丹下左膳
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著者名:林不忘 

 今度はそのところてん屋の小僧チョビ安が、壺をかかえてドンドン逃げていくではないか。
「小僧! 待てエッ! 待てエッ!」
 与吉は必死に追っかける。チョビ安少年は、その壺の包みに、何か素晴らしいものでもはいっていると勘違いしているらしく、一生懸命にすっ飛んでいきます。
 逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。三味線堀(しゃみせんぼり)は佐竹右京太夫様(さたけうきょうだゆうさま)のお上屋敷、あれからいたしまして、吾妻橋(あづまばし)の袂といいますから、かなりの長丁場(ながちょうば)。
 チョビ安、どんどん駈けながら、
「泥棒だアッ、助けてくれえ!」
 大声をはりあげる。これにはさすがの与の公も、子供ながら上には上があると、あきれている。
 とたんに、チョビ安の姿がふっと消えた。橋下の河原へとびおりたんです。つづいて与吉も、橋桁(げた)の下へもぐりこんでみると、そこに、浮き世をよその蒲鉾(かまぼこ)建ての乞食小屋。
 チョビ安、えらいところへ逃げこんだもので……筵(むしろ)の垂れをはぐって、与吉が顔をさし入れて見ると!
 薄暗い中にむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがバラリ額にかかって、隻眼片腕の痩(や)せさらばえた浪人姿――。
 箒(ほうき)のような赤茶(あかちゃ)けた頭髪(かみのけ)。一眼はうつろにくぼみ、その眉から口尻へかけて、溝のごとく深い一線の刀痕――黒襟(くろえり)かけた白着に、大きく髑髏(しゃれこうべ)の紋を染めて、下には女物の派手な長襦袢(ながじゅばん)が、竹(たけ)ン棒(ぼう)みたいなやせ脛(すね)にからまっている。
「アッハッハッハ、おれか? 俺あ丹下左膳(たんげさぜん)てえ人斬り病(やまい)……」
 その背後(うしろ)に、チョビ安め、お小姓然と控えているんで。イヤ、与吉の野郎、おどろきました。

   くるりくるりと走馬燈(そうまとう)(発端篇)

 こうして偶然にも、この万人のつけねらうこけ猿の茶壺は、巷(ちまた)の放浪児(ほうろうじ)チョビ安の手から、人もあろうに隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳の手に納まることとはなった。まことに厄介な次第になったもので。
 このチョビ安という小僧は。伊賀の国は柳生の郷(さと)の生れとだけで、両親(ふたおや)の顔も名も知らない、まったくの親なし千鳥。
 当時、浅草の竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋、羅宇屋(らうや)の作爺(さくじい)さんの隣家(となり)に住んでいるが、その作爺に、お美夜(みや)ちゃんという七つになる孫娘があって、これがチョビ安と筒井筒(つついづつ)の幼同士、まア、子供の恋仲てえのも変だけれど、相手が化け物みたいにませたチョビ安だから、わけもわからずに、末は夫婦(めおと)よ、てなことを言いあっているんです。とにかく、おっそろしく仲がいい遊び友達のチョビ安とお美夜ちゃん。
 そのチョビ安が、ある日ふらっと、例によってところてん売りにでかけたきり、とんがり長屋へ帰ってまいりませんから、お美夜ちゃんはたいへんな悲観と心配。
 これは安公、長屋へ帰らないわけで、
「向うの辻のお地蔵さん、涎(よだれ)くり進上、お饅頭(まんじゅう)進上、ちょいときくから教えておくれ、あたいの父(ちゃん)はどこへ行(い)た、あたいのお母(ふくろ)どこにいる、ええじれったいお地蔵さん、石では口がきけないね――」
 この、チョビ安自作(じさく)の、父母を慕いさがす唄を耳にした左膳、同情のあまり彼を手もとにとどめおいて、
「うむ。これからはおれが、仮りの父親になってやろう。どこへも行くな。その曰(いわ)くありげな壺はこのにわか拵(ごしら)えの父が、預かってやる。父と子と、仲よく河原の二人暮しだ。親なし千鳥の其方(そのほう)と、浮き世になんの望みもねえ丹下左膳(たんげさぜん)と、ウハハハハハ」
 というわけ。変な父子(おやこ)ができちまったが……それからほどなく。
 河原の小屋に壺を置いたのでは、夜(よ)な夜(よ)なねらう者の多いところから、左膳はチョビ安に、人眼につきやすい侍姿をさせて、壺の箱を持たして竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋、作爺さんのもとへ預けにやったのです。
 子供が、おとなもおとな、浪人の装(なり)をして街を行くのだから、眼にたつ。はたしてこの後をつけて、壺が作爺さんの家へ納(おさ)まるところを見きわめたのが、日夜左膳の掘立小屋(ほったてごや)を見張っていた鼓の与吉だ。チョビ安、それを知ってか知らずにか、壺の箱を作爺さんにあずけ、お美夜ちゃんともしばしの対面を惜んで、帰ってゆく。
 この作爺さん、実は作阿弥(さくあみ)というたいへんな彫刻の名人で、当時故(ゆえ)あって江戸の陋巷にかくれすまい、その娘、つまりお美夜ちゃんの母なる人は、腰元からなおって、今はさる御大家の後添いにおさまり、お美夜ちゃんなど見向きもしないということです。
 話かわって……。
 本郷妻恋坂、司馬十方斎の道場では。
 老先生は病あらたまって、死の床。きょうあすをも知れない身でしきりに、剣をもって相識る柳生対馬守の弟を、娘萩乃の入り婿に乞い請(う)けた。その柳生源三郎の到着を、枕の上に首を長くして待っている。
 ところで――かんじんの萩乃は、伊賀の暴れン坊と唄にもあるくらいだから、強いばかりが能(のう)の、山猿みたいな醜男(ぶおとこ)に相違ないと、頭(てん)からきめて、まだ見たこともない源三郎を、はや嫌い抜いている。
 この時です。妻恋坂の司馬の屋敷へ雇われてきた、若いいなせな植木屋がございました。
 色白な、滅法界いい男。

   罪ですネ源(げん)ちゃんは(発端篇)

 瀕死の司馬十方斎先生は、同じ剣家、柳生一刀流の大御所対馬守との間に話のきまった、その弟伊賀の源三郎の江戸入りを、きょうかあすかと待って、死ぬにも死ねないでいます。
 源ちゃん、品川まで来たのはいいが、婿引出のこけ猿の茶壺を失って、目下大騒ぎをしてさがしていることは、一同ひた隠しにして先生の耳へ入れないでいる。
「源三郎の顔を見て、萩乃と祝言(しゅうげん)させ、この道場を譲らぬうちは、行くところへも行けぬわい」
 というのが、死の床での司馬先生の口癖。
 ところが。
 当の萩乃は、恋(こい)不知火(しらぬい)のむすめ十九、京ちりめんのお振袖も、袂重い年ごろですなア。
「源三郎様なんて、馬が紋つきを着たような、みっともない男にきまってるわ」
 ひどいことを考えている。
「おお嫌だ! 伊賀の山奥から、猿が一匹来ると思えばいい」
 まだ品物を見ないうちから、身ぶるいするほど怖毛(おじけ)をふるっている。
 すると……。
 紺の香のにおう法被(はっぴ)の上から、棕櫚縄(しゅろなわ)を横ちょにむすんで、それへ鋏をさした植木屋の兄(あに)イ――見なれない職人が、四、五日前から、この不知火御殿(しらぬいごてん)といわれた壮麗な司馬の屋敷へはいって、さかんにチョキチョキやっていましたが。
「触(さわ)るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗(くり)のいが」
 口の中で、いやに気になる鼻唄をうたっている。こいつが萩乃に、変に馴れなれしく口をきいているのを見て、怒ったのが師範代峰丹波だ。
 短気(たんき)丹波といわれた男……。
「植木屋風情が、この奥庭まで入りこむとは何事ッ! 誰に許しを得て――無礼者めがッ!」
 発止(はっし)! 投げた小柄を、植木屋、肘を楯(たて)に、ツーイと横にそらしてしまった。柳生流秘伝銀杏返(いちょうがえ)しの一手……銀杏返(いちょうがえ)しといったって、なまめかしいんじゃアない。ひどくなまめかしくない剣術のほうだが、峰丹波はサッ! と顔色をかえ、ドサリ縁にすわって――指を折りはじめた。
「ハテナ、柳生流をこれだけ使う方は、まず第一に、対馬守殿、これはむろん、つぎに、代稽古安積玄心斎(あさかげんしんさい)先生、高大之進(こうだいのしん)……ややっ! これは迂闊(うかつ)! その前に、兄か弟かと言わるる柳生源三――おおウッ!」
 傲岸(ごうがん)[#ルビの「ごうがん」は底本では「ごうかん」]、丹波の顔は汗だ。そのうめき声を後に……触るまいぞえ手を出しゃ痛い――唄声が、植えこみを縫って遠ざかっていく。
 根岸の植留の若えもンで、渡り職人の金公てエ半(はん)チク野郎(やろう)――こういう名で入りこんではいるが。
 これが、実は、伊賀の若様源三郎その人なんだ。
 こういうところが、源三郎の源三郎たるゆえん。
 供の連中は品川を根城に、眼の色変えてこけ猿の行方を、探索している。その間に自分は、ちょっと退屈しのぎに、かくは植木屋に化けて、この婿入りさき司馬道場のようすをさぐるべく、みずからスパイに――そんなこととは知らない萩乃は、この美男の植木屋に、ひそかに、熱烈なる恋(こい)ごころを抱くにいたりました。
「あんなしがない植木屋などを、こんなに想うなんて、あたしはいったいどうしたというのだろう……あアあ、それにつけても源三郎さまが、あの植木屋の半分も、きれいであってくれればいいけれど――」
 娘島田もガックリ垂れて、小さな胸にあまる大きな思案。
 罪ですネ、源ちゃんは。

   相模大進坊(さがみだいしんぼう)濡(ぬ)れ燕(つばめ)(発端篇)

 せっかく盗みだしたこけ猿の壺を、チョビ安てえ余計者(よけいもん)がとびだしたばっかりに、丹下左膳という化け物ざむらいにおさえられてしまった鼓の与吉。
 なんといって、妻恋坂の峰丹波様に言いわけしたらいいか。
 いつまで黙ってるわけにもいかないから、ことによったら、この首はないものと、おっかなびっくりの身には、軽い裏木戸も鉄(くろがね)の扉の心地……与吉のやつ、司馬道場へやって来た。
 とたんに。
 出あい頭(がしら)に会った若い植木屋を、一眼見るより与の公、イヤおどろいたのなんのって、あたまの素ッてんぺんから、汽笛みたいな音をあげましたね。
「うわアッ! あなた様は、や、柳生の、げん、げん、源三郎さまッ!――」
 こいつあ驚かずにはいられない。これから起こった、あの深夜の乱陣です。与吉の口から、柳生源三郎とわかった以上、もはや捨ててはおけない。峰丹波、今宵ここで、伊賀の暴れン坊に斬られて死ぬ気で、立ち向かいました。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあ、ソ、ソ、そう早くから、あきらめるにもおよぶまい」
 法被姿(はっぴすがた)の源三、庭石に腰かけて、含み笑い……素手(すで)です。
 星の降るような晩でした。
 これより先、伊賀の若殿に刃(は)向かう者は、一人しかない。それは、もうひとりの源三郎が現われねばならぬと――いう丹波の言葉に、与吉はふっと思いついて、こっそり屋敷を抜け出るが早いか、夜道を一散走り。
 吾妻橋(あづまばし)下の河原の小屋へ。
 かの、隻眼隻腕の刃妖(じんよう)、丹下左膳を迎えに。
 思いきり人が斬られる……と聞いて、おどりあがってよろこんだのは、左膳だ。しばらく人血を浴びないで、腕がうずうずしているところへ、しかも相手は、西国にさる者ありと聞いた伊賀の若様、柳生源三郎!
「イヤ、おもしれえことになったぞ」
 相模大進坊(さがみだいしんぼう)、濡(ぬ)れ燕(つばめ)の豪刀を、一つきりない左腕ににぎった丹下左膳、与吉のさわぎたてるまま辻駕籠に打ち乗って――。
 ホイ、駕籠! ホイ!
 棒鼻(ぼうはな)におどる提灯……まっしぐらに妻恋坂へかけつけました。この時の左膳は、理由(わけ)なんかどうでもよい、ただ柳生流第一の使い手と、一度刃を合わせてみたいという、熱火のような欲望に駆られて。
 行ってみると、おどろいた!
 丹波と源三郎は、まだ二本の棒のように、向かいあって立ったままだ。丹波は正眼、源三郎は無手。と! すっかり気おされて、精根がつきはてたものか、峰丹波、朽ち木が倒れるように堂(どう)ッと地にのけぞってしまった。
 刀痕の影をきざませて、ニッと微笑(わら)った左膳。
「なかなかやるのう。かわりあって、おれが相手だ」
 もとより、なんの恨みもない。斬りつ斬られつすべき仔細(わけあい)は、すこしもないのだ。ただ、剣を執る身の、やむにやまれぬ興味だけで、左膳と源三郎、ここに初めて真剣の手合せ――まるで初対面の挨拶のように。
 源三郎は、意識を失った丹波の手から、その一刀をもぎとって、柳生流独特の下段の構え。
 丹波の身体は、与吉が屋内へかつぎこんだ。
 この騒動に、お庭をけがす狼藉者(ろうぜきもの)とばかり、不知火の門弟一同、抜きつれて二人をかこむ。名人同士の至妙な立合いを、妨げられた怒りも手伝い、左膳と源三郎、こんどは力をあわせて、この司馬道場の連中を斬りまくることとなった。
 ちょうどこの時、奥まった司馬先生の病間では……。

   出る仏(ほとけ)に入る鬼(おに)(発端篇)

「おうッ! 不知火(しらぬい)が見える! 生れ故郷の不知火(しらぬい)が――」
 これが最後の言葉、司馬老先生は、とうとう婿の源三郎に会わずに、呼吸をひきとってしまった。庭で、左膳と源三郎に剣林を向けていた弟子達は、いっせいに刀を引いて、われがちに先生の臨終に駈けつける。
 急に邸内がざわめいて、あかあかと灯がともったと見る間に、サッと潮のひくよう、囲みの人数がひきあげて行くから、左膳と源三郎、狐につままれたごとき顔を見合わせ、
「烏(からす)の子が、巣へ逃げこみおった。何が何やら、さっぱりわからぬ、うわははははは」
 そのとき……。
 ツーイと銀砂子(ぎんすなご)の空を流れる、一つ星。
「あ、星が流れる――ウウム、さては、ことによると老先生がおなくなりに……し、しまった!」
 刀を納(おさ)めた源三郎へ、左膳は、
「あばよ」
 と一瞥(べつ)をくれて、
「星の流れる夜に、また会おうぜ」
 一言残して、そのままズイと行ってしまった。
 勝負なし……さすがの左膳も、この柳生源三郎に一太刀浴びせるには、もう一段、腕の工夫が必要と見たに相違ない。
 このおれと、ほとんど対等に立ちあうとは、世の中は広いもの――かれ左膳、ひそかに心中に舌を巻いたのです。
 一方、品川の旅宿(はたご)へ立ち帰った源三郎は。
 こけ猿の茶壺は手になくとも、もはや一刻の猶予(ゆうよ)はならぬと、急遽供をまとめて本郷の道場へ乗りこんできた……あられ小紋の裃(かみしも)に、威儀(いぎ)をただした正式の婿入り行列。
 ちょうどこの日、妻恋坂では、伊賀の暴れン坊を待ちきれずに死んだ、司馬十方斎の葬儀。
 その威勢、大名をしのいだ、不知火流の家元のおとむらいですから、イヤその盛大なこと。
 白黒の鯨幕(くじらまく)、四旒(りゅう)の生絹(すずし)、唐櫃(からびつ)、呉床(あぐら)、真榊(まさかき)、四方流れの屋根をかぶせた坐棺(ざかん)の上には、紙製の供命鳥(くめいちょう)をかざり、棺の周囲には金襴(きんらん)の幕……昔は神仏まぜこぜ、仏式七分に神式三分の様式なんです。
 この日、門前にひしめく群集に撤銭(まきせん)をするのが、司馬道場の習慣(しきたり)だった。当時、江都(こうと)評判の不知火銭(しらぬいぜに)というのは、これです。
 その、山のように撒くお捻(ひね)りのなかに、たった一つ、道場のお嬢様萩乃(はぎの)の手で、吉事ならば紅筆(べにふで)で、今日のような凶事(きょうじ)には墨(すみ)で、御礼(おんれい)と書いた一包みの銭がある。これを拾った者は、お乞食(こも)さんでも樽拾(たるひろ)いでも、一人だけ邸内へ許されて、仏前に焼香する資格があるのだ。われこそはその萩乃のお墨つきを手に入れて、きょうの幸運児になろうと眼の色変えて押すな押すなの騒ぎだ。
 ここへ馬を乗りいれた源三郎をめがけて、銭撒(ぜにま)き役(やく)の峰丹波、三方(ぽう)ごと残りのお捻りを投げつけたのだが、偶然源三郎のつかんだ一つが、その、万人のねらう萩乃のお墨(すみ)つきでありました。
 入場切符みたいなもの――招かざる客、伊賀の暴れン坊は、こうしてどんどん焼香の場へとおってしまった。
 出(で)る仏(ほとけ)に入(はい)る鬼(おに)。
 きょう故先生の御出棺の日に、司馬道場、とんだ白鬼を呼びこんだもので。
「おくればせながら、婿源三郎、たしかに萩乃どのと道場を申し受けました。よって、これなる父上の御葬儀は、ただいまよりただちに喪主として……」
 源三郎のりっぱな挨拶に、室内の一同、声を失っている。あの恋する植木屋と、見ずに嫌いぬいてきた伊賀の若殿とが、同一人であることを知った萩乃の胸中、その驚きとよろこびは、どんなでしたでしょうか。

   娘(むすめ)ひとりに婿(むこ)八人(発端篇)

 こけ猿の茶壺は、まだ橋下の左膳の掘立小屋にある――と、にらんでいるらしく、いま四方八方からねらって毎夜のように壺奪還の斬り込みがある。
 君(きみ)懐(なつか)しと都鳥(みやこどり)……幾夜かここに隅田川(すみだがわ)。
 その風流な河原も、今は血(ち)なまぐさい風が吹きまくって。
 柳生藩(はん)の人達は、江戸で二手に別れて、壺をはさみ撃(う)ちにしようというのです。日光御造営に大金のいる日は、刻々近づいてくる。早くこけ猿をさがしだして、その秘める埋蔵金の所在(ありか)を解かねば、殿は切腹、お家は四散しても、追っつくことではない。一同、火を噴かんばかりにあせりきっています。
 押しかけ婿、源三郎の供をして、妻恋坂へ乗りこんだ連中は、柳生一刀流師範代安積玄心斎(あさかげんしんさい)、谷大八ら、これは壺を失った当の責任者ですから、まったくもう眼の色かえて左膳の手もとをうかがっている。
 問題の壺を源三郎に持たしてよこしたあとで、日光おなおしが伊賀へ落ちて、とほうにくれている時、お茶師(ちゃし)一風宗匠(いっぷうそうしょう)[#ルビの「いっぷうそうしょう」は底本では「いっぷうそうしゅう」]によって初めてこけ猿の秘密が知れたのだ。こけ猿さえ見つけだせば、その中に隠してある秘図によって、先祖のうずめた財産を掘りだし、伊賀の柳生は今までの貧乏を一時にけしとばして、たちまち、日本一の大金持になってしまう。日光なんか毎年重なったって、ビクともするこっちゃない。ところが、そのかんじんのこけ猿が行方(ゆくえ)知れずというんだから、こりゃアあわてるのも、それこそ、猿の尻尾に火がついたように急(せ)くのも、無理ではございません。
 イヤ、行方が知れないわけじゃアない。
 丹下左膳という隻眼で一本腕のさむらいが、シッカと壺をにぎって放さないことは、与吉の注進で、まず司馬道場の峰丹波とお蓮様の一派に知れた。司馬の道場に知れれば、そこにがんばって日夜互いにスパイ戦をやっている源三郎の同勢には、すぐ知れる。
 同時に。
 柳生(やぎゅう)の里から応援に江戸入りした高大之進(こうだいのしん)を隊長とする一団、大垣(おおがき)七郎右衛門(ろうえもん)、寺門一馬(てらかどかずま)、喜田川頼母(きたがわたのも)、駒井甚(こまいじん)三郎(ろう)、井上近江(いのうえおうみ)、清水粂之介(しみずくめのすけ)ら二十三名の柳門(りゅうもん)選(え)り抜きの剣手は、麻布本村町(あざぶほんむらちょう)、林念寺前(りんねんじまえ)なる柳生の上屋敷を根城に、源三郎の側と連絡をとって、これも、夜となく昼となく、左膳の小屋にしたいよる。
 隻眼隻腕の稀代の妖剣、丹下左膳――しかも、その左腕に握っているのは、濡れ紙を一枚空(くう)にほうり投げて、落ちてくるところを見事ふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめの名ある豪刀……剣鬼の手に鬼剣。
 この左膳の腕前は、誰よりも源三郎が一番よく知っているところであります。
 伊賀の暴れン坊が、一目(もく)も二目(もく)もおくくらいだから、まったく厄介なやつが壺をおさえちゃったもンだとみんないささか持てあまし気味。
 峰丹波の一派、源三郎、玄心斎の一団、高大之進の応援隊と、一つの壺をめがけて、あちこちから手が伸びる――娘ひとりに婿八人。
 おもしろずくで相手になっていた左膳も、ちょっとうるさくなりかけたやさき。
 ある日……。
 前夜の斬りこみで破られた小屋の筵(むしろ)壁を、背にポカポカと陽をあびながら左膳がつくろっていますと、ビュウーン! どこからともなく飛んできて、眼の前の筵に突き刺さったものがある。結び文をはさんだ矢……矢文(やぶみ)なんです。
 とたんに。
「ワッハッハ、矢をはなちてまず遠(えん)を定(さだ)む、これすなわち事の初めなり。どうだ、驚いたか」
 という、とてつもない胴間(どうま)声が、橋の上から――。

   白真弓(しらまゆみ)(発端篇)

 ひょうひょうと風のごとく、ねぐらさだめぬ巷の侠豪、蒲生泰軒(がもうたいけん)先生。秩父(ちちぶ)の郷士(ごうし)の出で、豊臣の残党だというから、幕府にとっては、いわば、まア、一つの危険人物だ。ぼうぼうの髪を肩までたらし、若布(わかめ)のような着ものをきて、鬚(ひげ)むくじゃらの顔、丈(たけ)高く、肩幅広く、熊笹(くまざさ)のような胸毛を風にそよがせている。
 どこにでも現われ、なんの事件にでも首を突っこむのが、この蒲生泰軒だが、いったいどういうわけでこの先生が、このこけ猿の壺をめぐる渦巻に飛びこんできたのか、そのいきさつは、今のところまだ謎です。
 とにかく。
 この矢文(やぶみ)には、どういう仔細(しさい)で、そうみんなが顔いろかえて、このうすぎたない一個の壺を手に入れようとあせっているのか、その訳がすっかり書いてある。
 で、ここに初めて左膳は、壺の秘密……柳生の埋蔵金のことを知ったのです。命にかけても、この壺をうばい返そうとするのも、無理ではない。今も昔もかわらない、黄金にたいする人間の利念慾欲が、この壺ひとつに凝(こ)っていたのか……。
「ウウム、読めた。さては、そうであったか。あれほど真剣にねらう以上、何か曰(いわ)くがなくてはならぬと思っておったが――イヤ、そうと判ってみればなおのこと、めったにこの壺は渡されねえ」
 左膳、左手(ゆんで)に濡れ燕の柄をたたき、一眼をきらめかせて、固く心に決しました。
 剣魔(けんま)左膳の胸に、この時から、黄金魔(おうごんま)左膳の芽がふいて――。
「いずれ、また会おう。それまで、壺をはなすなよ。天下の大名物、こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
 言い捨てて、橋上の泰軒、来た時と同じように、ブラリと行ってしまいました。
 さて、ここでふたたび物語の遠眼鏡を、お城の奥ふかく向けますと――。
「どうじゃナ、柳生はだいぶ苦しがっておるかの?」
 吉宗公、愚楽老人へ御下問です。
 この、将軍様とその知恵(ちえ)ぶくろ、愚楽と、いろいろお話のあった結果でしょう。まもなく愚楽は、時の江戸南町奉行大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)さまと相談をいたしまして、ひょっとすると将軍のお手もとからも、こけ猿をつけねらう新手の別働隊が、繰りだされそうな形勢となった。
 が、それはそれとして、
 十方斎先生亡き後の、司馬道場には、二つのふしぎな生活がつづいている。
 道場の主におさまった気の源三郎と、あくまでもそれを認めず、ルンペンの一団でも押しこんできて、かってに寝泊りしているものと見なしている、お蓮さまと丹波の陰謀組と。
 広い屋敷がふたつにわかれて、妙(みょう)なにらみあい。
 なかにはさまれた萩乃は、一心に源三郎を思いつづけているのだが、お蓮様も、幾度はねられても源三郎を恋しています。三竦(すく)みの形。
 すると、です。
 あの、浪人姿のチョビ安のあとをつけて、こけ猿の木箱が、とんがり長屋の作爺さんの家に隠されたと見た与吉の報告で、丹波の手からはなされた一隊の不知火流(しらぬいりゅう)の門弟どもが、ある日、突如として長屋をおそったのだ。作爺さんをおどしつけて、その木箱をあけて見ると! おどろいた。
 中は、水で洗われて円くなった河原の石。
 その石の表面に。
 虚々実々(きょきょじつじつ)、いずれをいずれと白真弓(しらまゆみ)、と、墨痕(ぼくこん)あざやかに読める。
 左膳の字だ。剣怪左膳、はかりごとにおいても相当なもの、見事にいっぱいくわされたんです。

   奇態(きたい)なトリオ(発端篇)

 業(ごう)を煮やした不知火の弟子達が壺のかわりにとばかり、無態な言いがかりをつけて、お美夜ちゃんをかかえていこうとすると!
 ぬッと戸口をふさいで立ったのは。
 ふさふさと肩にたらした合総(がっそう)、松の木のような腕ッ節にブラリ下げたのは、一升入りの貧乏徳利で……。
 おどろく侍どもをしりめにかけて、押し入って来た蒲生泰軒は、この日からこのとんがり長屋にお神輿(みこし)をすえることになった。長屋に、また一つ名物がふえたのはいいが、この時、部屋の隅にころがっている馬の彫刻に眼をとめて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥(さくあみ)どの――!」
 と、一眼で作爺さんの素性を看破したのも、この泰軒居士でした。
 それから、まもなく。
 竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない真夜中のこと。
「くせのわるいこの濡れ燕の斬ッ尖、どこへとんでいくか知れねえから、汝(うぬ)らッ! そのつもりで来いよっ!」
 おめきながら左膳は、こけ猿の箱包みをかかえ、チョビ安を従えて、この材木町(ざいもくちょう)の通りを駒形のほうへと、すがりつく黒影を白刃に払いつつ、行く。
 せまい河原の乱闘はめんどうと、追いつ追われつここまで来たところ。今宵の襲撃者は、麻布(あざぶ)林念寺(りんねんじ)前の上屋敷からくりだしてきた、高大之進の一隊、ちょいと手ごわいんです。
 子を取ろ子とろ……というんで、壺よりも、まずチョビ安をおさえてしまえ、という戦法。左膳が斬りむすんでいるまに、チョビ安が追われて逃げこんだのが、偶然にも、高麗屋敷(こうらいやしき)は尺取り横町の、あの櫛巻お藤の隠れ家だった。折りあしく、そこにとぐろをまいていた鼓の与吉に、大声に戸外(そと)へどなられて、チョビ安、押しこんで来た黒覆面の連中に、難なくつかまってしまった。ほどなく左膳もこの家に現われたが、見るとチョビ安は、畳におさえつけられて、咽喉に刀を擬せられている。
「一、二、三、四――」
 十まで数えるうちに、左膳のかかえこんでいる壺を渡さなければ、ズブリ! 突き刺すというんだ。
「八、九――!」
 かわいいチョビ安の命には、換えられぬ。
「待った! しかたがねえ」
 左膳があきらめて引きわたした壺の木箱を、高大之進の一団、おっとりかこんで、その場であけてみると! 思いきや、ころがりでたのは、真(ま)っ黒々(くろぐろ)な破(わ)れ鍋(なべ)が一つ!
 しかも、達者な筆で「ありがたく頂戴(ちょうだい)」と書いた紙きれがついて、
 敵も味方も、これにはあいた口がふさがりません。壺はいつのまにか、河原の小屋から見事に盗み出されていたんだ。それとも知らず左膳は、いつからか、この掏(す)りかえられた鍋を、今まで後生大事にまもってきたとは!
 上には上。何者の仕業? サア、こうなると、こけ猿はどこへいったか、皆目(かいもく)行方がわからない。
 高大之進の一行は、骨折り損のくたびれ儲け。これじゃア喧嘩にもならない。ブツクサ言って引きあげて行く。だが、その夜からだ、左膳、お藤姐御、チョビ安の三人が、この長屋に奇態なトリオをつくって、おもむろに、こけ猿奪還の秘術をめぐらすことになったのは……。
 日光御修復(ごしゅうふく)の日は、いやでも近づく。茶壺やいずこ?
 物語はこれより大潮に乗って、一路、怒濤重畳(どとうちょうじょう)の彼岸(ひがん)をさしてすすみます。

   女暫(おんなしばらく)


       一

 源三郎、ギリッと歯を噛んだ。
 刀身にまつわりつく濡れた真綿から――ポタリ、ポタリとしたたり落ちる水が、気味わるく手を伝わって、肘へ、二の腕へ……。
 この一瞬間の、寂然(じゃくねん)たるあたりのたたずまいは、さながら久遠(くおん)へつづくものと思われました。
 むろんこれには、独特の技術を要するのです。
 長い真綿を水につけて、相手の刀へ投げかける。それはキリキリッと鎖のように捲きついて、いつかな離れればこそ――。
「おいそれとは取れぬもの……まず、そのお刀は、お捨て召され」
 いま、隅のほうから峰丹波、こう冷笑を走らせたも、道理です。
 十方不知火流(じっぽうしらぬいりゅう)の秘伝中の秘伝、奥の奥の奥の、そのまた奥の、ずっと奥の――どこまでいっても限(き)りがございません……奥の手。
 たいへんやかましいんですなア、この刀絡め。
「ヒ、卑怯な!」
 急にひっそりとしたなかに、火を噴かんず勢いの暴れン坊の呻きが、聞こえた。
 しかし。
 勢いばかりよくったって、綿に包まれた刀……蒲団を着た刀なんて、およそ役にたたない。
 ふとん着て寝たる姿や東山。しごくノンビリとしちまって、この乱刃の場には、縁の遠い代物(しろもの)だ。
 呆然と立ちつくした源三郎の耳に、この時、米が煮えるように、クックッと四方から漂(ただよ)ってきた音――それは、等々力(とどろき)十内(ない)、岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)ら、司馬道場のやつらの、呼吸をつめた笑い声でありました。
 闇の部屋にあって、源三郎は、絵巻物をくりひろげるようにハッキリと、ここにたちいたった径路を見た。わが身にせまる危機を感じた。全身に、汗の湧くのをおぼえた。
 本郷の、道場へおしかけて、がんばりあいをつづけていたのだが、婿とは名のみ、萩乃とはまだ他人の仲です。若さと力を持ち扱った今朝のことだ。急に思いついて、遠乗りに出たのだ。
 それも。
 江戸の地理は暗いといった自分に、墨堤(ぼくてい)へ――とすすめて、この方面へ馬の鼻を向けたのは、門之丞だった。
 考えてみると、あの門之丞がくさい。
 途中から雨になって、引っ返そうとしたのを、先に立って、無理にここへ案内して来たのも、門之丞……いよいよ、怪しいのは門之丞だ。
 ここは、向島(むこうじま)を行きつくした、客人大権現(まろうどだいごんげん)の森蔭、お蓮さまの寮です。こんなところに、司馬家の別荘があろうとは、源三郎、知らなかった。ましてや今、お蓮様、丹波の一党、十五人ほどの腕達者が、ひそかにここへ来ていようとは! 近ごろ道場に姿の見えないことだけは、うすうす感づいていたけれども。
 門之丞はいつのまにか敵と内通して、はじめから計画的に、若殿源三郎をこの窮地におとしいれたに相違ない。その門之丞は、さっき、しきりに源三郎に心を残す玄心斎、谷大八の二人とともに、どこか控えの間へ招(しょう)じ去られたきり、なんの音沙汰もない。寮の内は、森閑として、
 とっさに、これだけのきょう一日の追憶が、源三郎の脳裡(あたま)を走ったのでした。
 はかられたと知った源三、血走る声で、
「爺(じい)!、安積(あさか)の爺! ダ、大八ッ――!」
 叫んだ刹那です。
「筑紫(つくし)の不知火(しらぬい)は、闇黒(やみ)にあって初めて光るのじゃっ!」
 岩淵達之助の一刀が、右から躍って……。

       二

 岩淵の達ちゃん……なんて、心やすく言ってもらいますまい。
 岩淵達之助、この人は、泣く子もだまるといわれた怖いオッサンで、本郷界隈では、だだッ児(こ)の虫封じに、しばしばその名を用いられた。これじゃアまるで、小児科の適薬みたようです。
 冗談はサテおき。
 司馬道場では峰丹波から数えて二番目の使い手。
 いったい、物語に出てくる女といえば、こいつがそろいもそろって、みんな美人。剣術つかいは、出てくるのも出てくるのも、かたっぱしから剣豪だらけで、まことに恐れ入りますが、しかし、考えてみると、これでなくっちゃア話になりません。弱い剣士なんてエのは、場(ば)ちがいです。あつかわないんです。
 剣豪のうえに大(だい)剣豪あり、そのまた上に大々(だいだい)剣豪があるから、物事がこんでくる。
 で、今。
 筑紫の不知火は闇に光る――なんかと、ひどく乙(おつ)なことを言って、畳を踏みきる跫音(あしおと)すごく、源三郎に斬りかかってきたのが、この岩淵達之助だ。
 人の刀を使えなくしておいてから、切るたんかでは、たかが知れている。
 はたして。
 ボンヤリ立っていた源三郎だったが、太刀風三寸にして剣気を察した彼、フイと身をそらしたから、はずみをくらった岩淵達之助は、刀を抱いたまま部屋の向うへスッ飛んで、どすん! 御丁寧に襖(ふすま)とでも接吻したらしい音。なるほど、不知火のような刀影が、見事闇黒(やみ)に白線をえがいて走りました。
 これだから、剣豪もあんまり当てにならない。
 といって、この醜態で達之助をわらうことはできないのだ。なんと言っても、相手は伊賀の暴れン坊である。刀は絡(から)められても、腕は絡(から)められない。
 真綿のへばりついた長剣を、依然として下々段にかまえ、壁を背に、スーッと静かに伸び立っている。
 柳生流でいう、不破(ふわ)の関守(せきもり)……。
 やっぱり、この構えだけは破れない――と見えたのは、ホンの二、三秒(びょう)でありました。なにしろ、この恐ろしい敵の手にある刀は、もう刀じゃなく、ステッキのようになってるんだから、そう用心することはありません。不知火の連中、一時に気が強くなった。
 もりあがる殺気に、四方のやみを裂いて数本の刃線が、一気に源三郎をおそった。呶(ど)号する峰丹波。同士討ちを注意する、あわただしい等々力十内の声……入りみだれる跫音と、胆にしみる気合いと。右から左から、前からうしろから、ただ一人を斬りに斬った。
「えェイッ! これでもかっ!」
「さ、この一太刀で冥途(めいど)へ行けっ!」
「これが引導だっ!」
「おいっ、とびちがえては危い。一人ずつかかれっ!」
「ア痛(いた)っ! 誰かの斬っ尖が、おれの指にさわったぞ」
 だらしのないことを言うやつもある。黒闇闇裡(こくあんあんり)――聞こえるのは、不知火連のかけ声だけ、閃めくのはその一党の剣光のみ。
 源三郎は、音(ね)もたてない。この刀林の下、いかな彼もたまるまい。すでに膾(なます)にきざまれたに相違ないのだ。
 と! この時です。廊下(ろうか)のほうからこの部屋へ、ぽっと、一道(どう)の明りがさしてきて、
「まあ、お前たち、しばらくお待ちったら! しばらく――」
 意外、この場の留め女が、お蓮様とは!

       三

 ただでは刃向かえぬ手ごわいやつをやっと謀略でおびきよせて、せっかく殺しかかったこの仕事なかばに、自分でここへ出て来て止めるとは!
 と、丹波をはじめ一同は、いぶかりながらも、とにかく主筋(しゅすじ)となっているお蓮さまのお声がかりだから、みんな不平そうに刀を引いた。
 でも、内心、仕事なかばどころか、もう完全に仕事は終わったと思ったのです。
 みなの剣は血にぬらつき、たしかに、返り血らしい生あたたかいものをあびた覚えもある。
 いま、部屋の中に罩(こ)もっているのは、むっと咽(む)せっかえるような、鉄錆(てつさび)に似た人血のにおい……一党は、手さえ血でべとべとしている。
 ここへ今、灯がはいれば、たたみには深紅(しんく)の池が溜って、みじめに変わりはてた伊賀の若様の姿が、展開されるだろう――。
 そう思って、早く燈火を歓迎するこころ。
 一同、シンと声をのんで、明りの近づくほうをふり返りました。
「まあ、しばらく、しばらく、お待ち……」
 お蓮さまはあたふたと、さやさやと衣擦(きぬず)れの音をさせてはいってきた。
「なんですねえ、ドタバタと、騒々しい!」
 さっき宵の口に、源三郎の夕餉(ゆうげ)に給仕に出た少年が、先に立って手燭(てしょく)をささげている。
 その光に。
 さッと室内の状(さま)が、うかび出た。
 とたんに。
 峰丹波、等々力十内、岩淵達之助、ほか十数名。
「ヤヤッ! これはっ――!」
 驚愕の合唱をあげた。
 お蓮様は? と見ると、柳の眉の青い剃りあとを、八の字に、美しい顔をひきゆがめたなり、声もなく立ちすくんでいます。
 無理もない。
 見るがいい!……室のまん中に全身朱(あけ)にまみれて長くなっているのは、不知火門弟の若い一人! 仲間じゅうでよってたかって斬りさいなみ、突きまくった刀痕は、頸、肩、背といたるところ、柘榴(ざくろ)のごとく口をあけて、まるで、蜂の巣のよう――!
「ウーム! あやまって、とんだ惨(むご)いことをいたした……」
 悄然(しょうぜん)たる丹波の言葉も、誰の耳にもはいらないらしく、一同、刀をさげ、頭(こうべ)をたれて、黙々とその無残きわまる同志の死体を、見おろすばかり、頓(と)みには声も出ません。
 こんなこととは、誰(だれ)不知火(しらぬい)。
 道理で、なんだか手応(てごた)えが弱いと思った。
「迷わず成仏(じょうぶつ)――」
 なんかと、かってな奴があったもので、一人が片手を立てて拝んだりしたが、こいつは迷うなったって、無理です。これじゃア成仏できますまい。
 足もとにばかり気をとられて、一同がポカンとしている時、
「ヤヤ! じゃ、かんじんの源三郎は? どこに?」
 と気がついたのは、お蓮さまだ。見まわすまでもなく、広くもない座敷、片隅へ行ったお蓮様の口から、たちまち、調子(ちょうし)ッぱずれのおどろきの叫びが逃げた。
 伊賀の源三郎、どこへも行きはしない。
 ちゃんと床の間へあがりこんで、山水(さんすい)の軸(じく)の前にユッタリ腰を下ろし、高見の見物とばかり、膝ッ小僧をだいているではないか!
 ニヤニヤッと笑ったものだ。
「もう出てもよいかナ」

   思案(しあん)のほか


       一

 チャリン! 揚(あ)げ幕(まく)をはねて花道から、しばらく……しばらくと現われる、伊達姿女暫(だてすがたおんなしばらく)。
 この留め女の役を買って、この場へ飛びだしたお蓮様の気持たるや、さっぱりわかりません。
 いや、お蓮さまにかぎらず、だいたい女というものは、そう簡単に割りきれる代物(しろもの)ではないんで。
 女性は男性にとって、永遠の謎でございます。その謎のところがまた、男をひくのかも知れない。
 道場(どうじょう)横領(おうりょう)の邪魔もの、源三郎を亡きものにしようと、ああして策謀の末、やっとのことで今しとめようというどたんばへ、こうして止めにはいったお蓮さまの心理。
 恋している男を、いざとなってみると、とても殺せなかったのかも知れません。
 また。
 自分に素気(すげ)ない源三郎に、この恩を売っておいて、うんと言わせようのこんたんかもしれない。
 どっちにしろ、源三郎としては今の場合、一難去ったわけですから、その細長い、蒼白い顔をニヤッと笑わせて、のこのこ床の間からおりてきた。
 刀の真綿はすでにとりさって、ピタリ鞘におさめ、なにごともなかったような落とし差し……大きくふところ手をして、ユッタリとした態度(ものごし)です。伊賀の暴れン坊、女にさわがれるのも無理はない。じつに、見せたいような男っ振りでした。
 丹波の一味はあっけにとられ、刀をさげて、遠巻きに立って眺めるのみ――もう源三郎に斬りつける勇気とてもございません。
 血みどろの死骸を見おろした伊賀の若様、ちょっと歩をとめて、
「身がわりか」
 と言った。ふところの手を襟元からのぞかせて、顎(あご)をなでながら、いささか憮然(ぶぜん)たる面(おも)もち。
 と、血のとんでいる畳に、白足袋(しろたび)[#「白足袋(しろたび)」は底本では「白(しろ)足袋(たび)」]の爪立ち、さっと部屋を出ていった。
「源様、どうぞこちらへ。ちょっとお話し申しあげたいことが……」
 お蓮さまは、あわてて後を追う。前髪立ちの少年が、手燭をかかげて急いでつづけば、あおりをくらった灯はゆらゆらとゆらいで、壁の人影が大きくもつれる。
 バタバタと三人の跫音が、廊下を遠ざかって行きます。
 あとに残された一同、あんまりいい気もちはいたしません。
「なんだ、馬鹿にしておるではござらぬか。殺すはずのやつを助けて、アノ源さま、どうぞこちらへ――か。畜生ッ!」
「おのおの方はお気がつかれたかどうかしらぬが、お蓮の方は眼をトロンとさせて、彼奴(きゃつ)を眺めておられたぞ。チエッ、わしゃつらいテ」
 なんかとガヤガヤやっている時、お蓮さまは、悠然たる源三郎の手を持ち添えぬばかりに、やがて案内してきたのは、細い渡廊(わたり)をへだてた奥庭の離庵(はなれ)です。
 雲のどこかに月があるのか、この茶庭の敷き松葉を、一本一本照らしだしている。
「あの、もうよいから、灯りはそこへ置いて、お前はあっちへ行っていや」
 とお蓮様、にらむようにして小姓を去らせた。
 源三郎は突ったったまま、
「安積玄心斎、谷大八、門之丞の三人は、いかがいたしましたろう」
 ぽつりと、きいた。

       二

 お蓮様は、その問いを無視して、白いきゃしゃな手をあげて、自分の前の畳をぽんとたたき、
「ま、おすわりになったらいかが? 源さま」
 源三郎は、依然としてふところ手。
 いま、雨と降る白刃の下をくぐった人とも思えぬ静かさで、
「供の三人は、どこにおりますか、それを伺いたい」
 言いながら、しょうことなしに、そこに片膝ついた。
 まったく、不思議。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、どこへつれさられたのやら、この広くもなさそうな寮のうちは森(しん)として、たとえいくら間(ま)をへだてていても、今の斬合いが、三人の耳へはいらないはずはないのだけれど。
 真夜中の空気は、凝(こ)って、そよとの風もございません。垣根のそとは、客人大権現(まろうどだいごんげん)の杉林。陰々(いんいん)たる幹をぬって、夜眼にもほのかに見えるのは、月を浮かべた遠い稲田の水あかりです。
 その、田のなかの細道を、提灯(ちょうちん)が一つ揺れていくのは、どこへいそぐ夜駕籠か。やがてそれも、森かげへのまれた。
 フと、くッくッと咽喉(のど)のつまる声がして、源三郎はギョッとして[#「ギョッとして」は底本では「ギヨッとして」]お蓮様を見かえりました。
 顔をおおって、お蓮さまは泣いている。小むすめのように、両の袂(たもと)で顔をかくし、身も世もなく肩をきざませているお蓮様――。
 と、その声がだんだん高くなって、お蓮さまはホホホホホと笑いだした。
 泣いているんじゃアない。はじめっから笑っていたんだ。
「ほほほほほ、まあ! 源三郎さんのまじめな顔!」
 チラと膝先をみだして、擦りよるお蓮様のからだから、においこぼれる年増女の香が、むっとばかり源三郎の鼻をくすぐります。
「ねえ、源さま。なるほど、お亡くなりになった先生は、萩乃の父ですけれど、それなら、いくら後添えでも、このわたしは彼娘(あれ)の母でございますよ」
 いかにもそれに相違ないから、源三郎はだまっていると、お蓮さまはそれにいきおいを得て、
「それなら、いくら父だけが一人で、あなたを萩乃のお婿さまにきめて死んでいったところで、この母のわたしが不承知なら、このお話は成りたたないじゃアありませんか」
 この辺から、お蓮様の論理は、そろそろあやしくなって、
「いつまでたったって、萩乃はあなたのお嫁じゃございませんし、道場もあなたのものではないのですよ、源様」
 ほっそりした指が、小蛇のように、熱っぽく源三郎の手へからみついてくる。
「あなただって、何も、萩乃が好きのどうのというのではござんすまい。いつまで意地っぱりをおつづけ遊ばすおつもり? ほほほ、いいかげんにするものですよ、源様。そんなにあなたが、司馬の道場の主(あるじ)になりたいのだったら、あらためて、このわたしのところへお婿入りして……ネ、わかったでしょう?」
 道ならぬ恋の情火に、源三郎は思わず、一、二尺あとずさりした。
「母上!」
 と相手の言葉が、この場をそのまま、身をかばう武器です。

       三

 刀で殺さずに、色で殺そうというのでしょう。
 剣にはどんなに強い男でも、媚びには弱いものです。
 イヤ、男を相手にして強い男に限って、女には手もなくもろいのがつねだ。
 千軍万馬のお蓮様、そこらの呼吸(こきゅう)をよっく心得ている。
 だが、なんぼなんでも娘となっている萩乃の婿、いくらまだ名ばかりの婿でも、その源三郎にこうして言いよるとは、これはお蓮さまも、決して術の策のというのではございません。
 真実(しんじつ)、事実(じじつ)、実際(じっさい)、まったく、断然(だんぜん)、俄然(がぜん)……ナニ、そんなに力に入れなくてもよろしい、このお蓮様、ほんとに伊賀の暴れン坊にまいっているんだ。
 男がよくて、腕がたって、気性(きしょう)が単純で、むかっ腹がつよくて、かなり不良で、やせぎすで、背が高くて、しじゅう蒼み走った顔をしていて、すこし吃(ども)りで、女なんど洟(はな)もひっかけないで、すぐ人をブッタ斬る青年……こういう男には、女は片っ端から恋したものです。
 むかしのことだ。今はどうか知らない。
 が、今も昔も変わらぬ真理は、恋は思案のほか――お蓮さまは、モウモウ源三郎に夢中(むちゅう)なんです。
 立とうとする源三郎へ、背をもたせかけて、うしろざまに突いた手で、男の裾をおさえました。
「ほんに気の強いお人とは、源さま、おまはんのことざます」
 そんな下品なことは言いませんが、ぐっと恨みをこめて見上げるまなざしには、まさに千鈞(きん)の重みが加わって、大象(だいぞう)をさえつなぐといわれる女髪(にょはつ)一筋、伊賀の若様、起(た)つに起てない。
 剣難は去ったが、この女難はにがてです。
 もっとも、女にかけては、剣術以上に名うての源様のことだから、たいがいの女におどろくんじゃあありませんが、このお蓮さまだけは、どう考えたって、そんな義理あいのものじゃアない。
 第二の危機……。
「母上としたことが、チチ、近ごろもってむたいな仰せ。げ、源三郎、迷惑しごくに存ずる」
 角ばった口上――しかも、この場合母上という呼びかけは、熱湯に水を注ぐよう、まことにお座のさめた言葉ですが、お蓮様は動じるけしきもなく、
「わたしの言うことをきけば、いいことばかりですよ、源さま」
「ハテ、いいことばかりとは?」
「あなたは何か、命にかけて、探しているものがおありでしょう」
「う、うん」
 源三郎は、顔色を騒がして、
「ソ、それは、母上もかの丹波めも、同じ命にかけてさがしておるものでござろう」
「さ、そのこけ猿の茶壺……」
「ウン、そのこけ猿の茶壺は――?」
 二人はいつのまにか、息を凝(こ)らしてみつめあっている。
「ほほほほほ、そのこけ猿ですが……当方ではもう探しておりません」
「ナナ、何? では、探索をうちきられたか」
「こっちの手にはいりましたから、もうさがす要はございませんもの」
「何イッ! こ、こけ猿を入手したっ!」
「はい。今この寮にございます。いいえ、この部屋にあります」
 と、つと立ちあがったお蓮様の手が、床わきの違(ちが)い棚(だな)の地袋を、さっと開くと!
 夢にもわすれないこけ猿が、チャンとおさまって――源三郎、眼をこすりました。

       四

 思いきや、われ人ともに狂気のようにねらっているこけ猿の茶壺が、いつのまにかこの一味の手にはいって、今この部屋の、この戸棚のなかにしまってあろうとは!
 源三郎は、眼をしばたたきました。と見こう見するまでもなく、古びた桐の木箱を鬱金(うこん)の風呂敷につつんであるのは、まぎれもないこけ猿だ。
「ド、ド、どうしてこの壺がここに――?」
 おめいた源三郎、走りよろうとした。
 と、いちはやくお蓮さまの白い手が灯にひらめいて、この地ぶくろの戸をしめていた。
 そして、はばむがごとく、うしろざまに手をひろげて、ピタリその前にすわったお蓮様。
「ほほほほほ、今になってそんなにびっくりなさるなんて、源さまもよっぽど暢気(のんき)ですよ。なんとかいう一ぽん腕の浪人が、橋の下の乞食小屋に、後生大事に守っていたのを、丹波が人をやって、こっそり摸(す)りかえさせたんです」
 寸分違わない風呂敷と木箱をつくり、その箱の中には、破(わ)れ鍋(なべ)一個と「ありがたく頂戴(ちょうだい)」と書いたあの一枚の紙片……左膳の小屋からほんものを盗みだし、かわりにこれを置いたのは、さては、峰丹波の仕業であったのか。
 それとも知らず左膳は、あの高大之進の一党が斬(き)り込んだ時、命を賭して破れ鍋をかかえて、走ったとは、左膳一代の不覚――お藤の家でチョビ安をおさえられて、それと交換に、おとなしく大之進方へ渡した箱の中から、衆人環視(かんし)のなかに出てきたのは、この鍋と、ありがたく頂戴の紙きれであった。
 源三郎は、そんないきさつは知らないけれど、ほんもののこけ猿は、とうの昔にここにあったのかと、顔いろを変えてお蓮様につめより、
「さ、渡されい。その壺は、品川の泊りにおいて拙者が紛失いたしたるもの。正当の所有者は、いうまでもなく余である。おわたしあって然るべしと存ずる」
 ふところ手のまま立って、じっとお蓮さまを見おろしながら、退(の)けっ! という意(こころ)……懐中で肘(ひじ)を振れば、片袖がユサユサとゆれる。
 お蓮様は笑って、
「そうですとも。この壺は、あなたのですとも。ですから、お返ししないとは申しませんよ」
「うむ、では穏便にお返しくださるか」
「はい。お渡ししましょう。でも、それには条件がございます、たった一つ」
「条件? ただ一つの、とはまた、どういう――?」
「はい」
 とお蓮さまは恥も見得もうちわすれた、真剣な顔で、
「女子(おなご)の口から言いだしたこと。わたしも、ひっこみがつきませぬ。源様、そうお堅(かた)いことをおっしゃらずとも、よろしいではございませんか」
 眼をもやして、すがりついてくる。源三郎は一歩さがって、ひややかな笑いに口をゆがめ、
「いや、これは伊賀の源三郎、あまりに野暮(やぼ)でござった。必ずともにあなたの女をお立て申すにつき、ササ、壺をこちらへ……」
「では、あの、わたしの言うことを――」
「うむ。きっと女を立てて進ぜるによって、早く壺を……」
 恋は莫連者(ばくれんもの)をも少女にする。頬に紅葉をちらしたお蓮様が、
「おだましになると、ききませんよ」
 キュッと媚(こ)びをふくめて、源三郎を見上げながら、地袋の戸をあけて壺をとりだした瞬間! 腰をひねって抜きおとした源三郎の長剣、手に白い光が流れて、バサッ! 異様な音とともに畳を打ったのは、お蓮様の首……ではない。つややかな切り髪であった。
「これで女が立ち申した。あなたが女を立てるには、故先生の手前、この一途あるのみ、ハッハッハ」
 源三郎の哄笑と同時に、壺の箱は、もはやかれの小わきに抱えられていた。

       五

「もはや何刻(なんどき)であろうの?」
 大刀を抱いて、草のなかにしゃがんだ安積玄心斎は、そういって、かたわらの谷大八をかえりみた。
「さア、月のかたむきぐあいで見ると――」
 と、大八の首も、月のようにかたむいて、考えにおちた。
 客人大権現(まろうどだいごんげん)の森蔭。
 お蓮さまの寮とは、反対側のこの小藪(やぶ)のなかです。前は、ちょっとした草原になっていて、多人数の斬りあいには、絶好の場処。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、誰が言いだしたともなく、さっきコッソリ寮を抜け出て、この灌木(かんぼく)のかげに身をひそめ、眼前の草原に人影のあらわれるのを、いまか今かと待っているのだ。
 それというのが。
 とめてもきかずに、若君源三郎が門之丞を案内にたて、駒(こま)をいそがせてあのお蓮さまの寮へ行き着いたのは、まだ宵の口であった。
 まもなく……。
 源三郎には馳走の膳がすえられ同時に、三人の供の者は、不安のこころを残しつつ、別室へさがって、これも夕餉の箸をとることになったが――。
 その時、三人のいる控えの間の襖のそとに、峰丹波をはじめ二、三人の声で、容易ならぬひそひそ話。
「では、なにか事をかまえて、この向うの野原まで源三郎どのをおびきだし……」
「そうじゃ、多数をもって一人をかこみ、じゃまを入れずに斬り伏せるには、あの草原こそ究竟(くっきょう)、足場はよし、味方は地理を心得ておるしのう――」
「雨後の月見にでもことよせて、お蓮の方にひきだしてもらうのじゃナ」
「なにしろ相手は、名にしおう伊賀の暴れン坊じゃで、おのおの方、手抜かりなく――」
 と、コソコソ耳こすりする声が、唐紙を通して三人の神経へ、ピンとひびいた。
 門之丞のほか、これが策略だと知る者は、一人もありません。
 こうして、聞こえよがしに知らしておけば、玄心斎、大八らは、先をこす気で寮を出て、その付近に忍んで待つに相違ない。腕っ節の強い供の者を出してやったあとで、源三郎を討ちとろうという計画だったのだ。
 敵に内通している門之丞は、はじめから委細承知で、もっとも顔に動いているので。
 この内密話を聞いた玄心斎と大八は、食事もそこそこ、門之丞を加えて三人、すぐさまソッと寮をあとにして、さっきからこの藪(やぶ)かげに、夜露にうたれ、月に濡れて、かくは乱闘の開始を待っているのだけれど……。
 いつまでたっても、人っ子ひとり出てこない。
 手ごわい玄心斎、大八らは、計略をもって遠ざけた。ここまでは、丹波の一味にとって、すべて順調にはこんだのだが――。
 さてこそ。
 さっき室内の乱刃で、源三郎がいくら呼ばわっても、玄心斎も大八も、ウンともスンとも言わなかったわけ。こんな遠いところにがんばっているんだもの。
「どうしたというのであろう、もうやって来そうなものだが」
 ふたたび、師範代玄心斎の言葉に、
「なにか手違いでもあったのでは……」
 と、あたりを見まわした大八、大声に、
「ヤヤッ! おらん! 門之丞がおらんぞ、門之丞が!」

       六

 最初、源三郎の一行が、江戸入りをして品川へ着いた夜、命を奉じて一人駈け抜けて、妻恋坂の道場へ到着の挨拶に走ったのが、この門之丞でした。あの時、彼は、司馬家の重役が来て相当の応対をするどころか、伊賀の柳生源三郎など、そんな者は知らぬと、玄関番が剣もほろろに追いかえしたと火のように激昂して品川の本陣へ立ち帰り、復命したものだったが……。
 その後も。
 何かにつけ門之丞は、源三郎の身辺近く仕えて、あの、不知火銭をつかんで源三郎が、故先生の御焼香の席へ、押し通ったときも、かれ門之丞、大きな一役をつとめたし、じっさい玄心斎老人、谷大八とともに、源三郎側近の三羽烏だったのに――。
 イヤ、人の心ほど、当てにならないものはありません。
 恋が思案のほかなら、人のこころも思案のほかです。コロコロコロロと、しょっちゅうころがっているから、それでこころというのだなんて、昔の心学の先生などが、横山町(よこやまちょう)の質屋の路地奥なんかに居(きょ)をかまえて、オホン! とばかり、熊さん八(はっつ)あんや、道楽者の若旦那相手に説いたものですが、まったくそうかもしれません。きょうの味方もあすの敵となる。きょうの敵も、あしたは味方……その人心機微の間に処してゆくところにこそ、人の世に生きていく無限のおもしろみがあるのでございましょう。
 しかし、むろん、しじゅう転がっているこころなんてものは、大丈夫の鉄石心、磐石心ではない。
 いやどうも、話がわきみちへそれて恐れ入ります。
 ところで、この門之丞の心が、それこそチョイト門からころがりでて、とほうもない方向へ走りだし、いまこの丹波の一党に加担するようになったのは、あの十方斎先生のお葬式の日からでした。
 と言うのは。
 かれ門之丞、あの時主君源三郎にくっついて、棺を安置した奥の間へ踏みこんだのでしたが、とたんに彼は、白の葬衣をまとって上座にさしうつむく萩乃の姿を眼にして、生まれてはじめて、ハッと、電気にうたれたように感じたのだ。
 雨にうたれる秋海棠(しゅうかいどう)……なんてのは古い。
 激情の暴風雨(あらし)にもまれて、かすかに息づくアマリリス――こいつは、にきびの作文みたいで、いやですネ。
 とにかく、なんともいえないんです、萩乃さまの美しさ、いじらしさといったら。
 ふたたび、恋は思案のほか……。
 脇本門之丞、当年とって二十と六歳。萩乃様を一眼見て、背骨がゾクッと総毛走った拍子に、スーッと恋風をひきこんじまった。
「アア、世の中には、こんな女もいたのか――」
 と、それからというものは門之丞、フワアッとしちまって、はたの者がなにをいっても、てんで用が足りない……夢遊状態(むゆうじょうたい)。
 この門之丞という青年は、源三郎をすこしみっともなく、色を黒くしたようながらで、剣は相当たって、まんざらでもない男なんです。
 朝夕道場に起き伏ししているうちに、チラチラと萩乃を遠見する機会もおおい。
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