雲雀病院
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著者名:原民喜 

「ああ、お魚が怕かつたのですか、それではもうこれは逃がしてやりませうね」
 婦人は砂まみれの魚を水の中に放つた。しかし、空二はますます烈しく顫へて来た。「怕い、怕い」と、夢中で婦人に縋りついた。婦人は空二を抱き上げて、再び芝生のところへ運んで行つた。空二の顔は死人のやうに真白であつた。
「おお、可哀相に、暫くここでお休みなさい」と、婦人は膝の上に空二の頭を載せてやり、静かに頭髪を撫でてゐた。
「見える! 見える」と、空二はなほも口走つた。
「いいえ、もう見えは致しません。そら、眼を閉ぢて、静かに息をなさいませ。何にも、なんにも見えはしないでせう」
 婦人の膝の温もりが、空二の頬に伝はつて来るに随つて、彼は次第に気が鎮まつて行つた。
「お可哀相に、あなたは大分神経が乱れてゐるのですね」
 さう云ふ婦人の声を空二はかすかに聞いた。そして、何ともいへない郷愁をそそる甘い香りがまぢかに感じられた。不思議な時間が流れ去つたやうに思へた。
 空二はパツと眼を開いて、あたりを見廻した。婦人の顔の向には樅の木が見え、その向には青空が覗いてゐる。
「そら、もう元気をお出しなさい。もう怕いことなんかないでせう」
 空二は頷いた。それから素直に起上ると、あたりの草原を珍しさうに眺めた。菫、蒲公英、紫雲英、いろんな花が咲いてゐた。
「あ、空二さんに花束を拵へてあげませうね」
 婦人はあちこちと飛び歩いて花を摘んだ。忽ち、小さな花束が空二の掌に渡された。空二は渡された花束を大切さうに持つたまま、虚脱したやうな顔つきであつた。
「ここへお坐んなさい、お話をしてあげませう」
 芝生の傾斜の窪んだ褥に、空二と婦人は脚を投げ出して坐つた。

「むかし、むかし、あるところに、空二さんのやうに怜悧なお方がありました。その人の背の高さは、ちやうど空二さん位ありました。その人の顔はそれも空二さんによく似てをりました。それに、その人が生れた家も丁度空二さんのお家ぐらゐでした。………」
 やはらかい口調で婦人が喋り出すと、空二は婦人の声に連れられて、ふんわりした雲の中に這入つて行くやうな気持がした。彼の眼はとろんとして、上の□と下の□が今にも重なりさうになる。
「………その人はだんだん生長してゆきましたが、ちよつとしたことが、すぐに気に触る性質でした。そのために、普通の人なら平気なことも、その人にとつては堪へられないことがありました。そしてその人は心のあちこちに、沢山の負傷をして参りました。その人は自分で自分に打克つ力が無かつたために、その疵はなかなか治りませんでした。そのうへ何か立派なことをしようと思ひたつても疵のことがすぐ気にかかりました。すると疵の方でその人を誘惑してすぐに怠けさせてしまひます。そんな風に、その人は意志の弱いところがありましたが、また妙に意地は強いのでした。………」
 うつとりと眼を細めてゐた空二は急にハツとしたやうに婦人を視つめた。相変らず婦人は子守唄を歌ふやうな調子で喋りつづけてゐるのだつた。
「………とその人のお家の庭には春になると、山吹や藤の花が咲いて雀がチイチクチイチク飛びまはります。大勢の仔雀はそこで鬼ごつこをして遊ぶのでした。雀のお母さんと雀のお父さんは高い屋根の上からそれを見てをります。………」
 空二はまた、うとうとと遙かな気持になつて来る。
「………その人の意地は、毒喰はば皿までといふ風なものでした。ですから、その人は世の中の立派な人々が避けてゐることや、碌でもないことには却つて夢中になる傾向がありました。そのやうなことをしてゐて、その人の疵は癒えたのでせうか。いいえ、ますますひどくなつてゆくばつかしでした。疵の痛みはまたその人を駆つて泥沼の方へ赴かせます。さうして、その人がある年齢に達した時のことです。その人は全くもう自分で自分をどうにもならないことを発見しました。その人は白痴のやうに寝そべつて、古疵の一つ一つを吟味しました。――あの時ああでなかつたら自分はかうなつてはゐなかつただらう。あの時ああなつたのはその前にあんなことがあつたせゐだ、あの際あんなことがあつたのはあの前ああならなかつたからだ。と、その人は繰返し、蒸返し、とりかへしのつかぬことを嘆じてゐました。――ああ、私を救つてくれ、私ははじめからやりなほしたい、なにもかも生れ変つて来なきや駄目だ。と、その人は悲しさうに呟くのでした。………」
 何かに驚かされたやうに空二はハツと眼を開いた。しかし婦人は前と同じ調子でやはらかに喋つてゐた。
「その人のお庭で跳ねまはつてゐた仔雀が、一羽の仔雀が、ふと樋の端にひつかかつて怪我をしました。仔雀は痛いのでピイピイピイピイ泣き叫びました。お母さんの雀とお父さんの雀はさつそく手当をしてやりましたが、その子は翼を痛めたので、どうもうまく飛べなくなりました。そこで、お父さんとお母さんは相談して、雲雀のお医者さんに治してもらふことにしました。お母さんがその子を乳母車に乗せて、雲雀病院へつれてゆくのでした。………」
 また空二は茫とした気持で眼を細めて行つた。
「………その人は消耗された精神と肉体とを抱いて生きてをりました。時間が後へ逆行してゆくことを夢みながら、その人は睡つてをりました。すると夢の中で、その人はふと目が覚めました。するとその人は乳母車に乗せられて、何処か訳のわからぬ場所へ運ばれてをりました。………」
 空二はまた不思議さうにちよつと眼を開いた。婦人は「雲雀病院」の話をしてゐるらしかつた。
「………乳母車の中に雀のお母さんは漫画の御本やキヤラメルを入れて、怪我をした仔雀を慰めてやりました。雀のお母さんは乳母車を押して青空の中をずんずん進んでゆきます。………」
 再び空二は青空の中を飛んでゆくやうに、うつとりと睡り入つた。

 すつかり睡り入つてゐた空二は婦人に抱へられて乳母車に乗せられた。小山羊の首の鈴がチンチン鳴り、車輪が廻りだしても空二はまだよく睡つてゐた。睡つたまま空二は小さな花束をしつかり掌に握り締めてゐた。その花束は汗ばんだ指から自然に少しづつずりさうになつた。いま、花束はすつぼりと彼の指から滑り落ちた。その拍子に空二はほつと目が覚めてしまつた。見ると、あたりは紫色の靄に包まれてもう薄暗くなつてゐたが、婦人の顔はまだ白くわかつた。やや、冷たい風が睡り足つた空二の頬に快く触れた。
「あああ」と空二は声を出した。
「お寝坊さんの空二さん、もうお目を覚しなさい。もうあそこに雲雀病院のあかりが見えて来ましたよ」
 婦人は母親のやうに空二に話しかけた。彼女が指ざす方向を見ると、なだらかな丘の上にオレンヂ色の灯がぽかりと浮いてゐた。




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