩くのが漸くでまだ外へは出ない病人のことだから、降りてあの柔かさうな落花を素足で踏んだらさぞ気持のよい事だらうと思うのは成るほどもつともだと作者の同情してゐる歌であらう。

足柄の五月の霧の香に咽ぶ君あらぬ後杜鵑と我と

 五月の若葉時の足柄は好天必ずしも続かず雨や霧の日も多い。その霧の足柄山を包んだ日にその中でほととぎすがしきりに啼き出した。君と共に咽ぶ筈の山の霧であるが君なき後とて図らずも杜鵑と二人で咽んでゐる所ですとあの世の人へ報告する心持も持つてゐるやうな歌である。

戸を繰れば厨の水に有明の薄月射しぬ山桜花

 昔はどこの家にも水甕といふものがあつて一杯水が張つてあつたものだ。朝起きた主婦が台所の戸を繰ると水甕の水から怪しい光が反射してゐる。それは有明の月の光のやうな明るさである。よく見ると外(そと)の山桜の花が映つてそれが光つてゐたのであつた。つまり春の朝の山桜の花の心が薄月の感じで表現されてゐるわけだ。

ほととぎす山に単衣(ひとへ)を著れば啼く何を著たらば君の帰らん

 山の初夏も稍進んで袷を単衣に著替へたらその日からほととぎすが啼き出した。今度何に著替へたら君が帰つてくるのだらう。一々の景物が一々心を掻き乱す種となつた時期の作。

喜びは憂ひ極る身に等し二年三年高照る日見ず

 心に大きな心配事を持つてゐる人は自分の頭の上に杲々と日が輝いてゐることなどは忘れてゐる。それはさうあるべきことだ。しかし私の場合はその反対で、喜びに溢れてゐるのであるが、この二年三年といふものやはり太陽など見上げたこともない。して見れば喜びも憂ひもそれが大きい場合には結果は同じである。物を対照させて効果をあげる一班の表現法があるがこれもその一例である。

ほととぎす虎杖(いたどり)の茎まだ鳥の脚ほど細き奥箱根かな

 青葉若葉に掩はれた早雲山の自然林は目が覚める様に美しいが、その下を歩いて根方を観察すると虎杖の茎などまだ鳥の脚の様に細い。さすがに奥箱根である。それだからほととぎすも啼くのだ。

鳥立(とだち)見よ荊棘(おどろ)のかげの小雀(こがら)だに白鷹羽(は)伸(の)す形して飛ぶ

 鳥の飛び立つ勢ひを見るがよい。籔蔭から飛び立つ小さな雀でさへ、白鷹の羽根を伸ばす形と同じ形をして飛び立つではないか。まして人間、為すあらんとする人間の出発だ、よく見るがよい、勢ひのよさを。先づこんな意味ではないかと思ふがはつきりは分らない。

山暗し灯の多かりし湯本とてはた都とてかひあるべしや

 さすがに山奥の庭は暗い。暗いので余計にものが思ひ出され悲しさも加はるやうだ。しかしそれだからと云つてここへ来る途に立ち寄つた灯の多くついた湯本へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じことだ。

花鎮祭に続き夏は来ぬ恋しづめよと禊してまし

「花鎮祭」は昔、桜の花の敵る頃、疫病を鎮める目的で神祇官の行つた神事。鎮花祭も済んでいよいよ夏になつた。それにつれて私の恋心も日ましに猖獗を極める、そこで今度は恋鎮祭です、そのため禊をして身を浄めませう。鎮花祭の行事の如きは忘られて久しい、作者が古典の中から採り出して之に新生命を吹き込む手腕の冴えいつもながら見事なものだ。

見出でたる古文によりやるせなく君の恋しき山の朝夕

 寛先生歿後書翰などの蒐集が行はれた。それを夫人は先に 亡き人の古き消息人見せぬ多少は恋に渡りたる文 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。その中の一通にひどく昔を思ひ出させるものがあつたのであらう。

河芒ここに寝ばやな秋の人水溢れてば君と取られん

 これも亦昔の秋の玉川の風景である。芒が暖かさうに秋の強い日射しを受けて真綿のやうに光つて居る。それを折敷いて寝たらさぞ気持がよからう。秋の水が溢れて来たらそのまま溺れてしまはう、君と一しよならかまはない。秋をテマにした軽快な情調である。

茫々と吉田の大人(うし)に過去の見えそれよりも濃く我に現る

 寛先生歿後、先生と晩年十五年間親交を続けた説文学者吉田學軒氏は五七日に当つて夫人に一詩を呈した。曰く。楓樹蕭々杜宇天。不如帰去奈何伝。読経壇下千行涙。合掌龕前一縷香。志業未成真可恨。声名空在転堪憐。平生歓語幾囘首。旧夢茫々十四年。夫人は直ちにこの詩の五十六字を使つて五十六首の挽歌を詠まれ寝園と題して公表された。何れも金玉の響きを発する秀什である。これからその内の幾つかを拾つて当時を偲ぶことにしよう。吉田さんには旧夢茫々とうつる過去も私の目にはもつと濃い形に現はれる。「それよりも濃く我に現はる」とは如何だ、日本語も斯うなると字面から光が射すやうだ。

ある宵の浅ましかりし臥所思ひぞ出づる馬追啼けば

 道を迷ひその内日が暮れてしまひ山小屋みたやうな所で仮寝をしたことがある。それを思ひ出した。灯を慕つて飛んで来た馬追が啼き出した為である。その夜も馬追がしきりに啼いてゐた。浅ましかりしとは云ふものの実は懐しい楽しい思ひ出なのである。

青空の下(もと)に楓の拡りて君亡き夏の初まれるかな

「青空の下に楓が拡がる」初夏の光景を抒してこれ以上に出ることは恐らく出来まい。それだけはじめての夏を迎へる寡婦の心持がまざまざと出て居る。

河烏水食む赤き大牛を美くしむごと飛び交ふ夕

 これも亦玉川の夏の夕らしい光景であるが、万有の上に注がれるこの作者の温かい同情がここでは河烏の上に及んで、牛を中心に一幅の平和境を形作らせてゐることが注目される。作者の自然を見るやいつもかうして同情心が離れない。それ故に景を抒しつつ立派な抒情詩となるのである。

我机地下八尺に置かねども雨暗く降り蕭かに打つ

 寛先生は如何いふわけか火葬が嫌ひだといふことなのでその感情を尊重して特に許可を受けて土葬にした。その為、多摩墓地の赤土に恐ろしく深い穴を掘つて棺をその中へ釣り降ろした。この歌の地下八尺はそれをいふのであるが、字面は木下杢太郎君の発明したものを借用したらしい。五月雨がしとしと降つて居る、世の中は暗い。丸で地下八尺の処に眠つてゐる君の側へ私の机を据ゑた感じだ。

わが心寂しき色に染むと見き火の如してふ事の初めに

 火の如き事の初めとは恐らく交歓第一夜を斥すのであらう。その時心を走つた一抹の寂しさがあつた、それを私は忘れることが出来ないといふのであらう。これは炉上の雪でなく、火の中の氷といふ感じで誰も恐らく味はつたのでは無からうか。

一人にて負へる宇宙の重さよりにじむ涙の心地こそすれ

 君と暮した四十年間十余人の子女を育てて私は重荷を負ひ続けて来た、しかし半ばは君に助けられつつ来たのである。今は一人で全宇宙を背負ふことになつたのであるから、その重さからでも涙はにじみ出るであらう。又ついで 業成ると云はば云ふべき子は三人他は如何さまにならんとすらん とも歎いて居られるが結果は一人の例外なくこれら凡ての子女をも女の手一つで立派に育て上げられたのであるから驚き入る外はない。

もの欲しき汚な心の附きそめし瞳と早も知りたまひけん

 君に対する時だけは少くも純真な心でありたいと心掛けて来たが、この頃はいつしか人間の本性が出て来てそれが色にも顕はれるやうになつた。敏感な君のことだからとうにそれに気づいて居られるのであらう。ああいふ御言葉が出るのもその為であらう。「どうしたらよからう、恥しいことでもある」先づこんなことでは無からうかと思はれるが、よくは分らない。

君が行く天路に入らぬものなれば長きかひなし武蔵野の路

 何時の日であつたか、皆で多摩墓地へ詣でた事がある。その帰途車がパンクして仕方なしにぽつぽつ歩き出したことがあつた。それによつて多摩に通ずる街道の真直ぐでどこまでも長いことを皆身にしみて経験した。君の辿られる天路へ之が通ずるものならこの長い長い武蔵野の路もその甲斐があるのだがと、この一些事さへ立派な歌材を提供したわけであつた。

来啼かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ

 愛情の最も純粋な優にやさしい一面を抽出して他を忘れた場合斯ういふ歌が出来る。糸の様な春雨が降り出した。それに今朝は鶯の声がしない、きつと雨を聞きながら巣の中で仲よく朝寝をして居るであらう。今日の様な世相からこんな歌の出来た明治の大御代を顧るとまるで□のやうな話である。

魂は失せ魄滅びずと道教に云ふごと魄の帰りこよかし

 人の生じて始めて化するを魄と曰ひ、既に魄を生ず、陽を魂と曰ふ(左伝)又魂気は天に帰し、形魄は地に帰す(礼記)とあつて古くは少し違つてゐるが、道教では精神を亡びる魂と亡びざる魄との二つに分けて魄は亡びないことになつてゐる。私は既成宗教を信じないからそんなことは如何でもよいが、この道教の言ひ分は俗身に入り易く信じ易い、そこで魄は亡びないといふことにしてそれだけでも帰つて貰ひたい。どんなに喜んで私はそれを迎へることだらう。

椿散る紅椿散る椿散る細き雨降り鶯鳴けば

 これは音楽である。春雨と鶯と椿とを合せるトリオである。唯その中では椿が飛び出して甲高い音を出してゐるわけで、それが頗る珍しい歌である。

いつとても帰り来給ふ用意ある心を抱き老いて死ぬらん

 心の赴くままに矩を越えざる哲人の境地はやがて寂しい我が家刀自の境地でもあつた。女史晩年の作の秀れて高い調子は斯る境地から流れ出す自然の結果で、諸人の近づく能はざる所以も亦ここに存するのであらう。

紫の蝶夜の夢に飛び交ひぬ古里に散る藤の見えけん

 ドガの描いたバレエの踊り子の絵を思ひ出して下さい。その踊り子達が絵の中から抜け出して舞台一面に踊り出したら、この歌の紫の蝶の飛び交はす夢の様な気分になるかも知れない。(ほんとうの踊り子は俗で駄目だ。)又古里に散る藤の見えけんと言つても上の夢の説明ではありません、別の夢を並記して色彩の音楽を続けたまでの事です。何の意味もありはしない。音楽の中から意味を探すこと丈はしない方が賢明だ。

亡き魄の龕と思へる書斎さへ田舎の客の取り散らすかな

 寛先生の葬儀当時の有様は雑誌「冬柏」を見れば窺はれるが、文壇から退かれて久しい割には極めて賑やかに進行し従つて采花荘[#「采花荘」は底本では「菜花荘」]の混雑も一通りではなかつた。先生の書斎だらうが何だらうが客で溢れてゐた。その際は仕方がないとしてもあとから出て来た人達の内誰かが多少の不行儀を繰り返したかも知れない。こんな歌の残つたことは少し残念だが、実はそれほどの事はなかつたやうだ。之は前記吉田さんの詩中にある「龕」といふ字を詠み込む為に作られた歌だからである。私はさう思つてゐる。しかし事実は如何であらうと、歌としては実に面白い歌だからここにも抜くのである。

浅ましく涙流れていそのかみ古りし若さの血はめぐりきぬ

 枕言葉などいふのんきなものを我々はめつたに使はなかつたが、この石の上だけは晶子さんが時々使つた。オオルドミスといふ程でもない古女の場合が考へられる。恋など再びしようとは夢にも思つてゐなかつた古女が、人の情にほだされてうかうか近づいて行つたが、或日その人の告白と強い抱擁とに逢つたやうな場合ではないか。止め度もなく涙が流れ出る一方久しく眠つて居た昔の若い血が突然目を覚まして心臓から踊り出す。涙はいよいよ流れて止まない。そんなことではないかと思ふが如何であらうか。

我死なず事は一切顛倒す悲しむべしと歎きしはなし

 昭和九年正月雪の那須で病まれた夫人は一時相当の重態であつたらしく、寛先生は痛心の余り血を吐く様な歌を沢山詠んで居られる、この悲しむべしと歎くといふのがそれである。例へば 妻病めば我れ代らんと思ふこそ彼の女も知らぬ心なりけれ 我が妻の病めるは苦し諸々に我れ呻(うめ)かねど内に悲む 世の常の言葉の外の悲しみに云はで守りぬ病める我妻 など殆ど助からない様な様相を一時は呈したらしい。その時死ぬべきであつた私が死なずに事は一切顛倒し、歎いたものが逆に歎かれるものになつた不思議な運命を直截簡明に抒し去つたものだが、純情に対する純情の葛藤であるから人心を打たずには置かない。

これ天馬うち見るところ鈍の馬埴馬の如きをかしさなれど

 これ作者の自負であらう。作者は若くしてその異常な本分を発揮した為世間も早くから天才女と認めて清紫二女に比べ、自分もそれを感じてゐた。しかし一面美しくもなし、話は下手だし、字は拙し(後には旨くなつたが)、才気煥発などとは凡そ縁の遠い地味な存在でもある。見た所鈍な馬であり埴馬の様なをかしい馬だが[#「だが」は底本では「だか」]、これでも一度時至れば空をゆく天馬になれるのだ。あんまり見くびつて貰ひ度くないといふのであらう。何か憤る所でもあつて発したものであらう。

在(ま)し在さず定かならずも我れ思ひ人は主人(あるじ)の無しとする家

 この家の主人は死んでしまつてゐないのだと他人は簡単に極めてしまつて疑はない。しかし妻である私はさうは思はない、半信半疑である、死んだやうでもあり、そのうちに旅から帰つて来さうでもある。他人の様に簡単に片づけられないのが妻の場合である。

麦の穂の上なる丘の一つ家隈無く戸あけ傘造り居ぬ

 恐らく昔の渋谷の奥の方ででも見た実景を単に写生したものであらうが、隈なく戸あけが旨いと思ふ、景色の中心がよく掴まれてゐる。

人の世に君帰らずば堪へ難し斯かる日既に三十五日

 如何かしてまた帰つて来るうな気がして毎日を送つて居るのだが、ほんたうにこの世へは帰らないのだとすればそれは堪へ難いことである。斯ういふ空頼めを抱いての日送りも既に三十五日になるが何時迄続くのであらう。

十三の絃弾きすます喜びに君も命も忘れける時

 恋愛を超え、生命を超えて芸術の三昧境に入る心持であるが、その場合音楽が一番適当なので昔のこと故十三絃の箏を選んだのであらう。実際晶子さんの琴を弾くのを聞いたこともなし、そんな話も聞かないが、琴の歌は相当多いから習はれたのではあらう。

源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず

 紫式部が源氏を書き出したのは夫に死に別れた後であるが、その年は若かつた。私も今一人になつたが、既に六十になる。大変な違ひだ。何が書けようか。といふのであるが、しかし作者は既にこの時には源氏の新々訳に着手して居たのではなかつたらうか。

雨の日の石崩道(いしくえみち)に聞きしよりけものと思ふ山ほととぎす

 雨中赤城登山の記念の一つであらう。負へる石かと子を迷ひといつたあの大雨の中で、石の崩れ落ちる山路で聞いたほととぎすは何としても猿のやうな形のけものの声としか思はれなかつた。その記憶があるので今でもほととぎすを聞くとそんな気がする。

移り住む寂しとしたる武蔵野に一人ある日となりにけるかな

 作者の設計に成る荻窪の家が落成して移られた当時の歌に 身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん 恋しなど思はずもがな東京の灯を目に置かずあるよしもがな など云ふのがあつて余程寂しかつたものに違ひない。何しろ荻窪の草分けで、東京へ通勤するものなどは一人も居なかつた時代のことであるから肯かれる。その寂しい思ひ出のある武蔵野に一人取り残されたのである。

みくだもの瓜に塩してもてまゐる廊に野馬嘶く上つ毛の宿

 胡瓜をむいてそれに塩をふりかけ、みくだものとして恭しく献上に及ぶ、その廊下には塩でも嘗めたい風に放牧の野馬が遊びに来て人なつかしく嘶く、これが上州の一宿屋の風景であるといふのであるが、これも赤城山上青木屋のそれであらう。

思ひ出は尺取虫がするやうに克明ならず過現無差別

 思ひ出といふものは尺取虫が尺をとりつつ進む様に規則正しくそれからそれと遡つたり又はその逆に昔から順を追つて思ひ出すなどといふものではない。過去現在一切無差別に一度に出て来て頭を混乱させる、それが今の私を苦しめる思ひ出[#「思ひ出」は底本では「思ひ出で」]の実態である。

泣寝してやがてその儘寝死(ねじに)してやさしき人の骸(から)と云はれん

 作者には斯ういふ女らしいやさしい一面がある。その一面を抽出して手の平の上で愛撫してゐる心持、それがこの歌である。

少女子が呼び集めたるもののごと白浜にある春の波かな


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