丹下左膳
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著者名:林不忘 

 左の膝をすこし折ったかと思うと、眼にもとまらぬ疾(はや)さでくりだした一刀の柄、それを、鍔(つば)元を握って顔の前に立てるが早いか、舌の先で、目釘をなめ湿(しめ)している。
 門之丞から見ると……柄のかげに、左膳の顔が、低くおじぎをしているようで。
 だが。
 額(ひたい)ごしの左眼は、不動金縛りの力で、強く門之丞を牽制(けんせい)しながら、左膳、口をひらいた。
 木枯(こが)らしのような、がらがらした声。
「おれの[#「おれの」は底本では「おのれ」]きれえなことばっかりしておきながら、それで、斬られるのがいやだというんなら、そりゃアお前(めえ)、無理ってもんだぜ」
 変にねっとりした口調です。
 顔半分は、依然として笑っている。
「俺(おれ)アなア、第一に、人をだしぬくってことが大きれえなんだ。女のことになりゃア、主も家来もねえというんなら、それもよかろう。だが、お前(めえ)は、源三郎をだしぬいて、この女を口説(くど)きにかかったじゃアねえか。おらアそれが気にくわねんだっ!」
 こんなことを言っているあいだに、いつサッと斬りこんでくるか知れないと、門之丞、一刀の柄に手をかけて、ゆだんなく身構えながら、
「乞食浪人の説法、聞きたくもないっ! 早々(そうそう)に立ち去れっ!」
「だまって聞けエ。第二に、おれのきれえなことは、女を追いまわすことだ。それに、なんぞ、さっきからこの押入れン中で聞いていれば嚇(おど)かしたり、ペロペロしたり……みっともねえ野郎だっ! 言うこときかなけりゃア、チッ、面倒くせえや、なぜ斬ってしまわねえんだっ! おれアその、女にいちゃいちゃするのが、むしずの走るほど大(でえ)きれえでなあ。第三に、お前の面(つら)がどうも気にいらねえ――ウフフ、これだけそろっていりゃアおらアお前をバッサリやってもいいだろう。なあ、おとなしく斬らせてくれよ」
「こやつは狂人じゃ」
 門之丞がふっとつぶやいた刹那、たっ! と柄鳴りして、左膳、口に鞘(さや)をくわえると見えたとたん……一線の白い虹が、スーッと門之丞の胴を横切って走りました。

       二

 足を開き、身を八の字なりに低めた左膳。
 右から左へ薙(な)いだ左腕の剣を、そのまま空(くう)に預(あず)けて、その八の字を平たく押しつぶしたような恰好のまま――。
 夢にはいったよう、じっとしている。
 一道に悟入した姿の、なんという美しさ!
 伸びきった左手の長剣、濡れ燕、斬っ尖(さき)から肩まで一直線をえがいて微動だもせず、畳のうえ三尺ばかりのところに、とどまっています。
 この時の左膳の顔は、一芸の至妙境に達した者の、こうごうしさに輝いてみえました。
 落ちくぼんだ、蒼く澄んだほお……歯に刀の提(さ)げ緒(お)をくわえて、胸のあたりに、長い鞘が、ななめにぶら下がっている。
 かすかにあけた口から、ホッ、ホッと、刻むがごとく呼吸を整えて――そして、左膳、たった一つの眼もつぶって、まるで眠っているようです。
 と、こういうと、非常に長く経過したようですが、ほんの五秒、六秒もありましたでしょうか。
 門之丞は――?
 と見ると、さっきのとおり、右手(めて)を柄頭にかけて、立ったまんまだ。
 ただ――。
 眼をうつろに、あらぬかたへ走らせて、機械仕掛のように上顎と下顎をがくがくさせ、両ほおに、紫の色ののぼりそめたのは、どうしたというのでしょう。おや! 胴のまわりの着衣に、糸のような細い血の輪がにじみだして……。
 すると、です。
 左膳がガタガタと首をゆすって口にくわえていた提げ緒を、振り落とした。割れたところを真田紐で千段巻きにした鞘が、トンと畳を打つ。とともに、左膳はホーッと太い息、力をぬいて身を起こした瞬間!
 なんといいましょうか。呪いがとけたように、支柱(ささえ)がとれたように……立っている門之丞のからだが、大きく前後左右にゆらいで、たちまち、朽ち木をたおすごとく、斜め右にバッタリ倒れました。同時に、胴がパックリ二つに割れころがって、一時にふきだす血、血……。
 なアンだ、門之丞、とっくの昔に胴体を輪切りにされて、今まで、死んだまんま、ノッソリ立っていたんです。
 すえ物斬りの妙致が、うまくはまると、はずみで、こういうこともあるかも知れない。
 なんとかいう侍は、ひどく剣術(やっとう)のできる友達と喧嘩をして、スパッと首の斬られたのを知らずに、おでんやなんかで帰りに一ぱいやって、ウーイ、ああいい気持だと、家へ帰ってきた。そして、ただいま、と頭をさげる拍子に、首がコロコロところがり落ちて、はじめて斬られていたことを知って、おれはモウ死んだのかと急にあわてだしたというんですが、こいつはどうかと思いますね。
 もっとも、現代でも、よく似た話があるもので――ある方が、会社で上役と喧嘩をして、帰りにカフェーで気焔をあげて自宅(うち)へ帰ったら、速達がきていた。あすより出社におよばず……ここにおいてはじめて、ネックになったのかと、そぞろに御自分の首をなでてみたというんですが、ウー、ブルル! 縁起でもない話で、恐れ入ります。
「部屋をけがして、申し訳ない。あとしまつは、よしなに頼む」
 片隅にいすくむ萩乃へ、ジロッと一眼を投げて、左膳、廊下へ出た。
 その腋(わき)の下には、こけ猿の茶壺が、ガッシとかかえこまれて。
 お蓮様の寮で、源三郎も、まごうかたなきこけ猿を手に入れたはず。
 ハテふしぎ!……こけ猿の壺は二個あるのか?

   文殊(もんじゅ)の智恵(ちえ)


       一

「おい、おめえ見たか。おらア先生が、肌脱ぎになって水をくみこむところを見たが、肩なんかお前(めえ)、松の根っこみてえだぞ」
「何言ってやがんでえ。いつも横町のおかめ湯で、先生の背中を流すのは、このおれ様だってことを知らねえのか。先生の背中は、四畳半もあらア」
 それじゃアまるで鯨だ。
「余の者(もん)がこすったんじゃア、蠅(はえ)がすべってるほどにも感じねえというんで、こちとら真っ赤になってフウフウいって流すんだが、イヤまったく巌(いわ)みてえなからだだよ」
「へええ、頭(かしら)の力でも、そうですかねえ。なんだそうでげすナ。小さな長屋の柱のまがったのなんざあ、あの泰軒先生が一つ腰を入れて、グンと押すと、しゃっきり立てなおるってえじゃアげえせんか。いや、なんにしても、えらい御仁(ごじん)があったものだ」
「この長屋の王様だあね。いやもう、とんがり長屋の名物どころじゃアねえ。とんがり長屋の泰軒さまといえア、江戸の名物だ。モウ、とんがり長屋てえのを、泰軒長屋とかえてもいいや」
「泰軒長屋か。ほんとだ。何か事がありゃア、あの先生を押し出しゃあ即座にピタと鎮(しず)まろうてもんだから、豪気(ごうき)なもんよなあ」
「いっそ心強えや。オウ、みんな、泰軒様を大事にしなくっちアいけねえぜ」
 うす陽の街上(まち)に、小さな旋風(つむじかぜ)が起こって、かわいた馬糞の粉が、キリキリと縒(よ)り糸のようにまっすぐに、家の庇(ひさし)ほども高く舞い立っています。
 ここは、あさくさ竜泉寺町(りゅうせんじまち)、とんがり長屋の路地口。
 灰屋(はいや)、夜(よ)かご、祭文語(さいもんがた)り、屑拾い、傘張り、夜鳴きうどんなど、もっとも貧しい人達がこのトンネル長屋にあつまって、いつもその狭い路地には、溝泥(どぶどろ)の臭気と、物のすえたしめっぽいにおいとともに、四六時中尖った空気が充満して、長屋の住民はどれもこれも、みんな貧(ひん)ゆえのけわしい顔――。
 亭主は亭主同士のいがみあい、山の神は井戸端会議の決裂、餓鬼は餓鬼で戦争のようななぐりあい、なんだかんだと夜昼喧嘩口論のたえまはなく、長屋中いつ行ってみても、眼をとがらし、口をとがらし、声とがらしているところから、誰いうとなく、人呼んでとんがり長屋。
 この、名所図会にない浅草名所とんがり長屋に。
 さきごろから、変わり種が一つふえた……というのは。
 あの羅宇直しの作爺さんの家に、蒲生泰軒(がもうたいけん)というたいへんものが、ころげこんでいるんです。
 いつか――。
 チョビ安の預けていった壺の箱をねらって、峰丹波一派の者が、この作爺さんの家へ押しこんだことがあった。そこで、箱のふたをあけてみると、内容(なかみ)は、左膳の計略で壺にはあらで、隅田川(すみだがわ)の水に洗われたまるい河原の石……いずれをいずれと白真弓(しらまゆみ)と、左膳がその石のおもてに一筆ふるってあったのは剣怪ちかごろの大出来だったが、憤慨したのは司馬道場の弟子どもで、かわりに、作爺さんの孫、お美夜ちゃんをさらっていこうとひしめいているところへ、どこからともなくブラリとあらわれて、侍たちを追っ払ってくれたのが、この泰軒居士であった。
 いつだって、どこからともなくフラッと現われるのが、泰軒先生の便利なところなんだ。
 今も今で、こうして長屋の連中が角に立って、ワイワイ先生のうわさをしていると……。
「向うの辻のお地蔵さん、よだれくり進上、おまんじゅ進上――ハッハッハ、どうじゃ、なかなか堂に入ったものじゃろう」
 変な唄歌(うた)が、通りのほうから……。

       二

 たいしたもんですね、泰軒先生の人気たるや。
 そう、遠くのほうから、チョビ安作、親なし千鳥の唄をうたってくる先生の声が、聞こえると、路地にガヤガヤしていた長屋の一同、兵隊さんがさわいでるところへ師団長が来かかったように、ピタリ鳴りをしずめて、
「お! お帰りだ! お帰りだ!」
「先生のおもどりだぞ」
「御帰館(ごきかん)だ――」
 なんかと、なかには、ブルジョア用語を心得てるのもある。
 この声々が、口から口、耳から耳とリレー式に、たちまちのうちに路地口からトンガリ長屋の奥まで、ズーッと伝わっていくところは、壮観です。
 角に待つ連中は、声をひそめて、
「あれで、泰軒先生は、腕っ節のつええばかりが能(のう)じゃアねえんだ。学問ならおめえ、孔子でも仔馬でも、ちゃアんとあの腹ん中にしまってるんだから、ヘッ、豪勢なもんヨなあ」
「いつかも、人間はなんとかてエ七輪(しちりん)が大事だと、先生がおっしゃったぞ」
「馬鹿野郎! 七輪じゃアねえ。五徳(とく)だ。仁(じん)義(ぎ)礼(れい)智(ち)信(しん)、これを五徳といってナ」
「なにを言やアがる。五徳ばかりあったって、七輪がなくっちゃアしょうがねえや」
「なにをっ!」
 と双方、肌ぬぎになりかけて、喧嘩になりそうだ。やっぱりどうも、トンガリ長屋です。
 それでも……。
 泰軒先生が近づくと、襟をかきあわせたり、袖口をひっぱったり、ある者は手に唾(つば)をして、小鬢(こびん)をなでつけたり、手拭で裾をはたいたり……イヤ、忙しく身づくろいして並んでるところへ、
「ウム、つぎは――、
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父(ちゃん)はどこへ行(い)た
あたいのおふくろ……
 と、これでええのかな?」
 泰軒先生濁(だ)み声をはりあげて、お美夜ちゃんに、チョビ安の唄(うた)を習いながら、ブラリ、ブラリ、大道(だいどう)せましとやって来る。
「ほほほほほ、そこんとこの節(ふし)まわしが、ちがうわ。あ、た、いのウであがって、父(ちゃん)はアってさがるのよ。小父(おじ)ちゃんのは、それじゃ逆だわ」
「いや、なかなかむずかしいもンじゃのう。
あたいのお母(ふくろ)どこにいる
じれったいぞエお地蔵さま
石が口ききゃ木の葉が沈む――」
「あらっ、だめ! ちがうわよ、ちがうわよ。それじゃアまるででたらめの文句だわ。いやな泰軒小父(おじ)ちゃん! ほほほほほ」
「イヤ、こりゃア失敗(しま)った。またしくじったかの」
 秩父の郷士(ごうし)の出で、豊臣の流れをくんでいるところから、徳川の世を白眼ににらんでいる巷の侠豪、蒲生泰軒居士(がもうたいけんこじ)。
 肩をなでる合総(がっそう)、顔を埋める鬚(ひげ)と胸毛を、風になぶらせて、相変わらず、ガッシリしたからだを包むのは、若布(わかめ)のようにぼろのさがった素袷(すあわせ)に、縄の帯です。たいていの貧乏にはおどろかない、トンガリ長屋の住人ですが、この泰軒の風体にだけは、上には上があるとホトホト感心している。
 ひやめし草履(ぞうり)をひきずる先生の横に、ちょこちょこ走りのお美夜ちゃん……稚児輪(ちごわ)の似あうかわいい顔で両袖かさねて大事そうに、胸のところにだいているのは、泰軒小父(たいけんおじ)ちゃんの一升徳利で。
 この奇妙な取り合わせの二人づれが、トンガリ路地へかかると、待っていた一同、ていねいにおじぎをして、あとからゾロゾロ、うやうやしくついてはいる。いやモウ、たいへんな尊敬……。

       三

「先生、うちの娘(むすめ)っこに、このごろ悪い虫がつきやしてナ、どうも心配でならねえのですが――」
 泰軒先生のあとから、長屋の連中が行列のようについて、ワイワイいって作爺さんの家へ送りこむんです。
 その群(む)れから、こういって声をかけた者がある。長屋のずっと奥にすんでいる、どこかの見世物小屋の木戸番です。
 泰軒先生は振りむきもせず、せまい路地に悠々(ゆうゆう)と足音を鳴らしながら、
「ホホウ、娘に虫がついた。恋ごろも土用干しせぬ箱入りのむすめに虫のいつつきにけむ……やはり、蚤(のみ)、虱(しらみ)の類でもあるかな?」
「へえ、もっと性(しょう)の悪い虫なんで。二本足の虫でげす」
「二本足の虫? それはめずらしい。後学のため、わしも見たいものだな。一度うちへよこしなさい。しかし、あんたも、そうはじめから悪い虫ときめてしまわんで、よくその虫を見ることだな。案外、娘さんにとっていい虫かも知れんでな」
「へえ、ありがとうごぜえます。どうぞ、その野郎を――イヤ、ソノ虫をつかわしやすから、とっくりごらんなすってくだせえまし」
 これじゃアまるで昆虫学みたいだが、こうやって泰軒先生は、この長屋の人事相談いっさいを引き受けているかたちだ。
「先生ッ!」
 と叫んで、通りかかった家の中から、髪をふりみだした女房がかけでてきた。
「ア、くやしい! 先生、あたし、どうしたらいいんでしょう。うちの亭主野郎ったら、悪所通いばっかりして、もうこれで三日(か)も家へよりつきません。ほんとにほんとに、帰ってきたらどうしてやろうか……」
 泰軒はニコニコして歩きながら、
「あははははは、お前さんはホンノリ化粧でもして、酒の一本もつけて、いつでもあったかい飯(めし)をたけるようにしたくして、亭主野郎の帰りを待つんだナ」
「まあ、馬鹿馬鹿しい! そんなことができますか。ほんとに嫌だよ。男はみんな男の肩をもってさ。先生も男なもんだから、そんなことをいうんですよ。男ってどうしてそうかってなんでしょう」
「いや、そうでない。そうしているうちに、宿六の浮気がとまる。うちへも一ぺんよこしなさい。酒でも飲みながら、ゆっくり話そう」
 ほかの一人が、泰軒のうしろに追いついて、
「先生、すみませんが、あとで手紙を一本書いてもらいてえんで」
「よろしい。あとで来なさい」
 先生が作爺(さくじい)さんの家へはいるまで、長屋の連中ははなしません。どぶ板のこわれたのから、猫の喧嘩まで一々先生のところへ持ちこんでくる。泰軒はまた、めんどうがらずに、かたっぱしからその始末をつけてやるんです。
 戸口のところで、長屋の人達と別れた泰軒は、しずかに作爺さんの家へあがった。壁は落ち、障子はやぶれて、見るかげもない部屋に、作爺さんこと作阿弥(さくあみ)は、垢じみた夜着をきて寝ている。
 病気なんです――もうずいぶん長い間。
「御気分はどうじゃな、作阿弥(さくあみ)どの」
 そういって泰軒は、まくらもとにすわった。そして、いま買ってきた何やら木の実のようなものを薬研(やげん)に入れて、ゴリゴリていねいにくだきはじめました。
 お美夜ちゃんはそのそばに、しょんぼりすわっています。

       四

 どこが悪(わる)いというのでもない。
 いわば、老病というのでしょうか。それとも、からだの節々(ふしぶし)がいたみ、だんだん四肢(てあし)のうごきに不自由を感ずるところを見ると、今でいうリウマチとでもいうのかもしれない。
 作爺さんはもうこれで二、三ヶ月も、枕から頭があがらないのです。
 羅宇直(らうなお)しの稼業(しょうばい)に出られないのは、むろんのこと……なによりすきな、というよりも、イヤ、それはもう第一の本能といっていいほど、閑(ひま)さえあれば手にせずにはいられない馬の彫刻にも、モウ長いこと鑿(のみ)をとりません。
 作爺さん、それがさびしいらしい。たまらなくつらいらしい……。
 馬を彫らせては当代随一の作阿弥(さくあみ)――そういえば、いつかこの部屋で、隅にころがる半出来の馬のほりものを一眼見て、この老人の素姓を看破したのは、この蒲生泰軒だった。
 これだけの名人作阿弥(さくあみ)が、どういうわけで羅宇なおしの作爺さんになりきって、曰(いわ)くありげな孫むすめお美夜ちゃんと二人っきりで、今このとんがり長屋にかくれすんでいるのか、その仔細はまだわからない。
 あるいは、泰軒は知っているのかもしれないが――。
 御気分はどうじゃナ……といった泰軒先生の問いに、作爺さんは重い頭をあげて、
「イヤ、至極良好、快方に向かいつつある――と申しあげたいが、ざんねんながら、いっこうにはかばかしからぬ。もうこれきり、鑿(のみ)を手にすることもかなわぬかと思えば……」
 もう作阿弥(さくあみ)ということを知られていますから、言葉つきも、長屋の作爺さんを捨てて、本来のままです。
「うわはははは」
 と泰軒は、わざと大声に笑いとばして、
「なんの大名人(だいめいじん)ともあろう人が、それしきの病に、そんな気の弱いことを」
 薬研(やげん)を摺(す)る手に、力を入れて、
「この稀薬(きやく)を手に入れたからは、病魔め、おそれいって退散するに相違ないテ」
 はたしてそんなにきく稀薬かどうかは知りませんが、泰軒、さっきお美夜ちゃんの手を引いて出て、なけなしの銭をふるって買ってきたんです。なんだか変てこな、どす黒いかわいたものだ。それを船型の薬研(やげん)に入れて、ごろごろ丹念に摺りつぶしている。
 お爺さんが病気なので、お美夜ちゃんはいじらしいほどおとなしい。両手を膝に、眼をまんまるにして、ひげの伸びた祖父の顔をジッと見つめたまま、チョコナンと枕もとにすわっています。と、不意に、
「チョビ安お兄(にい)ちゃんは、どこへ行ったかわからないのねえ」
 と、こどもながらも何かしら、しんみりした口調で申しました。
 蒲団からのぞいている作爺さんの顔が、痩せた笑いにゆがんで、
「お美夜や、安はわしらを見捨てたのじゃ。モウ戻ってこんのだから、お前もそういつまでも、チョビ安のことを言うんじゃない」
 と、悲しそうです。泰軒はチョビ安のことは知らないから、だまってゴリゴリをつづけている。
 みすぼらしい部屋に、ちょっと、暗い沈黙が落ちました。
 と、ちょうどその時です。誰やらおもての戸を、ドンドンドンとたたく音。
 長屋の者が、また悶着(もんちゃく)でも持ちこんできたか?……と、泰軒先生が眉をあげたとたん。
 ヒラリ! そとの路地から家の中へ、生(せい)あるごとく舞いこんできた一枚の紙片(かみきれ)――投げこんだ人はそのまま立ち去るらしく、しのぶ跫音が、いそいで遠ざかってゆく。
 泰軒があけてみると、紙には、ただ一行(ぎょう)……。
「即刻御来駕を待つ――」
 誰からの投げ入れ文?

       五

「いや、ただいま使いをやりましたから、ほどなくまいりましょう」
 忠相(ただすけ)は、こう言って、その下(しも)ぶくれの柔和な顔をほころばせて、客を見た。
 桜田門外(さくらだもんがい)の、江戸南町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)のお役宅(やくたく)だ。
 その奥座敷――。
 前の庭は闇にとざされて、植えこみの影が黒く黙している。
 が、室内には……。
 燭台の灯が明るくみなぎって、磨きぬいた床柱と、刀架けの蝋鞘(ろうざや)と、大岡様(おおおかさま)のひたいとを、てらてらと照らしだす。
「壺の騒ぎは、以前お話のありましたとおり、それとなく看視はしておりますが――」
 と言いかけて、忠相(ただすけ)はまた、相手へ眼をやった。
 客は。
 七、八つの子供ような、小さなからだに、六十あまりの分別くさい顔――それが、いかにもグロテスクな大きく見える顔で、おまけに、これだけは一生の荷の瘤(こぶ)を、背中にしょっているのは、言わずと知れた亀背の愚楽老人である。
 千代田の三助……垢(あか)すり旗本(はたもと)。
 お庭番という、将軍家直属の隠密(おんみつ)の総帥(そうすい)。
 八代吉宗公のかげの最高顧問です。
 白髪を、根の太い茶筅(ちゃせん)にゆい、柿(かき)いろの十徳(とく)を着て、厚い褥(しとね)のうえにチョコナンとすわったところは、さながら、猿芝居の御隠居のようだ。
 額部(ひたい)に幾本もの深い皺(しわ)をきざみ、白い長い眉毛の下から、じっと忠相を見つめて、
「上様(うえさま)にも、ひとかたならぬ御心痛でのう」
 と、言った。
 野太(のぶと)い、よくとおる声だ。もの言うたびに、背中の瘤(こぶ)がヒクヒク動くのは、たしか奇態な動物が、着ものの下にもぐりこんでいるように見える。
「知ってのとおり、日光御修営は、日一日と近づく。柳生はそのこけ猿の壺とやらを手にいれぬかぎり、ほかに金の出どころは絶対にないのじゃから、イヤモウ、一藩をあげて今は必死のありさまじゃ」
「すると、上様は」
 と忠相は、ちょっと頭をさげて、
「柳生に御同情をたれ賜うて、柳生のために、それほど御心配になっておらるるので」
「うむ。それもある。剣をもって立つ天下の名家を、かようなことで、むざむざとつぶすにもあたらぬからのう」
「ごもっとも」
「第一、柳生をくるしめるのは、上様の本意ではない。しかるに、このままで押しすすんで、柳生がこけ猿を手に入れて財産を掘りだす前に、日光御造営の日を迎えることになれば、柳生藩一統はくるしさのあまり、何をしでかそうも知れぬ。そこは、剣術はお手のものの連中だし、例の伊賀の暴れン坊とやらをはじめ、手ごわいやつがそろっておることだから……上様の御憂慮なさるのは、この点じゃ」
「なるほど、つまり、天下をさわがしとうない――」
「と言うと、こけ猿の秘める財宝のすべてが、柳生の手にはいるのも、これまた困りものじゃて。いくら日光でも、そうはかからぬのじゃから、あまった金が柳生の手にあっては、こんどはまたそれが、何かと間違いのもとになりやすい――」
「そうたびたび金魚籤(きんぎょくじ)をあててやることも、できますまいからな、ははははは」
「そうじゃ。きまって柳生の金魚ばかり死なすわけにも――あっはっは」
 愚楽老人が、全身をゆすぶって笑った時、庭の奥から闇黒(やみ)の中を、こっちへ近づいてくる跫音が……。

       六

 すね者というと、変につむじまがりか、さもなければ卑屈な人間が多いけれど、この蒲生泰軒先生のように、とてもほがらかに世の中をすねちゃった人物は、ちょっとほかに類がないであろう。
 いったい人間には。
 ちゃんと家庭をいとなみ、一定の住所をもち、確たる職業につき、それ相応の社会的地位をたもっていこうとする、いわば市民的なおもての生活のかげに。
 一面……。
 ともすれば無情を感じ、隠遁(いんとん)を好み、一笠(りゅう)一杖(じょう)、全国の名所寺社でも行脚して歩いたら、さぞいいだろうと思うような、反世間的な、放浪的な気もちがあるものです。
 人によって、その思う度合いはちがい、また、考えのあらわれ方も異なりますが、だいたい人間は、ことに東洋人は、誰しも、この現実の俗な責任と、それにたいして反動的な、無責任な逃避を欲する心と、内心、この二つのたたかいにはさまれて生きているといっていい。
 ですから。
 ここに。
 はじめっからその社会生活を拒絶している人があったとしたら、その人はある意味で、ずば抜けたえらい人だと言わなければなりません。誰だって、そうでしょう。
 会社や役所へ出て、上役にペコペコし、上役はそのまた上役にペコペコし、お世辞でないようなお世辞を言い、同僚には二重三重の気がね……お金持はお金のないような顔をするし、金のないやつは金のあるような顔をするこんなイヤな世の中に、がんじがらめにされて生きてゆくよりは、サラリと利欲をすてて、いい景色でも見ながらフラフラ野山を歩いたほうが、よっぽどいいにきまってる。
 わが泰軒居士はそれなんです。
 ただ。
 捨てるべき利念も、気がねも、はじめから持ちあわせない蒲生泰軒。
「俺ば、したいことをするだけだ」
 というのが、先生の信条であります。
 だが――。
 これは、したいほうだいのことをするというのとは、だいぶ違う。
 してはいけないことは、常に、決してしたくない人にして、はじめてこういうことができるのです。してはいけないことをしたくないのが道徳で、していいことをするのが自由だ。
 泰軒先生は、これが完全に一致している。さぞサバサバした心境でありましょう。
 一升徳利を枕に、いつも巷に昼寝する蒲生泰軒、その海草のような胸毛に、春は花吹雪、夏は青嵐、秋の野分、冬の木枯らしが吹ききたり、吹き去って、洒々落々(しゃしゃらくらく)とわらいながら、一生を弱い者の味方として送った人です。
 歴史には名は出ていなくても、隣家(となり)の大将、裏の姐(ねえ)さん、お向うの兄(あん)ちゃんには、神のように、父のように慕われ、うやまわれたんです。
 泰軒はこれでいいのだ。
 長々と余談にわたって、まことに恐縮ですが――。
 しかし……今をときめく南町奉行、大岡様のおやしきへ、こうして夜中に、庭からやってくるなんて、この泰軒のほかにはない。
「やあ、呼んだから来たぞ」
 と先生は、暗い植えこみの影のかさなる庭から、ブラリと縁側へあがりながら、
「おお、来てるのか」
 愚楽老人をじろりと見やって、埃だらけの長半纏(ながばんてん)の裾をはね、ガッシと組む大(おお)あぐら――。

       七

 この蒲生泰軒は。
 その昔……。
 日本国中を流れ歩いて、お伊勢さまへおまいりしました時に。
 徳川専横の世にあって、皇室尊崇という国体観念の強い泰軒先生は、どんなに清らかな、またいかにはげしい日本愛をもって、伊勢大廟のおん前にぬかずいたことでありましょうか。
 神代ながらのこうごうしさに打たれる、伊勢の神域。
 ある学者が、北畠親房の神皇正統記という、日本精神をあきらかにした昔の歴史の本を評しまして、この神皇正統記は、前に遠く建国の創業をのぞみ、のちに遙かに明治維新をよぶところの国史の中軸であると道破されました。
 まことにそのとおりでありますが、これは何も、その歴史の本だけのことではない。泰軒先生のような人物についても、まったく同じことが言えるのであります。
 この幾多(いくた)名の知れない泰軒先生が、各時代を通じて存在していたということは、じつに、前に遠く日本建国の創業をのぞみ、のちにはるかに明治維新の絢爛(けんらん)たる覇業をよぶところのもので、一蒲生泰軒自身、大日本精神の一粒の砂のようなあらわれであったと申さなければなりません。それが、昭和のこんにちお互いが見るような、この強大な日本意識、民族精神の拡充となったのです。これをさしてファッショなどという伊太利(イタリ)あたりの借り物などと思うのは、大たわけだ。
 さて。
 それがいいが……。
 たましいの澄みわたる杉木立ち、淙々(そうそう)千万年の流れをうたう五十鈴川(いすずがわ)の水音に、心を洗った若い日の泰軒先生は、根が無邪気な人ですから、日本を思い、おそれ多いことですが皇室をしのびまつって、すっかり嬉しくなっちゃったんですネ。
 連日連夜、山田の木賃宿にがんばって、ひとりで祝盃をあげた。
 そこまではいいとして。
 そいつをちっとばかりあげすぎたんです。
 その当時から、かたときもはなさない貧乏徳利を振りまわして、フラフラ山田の町中を威張ってあるいた。イヤ、山田の町の人が、おどろきましたね。何しろ、容貌魁偉(ようぼうかいい)、異様な酔っぱらいが、愉快だ愉快だと、毎日町じゅうをねって歩くんですから。
 とどのつまり、交叉点か何かに大の字なりに寝こんでるところを泰軒先生、通行妨害というんで山田署へひっぱられちゃった。
 司法主任の方がとりしらべると、乞食のような風体だが、言うことがおそろしく大きい。
 奇抜なルンペン……ただの鼠じゃあるまいとなって、このとき、みずから泰軒を訊問したのが、当時、この伊勢山田のお奉行様だった大岡忠相でした。まだ越前守と任官しない前のことですな。
 そのとき、大岡様は泰軒にスッカリほれちまって、二人は、肝胆相照らす心の友となったのです。それからの交際だ。
 山田の大虎事件では、泰軒は説諭放免となり、その後数年にして大岡さまは、八代吉宗公に見いだされて、この生き馬の眼をぬく大江戸の奉行、南北にわかれて、二人ございますけれど、まあ現代で申せば警視総監と裁判所長をいっしょにしたような重職におつきになったのです。
 だから、桜田門外(さくらだもんがい)、奉行官邸の塀を乗りこえて、ぶらりはいってくるのも、先生一流のやり方で、べつに不思議はありませんが……。
 愚楽老人をつかまえて、
「化け物がきてる――」
 とは驚いた。が、より愕いたのは、そう言われた愚楽が、敷物をすべって、ピタリ、両手を突いたことです。

       八

 千代田の怪物、愚楽老人――将軍吉宗公の側近中の側近、何しろ、お風呂番なのですから、裸の将軍様をごしごしこする。文字どおり赤裸々の吉宗に接して、いろいろと最高政策の秘密のおはなしをなさるんです。
 上様のおっしゃることは、みんなこの愚楽老人から出るんだ……といわれたくらい。
 大老も老中も、若年寄りも、この愚楽のきげんを損じては、首があぶないから、一にも愚楽様々、二にも愚楽様々――。
 吉宗の政治は愚楽政治。
 まことに、威令(いれい)ならびなき垢すり旗本なんです。
 その愚楽老人をつかまえて、
「やあ、化け物がきてるな」
 という泰軒先生、怪物の上をゆく怪物か、さもなければ、こわいもの知らずのよっぽどの馬鹿か。
 両方なんです、泰軒先生は。
 相手に求めるところがあれば、自然、みずからが卑屈になる。
 世の中から何ものをも得ようと思っていない蒲生泰軒居士、ほんとに、愚楽老人なんか、ただのかわいそうな不具者としか眼にうつらない。
 しかし、
 一寸法師で亀背の愚楽を、化け物とは、いくらそう思っていても、面(めん)と向かってひどいことを言ったものだが、どこへ出しても生地(きじ)をむきだしの泰軒、徳川などは天下の番頭、したがって愚楽ごときは、番頭の番頭ぐらいにしか思っていないんだ。
 ところが。
 化け物といわれた愚楽老人は?……と見ると。
 ふしぎ!
 いつもお城で、大老(たいろう)など鼻であしらって、傲岸(ごうがん)そのもののような愚楽が、どうしたのか、ちゃんと座蒲団をおり、両手をついて、泰軒のまえに頭をさげている。
「御無沙汰いたしております。御健勝で、何より……」
 ていねいな挨拶です。不思議といえば不思議だが、考えてみれば、これは何もふしぎはないンで。
 人物を知るには人物を要す。大岡様を通じてだいぶ前から相識(しりあい)になっているこの蒲生泰軒を、愚楽は、学問なら、腹なら、まず当今第一の大人物とみて、こころの底から泰軒に絶大な尊敬を払っているんです。
 お城には、話せるやつなんか一人もいないが、いまこの日本で、自分が膝をまじえて語るに足(た)る人物はといえば、まず、南の奉行大岡越前と、この、街の小父(おじ)さん蒲生泰軒と、いずれも、兄(けい)たりがたく弟(てい)たりがたし……この二人よりないと、愚楽老人ひそかに思っている。
 大岡様は、大岡さまで。
 世の中にはいろんな人がいるが、衷心(ちゅうしん)から尊敬に値して、なんでも秘密をうちあけて智恵を借りる畏友(いゆう)は、風来坊泰軒居士と、この湯殿のラスプチン愚楽老人以外にはない――こう考えている。ラスプチンというと、なんだか愚楽も、ひどくエロごのみでいんちき宗教をあやつるように聞こえますが、わが愚楽、そんなところはちっともないんです。ただ、常人のうかがい知ることのできないお城の奥深く、一種の妖気ともいうべきふしぎな威勢、魅力、呪縛力をそなえている点で、たとえてみれば、お湯殿のラスプチン……
 泰軒先生も。
 今の世でいくらか話せるやつは、大岡(おおおか)とこのせむしの化け物――どっちも葵(あおい)の扶持(ふち)をいただく飼い犬だけれど、まアこの二人は、相当なもんだ……ぐらいに思ってる。
 だから、天下に何か困った問題が起こると、深夜コッソリこの三人が集まるんです。
「お呼(よ)びだてして、はなはだ恐縮だが――」
 忠相(ただすけ)はにこにこして泰軒を見た。

       九

 今までだって、何か重大なことが出来(しゅったい)すると、よく夜中に、この越前守のお屋敷に三人があつまって、人ばらいのうえ、談合をかさねたものでありました。
 吉宗公の言うことは、この愚楽老人から出る。
 その愚楽老人の意見は、この忠相(ただすけ)、泰軒(たいけん)、愚楽(ぐらく)の三人会議の席上でまとまることがおおい。
 三人寄(よ)れば……文殊(もんじゅ)の智恵。
 並製(なみせい)の人間でも、三人も集まれば、大智者(だいちしゃ)文殊(もんじゅ)に匹敵するくらいの智恵がわくものだという。
 いわんや――。
 ひとりでもおのおの文殊(もんじゅ)に劣らぬほど頭のいいのが、三人寄って智恵をしぼるんですから、この三人会議は、文殊跣足(もんじゅはだし)の智略の泉で。
 たいがいの事件が、この三人の秘密会で、解決のつかぬということはない。
「どうじゃナ、湯かげんは」
 泰軒は、だしぬけにこう言って、のんきそうな笑顔を、愚楽へ向けた。
「相変わらず、吉(よし)さんを洗っておるかの? じゃが、からだは人に洗わせることはできても、心は人に洗ってもらうわけにはゆかんからナ、アッハッハ」
 八代様のことを、吉(よし)さん吉(よし)さんという。
 相手が相手ですから、愚楽はだまって、ニコニコ笑っていますが、ほかでこんなことを言って、もしお役人衆の耳にでもはいろうものなら、首がいくつあったって足りません。
 ケロリとして、泰軒はつづける。
「ま、よく心を洗うように、泰軒がよろしくと言うておったと、吉(よし)さんにつたえてくれい」
「は」
 と愚楽老人は、くすぐったそうな笑顔。
「承知いたしました。おつたえいたしますが。泰軒大人(うし)、いくら心を洗うても、何か気になることがあっては、そのこころの洗濯が洗濯になりますまい。このごろ上様におかせられては、あの柳生の壺騒ぎを、ひどくお気にかけておらるるでのう」
 それを聞きながして、泰軒は大岡さまへ、
「使いに来たのは、大作(だいさく)か」
「うむ。伊吹(いぶき)をやった。例によって、文を投げこんでこいと言うてな」
 伊吹大作(いぶきだいさく)……この人は、越前守手付きの用人中、一ばん信任のあつかった人だ。あの天一坊事件や、雲霧仁左衛門事件で大活躍をした方で、まア、腕っこきの警部さんといったところ。
「投げこむが早いか、ドンドンと戸をたたいて、トットと逃げよった。出てみたら、もう影も形も見えん。すばしっこいやつじゃ。長屋じゅう、何ごとがおきたかと驚いておった、ハハハハハ」
 いつも泰軒に用のある時には、ああしてトンガリ長屋の住居(すまい)へ投げ文をして、呼び出すことになっているんです。
「当分、あの長屋におるつもりかの?」
 忠相にきかれて、泰軒は哄笑一番、
「もう、ちょっとどこへも動けんようになったわい。みなが大事にしてくれるでな。愚楽さん、長屋の人たちは、そりゃアかわいいもんですなあ。しかし、わしの言うことなら、何を言うてもそのまま信じるから、うっかり冗談も言えん。吉(よし)さんが日本六十余州の将軍なら、この泰軒はトンガリ長屋の大将軍じゃ、ハハハハハ」
「宵(よい)のくち早くから、愚楽どのがお見えになってな」
 と忠相は、ひとしきり笑いのしずまるのを待って、真顔に返り、
「例のこけ猿の件につき、君と三人でよく相談したいと言われるので、御足労をわずらわした次第だが……」
「アア、こけ猿か。だいぶゴチャゴチャやっとるようじゃのう――」
 泰軒は軽く言って、膝(ひざ)もとにひきつけた貧乏徳利(びんぼうどくり)を手にとりあげ仰向いてグビリグビリ、燃料を補給しだした。

       十

 酒のこぼれた口ばたを、ぐいと手の甲(こう)で押しぬぐった泰軒は、
「しかし、徳川に智恵を貸してやるには、一つ条件があるが……」
 大岡様と愚楽は、ちょっといぶかしげな顔を見合わせた後、異口同音に、
「それは、どういう――」
「ただ一つの条件とは、いったい何……」
 泰軒は、キチンとすわりなおして、
「大政を朝廷へ奉還することじゃ」
「まじめになって言いだすから、こっちも緊張してきいていればハッハッハ、――泰軒はいつもこれじゃ。それは、われわれの手ではどうにもならん。チと条件が大きすぎるぞ」
 忠相(ただすけ)のおだやかな笑いに、愚楽老人もにこにこして、
「いや、むろん、そうあるべきところ。徳川も十五代も続きましたらば、いずれ、そういうことになるでしょう」
 どうです。御一新はこの時分から、ちゃんと約束されていたんだ。
 いったい泰軒が、こんなことをヒョコヒョコ言いだすには訳がある。それは、事につけ物にふれ、要路の大官へむかって尊王思想を宣伝しようという気持。泰軒だって、こけ猿の茶壺と天下の大政をいっしょに考えちゃアいない。
 笑いだした泰軒は、
「そうか。よろしい。では、それまでおとなしく待つとして……ドッコイショッ」
 ごろりと横になって、肘(ひじ)まくら。
「そこで、御両所、こけ猿のことは、心配するな。そのうちにおれが、大岡のところへ持ってきてやる」
 と言いました。
 前にも一、二度、三人で相談して、なんとかしてあの壺を、こっちの手に入れなければならないと、話をきめたことがあるんです。
 それは、この愚楽老人、城中では常に将軍家拝領の葵(あおい)の紋つきを、ひきずるように着て、なんかといえばすぐ、背中の瘤(こぶ)にきせたそのあおいの紋をつきだし、これが見えぬかと威張っている。
 上様のほかに、葵(あおい)の紋のついたお羽織を着ているのは、愚楽一人ですから、みんな、ソレお羽織が来たといって、誰も愚楽のそばへ寄る者はない。
 いつか……。
 元禄の赤穂事件で有名な、あの松の廊下で。
 愚楽老人、ちょうどすれちがったこの大岡忠相が、その長い羽織の裾を、踏みもしないのに踏んだと、わざと言いがかりをつけて、人眼をごまかして大岡様を別室へひきいれ、そこでこの壺に関して篤(とく)と密談をしたことがあります。
 あの晩も、さっそく、泰軒をまじえて三人、ところも同じ今のこの座敷で、いろいろと策をねった。
 で、その結果。
 泰軒がひそかに壺の移動に眼をつけることになって、ああして、当時まだ吾妻橋(あづまばし)下の河原に小屋をむすんでいた左膳のもとへ、泰軒が橋の上から矢文(やぶみ)をはなち、それによって左膳も、壺ののむ柳生の埋宝の秘密をはじめて知ったというわけ。
 そもそも、大岡様や泰軒がこの事件に関係しだし、また、剣魔左膳が壺の内容を知って、いっそう執念(しゅうねん)の火をもやすようになったについては、こういういきさつがあったのです。
 以前(まえ)の事情を説明しておかないと、話がすすまない。
 そこで、またしても、今夜のこの三人文殊の寄りあい……。
「まあ、よい。おれにまかせておけ。ちょっと考えがあるんだ」
 ムックリ起きあがった泰軒のひたいの前に、ソッと二人のひたいが集まる。あとは三人のヒソヒソ話、よく聞こえません。

   火吹(ひふ)き紅竹(べにだけ)


       一

 すっかり傾いた明(あ)けの月。
 通りすがりの船板塀から、松の枝が、おどりの手ぶりのような影を落として、道路のむこうを、猫が一匹ノッソリと横切ってゆく。
 寝しずまった巷には、この人恋しい夜にもかかわらず、粋な爪弾(つめび)き水調子も、聞こえてこない……。
 本郷は司馬道場の裏木戸を、ソッと排して、青い液体を流したような月光の中へ、雪駄(せった)の裏金の音をしのんで立ちいでたのは、大(おお)たぶさにパラリ手拭をかけた丹下左膳である。
 いま、脇本門之丞を胴輪斬りに、その血を味わった妖刃濡れ燕は、何ごともなかったかのように、腰間にねむっている。
 足をはこぶたびに、例のおんな物の下着が、ぱっぱっと、夜眼にもあざやかにおよぐ。
 ひだりの一本腕の下に、こけ猿の包みをかかえた左膳、やがて、月を踏んで帰り着いたのは、駒形の高麗(こうらい)やしき――尺取り横町のお藤の家だ。
「おい、お藤! あけてくれ……おれだ。左膳様のお帰りだ」
 あたり近所をはばかって、トントンと静かに雨戸をたたく。
 なかから、つっかけ下駄で土間へおりるけはいがして、スーッと音もなく戸があいた。
 さらりとした洗い髪、エエモウじれったい噛み楊枝……といった風情。口じりに、くろもじをかみ砕きながら、お藤姐御の白い顔が、ほのかな灯りに浮かんでのぞく。
「ま、お前さん。今ごろまでいったいどこを、ほッつき歩いていたんですよ」
 と、キュッと上眼使いににらみあげるのも、女房きどりのうらみごとです。
 左膳は、あの仮りの子チョビ安をつれて、もうだいぶ前から、この櫛巻お藤の隠れ家へころげこんでいるのだ。それというのも、なかばは姐御のほうから、どうぞいてくださいと一生けんめいにひきとめているので……櫛まきお藤、この、隻眼隻腕のお化けじみた左膳先生に、身も世もないほどゾッコン惚(まい)っているんです。
 ヒネクレ者で、口が悪く、見たところはごぞんじのとおり、使いふるした棕櫚箒(しゅろぼうき)に土用干しの古着をひっかけたような姿。能(のう)といったら人を斬るだけの、この丹下左膳。
 どこがいいのか、はたの眼にはわかりませんが、女も、お藤姐さんぐらいに色のしょわけを知りつくし、男という男にあきはててみると、かえって、こういう、卒塔婆(そとば)が紙衣(かみこ)を着てまよい出たような、人間三分(ぶ)に化け物七分(ぶ)が、たまらなくよくなるのかも知れません。
 今夜も。
 夕方フラリと出ていったきり、ふけても帰らぬ左膳を待ちこがれて櫛の落ちたのも知らずに、柳の枕のはずれほうだい、うたた寝していたところらしく、ほおに赤くほつれ髪のあとがついている。
 だが――。
 人の心は、思うままにならないもので、お藤がこんなに想っているのに、左膳のほうでは、平気(へいき)の平左(へいざ)です。
 まア、頼まれるからいてやる……そうまで阿漕(あこ)ぎな気もちでもないでしょうが、どうせ行くところがないのだから、幼いチョビ安を夜露にさらすのもかわいそう、当分ここにとぐろをまいていよう――ぐらいの浅いこころ。
 どんなにお藤がさそっても、左膳は見向きもいたしません。一つ屋根の下に起き伏ししていても、二人の間は、あかの他人なんです。
 いまも左膳は。
「うむ、いい稼業(しょうばい)をしてきたぞ」
と、手の壺の箱へ、ちょっと顎をしゃくって見せたきり、ひややかに家の中へ――。

       二

 お藤の、袖屏風した裸手燭が、隙もる夜風に横になびいて、消えなんとしてまたパッと燃えたつ。
 左膳を追って、お藤はうれしげに、とっつきの茶の間へあがる。
 二間きりの小ぢんまりした家です。かたすみの煎餅蒲団に、チョビ安が、蜻蛉(とんぼ)のような頭髪(あたま)をのぞかせ、小さな手足を踏みはだかって、気もちよさそうな寝息を聞かせています。
 左膳は、さもさも父親のように、そのチョビ安の寝顔をのぞきこんで、
「罪がなくていいなあ、餓鬼は」
 と、思い出したようにお藤をかえりみ、
「あすは旅だ」
 どてらをひろげて、左膳のうしろへ着せかけようとしていたお藤姐御は、この突然の言葉に、吐胸(とむね)をつかれて、
「オヤ、だしぬけに旅へ……とはまた、どちらへ?」
「ゆく先か、それアこの壺にきくがいい」
 どっかり長火鉢の前へ、細長い脛で胡坐(あぐら)をくんだ左膳、こけ猿の包みを小わきに引きつけて、
「どこへ旅に出るか、おれもまだ知らねえのだ」
「あらま、ずいぶんへんなおはなしじゃないか」
 と、半纏(はんてん)の襟をゆりあげながら、お藤は左膳と向きあって、火鉢のこっち側に立て膝。
 喫(か)みたくもない長煙管(ぎせる)へ[#「長煙管(ぎせる)へ」は底本では「長煙管(ぎせる)へ」]、習慣的にたばこをつめつつ、
「ハッキリ言ってもらいたいわね。あてなしの旅に出るなんて、このあたしの家にいるのが、そんなに嫌におなりかえ」
 左膳は苦笑して、
「ウンニャ、そういうわけじゃアねえが、今この壺をひらいて、中の紙きれに……」
「え? その壺のなかの紙片に――?」
「どこと書いてあるか知らねえが、その紙ッきれにしめしてある場処へ、おらア、ある物を掘りに行かなくっちゃアならねえのだよ」
 くすりと、ゆがんだ笑いをもらしたお藤、そっぽを向いて、
「……とかなんとか、うまいことを言ってるヨ。だがね、ほんとにこのあたしが嫌になって、それで家を出て行くんでなければ、あたしがくっついて行ってもかまわないだろう? え? 虫のせいか知らないけど、あたしゃ因果と、お前さんが好きでたまらないのさ。どんなにじゃまにされたって、あたしゃどこまでだってお前さんにへばりついて行くから、ホホホ、大きな荷物をしょいこんだつもりでネ、その覚悟でいるがいいわサ」
「いや、お藤、これ、お藤どの」
 左膳はいささか、持てあまし気味で、
「くしまきの姐御ともあろうものが、そんな小娘みてえなことを言うのア、うすみっともねえぜ。実もって今度の旅は、足弱をつれていっていいような、そんななまやさしいものじゃアねえんだ。まったく、伊賀か、大和か、それとも四国、九州のはてか、どこまで伸(の)さなくっちゃならねえか、この壺をあけてみねえうちは、誰にもわからねえのだからなア」
「フン、その壺はお前さん、前にあのつづみの与の公が、品川の柳生源三郎の泊りとかから、引っさらって来た壺じゃアないか。そんなきたない壺一つが、いったいどうしたというんですよ。もったいをつけないで、早くあけてみたらいいじゃアないか。何もそのうえの相談サ」
 言いながらお藤、左膳が突然この家をはなれるときいて、嫉妬と悲しみにくるってヒステリカルになっている心中で、そんなら、この壺さえなかったら、恋しい左膳をいつまでも自分のもとにとどめておくことができるのだナ、と、ひそかに思いました。
 蛇になった女もある。まことに、恋ほど恐ろしいものはございません。

       三

「ウム……」
 と左膳は、軽くうなずいて、
「壺中の小天地、大財を蔵(ぞう)す――あけてみるのが楽しみだな」
 ヒタヒタと壺の箱をたたきながら、
「だが、あければすぐ、その埋蔵物を掘りに行くという、苦難の仕事が始まるのだ。日本のはて、どこの山奥までも、ただちにおもむく、……してまた、その財宝を手に入れるまでに、この濡れつばめは何度人血をなめねばならんことか。ウフフ、働いてくれよ」
 いささか憮然(ぶぜん)たる面持ちで、左膳は、ひだりの膝がしらに引きつけた長刀(ちょうとう)、相模大進坊(さがみだいしんぼう)の柄を按(あん)じて、うすきみのわるい含み笑いをしました。
 そして、何ごとか思いさだめたふうで、
「イヤ、壺をひらいてしまえばそれまでだ。ひらくまでが、たのしみなのだ。なかなかあけねえところに、そのたのしみは長くつづく」
 お藤はあっけにとられた顔で、
「なにを酔狂(すいきょう)なことを言ってるんですよ。唐人(とうじん)の寝ごとみたいな……じゃ、あたしゃ先に寝ますよ」
 なにげなさそうに言って、しどけなく帯をときながら、ユラリと起ちあがったが。
 そのお藤の胸中には。
 はや一つの思いきった考えが、ちゃくちゃく形をとりつつあったので。
 男には、恋は全部ではないかも知れない。
 だが、女には、恋こそはその全生命、全生活なのです。だから、恋のため……ことに、かなわぬ恋のためには、なんでもする。とくに、お藤のような性格の女は。
 と、そのとたんだった。ちょうど彼女が、何をいってるんですよ、唐人(とうじん)の寝ごとみたいな――と言った時。
 まるで、それにヒントを得たかのように、部屋の片隅にねむりこけるチョビ安が、ハッキリした声で、寝ごとをいいました。
「お美夜ちゃん、お美夜ちゃん!――お前はどうしている。おいら、こうしていても、おめえのことばっかし思ってるぜ。オイ、お美夜ちゃん……」
 子供に、恋慕のこころはありますまい。ただの友情ではあろうが、はげしくお美夜ちゃんをおもう気もちが、いまこの寝ごととなって、チョビ安の口を出たのです。
 たった一声。
 あとは何やらムニャムニャと、眠りながら笑っているのは、夢は荒れ野を駈けめぐり……じゃない、夢はとんがり長屋へ帰って、お美夜ちゃんに会っているに相違ありません。
 その、チョビ安の寝ごとを聞いたときに、お藤姐御の胸は、しめつけられた。
 思わず、ホーッともれる長いためいき――。
「あああ、子供でさえも、思う人のことを、あんなに、夢にまで口に出すのに……ほんとににくらしい情(じょう)なしだ」
 浴衣(ゆかた)をかさねた丹前の裾に、貝細工のような素足の爪をみせて、凝然(ぎょうぜん)とたちすくんでいる櫛巻お藤、艶(えん)なるうらみをまなじりに流して、ジロッと左膳の君を見やりますと。
 左膳はそれも聞こえないのか。
 知らぬ顔の半兵衛で、長火鉢の猫板に巻紙をとりだし、硯に鉄瓶のしたたりを落として、左手で墨をすりはじめている。
 床へはいったお藤は、胸に一物(もつ)ございますから、ねるどころではありません。すぐさま、わざとスヤスヤと小さないびきを聞かせて、薄眼をあけ、じょうずな狸寝入り。
 見られているとも知らず、左膳、口に筆をかんで、いやに深刻な顔で巻紙をにらんでいる。どこへやる文やら、寒燈孤燭(こしょく)のもと、その一眼は異様な情熱にもえて――。

       四

 おらァ、女にいちゃいちゃするのが、大嫌(でえきれ)えだ。これが一つ……と数えたてて、左膳、あの門之丞を斬ってすてたのですけれど。
 また。
 こんなに真実をつくす櫛巻の姐御を、いっしょに住んでいて見向きもせず、はたの見る眼もいじらしいほど、振って振りぬいていた左膳だが。
 かれといえども、べつに木製石作りというわけじゃアない。
 くしまきお藤のようなタイプの女は、左膳の性にあわない。好みじゃないというだけのことで――では、どんなのが左膳の理想のおんなかといえば。
 なにも理想のどうのと、そうむずかしく言うにはあたらないが、あの司馬道場の萩乃、ああいうのこそ、女の中の女というのだろうなアと、左膳、さっき月にぬれて帰る途中から、ふっとものを思う身となってしまったのです。
 萩乃様を?
 この丹下左膳が?
 恋してる?
 イヤどうも妙なことになったもので、萩乃の迷惑が思いやられますけれど、しかし、まったくのところ、どうもそうらしいんですからやむをえません。
 左膳だって、惚(ほ)れたの腫(は)れたのという軽い気もちではないのだ。
 さっきあの寝間ではじめて会ったときは、そうも思わなかったのだが、壺を小腋(こわき)に道場を出て、ブラブラ帰るみちすがら、あの茫然(ぼうぜん)と見送っていた萩乃の立ち姿は、左膳のまぶたのうらから消えなかった。いや、消えないどころか、それは、彼が強い意思でもみつぶそうとするにもかかわらず、だんだんはっきりした形をとって、今はもう、拭(ぬぐ)うべくもなく胸の底にやけついているのです。押入れのすきまから、そっとのぞいているとも知らず、机の上に二つの博多人形をくっつけて置いていた萩乃……。
 あの、門之丞があらわれた時、おどろきのうちにも毅然(きぜん)として、ああして理のたった言葉でたしなめた萩乃――あれほどの強い、正しい、美しい女性を見たことがないと、左膳はスッカリ感心してしまったのだ。
 その感心を胸にだいて帰る途中、月にいろどられ、夜のいぶきにそだてられて、いつのまにか恋ごころに変わったのを、左膳、自分でもどうすることもできませんでした。
「壺を持って出てくるおれを、白い顔に大きな眼をみはって、ジッと見送っていたっけ……」
 筆の穂尖に墨をふくませながら、左膳は今、口の中にうめいた。
 夜風とともに、恋風をひきこんじまった丹下左膳。
 恋の奴(やっこ)の、剣怪左膳――。
 左膳の妖刃、濡れ燕も、糸(いと)し糸(いと)しと言う心……戀の一字のこころのもつれだけは、断ちきることができないでございましょう。
 イヤどうもとんでもないことになっちゃった。たった一つの眼も、恋にくらむとは、えらいことになるもので。
 萩乃さんの身にとっては、門之丞という一難去って、また一難。虎が躍(おど)りでて、狼をかみころしてくれたのはいいが、こんどはその虎が、爪をみがいて飛びかかろうとしているようなもの……。
 ですけれど。
 恋にかけては、とっても内気の左膳なんですネ。
「なんと書いたらいいものだろうなア」
 くちびるに墨をぬりながら、またつぶやいた。
 これでみると、左膳のやつ、さっそく萩乃のところへ、手紙(ふみ)をやろうとしているらしい。
 かたわらで、こけ猿の茶壺が、早くあけてくれ、早くあけてくれと、声なき声を発するがごとく――。

       五

 左膳、萩乃に心をとられて、せっかく手に入れたかんじんかなめのこけ猿を、たとえ一瞬時でもわすれたわけではございません。
 それじゃア普段の左膳が泣く。
 濡れ燕が、承知せぬ。
 決してそういうわけじゃないんです。
 ただ……さんざん世話をやかせた壺だけれど、壺に足があるわけではない。現実に、ここにこうして存在してるんだから、べつに逃げだしはいたしません。あけようと思えば、今にもあけて見られるのだから、あえていそぐにはあたらない。
 まず、萩乃に一筆したためてから、ユックリあけてみるとしよう。見るまでの楽しみは大きいんですから、できるだけそのたのしみを長くしようという考え。
 なんのことはない。
 好きなお菓子(かし)をいただいたこどもが、すぐかぶりつけばよさそうなのに、なかなか食べないのと同じような心理で。
 それよりも。
 この壺の秘める密図の指示するところにしたがって、東西南北いずれにせよ、どっちみち明朝(あした)早く江戸を発足するのだから、もう当分、萩乃に会えない。
 それを思うと左膳、がらにもなくちょっと暗然としちまうんです。
 で。
 また会う日まで……なんていうと、讃美歌みたいですが、とにかく左膳、なんとかしてあの萩乃様へ、今この心のたけを書き送っておきてエものだと――。
 剣を持たせれば変通自在、よく剣禅一致ということを申しますが、わが左膳においては、剣もなく禅もなく、いわんやわれもなく、まったく空気のような、色もにおいも味もないほどの、武道の至妙境に達した男でありますが。
 文(ふみ)はまた別。おまけに恋文。
「チッ!書けねえもんだなあ」
 と、煙突掃除みたいな大髻(おおたぶさ)のあたまをかかえて、長火鉢の猫板に左膳の肘を突き、筆といっしょに顎をささえて一つッきりの眼をしかめ、ウンウンうなってるところは、まことに珍妙な図。
 まったく、どなたかに助けに飛びだして、書いていただきたいくらいのもので……しかし、丹下左膳のやつが、ラブレターを書く身になろうたア思わなかった。
 わからないもンですネ。
「ウッ、汗をかくだけで、一字も書けねえや」
 剣妖、われながらつまらない洒落(しゃれ)をいった。
 とたんに。
「何をお前さんウンウンうなってるんだい。お腹(なか)でも痛むの?」
 ねてると思ったお藤姐御が、ムックリ枕から頭をあげて、皮肉なひとこと。
 これには左膳も、不意の斬込みをくった以上にあわてて、
「ウンニャ、い、一首浮かんだから、わすれねえうちに書きとめておこうと思ってナ」
「オヤ、火鉢のひきだしに、一朱(しゅ)あったのかえ」
「ナ、何を言やアがる。寝ぼけてねえで、早くねむっちめえ、ねむっちめえ!」
「お前さんも早くおやすみよ。油がむだだわサ」

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