下町
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著者名:林芙美子 

「あゝ、何だか眼がさえちやつて寝られねえなア……どうも、馴れねえ事はするもンぢやねえよ……」「あら、鶴石さん、貴方、遊びに行つた事はないの?」「そりやア、男だもの、あるさ。玄人ばかりが相手だ」「男は、いゝわねえ……」りよは、男はいゝわねと、つい口に出したが、さう云ふか云はないうちに、鶴石がさつと起きて来て、りよのそばへ重くのしかゝつて来た。蒲団の上からであつたので、りよは男の力いつぱいで押される情熱に任せてゐた。りよは黙つたまゝ暗闇の中に眼をみはつてゐる、鶴石の黒い頭がりよの頬の上に痛かつた。ぱあつと、瞼の裏に虹が開くやうな光が射した。りよの小鼻のあたりに鶴石の不器用な熱い唇が触れる。
「駄目か……」りよは蒲団の中で脚をつつぱつてゐた。ひどい耳鳴りがした。「いけないわ……私シベリアの事を考へるのよ」りよは思ひもかけない、悪い事を云つたやうな気がした。鶴石は変なかつかうで蒲団の上に重くのしかゝつたまゝぢいつとしてしまつた。頭を垂れて、神に平伏してゐるやうな森閑としたかつかうだつた。りよは一瞬、済まないやうな気がした。暫くして力いつぱいで鶴石の熱い首を抱いてやつた。
 二日ほどして、りよは、留吉を連れていそいそと四ツ木の鶴石のところへ出掛けて行つた。何時もその時刻には、小舎の硝子戸のところに、鉢巻をして立つてゐてくれる鶴石が今日は見えなかつた。りよは不思議な気がして、留吉をさきに走らせてみた。「知らない人がゐるよツ」留吉がさう云つて走つて戻つた。りよは胸さわぎがした。入口のところへ行つて小舎の中をのぞくと、若い男が二人で、押入れの鶴石のベッドを片づけてゐるところである。「何だい、をばさん……」眼の小さい男が振り返つて尋ねた。「鶴石さんはいらつしやいますか?」「鶴さん、昨夜、死んぢやつたよツ」「まア!」りよは、まア! と云つたきり声も出なかつた。煤ぼけた神棚にお光(あか)りがあがつてゐるのも妙だと思つたけれども、まさか鶴石が死んだ為とは思はなかつた。
 鶴石が、鉄材をのつけたトラックに乗つて、大宮からの帰り、何とかと云ふ橋の上から、トラックが河へまつさかさまに落ちて、運転手もろとも死んでしまつたのだと教へてくれた。今日、会社のものや、鶴石の姉が大宮で鶴石の死骸をだびにふして、明日の朝は戻つて来ると云ふのである。りよは呆然としてしまつた。呆んやりして、二人の男の片づけ事を見てゐると、棚の上にりよが初めの日に買つて貰つた茶袋が二本並んでゐた。一本は半分ほどのところで袋が折り曲げてあつた。「をばさん、鶴さんとは知り合ひかい?」「えゝ、一寸知つてるもンですから……」「いゝ人間だつたがなア……何も大宮まで行く事はなかつたンだよ。つい、誘はれて昼過ぎから出掛けちやつたンだ。わざわざ復員して来て、馬鹿みちまつたと云ふもンだなア……」肥えた方が、山田五十鈴のヱハガキをはづして、ぷつとヱハガキの埃を口で吹いた。りよは呆んやりしてしまつた。七輪もやかんも長靴もそのまゝで、四囲は少しも変つてはゐない。黒板に眼がいくと、赤いチョークで、リヨどの、二時まで待つた、と下手な字で書いてあつた。りよは留吉の手を取つて、重いリュックをゆすぶりあげながら、板塀を曲つたが急にじいんと鼻の奥がしびれる程熱い涙があふれて来た。「をぢさん死んぢやつたの?」「うん……」「どこで死んだンだらう……」「河へはまつちやつたンだとさ……」りよは歩きながら泣いた。涙が噴いて眼が痛くなるほど泣いた。
 りよと留吉が浅草へ出たのは二時頃であつた。駒形の橋の見える方へ出て、河添ひに白鬚の方へ歩いた。こゝが隅田川と云ふのだらうと、りよは青黒い海のやうな水を見て歩いた。――もしもの事があつて、子供が出来たら困ると云つたら、鶴石はどんな責任でも負ふから心配しないでくれと云つて、あの朝別れる時に、鶴石はりよに、毎月二千円づつ位は、自分にもめんだうをみせてくれと云つた。鉛筆をなめながら、小さい帳面にりよの稲荷町の住所を書きとめてゐた。別れしなに、鶴石は田原町の洋品屋で留吉にネーム入りの野球帽子を買つてくれたりした。雨のあがつたぬかるみの電車通りを、やつとミルクホールを探しあてて三人で一本づつ牛乳を註文して飲んだ。
 りよは河風に吹かれながらぶらぶらと河ぶちを歩きながら思ひ出してゐるのだ。白鬚のあたりに水鳥が淡く群れ立つてゐた。青黒い流れの上を、様々な荷船が往来してゐた。りよはシベリアの良人のおもかげよりも、色濃く鶴石のおもかげの方が、はつきりと浮んで来る。「お母ちやん、漫画買つてくれよ」「あとで買つてやるよ」「さつき、いつぱい本のある店の前通つたね……」「さうかい」「見なかつた?」りよはまた後へ引きかへした。どこを歩いていゝのかわけが判らない。二度とあゝした男にめぐりあふ事はあるまいと思へた。「お母ちやん、何か食べようよ」りよは次から次とねだつて来る留吉が急に癪にさはつて来る。白い野球帽子の赤いネームのがかはいかつた。どこへ行くあてもなかつた。りよは、河ぶちのしもたや風なバラックの家々を眺めて、家のある人達が羨ましかつた。二階に蒲団を干してあるのが眼について、りよはその家の格子を開けた。「静岡のお茶でございますけど、香りのいゝお茶、如何でございますか?」と、愛嬌のいゝ声で呼んだ。返事がないので、もう一度りよが呼ぶと、正面の梯子段の上から、「いらないよツ」とつつけんどんな若い女の声がした。りよはまたその隣りの家の硝子戸を開ける。「静岡のお茶でございますが……」「はい、いりませんよオ」玄関わきの部屋から男の声で断わられた。りよは一軒々々根気よく玄関に立つたが、一軒もりよに荷をおろせと云ふ家はなかつた。留吉はぐづりながらりよの後から歩いて来る。淋しみをまぎらすために、りよは誰も買つてくれなくても、一軒づつ戸口に立つのが面白かつた。乞食よりはましだと思つた。二貫目あまりのリュックは相当肩にしびれて来る。りよはリュックのベルトのあたる肩のところへ、手拭を一筋づつあててゐた。
 翌る日、りよは、留吉を家に置いて、一人で四ツ木へ出掛けた。子供を連れてゐないせゐかしみじみと独りで鶴石の事を思ふ自由があつた。板塀を曲ると、思ひがけなく小舎の中で火が弾ぜてゐる。りよは、最初の日のことがなつかしくリュックをずりあげながら硝子戸に近よつて行つた。はつぴを着た年を取つた男が七輪に薪を燃やしてゐた。いぶつた煙がもうもうと小さい窓から噴いてゐた。「何だね?」その男が、煙にむせながらこつちをむいた。
「お茶を売りに来てたもンです……」「あゝお茶はまだ上等なのが沢山あるからいらねえよ……」りよは硝子戸へ手をかけてゐたのをやめて、すつと小舎から離れた。あの小舎の中へ這入つてみたところでどうにもなるものではないのだ。あの老人に聞いて、鶴石の姉の家を尋ねて、せめて線香の一本でもそなへて来たいとも考へないではなかつたのだけれども、りよはそれもあきらめてしまつた。どうなるものでもないのだ。いまは、何も彼もものうい気がした。何の聯想からか、りよは、鶴石の子供をもしも、みごもるやうな事があつたら、生きてはゐられないやうな気がして来た。シベリアから何時かは良人は戻つて来てくれるだらうけれども、もしもの事があつたら死ぬより仕方がないやうにも考へられて来る。――だが、珍しく四囲は明るい陽射しで、河底の乾いた堤の両側には、燃えるやうな青草が眼に沁みた。りよの良心は案外傷つかなかつた。鶴石を知つた事を悪いと云つた気は少しもなかつた。
 行商をしてみて、茶が売れなかつたら清水へ帰るつもりで、上京して来たのだけれども、りよは、商売があつても、なくても東京がいゝと思つたし、のたれ死しても東京の方がいまはいゝのだ。
 りよは堤の青草の上に腰を降ろした。眼の下の、コンクリートのかけらのそばに、仔猫の死骸が向うむきに捨ててあつた。りよはすぐ立つて肩の荷をゆすぶりあげて駅の方へ歩いた。ふつと横路地をはいると、玄関の硝子格子に、板の打ちつけてある貧しげな家へ声をかけた。「静岡のお茶はいりませんでせうか?」「さうね、いくら? 高いのでせう?」りよが格子を開けると、足袋の芯縫ひを内職にしてゐるらしく、二三人の女がこつちを向いた。「一寸待つて下さいな。今空鑵探してみますからね」と、次の間へ小柄な女が消えて行つた。自分と同じやうな女達がせつせと足袋底を縫つてゐる。時々針が光つた。




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