丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

「それにまた、あのにせ猿の茶壺をかざっておくことは、この際、いかにもよい思いつきじゃったテ。みながみな、言いあわしたようににせ猿に眼をとめては、結構なお品だの、これで柳生はたいそう金持の藩になったじゃろう、だのとナ、口々に祝いをのべて帰りおったぞ。冷や汗が流れた、ハッハッハ」
「それにつけましても」
 と、うれいのこもる眉をあげたのは、そろばんでした。
「一刻も早く、ほんもののこけ猿を手にいれねば……」
「まったく。かくなるうえはなおのこと、こけ猿を見つけ出すが刻下の急務」
 と、帳面も、肩を四角にしてりきむ。
「わしから一つ、高大之進に厳重に督促するとしよう」
 主水正は、決然としてうなずいたのち、
「サ、ではやってしまおうか」
「は。それではこれで、いよいよ締め切りに……エエ石川左近将監(いしかわさこんしょうげん)どのより、四つ。ほかに、長船(おさふね)の刀一口(ふり)。一石飛騨守様(いっこくひだのかみさま)より五つ半、および絹地(きぬじ)五反。堀口但馬(ほりぐちたじま)さまより――」
一、堀口但馬守様(ほりぐちたじまのかみさま)――七つ。
一、井上大膳亮殿(いのうえだいぜんのすけどの)――四つ。ならびに扇子箱(せんすばこ)。
一、山脇播磨守(やまわきはりまのかみ)どの――三つ半。砂糖菓子(さとうがし)。
一、宇都木図書頭(うつぎずしょのかみ)さま――六つ。
一、岡本能登守様(おかもとのとのかみさま)――八つ。
 なんて調子に、記入方がひかえていく。その、横綴じの長い帳面の表には「発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)」とある。みんな日光に一役持ちたいと、口だけは奇特な発願をたてて、表面どこまでも、そのための献金なんですから。
「ホホウ、八つというのが出たナ。はじめてだな」
 主水正は、うれしそうです。
「いえ、四、五日前にきた赤穂の森越中様(もりえっちゅうさま)のが、やはり八つでした」
「じっさい、三つや四つで日光下役を逃げようてエのは、虫がよすぎるからなア」
 と、主水正、だんだん下卑(げび)たことを言いだす。
「しかし、これだけ賄賂(まいない)があつまれば、当藩はだいぶ助かる。では、一番けちな別所信濃(べっしょしなの)へ、畳奉行をおとしてやるとしようか」

       九

 発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)……皮肉な名前の帳面が、あったもんです。
 先方が願を立てて、奇特な申し出をしてくる。そのなかで、もっとも進物のたかのすくないやつに、ねがいどおり望みをかなえてやる――。
「ところで、お作事目付は、誰にもっていったものかな」
 と、主水正、その発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)をペラペラとめくりながら、
「サテと、藤田監物(ふじたけんもつ)の三つかな」
 そろばんが、そばから口をだして、
「山脇播磨様(やまわきはりまさま)も三つ――」
「いや、そうじゃない」
 帳面が、訂正した。
「播磨守殿は、三つ半じゃ」
「三つ半なら、秋元淡路守様(あきもとあわじのかみさま)も三つ半」
「ウム、ここに大滝壱岐守(おおたきいきのかみ)、三つというのがある」
「サアテ、藤田監物殿(ふじたけんもつどの)の三つと、壱岐守様(いきのかみさま)の三つと、どちらをお取りになりますかな?」
 主水正は、またしばらく黙って、はじめからおしまいまで、もう一度発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)をていねいにめくってみた。やがて、とっぴょうしもない大声をあげて、
「ヤア! 何も迷うことはない。ここに、二つと四分の一という、いやにこまかいやつがあるぞ」
「誰です、四分の一などと、変てこなものをくっつけたのは」
「小笠原左衛門佐(おがさわらさえもんのすけ)どのじゃ」
「ア、あの横紙破りの――」
 と、言うと三人は、声をあわせてどっと笑いくずれたが、主水正はすぐ真顔にかえり、
「では、これできまった。小笠原左衛門佐殿に、お作事目付(さくじめつけ)を押しつけてやるのじゃ」
 あれほど大騒ぎをした日光御造営奉行組下の二役も、ここにやっと決定を見ましたので、主水正は、記入係に命じて、いそぎ二通の書状をつくらせた。その一つには、
「お望みにより名誉あるお畳奉行の御役、貴殿におねがいつかまつり候(そうろう)
  別所信濃守殿(べっしょしなののかみどの)」
 そして、もう一つの手紙には、
「せつなるみ願いにより、日光お作事目付、貴殿にお頼み申しあげ候(そうろう)。何分、子々孫々(ししそんそん)にいたるまで光栄のお役(やく)ゆえ、大過(たいか)なきよう相勤めらるべく候(そうろう)
  小笠原左衛門佐殿(おがさわらさえもんのすけどの)」
 それぞれ、二通を状箱にふうじて納めた主水正(もんどのしょう)は、即刻、儀作(ぎさく)ともう一人の若党をよんで、同時に別所、小笠原の二家へ、とどけさせることになった。二つの提灯が、この林念寺前柳生の門から飛びだして、左右(さゆう)へすたこら消えて行く。
 各大名の家では、今夜は夜明かしで、柳生の締め切りの結果を待っています。自分のところでは、あれだけもっていったのだから、まずどっちものがれることができるだろうと、どこでもそう思っていると、小石川第六天の別所信濃守(べっしょしなののかみ)の門を、柳生家の提灯が一つ、飛びこんできた。と思うと、さしだされた状箱を奥の一間で、重役らがひたいをあつめて、心配げに開いてみる。
「ワッ! 畳奉行が当家へ落ちた。いや、これはありがたい」
「ほんとうですか。イヤ、なんという名誉なことじゃ」
「光栄じゃ」
 名誉だ、光栄だと、口では言いながら、みんな青菜に塩としおれかえって、ベソをかいている。

   尚兵館(しょうへいかん)


       一

「なんじゃい、このざまはっ!」
 奥庭の離室(はなれ)から、この、剣士の一隊の寝泊りしている屋敷内の道場、尚兵館(しょうへいかん)へやってきて、真夜中ながら、こう大声にどなったのは、田丸主水正だ。
「まるで、魚河岸(うおがし)にまぐろが着いたようじゃないか」
 主君柳生対馬守の御筆になる、「尚兵館」の三字の額が、正面の一段小高い座に、かかっている。
 広い道場の板の間に、薄縁(うすべり)を敷きつめ、いちめんに蒲団を並べて寝ているのは、こけ猿の茶壺を奪還すべく、はるばる故郷柳生の郷から上京してきた高大之進の一隊、大垣(おおがき)七郎右衛門(ろうえもん)、寺門一馬(てらかどかずま)、喜田川頼母(きたがわたのも)、駒井甚(こまいじん)三郎(ろう)、井上近江(いのうえおうみ)、清水粂之介(しみずくめのすけ)、ほか二十三名の一団――だったのが、左膳を相手のたびたびの乱刃に、二人、三人命をおとして、今は約二十人の侍が、こうしてこの林念寺前の柳生の上屋敷内、尚兵館という道場に寝泊りして、相変わらず、日夜壺の行方をさがしているのです。
 今は真夜中……昼間の捜索につかれた一同は、蒲団をひッかぶって寝こんでいる。
 いや、もう、南瓜(かぼちゃ)をころがしたよう。
 ひとの蒲団へ片足つっこんだり、となりの人の腹を枕にしたり、時計の針のようにぐるぐるまわって、ちょうどひと晩でもとの枕に頭がかえる……ナンテのはまだいいほうで。
 なかには。
 道場のこっちはしに寝たはずのが、夜っぴて旅行をして、朝向う側で眼をさます。などという念のいったのもある。
 血気さかんの連中が、合宿しているのだから、その寝相のわるいことといったらお話になりません。
 重爆撃機の編隊が押しよせてきたような、いびきの嵐です。
 歯ぎしりをかむもの、何やら大声に寝ごとをいう者。
 発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)の総決算を終わった田丸主水正(たまるもんどのしょう)は、こけ猿のことを思うと、いても立ってもいられなかった。
 朝になるのを待てずに。
 今。
 庭つづきのこの尚兵館へ現われて、ああ呶号(どごう)したのだったが、誰一人起きる気配もないので。
 主水正は、また一段と声を高め、
「おのおの方ッ、こけ猿の所在(ありか)がわかり申したぞっ!」
 武士は轡(くつわ)の音で眼をさますというが、伊賀侍は、こけ猿というひとことで、みないっせいにガバッと起きあがった。
「こけ猿が? どこに? どこに?――」
「われわれがこんなに血眼で捜索しても、とんと行方の知れぬこけ猿が、ど、どうしてこの真夜中――?」
 はるか向うの一段高いところに、静かに床をはねてすわりなおしたのはこの一団の長、高大之進です。柳生一刀流の使い手では、一に藩主対馬守、二に伊賀の暴れん坊こと源三郎、三、安積玄心斎、四に高大之進といわれた、その人であります。
「身支度せい」
 と、ことばすくなに部下へ言っておいて、主水正へ、
「シテ、壺はいずこに?――」
 薬がききすぎたので、主水正はあわてて、
「いや、その所在がわかったわけではないが、いよいよ一刻も早く、わからんと困ることにあいなったのじゃ。諸君も御承知のとおり、日光造営の日は、時の刻みとともに近づく一方……のみならず、このこけ猿の件は、諸藩のあいだに知らぬ者もなきほど……」

       二

「諸藩の間に、誰知らぬ者もなきほど有名になっている。で、先般来、造営奉行の下役なるお畳奉行と、お作事目付にありつきたいと言って――」
 田丸主水正、道場のはしに立って、寝間着の一群へ向かって演説をはじめた。
 皆ゴソゴソ起きあがって、ねぼけた顔をならべている。
「ヘン、日光組下にありつきたいんじゃアなく、なんとでもしてのがれたいの一心でござろう」
 誰かが弥次を飛ばした。
「ウム、言ってみれば、マア、そのとおり……で、各大名の使いが数日来、当屋敷につめかけたことは、諸君も知ってであろう。そいつらが、異口同音にこけ猿のことをきくので、拙者もつらくなってな。そこで一策を案じ、こけ猿によく似た駄壺をさがしだして、耳を一つ欠き、にせ猿の茶壺ということにして飾っておいたのじゃ。この計略は図にあたり、みなもうこけ猿は、当藩の手にもどったものと思って、喜びをのべて行ったが、わしの心苦しさはます一方じゃ。もはやいかなる手段をつくしても、まことのこけ猿を手に入れねばならぬ」
「いや、その儀なれば、御家老のお言葉を待つまでもなく……」
 喜田川頼母(きたがわたのも)が、腕をボリボリかきながら言いだすのを、主水正は叱咤(しった)して、
「おのおの方は、いったい何しに江戸表へこられたのじゃっ! 大宝を埋めある場処をしめした秘密の地図、その地図を封じこめたこけ猿の茶壺、その壺を奪還せんがためではござらぬかっ。しかるに、毎日、三々五々、隊を組んで市中見物を――」
「あいや! いかに御家老でも、その一言(ごん)は聞きすてになりませぬ」
 起ちあがったのは、憤慨家の井上近江(いのうえおうみ)だ。
「われわれ一統の苦心も買われずに、何を言われるかっ!」
 轟々(ごうごう)たる声が、四方から起こって、
「相手の正体がはっきりわかってこそ、吾人の強味が発揮される。古びた壺一個、この八百八町に消えてしまったものを、いかにして探しだせばよいか、拙者らはその方策に困(こう)じはてておる始末」
「のみならず、寸分たがわぬ壺が、あちこちにいくつとなく現われておるし……」
「これと思って手に入れてみれば、みな偽物」
「御家老も、そのにせ猿を一つ作られたというではないか、ハッハッハ」
「田丸様、こんな厄介なこととは、夢にも思いませんでした」
「毎日毎日あてどもなく、江戸の風にふかれて歩くだけで、どこをどう手繰(たぐ)っていけばよいやら……」
 ワイワイというのを、高大之進は、
「弱音をはくなっ!」
 と、一言に制して、
「とは言いますものの、田丸先生、拙者も、一同とともに泣きごとを並べたいくらいじゃ。かようなややこしい仕事は、またとなかろうと存ずる」
 主水正は声をはげまし、
「さようなことを申しておっては、はてしがない。君公のおためじゃ。藩のためじゃ。日限をきり申そう。むこう一ト月の間に、是が非でも、こけ猿を入手していただきたい」
「ナニ、むこう一ト月のあいだに?」
 そう、大之進がききかえしたとたん、主水正をおしのけるようにして、道場の入口から駈けこんできた二人の人影……安積玄心斎(あさかげんしんさい)と谷大八(たにだいはち)が、あわてふためいた声をあわせて、
「若君源三郎様は、コ、こちらにまいっておいでではないか」

       三

 玄心斎の茶筅(ちゃせん)髪はくずれ、たっつけ袴は、水と煙によごれたところは、火事場からのがれてきた人と見える。
 この二人は、本郷の司馬家に押しかけ婿として、がんばっているはずの伊賀の暴れん坊にくっついて、この不知火道場に根拠をさだめ、別手にこけ猿をさがしてきたのだが……。
 その、師範代玄心斎と大八が、深夜このただならぬ姿で、どうしてここへ?
 と、口ぐちにきく一同の問いに答えて、
 源三郎が急に思いたって、向島(むこうじま)から葛飾(かつしか)のほうへと遠乗りにでかけ、門之丞の案内で、不安ながらもお蓮様の門をたたくと、思いがけなくお蓮さま、峰丹波の一党が、数日前からそこにきていた――。
 殿にも膳部がはこばれ、自分達も別室で、夕食の馳走になっている時、となりの部屋からヒソヒソ声でもれてくる奸計のうちあわせに驚いて、この二人と門之丞が戸外(そと)の藪(やぶ)かげで乱闘の開始を待っているうちに、
 月のみ冴えて、源三郎にたいする襲撃は、なかなかはじまらない。
 ふと気がつくと、いっしょにいた門之丞の姿がないが、今にもここへ源三郎をおびきだして、峰丹波らが、討ちとろうとしていると信じこんでいる二人は、そんなことなどにかまってはいられない。
「早鳴る胸をしずめ、夜露にうたれて、ひと晩中その木(こ)かげにひそんでおったが……」
 玄心斎の言葉を、谷大八がうけとって、
「何事もない。まるで、狐につままれたようなものじゃ。で、安積の御老人をうながして、いま一度寮へ立ち帰ろうとすると!」
 その時、寮のどこかに起こった怪火は、折りから暁の風になぶられて、みるみるうちに、数奇(すき)をこらした建物をひとなめ……。
「われら二人ではいかに立ち働いたとて、火の消しようもなく……」
「シテ、峰丹波の一党は?」
「それがふしぎなことには、火事になっても、どこにもおらんのじゃ。まるで空家が燃えたようなもの」
「それで、源三郎様は?」
 この問いに、二人はぐっと声がつまり、うちうなだれて、
「火がしずまってから、御寝(ぎょしん)なされたお茶室と思われるあたりに、壺をいだいた一つの黒焦げの死体が、現われましたが」
「ナ、何! 若殿が御焼死?」
 一同はワラワラと起ちあがって寝るまもぬがぬ稽古着の上から、手早く黒木綿の着物羽織に、袴をはき、それぞれ両刀をたばさんで、イヤモウ戦場のような騒ぎ。
「御師範代をはじめ、三人も手ききがそろっておられて、なんということを……」
「いや、その門之丞は、途中からふっといなくなったので――」
「ウム、門之丞があやしい。で、貴殿らお二人は、ここへくる途中、本郷の不知火道場へお立ちよりになりましたか」
「いや、その黒焦げの死骸が、源三郎様でなければよいがと、いろいろ調べたり、また丹波らの行動がいかにも不審なので、そこここ近処をたずねたりいたし、心ならずも夜まで時をすごして、とにかく、当上屋敷へ真一文字に飛んでまいったわけ……」
 伊賀侍の一団は、みなまで聞かずに、おっ取り刀で屋敷をとびだした。眠る江戸の町々に、心も空(そら)、足も空(そら)、一散走りに、お蓮様の寮の火事跡をさして……。

   焼(や)け野(の)の鬼(おに)


       一

 人の話を聞いても、さっぱりわからないんです。
 なんでも、明け方、この寮の四方八方から、一時に火が起こって、あっと言うまにあっけなく燃えちまったという。
 それだけのこと。
 誰も人の住んでいるようすはなかった。さながら、がらんどうの家から火が出て、そのまま焼け落ちたようなものだが、ただ、老人と若いのと、見なれない侍が二人、何か主人の安否でも気づかうふうで、近くの村々の火消しとともに、あれよあれよと走りまわって、消防に手をつくしていたが。
 そして。
 焼け跡から、まっくろになった死骸が一つ、何やら壺のような物をしっかり抱きしめたまま、発見された……というのが、駒形のお藤の家から駈けつけた丹下左膳が、まだ余燼(よじん)のくすぶる火事場をとりまいている人々から、やっとききだし得た情報の全部でした。
「その死骸(しげえ)は、どうしたのだ?」
 きかれた人々は、異様な左膳の風態におどおどして、
「へえ、火消しどもが、その死骸をかつぎだして、わいわい言っているところへ、なんでも、火元改めのえらいお役人衆の一行がお見えになって、その死人をごらんになり、ウン、これはたしかに、綽名(あだな)を伊賀の暴れん坊という、あの柳生源三郎様だと、そう鑑別をしておいででした」
 左膳はギックリ、
「ナニ、役人がその死骸を見て、柳生源三郎だと言ったと?」
 相手の町人は、揉(も)み手をしながら、
「ヘエ、伊賀の暴れん坊ともあろう者が、焼け死ぬなどとはなんたる不覚……そうもおっしゃいました。はい、あっしはシカとこの耳で聞いたんで……」
「そうすると、やっぱり、伊賀の暴れん坊は死んじゃったんですねえ」
 そばからチョビ安が、口を出す。
 蝶々とんぼの頭に、ほおかぶりをし、あらい双子縞(ふたこじま)の裾をはしょって、パッチの脚をのぞかせたところは、年こそ八つか九つだが、装(なり)と口だけは、例によっていっぱしの兄(あに)イだ。
 左膳はそれには答えずに、
「ふうむ。寮の者ははじめから、一人も火事場にいなかったというんだな?」
「ヘエ、なんでもそういうことで」
 その源三郎の死体らしいのが、壺をしっかり抱いていたというのが、左膳は、気になってならなかった。
 壺……といえば、こけ猿の壺のことが頭に浮かぶ。こけ猿はいま自分が、お藤に預けて出てきたのだから、こんなところにあるはずはないけれど――。
 なおもくわしくきいてみようとして振り返ると、もうその町人は、向うへ歩いていっていた。
 寮は見事に焼けてしまって、周囲の立ち樹も、かなりにそばづえをくい、やっと一方の竹林で火がとまっているだけ。暗澹(あんたん)たる焼け跡に立って、ここが源三郎の落命のあとかと思うと、左膳は、立ち去るに忍びなかった……なんとかして、その源三郎の死骸てエのを、一眼見てえものだが。
「フン、くせえぞ」
 この火事そのものに、機械(からくり)があるような気がしてならない。左膳は、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。チョビ安も、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。なんでもチョビ安、父左膳のまねをするんです。

       二

 好敵手……いつかは雌雄を決しようと思っていた柳生源三郎。
 かれの一刀流、よく剣魔左膳の息の根をとめるか。
 または。
 相模大進坊(さがみだいしんぼう)濡れ燕、伊賀の暴れん坊にとどめをさすか――?
 たのしみにしていたその相手が、むざむざ卑怯な罠(わな)にかかって、焼け死んだと知った左膳の落胆、その悲しみ……。
 同時にそれは、自分から、ただ一つの生き甲斐をうばった峰丹波一味への、焔のような怒りとなって、左膳の全身をつつんだのだった。
「畜生ッ!――星の流れる夜に、いま一度逢おうと刀を引いて、別れたきりだったが……」
 と左膳、焼け跡に立って、悵然(ちょうぜん)と腰なる大刀の柄をたたいた。
「やい、大進坊(だいしんぼう)、お前(めえ)もさぞ力をおとしたろうなア」
「アイ、おいらもこんなに力をおとしたことはねえ」
 まるで刀が口をきいたように、そばからチョビ安が、こう言った、そのことばに、左膳ははじめてわれに返ったように、
「安、丹波の一党は、どこかこの近くにひそんでいるに相違ねえ。これからお藤の家へ帰って、壺の中身をあらためたが最後、旅に出なくちゃアならねえからだだ。そうすれあ二月(つき)、三月(つき)、埋宝の場処によっては二年、三年、江戸に別れをつげなくちゃあならねえ。発足前にとっくりと、源三郎の生死をたしかめてえものだが――」
「うむ。そんならねえ、父(ちゃん)、あすの朝までこの辺をウロウロして、それとなくあたってみようじゃあねえか」
 このチョビ安の提案に、同意した左膳は、その、寮の焼け跡から近くへかけて、まるで岡っ引きのように木の根、草の葉にも心をそそいで、歩きまわっているうちに……。
 その日は、終日埃(ほこり)っぽい風がふきすさんで、真(ま)っ黒にこげた焼け跡の材木から、まだ立ちのぼっている紫の煙を、しきりに横になびかせていた。
 宏壮……ではなかったにしても相当な建物だったのが、一夜のうちに焼け落ちて見る影もない。残っているのは土台石と、台所の土間に築いたへっついだけ。雲のゆききにつれて、薄陽が落ちたり、かげったりしながら、早くも夜となりましたが、左膳とチョビ安の姿は、黒い壁のような闇がおそってきても立ち去ろうとしなかった。
 蕭条(しょうじょう)たる屋敷跡に、思い出したようなチョビ安の唄声が、さびしくひびく。
 どこかに源三郎が生きているような気がして、それを見つけだすまでは、左膳はどうしても、この場をはなれることができなかったのです。
 どこかに。
 そして、この近くに。
「やい、安公(やすこう)、つるぎの恋人の源三郎をとられて、おらあ、この隻眼から、涙が出てならねえんだ。今夜だけは、そのかなしい歌をうたわねえでくれよなア」
「ウム、そうだったねえ。ほんとの父(ちゃん)やおっ母(かあ)は、行方知れずでも、あたいには、こんな強い父ちゃんがあるんだったねえ」
 焼け残りの材木に腰かけて、ぽつねんと考えこんでいた左膳、とうとう焼け跡に一夜を明かして、やっとあきらめて起ちあがった時!
 朝靄の中から、突如人声が生まれた。
「向うの辻のお地蔵さん
 ちょいときくから教えておくれ
 あたいの父(ちゃん)はどこへ行(い)た
 あたいのお母(ふくろ)どこにいる――」

       三

「ナニ、源三郎様にかぎって、さような死をおとげなさるはずはない」
「それにしても、陰謀の巣へ、単身お乗りこみになったとは、いささかお考えが浅うござったワ」
「腕に自信がおありだったから、かえって危険を招くことにもなる」
 乳のような濃い朝霧をわけて、息せききってここへ駈けつけてきたのは、安積玄心斎と谷大八の注進によって、麻布上屋敷の尚兵館(しょうへいかん)をあとにした伊賀侍の一団。
 麻布から向島のはずれまで、たいへんな道のりです。
 高大之進、井上近江、喜多川頼母ら、四、五人の頭株は、途中から辻駕籠にうち乗り、他の者はそれにひきそって、朝ぼらけの江戸を斜(はす)かいにスッとんできたのだから、明けやらぬ町の人々はおどろいて、何事が起こったのかと見送っていた。
 客人大権現(まろうどだいごんげん)に近く……。
 司馬寮の焼け跡にころがるように行きついた一同。
「アッ! またあの、隻眼隻腕の侍が!」
 と、誰かが指さす方を見やると。
 奥座敷だったとおぼしいあたりに、大小二つの人影が、ヌッと並び立っている。
 駕籠をおりたった高大之進は、部下をしたがえて左膳へ近づきながら、ニヤニヤして、
「よく逢うな、貴公とは……いつぞや、あの駒形のなんとかいう女芸人の家で、その子供の生命とひきかえに、にせの壺のふたをあけて以来――」
「ウム、ひさしぶりだ」
 あのときの斬りあいで、丹下左膳の腕前は十分に知っているから、高大之進もゆだんをしない。うちつづく同勢へ、チラチラと警戒の眼を投げながら、
「シテ、貴公がどうしてここへ?」
「源三郎に会いに来たのだ」
「その源三郎様は焼死なされたと聞いて、われらかくあわてて推参いたしたわけだが」
「死んだ源三郎にしろ、生きている源三郎にしろ、伊賀の源三に会わねえうちは、おれは一歩もここをどかねえつもりだ」
 チョビ安は左膳のうしろにせまり帯につかまって、とりまく伊賀の連中を、かわいい眼でにらみまわしている。
 高大之進はつめよるように、
「こけ猿の壺をさがしもとめて、われらは毎日江戸の風雨にさらされておる始末。また源三郎さまは、婿入り先の司馬道場の陰謀組のために、今この生死もさだまらぬおんありさまじゃ。これと申すも、みな、其方(そのほう)ごときよけいなやつが、横合いから飛びだして、壺を私せんとしたため」
「おいおい、それは話がちがうぞ。源三郎がここで火事にあったのは、かれのかってだ。壺は、強い者が手に入れるだけのこと。おれは何も、じゃまだてしたおぼえはねえ」
「言うなッ! 貴様は壺の所在(ありか)をぞんじておろう。ここであったがもっけの幸いだ。一刻もあらそう壺の詮議……ありかを知っておったら言えっ。まっすぐに申しあげろっ!」
「なんだ、それは。へたな八丁堀の口真似か――ふむ。こけ猿の所在は、まったくこの丹下左膳が承知しておる。いや、壺はおれの手にあるのだ。が、むろん、お前らに渡してやるわけはねえ」
「よしッ、きかぬ。それ、おのおの方……」
 時日はせまる、壺はわからぬ、上役にはせきたてられる……で、自暴自棄になっている高大之進、いきなり、抜いたんです。

       四

 同時に。
 尚兵館の若侍たちは、一時にパッと飛びのいて、遠巻き……。
 その手に、一本ずつ秋の流水が凝(こ)ったと見えるのは、一同、早くも抜きつれたのだ。
「理不尽!」
 口のなかでうめいた左膳は、左手で、ちょっとチョビ安をかばいながら、顎を突きだし、顔を斜めにして高大之進を見やった。
 その鼻先にドキドキする高大之進の斬っ尖が、ころあいをはかってヒクヒク突きつけられている。
 ニヤリと笑った左膳だ。
「フム。そんなにおれを斬りてえのか、おい! そ、そんなにこの左膳の血を見てえのかっ」
 と、ひとことずつせりあがるように、
「イヤサ、どうでも手前(てめえ)らは斬られてえのだな。ウム? 死にてえのだナ?」
 くぎるように言いながら、そっと左右に眼をくばった剣妖左膳、ものうそうに欠伸(あくび)まじりに、
「血迷ったな、伊賀侍ども。よしっ、相手になってやるっ!」
 言葉の終わらぬうちに、足をひらいた左膳、ツと体(たい)をひくめたかと思うと、腰をひねって流し出した豪刀濡れ燕の柄! たっ! と音して空(くう)につかむより早く……。
「洒落(しゃら)くせえっ!」
 正面の敵、高大之進はそのままにしておいて。
 白いかたまりのように、横ッ飛びに左へ飛んだ丹下左膳は、その左剣を、抜き放ちに後ろへ払って。
 折りから――。
 左膳をめがけて跳躍にうつろうとしていた大垣七郎右衛門の脾腹(ひばら)を、ななめに斬りさげた。
 血飛沫(しぶき)たててのけぞる七郎右衛門の武者袴に、時ならぬ牡丹(ぼたん)の花が、みるみるにじみひろがってゆく。
 青眼の構えよりも、すこしく左手を内側に締めこんで、剣尖(けんさき)をややさげ、踏みだした左の膝をこころもち前のめりにまげて、立ったまま、一眼をおもしろそうに笑わせて立っている。
 焼け野の鬼……。
 何しろ、おそろしく足場がわるいんです。焼けた梁(はり)や板、柱の類が累々(るいるい)とかさなっているその一つへ、痩せさらばえた片足をチョンとかけて、四方八方前後左右へ眼をちらす丹下左膳……見せたい場面です。
「一人っ!」
 その時、ほがらかな声がひびいたのは、チョビ安が、そう大きく数えはじめたのだ。
 のんきなやつで、チョビ安、手に一本の小さな焼け棒ッ杭(くい)をひろって、包囲する伊賀勢の剣輪をもぐってかこみの外(そと)へ走りぬけた。
 鬼神のような左膳の剣技にどぎもを抜かれて、一同は、子供などにはかまっていない。
 チョビ安はやすやすと、地境(じざかい)に焼け残っている土蔵の横へ駈けつけた。
 そして、くすぶった白壁に、一と大きく数字を書きつけました。
 左膳が一人ずつ斬りたおすそばから、チョビ安はここで記録をつける気とみえる。どうも洒落(しゃれ)たやつで。
 左膳は?
 と見ると。

   から馬(うま)


       一

 令嬢萩乃の寝部屋で、脇本門之丞が真っぷたつになっていたのだから、司馬道場の人たちは、おどろいた。
 師範代玄心斎、谷大八とともに、源三郎にくっついていったはずの門之丞が、どうして一人だけここに……?
 萩乃は、死者を傷つけるがものもないと、やさしい心やりから、
「姓は丹下、名は左膳とかいう、隻眼隻腕の怖(こわ)らしい浪人者が、こけ猿の茶壺をねらって、深夜忍びこんできたのを、折りからひとりかえったこの門之丞が、とりおさえようと立ちむかったため、この最期――」
 と、真相はおのれの小さな胸ひとつにのんで、うまく言いつくろったから、源三郎の家来どもは、口々に、
「さすがは門之丞殿だ。身をもって萩乃さまをかばったとは、見あげたおこころ……若殿がお聞きなされたら、どんなに御満足に思召(おぼしめ)すことか」
「それにしても、丹下左膳という妖怪が、また出たとは、おのおの方、ゆだんがならぬぞ」
 左膳、すっかり化け物あつかいだ。
「こっちもこけ猿を探しておるのに、そのこけ猿をさがしに入りこむなんて見当がはずれるのであろう」
「なんにしても、門之丞どのはお気の毒なことをいたしたテ」
「われらさえ眼がさめたらなア……さだめし激しい斬りあい、物音もいたしたであろうに、白河夜船とは、いやはや、不覚でござったよ」
 同僚の忠死をいたむ伊賀ざむらい。門之丞の死骸は、二つになった胴をつなぎあわせ、白木綿でまいて、ねんごろに棺におさめ、主君源三郎の帰りを待つことになった。
 これやそれやの騒ぎで、その日一日は、はやくも暮れてしまう。
 これは、源三郎の婿入りにつきしたがって、柳生の庄から江戸入りしている一団だ。
 十方斎先生なきあとの司馬道場にがんばって、居すわりの根くらべをしている連中。
 林念寺(りんねんじ)前の上(かみ)やしきなる尚兵館の、あの高大之進の一派と呼応して、江戸の巷にこけ猿を物色しているのだ。
 居直り強盗というのはあるが、これは、居なおり婿のとりまきである。
 あくまでも萩乃の婿のつもり、すなわちこの道場の主人の格式で、乗りこんできている源三郎は、この荒武者どもをひきつれて、道場の一郭に陣どり、かって放題の生活をしていたのだ。
 庭に面した座敷を、幾間となくぶちぬいて、乱暴狼藉のかぎり。
 剣術大名といわれたくらい、富豪の司馬様だから、りっぱな調度お道具ばかりそろっている。それをかたっぱしからひきだしてきて、昔から名高い薄茶の茶碗で、飯をかっこむやら、見事な軸へよせ書きをして笑い興じるやら……それというのも、こうでもしたら司馬家のほうから、今にも文句がでるかという肚(はら)だから、これでもか、これでもかといわんばかり、喧嘩を売ってきたのだ。
 もてあました峰丹波とお蓮様、このうえは源三郎をおびきだして、ひと思いに亡き者にするよりほかはないと、門之丞をだきこんで、ああして葛飾(かつしか)の寮へひきよせたのだった。
 その、伊賀の暴れん坊源三郎、とうとう彼らの策に乗り、今は真っくろこげの死体となった――?
 ともしらぬ一同は、その日も帰らぬ源三郎を案じながらも、門之丞のことなどあれこれと話しあって、その晩は早く寝(しん)についた。
 すると、ちょうど明け方近くだった。
 彼らの寝ている部屋のそと、しめきった雨戸ごしの庭に、ヒヒン! とふた声、三声、さも悲しげな馬のいななきが聞こえた。

       二

 水の流れもとまるという真夜中すぎに、馬のなき声である。
 五十嵐鉄(いがらしてつ)十郎(ろう)という人が、いちばん敷居際の、縁に近いところに寝ていた。
 そのいななきを耳にして、最初に眼をさましたのは、この五十嵐鉄十郎だった。
「はてな……」
 と、彼は身をおこした。
「若殿の御帰館かしら。それにしても、この深夜に――」
 轟(ごう)ッと立ち木をゆすぶり、棟をならして、まっ暗な風が戸外(そと)をわたる。さながら、何かしら大きな手で、天地をかきみだすかのよう……。
 ひとしきり、その小夜(さよ)あらしが走って、ピタとやんだのちは、まるで海底のような静かさだ。
 なんのもの音も聞こえない。
 枕から頭をあげていた五十嵐鉄十郎は、
「空耳?――だったに相違ない。今ごろこの奥庭で、馬のなき声のするはずはないのだから」
 とそう、われとわが胸に言いきかせて、ふたたびまくらに返ろうとした瞬間、こんどこそは紛れもない馬のいななきが、一声ハッキリと……。
「殿ッ! お帰りでござりまするか」
 思わず大声が、鉄十郎の口をにげた。
 と、となりに寝ていた一人が、眼をさまして、
「なんだ、どうしたのだ」
「しっ!」
「ホ、この庭先に、何やら生き物の気配がするではないか。うむ! 馬だな」
 それに答えるかのように、戸外(そと)では、土をける蹄(ひづめ)の音が、断続して聞こえる。
 今は躊躇(ちゅうちょ)すべきではない。五十嵐鉄十郎ともう一人の侍は、力をあわせていそぎ雨戸をくってみると、――もう、空のどこかに暁の色が流れそめて、物の影が、自くおぼろに眼にうつる。
 裏木戸を押しやぶって、はいってきたものに相違ない。雨戸の外、庇(ひさし)の下に、ヌウッと立っていたのは一頭の馬だ。
 それが、戸のあくまももどかしそうに、長い鼻面を縁へさしいれた。おどろいた鉄十郎と相手は、顔をみあわせて、しばし無言だった。
 馬は、口をきけないのがじれったいと言わんばかりに、頸(くび)をふり、たてがみをゆすぶって、何やら告げたげなようすである。
 じっと見ていた五十嵐鉄十郎がうめいた。
「おう、これは、殿の御乗馬では……!」
「うむ! たしかにそうだ。源三郎様は、此馬(これ)にめされて、遠乗りに出られたはず」
「今この馬が、こうして空鞍(からくら)でもどったところを見ると――」
「若殿のお身に、何か異変が……」
「これ! 不吉なことをいうでない」
 とどろく胸をおさえて、二人は、互いに眼の奥をみつめあった。すると、馬はここで、ひとつのふしぎなことをしたのだった。
 馬は動物のなかで一番利口(りこう)だといわれている。この馬は、源三郎の愛馬で、故郷伊賀からの途中も、駕籠でなければこの馬にまたがり、しじゅう親しんできたものだった。
 あの、司馬十方斎先生の葬儀(そうぎ)の日に、不知火銭の中のただ一つの萩乃さまのお墨つきをつかんで、源三郎が首尾よく邸内へ押しこんだ時も、かれのさわやかな勇姿を支えていたのは、このたくましい栗毛の馬背(ばはい)であった。
 今この馬のつかれきったようすで見ると、司馬寮の焼ける時、厩(うまや)につながれていたのが、火をくぐってぬけだし、主人のすがたを求めてひかれるように江戸へ立ちかえったものの、本郷への道を思い出せずにあちこちさまよい歩いたあげく、やっと今たどりついたものらしい。
 馬がふしぎをあらわしたというのは、この時いきなり、何を思ったものか、鉄十郎の寝巻の袂(たもと)をくわえて、力をこめて庭へひきおろしたのだった。

       三

 五十嵐鉄十郎の寝間着の袂をくわえて、馬は、ぐんぐん庭へひっぱりおろす。
「ウム、これはいよいよ若殿のお身に……」
 そのまも馬は、早く乗ってくれというように、からだを鉄十郎のほうへすりよせるのだった。
「これはこうしてはおられぬ。刀をとってくれ」
 渡された刀を帯するより早く、鉄十郎はヒラリと馬にまたがった。
 もうその時は、一同は起きいでて、上を下への騒ぎになっていた。
「何ッ、源三郎様のお馬が、帰ってきたと?」
「畜生のかなしさ、口をきけぬながらも……」
「何か一大事を知らせにきたものに相違ない」
「かわいいものだなア」
「殿は、あの馬をかわいがっておられたからな」
「そんなのんきなことを言っておる場合ではない。サ、したく、したく」
 言われるまでもなく、皆もう用意をすまして、パラパラッと庭へ飛びおりると、
「鉄十郎殿はどうした」
「馬はどこにおる」
「鉄十郎を乗せて、ドンドン駈けていってしもうた」
「ソレ行け。見失うな」
 ほのぼのと朝の色の動く司馬道場の通用門から、一隊の伊賀侍が、雪崩(なだれ)をうって押しだした。
 見ると。
 庭の柴折戸(しおりど)をやぶって飛びだした源三郎の愛馬、五十嵐鉄十郎を乗せたまま、砂煙をあげて妻恋坂を駈けおりていく。
 一同はこけつまろびつつづいたが、先が馬ではすぐはぐれてしまう。気のきいたのが、自分たちも司馬家の馬小屋から、四、五頭ひきだしてきて、馬で後を追った。徒歩(かち)の者は、道みち駕籠を拾ってつづく。
 騎馬の一人が連絡係となって時どき引っ返してきては、駕籠に方向を知らせておいて、また先頭に追いつく。
 戞々(かつかつ)たる馬蹄の音が、寝おきの町を驚かせつつ、先駆の五十嵐鉄十郎の馬は、いっさん走りに向島を駈けぬけて、やがて葛飾へはいり、客人大権現の森かげなる司馬寮の焼け跡へついた。
 馬というものは、おぼえのいいもので、帰りはむだ道一つせず、主人を思う一心から、ちゃんと火事跡へ駈けつけたのだ。
 来てみると、鉄十郎は二度びっくりしなければならなかった。
 一面に焼け木の横たわる惨澹(さんたん)たる屋敷跡に、今し激しい斬りあいが始まっているではないか。
 こけ猿の探索に、かねて邪魔を入れている丹下左膳という隻眼片腕の浪人者が、左手に長剣を握って、焼け跡の真ン中にスックと立っている。
 とりまく面々は、上屋敷にいる同藩の高大之進の一党。
「おのおの方、援軍到来!」
 大声にさけびながら、鉄十郎は馬をおりた。
 ほかの騎馬の侍もかけ着いて手早く刀の目釘を湿す。おくれて駕籠や徒歩(かち)の連中もみな到来した。伊賀勢は、ここに思わぬ大集団となったのである。

   その後(ご)は御無沙汰(ごぶさた)


       一

 もう乱軍だった。
 二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空(そら)を翔(か)け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらねばならない……。
「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶(でく)の坊がそろったもんだ」
 刀痕の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。
「この濡れ燕は、名代の気まぐれものだ。どこへ飛んでいくかわからねえから、そのつもりで応対しろよ」
 女物の長襦袢(ながじゅばん)が、ヒラヒラ朝風になびく左膳の足もとに、すでに二、三の死骸がころがっているのは、そのくせの悪い濡れ燕に見舞われた、運の悪い伊賀者だ。
「皆あせってはならぬぞ。遠巻きにして、つかれるのを待つのじゃ」
 高大之進の下知に、とりまく剣陣はすすまず、しりぞかず、ジッと切尖(きっさき)をそろえて持久戦……。
 人あってもしこの場を天上から眺めたならば――。
 まるでシインと澄みきってまわっている独楽(こま)のように見えたことだろう。
 中央の心棒に白衣の一点、それをとりまいて、何本もの黒い線。
 めんどうと見た左膳、
「さわるまいぞえ手を出しゃ痛い……伊賀の源三さえいてくれたら、手前ッチも、もっと気が強かろうがなあ。にらみあいでは埓(らち)があかねえ。そっちからこなけりゃあ、こっちから行くぞっ!」
 ニヤリと笑いながら、右へ片足。
 その右手の伊賀の連中、タタタと二、三歩あとずさりする。
「静かなること林のごとし……なるほど柳生一刀流の妙致だ。いつまでたってもジッとしているところは、フン見あげたものだ」
 と左膳、またふくみ笑いとともに、左へ一歩。
 右手の伊賀侍が、そろりそろりと後ろへ退く。
 剣神ともいうべき丹下左膳の腕前を見せられて、もうこの連中、すっかり怖気(おじけ)づいているのだ。
「めんどうだっ!」
 叫んだ左膳、濡れ燕を大上段にひっかぶり、まるで棒をたおすように、正面の敵中へ斬りこんでいった。
 縦横にひらめく濡れ燕。鉄(あらがね)と鉄(あらがね)のふれあうひびき。きしむ音、おめき声、立ち舞う焼(や)け跡(あと)の灰。
 その灰けむりのおさまったあとには、ふたたび水のように、つめたく静まりかえった丹下左膳の蒼い顔と、青眼にとった妖刀(ようとう)濡れ燕と……。
 そして。
 またもやそこここに三人の伊賀侍が、一人は膝をわりつけられて、立ちもならず、
「あっ痛(つ)ゥ!」
 と、這いながら焼(や)け灰(ばい)をつかむ。その、苦痛にゆがむ顔のものすごさ!
 もう一人は、肩先をやられて、片手で傷口をおさえながら、のたうちまわっている。三人目は、どこをやられたのか、あおむけにたおれたまま、血の池の中でしずかに眼をつぶろうとしている。
「三人!」
 チョビ安の大声がした。この乱闘の場をすこしはなれた焼け残りの土蔵の横に、チョビ安、焼けた棒で、土蔵の白壁へしるしをつけながら、
「父上ッ! 〆(し)めて九人……!」

       二

 早朝から、空の大半は真っさおに晴れて、焼け跡のすぐそばを流れる三方子川(さんぼうしがわ)の川づらを、しずかになでてくるさわやかな風。
 だが。
 人の膚(はだ)をつきさすような、ジリジリした日光には、もうどこやら初夏の色がまじって、川水一面、金の帯のように照りはえている。
 寮の前の往来の片側に、長くつづいている客人大権現(まろうどだいごんげん)の土塀から枝をのばした樹々のしげみが、かげ涼しげにながめらるるのだった。
 平和なのは、この自然の風景のみ。
 真っ黒な焼け跡には、いまし全伊賀勢を相手に、丹下左膳の狂刃が、巴(ともえ)の舞いを演じているのである。
 いま言った土塀の上に。
 近処の者や、通りすがりの人の顔がズラリと並んで、
「オウ、由(よし)や、見ねえな、講釈のとおりじゃアねえか。足をジリジリ、ジリジリときざませて、両方から近よっていくところなんざア、すごい見物だぜ」
「あの片手の侍は、よっぽど腕がたつと見えるぜ。取り巻(め)えてる連中の、ハッハッハという息づかいが、ここまで聞こえてくるようだ」
「ソラ、一人うしろへまわったぞ」
「刀を下段にかまえて……ソレ、しのびよっていく、しのびよっていく」
「ああ、おれはもう見ちゃアいられねえ」
 と気の弱いひとりが、たまらなくなって眼をふせる。
「ほんとだ。あいつもバッサリやられるにきまってらあ」
 この言葉が終わるか終わらぬかに、塀の上に並ぶ見物人一同、ワアッと歓声をあげた。
 見るがいい!
 前へ斬りこむと見せて、そのままあとへはらった左腕の左刀、うしろざまに見事にきまって、背をねらってしたいよっていた伊賀侍、ガッと膝をわりつけられてのめってしまった。そがれた白い骨が、チラリと陽に光って露出する。一、二、三、四、五と、五つ数えるほどのまをおいて、はじめてドッと血がふきでるのだった。
 塀の上に並ぶ顔は、いっせいに眼をふさいで、
「すげえもんだなア!」
「オウ、見ろ、見ろ! よほど苦しいとみえて、土をつかんでころがりまわっているぜ」
「侍は、どうでエ、ニヤニヤ笑って、血刀をさげたまま、右に左に歩きまわっている。あいつはおっそろしく度胸がすわっているのだなア」
「イヨウ、剣術の神様!」
「人斬り大明神!」
「待ってましたアッ!」
「大統領ッ!」
 人間の顔が、首から上だけ塀の上にズラリと並んで、割れるような喝采(かっさい)だ。通りかかった人が、この斬りあいにみんな塀の中へ逃げこんで、首だけのぞかせてながめているのだ。
 甘酒屋のお爺(じい)さんが、赤塗りの荷箱をおっぽりだして、塀のかげへ走りこんだかと思うと、すぐその顔が築地塀(ついじべい)の上に現われた。
「この時木曾殿はただ一騎、粟津(あわづ)の松原へ駈けたもう。喚(おめ)き叫ぶ声、射ちかう鏑(かぶら)の音、山をうがち谷をひびかし、征(ゆ)く馬の脚にまかせつつ……時は正月二十一日、入相(いりあい)ばかりのことなるに、薄氷(うすごおり)は張ったりけり――」
 のんきなお爺さんで、軍談もどきに平家物語の一節。

       三

 三方子川の川べりへ、糸をたれようと、釣竿をかついでやってきた若い男。
 これも、この乱闘に胆をつぶして、竿をかついだまま塀の中へ飛びこみ、人を押しのけて顔を出そうとすると、
「オイオイ、あとから来て、このいい場をとろうてエ手はねえだろう。ここは特等席だ」
 なんて言うやつもある。
 一同は、すっかり芝居でも見物する気で、ワイワイ声をかけるやら、大声に批評するやら、たいへんな騒ぎ。
 それでも、左膳の濡れ燕が、また一人ズンと斬りさげたりすると、いっせいに顔をひっこめて……桑原、桑原!――南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)――こわいもの見たさで、いつまでも立ち去らない。
「また一人!」
 チョビ安が大声にさけんで、土蔵の白壁に焼けぼっくいでしるす記録の線が、一ぽんふえていく。
「ヤアまた一人……これで十三人だ! 父上、しっかり頼むぜ」
 レコード係と応援団を、チョビ安、ひとりでひきうけている。
 見物はことごとく喜んじまって、
「小僧ッ、そらまた一人だぞ!」
「十三人じゃアねえ、十四人じゃあねえか」
「オウイ、あそこにころがってるのを数えたかよウ?」
 四戒(かい)ということを言う。
 恐れ、驚き、疑い、迷う……これが剣道の四戒。
 技(わざ)と理合(りあい)とは、車の両輪、鳥の両翼。その一方を欠けば、その効(こう)は断絶される。技(わざ)は面(おもて)に表れる形(ぎょう)であり、理合(りあい)は内に存する心である。技(わざ)と理合(りあい)がともにある境地に達すれば、心に思ったことがただちに技(わざ)となって表現するのだ。
 が、これはまだ未熟のうち。
 左膳のごとき達人になれば、技(わざ)と理合(りあい)も、内も、外も、いっさい無差別。すべては融然と溶けあって、ただ五月雨(さみだれ)を縫って飛ぶ濡れ燕の、光ったつばさあるのみ。
 何も考えなしに行っている業(わざ)こそは、自然と理合(りあい)に適(あ)ってくるのである。
 考えて行うのではない。
 また行って考えるのでもない。
 天地の理法に、行と心の区別はないので。
 剣心不異というのは、まことにここのことである。
 だから、そこへ、今の四戒の一つが兆(きざ)しでもしたら、もうそれだけでも浮き足だつにきまっている。
 いかにすれば勝てるか……などということを考えない丹下左膳、濡れ燕のとぶがまま、思いの赴(おもむ)くにまかせて、斬ってきって斬りまくった彼は、相手方が一人ふたりずつ数の減ってゆくのを、意識するだけだった。
 けれど。
 大将株の高大之進を討たねば、なんにもならぬ――そう気がつくと同時に。
 左膳、とっさに一眼をきらめかして、大之進の姿をさがしもとめた。
 と、乃公(だいこう)のでる幕は、まだまだと言わぬばかり……大之進も相当の人物で、乱陣の場(にわ)をすこしはなれた路傍の切り株に腰をおろし、大刀を杖にだいて、ジッと左膳のようすに眼をこらしている。
「オイ、お前(めえ)の番だぜ」
 左膳のネットリした声。
「父(とう)ちゃん! 一騎討ちだ」
 チョビ安が叫んだ。

       四

「では、未熟ながら、お相手いたそうかな」
 高大之進(こうだいのしん)はそう言って、焼け跡のわきの切り株にかけていた腰を、あげた。
「助太刀(すけだち)はゆるさぬぞ」
 と彼は、不安気に見まもる伊賀の勢へ、チラと眼をやった。
「かんじんのこけ猿は、いまだに行方不明。日光御着手の日は、目睫(もくしょう)の間(かん)にせまっておる。申し訳にこの大之進、腹を切らねばならぬところだ。一人で切腹するよりは、この化け物に一太刀でもあびせて……」
 ひとりごとのようにうめきつつ、静かに雪駄(せった)をぬいで、足袋跣足(たびはだし)になった大之進は、トントンと二、三度足踏みをして、歩固めをしながら、
「だが、どうせおれの生命はないものだ。高大之進は、いまこの隻眼隻腕の浪人に討たれるのだ。骨を拾ってくれよ」
 言ったかと思うと彼は、スラリ一刀をひきぬいて、左膳のほうへ歩みだした。
 捨て身になるとおそろしいもの。
 刀をまじえようとするよりも、まるで、このままスパリと斬ってくれとでもいうように、左膳の前へ進んで行く大之進。
 何か相談事があって、話に出かけていくような態度だ。
 これをむかえた左膳は、いささかかってがちがって、濡れ燕の斬っ尖ごしに、きっと大之進をみつめて無言。
 大之進の一刀と、濡れ燕と、ふたつ斬っ尖のあいだがみるみるせばまって、チチチと二本の刃物のふれあうひびき……と! サッと二人は前後にわかれた。
 相正眼――。
 塀の上の見物人も、もう駄弁をろうするどころではない。
 シーンと静まり返ったなかに、すぐそばを流れる三方子川の水音が淙々(そうそう)、また淙々(そうそう)……。
 胴を打つ技(わざ)は、姿勢がくずれやすい。
 むずかしい業(わざ)だ、胴(どう)は。
 下腹の力をぬいてはならぬ。撃つ時には、十二分の力を剣にこめねばならぬ。背と腰を、竹のごとくまっすぐに伸ばしてうたねばならぬ。撃ったあとは、左の拳が腹の前方にあって、右腕と左腕とが交叉するように、手を返さねばならぬ。左手をひくこと、右面をうつ場合のごとし――。
 高大之進、一気に左膳の胴をねらって、剣を大きく振りかぶり、ソロリ、ソロリと、右足から踏みだした。
 左足が、きざむようにこれにともない、双(そう)の爪先で呼吸をはかりながら、にじりよる。
 この瞬間。
 逆胴(さかどう)!……左膳はそこにすきを見た。反対に、左足から踏みきった左膳、斜め右側へまわるがごとき気勢をしめしたが、ツと、
「行くぞっ!」
 笑いをふくんだ気合いとともに、濡れ燕はまるで独立の生き物のように、長い銀鱗を陽にひらめかして、見事に大之進の左脇腹へ……!
 が、大之進もさるもの。
 のけぞって空(くう)を払わせた大之進、うしろ飛びのまま三方子川(さんぼうしがわ)[#ルビの「さんぼうしがわ」は底本では「さんぽうしがわ」]の川べりをさして、トットと数間、逃げのびたのだった。
「口ほどでもねえやつ!」
 いらだった左膳が、相模大進坊(さがみだいしんぼう)を下段にかまえたまま、一足とびに追いにかかった時だった。ちょうどそこは焼け跡のはずれで、黒くもえのこった羽目板が五、六枚、地面に横たえてあるのだが、左膳の足がその板を踏むと同時に、メリメリッとすごい音がして板が割れるが早いか丹下左膳、濡れ燕をいだいたまま、深い竪穴(たてあな)の中へ、棒っきれのように落ちこんだのだった――おとし穴。

       五

 チョビ安をはじめ、当の相手の高大之進、尚兵館の伊賀侍、五十嵐鉄十郎ら司馬道場の伊賀勢、そのほか塀の上に顔を並べている弥次馬連中……白昼、これだけの人間の見ている前で、丹下左膳のからだがフッと消えたのだ。
 さながら、地殻が割れてそこへのまれ去ったかのように……。
 じっさい、そのとおりなのだ。
 今にも追いうちに、濡れつばめが飛んでくるかと覚悟をきめていた高大之進は、ウンともスンとも言わずに左膳が、穴の中へおちこんでしまったのだから、ホッとすると同時に、あっけない感じ。
 ヤヤッ! と、駈けよって穴のふちをのぞく。
 伊賀の同勢も、ふしぎな思いでいっぱいだ。
「こんなところに穴が……」
「穴の上に、この焼け板が渡してあったのだナ」
「これは初めから罠(わな)としてたくらんだものでござろう」
 口ぐちにわめきながら、穴のふちへ走りよって下をうかがうと。
 ちょうど人ひとりはいれるくらいの穴が、まっすぐに地底へのびていて、何やらうすら寒い風が、スーッと吹きあげてくる。
 一同は狐につままれたようである。
 顔を見あわせるばかりで、言葉もなかった。
 チョビ安は夢中だった。伊賀ざむらいをおしのけて、穴の縁(ふち)へ立ち現われたチョビ安、
「父上! 父上! かような卑怯なめにおあいなされて……」
 穴のふちは、土がやわらかい。勢いこんだチョビ安の足に、土がくずれて、ド、ドウとこもった音とともに、土塊(つちくれ)が穴のなかへ落ちこんでいく。
 それとともに、チョビ安のからだも穴の底へめいりそうになるのを、五十嵐鉄十郎がグッとひきあげて、
「おい小僧ッ、あぶないっ! あっちへ行っておれ」
「何いってやんで! ヤイ! 父(ちゃん)をこんなめにあわせたのは、手前ッチだろう。剣術じゃアかなわねえもんだから――父(ちゃん)をけえせ! おいらの父(ちゃん)をけえせっ!」
 チョビ安、泣きながら、小さな拳をふるって、鉄十郎をはじめそばの伊賀者へ、トントンうちかかる。
「これはちかごろ迷惑な!」
 鉄十郎は苦笑、
「かかる場処にこんなおとし穴がしつらえてあろうとは、われらもすこしも知らなんだ。これ、小僧、おちつけ。これは峰丹波一味のしわざで……」
 塀の上の見物も、承知しない。
「手前(てめえ)ら四、五十人もいて、腕は百本もあるだろう。それが一本腕にかなわねえで、穴へおとしこむたアなんでえ」
 ガヤガヤののしりあう人声……それを左膳は、竪坑の底でかすかに聞いていた。
 はじめ、足をかけた焼(や)け板(いた)が下へしのったとき、左膳はギョッとしたのだったが、もうおそかった。板が割れると同時に、左膳のからだは直立の姿勢のまま、一直線に地の底へ落ちたのである。からだの両脇に土を摺(す)って、風が、下からふいた。四、五丈(じょう)も落ちたであろうか。猛烈な勢いで、全身横ざまに地底をうち、ハッと気がつくと、そこは、土を四角にきりひらいた四畳半ほどの小部屋である。
 落ちながら刀をはなさなかったので、濡れ燕を杖に、いたむ身をささえてやっと起きあがろうとすると、闇黒(やみ)の中に声がした。
「おお! ササ、左膳じゃアねえか。丹下左膳、ひさしぶりだなア。あはははは、その後は御無沙汰……」

   水(みず)滴々(てきてき)


       一

 左膳は、ただ一直線におちたような気がしたが。
 穴は垂直ではなかった。
 直径三尺ほどの幅に、急な勾配をもってずっとこの地底のあなぐらへ通じているのである。
 察するところ、その地下室は、地上の穴から斜めに入りこんで、ちょうどあの、路傍を流れる三方子川(さんぼうしがわ)の真下にあたっているらしい。
 左手に濡れ燕を突いて起きあがった左膳、したたか腰をうったらしく、抜けるようにいたい。
「イヤ、不覚……」
 苦笑しながら、掘りたての土軟(やわら)かな床へ、刀を突きさし、ひだり手で腰のあたりをさすろうとした時……今あの、タ、丹下左膳ではないか、ひさしぶりだナ、その後は御無沙汰、という声がしたのだ。
「誰だっ?」
 左膳、濡れ燕をかまえるが早いか壁に飛びのいて、眼をこらした。
 地の底……。
 幾丈とも知れない地下で、地上からの穴は急勾配(きゅうこうばい)なのだから、闇のなかに、どこやらかすかに外光(がいこう)がただよっているにすぎない。
 が、声をかけた人は、この暗黒になれているらしく、
「キ、貴殿も足を踏みはずしたのか。ハハハハハ、やられたな」
 という声は、伊賀の暴れん坊、柳生源三郎である。
 左膳もそれと気づいて、
「源三じゃアねえか。お前(めえ)はこの司馬寮の火事で、焼け死んだと聞いたが、さては、ここは冥府(よみじ)とみえる。してみると、おれもあの世へきたのかな」
 うすく笑って、左膳、声のするほうをすかして見ると、柳生源三郎のほのぼのとした白い顔が、その、四畳半ほどの真ん中にキチンと静座しているのが、彼の一眼にもうっすらと見えてきた。
「イヤ、源三、お前ははかられて、このおとし穴へ落ちこんだのだろうが、おれは、時のはずみでおちたのだ」
 左膳はそう言って、源三郎の前にドッカと胡坐(あぐら)。
 剣をもってふしぎな運命にむすばれる二人。
 この思いがけない地底で、ふたたび顔をあわせたのだ。
「何から話してよいやら……」
 と源三郎も、心からなつかしそうである。
 左膳が、つづけた。
「この罠(わな)は、火事にまぎれてお前(めえ)を落としこむために、こしらえたものに相違ねえ。お前(めえ)は見事、それにかかったわけだが、丹波のやったこの仕事を、おれの相手の伊賀侍が知るはずはねえのだから、おれはかってにおちたようなもので――しかし、驚いた。だが、おかげてこうして、死んだと思った伊賀の暴れん坊にめぐりあったのは、左膳、こんな安心したことはねえ。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:548 KB

担当:undef