多摩川
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著者名:林芙美子 

「はア、さうですか……ぢやア、皆で一つ、そこへ行きませう? 別に大した處ぢやないけど――東京つて、さてとなると、行くところがないんでねえ」

 日曜日。
 朝から蝉が鳴きたててよく晴れた日だつた。周次達は電車で朝早く多摩川へ行つた。ツヤは川床の露出した枯れたやうな川の景色に失望したらしく、
「まア、ここが多摩川でございますか」
 と、何度も同じことを聞いてゐる。三人は堤をおりて、廣い雜草の河原をつつ切つて、船の茶店へはいつて行つた。流石に凉しい風が吹く。四五日前の雨でほんの少し水量がましたのか、澤山泳ぎに來てゐる連中がゐた。
「泳ぎたいなア、ツヤは泳げるの?」
「ええ、私、山國ですから、こんな川なんかなら自信がございます……」
「自信がある、おやおや、ぢやア、海水着を借りてやるから泳いだらいいだらう……」
 後から泳ぎますと云ふので、周次は母とツヤを船へのこして、自分は河上の方へ泳ぎに行つた。向岸は櫻並木で葉櫻には、蝉が燒けつくやうに鳴きたててゐた。
 水は肌に冷く、空の青さが川面に暗く石油を流したやうに寫つてゐる。まるで少年の日にかへつたやうに、周次はときどき耳に唾をつめながら、水の中へぐつともぐつたりした。或る川底では、水流が二つになつてゐたり、ぬめぬめした藻が、晝の陽を寫して、みどりの水面に白い影を寫してゐたりした。むれるやうな草の匂ひがする。――急に身近かに女の笑ひ聲がした。
 周次がざあつと水面へ頭を持ちあげると、赤い海水着を着たツヤが、まるで女學生のやうにハツラツと泳いでゐた。白い美しい肌だつた。腕や脚のふくらみが子供の手足のやうにぶくぶくしてゐる。
「何時來たんだ?」
「いま……」
(いま)と云ふぞんざいな言葉が、周次には可愛かつた。
「うまいんだねえ……」
「だつて、子供の頃、よく泳いだんですもの……」
「ぢやア、もつと河上へ行かう……」
「競爭しませうか?」
「生意氣云つてる……お母さんはどうしてる?」
「晝寢なさいますんですつて、空氣枕を借りて、さしあげときました」
 二人は水流にさからつて、河上へ河上へと泳いで行つた。百舌鳥(もず)のやうなけたたましい鳥が堤の草藪に鳴きたててゐる。蛙も地蟲も鳴いてゐる。――ツヤがぐんと躯を空に向けかへた。疲れたのか、手をやすめたすきに、ぐつと河下へツヤは二三米押し流されてゐる。周次との距離は二三米が四五米になり、何か氣力もなく呆んやり流されてゐるかたちだつた。周次は急いでバツクをしてツヤへ追ひついてゆき、ツヤの躯を岸へ押して行つた。
「どうした?」
「疲れちやつたわ」
「莫迦だなア、無理をするからだよ……」
 周次はぐつたりしてゐるツヤを抱いて、陽が燒けつくやうにあたつてゐる草の上へツヤを抱きあげてやつた。
「疲れたのか?」
「冷いでせう? 水が……」
「うん」
「やつと、何だかほかほかいい氣持ち……」
「唇が紫色してるよ。莫迦な奴だなア、そんなに力まなくつたつて……」
 周次が冷たくなつたツヤの腕をさすつてやると、ツヤはぢつと周次の手を眺めながら大粒な涙をあふれさしてゐた。
「どうした?」
「どうもしない……」
「どうもしない? だつて泣いてるぢやないか……」
「どうもしなくつたつて涙の出たくなる時あるわよ……」

       ○

 夕飯は、何時かくみ子と行つた割烹旅館で食べた。汚れた池もこはしてしまつて、縁側の下へきれいな流れが引きこんであり、擴げられた庭には噴水があがつてゐた。階下の凉しい部屋だつた。三人とも浴衣に細帶姿の遠慮のない恰好で食卓についてゐた。
「ツヤは泳げるのかい?」
 母が訊いた。
「いいえ……」
 ツヤが赧くなつてゐる。男に向つては豹の如く、女に向つては猫の如しのツヤの轉心ぶりに、周次は内心驚き呆れながら、女の種類も色々あるものだと思つた。
 女心は羽毛のやうだと云ふけれど、くみ子が結婚まぎはに、八田へ嫁いでいつたのも、このいまのツヤの轉心に、何か一脈通じたものがあるやうに思へた。
「苦しいか」と云へば、無造作に、「うん」と應(こた)へたツヤが、母の前では、顏を赧めてはにかんでゐる。周次にはそれが一種の魅力でもあつた。
「多摩川つて夜がいいんでございませうね。あら螢が……」
 縁側へ大きな螢がすつと飛んで來て、簾(すだれ)へとまつてゐる。給仕に出た女中が、山から螢を取りよせて庭へ放してあるのだと教へてくれた。
 晴れた美しい夜だつた。
 歸りは三人で川邊を歩いてみたが、時々ツヤはそつと周次の腕に凭れて來る。
(どんな男にも、平氣でこんな事をしてゐた女かも知れないな……)
 周次は、さう思ひながらも、晝間の、柔い躯を抱いた感觸が忘れられなかつた。

 家へは八時頃歸つた。
 メロンの包みを抱いて、くみ子が椹(さはら)の垣根のそばにきまり惡さうに立つた待つてゐた。母は初めは不快さうだつたが、それでもお上りなさいと云つてゐる。
 黒い明石に黄ろい帶が凉しさうだつた。
 座敷へ上ると、くみ子は如何にもなつかしさうに四圍を眺めてゐる。
「ちつとも變りませんのね。昔の通りね」
「僕は部屋の位置を替へるのあまり好かないから……」
「お母さまもお元氣で……」
「東京へ出て來てなさるンですつて? ほんまですかいな?」
「ええ、ほんとですの……でも、近いうちに一寸大阪へ戻りますのよ。――だつて、私が主人のもの全部取つてしまつたなんて、裁判沙汰になつちやつたんですのよ……」
「へえ、そりやまた大變ですねえ……」
「でも、をばさま、――私、いまになつて罰があたつたと思ひますわ……」
「何で?」
「どうしてだつて……」
 ツヤは冷たい紅茶を運んで來た。何時の間に白粉を塗つたのか。ツヤは綺麗に化粧してゐた。
「今日はどこかへいらつしやいましたの?」
「ええ、久しぶりの日曜やさかい、このひと、今日は奮發してくれはつて、家ぢゆうで多摩川へ行きましたの――」
「ああ、多摩川、あすこ、いい處ですわね……」
 くみ子がちらりと周次を眺めた。ツヤが宿屋で貰つて來た小さい團扇で蛾を追つてゐる。くみ子は、手荒く蛾を叩きつけてゐるツヤの手元をぢつとみてゐた。
「まア、女子はんの苦勞も、旦那さんの亡くなんなさつたことでとどめをさしますさかい。もう、自分で一人食へたら、呑氣に獨身でいつた方が得だつせ。私かて、もう十三年やけど、呑氣やつたなア……」
 母が、とどめをさすと云ふ言葉に妙に力を入れて云つてゐる。
「ええ、でもをばさま、うちかて、まだ二十でつせ……心細いわ……」
「さうかも知れんなア……そやけど、まア、當分は尼さんになるのもええもんでつせ」
 くみ子は默つて扇子をつかつてゐた。
 周次は二階へ着替へに行つた。すぐツヤが上つて來た。
「ねえ、多摩川の螢をみせてあげませうか?」
「とつて來たのかい?」
「うん」
 ツヤは子供のやうな亂暴な返事をして、袂(たもと)から紙へつつんだ澤山の螢を出してみせた。赤い尻尾をした螢が、すぐピンと羽根を擴げて暗い方へさつと四五匹飛んで行つた。




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