鎮魂歌
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著者名:原民喜 

わたしは地上に落ちてゐたヴアイオリンを拾ひあげると、それを弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しながら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸びてゐくのかわからなくなる。わたしは詩のことも考へてみる。わたしにとつて詩は、(詩はわななく指で みだれ みだれ 細い文字の こころのうづき)だが、わたしにとつて詩は、(詩は情緒のなかへ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよぢのぼらうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてしなくはてしなくさまよつてゐるやうだ。わたしが発見したとおもつたのは衝動だつたのかしら、わたしをさまよはせてゐるのは痙攣なのだらうか。まだわたしは原始時代の無数の痕跡のなかで迷ひ歩いてゐるやうだつた。

〈更にもう一つの声が〉

 ……わたしはあのとき死んでしまつたが、ふとどうしたはずみか、また地上によびもどされてゐるやうだ。あれから長い長い年月が流れたかとおもふと、青い青い風の外套、白い白い雨の靴……。帽子? 帽子はわたしには似合はなかつた。生き残つた人間はまたぞろぞろと歩いてゐた。長い長い年月が流れたかとおもつたのに。街の鈴懸は夏らしく輝き、人の装ひはいぢらしくなつてゐた。ある日、突然、わたしの歩いてゐる街角でパチンと音と光が炸裂した。雷鳴なのだ。忽ち雨と風がアスフアルトの上をザザザと走りまはつた。走り狂ふ白い烈しい雨脚を美しいなとおもつてわたしはみとれた。みとれてゐるうちに泣きたくなるほど烈しいものを感じだした。あのなかにこそ、あのなかにこそ、とわたしはあのなかに飛込んでしまひたかつた。だが、わたしは雨やどりのため、時計店のなかに這入つて行つた。ガラスの筒のなかに奇妙な置時計があつた。時計の上にくつついてゐる小さな鳥の玩具が一秒毎に向を変へて動いてゐる。わたしはその鳥をぼんやり眺めてゐると、ふと、望みにやぶれた青年のことがおもひうかんだ。人の世の望みに破れて、かうして、くるくると動く小鳥の玩具をひとりぼんやり眺めてゐる青年のことが……。だが、わたしはどうしてそんなことを考へてゐるのか。わたしも望みに破れた人間らしい。わたしには息子はない、妻もない。わたしは白髪の老教師なのだが。もしわたしに息子があるとすれば、それは沙漠に生き残つてゐる一匹の蜥蜴らしい。わたしはその息子のために、あの置時計を購つてやりたかつた。息子がそいつをパタンと地上に叩きつける姿が見たかつたのだ。
 ……………………
 声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。どの声もどの声も僕のまはりを歩きまはる。どの声もどの声も救ひはないのか、救ひはないのかと繰返してゐる。その声は低くゆるく群盲のやうに僕を押してくる。押してくる。押してくる。さうだ、僕は何年間押されとほしてゐるのか。僕は僕をもつとはつきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のなかには何があるのか。救ひか? 救ひはないのか救ひはないのかと僕は僕に回転してゐるのか。回転して押されてゐるのか。それが僕の救ひか。違ふ。絶対に違ふ。僕は僕にきつぱりと今云ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……救ひはない。
 僕は突離された人間だ。還るところを失つた人間だ。突離された人間に救ひはない。還るところを失つた人間に救ひはない。
 では、僕はこれで全部終つたのか。僕のなかにはもう何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。僕は存在しなくてもいいのか。違ふ。それも違ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……僕にはある。
 僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。
 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴りひびく。鳴りひびく。嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは無数のやうに。結びつく、一つの嘆きは無数のやうに。一つのやうに、無数のやうに。鳴りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴りひびき、結びつき、一つのやうに、無数のやうに……。
 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。……戻つて来た、戻つて来た、僕の歌ごゑが僕にまた戻つて来た。これは僕の錯乱だらうか。これは僕の無限回転だらうか。だが、戻つて来るやうだ、戻つてくるやうだ。何かが今しきりに戻つて来るやうだ。僕のなかに僕のすべてが……。僕はだんだん爽やかに人心地がついてくるやうだ。僕が生活してゐる場がどうやらわかつてくるやうだ。僕は群衆のなかをさまよひ歩いてばかりゐるのではないやうだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から僕は踏みはづした、ふらふらの宇宙にばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から、既に久しい以前から、鎮魂歌を書かうと思つてゐるやうなのだ。鎮魂歌を、鎮魂歌を、僕のなかに戻つてくる鎮魂歌を……。
 僕は街角の煙草屋で煙草を買ふ。僕は突離された人間だ。だが殆ど毎朝のやうにここで煙草を買ふ。僕は煙草をポケツトに入れてロータリを渡る。舗道を歩いて行く。舗道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものやうに靴磨屋がゐる。舗道の細い空地には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いてゐる。いつものやうに何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕が、通行人が、商店が、いつものやうに何もかも存在する。僕は還るところを失つた人間。だが僕の嘆きは透明になつてゐる。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映つてくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ飜つて行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ……、流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまはりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまはるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提げた男、店頭に置かれてゐる鉢植の酸漿、……あらゆるものが無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、ひそかに、ひそかに、もつとも美しい、もつとも優しい囁きのやうに。僕はいつも行く喫茶店に入り椅子に腰を下ろす。いつもゐる少女は、いつものやうに僕が黙つてゐても珈琲を運んでくる。僕は剥ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆつくり煙草を吸ひ珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶に生けられてゐる白百合の花。僕のまはりの世界は剥ぎとられてはゐない。僕のまはりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅のレコードの音、僕が腰を下ろしてゐる椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられてゐない懐しい世界が音と形に充満してゐる。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移つてゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられてゐない世界は生活意欲に充満してゐる。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、むすびつき、流れてゆく、憧れのやうにもつとも激しい憧れのやうに、祈りのやうに、もつとも切なる祈りのやうに。
 それから、交叉点にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものやうに濠端を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想してゐる。静かな、かなしい物語は靴音のやうに僕を散歩させてゆく。それから僕はいつものやうに雑沓の交叉点に出てゐる。いつものやうに無数の人間がそはそは動き廻つてゐる。いつものやうにそこには電車を待つ群衆が溢れてゐる。彼等は帰つて行くのだ。みんなそれぞれ帰つてゆくらしいのだ。一つの物語を持つて。一つ一つ何か懐しいものを持つて。僕は還るところを失つた人間、剥ぎとられた世界の人間。だが僕は彼等のために祈ることだつてできる。僕は祈る。(彼等の死が成長であることを。その愛が持続であることを。彼等が孤独ならぬことを。情欲が眩惑でなく、狂気であまり烈しからぬことを。バランスと夢に恵まれることを。神に見捨てられざることを。彼等の役人が穏かなることを。花に涙ぐむことを。彼等がよく笑ひあふ日を。戦争の絶滅を。)彼等はみんな僕の眼の前を通り過ぎる。彼等はみんな僕のなかを横切つてゆく。四つ角の破れた立看板の紙が風にくるくる舞つてゐる。それも横切つてゆく。僕のなかを。透明のなかを。無限の速度で、憧れのやうに、祈りのやうに、静かに、素直に、無限のかなたで、ひびきあふため、結びつくため……。
 それから夜。僕のなかでなりひびく夜の歌。
 生の深みに、……僕は死の重みを背負ひながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の壮厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となつて僕の祈願にゐる。父よ、あなたはゐる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはゐる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはゐる、葡萄棚の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかつた束の間に嘗ての姿をとりもどすかのやうに、みんな初々しく。
 友よ、友よ、君たちはゐる、にこやかに新しい書物を抱へながら、涼しい風の電車の吊革にぶらさがりながら、たのしさうに、そんなに爽やかな姿で。
 隣人よ、隣人よ、君たちはゐる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿で、そんなに悲しく。
 そして、妻よ、お前はゐる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かなところまで、最も切なる祈りのやうに。
 死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは……ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。
 僕は堪へよ、静けさに堪へよ。幻に堪へよ。生の深みに堪えよ。堪へて堪へて堪へてゆくことに堪へよ。一つの嘆きに堪へよ。無数の嘆きに堪へよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失つた僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
 明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもつてそこを通りすぎるだらう。




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