丹下左膳
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著者名:林不忘 

 ふさふさと肩にたらした合総(がっそう)、松の木のような腕ッ節にブラリ下げたのは、一升入りの貧乏徳利で……。
 おどろく侍どもをしりめにかけて、押し入って来た蒲生泰軒は、この日からこのとんがり長屋にお神輿(みこし)をすえることになった。長屋に、また一つ名物がふえたのはいいが、この時、部屋の隅にころがっている馬の彫刻に眼をとめて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥(さくあみ)どの――!」
 と、一眼で作爺さんの素性を看破したのも、この泰軒居士でした。
 それから、まもなく。
 竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない真夜中のこと。
「くせのわるいこの濡れ燕の斬ッ尖、どこへとんでいくか知れねえから、汝(うぬ)らッ! そのつもりで来いよっ!」
 おめきながら左膳は、こけ猿の箱包みをかかえ、チョビ安を従えて、この材木町(ざいもくちょう)の通りを駒形のほうへと、すがりつく黒影を白刃に払いつつ、行く。
 せまい河原の乱闘はめんどうと、追いつ追われつここまで来たところ。今宵の襲撃者は、麻布(あざぶ)林念寺(りんねんじ)前の上屋敷からくりだしてきた、高大之進の一隊、ちょいと手ごわいんです。
 子を取ろ子とろ……というんで、壺よりも、まずチョビ安をおさえてしまえ、という戦法。左膳が斬りむすんでいるまに、チョビ安が追われて逃げこんだのが、偶然にも、高麗屋敷(こうらいやしき)は尺取り横町の、あの櫛巻お藤の隠れ家だった。折りあしく、そこにとぐろをまいていた鼓の与吉に、大声に戸外(そと)へどなられて、チョビ安、押しこんで来た黒覆面の連中に、難なくつかまってしまった。ほどなく左膳もこの家に現われたが、見るとチョビ安は、畳におさえつけられて、咽喉に刀を擬せられている。
「一、二、三、四――」
 十まで数えるうちに、左膳のかかえこんでいる壺を渡さなければ、ズブリ! 突き刺すというんだ。
「八、九――!」
 かわいいチョビ安の命には、換えられぬ。
「待った! しかたがねえ」
 左膳があきらめて引きわたした壺の木箱を、高大之進の一団、おっとりかこんで、その場であけてみると! 思いきや、ころがりでたのは、真(ま)っ黒々(くろぐろ)な破(わ)れ鍋(なべ)が一つ!
 しかも、達者な筆で「ありがたく頂戴(ちょうだい)」と書いた紙きれがついて、
 敵も味方も、これにはあいた口がふさがりません。壺はいつのまにか、河原の小屋から見事に盗み出されていたんだ。それとも知らず左膳は、いつからか、この掏(す)りかえられた鍋を、今まで後生大事にまもってきたとは!
 上には上。何者の仕業? サア、こうなると、こけ猿はどこへいったか、皆目(かいもく)行方がわからない。
 高大之進の一行は、骨折り損のくたびれ儲け。これじゃア喧嘩にもならない。ブツクサ言って引きあげて行く。だが、その夜からだ、左膳、お藤姐御、チョビ安の三人が、この長屋に奇態なトリオをつくって、おもむろに、こけ猿奪還の秘術をめぐらすことになったのは……。
 日光御修復(ごしゅうふく)の日は、いやでも近づく。茶壺やいずこ?
 物語はこれより大潮に乗って、一路、怒濤重畳(どとうちょうじょう)の彼岸(ひがん)をさしてすすみます。

   女暫(おんなしばらく)


       一

 源三郎、ギリッと歯を噛んだ。
 刀身にまつわりつく濡れた真綿から――ポタリ、ポタリとしたたり落ちる水が、気味わるく手を伝わって、肘へ、二の腕へ……。
 この一瞬間の、寂然(じゃくねん)たるあたりのたたずまいは、さながら久遠(くおん)へつづくものと思われました。
 むろんこれには、独特の技術を要するのです。
 長い真綿を水につけて、相手の刀へ投げかける。それはキリキリッと鎖のように捲きついて、いつかな離れればこそ――。
「おいそれとは取れぬもの……まず、そのお刀は、お捨て召され」
 いま、隅のほうから峰丹波、こう冷笑を走らせたも、道理です。
 十方不知火流(じっぽうしらぬいりゅう)の秘伝中の秘伝、奥の奥の奥の、そのまた奥の、ずっと奥の――どこまでいっても限(き)りがございません……奥の手。
 たいへんやかましいんですなア、この刀絡め。
「ヒ、卑怯な!」
 急にひっそりとしたなかに、火を噴かんず勢いの暴れン坊の呻きが、聞こえた。
 しかし。
 勢いばかりよくったって、綿に包まれた刀……蒲団を着た刀なんて、およそ役にたたない。
 ふとん着て寝たる姿や東山。しごくノンビリとしちまって、この乱刃の場には、縁の遠い代物(しろもの)だ。
 呆然と立ちつくした源三郎の耳に、この時、米が煮えるように、クックッと四方から漂(ただよ)ってきた音――それは、等々力(とどろき)十内(ない)、岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)ら、司馬道場のやつらの、呼吸をつめた笑い声でありました。
 闇の部屋にあって、源三郎は、絵巻物をくりひろげるようにハッキリと、ここにたちいたった径路を見た。わが身にせまる危機を感じた。全身に、汗の湧くのをおぼえた。
 本郷の、道場へおしかけて、がんばりあいをつづけていたのだが、婿とは名のみ、萩乃とはまだ他人の仲です。若さと力を持ち扱った今朝のことだ。急に思いついて、遠乗りに出たのだ。
 それも。
 江戸の地理は暗いといった自分に、墨堤(ぼくてい)へ――とすすめて、この方面へ馬の鼻を向けたのは、門之丞だった。
 考えてみると、あの門之丞がくさい。
 途中から雨になって、引っ返そうとしたのを、先に立って、無理にここへ案内して来たのも、門之丞……いよいよ、怪しいのは門之丞だ。
 ここは、向島(むこうじま)を行きつくした、客人大権現(まろうどだいごんげん)の森蔭、お蓮さまの寮です。こんなところに、司馬家の別荘があろうとは、源三郎、知らなかった。ましてや今、お蓮様、丹波の一党、十五人ほどの腕達者が、ひそかにここへ来ていようとは! 近ごろ道場に姿の見えないことだけは、うすうす感づいていたけれども。
 門之丞はいつのまにか敵と内通して、はじめから計画的に、若殿源三郎をこの窮地におとしいれたに相違ない。その門之丞は、さっき、しきりに源三郎に心を残す玄心斎、谷大八の二人とともに、どこか控えの間へ招(しょう)じ去られたきり、なんの音沙汰もない。寮の内は、森閑として、
 とっさに、これだけのきょう一日の追憶が、源三郎の脳裡(あたま)を走ったのでした。
 はかられたと知った源三、血走る声で、
「爺(じい)!、安積(あさか)の爺! ダ、大八ッ――!」
 叫んだ刹那です。
「筑紫(つくし)の不知火(しらぬい)は、闇黒(やみ)にあって初めて光るのじゃっ!」
 岩淵達之助の一刀が、右から躍って……。

       二

 岩淵の達ちゃん……なんて、心やすく言ってもらいますまい。
 岩淵達之助、この人は、泣く子もだまるといわれた怖いオッサンで、本郷界隈では、だだッ児(こ)の虫封じに、しばしばその名を用いられた。これじゃアまるで、小児科の適薬みたようです。
 冗談はサテおき。
 司馬道場では峰丹波から数えて二番目の使い手。
 いったい、物語に出てくる女といえば、こいつがそろいもそろって、みんな美人。剣術つかいは、出てくるのも出てくるのも、かたっぱしから剣豪だらけで、まことに恐れ入りますが、しかし、考えてみると、これでなくっちゃア話になりません。弱い剣士なんてエのは、場(ば)ちがいです。あつかわないんです。
 剣豪のうえに大(だい)剣豪あり、そのまた上に大々(だいだい)剣豪があるから、物事がこんでくる。
 で、今。
 筑紫の不知火は闇に光る――なんかと、ひどく乙(おつ)なことを言って、畳を踏みきる跫音(あしおと)すごく、源三郎に斬りかかってきたのが、この岩淵達之助だ。
 人の刀を使えなくしておいてから、切るたんかでは、たかが知れている。
 はたして。
 ボンヤリ立っていた源三郎だったが、太刀風三寸にして剣気を察した彼、フイと身をそらしたから、はずみをくらった岩淵達之助は、刀を抱いたまま部屋の向うへスッ飛んで、どすん! 御丁寧に襖(ふすま)とでも接吻したらしい音。なるほど、不知火のような刀影が、見事闇黒(やみ)に白線をえがいて走りました。
 これだから、剣豪もあんまり当てにならない。
 といって、この醜態で達之助をわらうことはできないのだ。なんと言っても、相手は伊賀の暴れン坊である。刀は絡(から)められても、腕は絡(から)められない。
 真綿のへばりついた長剣を、依然として下々段にかまえ、壁を背に、スーッと静かに伸び立っている。
 柳生流でいう、不破(ふわ)の関守(せきもり)……。
 やっぱり、この構えだけは破れない――と見えたのは、ホンの二、三秒(びょう)でありました。なにしろ、この恐ろしい敵の手にある刀は、もう刀じゃなく、ステッキのようになってるんだから、そう用心することはありません。不知火の連中、一時に気が強くなった。
 もりあがる殺気に、四方のやみを裂いて数本の刃線が、一気に源三郎をおそった。呶(ど)号する峰丹波。同士討ちを注意する、あわただしい等々力十内の声……入りみだれる跫音と、胆にしみる気合いと。右から左から、前からうしろから、ただ一人を斬りに斬った。
「えェイッ! これでもかっ!」
「さ、この一太刀で冥途(めいど)へ行けっ!」
「これが引導だっ!」
「おいっ、とびちがえては危い。一人ずつかかれっ!」
「ア痛(いた)っ! 誰かの斬っ尖が、おれの指にさわったぞ」
 だらしのないことを言うやつもある。黒闇闇裡(こくあんあんり)――聞こえるのは、不知火連のかけ声だけ、閃めくのはその一党の剣光のみ。
 源三郎は、音(ね)もたてない。この刀林の下、いかな彼もたまるまい。すでに膾(なます)にきざまれたに相違ないのだ。
 と! この時です。廊下(ろうか)のほうからこの部屋へ、ぽっと、一道(どう)の明りがさしてきて、
「まあ、お前たち、しばらくお待ちったら! しばらく――」
 意外、この場の留め女が、お蓮様とは!

       三

 ただでは刃向かえぬ手ごわいやつをやっと謀略でおびきよせて、せっかく殺しかかったこの仕事なかばに、自分でここへ出て来て止めるとは!
 と、丹波をはじめ一同は、いぶかりながらも、とにかく主筋(しゅすじ)となっているお蓮さまのお声がかりだから、みんな不平そうに刀を引いた。
 でも、内心、仕事なかばどころか、もう完全に仕事は終わったと思ったのです。
 みなの剣は血にぬらつき、たしかに、返り血らしい生あたたかいものをあびた覚えもある。
 いま、部屋の中に罩(こ)もっているのは、むっと咽(む)せっかえるような、鉄錆(てつさび)に似た人血のにおい……一党は、手さえ血でべとべとしている。
 ここへ今、灯がはいれば、たたみには深紅(しんく)の池が溜って、みじめに変わりはてた伊賀の若様の姿が、展開されるだろう――。
 そう思って、早く燈火を歓迎するこころ。
 一同、シンと声をのんで、明りの近づくほうをふり返りました。
「まあ、しばらく、しばらく、お待ち……」
 お蓮さまはあたふたと、さやさやと衣擦(きぬず)れの音をさせてはいってきた。
「なんですねえ、ドタバタと、騒々しい!」
 さっき宵の口に、源三郎の夕餉(ゆうげ)に給仕に出た少年が、先に立って手燭(てしょく)をささげている。
 その光に。
 さッと室内の状(さま)が、うかび出た。
 とたんに。
 峰丹波、等々力十内、岩淵達之助、ほか十数名。
「ヤヤッ! これはっ――!」
 驚愕の合唱をあげた。
 お蓮様は? と見ると、柳の眉の青い剃りあとを、八の字に、美しい顔をひきゆがめたなり、声もなく立ちすくんでいます。
 無理もない。
 見るがいい!……室のまん中に全身朱(あけ)にまみれて長くなっているのは、不知火門弟の若い一人! 仲間じゅうでよってたかって斬りさいなみ、突きまくった刀痕は、頸、肩、背といたるところ、柘榴(ざくろ)のごとく口をあけて、まるで、蜂の巣のよう――!
「ウーム! あやまって、とんだ惨(むご)いことをいたした……」
 悄然(しょうぜん)たる丹波の言葉も、誰の耳にもはいらないらしく、一同、刀をさげ、頭(こうべ)をたれて、黙々とその無残きわまる同志の死体を、見おろすばかり、頓(と)みには声も出ません。
 こんなこととは、誰(だれ)不知火(しらぬい)。
 道理で、なんだか手応(てごた)えが弱いと思った。
「迷わず成仏(じょうぶつ)――」
 なんかと、かってな奴があったもので、一人が片手を立てて拝んだりしたが、こいつは迷うなったって、無理です。これじゃア成仏できますまい。
 足もとにばかり気をとられて、一同がポカンとしている時、
「ヤヤ! じゃ、かんじんの源三郎は? どこに?」
 と気がついたのは、お蓮さまだ。見まわすまでもなく、広くもない座敷、片隅へ行ったお蓮様の口から、たちまち、調子(ちょうし)ッぱずれのおどろきの叫びが逃げた。
 伊賀の源三郎、どこへも行きはしない。
 ちゃんと床の間へあがりこんで、山水(さんすい)の軸(じく)の前にユッタリ腰を下ろし、高見の見物とばかり、膝ッ小僧をだいているではないか!
 ニヤニヤッと笑ったものだ。
「もう出てもよいかナ」

   思案(しあん)のほか


       一

 チャリン! 揚(あ)げ幕(まく)をはねて花道から、しばらく……しばらくと現われる、伊達姿女暫(だてすがたおんなしばらく)。
 この留め女の役を買って、この場へ飛びだしたお蓮様の気持たるや、さっぱりわかりません。
 いや、お蓮さまにかぎらず、だいたい女というものは、そう簡単に割りきれる代物(しろもの)ではないんで。
 女性は男性にとって、永遠の謎でございます。その謎のところがまた、男をひくのかも知れない。
 道場(どうじょう)横領(おうりょう)の邪魔もの、源三郎を亡きものにしようと、ああして策謀の末、やっとのことで今しとめようというどたんばへ、こうして止めにはいったお蓮さまの心理。
 恋している男を、いざとなってみると、とても殺せなかったのかも知れません。
 また。
 自分に素気(すげ)ない源三郎に、この恩を売っておいて、うんと言わせようのこんたんかもしれない。
 どっちにしろ、源三郎としては今の場合、一難去ったわけですから、その細長い、蒼白い顔をニヤッと笑わせて、のこのこ床の間からおりてきた。
 刀の真綿はすでにとりさって、ピタリ鞘におさめ、なにごともなかったような落とし差し……大きくふところ手をして、ユッタリとした態度(ものごし)です。伊賀の暴れン坊、女にさわがれるのも無理はない。じつに、見せたいような男っ振りでした。
 丹波の一味はあっけにとられ、刀をさげて、遠巻きに立って眺めるのみ――もう源三郎に斬りつける勇気とてもございません。
 血みどろの死骸を見おろした伊賀の若様、ちょっと歩をとめて、
「身がわりか」
 と言った。ふところの手を襟元からのぞかせて、顎(あご)をなでながら、いささか憮然(ぶぜん)たる面(おも)もち。
 と、血のとんでいる畳に、白足袋(しろたび)[#「白足袋(しろたび)」は底本では「白(しろ)足袋(たび)」]の爪立ち、さっと部屋を出ていった。
「源様、どうぞこちらへ。ちょっとお話し申しあげたいことが……」
 お蓮さまは、あわてて後を追う。前髪立ちの少年が、手燭をかかげて急いでつづけば、あおりをくらった灯はゆらゆらとゆらいで、壁の人影が大きくもつれる。
 バタバタと三人の跫音が、廊下を遠ざかって行きます。
 あとに残された一同、あんまりいい気もちはいたしません。
「なんだ、馬鹿にしておるではござらぬか。殺すはずのやつを助けて、アノ源さま、どうぞこちらへ――か。畜生ッ!」
「おのおの方はお気がつかれたかどうかしらぬが、お蓮の方は眼をトロンとさせて、彼奴(きゃつ)を眺めておられたぞ。チエッ、わしゃつらいテ」
 なんかとガヤガヤやっている時、お蓮さまは、悠然たる源三郎の手を持ち添えぬばかりに、やがて案内してきたのは、細い渡廊(わたり)をへだてた奥庭の離庵(はなれ)です。
 雲のどこかに月があるのか、この茶庭の敷き松葉を、一本一本照らしだしている。
「あの、もうよいから、灯りはそこへ置いて、お前はあっちへ行っていや」
 とお蓮様、にらむようにして小姓を去らせた。
 源三郎は突ったったまま、
「安積玄心斎、谷大八、門之丞の三人は、いかがいたしましたろう」
 ぽつりと、きいた。

       二

 お蓮様は、その問いを無視して、白いきゃしゃな手をあげて、自分の前の畳をぽんとたたき、
「ま、おすわりになったらいかが? 源さま」
 源三郎は、依然としてふところ手。
 いま、雨と降る白刃の下をくぐった人とも思えぬ静かさで、
「供の三人は、どこにおりますか、それを伺いたい」
 言いながら、しょうことなしに、そこに片膝ついた。
 まったく、不思議。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、どこへつれさられたのやら、この広くもなさそうな寮のうちは森(しん)として、たとえいくら間(ま)をへだてていても、今の斬合いが、三人の耳へはいらないはずはないのだけれど。
 真夜中の空気は、凝(こ)って、そよとの風もございません。垣根のそとは、客人大権現(まろうどだいごんげん)の杉林。陰々(いんいん)たる幹をぬって、夜眼にもほのかに見えるのは、月を浮かべた遠い稲田の水あかりです。
 その、田のなかの細道を、提灯(ちょうちん)が一つ揺れていくのは、どこへいそぐ夜駕籠か。やがてそれも、森かげへのまれた。
 フと、くッくッと咽喉(のど)のつまる声がして、源三郎はギョッとして[#「ギョッとして」は底本では「ギヨッとして」]お蓮様を見かえりました。
 顔をおおって、お蓮さまは泣いている。小むすめのように、両の袂(たもと)で顔をかくし、身も世もなく肩をきざませているお蓮様――。
 と、その声がだんだん高くなって、お蓮さまはホホホホホと笑いだした。
 泣いているんじゃアない。はじめっから笑っていたんだ。
「ほほほほほ、まあ! 源三郎さんのまじめな顔!」
 チラと膝先をみだして、擦りよるお蓮様のからだから、においこぼれる年増女の香が、むっとばかり源三郎の鼻をくすぐります。
「ねえ、源さま。なるほど、お亡くなりになった先生は、萩乃の父ですけれど、それなら、いくら後添えでも、このわたしは彼娘(あれ)の母でございますよ」
 いかにもそれに相違ないから、源三郎はだまっていると、お蓮さまはそれにいきおいを得て、
「それなら、いくら父だけが一人で、あなたを萩乃のお婿さまにきめて死んでいったところで、この母のわたしが不承知なら、このお話は成りたたないじゃアありませんか」
 この辺から、お蓮様の論理は、そろそろあやしくなって、
「いつまでたったって、萩乃はあなたのお嫁じゃございませんし、道場もあなたのものではないのですよ、源様」
 ほっそりした指が、小蛇のように、熱っぽく源三郎の手へからみついてくる。
「あなただって、何も、萩乃が好きのどうのというのではござんすまい。いつまで意地っぱりをおつづけ遊ばすおつもり? ほほほ、いいかげんにするものですよ、源様。そんなにあなたが、司馬の道場の主(あるじ)になりたいのだったら、あらためて、このわたしのところへお婿入りして……ネ、わかったでしょう?」
 道ならぬ恋の情火に、源三郎は思わず、一、二尺あとずさりした。
「母上!」
 と相手の言葉が、この場をそのまま、身をかばう武器です。

       三

 刀で殺さずに、色で殺そうというのでしょう。
 剣にはどんなに強い男でも、媚びには弱いものです。
 イヤ、男を相手にして強い男に限って、女には手もなくもろいのがつねだ。
 千軍万馬のお蓮様、そこらの呼吸(こきゅう)をよっく心得ている。
 だが、なんぼなんでも娘となっている萩乃の婿、いくらまだ名ばかりの婿でも、その源三郎にこうして言いよるとは、これはお蓮さまも、決して術の策のというのではございません。
 真実(しんじつ)、事実(じじつ)、実際(じっさい)、まったく、断然(だんぜん)、俄然(がぜん)……ナニ、そんなに力に入れなくてもよろしい、このお蓮様、ほんとに伊賀の暴れン坊にまいっているんだ。
 男がよくて、腕がたって、気性(きしょう)が単純で、むかっ腹がつよくて、かなり不良で、やせぎすで、背が高くて、しじゅう蒼み走った顔をしていて、すこし吃(ども)りで、女なんど洟(はな)もひっかけないで、すぐ人をブッタ斬る青年……こういう男には、女は片っ端から恋したものです。
 むかしのことだ。今はどうか知らない。
 が、今も昔も変わらぬ真理は、恋は思案のほか――お蓮さまは、モウモウ源三郎に夢中(むちゅう)なんです。
 立とうとする源三郎へ、背をもたせかけて、うしろざまに突いた手で、男の裾をおさえました。
「ほんに気の強いお人とは、源さま、おまはんのことざます」
 そんな下品なことは言いませんが、ぐっと恨みをこめて見上げるまなざしには、まさに千鈞(きん)の重みが加わって、大象(だいぞう)をさえつなぐといわれる女髪(にょはつ)一筋、伊賀の若様、起(た)つに起てない。
 剣難は去ったが、この女難はにがてです。
 もっとも、女にかけては、剣術以上に名うての源様のことだから、たいがいの女におどろくんじゃあありませんが、このお蓮さまだけは、どう考えたって、そんな義理あいのものじゃアない。
 第二の危機……。
「母上としたことが、チチ、近ごろもってむたいな仰せ。げ、源三郎、迷惑しごくに存ずる」
 角ばった口上――しかも、この場合母上という呼びかけは、熱湯に水を注ぐよう、まことにお座のさめた言葉ですが、お蓮様は動じるけしきもなく、
「わたしの言うことをきけば、いいことばかりですよ、源さま」
「ハテ、いいことばかりとは?」
「あなたは何か、命にかけて、探しているものがおありでしょう」
「う、うん」
 源三郎は、顔色を騒がして、
「ソ、それは、母上もかの丹波めも、同じ命にかけてさがしておるものでござろう」
「さ、そのこけ猿の茶壺……」
「ウン、そのこけ猿の茶壺は――?」
 二人はいつのまにか、息を凝(こ)らしてみつめあっている。
「ほほほほほ、そのこけ猿ですが……当方ではもう探しておりません」
「ナナ、何? では、探索をうちきられたか」
「こっちの手にはいりましたから、もうさがす要はございませんもの」
「何イッ! こ、こけ猿を入手したっ!」
「はい。今この寮にございます。いいえ、この部屋にあります」
 と、つと立ちあがったお蓮様の手が、床わきの違(ちが)い棚(だな)の地袋を、さっと開くと!
 夢にもわすれないこけ猿が、チャンとおさまって――源三郎、眼をこすりました。

       四

 思いきや、われ人ともに狂気のようにねらっているこけ猿の茶壺が、いつのまにかこの一味の手にはいって、今この部屋の、この戸棚のなかにしまってあろうとは!
 源三郎は、眼をしばたたきました。と見こう見するまでもなく、古びた桐の木箱を鬱金(うこん)の風呂敷につつんであるのは、まぎれもないこけ猿だ。
「ド、ド、どうしてこの壺がここに――?」
 おめいた源三郎、走りよろうとした。
 と、いちはやくお蓮さまの白い手が灯にひらめいて、この地ぶくろの戸をしめていた。
 そして、はばむがごとく、うしろざまに手をひろげて、ピタリその前にすわったお蓮様。
「ほほほほほ、今になってそんなにびっくりなさるなんて、源さまもよっぽど暢気(のんき)ですよ。なんとかいう一ぽん腕の浪人が、橋の下の乞食小屋に、後生大事に守っていたのを、丹波が人をやって、こっそり摸(す)りかえさせたんです」
 寸分違わない風呂敷と木箱をつくり、その箱の中には、破(わ)れ鍋(なべ)一個と「ありがたく頂戴(ちょうだい)」と書いたあの一枚の紙片……左膳の小屋からほんものを盗みだし、かわりにこれを置いたのは、さては、峰丹波の仕業であったのか。
 それとも知らず左膳は、あの高大之進の一党が斬(き)り込んだ時、命を賭して破れ鍋をかかえて、走ったとは、左膳一代の不覚――お藤の家でチョビ安をおさえられて、それと交換に、おとなしく大之進方へ渡した箱の中から、衆人環視(かんし)のなかに出てきたのは、この鍋と、ありがたく頂戴の紙きれであった。
 源三郎は、そんないきさつは知らないけれど、ほんもののこけ猿は、とうの昔にここにあったのかと、顔いろを変えてお蓮様につめより、
「さ、渡されい。その壺は、品川の泊りにおいて拙者が紛失いたしたるもの。正当の所有者は、いうまでもなく余である。おわたしあって然るべしと存ずる」
 ふところ手のまま立って、じっとお蓮さまを見おろしながら、退(の)けっ! という意(こころ)……懐中で肘(ひじ)を振れば、片袖がユサユサとゆれる。
 お蓮様は笑って、
「そうですとも。この壺は、あなたのですとも。ですから、お返ししないとは申しませんよ」
「うむ、では穏便にお返しくださるか」
「はい。お渡ししましょう。でも、それには条件がございます、たった一つ」
「条件? ただ一つの、とはまた、どういう――?」
「はい」
 とお蓮さまは恥も見得もうちわすれた、真剣な顔で、
「女子(おなご)の口から言いだしたこと。わたしも、ひっこみがつきませぬ。源様、そうお堅(かた)いことをおっしゃらずとも、よろしいではございませんか」
 眼をもやして、すがりついてくる。源三郎は一歩さがって、ひややかな笑いに口をゆがめ、
「いや、これは伊賀の源三郎、あまりに野暮(やぼ)でござった。必ずともにあなたの女をお立て申すにつき、ササ、壺をこちらへ……」
「では、あの、わたしの言うことを――」
「うむ。きっと女を立てて進ぜるによって、早く壺を……」
 恋は莫連者(ばくれんもの)をも少女にする。頬に紅葉をちらしたお蓮様が、
「おだましになると、ききませんよ」
 キュッと媚(こ)びをふくめて、源三郎を見上げながら、地袋の戸をあけて壺をとりだした瞬間! 腰をひねって抜きおとした源三郎の長剣、手に白い光が流れて、バサッ! 異様な音とともに畳を打ったのは、お蓮様の首……ではない。つややかな切り髪であった。
「これで女が立ち申した。あなたが女を立てるには、故先生の手前、この一途あるのみ、ハッハッハ」
 源三郎の哄笑と同時に、壺の箱は、もはやかれの小わきに抱えられていた。

       五

「もはや何刻(なんどき)であろうの?」
 大刀を抱いて、草のなかにしゃがんだ安積玄心斎は、そういって、かたわらの谷大八をかえりみた。
「さア、月のかたむきぐあいで見ると――」
 と、大八の首も、月のようにかたむいて、考えにおちた。
 客人大権現(まろうどだいごんげん)の森蔭。
 お蓮さまの寮とは、反対側のこの小藪(やぶ)のなかです。前は、ちょっとした草原になっていて、多人数の斬りあいには、絶好の場処。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、誰が言いだしたともなく、さっきコッソリ寮を抜け出て、この灌木(かんぼく)のかげに身をひそめ、眼前の草原に人影のあらわれるのを、いまか今かと待っているのだ。
 それというのが。
 とめてもきかずに、若君源三郎が門之丞を案内にたて、駒(こま)をいそがせてあのお蓮さまの寮へ行き着いたのは、まだ宵の口であった。
 まもなく……。
 源三郎には馳走の膳がすえられ同時に、三人の供の者は、不安のこころを残しつつ、別室へさがって、これも夕餉の箸をとることになったが――。
 その時、三人のいる控えの間の襖のそとに、峰丹波をはじめ二、三人の声で、容易ならぬひそひそ話。
「では、なにか事をかまえて、この向うの野原まで源三郎どのをおびきだし……」
「そうじゃ、多数をもって一人をかこみ、じゃまを入れずに斬り伏せるには、あの草原こそ究竟(くっきょう)、足場はよし、味方は地理を心得ておるしのう――」
「雨後の月見にでもことよせて、お蓮の方にひきだしてもらうのじゃナ」
「なにしろ相手は、名にしおう伊賀の暴れン坊じゃで、おのおの方、手抜かりなく――」
 と、コソコソ耳こすりする声が、唐紙を通して三人の神経へ、ピンとひびいた。
 門之丞のほか、これが策略だと知る者は、一人もありません。
 こうして、聞こえよがしに知らしておけば、玄心斎、大八らは、先をこす気で寮を出て、その付近に忍んで待つに相違ない。腕っ節の強い供の者を出してやったあとで、源三郎を討ちとろうという計画だったのだ。
 敵に内通している門之丞は、はじめから委細承知で、もっとも顔に動いているので。
 この内密話を聞いた玄心斎と大八は、食事もそこそこ、門之丞を加えて三人、すぐさまソッと寮をあとにして、さっきからこの藪(やぶ)かげに、夜露にうたれ、月に濡れて、かくは乱闘の開始を待っているのだけれど……。
 いつまでたっても、人っ子ひとり出てこない。
 手ごわい玄心斎、大八らは、計略をもって遠ざけた。ここまでは、丹波の一味にとって、すべて順調にはこんだのだが――。
 さてこそ。
 さっき室内の乱刃で、源三郎がいくら呼ばわっても、玄心斎も大八も、ウンともスンとも言わなかったわけ。こんな遠いところにがんばっているんだもの。
「どうしたというのであろう、もうやって来そうなものだが」
 ふたたび、師範代玄心斎の言葉に、
「なにか手違いでもあったのでは……」
 と、あたりを見まわした大八、大声に、
「ヤヤッ! おらん! 門之丞がおらんぞ、門之丞が!」

       六

 最初、源三郎の一行が、江戸入りをして品川へ着いた夜、命を奉じて一人駈け抜けて、妻恋坂の道場へ到着の挨拶に走ったのが、この門之丞でした。あの時、彼は、司馬家の重役が来て相当の応対をするどころか、伊賀の柳生源三郎など、そんな者は知らぬと、玄関番が剣もほろろに追いかえしたと火のように激昂して品川の本陣へ立ち帰り、復命したものだったが……。
 その後も。
 何かにつけ門之丞は、源三郎の身辺近く仕えて、あの、不知火銭をつかんで源三郎が、故先生の御焼香の席へ、押し通ったときも、かれ門之丞、大きな一役をつとめたし、じっさい玄心斎老人、谷大八とともに、源三郎側近の三羽烏だったのに――。
 イヤ、人の心ほど、当てにならないものはありません。
 恋が思案のほかなら、人のこころも思案のほかです。コロコロコロロと、しょっちゅうころがっているから、それでこころというのだなんて、昔の心学の先生などが、横山町(よこやまちょう)の質屋の路地奥なんかに居(きょ)をかまえて、オホン! とばかり、熊さん八(はっつ)あんや、道楽者の若旦那相手に説いたものですが、まったくそうかもしれません。きょうの味方もあすの敵となる。きょうの敵も、あしたは味方……その人心機微の間に処してゆくところにこそ、人の世に生きていく無限のおもしろみがあるのでございましょう。
 しかし、むろん、しじゅう転がっているこころなんてものは、大丈夫の鉄石心、磐石心ではない。
 いやどうも、話がわきみちへそれて恐れ入ります。
 ところで、この門之丞の心が、それこそチョイト門からころがりでて、とほうもない方向へ走りだし、いまこの丹波の一党に加担するようになったのは、あの十方斎先生のお葬式の日からでした。
 と言うのは。
 かれ門之丞、あの時主君源三郎にくっついて、棺を安置した奥の間へ踏みこんだのでしたが、とたんに彼は、白の葬衣をまとって上座にさしうつむく萩乃の姿を眼にして、生まれてはじめて、ハッと、電気にうたれたように感じたのだ。
 雨にうたれる秋海棠(しゅうかいどう)……なんてのは古い。
 激情の暴風雨(あらし)にもまれて、かすかに息づくアマリリス――こいつは、にきびの作文みたいで、いやですネ。
 とにかく、なんともいえないんです、萩乃さまの美しさ、いじらしさといったら。
 ふたたび、恋は思案のほか……。
 脇本門之丞、当年とって二十と六歳。萩乃様を一眼見て、背骨がゾクッと総毛走った拍子に、スーッと恋風をひきこんじまった。
「アア、世の中には、こんな女もいたのか――」
 と、それからというものは門之丞、フワアッとしちまって、はたの者がなにをいっても、てんで用が足りない……夢遊状態(むゆうじょうたい)。
 この門之丞という青年は、源三郎をすこしみっともなく、色を黒くしたようながらで、剣は相当たって、まんざらでもない男なんです。
 朝夕道場に起き伏ししているうちに、チラチラと萩乃を遠見する機会もおおい。層一層、想いはつのる一方で、ついには、
「すまぬことながら、わが君源三郎様さえ亡き者にすれば――」
 とんでもない野郎で、ひそかに、こんなことまで思うようになった。いわゆる、魔がさしたというんでしょうなア。
 で……源三郎を遠乗りにつれだしたのも、この門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、丹波らとはかって、あの隣室のひそひそ話を玄心斎、大八に聞かせたのもこの門之丞。
 いま、その門之丞は――。

   帯(おび)は空解(そらど)け


       一

「オイッ、駕籠屋ッ!」
 すこしおそいが、大引(おおび)け過ぎのこぼれを拾いに、吉原(なか)へでもかせぎに行こうと、今し本所(ほんじょ)のほうから、吾妻橋の袂へさしかかっていた一梃(ちょう)の辻駕籠。
 こう、闇に声を聞いて、ピタリとまりました。
 今なら、コンクリートの遊歩道路に、向島(むこうじま)へいそぐ深夜の自動車がびゅんびゅんうなって、すぐ前はモダンな公園……というところですが、昔あの辺は、殺し場の書割(かきわり)めいた、ちょっとものすごいところで、むこう側(がわ)は、花川戸(はながわと)から山之宿(やまのしゅく)へかけての家々の洩れ灯が、金砂子(きんすなご)のように、チカチカまたたいている。
 こっちは、橋のすぐとっつきが、中(なか)の郷(ごう)瓦町(かわらまち)、その前が細川能登守(ほそかわのとのかみ)、松平越前様(まつだいらえちぜんさま)の門、どっちもこれがお下屋敷でございまして、右手、源兵衛橋(げんべえばし)を渡った向うに、黒々と押し黙る木々は、水戸様(みとさま)の同じくお下屋敷。夜眼にも白い海鼠塀(なまこべい)が、何町というほどズウッとつづいているのが、道のはずれに遠く見える。
 中をつないで、七十六間(けん)のあづま橋。
 真夜中の江戸は、うそのようにヒッソリ閑(かん)としています。折りから満潮(みちしお)とみえまして、ザブーリ、ザブリ、橋杭(ぐい)を洗う水音のみ、寒々とさえわたって、杭の根に、真白い水の花がくだけ散っている。
 ギイと駕籠の底を軋(きし)ませて、地面におろした先棒が、息杖によりかかって、
「ヘイ。駕籠の御用で――」
 かたわらの暗黒の奥を、すかし見た。
 ノソリと現われたのは、野狩りのかえりででもあろうか、たっつけ袴(ばかま)をはいた若い侍で、
「本郷までやれ」
 顎をしゃくったときに、雲間を流れる月かげに、照らしだされたその顔を見ると、息せききって走ってきたふうで、大たぶさの根がゆるみ、面色蒼褪(あおざ)めているのは、あながち月の隈取(くまど)りばかりではないらしい。
 新刀(あらみ)試しの辻斬り? よくあるやつです。
 そうではないにしても、あまり気味のよいお客様じゃアないから、先棒(さきぼう)と後棒(あとぼう)は、ちらと眼で、用心の合図をかわしつつ、
「本郷はどちらまでで?」
「妻恋坂(つまこいざか)だ。あそこの司馬道場、存じておるであろう。急いでやれ」
「ナアおい、相棒、妻恋坂だとよ。へっ、いいかげん長丁場(ながちょうば)だなア」
「ねえ、旦那。あっしらア戻り駕籠で、これから巣へけえって、一ぺえやって寝ちまおうと思ってたところなんだ。けえりが半(はん)ちくになりやすから、思い入れはずんでおくんなせえ」
「もう電車はないんですから、つけめですよ。だいぶガソリンもくいますから、七十銭やってください」
 そんなことは言わない。
「賃銀はいくらでもとらせる。酒代(さかて)も存分につかわそうほどに、めちゃくちゃにいそいでくれっ!」
「オーケー、さァ。お乗んなせえ」
 かご屋が駕籠の中へ手を入れて縞の丹波木綿(たんばもめん)の小座蒲団を、ちょいと裏返しする。いい客と見て、これがまァお愛想。特別サービス。
 ギシギシ揺れて、最大急行でスッとんでゆく駕籠のなかで、眼をつぶり、腕をこまぬいた脇本門之丞、心中に考えている。
「あの森かげの小藪(やぶ)に、玄心斎のおやじと大八めを、スッポかしてすりぬけて来たのだが、今ごろはこのおれを探して、さぞ立い騒いでいるだろうなア」
 たちまちその心の眼に浮かんでくるのは、あの、命も何もいらぬと思うほど恋しい、萩乃さまのおもかげ……。
 妻恋坂――妻恋坂、この名は、門之丞にとって、ゆかりのないものとは思われなかった。
 駕籠はそのつまこい坂をさして、一散に……。

       二

 いま、はるか彼方(かなた)の縁の雨戸に、コトリと、外から人でもさわるような物音がして、萩乃は、びくっと首をあげた。
 眉をよせて、遠くを聴く顔。
 その、艶にうつくしいほおに、遠山の霞(かすみ)をえがいた朱骨絹(しゅぼねきぬ)ぼんぼりの灯が、チロチロと、夢のように這っています。
 片側の襖は、これはちとこの部屋に似つかわしからぬ、荒磯に怒濤のくだける景で、これにはすこしわけがある。いくら女でも、剣家の娘だから、常住、雄渾豪快な気を養わねばならぬといって、亡き父十方斎[#「十方斎」は底本では「十万斎」]が、当時名ある画家に委嘱(いしょく)して、この会心の筆をふるってもらったもの。いわば、故先生の家庭情操教育の一つのあらわれ。
 その父、今やなし、ああ。
 でも、優しい一方とのみみえる萩乃の性質(ひととなり)に、どこか凜(りん)として冒すべからざるところの仄(ほの)見えるのは、この、生前先生ののぞまれたとおりに、勇烈確乎(かっこ)たる大精神が、この荒磯の襖とともに、その心栄(こころば)えに宿っているのでありましょうか。いや、萩乃ばかりでなく、ふだんはそうは見えなくても、日本婦人はみんな、底の底のほうに、こういった何かを持っているのです。日本の女はすべて、このむかしの武家の女性の、やさしい中にも強いものをなくしちゃアいけない。武士道は決して男の占有物ではないのです。
 ここは、司馬家の奥まった一棟、令嬢萩乃の寝間だ。
 文字どおりの深窓――しかも夜中だから、めったに人のうかがい知ることのできない場所だが、そこは講談の役得で、便利なもの。どこへでもノコノコはいりこんでいく。
 室(へや)の中央に、秋の七草を染(そ)め出した友禅(ゆうぜん)ちりめんの夜のものが、こんもりと高く敷いてあるが、萩乃は床へはいってはいない。
 派手な寝まきの肩もほっそりと隅の経机(きょうづくえ)によって、しきりに何か物思いに沈んでいるようす。
 この真夜中を寝もやらず、かわいい胸になんの屈託か。机上の白い手が、無意識にもてあそぶのは、父の故郷に近い博多(はかた)みやげの、風雅な、ちいさな、一対の内裏雛(だいりびな)。
 灯にはえるその顔が、みるみる蒼白くゆがんで、やがて得(え)耐(た)えず、鈴(すず)をはったような双の眼から、ハラハラと涙のあふり落ちたのは、きっと亡き父のうえをしのんだのでしょう。と、たちまち、きっと引きしまった口もとに、言いようのない冷笑の影が走って、
「まあ、ほんとうに、お母(かあ)さまとしたことが――」
 おもわず洩れるひとりごとは、やくざな継母(ままはは)、あのお蓮様のうえを、ひそかにあざけりもし、またあわれみもしているとみえます。
 すると、つぎに、その萩乃の表情(かお)に、急激な変化がきた。眼はうるみをおびて輝き、豊頬(ほうきょう)に紅(くれない)を呈(てい)して、ホーッ! と、肩をすぼめて長い溜息。
 思いは、またしても、婿ならぬ婿、夫(つま)とは名のみの源三郎のうえへ――。
「源さま、源三郎様……」
 熱病のようにあえぎながら、萩乃は、夢中で手にしていた二つの博多人形(はかたにんぎょう)、その男と女の小さな人形を、机のうえにぴったりくっつけて、置きました。
 そして、じっと見入る眼には、消えも入らんず恥じらいの笑(え)みが――。
 その時、障子のそとの廊下に、人の体重をうけたらしくミシと鳴る板の音。萩乃はそれも、耳にはいらなかった。

       三

 恋すちょう、身は浮き舟のやるせなき、波のまにまに不知火(しらぬい)の、燃ゆる思い火くるしさに、消ゆる命と察しゃんせ。世を宇治川(うじがわ)の網代木(あじろぎ)や、水に任(まか)せているわいな……といった風情。
 艶(えん)なるものですナ。
 早く産みの母をうしない、素性の知れない義理の母、お蓮様には、つらいめばかり見せられて、泣きのなみだのうちに乙女(おとめ)となったこの青春の日に、また、たった一人の、頼りに思う父に死に別れたのみか、わが夫へときまった人をこんなにおもっているのに、それも、継母やあのいやらしい丹波から、じゃまの手がはいって、いまだに、祝言(しゅうげん)のさかずきごとさえあるじゃなし――。
 道場の一郭は、源三郎が引きつれてきた伊賀の若侍に占領されて、そこでは日夜、大江山の酒顛童子(しゅてんどうじ)がひっ越して来たような、割れるがごとき物騒がしい生活。
 早く文句をつけてくれ、そうしたら一喧嘩してやる……と言わぬばかり。亡き父が自慢にした絞りの床柱は、抜刀の斬り傷だらけ、違い棚にあった蒔絵(まきえ)の文箱(ふばこ)は、とうの昔に自炊の野菜入れになっているという侍女の注進である。そのワアワアいう物音が、遠く伝わってくるたびに、萩乃は、ゾッと恐怖におののくのだった。じっさい、どっちを向いてもすがりどころのない、萩乃の心中はどんなでしたでしょうか。おまけに。
 継母(はは)は、なんの力にもなってくれないどころか、丹波とぐるになって源三郎様を自分から遠ざけて、由緒(ゆいしょ)あるこの道場を横領しようとするさえあるに、あろうことか、あの源様にたいして妙なこころを動かし、色のたてひきに憂身(うきみ)にやつしているらしいとのこと。
 このあいだから丹波の一味をつれて、葛西領(かさいりょう)渋江(しぶえ)の、まろうど大権現(だいごんげん)の寮へ、出養生(でようじょう)を名に出むいているけれど、またなにかよからぬたくらみをしているに相違ない――。
「なんという、あさましい……」
 だが、萩乃がいちばん気になってならないのは、かんじんの源三郎が、じぶんをどう思っているかということです。
 彼女は、夜も昼も、この一間にとじこもったきり――胸の不知火に身をこがしている。
 今も今とて。
 この夜半。
 別棟に陣(じん)どっている柳生の若侍たちも、夜は人なみに眠るものとみえて[#「眠るものとみえて」は底本では「眼るものとみえて」]、広大な屋敷うちが、シインと深山(みやま)のよう……昼間のあばれくたびれか、白河夜船のさいちゅうらしく、なんのもの音も聞こえません。
 主君源三郎は、今朝馬を駆って出ていったきり、夜になっても帰らないけれど、供頭(ともがしら)安積玄心斎、谷大八、脇本門之丞と、名だたる三人がいっしょだから、一同なんの心配もなく、かえって、鬼のいぬ間の洗濯と、宵から大酒盛をやったあげく、みんなその場へへたばってしまって、イヤモウ、たたいても打(ぶ)っても眼をさますこっちゃアありません。
 と、駕籠を飛ばして道場へ帰り着くが早いか、まず、ソッとこのほうをうかがって、このようすならめったに起きる心配はない。大丈夫と見きわめをつけた門之丞。
 それからすぐ、萩乃のいる奥棟へしのびこんで、長い廊下を泥棒猫よろしく、かねてここぞと当たりをつけてある萩乃の寝部屋の前。
 この夜ふけに、室内(なか)にはボーッと灯りがにじんでいます。呼吸(いき)をこらして、障子のそとに立っていると、
「源さま、源三郎様……」
 耐え入るような、萩乃の声だ。わが主君(との)ながら、男冥利(みょうり)につきた源三郎! と思うと、嫉妬(しっと)にわれを忘れた門之丞、ガラリ障子を引きあけ、
「いや、おどろかないでください、萩乃さま。私です、門之丞です――」
 ズイとはいりこみました。

       四

「あらっ!」
 萩乃は、突かれたようにのけぞって、闇黒(やみ)をせおってはいってきた男を、見あげた。
 門之丞などという名は、彼女は知らない。が、見れば、源三郎にくっついて伊賀から来ている青年剣士の一人。しかも、源三郎の右の腕のように、先にたって道場で乱暴を働いている男だから、これは萩乃、おどろくななんて言われたって、おどろかずにはいられない。
 驚愕のあまり、うしろざまに片手をついた拍子に、派手な寝間着の膝がわれて匂(にお)いこぼれる赤いもの。
 萩乃はいそいで、その裾前をつくろいつつ、
「お酔いになって、とまどいなすったのではございませんか。ここは、あなた様方のお部屋ではございません。女の夜の部屋……どうぞ、おひきとりくださいまし」
「いや、酔っているのでも、ねぼけているのでもありません」
 ズカリとそれへすわった門之丞、思いつめた面上には、ものすごい蒼さがはしり、もう、眼をすえている。
「萩乃さま、どうぞ、お静かに――思いきって、こうして夜中、お寝間と知って、推参いたしました門之丞、かなわぬまでも、この胸のうちだけはお聞きとりねがいたいと存じまして……」
「まあ、あなた様は、なんという無礼なことを! 女ひとりとあなどって――」
 萩乃は、すっくと起ちあがった。とたんに、怒りにもえる彼女の眼にうつったのは、机のうえに二つ仲よく並んでいる、小さな博多人形のお内裏様(だいりさま)。
 源三郎さまと、自分と……この男は、さっきから障子のそとで、じぶんがこの人形をくっつけておくところなど、そっと垣間(かいま)見ていたに相違ない。そう思うと萩乃は、このとっさの場合に、火のように赤くなりながら、あわてて、机の上の二つの人形をはなしました。
「私は、命を投げだして此室(ここ)へまいったのです。こんなにあなたさまを思っておりますものを、すこしでもあわれと思召(おぼしめ)すお心があったら、どうか、萩乃様、この念(おも)いを――」
 もう夢中の門之丞だ。内々考えてきた口説(くどき)の文句など、実際となると、なんの役にもたちません。相手がアア言ったらこう、コウ出たらアアなどと、順序や策が頭に浮かぶあいだは、人間万事、まだほんとうに真剣ではないのかもしれない。門之丞は、これが主君のいいなずけだということすら、すっかりどこかへケシとんで、ただ、われとわが身の情炎に、眼もくらめき、たましいもしびれ、女対男、男対女……としかうつらない。
 妙(たえ)なる香(こう)のたゆとう深夜の寝室。
 ねまき姿もしどけなく、恐怖と昏迷に白い顔をひきつらせて、キッと立っている妻恋小町(つまごいこまち)――知(し)らぬ火(い)小町(こまち)の半身に、かたわらの灯影が明るくゆらめき、半身は濃(こ)むらさきの闇に沈んでいる。
 あまりの美しさ! あまりにもあでやかな眺めに、門之丞はしばし、その血管内に荒れ狂う意馬心猿(いばしんえん)もうちわすれ、呆々然(ぼうぼうぜん)として見惚(と)れたのでした。
 切れ長な眼に、かよわい女の身の、ありったけの険をふくませて、萩乃は真(ま)っこうから、門之丞をにらみつけながら、
「声をたてますよ! 声をたてますよ」
 門之丞は無言。ニヤリッと笑って、片膝立てた。まさに獲物をおそわんとする豹(ひょう)のごとく……。

       五

 いつもはつぎの間に、侍女のひとり二人が寝泊りするのだけれど、ひとり夜更けに起きて物思うようになってからは、それも何かとうるさいので、このごろは遠ざけて、近くに呼びたてる人もない。
 でも、萩乃は、それを見せては、弱身になってつけこまれると思ったから、さも隣室に人ありげに、
「浦路(うらじ)や、浦路! 桔梗(ききょう)! これ、桔梗はいないの? ちょっと起きておくれ」
 と、あわただしく、だが低声(こごえ)に呼びたてた。
 しかし、門之丞もさるものです。
 前もってそこらの部屋部屋をすっかりのぞいて、近くに誰もいないことをたしかめてある。
 しずかに立ちあがった。血走った眼で萩乃をみつめて、ソロリ、ソロリと近づいてくる。
「お嬢さま、萩乃様……」
 と、うわずった声です。
「この望みさえかなえば、わたしは、八つ裂きにされてもいといません。もとより、主君の奥方様ときまったお方に、かような、だいそれた無態を言いかけます以上は、その罪万死にあたることはよく承知しております。しかし――しかし、萩乃さま、人間命を投げだせば、何もこわいものはござりませぬ。ハハハハハハハ」
 通せんぼうのように両手をひろげて、その笑いは、もうまるで怪鳥の啼き声のよう……あわれ脇本門之丞、痴欲(ちよく)に心狂ったかと見えます。
 一歩一歩、萩乃は、夜具蒲団の裾のほうへと、さがりながら、
「大声をたてて、人がまいっては、あなた様のお身の上も、ただではすみますまい。どうぞ、早々(そうそう)にお引取りを」
「人が来る前に、割腹して相果てます」
「まあ、ほほほ、お冗談ばかり。仮りにも武士たる者に、さようなお安い命はござりませぬはず」
「一人では死なぬ。一刀のもとにあなたを斬り捨てて、腹掻(か)ッさばくのだ」
「ほほ、ほほほほ、それではまるで下司下人(げすげにん)の相対死(あいたいし)に……いいえ、無理情死とやらではござりませぬか。両刀を手挟(たばさ)むものが、まあ、なんという見ぐるしいお心根――」
「イイヤ、イヤ! 下司下人(げすげにん)はおろか、畜生といわれてもよい! 犬でもよい! 犬だ。そうだ、門之丞は犬になりましたぞ萩乃様」
 ハッハッと火のようにあえぎつつ。
「いかにも、われながら犬だと思う。だが、浮き世の約束、身分の高下を、すっかりとりのぞいてしまえば、男はみんな犬のようになって、女をほしがる。うわはははは、それでいいのだ。して、この門之丞というあたら侍を犬にしたのは、誰だ? みんな萩乃さま、あなたではないか! あなたのその星のような眼、その林檎(りんご)のようなほおが、この門之丞を情痴の犬にしてしまったのだッ!」
 そのころ、林檎があったかどうか知りませんが、とにかく門之丞、美文をつらねだした。
 はじめは、言論をぬきにし、直接行動におそいかかろうともくろんだのだが、美しいがうえにも毅然(きぜん)たる萩乃の威に気おされて、こんどは門之丞、あわれみを乞うがごとくに、トンと膝をついてうなだれた。
「萩乃様、錦につつまれた不自由よりも、あの青空の下には、あなたの今おっしゃった下司下人(げすげにん)の、ほがらかな巷(ちまた)の生活があります。どう送っても一生です。萩乃さまッ! 今宵ただいま、この門之丞といっしょに逃げてはくださらぬかっ」
「サ、今にも源三郎さまが、お帰りになりましょう。あなたのおためです。早く此室(ここ)をお出になってください」
「フン! 知らぬが仏だ。その源三郎は今ごろ、一寸試し五分だめし、さぞ小さく刻まれていることでござろうよ」
「エエッ?」
 仰天した萩乃の胴から、その時、なんのはずみか、サラサラと帯が空解(そらど)けて――。

   この面(つら)が看板(かんばん)だ


       一

 手も加えずに、立ったまま帯が解(と)けるとは、なんの辻占(つじうら)?
 空(そら)解けの帯は、待ち人……源さまきたるの先知らせか。
 それなら、吉(きち)。
 吉も吉、門之丞にせまられるこの場にとっては、大々吉(だいだいきち)。
 だが――。
 もしかすると、源三郎様のお身の上に、ひょんなことでもあって、その虫のしらせでは?
 吉か、凶か。
 と、萩乃の胸は、百潮千潮(ももじおちしお)の寄せては返す渚(なぎさ)のよう……安き心もあら浪に、さわぎたつのだった。
 解(と)け落ちた帯は、はなやかな蛇のように、サラリとうねって足もとの畳に這っている。
 帯とき前(まえ)のしだらない己(おの)が姿。ひらいた襟のあたりの白い膚にくいいるがごとき門之丞の視線を知った萩乃は、手早く拾った帯のはしを巻(ま)きなおし、挟みこんで、ソソクサと胸かきあわせながら、
「言うに事をかいて、源さまのお身に変事などとは! 源様も、そちのような家臣(けらい)をもたれて、さぞおよろこびなされることでしょう。ひろい日本中に、源三郎さまに刃の立つ者が、一人でもいますか。お前が何を言っても、わたしは信じません。そんなことより、ここにこうしていては、後日の誤解の種です。わたしの迷惑は第二としても、伊賀の源三郎――いいえ! この司馬道場の主の臣を、こんなおろかしいことで傷つけたくはありません。もう、一番鶏(どり)のなくころでしょう。鶏がなく前に出ていかなければ、ほんとうに大声をたてて人を呼びますよ」
 若い娘の萩乃様の口から、こんなしっかりした言葉を聞こうとは門之丞、思わなかった。違算です。備わる貫祿に圧迫されて、彼は手も足も出ない。
 手をかえた門之丞、声をひそめて、
「源三郎は、今ごろはもはや亡き者……だが、この儀については、多くを言いますまい。夜が明けたら、客人大権現(まろうどだいごんげん)の寮の、お蓮様と丹波のもとからしらせがあって、何ごとも分明いたすはず。それよりも萩乃さま、拙者はあなたに、ある一つの壺を献上いたそうと存ずるが、御嘉納(ごかのう)くださるでしょうな?」
 萩乃は、いぶかしげに、小首をかしげて、
「壺とはえ?」
「は。源三郎殿が、伊賀より持ちきたったる――」
「あらっ! いま皆が大さわぎをしている、こけ猿とやらいう……」
「サ! そのこけ猿です!」
 門之丞眼を光らして、
「丹波が、かの橋下の掘立小屋より、破れ鍋をかわりに置いて盗みださせたのを、拙者がまた、それと寸分違わぬ箱やら風呂敷を、ひそかにととのえて、この道場にある間にそっとすりかえたのです。それとも知らず丹波の一味は、あの、私の作った偽物の箱包みを、後生大事に持っていって、いま寮に、虎の子のようにしまいこんであるでしょうが、はッはッは――ただいま、お眼にかけます」
 言いながら門之丞は、はいって来た障子のほうへあとずさりして、しずかにあけた。さっきここへはいる時、そとの縁に置いてきたものとみえる。
「すりかえてから、考えあぐんだあげく、故先生のあの大きな御仏壇の奥へ、押しこんでおいたのです。あそこなら、神聖視して誰も手をつけませんからナ。今、この部屋へ来る途中、ソッと取りだしてまいりました。ここにございます」
「まあ……!」
「へへ、へへ、これです。どんなもので」
 と門之丞、言葉も手つきも、なんだか急に骨董屋(こっとうや)みたいになって、取扱い注意の態度(こなし)よろしく、萩乃の前へさげてきたのを見(み)ると!
 なんと! 驚くじゃアありませんか。包んである布の味といい、木箱の古びかげんといい、これこそ正真正銘(しょうしんしょうめい)、ほんもののこけ猿の茶壺ではないか!

       二

 四つにむすんだ古布(ふるぎれ)のあいだから時代のついた木箱の肌を見せて、ズシリと畳にすわっている箱包みは……。
 人でも、物でも、長く甲羅(こうら)をへたものは、一種の妖気(ようき)といったようなものが備わって、惻々(そくそく)人にせまる力がある。
 今このこけ猿の茶壺を、萩乃がジッとみつめていると、名器から発散する言うべからざる圧力にうたれて、彼女は、声も出ません。
 門之丞も、呼吸(いき)がせまって、無言です。
 だまって、萩乃を見上げた。萩乃は立ったまま、眼をまんまるにして、壺の箱を見おろしている。
 一瞬二瞬、空気は固化して、ふたりとも石像になったよう――身うごきもしません。イヤ、できません。巨大な財産をのむ名壺(めいこ)の魅縛(みばく)……これをこそ、呪縛(じゅばく)というのでしょうか。
 このふるびた包み布をほどけば、年月によごれた桐の木箱。そこまでは、外からも見える。今その、十文字にかけた真田(さなだ)をといて、サッと箱のふたをとったとしましょうか。中にはもう一枚、金襴(きんらん)の古ぎれで壺が包んであるに相違ない。その色褪(あ)せたきんらんを除くと、すがりといって、紅い絹紐であんだ網をスッポリと壺にかぶせてあることだろう。
 さア、そこで、そのすがりを取るとします。そうすると、ここにはじめて、朝鮮渡(ちょうせんわた)りの問題の名品、耳こけ猿の茶壺が、完全に裸身をもって眼前に浮かびでるでしょう。薬の流れぐあいから、その焼きといい、においといい、まことに天下をさわがす大名物(だいめいぶつ)、きっと頭のさがるような品格の高い、美しい味のものにきまっている。
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