鎮魂歌
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著者名:原民喜 

 それから僕は恋をしだしたのだらうか。僕は廃墟の片方の入口から片一方の出口まで長い長い広い広いところを歩いて行く。空漠たる沙漠を隔てて、その両側に僕はゐる。僕の父母の仮りの宿と僕の伯母の仮りの家と……。伯母の家の方向へ僕が歩いてゆくとき、僕の足どりは軽くなる。僕の眼には何かちらと昔みたことのある美しい着物の模様や、何でもないのにふと僕を悦ばしてくれた小さな品物や、そんなものがふと浮んでくる。そんなものが浮んでくると僕は僕が懐しくなる。伯母とあふたびに、もつと懐しげなものが僕につけ加はつてゆく。伯母の云つてくれることなら、伯母の言葉ならみんな僕にとつて懐しいのだ。僕は伯母の顔の向側に母をみつけようとしてゐるのかしら。だが、死んだ母の向側には何があるのか。向側よ、向側よ、……ふと何かが僕のなかで鳴りひびきだす。僕は軽くなる。僕は柔かにふくれあがる。涙もろくなる。嘆きやすくなる。嘆き? 今まで知らなかつたとても美しい嘆きのやうなものが僕を抱き締める。それから何も彼もが美しく見えてくる。嘆き? 靄にふるへる廃墟まで美しく嘆く。あ、あれは死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きがひびきあふからだらうか。嘆き? 嘆き? 僕の人生でたつた一つ美しかつたのは嘆きなのだらうか? わからない、僕は若いのだ。僕の人生はまだ始つたばかりなのだ。僕はもつと探してみたい。嘆き? 人生でたつた一つ美しいのは嘆きなのだらうか。
 それから僕は彷徨つて行つた。僕はやつぱし何かを探してゐるのだ。僕が死んだ母のことを知つてしまつたことは僕の父に知られてしまつた。それから間もなく僕は東京へやられた。それから僕は東京を彷徨つて行つた。東京は僕を彷徨はせて行つた。(僕のなかできこえる僕の雑音……。ライターが毀れてしまつた。石鹸がない。靴の踵がとれた。時計が狂つた。書物が欲しい。ノートがくしやくしやだ。僕はくしやくしやだ。僕はバラバラだ。書物は僕を理解しない。僕も書物を理解できない。僕は気にかかる。何もかも気にかかる。くだらないものが一杯充満して散乱する僕の全存在、それが一つ一つ気にかかる。教室で誰かが誰かと話をしてゐる。人は僕のことを喋つてゐるのかしら。向側の舗道を人間が歩いてゐる。あれは僕なのかしら。音楽がきこえてくる。僕は音楽にされてしまつてゐる。下宿の窓の下を下駄の音が走る。走つてゐるのは僕だ。以前のことを思つては駄目だ、こちらは日毎に苦しくなつて行く……父の手紙。父の手紙は僕を揺るがす。伊作さん立派になつて下さい立派に、……伯母の声だ。その声も僕を揺るがす。みんなどうして生きて行つてゐるのかまるで僕には見当がつかない。みんな人間は木端微塵にされたガラスのやうだ。世界は割れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ。僕は理解できない。僕は結びつけない。僕は揺れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ、僕は理解したい。僕は結びつきたい。僕は生きて行きたい。揺れてゐるのは僕だけなのかしら。いつも僕のなかで何か爆発する音響がする。いつも何かが僕を追かけてくる。僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐる。僕はつき抜けて行きたい。どこかへ、どこかへ)それから僕は東京と広島の間を時々往復してゐるが、僕の混乱と僕の雑音は増えてゆくばかりなのだ。僕の中学時代からの親しい友人が僕に何にも言はないで、ぷつりと自殺した。僕の世界はまた割れて行つた。僕のなかにはまた風穴ができたやうだ。風のなかに揺らぐ破片、僕の雑音、雑音の僕、僕の人生ははじまつたばつかしなのだ。ああ、僕の雑音のかなたに一つの澄みきつた歌ごゑがききとりたいのだが……。

 伊作の声がぷつりと消えた。雑音のなかに一つの澄みきつたうたごゑ……それをききとりたいと云つて伊作の声が消えた。僕はふらふらと歩いてゐる。僕のまはりがふらふらと歩いてくる。群衆のざわめきのなかに、低い、低い、しかし、絶えまなくきこえてくる、悲しい、やはらかい、静かな、嘆くやうに美しい、小さな小さな囁き、僕もその囁きにきき入りたいのだが、……。やつぱし僕のまはりはざわざわ揺れてゐる。揺れてゐるなかから、ふと声がしだした。お絹の声が僕にきこえた。

〈お絹の声〉

 わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけてゐたのかしら。あの時わたしの夫は死んだ。わたしの家は光線で歪んだ。火は近くまで燃えてゐた。わたしの夫が死んだのを知つたのは三日目のことだつた。わたしの息子はわたしと一緒に壕に隠れた。わたしは何が終つたのやら何が始つたのやらわからなかつた。火は消えたらしかつた。二日目に息子が外の様子を見て戻つて来た。ふらふらの青い顔で蹲つた。何か嘔吐してゐた。あんまりひどいので口がきけなくなつてゐたのだ。翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。夫のゐた場所では誰も助かつてゐなかつた。あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかつた。水道は壊れてゐた。電燈はつかなかつた。雨が、風が吹きまくつた。わたしはパタンと倒れさうになる。
 足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。またパタンと倒れさうになる。足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。息子は父のネクタイを闇市に持つて行つて金にかへてもどる。わたしは逢ふ人ごとに泣ごとを云つておどおどしてゐた。だがわたしは泣いてはゐられなかつた。泣いてゐる暇はなかつた。おどおどしてはゐられなかつた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしはせつせつとミシンを踏んだ。ありとあらゆる生活の工夫をつづけた。わたしが着想することはわたしにさへ微笑されたが、それでもどうにか通用してゐた。中学生の息子はわたしを励まし、わたしの助手になつてくれた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしの夢のなかでさへさう叫びつづけた。
 突然、パタンとわたしは倒れた。わたしはそれからだんだん工夫がきかなくなつた。わたしはわたしに迷はされて行つた。青い三日月が焼跡の新しい街の上に閃いてゐる夕方だつた。わたしがミシン仕事の仕上りをデパートに届けに行く途中だつた。わたしは雑沓のなかでわたしの昔の愛人の後姿を見た。そんなはずはなかつた。愛人は昔もう死んでゐたから。だけどわたしの目に見えるその後姿はわたしの目を離れなかつた。わたしはこつそり後からついて歩いた。どこまでも、どこまでも、この世の果ての果てまでも見失ふまいとする熱望が突然わたしになにか囁きかけた。そんなはずはなかつた。わたしは昔それほど熱狂したおぼえはなかつた。わたしはわたしが怕くなりかかつた。突然、その後姿がわたしの方を振向いてゐた。突き刺すやうな眼なざしで、……ハツと思ふ瞬間、それはわたしの夫だつた。そんなはずはなかつた。夫はあのとき死んでしまつたのだから。突き刺すやうな眼なざしに、わたしはざくりと突き刺されてしまつてゐた。熱い熱いものが背筋を走ると足はワナワナ震へ戦いた。人ちがひだ、人ちがひだ、とパツと叫んでわたしは逃げだしたくなる。わたしはそれでも気をとりなほした。わたしを突き刺した眼なざしの男は、次の瞬間、人混みの青い闇に紛れ去つてゐた。後姿はまだチラついたが……。
 人ちがひだ、人ちがひだつた、わたしはわたしに安心させようとした。後姿はまだチラついたが……わたしはわたしの眼を信じようとした。わたしはハツキリ眼をあけてゐたかつた。水晶のやうに澄みわたつて見える、そんな視覚をとりもどしたかつた。澄みきつた水の底に泳ぐ魚の見える、そんな感覚をよびもどしたかつた。だけど、わたしはがつかりしたのか、ひどく視力がゆるんでしまつた。怕しい怕しいことに出喰はした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかつた。わたしはまはりの人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いた。後姿はまだチラついたが……。
 わたしはそれでも気をとりなほした。人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いて、何処へ行くのか迷つてはゐなかつた。いつものやうにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行つたが、ときどき何かがつかりしたものが、わたしのまはりをザラザラ流れる。品物を渡して金を受取らうとすると、わたしは突然泣けさうになつた。金を受取るといふ、この世間竝の、あたりまへの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のやうな気持にさせた。そんな気持になつてはいけない、今はよほどどうかしてゐる。わたしはわたしを支へようとした。今はよほどどうかしてゐる。しつかりしてゐないと、何だか空間がパチンと張裂けてしまふ。何気なく礼を云つてその金を受取ると、わたしは一つの危機を脱したやうな気がしたものだ。それからわたしは急いで歩いた。急がなければ、急がなければ、後から何かが追かけてくる。わたしは急いで歩いてゐるはずだつたが、ときどきぼんやり立どまりさうになつた。後姿はまだチラついた。
 家に戻つても落着けなかつた。わたしはよほどどうかしてゐる。わたしはよほどどうかしてゐる。今すぐ今すぐしつかりしないと大変なことになりさうだつた。わたしはわたしを支へようとした。わたしはわたしに凭れかかつた。ゆるくゆるくゆるんで行く睡い瞼のすぐまのあたりを凄い稲妻がさツと流れた。わたしはうとうと睡りかかるとハツとわたしは弾きかへされた。後姿がまたチラついた。青いわたしの脊髄の闇に……。
 わたしはわたしに迷はされてゐるらしい。わたしはわたしに脅えだしたらしい。何でもないのだ、何でもないのだ、わたしなんかありはしない。昔から昔からわたしはわたしをわたしだと思つたことなんかありはしない。お盆の上にこぼれてゐた水、あの水の方がわたしらしかつた。水、……水、……水、……わたしは水になりたいとおもつた。青い蓮の葉の上でコロコロ転んでゐる水銀の玉、蜘蛛の巣をつたつて走る一滴の水玉、そんな優しい小さなものに、そんな美しい小さなものに、わたしはなれないのかしら。わたしはわたしを宥めようとおもふと、静かな水が眼の前をながれた。静かな水は苔の上をながれる。小川の水が静かに流れる。あつちからもこつちからも川が流れる。白帆が見える、燕が飛んだ。川の水はうれしげに海にむかつて走つた。海はたつぷりふくらんでゐた。たのしかつた。うれしさうだつた、懐しかつた。鴎がヒラヒラ閃いてゐた。海はひろびろと夢をみてゐるやうだつた。夢がだんだん仄暗くなつたとき、突然、海の上を光線が走つた。海は真暗に割れて裂けた。わたしはわたしに弾きかへされた。わたしはわたしにいらだちだした。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。わたしのほかにわたしなんかありはしない。わたしはわたしに獅噛みつかうとした。わたしは縮んで固くなつてゐた。小さく小さく出来るだけ小さく、もうこれ以上小さくなれなかつた。もうこれ以上は固まれさうになかつた。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。小さな殻の固いかたまり、わたしはわたしを大丈夫だとおもつた。とおもつた瞬間また光線が来た。わたしは真二つに割られてゐたやうだ。それから後はいろいろのことが前後左右縦横に入乱れて襲つて来た。わたしは苦しかつた。わたしは悶えた。
 地球の裂け目が見えて来た。それは紅海と印度洋の水が結び衝突し渦巻いてゐる海底だつた。ギシギシと海底が割れてゆくのに、陸地の方では何にも知らない。世界はひつそり静まつてゐた。ヒマラヤ山のお花畑に青い花が月光を吸つてゐた。そんなに地球は静かだつたが、海底の渦はキリキリ舞つた。大変なことになる大変なことになつたとわたしは叫んだ。わたしの額のなかにギシギシと厭な音がきこえた。わたしは鋏だけでも持つて逃げようかとおもつた。わたしは予感で張裂けさうだ。それから地球は割れてしまつた。濛々と煙が立騰るばかりで、わたしのまはりはひつそりしてゐた。煙の隙間に見えて来た空間は鏡のやうに静かだつた。と何か遠くからザワザワと潮騒のやうなものが押し寄せてくる。騒ぎはだんだん近づいて来た。と目の前にわたしは無数の人間の渦を見た。忽ち渦の両側に絶壁がそそり立つた。すると青空は無限の彼方にあつた。「世なほしだ! 世なほしだ!」と人間の渦は苦しげに叫びあつて押合ひ犇めいてゐる。人間の渦は藻掻きあひながら、みんな天の方へ絶壁を這ひのぼらうとする。わたしは絶壁の硬い底の窪みの方にくつついてゐた。そこにをれば大丈夫だとおもつた。が、人間の渦の騒ぎはわたしの方へ拡つてしまつた。わたしは押されて押し潰されさうになつた。わたしはガクガク動いてゆくものに押されて歩いた。後から後からわたしを小衝いてくるもの、ギシギシギシギシ動いてゆくものに押されて歩いてゐるうち、わたしの硬かつた足のうらがふはふはと柔かくなつてゐた。わたしはふはふは歩いて行くうちに、ふと気がつくと沙漠のやうなところに来てゐた。いたるところに水溜りがあつた。水溜りは夕方の空の血のやうな雲を映して燃えてゐた。やつぱし地球は割れてしまつてゐるのがわかる。水溜りは焼け残つた樹木の歯車のやうな影を映して怒つてゐた。大きな大きな蝙蝠が悲しげに鳴叫んだ。わたしもだんだん悲しくなつた。わたしはだんだん透きとほつて来るやうな気がした。透きとほつてゆくやうな気がするのだけれど、足もとも眼の前も心細く薄暗くなつてゆく。どうも、わたしはもう還つてゆくところを失つた人間らしかつた。わたしは水溜りのほとりに蹲つてしまつた。両方の掌で頬をだきしめると、やがて頭をたれて、ひとり静かに泣き耽つた。ひつそりと、うつとりと、まるで一生涯の涙があふれ出るやうに泣いてゐたのだ。ふと気がつくと、あつちの水溜りでも、こちらの水溜りでも、いたるところの水溜りにひとりづつ誰かが蹲つてゐる。ひつそりと蹲つて泣いてゐる。では、あの人たちももう還つてゆくところを失つた人間なのかしら、ああ、では、やつぱし地球は裂けて割れてしまつたのだ。ふと気がつくと、わたしの水溜りのすぐ真下に階段が見えて来た。ずつと下に降りて行けるらしい階段をわたしはふらふら歩いて行つた。仄暗い廊下のやうなところに突然、目がくらむやうな隙間があつた。その隙間から薄荷の香りのやうな微風が吹いてわたしの頬にあたつた。見ると、向うには真青な空と赤い煉瓦の塀があつた。夾竹桃の花が咲いてゐる。あの塀に添つてわたしは昔わたしの愛人と歩いてゐたのだ。では、あの学校の建ものはまだ残つてゐたのかしら。……そんな筈はなかつた、あそこらもあの時ちやんと焼けてしまつたのだから。わたしのそばでギザギザと鋏のやうな声がした。その声でわたしはびつくりして、またふらふら歩いて行つた。また隙間が見えて来た。わたしの生れた家の庭さきの井戸が、山吹の花が明るい昼の光に揺れて。……そんな筈はなかつた、あそこはすつかり焼けてしまつたのだから。またギザギザの鋏の声でわたしはびつくりしてゐた。また隙間が見えて来る。仄暗い廊下のやうなところははてしなくつづいた。……それからわたしはまたぞろぞろ動くものに押されて歩いてゐた。わたしは腰を下ろしたかつた。腰を下ろして何か食べようとしてゐた。すると急に何かぱたんとわたしのなかで滑り墜ちるものがあつた。わたしは素直に立上つて、ぞろぞろ動くものに随いておとなしく歩いた。さうしてゐれば、わたしはどうにかわたしにもどつて来さうだつた。みんな人間はぞろぞろ動いてゆくやうだつた。その足音がわたしの耳には絶え間なしにきこえる。無数に交錯する足音についてわたしの耳はぼんやり歩き廻る。足音、足音、どうしてわたしは足音ばかりがそんなに懐しいのか。人がざわざわ歩き廻つて人が一ぱい群れ集つてゐる場所の無数の足音が、わたしそのもののやうにおもへてきた。わたしの眼には人間の姿は殆ど見えなくなつた。影のやうなものばかりが動いてゐるのだ。影のやうなものばかりのなかに、無数の足音が、……それだけがわたしをぞくぞくさせる。足音、足音、どうしてもわたしは足音が恋しくてならない。わたしはぞろぞろ動くものについて歩いた。さうしてゐると、さうしてゐるうちに、わたしはわたしにもどつて来さうだつた。ある日わたしはぼんやりわたしにもどつて来かかつた。わたしの息子がスケツチを見せてくれた。息子が描いた川の上流のスケツチだつた。わたしはわたしに息子がゐたのをふと気がついた。わたしはわたしに迷はされてはいけなかつたのだ。わたしにはまだ息子がゐたのだ。突然わたしは不思議におもへた。ほんとに息子は生きてゐるのかしら。あれはやつぱし影ではないのか。わたしはハツと逃げ出したくなつた。わたしは跣で歩き廻つた。ぞろぞろ動くものに押されて、ザワザワ揺れるものに揺られて、影のやうなものばかりが動いてゐるなかをひとりふらふら歩き廻つた。さうしてゐれば、さうしてゐる方がやつぱしわたしらしかつた。わたしの袖を息子がとらへた。「お母さん帰りませう、家へ」……家へ? まだ還るところがあつたのかしら。わたしはそれでも素直になつた。わたしはわたしに迷はされまい。わたしにはまだ息子がゐるのだ。それだのに何かパタンとわたしのなかに滑り墜ちるものがある。と、すぐわたしはまた歩きたくなるのだ。足音、足音、……無数にきこえる足音がわたしを誘つた。わたしはそのなかに何かやさしげな低い歌ごゑをきく。わたしはそのなかを歩き廻つてゐる。さうしてゐると足音がわたしのなかを歩き廻る。わたしはときどき立どまる。わたしにはまだ息子があるのだ。わたしにはまだわたしがあるのだ。それからまたふらふら歩きまはる。わたしにはもうわたしはない、歩いてゐる、歩いてゐる、歩いてゐるものばつかしだ。
 お絹の声がぷつりと消えた。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを通り越す群衆が僕には僕の影のやうにおもへる。僕は僕を探しまはつてゐるのか。僕は僕に迷はされてゐるのか。僕は伊作ではない。僕はお絹ではない。僕ではない。伊作もお絹も突離された人間なのか。伊作の人生はまだこれから始つたばかりなのだ。お絹にはまだ息子があるのだ。そして僕には、僕には既に何もないのだらうか。僕は僕のなかに何を探し何を迷はうとするのか。
 地球の割れ目か、夢の裂け目なのだらうか。夢の裂け目?……さうだ。僕はたしかにおもひ出せる。僕のなかに浮んで来て僕を引裂きさうな、あの不思議な割れ目を。僕は惨劇の後、何度かあの夢をみてゐる。崩れた庭に残つてゐる青い水を湛へた池の底なしの貌つきを。それは僕のなかにあるやうな気がする。僕がそのなかにあるやうな気もする。それから突然ギヨツとしてしまふ。骨身に沁みるばかりの冷やりとしたものに……。僕は還るところを失つてしまつた人間なのだらうか。……自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのために生きよ。僕は僕のなかに嘆きを生きるのか。
 隣人よ、隣人よ、死んでしまつた隣人たちよ。僕はあの時満潮の水に押流されてゆく人の叫声をきいた。僕は水に飛込んで一人は救ひあげることができた。青ざめた唇の脅えきつた少女は微かに僕に礼を云つて立去つた。押流されてゐる人々の叫びはまだまだ僕の耳にきこえた。僕はしかしもうあのとき水に飛込んで行くことができなかつた。……隣人よ、隣人よ。さうだ、君もまた僕にとつて数時間の隣人だつた。片手片足を光線で捩がれ、もがきもがき土の上に横はつてゐた男よ。僕が僕の指で君の唇に胡瓜の一片を差あたへたとき、君の唇のわななきは、あんな悲しいわななきがこの世にあるのか。……ある。たしかにある。……隣人よ、隣人よ、黒くふくれ上り、赤くひき裂かれた隣人たちよ、そのわななきよ。死悶えて行つた無数の隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、僕にはそれがまだはつきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはつきり見てゐたことだ。
 その一つの死は天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、それも僕にはわからないのだ。僕にはつきりわかるのは、僕がその一つの嘆きにつらぬかれてゐたことだけだ。そして僕は生き残つた。お前は僕の声をきくか。
 僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕はここにゐる。僕はこちら側にゐる。僕はここにゐない。僕は向側にゐる。僕は僕の嘆きを生きる。僕は突離された人間だ。僕は歩いてゐる。僕は還るところを失つた人間だ。僕のまはりを歩いてゐる人間……あれは僕 で は な い。
 僕はお前と死別れたとき、これから既に僕の苦役が始ると知つてゐた。僕は家を畳んだ。広島へ戻つた。あの惨劇がやつて来た。飢餓がつづいた。東京へ出て来た。再び飢餓がつづいた。生存は拒まれつづけた。苦役ははてしなかつた。何のために何のための苦役なのか。わからない、僕にはわからない、僕にはわからないのだ。だが、僕のなかで一つの声がかう叫びまはる。
 僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。僕を引裂くすべてのものに、身の毛のよ立つものに、死の叫びに堪へよ。それからもつともつと堪へてゆけよ、フラフラの病ひに、飢ゑのうめきに、魔のごとく忍びよる霧に、涙をそそのかすすべての優しげな予感に、すべての還つて来ない幻たちに……。僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。最後まで堪へよ、身と自らを引裂く錯乱に、骨身を突刺す寂寥に、まさに死のごとき消滅感にも……。それからもつともつと堪へてゆけよ、一つの瞬間のなかに閃く永遠のイメージにも、雲のかなたの美しき嘆きにも……。
 お前の死は僕を震駭させた。病苦はあのとき家の棟をゆすぶつた。お前の堪へてゐたものの巨きさが僕の胸を押潰した。
 おんみたちの死は僕を戦慄させた。死狂ふ声と声とはふるさとの夜の河原に木霊しあつた。
真夏ノ夜ノ
河原ノミヅガ
血ニ染メラレテ ミチアフレ
声ノカギリヲ
チカラノアリツタケヲ
オ母サン オカアサン
断末魔ノカミツク声
ソノ声ガ
コチラノ堤ヲノボラウトシテ
ムコウノ岸ニ ニゲウセテユキ
 それらの声はどこへ逃げうせて行つただらうか。おんみたちの背負されてゐたギリギリの苦悩は消えうせたのだらうか。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを歩き廻つてゐる無数の群衆は……僕ではない。僕ではない。僕ではない。僕ではなかつたそれらの声はほんたうに消え失せて行つたのか。それらの声は戻つてくる。僕に戻つてくる。それらの声が担つてゐたものの壮厳さが僕の胸を押潰す。戻つてくる、戻つてくる、いろんな声が僕の耳に戻つてくる。
アア オ母サン オ父サン 早ク夜ガアケナイノカシラ
窪地で死悶えてゐた女学生の祈りが僕に戻つてくる。
兵隊サン 兵隊サン 助ケテ
 鳥居の下で反転してゐる火傷娘の真赤な泣声が僕に戻つてくる。
アア 誰カ僕ヲ助ケテ下サイ 看護婦サン 先生
 真黒な口をひらいて、きれぎれに弱々しく訴へてゐる青年の声が僕に戻つてくる、戻つてくる、戻つてくる、さまざまの嘆きの声のなかから、
ああ つらい つらい
と、お前の最後の声が僕のなかできこえてくる。さうだ、僕は今漸くわかりかけて来た。僕がいつ頃から眠れなくなつたのか、何年間僕が眠らないでゐるのか。……あの頃から僕は人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。面白さうに笑ひあつてゐる人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た。いたるところに、あらゆる瞬間にそれらはあつた。人間一人一人の核心のなかに灼きつけられてゐた。人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しさうになつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはきびしく僕に立ちむかつて来た。僕はそのために圧潰されさうになつてゐるのだ。僕は僕に訊ねる。救ひはないのか、救ひはないのか。だが、僕にはわからないのだ。僕は僕の眼を捩ぎとりたい。僕は僕の耳を截り捨てたい。だが、それらはあつた、それらはあつた、僕は錯乱してゐるのだらうか。僕のまはりをぞろぞろ歩き廻つてゐる人間……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それはあつた。それらはあつた。僕の頭のなかを歩き廻つてゐる群衆……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それらはあつた。それらはあつた。
 それらはあつた。それらはあつた。と、ふと僕のなかで、お前の声がきこえてくる。昔から昔から、それらはあつた、と……。さうだ、僕はもつともつとはつきり憶ひ出せて来た。お前は僕のなかに、それらを視つめてゐたのか。僕もお前のなかに、それらを視てゐたのではなかつたか。救ひはないのか、救ひはないのか、と僕たちは昔から叫びあつてゐたのだらうか。それだけが、僕たちの生きてゐた記憶ではなかつたのか。だが救ひは。僕にはやはりわからないのだ。お前は救はれたのだらうか。僕にはわからない。僕にわかるのは救ひを求める嘆きのなかに僕たちがゐたといふことだけだ。そして僕はゐる、今もゐる、その嘆きのなかにつらぬかれて生き残つてゐる。そしてお前はゐる、今もゐる、恐らくはその嘆きのかなたに……。
 救ひはない、救ひはない、と、ふと僕のなかで誰かの声がする。僕はおどろく。その声は君か。友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。忽ち僕の眼のまへに若い日の君のイメージは甦る。交響楽を、交響楽を、人類の大シンフオニーを夢みてゐた友よ。人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあひ、歓声が歓声を煽りかへす日を夢みてゐた友よ。あの人類の大劇場の昂まりゆく波のイメージは……。だが(救ひはない、救ひはない)と友は僕に呼びつづける。(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救ひはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕は僕の眼を磨ぐばかりだ。)友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。堪へて、堪へて、堪へ抜いてゐる友よ。救ひはないのか、救ひはないのか。……僕はふらふら歩き廻る。やつぱし歩き廻つてゐるのか。僕のまはりを歩きまはつてゐる群衆。僕の頭のなかの群衆。やつぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いてゐるのか。雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。ゆるいゆるい声が僕に話しかける。

〈ゆるいゆるい声〉

 ……僕はあのときパツと剥ぎとられたと思つた。それからのこのこと外へ出て行つたが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れてゐた。いろんな部分から火や血や人間の屍が噴き出てゐて、僕をびつくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しさうな気がした。僕は医やされさうな気がした。僕は僕のなかに開かれたものを持つて生きて行けさうだつた。それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行つた。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかつた。まるで僕は地獄から脱走した男だつたのだらうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかつた。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵つた。まるで何かわるい病気を背負つてゐるものを見るやうな眼つきで。このことにばかり興味をもつて見られる男でしかないかのやうに。それから僕の窮乏は底をついて行つた。他国の掟はきびしすぎた。不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだらうか……。だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなつたのか。僕はそれが無性に気にかかる。毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまはりはだらだらと過ぎて行くばかりだつた。僕は僕のなかから突然爽やかなるものが跳ねだしさうになる。だが、だらだらと日はすぎてゆく……。僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負つてゐるものでだんだん屈められてゆく。

〈またもう一つのゆるい声が〉

 ……僕はあれを悪夢にたとへてゐたが、時間がたつに随つて、僕が実際みる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののやうになつてゐた。たとへば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩れてゆくのだ。空には青い青い茫とした光線がある。この妖しげな夢の風景には恐怖などと云ふより、もつともつとどうにもならぬ郷愁が喰らひついてしまつてゐるやうなのだ。それから、あの日あの河原にずらりと竝んでゐた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟のなかにぎつしり詰め込められてゐる不思議と可憐な粘土細工か何かのやうに夢のなかでは現れてくる。その無気味な粘土細工は蝋人形のやうに色彩まである。そして、時々、無感動に蠢めいてゐる。あれはもう脅迫などではなささうだ。もつともつとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匍ひ寄つてくる憂愁に似てゐる。それから、あの焼け失せてしまつた家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐つてゐた畳のところとか、僕の腰かけてゐた窓側とかいふものはちよつとも現れて来ず、雨に濡れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちさうになつてゐた柱とか、もつともつとどうにもならぬ侘しげなものばかりが、ふはふはと地霊のやうにしのび寄つてくる。僕と夢とあの惨劇を結びつけてゐるものが、こんなに茫々として気が抜けたものになつてゐるのは、どうしたことなのだらうか。

〈更にもう一つの声がゆるやかに〉

 ……わたしはたつた一人生き残つてアフリカの海岸にたどりついた。わたしひとりが人類の最後の生き残りかとおもふと、わたしの躯はぶるぶると震へ、わたしの吐く息の一つ一つがわたしに別れを告げてゐるのがわかる。わたしの視てゐる刹那刹那がすべてのものの終末かとおもふと、わたしは気が遠くなつてゆく。なにものももうわたしで終り、なにものももうわたしから始らないのかとおもふと、わたしのなかにすべての慟哭がむらがつてくる。わたしの視てゐる碧い碧い波……あんなに碧い波も、ああ、昔、昔、……人間が視ては何かを感じ何かを考へ何かを描いてゐたのだらうに、……その碧い碧い波ももうわたしの……わたし以前のしのびなきにすぎない。死・愛・孤独・夢……さうした抽象観念ももはやわたしにとつて何にならう。わたしの吐く息の一つ一つにすべての記憶はこぼれ墜ち、記号はもはや貯えおくべき場を喪つてゆく。ああ、生命(いのち)……生命……これが生命あるものの最後の足掻なのだらうか。ああ、生命、生命、……人類の最後の一人が息をひきとるときがこんなに速くこんなに速くもやつてきたのかとおもふと、わたしのなかにすべての悔恨がふきあがつてくる。なぜに人間は……なぜに人間は……なぜ人間は……ああ、しかし、もうなにもかもとりかへしのつかなくなつてしまつたことなのだ。わたしひとりではもはやどうにもならない。わたしひとりではもはやどうしやうもない。わたしはわたしの吐く息の一つ一つにはつきりとわたしを刻みつけ、まだわたしの生きてゐることをたしかめてゐるのだらうか。わたしはわたしの吐く息の一つ一つに吸ひ込まれ、わたしの無くなつてゆくことをはつきりとあきらめてゐるのだらうか。ああ、しかし、もうどちらにしても同じことのやうだ。

〈更にもう一つの声が〉

 ……わたしはあのとき殺されかかつたのだが、ふと奇蹟的に助かつて、ふとリズムを発見したやうな気がした。リズムはわたしのなかから湧きだすと、わたしの外にあるものがすべてリズムに化してゆくので、わたしは一秒ごとに熱狂しながら、一秒ごとに冷却してゆくやうな装置になつた。わたしは地上に落ちてゐたヴアイオリンを拾ひあげると、それを弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しながら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸びてゐくのかわからなくなる。わたしは詩のことも考へてみる。わたしにとつて詩は、(詩はわななく指で みだれ みだれ 細い文字の こころのうづき)だが、わたしにとつて詩は、(詩は情緒のなかへ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよぢのぼらうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてしなくはてしなくさまよつてゐるやうだ。わたしが発見したとおもつたのは衝動だつたのかしら、わたしをさまよはせてゐるのは痙攣なのだらうか。まだわたしは原始時代の無数の痕跡のなかで迷ひ歩いてゐるやうだつた。

〈更にもう一つの声が〉

 ……わたしはあのとき死んでしまつたが、ふとどうしたはずみか、また地上によびもどされてゐるやうだ。あれから長い長い年月が流れたかとおもふと、青い青い風の外套、白い白い雨の靴……。帽子? 帽子はわたしには似合はなかつた。生き残つた人間はまたぞろぞろと歩いてゐた。長い長い年月が流れたかとおもつたのに。街の鈴懸は夏らしく輝き、人の装ひはいぢらしくなつてゐた。ある日、突然、わたしの歩いてゐる街角でパチンと音と光が炸裂した。雷鳴なのだ。忽ち雨と風がアスフアルトの上をザザザと走りまはつた。走り狂ふ白い烈しい雨脚を美しいなとおもつてわたしはみとれた。みとれてゐるうちに泣きたくなるほど烈しいものを感じだした。あのなかにこそ、あのなかにこそ、とわたしはあのなかに飛込んでしまひたかつた。だが、わたしは雨やどりのため、時計店のなかに這入つて行つた。ガラスの筒のなかに奇妙な置時計があつた。時計の上にくつついてゐる小さな鳥の玩具が一秒毎に向を変へて動いてゐる。わたしはその鳥をぼんやり眺めてゐると、ふと、望みにやぶれた青年のことがおもひうかんだ。人の世の望みに破れて、かうして、くるくると動く小鳥の玩具をひとりぼんやり眺めてゐる青年のことが……。だが、わたしはどうしてそんなことを考へてゐるのか。わたしも望みに破れた人間らしい。わたしには息子はない、妻もない。わたしは白髪の老教師なのだが。もしわたしに息子があるとすれば、それは沙漠に生き残つてゐる一匹の蜥蜴らしい。わたしはその息子のために、あの置時計を購つてやりたかつた。息子がそいつをパタンと地上に叩きつける姿が見たかつたのだ。
 ……………………
 声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。どの声もどの声も僕のまはりを歩きまはる。どの声もどの声も救ひはないのか、救ひはないのかと繰返してゐる。その声は低くゆるく群盲のやうに僕を押してくる。押してくる。押してくる。さうだ、僕は何年間押されとほしてゐるのか。僕は僕をもつとはつきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のなかには何があるのか。救ひか? 救ひはないのか救ひはないのかと僕は僕に回転してゐるのか。回転して押されてゐるのか。それが僕の救ひか。違ふ。絶対に違ふ。僕は僕にきつぱりと今云ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……救ひはない。
 僕は突離された人間だ。還るところを失つた人間だ。突離された人間に救ひはない。還るところを失つた人間に救ひはない。
 では、僕はこれで全部終つたのか。僕のなかにはもう何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。僕は存在しなくてもいいのか。違ふ。それも違ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……僕にはある。
 僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。
 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴りひびく。鳴りひびく。嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは無数のやうに。結びつく、一つの嘆きは無数のやうに。一つのやうに、無数のやうに。鳴りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴りひびき、結びつき、一つのやうに、無数のやうに……。
 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。……戻つて来た、戻つて来た、僕の歌ごゑが僕にまた戻つて来た。これは僕の錯乱だらうか。これは僕の無限回転だらうか。だが、戻つて来るやうだ、戻つてくるやうだ。何かが今しきりに戻つて来るやうだ。僕のなかに僕のすべてが……。僕はだんだん爽やかに人心地がついてくるやうだ。僕が生活してゐる場がどうやらわかつてくるやうだ。僕は群衆のなかをさまよひ歩いてばかりゐるのではないやうだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から僕は踏みはづした、ふらふらの宇宙にばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から、既に久しい以前から、鎮魂歌を書かうと思つてゐるやうなのだ。鎮魂歌を、鎮魂歌を、僕のなかに戻つてくる鎮魂歌を……。
 僕は街角の煙草屋で煙草を買ふ。僕は突離された人間だ。だが殆ど毎朝のやうにここで煙草を買ふ。僕は煙草をポケツトに入れてロータリを渡る。舗道を歩いて行く。舗道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものやうに靴磨屋がゐる。舗道の細い空地には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いてゐる。いつものやうに何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕が、通行人が、商店が、いつものやうに何もかも存在する。僕は還るところを失つた人間。だが僕の嘆きは透明になつてゐる。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映つてくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ飜つて行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ……、流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまはりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまはるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提げた男、店頭に置かれてゐる鉢植の酸漿、……あらゆるものが無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、ひそかに、ひそかに、もつとも美しい、もつとも優しい囁きのやうに。僕はいつも行く喫茶店に入り椅子に腰を下ろす。いつもゐる少女は、いつものやうに僕が黙つてゐても珈琲を運んでくる。僕は剥ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆつくり煙草を吸ひ珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶に生けられてゐる白百合の花。僕のまはりの世界は剥ぎとられてはゐない。僕のまはりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅のレコードの音、僕が腰を下ろしてゐる椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられてゐない懐しい世界が音と形に充満してゐる。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移つてゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられてゐない世界は生活意欲に充満してゐる。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、むすびつき、流れてゆく、憧れのやうにもつとも激しい憧れのやうに、祈りのやうに、もつとも切なる祈りのやうに。
 それから、交叉点にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものやうに濠端を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想してゐる。静かな、かなしい物語は靴音のやうに僕を散歩させてゆく。それから僕はいつものやうに雑沓の交叉点に出てゐる。いつものやうに無数の人間がそはそは動き廻つてゐる。いつものやうにそこには電車を待つ群衆が溢れてゐる。彼等は帰つて行くのだ。みんなそれぞれ帰つてゆくらしいのだ。一つの物語を持つて。一つ一つ何か懐しいものを持つて。僕は還るところを失つた人間、剥ぎとられた世界の人間。だが僕は彼等のために祈ることだつてできる。僕は祈る。(彼等の死が成長であることを。その愛が持続であることを。彼等が孤独ならぬことを。情欲が眩惑でなく、狂気であまり烈しからぬことを。バランスと夢に恵まれることを。神に見捨てられざることを。彼等の役人が穏かなることを。花に涙ぐむことを。彼等がよく笑ひあふ日を。戦争の絶滅を。)彼等はみんな僕の眼の前を通り過ぎる。彼等はみんな僕のなかを横切つてゆく。四つ角の破れた立看板の紙が風にくるくる舞つてゐる。それも横切つてゆく。僕のなかを。透明のなかを。無限の速度で、憧れのやうに、祈りのやうに、静かに、素直に、無限のかなたで、ひびきあふため、結びつくため……。
 それから夜。僕のなかでなりひびく夜の歌。
 生の深みに、……僕は死の重みを背負ひながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の壮厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となつて僕の祈願にゐる。父よ、あなたはゐる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはゐる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはゐる、葡萄棚の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかつた束の間に嘗ての姿をとりもどすかのやうに、みんな初々しく。
 友よ、友よ、君たちはゐる、にこやかに新しい書物を抱へながら、涼しい風の電車の吊革にぶらさがりながら、たのしさうに、そんなに爽やかな姿で。
 隣人よ、隣人よ、君たちはゐる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿で、そんなに悲しく。
 そして、妻よ、お前はゐる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かなところまで、最も切なる祈りのやうに。
 死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは……ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。
 僕は堪へよ、静けさに堪へよ。幻に堪へよ。生の深みに堪えよ。堪へて堪へて堪へてゆくことに堪へよ。一つの嘆きに堪へよ。無数の嘆きに堪へよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失つた僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
 明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもつてそこを通りすぎるだらう。




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