丹下左膳
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著者名:林不忘 

 さらりとした洗い髪、エエモウじれったい噛み楊枝……といった風情。口じりに、くろもじをかみ砕きながら、お藤姐御の白い顔が、ほのかな灯りに浮かんでのぞく。
「ま、お前さん。今ごろまでいったいどこを、ほッつき歩いていたんですよ」
 と、キュッと上眼使いににらみあげるのも、女房きどりのうらみごとです。
 左膳は、あの仮りの子チョビ安をつれて、もうだいぶ前から、この櫛巻お藤の隠れ家へころげこんでいるのだ。それというのも、なかばは姐御のほうから、どうぞいてくださいと一生けんめいにひきとめているので……櫛まきお藤、この、隻眼隻腕のお化けじみた左膳先生に、身も世もないほどゾッコン惚(まい)っているんです。
 ヒネクレ者で、口が悪く、見たところはごぞんじのとおり、使いふるした棕櫚箒(しゅろぼうき)に土用干しの古着をひっかけたような姿。能(のう)といったら人を斬るだけの、この丹下左膳。
 どこがいいのか、はたの眼にはわかりませんが、女も、お藤姐さんぐらいに色のしょわけを知りつくし、男という男にあきはててみると、かえって、こういう、卒塔婆(そとば)が紙衣(かみこ)を着てまよい出たような、人間三分(ぶ)に化け物七分(ぶ)が、たまらなくよくなるのかも知れません。
 今夜も。
 夕方フラリと出ていったきり、ふけても帰らぬ左膳を待ちこがれて櫛の落ちたのも知らずに、柳の枕のはずれほうだい、うたた寝していたところらしく、ほおに赤くほつれ髪のあとがついている。
 だが――。
 人の心は、思うままにならないもので、お藤がこんなに想っているのに、左膳のほうでは、平気(へいき)の平左(へいざ)です。
 まア、頼まれるからいてやる……そうまで阿漕(あこ)ぎな気もちでもないでしょうが、どうせ行くところがないのだから、幼いチョビ安を夜露にさらすのもかわいそう、当分ここにとぐろをまいていよう――ぐらいの浅いこころ。
 どんなにお藤がさそっても、左膳は見向きもいたしません。一つ屋根の下に起き伏ししていても、二人の間は、あかの他人なんです。
 いまも左膳は。
「うむ、いい稼業(しょうばい)をしてきたぞ」
と、手の壺の箱へ、ちょっと顎をしゃくって見せたきり、ひややかに家の中へ――。

       二

 お藤の、袖屏風した裸手燭が、隙もる夜風に横になびいて、消えなんとしてまたパッと燃えたつ。
 左膳を追って、お藤はうれしげに、とっつきの茶の間へあがる。
 二間きりの小ぢんまりした家です。かたすみの煎餅蒲団に、チョビ安が、蜻蛉(とんぼ)のような頭髪(あたま)をのぞかせ、小さな手足を踏みはだかって、気もちよさそうな寝息を聞かせています。
 左膳は、さもさも父親のように、そのチョビ安の寝顔をのぞきこんで、
「罪がなくていいなあ、餓鬼は」
 と、思い出したようにお藤をかえりみ、
「あすは旅だ」
 どてらをひろげて、左膳のうしろへ着せかけようとしていたお藤姐御は、この突然の言葉に、吐胸(とむね)をつかれて、
「オヤ、だしぬけに旅へ……とはまた、どちらへ?」
「ゆく先か、それアこの壺にきくがいい」
 どっかり長火鉢の前へ、細長い脛で胡坐(あぐら)をくんだ左膳、こけ猿の包みを小わきに引きつけて、
「どこへ旅に出るか、おれもまだ知らねえのだ」
「あらま、ずいぶんへんなおはなしじゃないか」
 と、半纏(はんてん)の襟をゆりあげながら、お藤は左膳と向きあって、火鉢のこっち側に立て膝。
 喫(か)みたくもない長煙管(ぎせる)へ[#「長煙管(ぎせる)へ」は底本では「長煙管(ぎせる)へ」]、習慣的にたばこをつめつつ、
「ハッキリ言ってもらいたいわね。あてなしの旅に出るなんて、このあたしの家にいるのが、そんなに嫌におなりかえ」
 左膳は苦笑して、
「ウンニャ、そういうわけじゃアねえが、今この壺をひらいて、中の紙きれに……」
「え? その壺のなかの紙片に――?」
「どこと書いてあるか知らねえが、その紙ッきれにしめしてある場処へ、おらア、ある物を掘りに行かなくっちゃアならねえのだよ」
 くすりと、ゆがんだ笑いをもらしたお藤、そっぽを向いて、
「……とかなんとか、うまいことを言ってるヨ。だがね、ほんとにこのあたしが嫌になって、それで家を出て行くんでなければ、あたしがくっついて行ってもかまわないだろう? え? 虫のせいか知らないけど、あたしゃ因果と、お前さんが好きでたまらないのさ。どんなにじゃまにされたって、あたしゃどこまでだってお前さんにへばりついて行くから、ホホホ、大きな荷物をしょいこんだつもりでネ、その覚悟でいるがいいわサ」
「いや、お藤、これ、お藤どの」
 左膳はいささか、持てあまし気味で、
「くしまきの姐御ともあろうものが、そんな小娘みてえなことを言うのア、うすみっともねえぜ。実もって今度の旅は、足弱をつれていっていいような、そんななまやさしいものじゃアねえんだ。まったく、伊賀か、大和か、それとも四国、九州のはてか、どこまで伸(の)さなくっちゃならねえか、この壺をあけてみねえうちは、誰にもわからねえのだからなア」
「フン、その壺はお前さん、前にあのつづみの与の公が、品川の柳生源三郎の泊りとかから、引っさらって来た壺じゃアないか。そんなきたない壺一つが、いったいどうしたというんですよ。もったいをつけないで、早くあけてみたらいいじゃアないか。何もそのうえの相談サ」
 言いながらお藤、左膳が突然この家をはなれるときいて、嫉妬と悲しみにくるってヒステリカルになっている心中で、そんなら、この壺さえなかったら、恋しい左膳をいつまでも自分のもとにとどめておくことができるのだナ、と、ひそかに思いました。
 蛇になった女もある。まことに、恋ほど恐ろしいものはございません。

       三

「ウム……」
 と左膳は、軽くうなずいて、
「壺中の小天地、大財を蔵(ぞう)す――あけてみるのが楽しみだな」
 ヒタヒタと壺の箱をたたきながら、
「だが、あければすぐ、その埋蔵物を掘りに行くという、苦難の仕事が始まるのだ。日本のはて、どこの山奥までも、ただちにおもむく、……してまた、その財宝を手に入れるまでに、この濡れつばめは何度人血をなめねばならんことか。ウフフ、働いてくれよ」
 いささか憮然(ぶぜん)たる面持ちで、左膳は、ひだりの膝がしらに引きつけた長刀(ちょうとう)、相模大進坊(さがみだいしんぼう)の柄を按(あん)じて、うすきみのわるい含み笑いをしました。
 そして、何ごとか思いさだめたふうで、
「イヤ、壺をひらいてしまえばそれまでだ。ひらくまでが、たのしみなのだ。なかなかあけねえところに、そのたのしみは長くつづく」
 お藤はあっけにとられた顔で、
「なにを酔狂(すいきょう)なことを言ってるんですよ。唐人(とうじん)の寝ごとみたいな……じゃ、あたしゃ先に寝ますよ」
 なにげなさそうに言って、しどけなく帯をときながら、ユラリと起ちあがったが。
 そのお藤の胸中には。
 はや一つの思いきった考えが、ちゃくちゃく形をとりつつあったので。
 男には、恋は全部ではないかも知れない。
 だが、女には、恋こそはその全生命、全生活なのです。だから、恋のため……ことに、かなわぬ恋のためには、なんでもする。とくに、お藤のような性格の女は。
 と、そのとたんだった。ちょうど彼女が、何をいってるんですよ、唐人(とうじん)の寝ごとみたいな――と言った時。
 まるで、それにヒントを得たかのように、部屋の片隅にねむりこけるチョビ安が、ハッキリした声で、寝ごとをいいました。
「お美夜ちゃん、お美夜ちゃん!――お前はどうしている。おいら、こうしていても、おめえのことばっかし思ってるぜ。オイ、お美夜ちゃん……」
 子供に、恋慕のこころはありますまい。ただの友情ではあろうが、はげしくお美夜ちゃんをおもう気もちが、いまこの寝ごととなって、チョビ安の口を出たのです。
 たった一声。
 あとは何やらムニャムニャと、眠りながら笑っているのは、夢は荒れ野を駈けめぐり……じゃない、夢はとんがり長屋へ帰って、お美夜ちゃんに会っているに相違ありません。
 その、チョビ安の寝ごとを聞いたときに、お藤姐御の胸は、しめつけられた。
 思わず、ホーッともれる長いためいき――。
「あああ、子供でさえも、思う人のことを、あんなに、夢にまで口に出すのに……ほんとににくらしい情(じょう)なしだ」
 浴衣(ゆかた)をかさねた丹前の裾に、貝細工のような素足の爪をみせて、凝然(ぎょうぜん)とたちすくんでいる櫛巻お藤、艶(えん)なるうらみをまなじりに流して、ジロッと左膳の君を見やりますと。
 左膳はそれも聞こえないのか。
 知らぬ顔の半兵衛で、長火鉢の猫板に巻紙をとりだし、硯に鉄瓶のしたたりを落として、左手で墨をすりはじめている。
 床へはいったお藤は、胸に一物(もつ)ございますから、ねるどころではありません。すぐさま、わざとスヤスヤと小さないびきを聞かせて、薄眼をあけ、じょうずな狸寝入り。
 見られているとも知らず、左膳、口に筆をかんで、いやに深刻な顔で巻紙をにらんでいる。どこへやる文やら、寒燈孤燭(こしょく)のもと、その一眼は異様な情熱にもえて――。

       四

 おらァ、女にいちゃいちゃするのが、大嫌(でえきれ)えだ。これが一つ……と数えたてて、左膳、あの門之丞を斬ってすてたのですけれど。
 また。
 こんなに真実をつくす櫛巻の姐御を、いっしょに住んでいて見向きもせず、はたの見る眼もいじらしいほど、振って振りぬいていた左膳だが。
 かれといえども、べつに木製石作りというわけじゃアない。
 くしまきお藤のようなタイプの女は、左膳の性にあわない。好みじゃないというだけのことで――では、どんなのが左膳の理想のおんなかといえば。
 なにも理想のどうのと、そうむずかしく言うにはあたらないが、あの司馬道場の萩乃、ああいうのこそ、女の中の女というのだろうなアと、左膳、さっき月にぬれて帰る途中から、ふっとものを思う身となってしまったのです。
 萩乃様を?
 この丹下左膳が?
 恋してる?
 イヤどうも妙なことになったもので、萩乃の迷惑が思いやられますけれど、しかし、まったくのところ、どうもそうらしいんですからやむをえません。
 左膳だって、惚(ほ)れたの腫(は)れたのという軽い気もちではないのだ。
 さっきあの寝間ではじめて会ったときは、そうも思わなかったのだが、壺を小腋(こわき)に道場を出て、ブラブラ帰るみちすがら、あの茫然(ぼうぜん)と見送っていた萩乃の立ち姿は、左膳のまぶたのうらから消えなかった。いや、消えないどころか、それは、彼が強い意思でもみつぶそうとするにもかかわらず、だんだんはっきりした形をとって、今はもう、拭(ぬぐ)うべくもなく胸の底にやけついているのです。押入れのすきまから、そっとのぞいているとも知らず、机の上に二つの博多人形をくっつけて置いていた萩乃……。
 あの、門之丞があらわれた時、おどろきのうちにも毅然(きぜん)として、ああして理のたった言葉でたしなめた萩乃――あれほどの強い、正しい、美しい女性を見たことがないと、左膳はスッカリ感心してしまったのだ。
 その感心を胸にだいて帰る途中、月にいろどられ、夜のいぶきにそだてられて、いつのまにか恋ごころに変わったのを、左膳、自分でもどうすることもできませんでした。
「壺を持って出てくるおれを、白い顔に大きな眼をみはって、ジッと見送っていたっけ……」
 筆の穂尖に墨をふくませながら、左膳は今、口の中にうめいた。
 夜風とともに、恋風をひきこんじまった丹下左膳。
 恋の奴(やっこ)の、剣怪左膳――。
 左膳の妖刃、濡れ燕も、糸(いと)し糸(いと)しと言う心……戀の一字のこころのもつれだけは、断ちきることができないでございましょう。
 イヤどうもとんでもないことになっちゃった。たった一つの眼も、恋にくらむとは、えらいことになるもので。
 萩乃さんの身にとっては、門之丞という一難去って、また一難。虎が躍(おど)りでて、狼をかみころしてくれたのはいいが、こんどはその虎が、爪をみがいて飛びかかろうとしているようなもの……。
 ですけれど。
 恋にかけては、とっても内気の左膳なんですネ。
「なんと書いたらいいものだろうなア」
 くちびるに墨をぬりながら、またつぶやいた。
 これでみると、左膳のやつ、さっそく萩乃のところへ、手紙(ふみ)をやろうとしているらしい。
 かたわらで、こけ猿の茶壺が、早くあけてくれ、早くあけてくれと、声なき声を発するがごとく――。

       五

 左膳、萩乃に心をとられて、せっかく手に入れたかんじんかなめのこけ猿を、たとえ一瞬時でもわすれたわけではございません。
 それじゃア普段の左膳が泣く。
 濡れ燕が、承知せぬ。
 決してそういうわけじゃないんです。
 ただ……さんざん世話をやかせた壺だけれど、壺に足があるわけではない。現実に、ここにこうして存在してるんだから、べつに逃げだしはいたしません。あけようと思えば、今にもあけて見られるのだから、あえていそぐにはあたらない。
 まず、萩乃に一筆したためてから、ユックリあけてみるとしよう。見るまでの楽しみは大きいんですから、できるだけそのたのしみを長くしようという考え。
 なんのことはない。
 好きなお菓子(かし)をいただいたこどもが、すぐかぶりつけばよさそうなのに、なかなか食べないのと同じような心理で。
 それよりも。
 この壺の秘める密図の指示するところにしたがって、東西南北いずれにせよ、どっちみち明朝(あした)早く江戸を発足するのだから、もう当分、萩乃に会えない。
 それを思うと左膳、がらにもなくちょっと暗然としちまうんです。
 で。
 また会う日まで……なんていうと、讃美歌みたいですが、とにかく左膳、なんとかしてあの萩乃様へ、今この心のたけを書き送っておきてエものだと――。
 剣を持たせれば変通自在、よく剣禅一致ということを申しますが、わが左膳においては、剣もなく禅もなく、いわんやわれもなく、まったく空気のような、色もにおいも味もないほどの、武道の至妙境に達した男でありますが。
 文(ふみ)はまた別。おまけに恋文。
「チッ!書けねえもんだなあ」
 と、煙突掃除みたいな大髻(おおたぶさ)のあたまをかかえて、長火鉢の猫板に左膳の肘を突き、筆といっしょに顎をささえて一つッきりの眼をしかめ、ウンウンうなってるところは、まことに珍妙な図。
 まったく、どなたかに助けに飛びだして、書いていただきたいくらいのもので……しかし、丹下左膳のやつが、ラブレターを書く身になろうたア思わなかった。
 わからないもンですネ。
「ウッ、汗をかくだけで、一字も書けねえや」
 剣妖、われながらつまらない洒落(しゃれ)をいった。
 とたんに。
「何をお前さんウンウンうなってるんだい。お腹(なか)でも痛むの?」
 ねてると思ったお藤姐御が、ムックリ枕から頭をあげて、皮肉なひとこと。
 これには左膳も、不意の斬込みをくった以上にあわてて、
「ウンニャ、い、一首浮かんだから、わすれねえうちに書きとめておこうと思ってナ」
「オヤ、火鉢のひきだしに、一朱(しゅ)あったのかえ」
「ナ、何を言やアがる。寝ぼけてねえで、早くねむっちめえ、ねむっちめえ!」
「お前さんも早くおやすみよ。油がむだだわサ」
 お藤はそのまま、くるりと暗いほうを向いたが――ドッコイ、ねむってなるものか。
 おんしたわしき萩乃どの……左膳は一気に、ぬれ燕ならぬ濡れ筆を、巻紙へ走らせたが、すぐ、
「まずいなア」
 と一本黒々と線をひいて、そいつを消してしまった。
「ちえっ、若旦那のつけ文じゃアあるめえし――」
 左膳、ひとりでてれて、かわいそうに、真っ赤になっています。

       六

 いつまでたっても、少女を感動させるような名文は、できそうもありません。
 すっかりくさった左膳、髪の中へ指をつっこんで、ガリガリ掻くと、雲脂(ふけ)がとぶ。
 竹になりたや紫竹(しちく)だけ、元は尺八、中は笛、末はそもじの筆の軸……思いまいらせ候(そろ)かしく。
 といいたいところだが、これじゃア義理にも、そんな艶(つや)っぽい場面とは言えない。
 ましてや。
 筆とりて、心のたけを杜若(かきつばた)、色よい返事を待乳山(まつちやま)、あやめも知れめ水茎(みずぐき)の、あとに残せし濃(こ)むらさき。
 なんて□のは、望むほうが無理で、色よい返事を待乳山(まつちやま)――どころじゃアない。そのまつち山から、まず夜が明けそうです。
 じっさい。
 室内(へや)のどこやらに、白っぽい気がただよいそめて、今にも牛乳屋の車がガラガラ通りそう、お江戸は今、享保(きょうほう)何年かの三月十五日の朝を迎えようとしている。
 巻紙をにらむ左膳の眼ったら、まさに非常時そのものです。
 とうとう、書いた。
「萩乃殿――唐突(とうとつ)ながら、わすれねばこそ思いいださず候(そろ)」
 こいつはどこかでみたような文句だ。ちょいと借用したんです。
「かわいいかわいいと啼く明(あ)け烏(がらす)に候(そろ)」
 これは自分ながら上出来だと、左膳、ニヤニヤしたものだ。
「鳴く虫よりも、もの言わぬ螢がズンと身をこがし候(そろ)。さて、小生こと明日(みょうにち)出発。埋蔵金を掘りにまいる所存、帰府のうえ、その財産をそっくり持参金として、おん身のもとへ押しかけるべく候(そろ)。たのしみにしてお待ちあれ。頓首(とんしゅ)頓首」
 これだけの文句です。アッサリしたもの。しかしどうもあきれたものだ。支離滅裂……右の腕も右の眼もなく、傷だらけのところは争われないもので、はなはだ筆の主左膳に似ていると申さなければなりません。
 左膳らしい恋文。ブッキラ棒で、ひとり飲みこみで、何がなんだかわからない。
 唐突ながら――と冒頭(はな)に自分でもことわってるとおり、いかにも唐突。
 これを受けとった萩乃さんは、どんなにおどろくことでしょう。二度よみかえして、ふきだしてしまわなければいいが。
 たのしみにしてお待ちあれ……ナンテ、冗談じゃない。誰が楽しみにするもんか。
 だがその左膳は大得意、
「うむ、われながら会心の出来だテ」
 と、声にだして言いました。
 そして、この手紙を見て、萩乃が胸をとどろかすであろう場面を想像して、左膳の胸もときめき、また、思わずあかくなった。ほんとに、かわいいところのある左膳、一生けんめいに書いたんですもの。
 しかし、これで見ると左膳は、その柳生の埋宝を掘りだしたうえで、そいつをそのままかかえて司馬道場へ、入り婿に乗りこむ気とみえる。ますますもって容易ならぬ考えを起こしたものだ。
 けれども。
 そうなると、あの伊賀の暴れン坊、柳生源三郎との正面衝突は、まず、まぬかれぬところ……さっき萩乃の部屋の押入れの中で、ソッと聞けば、源三郎はもはやなきものだといったが――事実か?
 左膳、源三郎を思いだして、その生死を案じわずらい、急にあわてだした。
「死んだ男(やつ)から、女をとるなんてエのは嫌だなア。おい! 源三! おれがブッタ斬るまで、頼むから生きててくれよ」
 と、胸のなかで大声に……。

       七

 苦笑をつづけた左膳、なおも心中ひとりごとをくりかえして、
「お前(めえ)が死んで、そのおかげで萩乃をもらうなんてのは、どう考えてもおらア虫がすかねえ。なあおい、伊賀のあばれん坊ッ! おれの手にかかって生きのいい血をふくまで、後生だから生きていてくれよ。お前(めえ)の命は、この濡れ燕があずかってるんだぜ。それまでア大事(でえじ)なからだだ。粗末にするなよ」
 剣につながる、一種の殺伐な友情ともいうべきか、敵味方を超越したふしぎな感懐が、こんこんとして泉のごとく、左膳の心に……。
「あの源三郎を殺(や)っつけることのできるやつあ、このおいらのほかにゃアねえはずだ」
 しばらく考えたのち、やっと安心した体(てい)で、
「あの源三が死んだなどと、ちゃらっぽこにきまってらあナ」
 あたまの中で、大声にどなった左膳。
 とにかく手紙はりっぱに――あんまりりっぱでもないが……書けたんですから、明るくなるのを待って角のポストへ入れに行こうと――イヤ、ポストじゃない、チョビ安をたたき起こして、妻恋坂へ持たしてやろうと、左膳はありあけ行燈の灯かげに、ニッとほくそえんだ。
 そして。
 天井までとどけと、ニュッと両手を突きあげて、大きな欠伸(あくび)をしました。オット、ひだり手だけです。左膳に両手があっちゃア話はめちゃめちゃだ。
 それにしても。
 人が両手を突っぱってあくびするところを、片手でやるんですから、なんだか信号のようで、変な欠伸(あくび)の恰好(かっこう)だ。
 そんなことはどうでもいい。
 さて――。
 これからソロソロこけ猿の茶壺をあけにかかろう……と、左膳は舌なめずりをして、横に置いてある壺のほうへ、膝をむけなおしました。
 いよいよ壺の秘密があかるみへ――!
 数百年をへた地図には、はたしてどこに財宝(ざいほう)が埋(うず)めてあると書いてあるだろう?
 中国(ちゅうごく)か、山陰(さんいん)か、甲州路(こうしゅうじ)か。それとも北海道? 満洲(まんしゅう)? ナニそんなところのはずはないが、江戸でないことだけはたしかです。
 どことあっても左膳は、これからすぐ旅ごしらえ、濡れつばめを供に、かわいいチョビ安の手を引いて、発足する気でいるんだ。
 左手(さしゅ)が、一番上の風呂敷にかかった。ばらり、むすびめがほどける。
 いつの世、いずくの世界でも、人をして真剣ならしむる我利物欲……そのとほうもない莫大な財産が、人に知られずどこかの地中に眠っている。おまけに、今それには、柳生一藩の生死浮沈がかかり、この江戸だけでも、何十人という人間が、眼の色かえてこの壺を、いや、壺の中の秘図を必死にねらっているのだ。
 古今をつらぬく黄金の力――剣魔左膳の一眼に、異様な光が点じられた。
 柳生の先祖の封じこめた埋宝箇処は、いまその左膳の左眼に読みとられようと、壺の中で、早く早くと、声なくあせっているように感じられる。
 夜の引き明け前には。
 一度、深夜よりも森沈(しんちん)と、暗くものすごく、夜気の凝(こ)る一刻があるという。
 今がそれだ。
 気をつめ、呼吸をはずませて、箱から壺を取り出す左膳の横顔に、魔のごとき鬼気がよどんで、黒くゆがんで見えるのは、眉から口へかけての刻んだような一本の刀傷。
 壺には、チャンと紅(あか)い絹紐のすがりがかかっています。その、網の目をとおしてのぞいている、壺の肌のゆかしさ! 美しさ!
 さすがに伝来の名器だけのことはあると、左膳がその品格にうたれた時です。
 暁の風に乗って、遠く近く、あれ! 半鐘の音が……。

       八

「あら、お前さん、火事だよ」
 とお藤が言った。夜具から首を伸ばして左膳を見た。
「うん、どうやら火事らしいナ」
 左膳は生返事だ。
 それどころではないのである。
 すがりの網を片手でぬがせて、しずかに壺をとりだしている。
 朝鮮古渡りの逸品(いっぴん)だけに、焼きのぐあいがしっとりとおちつき、上薬(うわぐすり)の流れは、水ぬるむ春の小川……芹(せり)の根を洗(あら)うそのせせらぎが聞こえるようだと申しましょうか、それとも、雲とさかいのつかない霞の中から、ひばりの声がふってきて、足もとの土くれが陽炎(かげろう)を吐いている――そののどかなけしきのなかへ身も心もとけこむような気がする……。
 とでもいいましょうか。
 とにかく。
 今このこけ猿の壺を眼の前にして、じっと見つめていると、その作ゆきといい、柄(がら)といい、いかさま天下にまたとあるまじき名品。
 夢のごとき気を発散して、みる者をして恍惚(こうこつ)とさせずにはおかないのです。
 左膳のような、人斬り商売の武骨者にも、そのよさはわかるとみえまして、彼は、
「ウーム、こうごうしいものだなあ。これだけ人騒がせをしておきながら、イヤに平気におちついていやアがる。フン、なんとも癪(しゃく)な代物(しろもの)だが、ちょっと怖(おっか)なくて手が出せねえような気がするぜ」
 例(いつ)になく左眼をショボショボさせて、口の中でつぶやきましたが、これはこの時の左膳の正直な感想でしたろう。
 半鐘の音は、大きく、小さく、明け方の江戸の空気をゆすぶって、静かな池へ投げた小石の波紋のように、ひたひたと伝わってまいります。
「なんだか近いようじゃないか。ちょいと横町へ出て見て来ておくれよ」
 ごそごそ起き出たお藤。寝巻に細帯をまきつけながら、じれったそうな舌(した)打ち。
「なんだね、いつまでそのうすぎたない壺と、にらめっくらをしてるんですよ。ジャンと鳴りゃ駈け出すのが、江戸の男だわさ」
 左膳はそれも耳にはいらぬようすで、
「イヤ、あらたかなもんだ。外から拝(おが)んでいたんじゃアきりがねえ。どれ、そろそろ中身を拝見するとしようか」
 ひとりごちつつ、壺のふたに手をかけた。
 なるほど。
 耳こけ猿という銘のとおりに、壺の肩(かた)に三つある小さな耳のひとつが、欠けている。この中に、日光御修営を数限りなくひきうけてもビクともしない大財産と……イヤ、今は一藩の生命とが納(おさ)められているかと思うと、この大名物がひとしお重々しく、ありがたく見えるのもふしぎはない。
 その、左膳の手が壺の口にかかったのと。
 かんしゃくを起こしたお藤姐御が、
「お前さん! 火事ですってのに、あの半鐘が聞こえないのかえ。男の役に、火の手がどこだぐらい見てきておくれよ」
 と叫んだのと、同時だった。
 おまけに。
「おい、ありゃアお前(めえ)、本所の三つ半(はん)じゃアねえか。近そうだぞ」
「辰(たつ)のやつア走りながら刺子(さしこ)を着て、もう行っちめえやがった。早(はえ)え野郎だ」
「いま時分また、なんの粗相で……」
「ワッショイワッショイ、火事と喧嘩ア江戸の花でえ」
「アリャアリャアリャ!」
 まるでお捕物(とりもの)みたような騒ぎ、
「他人(ひと)の家が焼けるんだ。こんなおもしれえ見ものアねえや」
 なかにはけしからんことを言うやつもある。尺取り横町の連中が、一団になってもみあいヘシ合い、溝板(どぶいた)を踏みならして行く。
 左膳は、壺へ掛けた手をそのままに、きっと戸外(そと)へ耳をやった。

       九

 チョビ安が眼をさまして、床(とこ)の中から、
「父上! 火事ですね」
 と、イヤにのんびりとして言った。
 いったいこのチョビ安という子供は。
 ふだん何ごともない時には、いつも駈けたり跳ねたり、つまずいたり、たんかをきったり、とても騒々(そうぞう)しいあわてん坊で、一人で町内をさわがしているんだが。
 今のように。
 いざ地震、雷、火事、おやじ……もっとも、このチョビ安の父親(おやじ)は行方(ゆくえ)知れずで、それで左膳を仮りの父と呼んでいるわけだが――一朝、こういうあわてるべき場合に直面すると、逆に、変にのどかになっちまうのが常で。
 皮肉な小僧だ。
「火には水という敵(てき)があります。もえてえだけもえりゃア消えやしょう。下拙(げせつ)はいま一ねむり……」
 そんな洒落(しゃら)くさいことを言ってまた向うむきに夜着をひっかぶってしまった。
 自分のことを下拙(げせつ)などと、これが七、八つの子供の言い草(ぐさ)ですからイヤどうも顔負けです。
 壺のふたを持ちあげかけた左膳の手は、そのまましばらくとまっていたが、
「おい、安公! 餓鬼ア雀(すずめ)ッ子といっしょに起きるものだ。やいっ、用がある。起きろっ!」
「あい、なんだい。父(ちゃん)。起きたよ」
「起きてやしねえじゃねえか」
「耳は縦になっていても横になっていても聞こえるよ」
「アレだ。ちょっと本郷の妻恋坂へ走って、司馬道場のお嬢さんへこの手紙を渡してこい」
「なアンだ、何かくれるのかと思ったら、ちえっ、おもしろくないネ。三銭切手の代用か」
 チョビ安がしぶしぶ床を出た時。
 恨みをこめて、ジロリと左膳を流し見た彼女の眼には、いっぱいの涙があふれて今にも落ちそうでした。
 ちょっとしらじらとした空気が、室内に流れた。
 チョビ安は寝ぼけまなこをこすりながら、裏手の井戸端へ顔を洗いに、ガタピシ腰高障子(こしだか)をあけて出ていった。
 半鐘の音はいつしかやんだようです。夜はもうすっかり明けはなれている。
 あの手紙を萩乃へとどけておいて、自分はモウすぐにも埋宝個処へ旅に出ねばならぬ。
 オオそうだ、こうしてはいられぬ、壺中の秘図をとりだすのが第一だった、と。
 心づいた左膳が、ふたたび、こけ猿のふたに左手をのせて、その、奉書を貼りかためたふたを持ちあげようとした時だ。
「エエ町内のお方々(かたがた)、おさわがせ申してあいすいません。火事は遠うごぜえます。葛西領は渋江(しぶえ)むら、渋江村……剣術大名司馬様の御寮――」
 番太郎が拍子木(ひょうしぎ)を打って、この尺取り横町へはいってくる。
「チェッ! 火事は渋江村(しぶえむら)、ときやがら。こちとら小石川(こいしかわ)麻布(あざぶ)は江戸じゃアねえと思っているんだ。しぶえ村とはおどろいたネ。おどろき桃の木山椒(さんしょう)の木……」
 さっき火事を見に出た隣近処(となりきんじょ)の連中がガヤガヤいって帰ってくる。
 じっと左膳の顔を見つめていたお藤、低声(こごえ)に、
「太郎冠者(たろうかじゃ)、あるか。おん前(まえ)に……」
 洒落(しゃれ)たやつで、仇名のとおりに、櫛まきにとりあげた髪を、合わせ鏡にうつして見ながら、立て膝のまま口のなかでうたいだしたのは、長唄末広(すえひろ)がりの一節――。
「太郎冠者(たろうかじゃ)あるか。おん前に。念(ねん)のう早かった。頼うだ人はきょうもまた、恋の奴(やっこ)のお使いか、返事待つ恋、忍ぶ恋……」
恋の奴(やっこ)のお使いか。
返事待つ恋。
忍ぶ恋。
 二度しんみりとくりかえしたお藤、
「馬鹿にしてるよ、ほんとに。アアア、いやだ、嫌だ」

       十

「寝ぼけた半鐘じゃアねえか。畜生め、葛西領(かさいりょう)の火事に浅草の兄(あに)イが駈けだすなんざアいい図でおす」
 なかにひとり物識(ものし)りぶったのが、
「一犬(いっけん)虚(きょ)に吠(ほ)えて万犬(ばんけん)実(じつ)を伝うといってナ、小梅(こうめ)あたりの半鐘が本所(ほんじょ)から川を越えてこの駒形へと、順にうつって来たものとみえやす」
「あっしゃア渋江(しぶえ)なんてえところがこのにっぽんにあることを、今朝はじめて知りやした。一つ学(がく)をしやした」
「オオ寒! なんにしても業腹(ごうはら)だ。ひとつそこらへ放火(つけび)をして、この埋めあわせをしようじゃアねえか」
 ぶっそうなことを言ってゆくのは、この横町第一の火事きちがい、鍛冶屋(かじや)の松公(まつこう)だ。
「それッてんで威勢よく飛び出したまでアいいが、どっちを向いても煙のけの字も見えやアしねえ。ワイワイいってるところへ、あの番太(ばんた)の野郎がヨ、まぬけた面(つら)アしやがって、エエ火事は渋江村(しぶえむら)ってふれてきやがった時にゃア、おらア彼奴(あいつ)の横っつらはりとばしたくなったぜ。なんでエ、なんだってもっと近えところをもやさねえんだ。あの番太なんざアなんのために町内で金出して飼(か)っとくんだかわかりゃしねえ」
 言うことが乱暴です。
 みんなブツクサいってぞろぞろ家の前をひきあげてくる。
 左膳は。
 さっき番太郎が、火事は渋江村(しぶえむら)、剣術大名司馬さまの御寮――といったのが、妙に耳についていてはなれない。
 あけかけた壺を膝もとにひきつけたまま、
「ハテ、さようなところに司馬家の寮があったのか。してみると、源三郎はもはや亡きものと、かの門之丞とやらが萩乃に言った口裏でも、その寮とやらにでもヒョンなからくりがあったのかも知れぬ。その家が今また出火とは、はてナ合点のゆかぬ……」
 胸に問い、胸に答えて。
 ひとり不安な気もちに浪だつ。
 ふたたび、壺のほうはお留守です。
 と、そのやさき、
「オウッ、父上ッ! てえへんだ、てえへんだ!」
 うらの井戸ばたで顔を洗っていたチョビ安が、濡れ手ぬぐいを振りまわして駈けこんできた。
「この裏の担(かつ)ぎ煙草(たばこ)の富さんネ、渋江のほうに親類があって、ゆうべそっちへとまったところが、今朝の火事なんですと。まろうど大権現(だいごんげん)の森ン中の、不知火流の寮だそうですよ。侍(さむれえ)が一人焼け死んだそうで、それがあの伊賀の暴れン坊柳生源三郎てえ人だとさ。イヤモウたいそうな評判だと、いま富さんが飛んでけえってきて話していましたよ、父上」
「ゲッ、何イ?」
 左膳は腰を浮かして、
「伊賀の源三が焼け死んだと?」
「ウン。富さんはくすぶる煙の中から、その死骸をかつぎ出すところを見たんだとサ」
「ちえェッ、惜しいことをしたなア」
 立ちあがった左膳、貝の口にむすんだ帯をグッと押しさげ、豪刀(ごうとう)濡れ燕を片手でブチこみながら、
「お藤ッ!」
「あいヨ」
 われ関(かん)せず焉(えん)と水口の土間で、かまどの下を吹きつけていたお藤が、気のない声で答える。
 プウッと火吹き竹をふいているお藤姐御、ほおをまるくしているのは、心中はなはだおもしろくないから、海豚提灯(ふぐぢょうちん)のようなふくれっつらにもなろうというもの。
「オヤ、火が消えてから火事場へお出ましかえ。火もとあらためのお役人衆みたようで、フン、乙(おつ)う構えたものさネ」
 と、申しました。

       十一

「おいっ!」
 左膳は、お藤のつぶやきを無視して、チョビ安へ、
「本郷の道場へ手紙を持って行けといったが、取消しだっ」
「え? 文(ふみ)の使いはもういいのですかい、父上」
「うむ。源三郎が死んだとありゃア、おれアスッパリと萩乃を思いきる。源三が生きていてこそ鞘当てだ。死んだやつの後釜(あとがま)をねらうのは、俺にはできねえ」
 なんのことだかわからないから、チョビ安もお藤も、ポカンとしている。
 だが、チョビ安は、わからないくせに、もったいらしく小さな腕を組んで、
「ウム、死人のあとは、ねらえねえ……それでこそ父上だ。見上げたものだ」
 と首をひねりながら、
「しかし父(ちゃん)、富さんがそういっただけで、ほんとに源三郎さんてえ人が焼け死んだものかどうか、そいつはまだわからねえ」
「それもそうだナ。伊賀のあばれン坊ともあろうものが、いくら火にまかれても、そうやすやすと焼き殺されようたア思われねえ」
「これからすぐ渋江村へ――」
「安、おめえも来るか」
「あい」
「向うへ行ってみたうえで、源三郎の死んだというのが間違いとわかったら、お前(めえ)その足でこの手紙を、本郷へとどけてくれナ」
「言うにゃおよぶ。源さんの生死をたしかめるのが第(でえ)一だ」
 チョビ安、源さんなどと心やすいことを言いながら、はや先にたって土間へ……。
 ひらかれようとして、まだひらかれない壺。
 手もとにある以上、あけようと思えばいつでもあけられると思ったものだから、萩乃へ恋文を書いたりして夜を明かし、いざこれからふたをとろうという時に、この火事騒ぎ――気をゆるしたわけではありませんが、早くあけて見ればよかったものを。
 今はそのひまもない。
 左膳は手早く壺にすがりをかぶせ、古金襴(こきんらん)の布にくるみ、箱に入れて、風呂敷につつみました。
 すっかりもとどおりにしまいこんで……チョビ安にでもさげさせて、いっしょに持って出ればよかったのに――。
「お藤、すぐけえってくる。それまでこの壺を、大事(でえじ)にあずかってもれえてえ。頼むぞ」
「嫌だねえホントに。どこまで水臭いんだろう。お前さんの大事なものなら、あたしにだって大切な品だろうじゃないか。なんの粗略にしてたまるものかね。安心して行っておいでよ」
「壺を押入れにでもかくして、おれがけえってくるまで家をあけねえでくれよ」
「あいサ。承知之助(しょうちのすけ)だよ」
 萩乃へあてた手紙をふところへねじこんだ左膳、この声をうしろに聞いて、左手に濡れつばめの柄(つか)をおさえ、尺取り横町を走り出た。
 チョビ安はもうドンドン先へ駈けてゆく。
 その時。
 駒形の大通りから、この高麗やしきの横町へきれこもうとしていた一人の屑屋。
「屑(くず)イ、屑イ! お払いものの御用は……」
 縦縞の長ばんてんに継(つ)ぎはぎだらけの股引(ももひ)き。竹籠(かご)をしょい、手に長い箸(はし)を持って、煮しめたような手拭を吉原(よしわら)かぶり。
「エエ屑屋でござい――」
 横町の角で、いきなり飛びだしてきた誰かに、ドシンとぶつかった。
 出あいがしら……よろめきながら、
「ヤイッ、気をつけろい!」
 と、威張りました。

       十二

「なんでエ、屑屋にぶつかるたア人間の屑だから、拾ってくれてえ洒落(しゃれ)かい」
 駄弁(だべん)をろうして立ちなおりながら、とっさに相手を見ますと。
 右眼がつぶれ、そのうえに深い刀痕の這っている蒼い顔。
 右の袖をブラリとゆりうごかし左手に大刀の柄をおさえた異様な浪人者だから、今の雑言(ぞうごん)でテッキリ斬られると思った屑屋。
「うわあっ、かんべんしておくんなせえ。こ、このとおり、あやまりやす、あやまりやす」
 飛びのいて、必死に掌(て)をあわせて拝(おが)みました。
 ところが。
 見向きもしないその片腕の浪人は、
「おれの粗相だ。許せよ」
 と、ひとことはき捨てて、案に相違、トットと通りを向うへ駈けさってゆく。
 ひどくいそいでいるようす。
 さきへ走る子供に追いついて、二人で浅草のほうへ一散に……。
「なアんだ、あんな侍(さんぴん)でも、さすがにこのおれ様はこわいとみえる。あはははは、お尻(しり)に帆あげて逃げていきゃあがった。ざまア見やがれ」
 いい気になって左膳のあとを見送ったのち、肩の籠を一揺りゆりあげて、
「エエ屑イ、屑イ……お払いものはございやせんか」
 尺とり横町へはいっていきます。
「屑やでござい。屑イ、屑イ――」
「チョイト、屑屋さん!」
 横町の中ほど、とある小意気な住居の千本格子があいて、色白な細面(ほそおもて)をのぞかせた年増があります。
 何人もの男を、それでコロリコロリと殺してきたであろうと思われる切れの長い眼、髪は櫛巻き……。
 それが、火吹き竹をチョット振ってよびとめ、
「壺だけれど、持っていっておくれかえ」
「ヘエヘエ、壺でも鉢でも、御不用の品はなんでもいただきやす、へえ」
「じゃ、ちょっとこっちへはいっておくれよ」
 と、お藤は手の火吹き竹で土間へ招き入れた。
 新世帯にうれしいものは、紅のついたる火吹き竹――なるほど、この火ふき竹にも、吹き口にはお藤姐御の寒紅(かんべに)がほんのりついていますけれど、うらむらくはこの左膳との生活に、それらしい新婚のよろこびは、すこしもございませんでした。
 のみならず。
 今は。
 この壺と、壺にまつわる本郷司馬道場の誰やら、ほかの増す花に見返られて、あわれ自分はすてられようとしている――。
 そう思うと、怨みと妬(ねた)みにわれをわすれたお藤、この壺さえなければと考えたので。
 火吹き竹も、へっついの下をふいているうちは無事ですが、ここに思わぬ渦乱の炎を吹きおこすことになるのです。
 火ふき紅竹(べにだけ)……吹かれた火は、ほんとにくれないに燃えあがるでしょう。
「これだよ。いくらでもいいから持ってっておくれ」
 とお藤は、こけ猿の茶壺をとりだしてきて、じゃけんに鼻っさきへ突きだした。
 受け取った屑屋、頓狂なおじぎとともに、
「ヘッ、おありがとう――と申しあげてえが、ウワア、なんて小汚え壺だ!こんなものアただもらってもいやだねえ。御新造(ごしんぞ)、こいつア、いくらにもいただけやせんぜ」
「何を言ってやがるんだよ。無代(ただ)より安価(やす)いものあなかろうじゃないか。あたしゃア見るのもいやなんだから、さっさと持って行っておくれヨ」
 とお藤は、ピシャッとやけに障子をたてきりました。

   発願奇特帳(ほつがんきとくちょう)


       一

 柳生藩江戸家老、田丸主水正(たまるもんどのしょう)は象のような眼をしている。
「すると、別所信濃守(べっしょしなののかみ)は――?」
 と言いさして、その細い眼で、勘定方を見やった。
 珠(たま)の大きな紫檀(したん)の唐算盤(とうそろばん)を、前においた勘定方が一人、
「は。これだけ」
 パチリ、パチリと、珠(たま)を二つはじいて、そろばんに二の数を見せた。
「二つか」
「は」
 二両だか二十両だか、二百両だか二千両だかわかりませんが、とにかく金(かね)のことらしい。
「ふうむ」
 主水正は、口をへの字にして、
「大滝壱岐守(おおたきいきのかみ)どのは?」
 会計の手が、そろばんの珠を三つおく。
「三本か」
「は。ほかに、ちりめん十匹、酒五駄」
「きばったもんだナ。曾我大膳介殿(そがだいぜんのすけどの)は?」
 そろばんがだまって答える。
「ふたつ半。きざみやがったナ」
 そんな下品なことは言いません。
「記(つ)けておるであろうな」
 と主水正は、かたわらの用人をかえりみた。
 そばに帳面方がひかえて、そろばんに現われる数字を、いちいち帳簿に記入している。
一、秋元淡路守(あきもとあわじのかみ)――三つ半、および鮮魚(せんぎょ)一盥(たらい)。
一、藤田堅物(ふじたけんもつ)――三つ、および生絹(きぎぬ)五反(たん)。
一、伊達(だて)どの――五つ、および仙台味噌(せんだいみそ)十荷(か)。
一、別所信濃守(べっしょしなののかみ)――二つ。
一、大滝壱岐守(おおたきいきのかみ)――三つ、および縮緬(ちりめん)十匹(ぴき)、酒五駄(だ)。
一、曾我大膳介(そがだいぜんのすけ)――二つ半。
 こういう名前と、数字と、品物とが、横とじの帳面に無数につづいている。
 麻布林念寺前、伊賀藩柳生対馬守のお上屋敷。
 その奥庭の離室(はなれ)だ。午下(ひるさが)りのうららかな陽が、しめきった障子に木のかげをまばらにうつして、そよ風に乗ってくる梅の香。
 どこかに、笹啼(ささな)きのうぐいすが聞こえる。
 藩侯柳生対馬守は、まだお国もと柳生の庄にいる。江戸のほうを一手にきりもりしているのは、この田丸主水正(たまるもんどのしょう)老人である。
 いまこの室内に、人を遠ざけて何ごとか秘密の帳合いをしているのは、その主水正と、そろばん係が一人、記入方がひとり、三人きりだ。
「これでだいたい終わったと思うが――うむ、桜井豊後守(さくらいぶんごのかみ)は?」
 主水正はそろばんをのぞきこんで、
「六つ。ほほう、伊達公(だてこう)の上ではないか。えらくまた――桜井豊後、六つ」
「は」
 帳面方が答えて、
 一、桜井豊後守(さくらいぶんごのかみ)――六つ。
 と書き入れていく。
「もう、来るべき筋(すじ)はすべて来たようだ。きょうあたり締め切りにしようではないか」
 こういって主水正(もんどのしょう)が二人を見かわすと、そろばん係が、そろばんをがちゃがちゃとくずして、
「ただいまのところでは、別所信濃(べっしょしなの)様が最低……」
 記入係が筆をなめて、
「石川左近将監殿(いしかわさこんしょうげんどの)からは、まだ――」
「ほ! 石川どのは、まだだったかな」
 この主水正の声と同時に、障子のそとの小縁に、前髪立ちの取次ぎの影がさして、
「御家老さまに申しあげます」
「なんじゃ」
「ただいま、石川左近将監様より御使者が見えまして――」
「来た、来た」
 主水正は笑って、
「噂をすれば影じゃ。お広書院にお通し申しておけ。二つの組かな? それとも三つ半は出すかな……」
 と、たちあがった。

       二

 石川左近将監の使者は、竹田という若い傍用人(そばようにん)であった。
 石川家の定紋、丸に一の字引きを染めぬいた、柿色羽二重の大ぶろしきに、何やら三方(ぽう)にのせた細長いものをそばにひきつけて、緊張した顔で広書院にすわっていた。
 田丸主水正(たまるもんどのしょう)は、主君対馬守のお代理という格式で、突き袖をせんばかり、そっくりかえってその部屋へはいっていくと、竹田は、前に出ていた天目台(てんもくだい)をちょっと横へそらして、両肘を角立てて、畳をなめた。
 平伏したのだ。
「これは、御家老田丸様……いつも御健勝にて、何よりと存じまする」
「アいや、そこは下座(しもざ)。そこでは御挨拶もなり申さぬ」
 と主水正は、袴(はかま)のまちから手を出して、床の間のほうへしゃくるような手つきをした。
「どうぞ、どうぞあちらへ――」
「は。今日(こんにち)は、主人将監(しょうげん)のかわりでござりますれば、それでは、失礼をかえりみませず、お高いところを頂戴(ちょうだい)いたしまする」
 および腰のすり足、たたみの縁(へり)をよけて、ツツツウと上座になおった竹田なにがしが、
「実は、主人将監が自身で参上つかまつるはずで、そのしたくのさいちゅう――」
 いいかけることばを、主水正は中途からうばって、
「いや、わかっております。そのおしたくのさいちゅう、この二、三日ことのほかきびしき余寒のせいか、にわかに持病の腹痛、あるいは頭痛、あるいは疝気(せんき)の気味にて、外出あいかなわず、まことに失礼ながら貴殿がかわって御使者におたちなされたと言われるのでござろう」と、くすぐったそうなふくみ笑い。
 竹田はポカンとして、
「そのとおり。よくごぞんじで。手前の主人のは、その頭痛の組でございます」
「伊達(だて)様と、小松甲斐守殿と、そのほか頭痛組はだいぶござった。イヤ、どなたの御口上も同じこと。毎日毎日おなじ応接を、いたして、主水正、ことごとく飽き申したよ」
 まったく、それに相違ない。この十日ばかりというもの、一日に何人となく諸国諸大名の使いが、この林念寺前の柳生の上屋敷へやってきて、さて、判で押したような同じ文句をのべて、おなじような贈り物をさしだす。
 もうすっかりすんだころと思ってきょう締め切ろうと、ああして総決算にかかったところへ、また一人、この石川家の竹田がやって来たというわけなので。
「ははア、さようでございましょうな」
 と竹田は、感心したような、同情したような顔をしたが、このままでは使いのおもてがたたないので、ピタリと畳に両手を突いてやりはじめた。
「このたびは、二十年目の日光東照宮御修営という、まことに千載一遇のはえある好機にあたり……」
「ちょ、ちょっとお待ちを。お言葉中ながら、二十年目の千載一遇というのは理にあい申さぬ。強いて言おうなら、二十年一遇でござろう。これも私は、七十六回なおしました。貴殿で七十七人目だ」
「イヤどうも、これは恐れ入ります。なるほど御家老の仰せのとおりで――その二十年一遇の好機にあたり、御神君の神意をもちまして、御当家がその御造営奉行という光栄ある番におあたりになりましたる段……」
「はい。あれは、にくんでもあまりある金魚めでござったよ。いっそ、石川殿の金魚が死ねばよかったに」
「いえ、とんでもない! 桑原桑原(くわばらくわばら)……エエどこまで申しあげましたかしら。そうそう、御当家がその御造営奉行の光栄ある番におあたりになりましたる段、実もって慶賀至極、恐悦のことに存じまする。これが戦国の世ならば――」
 途中で暗記でもしてきたらしく竹田某(ぼう)、ペラペラとやっている。

       三

「もしこれが戦国の世ならば」
 と、竹田は、一気につづけて、
「上様(うえさま)の御馬前に花と散って、日ごろの君恩に報い、武士(もののふ)の本懐とげる機会もござりましょうに、かように和平あいつづきましては、その折りとてもなく、何をもってか葵(あおい)累代(るいだい)の御恩寵(ごおんちょう)にこたえたてまつらんと……いえ、主人左近将監は、いつも口ぐせのようにそう申しております。ところで、このたびの日光大修営、乱世に武をもって報ずるも、この文治の御代に黄金(こがね)をもってお役にたつも、御恩返しのこころは同じこと。ましてや、流れも清き徳川の源、権現様(ごんげんさま)の御廟(ごびょう)をおつくろい申しあげるのですから、たとい、一藩はそのまま食うや食わずに枯れはてても、君の馬前に討死すると同じ武士(もののふ)の本望――」
「いや、見上げたお志じゃ。よくわかり申した」
 来る使いも、来る使いも、この同じ文句を並べるので、主水正、聞きあきている。
「いえ、もうホンのすこし、使いの口上だけは、お聞きねがわないと、拙者の役表がたちませぬ――まことに、この日光おなおしこそは、願ってもない御恩報じの好機である。なんとかして自分方へ御用命にならぬものかと、それはいずれさまも同じ思いでございましたろうが、ことに主人将監などは、そのため、日夜神仏に祈願をこらしておりましたところ……」
主水正は、そっぽを向いて、
「何を言わるる。口はちょうほうなものだテ。祈願は祈願でも、なかみが違っておったでござろう。どうぞ、どうぞ日光があたりませぬように、とナ」
 この言葉を消そうと、竹田なにがしは大声に、
「主人将監は、将軍家平素の御鴻恩(ごこうおん)に報ゆるはこの秋(とき)、なんとかして日光御下命の栄典に浴したいものじゃと、日夜神仏に祈願、ほんとでござる、水垢離(みずごり)までとってねがっておりましたにかかわらず、あわれいつぞやの殿中金魚籤(きんぎょくじ)の結果は、ああ天なるかな、命(めい)なるかな、天道ついに主人将監を見すてまして、光栄の女神はとうとう貴柳生藩の上に微笑むこととあいなり……」
「コ、これ、竹田氏とやら、よいかげんにねがいたい。あまり調子に乗らんように」
「その時の主人将監の失望、落胆、アア、この世には、神も仏もないかと申しまして、はい、三日ほど床につきましてござります」
「厄落(やくおと)し祝賀会の宿酔(ふつかよ)いでござったろう」
「文武の神に見放されたかと、その節の主人の悲嘆は、はたの見る眼もあわれで、そばにつかえる拙者どもまで、なぐさめようもなく、いかい難儀をつかまつりました」
「どれもこれも、みな印刷したような同じ文句を言ってくる。そんなにうらやましいなら、光栄ある日光造営奉行のお役、残念ではあるがお譲り申してもさしつかえない、ははははは」
「イヤ、とんでもない! せっかくおあたりになった名誉のお役、どうぞおかまいなくお運びくださるよう――さて、今日拙者が参堂いたしましたる用と申しまするは……」
「いや、それもズンと承知。造営奉行の籤(くじ)がはずれて、はなはだ残念だから、ついては、その組下のお畳奉行、もしくはお作事目付の役をふりあててもらいたい、と、かように仰せらるるのであろうがな」
「は。よく御存じで――おっしゃるとおり、二十年目の好機会を前にして、この日光御修理になんの力もいたすことができんとは、あまりに遺憾、せめてはお畳奉行かお作事目付にありつきたく、こんにちそのお願いにあがりましたる次第」
 言いながら竹田は、定紋つきの風呂敷につつんだ細長いものを、主水正の前へ置きなおして、
「石川家伝来、長船(おさふね)の名刀一口(ふり)、ほんの名刺代り。つつがなく日光御用おはたしにあいなるようにと、主人将監の微意にござりまする。お国おもての対馬守御前へ、よろしく御披露のほどを……」
 あらためて、平伏した。

       四

 田丸主水正(たまるもんどのしょう)は、ひややかな顔で、
「はあ、刀一本。で、それだけですか」
 ろこつなことを訊く。
「悪魔払いの名刀。それに添えまして……イヤ、どうぞあとでおひらきになって、ごらんください。ついてはただいまおねがい申しあげたお畳奉行か、ないしはお作事目付の件、なにとぞ当藩にお命じくださいますよう、せつに、せつに、なにとぞお命じくださいますよう……」
 なにとぞお命じくださいますよう――と、いやにここへ力を入れて、何度もくりかえした。
 くすぐったそうな顔を、主水正はツルリとなでて、
「では、日光に何か一役お持ちになりたいとおっしゃるので。それはそれは、ちかごろ御奇特(ごきとく)なことで」
「はっ。おそれいります。お口ききをもちまして、何分ともに、日光さまに御奉公がかないますよう……」
 そう言いながら、竹田はそっと顔をあげて、すばやく片眼をつぶった。
 丹下左膳の片眼じゃアない。こいつはウインクです。
 ウインクは、なにも、クララ・ボウあたりからつたわって、銀座の舗道でだけやるものと限ったわけじゃアない。
 享保(きょうほう)の昔からあったとは、どうもおどろいたもので――この石川左近将監の家来(けらい)竹田某は、日本におけるウインクの元祖だ。
 そのウインクを受けた田丸主水正、なにしろわが国ではじめてのウインクですから、ちょっとまごまご、眼をぱちくりさせてしばらく考えていたが、やがてその意をくんだものか、これもさっそく、キュッとウインクを返した。
「心得ました。必ずともに日光お役の一つを、石川殿に受け持っていただくよう、骨をおるでござろう。しかしそれも、この包みのなかみ次第でナ」
 と、ニヤニヤしている。
 もうすっかり、話の裏が通じたとみてとって、竹田はホット安心の体(てい)、
「いや、この品は、ほんの敬意を表するというだけの意味で」
 彼はそう言って、その贈り物をもう一度、主水正のほうへ押しやった。
 敬意を表する……便利な言葉があったものです。百円札の束をぐるぐると新聞紙にくるんだり、思い出してもゾッとするような五月雨(さみだれ)が、ショボショボ降ったり――イヤ、そんなことはどうでもいい。
 この間から、全国諸侯の使者が、踵(くびす)を接してこの林念寺前の柳生の上屋敷をおとずれ、異口同音に、日光御修営に参加させてくれとたのんでは、競(きそ)って高価な進物を置いてゆく。その品物の中には、必ず金一封がひそんでいるので。
 その真意は。
 これを献上するから、日光造営奉行の下のお畳奉行やお作事目付は、どうぞごしょうだからゆるしてくれ……という肚(はら)。
 早く言えば、日光のがれの賄賂(わいろ)だ。早くいっても遅くいっても、賄賂は賄賂ですが。
 主水正のほうでも、それはよッく承知していて、一番進物の額(たか)のすくない藩へ、この、人のいやがる日光下役をおとしてやろうと、今、全部の藩公からつけとどけのあつまるのを待って、きょうあたりボツボツ締め切ろうかと思っていたところだ。それが、最後の五分間になっても、こうしてまだやってくる。
 お向うの林念寺の坊さんなどは、訳を知らないから、柳生様では大名相手のお開帳(かいちょう)でもはじめたのかと、おどろいている。
 竹田は、そのまま帰るかと思うと、
「いや、ここまでは使いの表(おもて)」
 と、ちょっと座を崩して、低声(こごえ)に、
「ときに――例のこけ猿は、みつかりましたかな?」
 おどろいたことに、こけ猿の一件はモウだいぶ有名になってるとみえる。

       五

「例のこけ猿の茶壺は、もはや見つかりましたか」
 と竹田がきいた。こけ猿事件がこんなに有名になっているとは、おどろいたものだが、それよりも、もっとおどろいたことには……。
 きかれた田丸主水正。
 さぞかし大いにあわてるだろうと思いのほか。
 この時主水正(もんどのしょう)、すこしもさわがず、すまして手をたたいたものです。
「品川の泊りにて、若君源三郎様が紛失なされたこけ猿の茶壺、ちかごろやっと当家の手に返り申した。ただいまお眼にかけるでござろう」
「お召しでございましたか」
 十六、七の小姓が、はるかつぎの間へきて、手をついた。
「ウム。こけ猿をこれへ」
「はっ」
 お小姓は顔をうつ向けたまま、かしこまって出ていった。
 柳生では、こけ猿の茶壺という名器が行方不明のために、その壺の中に封じこめてある先祖の埋宝個処がわからず、日光お着手の日を目前に控えて、ほとほと困却の末、藩一統、上下をあげて今はもう狂犬みたいに逆上(ぎゃくじょう)している――という、目下、大名仲間のもっぱらの噂である。
 竹田もこの評判を耳にしていたので、いま帰りぎわに、ちょっと、同情三分にからかい七分の気もちできいてみたのだが……世上の取り沙汰(ざた)とちがって、今その壺は、チャンとこの柳生の手におさまっている――という返事。

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