丹下左膳
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著者名:林不忘 

       一

 人の話を聞いても、さっぱりわからないんです。
 なんでも、明け方、この寮の四方八方から、一時に火が起こって、あっと言うまにあっけなく燃えちまったという。
 それだけのこと。
 誰も人の住んでいるようすはなかった。さながら、がらんどうの家から火が出て、そのまま焼け落ちたようなものだが、ただ、老人と若いのと、見なれない侍が二人、何か主人の安否でも気づかうふうで、近くの村々の火消しとともに、あれよあれよと走りまわって、消防に手をつくしていたが。
 そして。
 焼け跡から、まっくろになった死骸が一つ、何やら壺のような物をしっかり抱きしめたまま、発見された……というのが、駒形のお藤の家から駈けつけた丹下左膳が、まだ余燼(よじん)のくすぶる火事場をとりまいている人々から、やっとききだし得た情報の全部でした。
「その死骸(しげえ)は、どうしたのだ?」
 きかれた人々は、異様な左膳の風態におどおどして、
「へえ、火消しどもが、その死骸をかつぎだして、わいわい言っているところへ、なんでも、火元改めのえらいお役人衆の一行がお見えになって、その死人をごらんになり、ウン、これはたしかに、綽名(あだな)を伊賀の暴れん坊という、あの柳生源三郎様だと、そう鑑別をしておいででした」
 左膳はギックリ、
「ナニ、役人がその死骸を見て、柳生源三郎だと言ったと?」
 相手の町人は、揉(も)み手をしながら、
「ヘエ、伊賀の暴れん坊ともあろう者が、焼け死ぬなどとはなんたる不覚……そうもおっしゃいました。はい、あっしはシカとこの耳で聞いたんで……」
「そうすると、やっぱり、伊賀の暴れん坊は死んじゃったんですねえ」
 そばからチョビ安が、口を出す。
 蝶々とんぼの頭に、ほおかぶりをし、あらい双子縞(ふたこじま)の裾をはしょって、パッチの脚をのぞかせたところは、年こそ八つか九つだが、装(なり)と口だけは、例によっていっぱしの兄(あに)イだ。
 左膳はそれには答えずに、
「ふうむ。寮の者ははじめから、一人も火事場にいなかったというんだな?」
「ヘエ、なんでもそういうことで」
 その源三郎の死体らしいのが、壺をしっかり抱いていたというのが、左膳は、気になってならなかった。
 壺……といえば、こけ猿の壺のことが頭に浮かぶ。こけ猿はいま自分が、お藤に預けて出てきたのだから、こんなところにあるはずはないけれど――。
 なおもくわしくきいてみようとして振り返ると、もうその町人は、向うへ歩いていっていた。
 寮は見事に焼けてしまって、周囲の立ち樹も、かなりにそばづえをくい、やっと一方の竹林で火がとまっているだけ。暗澹(あんたん)たる焼け跡に立って、ここが源三郎の落命のあとかと思うと、左膳は、立ち去るに忍びなかった……なんとかして、その源三郎の死骸てエのを、一眼見てえものだが。
「フン、くせえぞ」
 この火事そのものに、機械(からくり)があるような気がしてならない。左膳は、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。チョビ安も、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。なんでもチョビ安、父左膳のまねをするんです。

       二

 好敵手……いつかは雌雄を決しようと思っていた柳生源三郎。
 かれの一刀流、よく剣魔左膳の息の根をとめるか。
 または。
 相模大進坊(さがみだいしんぼう)濡れ燕、伊賀の暴れん坊にとどめをさすか――?
 たのしみにしていたその相手が、むざむざ卑怯な罠(わな)にかかって、焼け死んだと知った左膳の落胆、その悲しみ……。
 同時にそれは、自分から、ただ一つの生き甲斐をうばった峰丹波一味への、焔のような怒りとなって、左膳の全身をつつんだのだった。
「畜生ッ!――星の流れる夜に、いま一度逢おうと刀を引いて、別れたきりだったが……」
 と左膳、焼け跡に立って、悵然(ちょうぜん)と腰なる大刀の柄をたたいた。
「やい、大進坊(だいしんぼう)、お前(めえ)もさぞ力をおとしたろうなア」
「アイ、おいらもこんなに力をおとしたことはねえ」
 まるで刀が口をきいたように、そばからチョビ安が、こう言った、そのことばに、左膳ははじめてわれに返ったように、
「安、丹波の一党は、どこかこの近くにひそんでいるに相違ねえ。これからお藤の家へ帰って、壺の中身をあらためたが最後、旅に出なくちゃアならねえからだだ。そうすれあ二月(つき)、三月(つき)、埋宝の場処によっては二年、三年、江戸に別れをつげなくちゃあならねえ。発足前にとっくりと、源三郎の生死をたしかめてえものだが――」
「うむ。そんならねえ、父(ちゃん)、あすの朝までこの辺をウロウロして、それとなくあたってみようじゃあねえか」
 このチョビ安の提案に、同意した左膳は、その、寮の焼け跡から近くへかけて、まるで岡っ引きのように木の根、草の葉にも心をそそいで、歩きまわっているうちに……。
 その日は、終日埃(ほこり)っぽい風がふきすさんで、真(ま)っ黒にこげた焼け跡の材木から、まだ立ちのぼっている紫の煙を、しきりに横になびかせていた。
 宏壮……ではなかったにしても相当な建物だったのが、一夜のうちに焼け落ちて見る影もない。残っているのは土台石と、台所の土間に築いたへっついだけ。雲のゆききにつれて、薄陽が落ちたり、かげったりしながら、早くも夜となりましたが、左膳とチョビ安の姿は、黒い壁のような闇がおそってきても立ち去ろうとしなかった。
 蕭条(しょうじょう)たる屋敷跡に、思い出したようなチョビ安の唄声が、さびしくひびく。
 どこかに源三郎が生きているような気がして、それを見つけだすまでは、左膳はどうしても、この場をはなれることができなかったのです。
 どこかに。
 そして、この近くに。
「やい、安公(やすこう)、つるぎの恋人の源三郎をとられて、おらあ、この隻眼から、涙が出てならねえんだ。今夜だけは、そのかなしい歌をうたわねえでくれよなア」
「ウム、そうだったねえ。ほんとの父(ちゃん)やおっ母(かあ)は、行方知れずでも、あたいには、こんな強い父ちゃんがあるんだったねえ」
 焼け残りの材木に腰かけて、ぽつねんと考えこんでいた左膳、とうとう焼け跡に一夜を明かして、やっとあきらめて起ちあがった時!
 朝靄の中から、突如人声が生まれた。
「向うの辻のお地蔵さん
 ちょいときくから教えておくれ
 あたいの父(ちゃん)はどこへ行(い)た
 あたいのお母(ふくろ)どこにいる――」

       三

「ナニ、源三郎様にかぎって、さような死をおとげなさるはずはない」
「それにしても、陰謀の巣へ、単身お乗りこみになったとは、いささかお考えが浅うござったワ」
「腕に自信がおありだったから、かえって危険を招くことにもなる」
 乳のような濃い朝霧をわけて、息せききってここへ駈けつけてきたのは、安積玄心斎と谷大八の注進によって、麻布上屋敷の尚兵館(しょうへいかん)をあとにした伊賀侍の一団。
 麻布から向島のはずれまで、たいへんな道のりです。
 高大之進、井上近江、喜多川頼母ら、四、五人の頭株は、途中から辻駕籠にうち乗り、他の者はそれにひきそって、朝ぼらけの江戸を斜(はす)かいにスッとんできたのだから、明けやらぬ町の人々はおどろいて、何事が起こったのかと見送っていた。
 客人大権現(まろうどだいごんげん)に近く……。
 司馬寮の焼け跡にころがるように行きついた一同。
「アッ! またあの、隻眼隻腕の侍が!」
 と、誰かが指さす方を見やると。
 奥座敷だったとおぼしいあたりに、大小二つの人影が、ヌッと並び立っている。
 駕籠をおりたった高大之進は、部下をしたがえて左膳へ近づきながら、ニヤニヤして、
「よく逢うな、貴公とは……いつぞや、あの駒形のなんとかいう女芸人の家で、その子供の生命とひきかえに、にせの壺のふたをあけて以来――」
「ウム、ひさしぶりだ」
 あのときの斬りあいで、丹下左膳の腕前は十分に知っているから、高大之進もゆだんをしない。うちつづく同勢へ、チラチラと警戒の眼を投げながら、
「シテ、貴公がどうしてここへ?」
「源三郎に会いに来たのだ」
「その源三郎様は焼死なされたと聞いて、われらかくあわてて推参いたしたわけだが」
「死んだ源三郎にしろ、生きている源三郎にしろ、伊賀の源三に会わねえうちは、おれは一歩もここをどかねえつもりだ」
 チョビ安は左膳のうしろにせまり帯につかまって、とりまく伊賀の連中を、かわいい眼でにらみまわしている。
 高大之進はつめよるように、
「こけ猿の壺をさがしもとめて、われらは毎日江戸の風雨にさらされておる始末。また源三郎さまは、婿入り先の司馬道場の陰謀組のために、今この生死もさだまらぬおんありさまじゃ。これと申すも、みな、其方(そのほう)ごときよけいなやつが、横合いから飛びだして、壺を私せんとしたため」
「おいおい、それは話がちがうぞ。源三郎がここで火事にあったのは、かれのかってだ。壺は、強い者が手に入れるだけのこと。おれは何も、じゃまだてしたおぼえはねえ」
「言うなッ! 貴様は壺の所在(ありか)をぞんじておろう。ここであったがもっけの幸いだ。一刻もあらそう壺の詮議……ありかを知っておったら言えっ。まっすぐに申しあげろっ!」
「なんだ、それは。へたな八丁堀の口真似か――ふむ。こけ猿の所在は、まったくこの丹下左膳が承知しておる。いや、壺はおれの手にあるのだ。が、むろん、お前らに渡してやるわけはねえ」
「よしッ、きかぬ。それ、おのおの方……」
 時日はせまる、壺はわからぬ、上役にはせきたてられる……で、自暴自棄になっている高大之進、いきなり、抜いたんです。

       四

 同時に。
 尚兵館の若侍たちは、一時にパッと飛びのいて、遠巻き……。
 その手に、一本ずつ秋の流水が凝(こ)ったと見えるのは、一同、早くも抜きつれたのだ。
「理不尽!」
 口のなかでうめいた左膳は、左手で、ちょっとチョビ安をかばいながら、顎を突きだし、顔を斜めにして高大之進を見やった。
 その鼻先にドキドキする高大之進の斬っ尖が、ころあいをはかってヒクヒク突きつけられている。
 ニヤリと笑った左膳だ。
「フム。そんなにおれを斬りてえのか、おい! そ、そんなにこの左膳の血を見てえのかっ」
 と、ひとことずつせりあがるように、
「イヤサ、どうでも手前(てめえ)らは斬られてえのだな。ウム? 死にてえのだナ?」
 くぎるように言いながら、そっと左右に眼をくばった剣妖左膳、ものうそうに欠伸(あくび)まじりに、
「血迷ったな、伊賀侍ども。よしっ、相手になってやるっ!」
 言葉の終わらぬうちに、足をひらいた左膳、ツと体(たい)をひくめたかと思うと、腰をひねって流し出した豪刀濡れ燕の柄! たっ! と音して空(くう)につかむより早く……。
「洒落(しゃら)くせえっ!」
 正面の敵、高大之進はそのままにしておいて。
 白いかたまりのように、横ッ飛びに左へ飛んだ丹下左膳は、その左剣を、抜き放ちに後ろへ払って。
 折りから――。
 左膳をめがけて跳躍にうつろうとしていた大垣七郎右衛門の脾腹(ひばら)を、ななめに斬りさげた。
 血飛沫(しぶき)たててのけぞる七郎右衛門の武者袴に、時ならぬ牡丹(ぼたん)の花が、みるみるにじみひろがってゆく。
 青眼の構えよりも、すこしく左手を内側に締めこんで、剣尖(けんさき)をややさげ、踏みだした左の膝をこころもち前のめりにまげて、立ったまま、一眼をおもしろそうに笑わせて立っている。
 焼け野の鬼……。
 何しろ、おそろしく足場がわるいんです。焼けた梁(はり)や板、柱の類が累々(るいるい)とかさなっているその一つへ、痩せさらばえた片足をチョンとかけて、四方八方前後左右へ眼をちらす丹下左膳……見せたい場面です。
「一人っ!」
 その時、ほがらかな声がひびいたのは、チョビ安が、そう大きく数えはじめたのだ。
 のんきなやつで、チョビ安、手に一本の小さな焼け棒ッ杭(くい)をひろって、包囲する伊賀勢の剣輪をもぐってかこみの外(そと)へ走りぬけた。
 鬼神のような左膳の剣技にどぎもを抜かれて、一同は、子供などにはかまっていない。
 チョビ安はやすやすと、地境(じざかい)に焼け残っている土蔵の横へ駈けつけた。
 そして、くすぶった白壁に、一と大きく数字を書きつけました。
 左膳が一人ずつ斬りたおすそばから、チョビ安はここで記録をつける気とみえる。どうも洒落(しゃれ)たやつで。
 左膳は?
 と見ると。

   から馬(うま)


       一

 令嬢萩乃の寝部屋で、脇本門之丞が真っぷたつになっていたのだから、司馬道場の人たちは、おどろいた。
 師範代玄心斎、谷大八とともに、源三郎にくっついていったはずの門之丞が、どうして一人だけここに……?
 萩乃は、死者を傷つけるがものもないと、やさしい心やりから、
「姓は丹下、名は左膳とかいう、隻眼隻腕の怖(こわ)らしい浪人者が、こけ猿の茶壺をねらって、深夜忍びこんできたのを、折りからひとりかえったこの門之丞が、とりおさえようと立ちむかったため、この最期――」
 と、真相はおのれの小さな胸ひとつにのんで、うまく言いつくろったから、源三郎の家来どもは、口々に、
「さすがは門之丞殿だ。身をもって萩乃さまをかばったとは、見あげたおこころ……若殿がお聞きなされたら、どんなに御満足に思召(おぼしめ)すことか」
「それにしても、丹下左膳という妖怪が、また出たとは、おのおの方、ゆだんがならぬぞ」
 左膳、すっかり化け物あつかいだ。
「こっちもこけ猿を探しておるのに、そのこけ猿をさがしに入りこむなんて見当がはずれるのであろう」
「なんにしても、門之丞どのはお気の毒なことをいたしたテ」
「われらさえ眼がさめたらなア……さだめし激しい斬りあい、物音もいたしたであろうに、白河夜船とは、いやはや、不覚でござったよ」
 同僚の忠死をいたむ伊賀ざむらい。門之丞の死骸は、二つになった胴をつなぎあわせ、白木綿でまいて、ねんごろに棺におさめ、主君源三郎の帰りを待つことになった。
 これやそれやの騒ぎで、その日一日は、はやくも暮れてしまう。
 これは、源三郎の婿入りにつきしたがって、柳生の庄から江戸入りしている一団だ。
 十方斎先生なきあとの司馬道場にがんばって、居すわりの根くらべをしている連中。
 林念寺(りんねんじ)前の上(かみ)やしきなる尚兵館の、あの高大之進の一派と呼応して、江戸の巷にこけ猿を物色しているのだ。
 居直り強盗というのはあるが、これは、居なおり婿のとりまきである。
 あくまでも萩乃の婿のつもり、すなわちこの道場の主人の格式で、乗りこんできている源三郎は、この荒武者どもをひきつれて、道場の一郭に陣どり、かって放題の生活をしていたのだ。
 庭に面した座敷を、幾間となくぶちぬいて、乱暴狼藉のかぎり。
 剣術大名といわれたくらい、富豪の司馬様だから、りっぱな調度お道具ばかりそろっている。それをかたっぱしからひきだしてきて、昔から名高い薄茶の茶碗で、飯をかっこむやら、見事な軸へよせ書きをして笑い興じるやら……それというのも、こうでもしたら司馬家のほうから、今にも文句がでるかという肚(はら)だから、これでもか、これでもかといわんばかり、喧嘩を売ってきたのだ。
 もてあました峰丹波とお蓮様、このうえは源三郎をおびきだして、ひと思いに亡き者にするよりほかはないと、門之丞をだきこんで、ああして葛飾(かつしか)の寮へひきよせたのだった。
 その、伊賀の暴れん坊源三郎、とうとう彼らの策に乗り、今は真っくろこげの死体となった――?
 ともしらぬ一同は、その日も帰らぬ源三郎を案じながらも、門之丞のことなどあれこれと話しあって、その晩は早く寝(しん)についた。
 すると、ちょうど明け方近くだった。
 彼らの寝ている部屋のそと、しめきった雨戸ごしの庭に、ヒヒン! とふた声、三声、さも悲しげな馬のいななきが聞こえた。

       二

 水の流れもとまるという真夜中すぎに、馬のなき声である。
 五十嵐鉄(いがらしてつ)十郎(ろう)という人が、いちばん敷居際の、縁に近いところに寝ていた。
 そのいななきを耳にして、最初に眼をさましたのは、この五十嵐鉄十郎だった。
「はてな……」
 と、彼は身をおこした。
「若殿の御帰館かしら。それにしても、この深夜に――」
 轟(ごう)ッと立ち木をゆすぶり、棟をならして、まっ暗な風が戸外(そと)をわたる。さながら、何かしら大きな手で、天地をかきみだすかのよう……。
 ひとしきり、その小夜(さよ)あらしが走って、ピタとやんだのちは、まるで海底のような静かさだ。
 なんのもの音も聞こえない。
 枕から頭をあげていた五十嵐鉄十郎は、
「空耳?――だったに相違ない。今ごろこの奥庭で、馬のなき声のするはずはないのだから」
 とそう、われとわが胸に言いきかせて、ふたたびまくらに返ろうとした瞬間、こんどこそは紛れもない馬のいななきが、一声ハッキリと……。
「殿ッ! お帰りでござりまするか」
 思わず大声が、鉄十郎の口をにげた。
 と、となりに寝ていた一人が、眼をさまして、
「なんだ、どうしたのだ」
「しっ!」
「ホ、この庭先に、何やら生き物の気配がするではないか。うむ! 馬だな」
 それに答えるかのように、戸外(そと)では、土をける蹄(ひづめ)の音が、断続して聞こえる。
 今は躊躇(ちゅうちょ)すべきではない。五十嵐鉄十郎ともう一人の侍は、力をあわせていそぎ雨戸をくってみると、――もう、空のどこかに暁の色が流れそめて、物の影が、自くおぼろに眼にうつる。
 裏木戸を押しやぶって、はいってきたものに相違ない。雨戸の外、庇(ひさし)の下に、ヌウッと立っていたのは一頭の馬だ。
 それが、戸のあくまももどかしそうに、長い鼻面を縁へさしいれた。おどろいた鉄十郎と相手は、顔をみあわせて、しばし無言だった。
 馬は、口をきけないのがじれったいと言わんばかりに、頸(くび)をふり、たてがみをゆすぶって、何やら告げたげなようすである。
 じっと見ていた五十嵐鉄十郎がうめいた。
「おう、これは、殿の御乗馬では……!」
「うむ! たしかにそうだ。源三郎様は、此馬(これ)にめされて、遠乗りに出られたはず」
「今この馬が、こうして空鞍(からくら)でもどったところを見ると――」
「若殿のお身に、何か異変が……」
「これ! 不吉なことをいうでない」
 とどろく胸をおさえて、二人は、互いに眼の奥をみつめあった。すると、馬はここで、ひとつのふしぎなことをしたのだった。
 馬は動物のなかで一番利口(りこう)だといわれている。この馬は、源三郎の愛馬で、故郷伊賀からの途中も、駕籠でなければこの馬にまたがり、しじゅう親しんできたものだった。
 あの、司馬十方斎先生の葬儀(そうぎ)の日に、不知火銭の中のただ一つの萩乃さまのお墨つきをつかんで、源三郎が首尾よく邸内へ押しこんだ時も、かれのさわやかな勇姿を支えていたのは、このたくましい栗毛の馬背(ばはい)であった。
 今この馬のつかれきったようすで見ると、司馬寮の焼ける時、厩(うまや)につながれていたのが、火をくぐってぬけだし、主人のすがたを求めてひかれるように江戸へ立ちかえったものの、本郷への道を思い出せずにあちこちさまよい歩いたあげく、やっと今たどりついたものらしい。
 馬がふしぎをあらわしたというのは、この時いきなり、何を思ったものか、鉄十郎の寝巻の袂(たもと)をくわえて、力をこめて庭へひきおろしたのだった。

       三

 五十嵐鉄十郎の寝間着の袂をくわえて、馬は、ぐんぐん庭へひっぱりおろす。
「ウム、これはいよいよ若殿のお身に……」
 そのまも馬は、早く乗ってくれというように、からだを鉄十郎のほうへすりよせるのだった。
「これはこうしてはおられぬ。刀をとってくれ」
 渡された刀を帯するより早く、鉄十郎はヒラリと馬にまたがった。
 もうその時は、一同は起きいでて、上を下への騒ぎになっていた。
「何ッ、源三郎様のお馬が、帰ってきたと?」
「畜生のかなしさ、口をきけぬながらも……」
「何か一大事を知らせにきたものに相違ない」
「かわいいものだなア」
「殿は、あの馬をかわいがっておられたからな」
「そんなのんきなことを言っておる場合ではない。サ、したく、したく」
 言われるまでもなく、皆もう用意をすまして、パラパラッと庭へ飛びおりると、
「鉄十郎殿はどうした」
「馬はどこにおる」
「鉄十郎を乗せて、ドンドン駈けていってしもうた」
「ソレ行け。見失うな」
 ほのぼのと朝の色の動く司馬道場の通用門から、一隊の伊賀侍が、雪崩(なだれ)をうって押しだした。
 見ると。
 庭の柴折戸(しおりど)をやぶって飛びだした源三郎の愛馬、五十嵐鉄十郎を乗せたまま、砂煙をあげて妻恋坂を駈けおりていく。
 一同はこけつまろびつつづいたが、先が馬ではすぐはぐれてしまう。気のきいたのが、自分たちも司馬家の馬小屋から、四、五頭ひきだしてきて、馬で後を追った。徒歩(かち)の者は、道みち駕籠を拾ってつづく。
 騎馬の一人が連絡係となって時どき引っ返してきては、駕籠に方向を知らせておいて、また先頭に追いつく。
 戞々(かつかつ)たる馬蹄の音が、寝おきの町を驚かせつつ、先駆の五十嵐鉄十郎の馬は、いっさん走りに向島を駈けぬけて、やがて葛飾へはいり、客人大権現の森かげなる司馬寮の焼け跡へついた。
 馬というものは、おぼえのいいもので、帰りはむだ道一つせず、主人を思う一心から、ちゃんと火事跡へ駈けつけたのだ。
 来てみると、鉄十郎は二度びっくりしなければならなかった。
 一面に焼け木の横たわる惨澹(さんたん)たる屋敷跡に、今し激しい斬りあいが始まっているではないか。
 こけ猿の探索に、かねて邪魔を入れている丹下左膳という隻眼片腕の浪人者が、左手に長剣を握って、焼け跡の真ン中にスックと立っている。
 とりまく面々は、上屋敷にいる同藩の高大之進の一党。
「おのおの方、援軍到来!」
 大声にさけびながら、鉄十郎は馬をおりた。
 ほかの騎馬の侍もかけ着いて手早く刀の目釘を湿す。おくれて駕籠や徒歩(かち)の連中もみな到来した。伊賀勢は、ここに思わぬ大集団となったのである。

   その後(ご)は御無沙汰(ごぶさた)


       一

 もう乱軍だった。
 二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空(そら)を翔(か)け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらねばならない……。
「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶(でく)の坊がそろったもんだ」
 刀痕の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。
「この濡れ燕は、名代の気まぐれものだ。どこへ飛んでいくかわからねえから、そのつもりで応対しろよ」
 女物の長襦袢(ながじゅばん)が、ヒラヒラ朝風になびく左膳の足もとに、すでに二、三の死骸がころがっているのは、そのくせの悪い濡れ燕に見舞われた、運の悪い伊賀者だ。
「皆あせってはならぬぞ。遠巻きにして、つかれるのを待つのじゃ」
 高大之進の下知に、とりまく剣陣はすすまず、しりぞかず、ジッと切尖(きっさき)をそろえて持久戦……。
 人あってもしこの場を天上から眺めたならば――。
 まるでシインと澄みきってまわっている独楽(こま)のように見えたことだろう。
 中央の心棒に白衣の一点、それをとりまいて、何本もの黒い線。
 めんどうと見た左膳、
「さわるまいぞえ手を出しゃ痛い……伊賀の源三さえいてくれたら、手前ッチも、もっと気が強かろうがなあ。にらみあいでは埓(らち)があかねえ。そっちからこなけりゃあ、こっちから行くぞっ!」
 ニヤリと笑いながら、右へ片足。
 その右手の伊賀の連中、タタタと二、三歩あとずさりする。
「静かなること林のごとし……なるほど柳生一刀流の妙致だ。いつまでたってもジッとしているところは、フン見あげたものだ」
 と左膳、またふくみ笑いとともに、左へ一歩。
 右手の伊賀侍が、そろりそろりと後ろへ退く。
 剣神ともいうべき丹下左膳の腕前を見せられて、もうこの連中、すっかり怖気(おじけ)づいているのだ。
「めんどうだっ!」
 叫んだ左膳、濡れ燕を大上段にひっかぶり、まるで棒をたおすように、正面の敵中へ斬りこんでいった。
 縦横にひらめく濡れ燕。鉄(あらがね)と鉄(あらがね)のふれあうひびき。きしむ音、おめき声、立ち舞う焼(や)け跡(あと)の灰。
 その灰けむりのおさまったあとには、ふたたび水のように、つめたく静まりかえった丹下左膳の蒼い顔と、青眼にとった妖刀(ようとう)濡れ燕と……。
 そして。
 またもやそこここに三人の伊賀侍が、一人は膝をわりつけられて、立ちもならず、
「あっ痛(つ)ゥ!」
 と、這いながら焼(や)け灰(ばい)をつかむ。その、苦痛にゆがむ顔のものすごさ!
 もう一人は、肩先をやられて、片手で傷口をおさえながら、のたうちまわっている。三人目は、どこをやられたのか、あおむけにたおれたまま、血の池の中でしずかに眼をつぶろうとしている。
「三人!」
 チョビ安の大声がした。この乱闘の場をすこしはなれた焼け残りの土蔵の横に、チョビ安、焼けた棒で、土蔵の白壁へしるしをつけながら、
「父上ッ! 〆(し)めて九人……!」

       二

 早朝から、空の大半は真っさおに晴れて、焼け跡のすぐそばを流れる三方子川(さんぼうしがわ)の川づらを、しずかになでてくるさわやかな風。
 だが。
 人の膚(はだ)をつきさすような、ジリジリした日光には、もうどこやら初夏の色がまじって、川水一面、金の帯のように照りはえている。
 寮の前の往来の片側に、長くつづいている客人大権現(まろうどだいごんげん)の土塀から枝をのばした樹々のしげみが、かげ涼しげにながめらるるのだった。
 平和なのは、この自然の風景のみ。
 真っ黒な焼け跡には、いまし全伊賀勢を相手に、丹下左膳の狂刃が、巴(ともえ)の舞いを演じているのである。
 いま言った土塀の上に。
 近処の者や、通りすがりの人の顔がズラリと並んで、
「オウ、由(よし)や、見ねえな、講釈のとおりじゃアねえか。足をジリジリ、ジリジリときざませて、両方から近よっていくところなんざア、すごい見物だぜ」
「あの片手の侍は、よっぽど腕がたつと見えるぜ。取り巻(め)えてる連中の、ハッハッハという息づかいが、ここまで聞こえてくるようだ」
「ソラ、一人うしろへまわったぞ」
「刀を下段にかまえて……ソレ、しのびよっていく、しのびよっていく」
「ああ、おれはもう見ちゃアいられねえ」
 と気の弱いひとりが、たまらなくなって眼をふせる。
「ほんとだ。あいつもバッサリやられるにきまってらあ」
 この言葉が終わるか終わらぬかに、塀の上に並ぶ見物人一同、ワアッと歓声をあげた。
 見るがいい!
 前へ斬りこむと見せて、そのままあとへはらった左腕の左刀、うしろざまに見事にきまって、背をねらってしたいよっていた伊賀侍、ガッと膝をわりつけられてのめってしまった。そがれた白い骨が、チラリと陽に光って露出する。一、二、三、四、五と、五つ数えるほどのまをおいて、はじめてドッと血がふきでるのだった。
 塀の上に並ぶ顔は、いっせいに眼をふさいで、
「すげえもんだなア!」
「オウ、見ろ、見ろ! よほど苦しいとみえて、土をつかんでころがりまわっているぜ」
「侍は、どうでエ、ニヤニヤ笑って、血刀をさげたまま、右に左に歩きまわっている。あいつはおっそろしく度胸がすわっているのだなア」
「イヨウ、剣術の神様!」
「人斬り大明神!」
「待ってましたアッ!」
「大統領ッ!」
 人間の顔が、首から上だけ塀の上にズラリと並んで、割れるような喝采(かっさい)だ。通りかかった人が、この斬りあいにみんな塀の中へ逃げこんで、首だけのぞかせてながめているのだ。
 甘酒屋のお爺(じい)さんが、赤塗りの荷箱をおっぽりだして、塀のかげへ走りこんだかと思うと、すぐその顔が築地塀(ついじべい)の上に現われた。
「この時木曾殿はただ一騎、粟津(あわづ)の松原へ駈けたもう。喚(おめ)き叫ぶ声、射ちかう鏑(かぶら)の音、山をうがち谷をひびかし、征(ゆ)く馬の脚にまかせつつ……時は正月二十一日、入相(いりあい)ばかりのことなるに、薄氷(うすごおり)は張ったりけり――」
 のんきなお爺さんで、軍談もどきに平家物語の一節。

       三

 三方子川の川べりへ、糸をたれようと、釣竿をかついでやってきた若い男。
 これも、この乱闘に胆をつぶして、竿をかついだまま塀の中へ飛びこみ、人を押しのけて顔を出そうとすると、
「オイオイ、あとから来て、このいい場をとろうてエ手はねえだろう。ここは特等席だ」
 なんて言うやつもある。
 一同は、すっかり芝居でも見物する気で、ワイワイ声をかけるやら、大声に批評するやら、たいへんな騒ぎ。
 それでも、左膳の濡れ燕が、また一人ズンと斬りさげたりすると、いっせいに顔をひっこめて……桑原、桑原!――南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)――こわいもの見たさで、いつまでも立ち去らない。
「また一人!」
 チョビ安が大声にさけんで、土蔵の白壁に焼けぼっくいでしるす記録の線が、一ぽんふえていく。
「ヤアまた一人……これで十三人だ! 父上、しっかり頼むぜ」
 レコード係と応援団を、チョビ安、ひとりでひきうけている。
 見物はことごとく喜んじまって、
「小僧ッ、そらまた一人だぞ!」
「十三人じゃアねえ、十四人じゃあねえか」
「オウイ、あそこにころがってるのを数えたかよウ?」
 四戒(かい)ということを言う。
 恐れ、驚き、疑い、迷う……これが剣道の四戒。
 技(わざ)と理合(りあい)とは、車の両輪、鳥の両翼。その一方を欠けば、その効(こう)は断絶される。技(わざ)は面(おもて)に表れる形(ぎょう)であり、理合(りあい)は内に存する心である。技(わざ)と理合(りあい)がともにある境地に達すれば、心に思ったことがただちに技(わざ)となって表現するのだ。
 が、これはまだ未熟のうち。
 左膳のごとき達人になれば、技(わざ)と理合(りあい)も、内も、外も、いっさい無差別。すべては融然と溶けあって、ただ五月雨(さみだれ)を縫って飛ぶ濡れ燕の、光ったつばさあるのみ。
 何も考えなしに行っている業(わざ)こそは、自然と理合(りあい)に適(あ)ってくるのである。
 考えて行うのではない。
 また行って考えるのでもない。
 天地の理法に、行と心の区別はないので。
 剣心不異というのは、まことにここのことである。
 だから、そこへ、今の四戒の一つが兆(きざ)しでもしたら、もうそれだけでも浮き足だつにきまっている。
 いかにすれば勝てるか……などということを考えない丹下左膳、濡れ燕のとぶがまま、思いの赴(おもむ)くにまかせて、斬ってきって斬りまくった彼は、相手方が一人ふたりずつ数の減ってゆくのを、意識するだけだった。
 けれど。
 大将株の高大之進を討たねば、なんにもならぬ――そう気がつくと同時に。
 左膳、とっさに一眼をきらめかして、大之進の姿をさがしもとめた。
 と、乃公(だいこう)のでる幕は、まだまだと言わぬばかり……大之進も相当の人物で、乱陣の場(にわ)をすこしはなれた路傍の切り株に腰をおろし、大刀を杖にだいて、ジッと左膳のようすに眼をこらしている。
「オイ、お前(めえ)の番だぜ」
 左膳のネットリした声。
「父(とう)ちゃん! 一騎討ちだ」
 チョビ安が叫んだ。

       四

「では、未熟ながら、お相手いたそうかな」
 高大之進(こうだいのしん)はそう言って、焼け跡のわきの切り株にかけていた腰を、あげた。
「助太刀(すけだち)はゆるさぬぞ」
 と彼は、不安気に見まもる伊賀の勢へ、チラと眼をやった。
「かんじんのこけ猿は、いまだに行方不明。日光御着手の日は、目睫(もくしょう)の間(かん)にせまっておる。申し訳にこの大之進、腹を切らねばならぬところだ。一人で切腹するよりは、この化け物に一太刀でもあびせて……」
 ひとりごとのようにうめきつつ、静かに雪駄(せった)をぬいで、足袋跣足(たびはだし)になった大之進は、トントンと二、三度足踏みをして、歩固めをしながら、
「だが、どうせおれの生命はないものだ。高大之進は、いまこの隻眼隻腕の浪人に討たれるのだ。骨を拾ってくれよ」
 言ったかと思うと彼は、スラリ一刀をひきぬいて、左膳のほうへ歩みだした。
 捨て身になるとおそろしいもの。
 刀をまじえようとするよりも、まるで、このままスパリと斬ってくれとでもいうように、左膳の前へ進んで行く大之進。
 何か相談事があって、話に出かけていくような態度だ。
 これをむかえた左膳は、いささかかってがちがって、濡れ燕の斬っ尖ごしに、きっと大之進をみつめて無言。
 大之進の一刀と、濡れ燕と、ふたつ斬っ尖のあいだがみるみるせばまって、チチチと二本の刃物のふれあうひびき……と! サッと二人は前後にわかれた。
 相正眼――。
 塀の上の見物人も、もう駄弁をろうするどころではない。
 シーンと静まり返ったなかに、すぐそばを流れる三方子川の水音が淙々(そうそう)、また淙々(そうそう)……。
 胴を打つ技(わざ)は、姿勢がくずれやすい。
 むずかしい業(わざ)だ、胴(どう)は。
 下腹の力をぬいてはならぬ。撃つ時には、十二分の力を剣にこめねばならぬ。背と腰を、竹のごとくまっすぐに伸ばしてうたねばならぬ。撃ったあとは、左の拳が腹の前方にあって、右腕と左腕とが交叉するように、手を返さねばならぬ。左手をひくこと、右面をうつ場合のごとし――。
 高大之進、一気に左膳の胴をねらって、剣を大きく振りかぶり、ソロリ、ソロリと、右足から踏みだした。
 左足が、きざむようにこれにともない、双(そう)の爪先で呼吸をはかりながら、にじりよる。
 この瞬間。
 逆胴(さかどう)!……左膳はそこにすきを見た。反対に、左足から踏みきった左膳、斜め右側へまわるがごとき気勢をしめしたが、ツと、
「行くぞっ!」
 笑いをふくんだ気合いとともに、濡れ燕はまるで独立の生き物のように、長い銀鱗を陽にひらめかして、見事に大之進の左脇腹へ……!
 が、大之進もさるもの。
 のけぞって空(くう)を払わせた大之進、うしろ飛びのまま三方子川(さんぼうしがわ)[#ルビの「さんぼうしがわ」は底本では「さんぽうしがわ」]の川べりをさして、トットと数間、逃げのびたのだった。
「口ほどでもねえやつ!」
 いらだった左膳が、相模大進坊(さがみだいしんぼう)を下段にかまえたまま、一足とびに追いにかかった時だった。ちょうどそこは焼け跡のはずれで、黒くもえのこった羽目板が五、六枚、地面に横たえてあるのだが、左膳の足がその板を踏むと同時に、メリメリッとすごい音がして板が割れるが早いか丹下左膳、濡れ燕をいだいたまま、深い竪穴(たてあな)の中へ、棒っきれのように落ちこんだのだった――おとし穴。

       五

 チョビ安をはじめ、当の相手の高大之進、尚兵館の伊賀侍、五十嵐鉄十郎ら司馬道場の伊賀勢、そのほか塀の上に顔を並べている弥次馬連中……白昼、これだけの人間の見ている前で、丹下左膳のからだがフッと消えたのだ。
 さながら、地殻が割れてそこへのまれ去ったかのように……。
 じっさい、そのとおりなのだ。
 今にも追いうちに、濡れつばめが飛んでくるかと覚悟をきめていた高大之進は、ウンともスンとも言わずに左膳が、穴の中へおちこんでしまったのだから、ホッとすると同時に、あっけない感じ。
 ヤヤッ! と、駈けよって穴のふちをのぞく。
 伊賀の同勢も、ふしぎな思いでいっぱいだ。
「こんなところに穴が……」
「穴の上に、この焼け板が渡してあったのだナ」
「これは初めから罠(わな)としてたくらんだものでござろう」
 口ぐちにわめきながら、穴のふちへ走りよって下をうかがうと。
 ちょうど人ひとりはいれるくらいの穴が、まっすぐに地底へのびていて、何やらうすら寒い風が、スーッと吹きあげてくる。
 一同は狐につままれたようである。
 顔を見あわせるばかりで、言葉もなかった。
 チョビ安は夢中だった。伊賀ざむらいをおしのけて、穴の縁(ふち)へ立ち現われたチョビ安、
「父上! 父上! かような卑怯なめにおあいなされて……」
 穴のふちは、土がやわらかい。勢いこんだチョビ安の足に、土がくずれて、ド、ドウとこもった音とともに、土塊(つちくれ)が穴のなかへ落ちこんでいく。
 それとともに、チョビ安のからだも穴の底へめいりそうになるのを、五十嵐鉄十郎がグッとひきあげて、
「おい小僧ッ、あぶないっ! あっちへ行っておれ」
「何いってやんで! ヤイ! 父(ちゃん)をこんなめにあわせたのは、手前ッチだろう。剣術じゃアかなわねえもんだから――父(ちゃん)をけえせ! おいらの父(ちゃん)をけえせっ!」
 チョビ安、泣きながら、小さな拳をふるって、鉄十郎をはじめそばの伊賀者へ、トントンうちかかる。
「これはちかごろ迷惑な!」
 鉄十郎は苦笑、
「かかる場処にこんなおとし穴がしつらえてあろうとは、われらもすこしも知らなんだ。これ、小僧、おちつけ。これは峰丹波一味のしわざで……」
 塀の上の見物も、承知しない。
「手前(てめえ)ら四、五十人もいて、腕は百本もあるだろう。それが一本腕にかなわねえで、穴へおとしこむたアなんでえ」
 ガヤガヤののしりあう人声……それを左膳は、竪坑の底でかすかに聞いていた。
 はじめ、足をかけた焼(や)け板(いた)が下へしのったとき、左膳はギョッとしたのだったが、もうおそかった。板が割れると同時に、左膳のからだは直立の姿勢のまま、一直線に地の底へ落ちたのである。からだの両脇に土を摺(す)って、風が、下からふいた。四、五丈(じょう)も落ちたであろうか。猛烈な勢いで、全身横ざまに地底をうち、ハッと気がつくと、そこは、土を四角にきりひらいた四畳半ほどの小部屋である。
 落ちながら刀をはなさなかったので、濡れ燕を杖に、いたむ身をささえてやっと起きあがろうとすると、闇黒(やみ)の中に声がした。
「おお! ササ、左膳じゃアねえか。丹下左膳、ひさしぶりだなア。あはははは、その後は御無沙汰……」

   水(みず)滴々(てきてき)


       一

 左膳は、ただ一直線におちたような気がしたが。
 穴は垂直ではなかった。
 直径三尺ほどの幅に、急な勾配をもってずっとこの地底のあなぐらへ通じているのである。
 察するところ、その地下室は、地上の穴から斜めに入りこんで、ちょうどあの、路傍を流れる三方子川(さんぼうしがわ)の真下にあたっているらしい。
 左手に濡れ燕を突いて起きあがった左膳、したたか腰をうったらしく、抜けるようにいたい。
「イヤ、不覚……」
 苦笑しながら、掘りたての土軟(やわら)かな床へ、刀を突きさし、ひだり手で腰のあたりをさすろうとした時……今あの、タ、丹下左膳ではないか、ひさしぶりだナ、その後は御無沙汰、という声がしたのだ。
「誰だっ?」
 左膳、濡れ燕をかまえるが早いか壁に飛びのいて、眼をこらした。
 地の底……。
 幾丈とも知れない地下で、地上からの穴は急勾配(きゅうこうばい)なのだから、闇のなかに、どこやらかすかに外光(がいこう)がただよっているにすぎない。
 が、声をかけた人は、この暗黒になれているらしく、
「キ、貴殿も足を踏みはずしたのか。ハハハハハ、やられたな」
 という声は、伊賀の暴れん坊、柳生源三郎である。
 左膳もそれと気づいて、
「源三じゃアねえか。お前(めえ)はこの司馬寮の火事で、焼け死んだと聞いたが、さては、ここは冥府(よみじ)とみえる。してみると、おれもあの世へきたのかな」
 うすく笑って、左膳、声のするほうをすかして見ると、柳生源三郎のほのぼのとした白い顔が、その、四畳半ほどの真ん中にキチンと静座しているのが、彼の一眼にもうっすらと見えてきた。
「イヤ、源三、お前ははかられて、このおとし穴へ落ちこんだのだろうが、おれは、時のはずみでおちたのだ」
 左膳はそう言って、源三郎の前にドッカと胡坐(あぐら)。
 剣をもってふしぎな運命にむすばれる二人。
 この思いがけない地底で、ふたたび顔をあわせたのだ。
「何から話してよいやら……」
 と源三郎も、心からなつかしそうである。
 左膳が、つづけた。
「この罠(わな)は、火事にまぎれてお前(めえ)を落としこむために、こしらえたものに相違ねえ。お前(めえ)は見事、それにかかったわけだが、丹波のやったこの仕事を、おれの相手の伊賀侍が知るはずはねえのだから、おれはかってにおちたようなもので――しかし、驚いた。だが、おかげてこうして、死んだと思った伊賀の暴れん坊にめぐりあったのは、左膳、こんな安心したことはねえ。これも、今おれの手にはいっている、こけ猿の茶壺の手引きにちげえねえのだ」
 悠然と笑う左膳の片手を、源三郎、喜びと驚きにギュッと握りしめて、
「ナニ、こけ猿はいま貴公の手にある?」
「ウム、開きかけた壺をそのままに、貴様の災難を聞いたので、飛んできたまではいいが、おれもそのお供をしてこの始末よ、あははははは」
 二人は、フッと話をきった。
 どこやら闇のなかに、ポタリ! ポタリと、水のしたたる音がする……。

       二

 たとえば、豪雨がやんで、雲の切れめから青空がのぞくころ。
 屋根の流れを集めた樋(とい)が、まだ乾きもやらず、大粒な雨垂(あまだ)れをたたくように地面へ落とす。
 それによく似たひびきである。
 ポタッ! ポタッ! と、一定の間をおいて、だるい水の音がせまい部屋にこもる。
 天井のどこかから水が落ちて、床の土をうつのらしい。
 ふたりは、べつに気にもとめずに、話をつづけて、左膳が、
「こうと知ったら、お前(めえ)なんざあ見殺しに、おらアあの壺の教えるところにしたがって、お前の先祖の埋めた大宝を掘りだしに行きゃアよかった」
 剣友の無事な顔を見て、安堵の胸をさすった左膳、どうあっても源三郎を見殺しにすることはできないくせに、こうして顔を突きあわせていると、男同士の、口がわるいのだった。
「柳生の金は、柳生のものだ」
 と、にがく言う源三郎へ、左膳はおッかぶせるように笑って、
「掘り出した埋宝の中から、日光にいるだけの金を柳生に返しゃあ、あとは、天下の財産だ」
「日光? フム、貴公は容易ならぬことを知っておるな」
「蒲生泰軒の矢文で、おれはなんでも知っておる。片眼でも、お前の両眼以上に見えるのだ」
「ナニ? 蒲生泰軒! 矢文?」
「まア、おれのことはいいやな。それより、おめえはどうしてこのもぐらもちになったのだ」
「卑怯なのは丹波とお蓮だ。剣の厄も、お蓮の女難も、源三郎見事にくぐり抜けたが……そのお蓮からとりあげたこけ猿の壺……」
「イヤ、待て。こけ猿は、おれの手にある。昨日この司馬寮に、同じ茶壺があるわけはねえのだ」
「何を言う! 現に余がこの眼で見、この手にとり、その壺を枕頭(まくらもと)にひきすえて、やっとのことでお蓮を遠ざけ、離室(はなれ)で一人寝についたのだが、すると――」
「ホ、すると?」
「すると、明け方近く、あの火事だ。四方八方から一時に火の手が起こったところを見ると……」
 語をつごうとする源三郎を、左膳は手をあげて、静かに制し、
「マ、長話はあととして……この穴を出るくふうはねえかな」
「ハハハハ、言われるまでもなく、貴公が仲間入りする前に、今までおれはさんざんやってみたのだ。が、四方は土、天井は手のとどかぬほど高い。落ちてきた穴はほとんどまっすぐだし、第一、なんの足場もないから、その穴へ飛びつくこともできぬのだ」
「伊賀の暴れん坊と丹下左膳、この穴の底に同居住まいとは、気のきかねえ話だなア。だが、そのうちに出る算段をたてるとして、そこで朝方の火事だが――」
「ウム、四方から一時に火の起こったところをみると、丹波一味の放火にきまっておる」
 言いながらも、源三郎のくやしさ、そのいきどおりは、烈々として焔のごとく感じられるのだった。
 水の音は、やまない。土をうつ水滴が、二人の会話に奇妙な合いの手を入れる。

       三

 地上ではどんなにさわいでいるか知れない……。
 耳を澄ましても、この深さではなんの物音も聞こえないのだ。
 チョビ安はどうしたろう。
 自分がこの穴へおちるところを彼は見ているのだから、きっとなんらかの方法を講じて、助けにくるに相違ない――と、左膳はそう思う一方、しかし、子供ではどうしようもあるまいし、それに、伊賀の連中につかまりでもしては、チョビ安、手も足も出まい。
 闇になれてくると、その穴蔵のさまが、ぼんやりと眼にうつる。
 上から細い穴を斜めに掘(ほ)ってきて、ここだけ部屋のように掘りひろげたものとみえる。四方は粘土まじりのしめった土。地中に特有のヒヤリとした空気がおどんで……床をうつ水の音が、耳いっぱいに断続して聞こえる。
 左膳は思いだしたように、源三郎へ、
「こけ猿の茶壺が二つあるはずはねえ。おれが手に入れて、駒形のある女のところに隠してあるのだから、お前がここで、お蓮からとりあげたというのは、偽(にせ)の壺にきまってらアな」
 源三郎は沈思の底から、太(ふと)いまゆをあげて、
「余はあけて見たわけではない。貴公もその壺を、まだひらいたのではないのだろう」
「ウム、今もいうとおり、あけかけたところで、この火事だ。とうとう開かずにここへ飛んできたのだが――」
「それでは、いずれが本物、いずれがにせ物と判断はできぬ」
「焼け跡に、こけ猿の壺らしいものをいだいた黒焦げの死骸が一つ、見つけだされて、それが源三郎に相違ないとのことだったが、貴様はこうしてりっぱに生きておるところをみると、その死骸はいったい何者であろうナ」
「丹波の計じゃ。宵のうちに余をとりまいて、亡き者にしようとした折り、あやまって仲間で斬りころした不知火組の若侍にきまっておる」
「ウム、その死骸を黒焦げにして伊賀の源三郎と見せかけようとしたのだな」
「こけ猿の壺を、死人とともに焼くわけはないから、それは名もない駄壺にきまっておるが――」
 いらだち気味に、左膳はあたりを見まわして、
「埋もれた宝を掘りに行くはずのおれが、自分がこうして埋められては、せわアねえ」
 自嘲的につぶやいて、たちあがりながら、左膳の胸中は、熱湯のにえくり返るように、苦しかった。
 こうして源三郎が生きている以上、萩乃にたいする自分の恋は、そだててはならぬ。わが心に生えた芽のままで、摘みとってしまわなければならないのだ。
 現に、彼のふところには、思いのたけを杜若(かきつばた)、あの恋文がはいっているのだけれど、もうこれを、萩乃にとどけることはできない……。
「こうしていてもはじまらぬ――」
 そう言って源三郎も、身を起こした時。
 天井からしたたる水粒は、早くなって、点々、点々と土をうつ。
 うすくらがりの中を手探りで、その小部屋の隅へ行ってみると、上に小さな穴があいているらしく、そこから落ちる水が、じっとりと足下をぬらしている。
「この真上は?」
 源三郎の問いに、左膳は静かに方向を考えて、
「三方子川の川底らしい」
「こりゃいかん! 頭の上を川が流れておるのか」
 二人は、同時にうめいた。

       四

 ギョッ! として、顔をあげた二人。
 左膳と源三郎の間に、天井からのしたたりは、ポタリ、ポタリとつづく。
 その水滴の脚が、刻一刻早くなる。
「ウム、これは案外、深いたくらみがあるとみえるぞ」
 歯ぎしりかむ源三郎の顔を、左膳は闇をすかして、じっと左眼にみつめた。
「落ちてきた穴を這いあがることはできぬし……」
 水のしたたりは、二人の立っている土を濡らす。
 小さなぬかるみが、だんだんひろがってゆく。
 左膳はしゃがんで、左手を椀のようにへこませて、落ちてくる水を受けてみた。
 トントンとやつぎばやに、掌(たなごころ)を打つ水の粒。
「三方子川の川水であろうか」
「この上が川床だとすると――その水であろう」
「点滴(てんてき)石を穿(うが)つ――この雨垂れのような水でも、こうひっきりなしに落ちてくるうちには……」
 それよりも、今にも川床の地盤がゆるんで、この天井全体が、一時にドッと落ちてくることはないか。
 そうすれば。
 この地下の部屋全体、一瞬にして水浸しとなる。
 逃(のが)るる術(すべ)はない……。
 このおそれは、期せずして、今このふたりの心に、同時にわきおこったのだったが、それは、口にすべくあまりに恐ろしい――闇黒(やみ)にとざされて見えないが、おそらくこの時は、さすがの左膳も源三郎も、ともに顔色が変わっていたに相違ない。
 剣をとっては、千万人といえどもわれゆかん――じっさい、この二人がそろっていれば、天下に恐るるもののない柳生源三郎と丹下左膳。
 だが――。
 柳生一刀流も、左膳の濡れ燕も、水を相手では、どうすることもできないのだ。
 闇のなかに、突如左膳は、自分の片腕をギュッとつかむ源三郎の手を感じた。
 そして、耳のそばに、伊賀の暴れん坊のささやき。
「オイッ! もうしたたりではない。ほれ、一筋に落ちてきた……」
 まことに、そのとおり。
 今までポタ、ポタとまをおいてしたたっていた水は、今はひとすじの細い線となって、絶えまもなくそそぎかけてきた。
「源三、おれを肩車に乗せてくれ」
 懐中の手拭をとりだした左膳、
「とどくかとどかぬか知れぬが、なんとかして、あの天井の穴をふさがねばならぬ」
 水さえはいらねば、そのあいだに脱出の方法も立つかも知れぬし、救いの手がのびてこようもはかられぬ。
 源三郎は二つ返事で、左膳を肩に乗せた。
 穴蔵の黒暗々裡に、ふしぎな水止め工作がはじまった。
 若殿源三郎の肩に身をのせた左膳、片手を伸ばして、穴へ手拭をつめようとあせるのだが、天井に手が達しない。
 もう一、二寸――。
「だめだ。貴公よりおれのほうが、背が高い。貴公、おれの肩車に乗ってくれ」
「ヤヤッ! そういう間も、もう水がたまりだしたぞ。土ふまずへ、ヒタヒタと水がきた」事実、部屋全体にうすく水が行きわたったらしく、線のほそい滝の水が、条々(じょうじょう)と……。

       五

 こんどは入れかわって。
 左膳がしゃがみこみ、
「ごめん……」
 と源三郎は、その左膳の首へまたぐらを入れた。
 痩せた左膳のからだが、高々と源三郎をささえ上げる。両手を伸ばして伊賀の暴れん坊、
「やっぱりとどかぬ」
 あせる指先を愚弄するように、天井は、まだ一、二寸高い。
「とびはねてくれぬか、左膳殿」
「そんな曲芸はできぬ。またヒョイと飛んだところで、お主(ぬし)の手のほうが長い仕事はできなかろう」
 とつぜん、左膳は大声に笑いだした。
「こりゃあどうも、あわてているときは、しょうのねえものだ。おぬしが下になろうが、おれが台に立とうが、十尺のものは十尺、どう伸び縮みするわけもねえのに、アハハハハ」
「まったく、理屈だ。われら両人、かなり狼狽(ろうばい)いたしおるとみえる」
 狼狽(ろうばい)するのも、もっともで。
 鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条(ひとすじ)そそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
 左膳の肩車をおりた源三郎、もう、足の甲まで水にかくれるのをおぼえて、愕然としたのであるが、なんの方策もたたぬ。
 二人は、黙然と顔を見合わせるばかり。
 左膳がこの穴へ落ちこんでから、もはや何ときたったであろう。
 源三郎は、その一日前から飲まず食わずで、この地下に幽閉されていたのだ。
 たいがいのことにはビクともせぬ伊賀の暴れん坊だけに、そのうちになんとかなるだろうと、泰然としてこの地底に、胡坐(あぐら)をかいて澄ましこんでいたのだが。
 水が出ては。
 もう、その胡坐もかけぬ。
 いつのまにかふたりは、たかだかと着物の裾をはしょって、洪水の難にあった姿。
「一刻(とき)にどのくらい水嵩(みずかさ)がますのであろうの」
「サアそれは、ちょっとわからぬが――」
 首まで来るまでには相当時間があろう。その間に、なんとでもして脱出のくふうをつけねばならぬ。
 なんとでもして!
 けれど。
 どうしたらよいか?
 四畳半ほどの地底の一室である。地面に達する唯一の穴は、天井高く三尺ほどの直径に、斜めに通じているだけで、そこにとどく足場もなければ、とびつこうにも手がかりがない。
 周囲は、荒削(あらけず)りの土石の壁。
 もう地上は、たそがれどきでもあろうか。
 さっきまで、穴からかすかに流れこんでいた光線は、すっかり消えて、闇の中にそそぎ入る水音のみ、高い。
 伊賀の連中はどうしたろう!
 チョビ安は?
「オイッ!」
 と、源三郎が、左膳の注意をうながした。
 足でジャブジャブ水をけって見せた。
 いつのまにか、もうふくら脛(はぎ)の半(なか)ばまできている。まもなく膝を没するであろう。それから腿(もも)、腹、胸、首……やがて全身水びたしに――。
 左膳と源三郎、沈黙のうちに、狂的な眼をあわせた。
 水は、つめたく脛(すね)をなめて、這いあがってくる……。




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