多摩川
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著者名:林芙美子 

       ○

 夕飯は、何時かくみ子と行つた割烹旅館で食べた。汚れた池もこはしてしまつて、縁側の下へきれいな流れが引きこんであり、擴げられた庭には噴水があがつてゐた。階下の凉しい部屋だつた。三人とも浴衣に細帶姿の遠慮のない恰好で食卓についてゐた。
「ツヤは泳げるのかい?」
 母が訊いた。
「いいえ……」
 ツヤが赧くなつてゐる。男に向つては豹の如く、女に向つては猫の如しのツヤの轉心ぶりに、周次は内心驚き呆れながら、女の種類も色々あるものだと思つた。
 女心は羽毛のやうだと云ふけれど、くみ子が結婚まぎはに、八田へ嫁いでいつたのも、このいまのツヤの轉心に、何か一脈通じたものがあるやうに思へた。
「苦しいか」と云へば、無造作に、「うん」と應(こた)へたツヤが、母の前では、顏を赧めてはにかんでゐる。周次にはそれが一種の魅力でもあつた。
「多摩川つて夜がいいんでございませうね。あら螢が……」
 縁側へ大きな螢がすつと飛んで來て、簾(すだれ)へとまつてゐる。給仕に出た女中が、山から螢を取りよせて庭へ放してあるのだと教へてくれた。
 晴れた美しい夜だつた。
 歸りは三人で川邊を歩いてみたが、時々ツヤはそつと周次の腕に凭れて來る。
(どんな男にも、平氣でこんな事をしてゐた女かも知れないな……)
 周次は、さう思ひながらも、晝間の、柔い躯を抱いた感觸が忘れられなかつた。

 家へは八時頃歸つた。
 メロンの包みを抱いて、くみ子が椹(さはら)の垣根のそばにきまり惡さうに立つた待つてゐた。母は初めは不快さうだつたが、それでもお上りなさいと云つてゐる。
 黒い明石に黄ろい帶が凉しさうだつた。
 座敷へ上ると、くみ子は如何にもなつかしさうに四圍を眺めてゐる。
「ちつとも變りませんのね。昔の通りね」
「僕は部屋の位置を替へるのあまり好かないから……」
「お母さまもお元氣で……」
「東京へ出て來てなさるンですつて? ほんまですかいな?」
「ええ、ほんとですの……でも、近いうちに一寸大阪へ戻りますのよ。――だつて、私が主人のもの全部取つてしまつたなんて、裁判沙汰になつちやつたんですのよ……」
「へえ、そりやまた大變ですねえ……」
「でも、をばさま、――私、いまになつて罰があたつたと思ひますわ……」
「何で?」
「どうしてだつて……」
 ツヤは冷たい紅茶を運んで來た。何時の間に白粉を塗つたのか。ツヤは綺麗に化粧してゐた。
「今日はどこかへいらつしやいましたの?」
「ええ、久しぶりの日曜やさかい、このひと、今日は奮發してくれはつて、家ぢゆうで多摩川へ行きましたの――」
「ああ、多摩川、あすこ、いい處ですわね……」
 くみ子がちらりと周次を眺めた。ツヤが宿屋で貰つて來た小さい團扇で蛾を追つてゐる。くみ子は、手荒く蛾を叩きつけてゐるツヤの手元をぢつとみてゐた。
「まア、女子はんの苦勞も、旦那さんの亡くなんなさつたことでとどめをさしますさかい。もう、自分で一人食へたら、呑氣に獨身でいつた方が得だつせ。私かて、もう十三年やけど、呑氣やつたなア……」
 母が、とどめをさすと云ふ言葉に妙に力を入れて云つてゐる。
「ええ、でもをばさま、うちかて、まだ二十でつせ……心細いわ……」
「さうかも知れんなア……そやけど、まア、當分は尼さんになるのもええもんでつせ」
 くみ子は默つて扇子をつかつてゐた。
 周次は二階へ着替へに行つた。すぐツヤが上つて來た。
「ねえ、多摩川の螢をみせてあげませうか?」
「とつて來たのかい?」
「うん」
 ツヤは子供のやうな亂暴な返事をして、袂(たもと)から紙へつつんだ澤山の螢を出してみせた。赤い尻尾をした螢が、すぐピンと羽根を擴げて暗い方へさつと四五匹飛んで行つた。




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