多摩川
著者名:林芙美子
「僕は部屋の位置を替へるのあまり好かないから……」
「お母さまもお元氣で……」
「東京へ出て來てなさるンですつて? ほんまですかいな?」
「ええ、ほんとですの……でも、近いうちに一寸大阪へ戻りますのよ。――だつて、私が主人のもの全部取つてしまつたなんて、裁判沙汰になつちやつたんですのよ……」
「へえ、そりやまた大變ですねえ……」
「でも、をばさま、――私、いまになつて罰があたつたと思ひますわ……」
「何で?」
「どうしてだつて……」
ツヤは冷たい紅茶を運んで來た。何時の間に白粉を塗つたのか。ツヤは綺麗に化粧してゐた。
「今日はどこかへいらつしやいましたの?」
「ええ、久しぶりの日曜やさかい、このひと、今日は奮發してくれはつて、家ぢゆうで多摩川へ行きましたの――」
「ああ、多摩川、あすこ、いい處ですわね……」
くみ子がちらりと周次を眺めた。ツヤが宿屋で貰つて來た小さい團扇で蛾を追つてゐる。くみ子は、手荒く蛾を叩きつけてゐるツヤの手元をぢつとみてゐた。
「まア、女子はんの苦勞も、旦那さんの亡くなんなさつたことでとどめをさしますさかい。もう、自分で一人食へたら、呑氣に獨身でいつた方が得だつせ。私かて、もう十三年やけど、呑氣やつたなア……」
母が、とどめをさすと云ふ言葉に妙に力を入れて云つてゐる。
「ええ、でもをばさま、うちかて、まだ二十でつせ……心細いわ……」
「さうかも知れんなア……そやけど、まア、當分は尼さんになるのもええもんでつせ」
くみ子は默つて扇子をつかつてゐた。
周次は二階へ着替へに行つた。すぐツヤが上つて來た。
「ねえ、多摩川の螢をみせてあげませうか?」
「とつて來たのかい?」
「うん」
ツヤは子供のやうな亂暴な返事をして、袂(たもと)から紙へつつんだ澤山の螢を出してみせた。赤い尻尾をした螢が、すぐピンと羽根を擴げて暗い方へさつと四五匹飛んで行つた。
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