雲雀病院
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著者名:原民喜 

 うつとりと眼を細めてゐた空二は急にハツとしたやうに婦人を視つめた。相変らず婦人は子守唄を歌ふやうな調子で喋りつづけてゐるのだつた。
「………とその人のお家の庭には春になると、山吹や藤の花が咲いて雀がチイチクチイチク飛びまはります。大勢の仔雀はそこで鬼ごつこをして遊ぶのでした。雀のお母さんと雀のお父さんは高い屋根の上からそれを見てをります。………」
 空二はまた、うとうとと遙かな気持になつて来る。
「………その人の意地は、毒喰はば皿までといふ風なものでした。ですから、その人は世の中の立派な人々が避けてゐることや、碌でもないことには却つて夢中になる傾向がありました。そのやうなことをしてゐて、その人の疵は癒えたのでせうか。いいえ、ますますひどくなつてゆくばつかしでした。疵の痛みはまたその人を駆つて泥沼の方へ赴かせます。さうして、その人がある年齢に達した時のことです。その人は全くもう自分で自分をどうにもならないことを発見しました。その人は白痴のやうに寝そべつて、古疵の一つ一つを吟味しました。――あの時ああでなかつたら自分はかうなつてはゐなかつただらう。あの時ああなつたのはその前にあんなことがあつたせゐだ、あの際あんなことがあつたのはあの前ああならなかつたからだ。と、その人は繰返し、蒸返し、とりかへしのつかぬことを嘆じてゐました。――ああ、私を救つてくれ、私ははじめからやりなほしたい、なにもかも生れ変つて来なきや駄目だ。と、その人は悲しさうに呟くのでした。………」
 何かに驚かされたやうに空二はハツと眼を開いた。しかし婦人は前と同じ調子でやはらかに喋つてゐた。
「その人のお庭で跳ねまはつてゐた仔雀が、一羽の仔雀が、ふと樋の端にひつかかつて怪我をしました。仔雀は痛いのでピイピイピイピイ泣き叫びました。お母さんの雀とお父さんの雀はさつそく手当をしてやりましたが、その子は翼を痛めたので、どうもうまく飛べなくなりました。そこで、お父さんとお母さんは相談して、雲雀のお医者さんに治してもらふことにしました。お母さんがその子を乳母車に乗せて、雲雀病院へつれてゆくのでした。………」
 また空二は茫とした気持で眼を細めて行つた。
「………その人は消耗された精神と肉体とを抱いて生きてをりました。時間が後へ逆行してゆくことを夢みながら、その人は睡つてをりました。すると夢の中で、その人はふと目が覚めました。するとその人は乳母車に乗せられて、何処か訳のわからぬ場所へ運ばれてをりました。………」
 空二はまた不思議さうにちよつと眼を開いた。婦人は「雲雀病院」の話をしてゐるらしかつた。
「………乳母車の中に雀のお母さんは漫画の御本やキヤラメルを入れて、怪我をした仔雀を慰めてやりました。雀のお母さんは乳母車を押して青空の中をずんずん進んでゆきます。………」
 再び空二は青空の中を飛んでゆくやうに、うつとりと睡り入つた。

 すつかり睡り入つてゐた空二は婦人に抱へられて乳母車に乗せられた。小山羊の首の鈴がチンチン鳴り、車輪が廻りだしても空二はまだよく睡つてゐた。睡つたまま空二は小さな花束をしつかり掌に握り締めてゐた。その花束は汗ばんだ指から自然に少しづつずりさうになつた。いま、花束はすつぼりと彼の指から滑り落ちた。その拍子に空二はほつと目が覚めてしまつた。見ると、あたりは紫色の靄に包まれてもう薄暗くなつてゐたが、婦人の顔はまだ白くわかつた。やや、冷たい風が睡り足つた空二の頬に快く触れた。
「あああ」と空二は声を出した。
「お寝坊さんの空二さん、もうお目を覚しなさい。もうあそこに雲雀病院のあかりが見えて来ましたよ」
 婦人は母親のやうに空二に話しかけた。彼女が指ざす方向を見ると、なだらかな丘の上にオレンヂ色の灯がぽかりと浮いてゐた。




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