丹下左膳
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著者名:林不忘 

 ヒラリ、馬をおりるが早いか、まごつく十内を案内にうながしたてて、そのまま庭の柴垣にそって、雅(みや)びた庭門をあけさせ、飛石づたいに庵(いおり)のほうへと、雨に追われるように駈け込んでいきます。
 つづく玄心斎、谷大八も、自分達がついていて、若殿の身に何事かあってはたいへんだから、馬を木蔭へつなぐのも一刻を争い、門之丞の横顔をにらみつつ、小走りに源三郎のあとを追った。
 繰り残した雨戸の間(あいだ)から、庭に面した奥座敷に招じあげられた源三郎、見まわすとそこは、落ちついた風流(ふうりゅう)な部屋で、武芸者の寮とは思われない、静かな空気が流れている。
 誰もいません。
 源三郎は、むんずと床柱を背にすわって、腕組みをしました。顔に見覚えのある、司馬の門弟の少年が一人、褥(しとね)、天目台(てんもくだい)にのせた茶などを、順々に運び出てすすめたのち、つつましやかにさがってゆく。
 火燈(かとう)めかした小襖が、音もなくあいた。
 さやかな絹ずれの音とともに、あられ小紋の地味な着付けのお蓮様が、しとやかにはいってきた。
 二人は、無言のまま、チラと顔を見合った。切り髪のお蓮様は、いたくやつれているように見えるものの、その美しさはいっそうの輝(かがや)きを添えて、見る人の心に、いい知れぬ憐れみの情を喚び起こさずにはおかないのでした。
 横手に並ぶ玄心斎、門之丞、大八の三人には、会釈(えしゃく)もくれずに、源三郎と向かいあって座についたお蓮様は、白い、しなやかな指を、神経質らしく、しきりに膝の上で組んだり、ほごしたりしながらも、
「まあ、ひどい雨ですこと」
 思いついたように、戸外(そと)の庭へ眼をやり、
「この雨で、せっかくわたくしの丹精した芙蓉(ふよう)も、もうおしまいですね」
 と、笑った。雨になるか、風になるかわからない、この会合のまっ先に、お蓮様によって口火をきられた言葉は、これでした。
 お蓮様が尾のない狐なら、丹波はその上をゆく狸であろう。でも、それを承知で、こうして乗りこんで来た源三郎も、ただの狐ではありますまい。間に立って奇怪な行動の門之丞は、さしずめ小狸か……。
 沈黙がつづいています。

   上(うえ)には上(うえ)


       一

 源三郎が、言った。
「しかし、この暴風雨(あらし)のおかげです。きょうわたしがここへ来たのは――わたしにとっては、感謝すべき雨風だ」
 ニコリともしない源三郎の蒼顔に、お蓮様は、平然たる眼をすえて、
「あら、では、この雨の中を、わざわざお訪ねくだすったというわけではないんですのね」
 と、チラリと門之丞に視線を投げた。
 膝に手を置いた源三郎の肘(ひじ)が、角張った。
「わざわざお訪ねするのでしたら、こう簡略にはまいりません。なんのお手土産(みやげ)もなく」
 皮肉に、
「供もこれなる三人きり……まず、煮て食おうと焼いて食おうと、ここはそちらのごかってでござろうかな、ハハハハハ」
「ちょっと風邪(かぜ)心地でございましてね」
 とお蓮様は、まるで親しい人へ世間話でもするように、
「この四、五日、こっそりこちらへ養生にまいっておりました」
「それはいけませぬ。それで、もう御気分はよろしいのですか」
「はあ、ありがとう。もうだいぶいいのです」
「し、しかし、もう御養生の要も、あるまいと存じますが……」
「ええ、もうこんなによくなったのですから、ほんとに、養生の要もありません。近いうちに本郷のほうに帰ろうかと、思っていたところでございますよ」
「いや!」
 と、源三郎のつめたい眼が、真正面からお蓮様を射て、
「いや、私が養生の必要がないと申したのは、そういう意味ではござらぬ。もう、母上……さればサ、今まで母上と思っていましたからこそ、手加減をいたしておりましたが……もはや母上と思わず、ここでお目にかかったのを幸い、お命をいただくことにきめましたによって、しかる以上、もう御養生の要もござるまいと、かように申しあげたので――」
 ニッコリしたお蓮様は、
「このあたしがあなたの母では、たいへんなお婆さんのようで、あんまりかわいそうですよ、ほほほほほ。ですから、あなたももう母と思わずに、斬るというんでしょうが、なら、そこが相談ですよ、源様。おや! こちらにこわい顔をした人が、三人も並んでいては、お話がしにくいけれど、ホホホホホ……」
「退(さ)げましょうか」
 源三郎の言葉に、玄心斎と大八は、懸命に眼くばせして、死んでもこの座を起たない申しあわせ。
 少女のように、恥じらいをふくんで笑い崩れたお蓮様。
「いえ、誰がいても、思いきって言いますけれど、ねえ、源さま、いつかのお話は――」
「ナ、なんです、いつかの話とは?」
「あたしとしては、あなたが道場のお跡目(あとめ)になおるに、なんの異存もございませんけれど、ただ、そのお婿さんの相手が、あの萩乃ではなく、このあたしでさえあれば――」
「またさような馬鹿馬鹿しいことを!」
「でもね、源三郎さま、いま此寮(ここ)には、不知火流の免許取りばかりが、十五人ほどいっしょに来ているんでございますよ。よくお考えにならなければ、御損じゃないかと……」
「フン! その十五人が、またたくまに、一人もおらんようになりましょう。ついでに母上、あなたも……」
 言いながら源三郎は、今はじめて、夕陽(ゆうひ)に輝く山桜のような、このお蓮様の美しさに気がついたように、眼をしばたたいたのでした。

       二

「とにかく、母上――」
 言いかける源三郎を、お蓮様は、ヒラリと袂を上げて、打つような手つきをしながら、
「まあ! その母上だけは、どうぞ御勘弁を、ほほほほほ」
「いや、拙者にとっては、あくまで母上です」
 と源三郎は、鯱(しゃち)が鉛(なまり)を鋳込(いこ)まれたように、真っ四角にかたくなって、
「おっしゃりたいだけのことを、おっしゃってください。うかがいましょう」
 と、横を向く。
 若い蒼白な美男、源三郎――剣の腕前とともに、女にかけても名うての暴れ者なのだが――。
 このお蓮様の顔を前にしていると。
 その、黒水晶を露で包んだような瞳のおくへ、源三郎、ひきこまれるような気がするのだった。白いほおのえくぼは、小指の先の大きさでも、大(だい)の男を吸いこむだけの力はある。彼がしきりに母上、母上と呼ぶのは、そうでも言って絶えず自分の心に枷(かせ)を加えようという気持なので。
 お蓮様の視線を避けて、くるしそうに首をめぐらした源三郎の眼の前に、玄心斎、谷大八の二人は、今にも、スワ! と言えば膝をたてそうに、おっとり刀の顔。ふたりに挟まれた門之丞は、これはまた心ひそかに、何かの成算を期するもののごとく、腕を組み、眼をつぶって、じっと天井をふりあおいでいる。
 暴風雨(あらし)の音は、すこし弱くなった。寮のなかはシンとして、十何人もの荒らくれ男が、別室にひそんでいるとは思われないしずかさ。
 その静寂のなかに、かすかにすすり泣きの声が聞こえて、源三郎はぎょっとして、あたりを見まわしたが……。
 見まわすまでもなく。
 その泣き声の主はお蓮さま――何か急に思い出したように、彼女は襦袢(じゅばん)の袖を引き出してしきりに眼へ当てながら、身も世もなさそうに、泣き声をかみしめている。
「強いようなことを言ってみても女ですもの……あたくしは、源様あなたの御慈悲がなくては、生きて行けません」
「司馬先生の御遺志どおり、兄との約束にしたがって、穏便に事を運べば、源三郎、決して母上を粗略にはいたしませぬ考え――一に、そちらの出ようひとつでござる」
「はい、よくわかりました。はじめて、それに気がつきました。どうぞよろしくお取りはからいくださいますよう……」
「ソ、それは本心でござるな」
 いきおいこんで乗り出す源三郎を、玄心斎と大八は、傍(かた)えから制して、
「シッ、殿ッ、これには何か魂胆が――」
「若ッ、こう急に降参するとは思えませぬ」
 かわるがわるささやけば、お蓮様は、涙に輝く眼で一座を見わたし、
「そう思われても、しかたがござりませんけれど、今まで楯(たて)ついてきましたことは、ほんとに、世間知らずの女心から出た浅慮(せんりょ)、どうぞ、わたしの真心をおくみとりなされて――」
 生一本な源三郎です。このお蓮様の涙は、ただちに源三郎の心臓にふれて、彼は苦しそうに、つと起って縁の雨戸の間から、雨に乱れた庭へ眼を放った。
 さっきお蓮様が丹精していると言った、うす紅色の芙蓉(ふよう)の花は、無残に散り敷いている。それは、いまのお蓮様の姿のように、憐れにも同情すべきものとして、源三郎の眼に映ったのでした。

       三

 お蓮様は、その源三郎の立ち姿を、仮面のような顔で、いつまでも見守っていました。
 玄心斎がニヤニヤして、
「お気が弱くなられましたな、御後室様。ははははは」
 ニッコリうちうなずいたお蓮様、
「気が弱くもなろうじゃアありませんか。あなたのようなお強い方々(かたがた)が、女一人を取り巻いて、いじめるんですもの」
「どうですかナ」
 谷大八も気がるな声が出て、お蓮様と笑いをあわせた。
 源三郎は静かに座に帰り、
「では、ど、どうなさろうというので」
「それを明日にでも、ゆっくり御相談申しあげたいと存じまして」
 チラリと一同の顔を見たお蓮様は、
「わたしは、またすこし悪寒(さむけ)がしてきましたから、これで失礼を」
 衣の重さにも得(え)堪(た)えぬように、お蓮さまはスラリと立って、部屋を出て行きましたが……源三郎はそのあたりを払うばかりの美しさに打たれて、思わず、あと見送らずにはいられなかった。
「本心でござろうか」
 両肘(りょうひじ)を膝に、前屈(かが)みに首を突き出す玄心斎。
 谷大八はせせら笑って、
「さあ、どういうものでしょうな。女の涙は、拙者にはとんと判断がつき申さぬ。だが、まんざら計(はか)りごとのようにもみえなんだが……門之丞、貴公はどう思う」
「殿のお心一つだ。殿がお蓮様をお許しなさろうと思召せば、それで四方八方丸(まる)くおさまって、何より重畳(ちょうじょう)なわけ――だが、あんなにうちしおれておるものを、殿も、お斬りなさるのなんのというわけには、ちとゆくまいかと考えられまする」
 源三郎は、今は小降りになった雨の矢が、裾を払うのもかまわず、竹の濡れ縁に立ち出でて、ふたたびじっとみつめているのは……またしても、見る影もなく花を落とした芙蓉(ふよう)の一株、ふた株。危険なところです――いま気を許しては。
 しかし、上には上ということがある。
 だが、そのまた上に、上があるかも知れない。そしてまた、その上の上に、もう一つ上が……。
 お蓮様が引っ込んで行ったあと家内(やうち)はいっそう静まり返って、峰丹波をはじめ、誰一人、この部屋に挨拶にでる者もありません。
 たださえ暮れの早い初冬の日は雨風に追われるように西に傾いて、いつとはなしに湿った夜気が、この、木立ちの影深い客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内に……。
 どういう計画がひそんでいるかも知れないと、一同はすこしの油断もなく、無言のまま室の四隅から立ち迫る夕闇に眼を据えていますと……。
 ソッと襖があいて、
「お灯を――」
 と、いう声。
 さっきの少年の門弟が、燭台をささげてはいってきた。それを機会(しお)に、
「何もござりますまいが、お食事のしたくを頼んでまいりましょう」
 そう自然らしく言って、門之丞が、少年の後を追うように出ていった。夜になって、また風が出たようすです。轟(ごう)ッ! と、棟(むね)を鳴らす音に、燭台の灯が、おびえたように低くゆらぐ……。

   刀絡(かたなから)め


       一

 門之丞は、そのまま部屋へ帰ってきません。
 やがて、同じ少年の弟子が、敷居ぎわにあらわれて、手を突き、
「御膳部(ごぜんぶ)の用意が、できましてございますが……御家来衆は別室で、ということで、どうぞお二人はあちらへ――」
 と言う。
 玄心斎は、さてこそという眼顔で、源三郎を見た。
「若、わたくしどもも、ここで……」
 そして、少年へ、
「イヤ、拙者らもここで、いただいてかまわぬとおおせらるる。お手数ながら、拙者らの膳も、此室(ここ)へお運びねがおう」
「いや、待て、爺(じい)」
 源三郎は、いつになくニコニコして、
「お、お前達はあっちへ行って食え」
 谷大八が、懸命のいろを浮かべて、
「ですが、殿お一人をここへお残し申して――」
 この言葉に、伊賀の暴れン坊、ムッとしたらしく、
「ヨ、ヨ、余一人を残していっては、不安だというのか。何を馬鹿なことを、ダ、第一、ひとりになるのではない。コ、これを見よ」
 源三郎、膝わきに引きつけた大刀の柄をたたいて、闊然(かつぜん)とわらった。
「心配するでない。客は、主人側のいうとおりになるのが、礼である。玄心斎と大八は、別室へしりぞいて、心おきなく馳走にあずかるがよい」
 顔を見あわせたのは、大八と玄心斎です。なかなか、心おきなく……どころの騒ぎではない。敵の巣の真(ま)ッただなかにすわりこんで、平気で家来を遠ざけようというんですから、この若殿という人間は、危険ということをすこしも感じない、いわばまア一種の白痴じゃないかしら?――長年お側に仕えてきた二人ですが、この時は、そんな気までして、中腰のまま決し兼ねていると、
「あっちへ行って食えと申すに! なぜ行かぬ」
 いらいらした主君の声だ。源三郎の気性は、知りぬいている。もうこうなったら、いくら押しかえしたところで、許されません。かえって、怒りをますばかり……。
「門之丞は――」
 といって、玄心斎は、なおも心を残しながら、起ちあがった。
「は、別室にて、お二人のおいでをお待ちでございます」
 との少年の答えに、
「それみろ。早く行け」
 源三郎がうながす。部屋を出る時に、玄心斎がなんとかささやきますと、
「ウム。心得ておる」
 そう言って源三郎は、大きくうなずきました。
 やがて――。
 大八と玄心斎がその室を去りますと、少年の手で膳部が運びこまれて、源三郎の前に置かれた。
「ソ、そちが給仕をしてくれるのか」
「は。不調法ながら……」
 無言のまま源三郎は、まず、吸い物をすこし椀のふたにとって、少年の前につきだした。
 毒見をしろ……という意(こころ)。少年も、だまってそれを受け取って、口へもっていきます――。

       二

 膳にならんでいるすべての物は、順々にすこしずつ分けて、少年のまえにだまってさしだす……毒殺に備える用心。
 少年もまた、臆する色もなく、それらをみんな口に入れている。すき洩る風になびく燭台のあかりをとおして、じっとそのようすを見守っていた源三郎、笑いだした。
「はッはッは、ド、どうだ、ま、まだ死にそうなようすは見えぬな」
 少年は、ニッコリ微笑して、
「は? お言葉ともおぼえませぬ。それはどういう――?」
「イヤ、まだ腹は痛うならぬかと申すのじゃ、ハツハッハ」
「いえ、いっこうに……」
「うむ、其方(そち)は何も知らぬとみえるナ」
「と申しますと?」
「よろしい。タ、ただ、武将たるもの、敵地にあって飲食をいたすには、これだけの用心は当然――武士の心得の一つというものじゃ」
 眼をまるくした少年は、思わず、
「敵地?」
 と、声を高めました。
 その顔を、源三郎はつくづく見つめて、
「なるほど、其方(そち)はまだ年端(としは)もゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなる縺(もつ)れが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
「は。うすうすは……」
 と少年は、その前髪立ちの頭をしばし伏せましたが、
「しかし、なにとぞ御安心のうえ、お箸をお取りくださいますよう――」
 ウムとうなずいて、源三郎は食事をすすめたが、その間も、気になってならないのは……。
 丹波をはじめ十五人の道場のものどもが、いまだに顔を出さないのみか、さほど広くもなさそうなこの寮(りょう)が、イヤにヒッソリ閑(かん)として、どこにその連中がいるのか、そのけはいすらもないことです。
 挨拶に出べきはず。無礼!――と、いったんは心中におこってみたが、それよりも、不審のこころもちのほうが強い。いま、給仕の少年にきいてみたいと思ったが、なんだかうす気味わるがって、怖れているようで、かれの性質として、それもできないのです。
 もう一つは、あの、うちしおれて、憐れみを乞うたお蓮さまのことば……あれをそのままとっていいかどうか。裏にはうらがありはしないか。
 また、出ていったきり帰らない門之丞と、別室で食事しているはずの玄心斎と大八は、どうしたか――。
 やっぱりあのお蓮様は、斬ってしまうに限る。あしたにでも斬らねばならぬ。それから、峰丹波も……
 源三郎は、そうふたたび心に決しつつ、黙々として箸を置きました。雨に追われて、馬を走らせたので、空腹に、思わず食(しょく)をすごしたようです。
 食後も。
 誰もくるようすはない。
 雨はやみ、風が雲を吹き払って、月が顔をのぞかせたらしい。どこから迷いこんできたのか、死におくれたこおろぎが一匹、隅のたたみに長い脚を引きずっている。
 まるで自分は体(てい)のいい捕虜(とりこ)……気をひきしめねば、と自らをはげましつつも、源三郎、いつしか眼の皮がだるくなってくるので。

       三

 少年の敷いた夜のものにくるまって、源三郎は、なんのうれいも、警戒もないもののごとく、ぐっすり眠った。
 不覚! というよりも、腕の自信が強いからで。
 それは、呼べば応(こた)える別室に、玄心斎、門之丞、大八の三人が、寝もやらず控えている……という心がある。
 あらしの後の静けさは、いっそう身にしみます。土庇(どびさし)を打つ雨だれが、折りからの月を受けて銀に光っているのが、屋内(おくない)にあっても感じられる。
 それほど戸外(そと)は、クッキリと明るい月夜――。
 何刻(なんどき)ほどたったか……フと寝返りをうった源三郎は、瞼(まぶた)に、ほのかに光線(ひかり)を感じて、うす眼をあけました。
 はじめは、月のひかりだと思った。
 それにしては、黄ばんでいる――。
 夜が明けたのかしら……まだ夢にいるような混沌(こんとん)たるあたまで、瞬間、そうも感じたのでした。
 と!
 そっと襖のしまる音がした。といって、誰かがはいってきたのではなく、この時まで室内にひそんでいた何者かが、ちょうど今、忍びやかに出て行ったらしい気配――。源三郎は、一時にパッと眼がひらいて、ハッキリそれを感じた。全身に感じた。
 まるで、暗い海底から、陽のあかるい水面へ泡が立ちのぼって、ポッカリ割れるように、急に、冴えざえとした意識……。
 耳も眼も、異常に鋭くなった源三郎、気がつくと、燭台の灯が、うすあかく天井を照らし出している。
 ふしぎ! 寝る前に、たしかに消したはず。
 源三郎の顔に、ニッと、言うにいわれぬ微笑が――。
 来たナ。何かコソコソやりおるナ、というこころ。
 耳をすますと、ふすまの外で、
「ウム、ぐっすり眠っておるぞ」
 という低声(こごえ)。つづいて、
「だが、敷き寝(ね)しておって、取れぬ……」
 というのは、刀のことを言うらしい。
 源三郎は、床の下にさしこんで寝ている大刀を、そっと上からさすって――またしても浮かぶのは、残忍とも見える、血を待つほほえみ。
 にわかに、室外に、けんめいに笑いをこらえる声が聞こえた。それがだんだん高くなって、ウハハハハ、あははははは、と、突如として家をゆるがす夜中の哄笑、ぞっと総毛立つものすごさをともなって。
 七、八人をうしろに従えて、いきなり、ガラリ! 襖をあけた峰丹波は、
「源三郎殿、夜中ながら、御挨拶に推参……」
 低い声を投げこみましたが――丹波、ビックリした。
 床(とこ)は、もぬけのから……室内には、だれもいない。
 と見えたのは、源三郎、早くも起き出ると同時に、そのあけられたふすまの側の壁に、ピタリ背をはりつけているので。
 稽古襦袢(けいこじゅばん)に袴(はかま)の腿(もも)立ちとった一同、頓(と)みには入りかね、手に手に抜刀をひっさげて、敷居のそとに立ちすくんでいる。
 シイーンと静まり返った中から、やがて、伊賀の暴れン坊のふくみ笑いが……。
「ママ待ちかねておったゾ。ようこそ。サ、サ、ズッとこれへお通りめされ――」

       四

 むやみに飛びこんでは、身体を入れた瞬間に、真上からか、横からか、源三郎の豪刀が伸びてくるにきまっている。
 こうなると、室外(そと)の連中、呼吸をはかって竦(すく)みあうばかりで、いつかな埓(らち)があかない。
 こうした場合の常識……誰かが刀の斬っさきに羽織をひっかけてツイと、部屋の中へ投げこんだ。
 が、児戯(じぎ)――。
 気がうわずっていれば、これに釣られて羽織へ刀を振りおろす。その動きのすきをねらって、一団となっておどりこもうという寸法なんですが、ドッコイ、そんな月並みな手に乗る源三郎じゃアありません。
 ウフフフフフ……と、ふすまのかげから、源三郎の低い笑い。
「よせ、よせッ。こどもだましは!」
 声とともに、忍んでいる源三郎の手もとあたりに、ピカッ! ピカッ! と光のざわめくのが一同の眼を射るのは、明鏡(めいきょう)のように磨(と)ぎすました刀に、うす暗い燭台の灯が、映ろうのらしい。
 そして、源三郎が柄(つか)の握りかげんをなおすたびに、天井から向うの鴨居(かもい)へかけて、白い、ほそ長い閃光がチカチカ走るのが、敷居のそとから、気味わるく見えるのです。
 ちょっとはいれない……。
 深沈たる夜気がこって、鼓膜(こまく)にいたいほどの静寂。これは、声のない叫喚だ。呶号(どごう)をはらむ沈黙だ。
 かくてははてしがない――と見た不知火剣士の一人、つぎの間から壁越しに、ここらに源三郎がいると思うあたりへ、グザッ! 柄も通れとばかり刀を突っこんだ。と、見事な京壁、稲荷(いなり)と聚楽(じゅらく)をまぜた土が、ジャリッ! と刃をすり、メリメリッと細(ほそ)わりの破れる音!
 同時に、
「うわアッ……!」
 とのけぞる源三郎の叫声(きょうせい)。つづいて、
「痛(つ)ウ――!」
 と低くうめくのは、さすがの源三郎横腹の深傷(ふかで)をおさえて、よろめくようす……わが隠れている壁から、ふいに繰り出された一刀で、源三郎、脇腹から脇腹へ、刺し貫かれたとみえる。
「ウーム、苦しい! 卑怯だっ! 正面から来いっ!」
 血を吐くような源三郎の声が聞こえた秒間(びょうかん)、しすましたりと、こなたは丹波を先頭に、ドッ! と唐紙を蹴倒して、雪崩(なだれ)こみました。
 煽(あお)りをくらった灯が、消えなんとして、ぱッと燃えたつ。
 と! どうです。
 畳にころがって、のたうちまわってでもいるかと思った源三郎、部屋の隅にスウッと伸び立って、思いきり斬(き)っ尖(さき)をさげた下々段の構え――薄眼をあいて、ニヤニヤ笑っているじゃアありませんか。
「ははア、御苦労。やっと姿を現わしたナ」
 と言ったものです。血なんか流れてもいないどころか、この下々段のかまえたるや柳生流でもっとも恐ろしいとなっている不破(ふわ)の関守(せきもり)という刀法……不破(ふわ)、他流にはちょっと破れないんです。
 それと、ピタと向きあってしまった。このもっとも避けていた場面に立ちいたった峰丹波、もう面色蒼ざめて、
「おのおの方、御用心、御用心!」
 かすれた声で叫びました。

       五

 かつて植木屋の若い者に化けて、道場へはいりこんだこの柳生源三郎と……。
 峰丹波、いつか真剣の手合せをして、不動のにらみあいに気力で圧倒されたあげく、意気地なくも、フワーッとうしろへブッ倒れて、何も知らずにこんこんと眠ってしまったことがある。
 意気地なくも――とはいうものの、あの時、あの庭の隅で、相青眼(あいせいがん)にかまえたままのにらみあいは、いまから思うと、まるで永遠のように長かった。そのうちにかれ丹波、一刀を動かさず、一指をも働かせずに、ズウンと気がとおくなって、土をまくらにしてしまったのです。意識をとり戻したときは、身はすでに座敷へ運び入れられて、医者よ、薬よ……という面目ない騒ぎ。
 決して丹波が弱いんじゃない、源三郎が強過ぎるので。
 あの時のことは、丹波一代の不覚――いま思いだすと、暗いところに独りでいても、カッカと耳が熱くなるくらい。
 が、相手の腕前はこれで十二分に知っていればこそ、丹波、今まで自重に自重をかさねて、策をめぐらしてきたのだ。
 なみたいていのことで立ち向かっては、だれが出ても、とうてい敵(かな)いっこない……だから、苦心惨澹して、やっとここまでおびきだしたのに――。
 それなのに!
 やっぱり、いけない!
 みごとに裏をかかれて、今この、刀を持った源三郎と、こうしてこの狭い部屋で、面(めん)と顔をあわせることになってしまった。
 まるで獅子の檻(おり)へ、じぶんから飛びこんだも同然で……こりゃア丹波、あわてるなといっても、無理です。
 しかし、こっちは人数が多い。あたま数で押して、遮(しゃ)二無(む)二討ちとってしまおうと、自分はすばやく岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)のうしろへまわって、
「かかれっ! かかれっ!」
 声だけはげましたが、誰だって斬られるのはあまり好きじゃない。一同。しりごむ気配が見えた時……。
「キ、気の毒だが――」
 弁解(いいわけ)のようにうめいた伊賀のあばれン坊、不破(ふわ)の関守(せきもり)の構えから、いきなり、身を躍らせると見せておいて……とりまく剣陣のさわぐすきに、近くの一人へ、横薙(よこな)ぎの一刀をくれた。
 遠くを攻めると見せて、近くを払ったのだ。
 肉を斬り、骨を裂くものすごい音とともに、そいつは、持っていた刀を手放し、空気をつかんで、□(どう)ッ! と畳を打つ。
 とたんに。
 誰かの裾が燭台をあおって、フッと灯が消えた。
 闇黒――のどこかに、戸外の夜光がウッスラ流れこんで、白いものが白く見えるだけのうすあかり。
 一同は、言いあわしたように、さっと壁ぎわに身を沈めた。手に手に、白い棒とも見える抜刀を低めて。
 同時に、また一人の叫声(きょうせい)が走ったのは、源三郎の剣、ふたたび血を味わったらしい。
 すると、この瞬間です! 源三郎の横手に立っていた峰丹波の手から、何やら、長めの手拭いとも見える白い布ぎれが飛んで、ちょうど振りかぶっていた源三郎の刀へ、キュッと、ふしぎな音して捲きついたのです。

       六

 しゅウッ! と異様な音を発して、空(くう)をさいて峰丹波の手から、生あるごとく流れ出て源三郎の長剣に、捲きついたもの。
 ふたりを斃(たお)し、いま三人めをねらって、大きく刀をかぶっていた源三郎は。
 ぐっと手もとに、かすかな重みの加わったのを知ると同時に。
 何かしら、かたなを背後へひかれるような気がした。
 変なじゃまものに、刀をしばられた感じ――。
 オヤ! と思いました。
 それとともに、
 いま水粒がぱらっと飛んで、刀もつ手から自分の首すじへかけて、かすかにとばっちりをうけたのを意識した。
 丹波はそれなり壁ぎわへ飛びすさって、一刀を平青眼……。
 じっと闇黒(やみ)をすかして源三郎のようすを、見守っている。
 刹那のしずかさ。
 岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)、等々力(とどろき)十内(ない)、ほか大勢も。
 呼吸(いき)をのみ、うごきを制しあって、くらい中に源三郎の立ち姿を見つめていますと。
 源三郎、金(かな)縛りにあったようにそのままの姿勢です。
 この得体の知れない出来ごとに眉をひそめ、小首を捻って、とっさの判断に苦しむようす。
 無理もない……。
 いまも柄を握る源三郎の両手に、何かは知らず、うす気味わるい冷たい液体が、ジクジクしたたり落ちている。
 闇の中で見えませんから、このつめたい液体がなんだかひどく不吉なものに感じられて、これがとっさに、源三郎の心理におよぼす影響は、決して小さくありません。
「ウヌ……!」
 と源三郎、うなりながら、刀をひきおろしてみた。
 刻一刻、重味の加わるような気のするその刀――。
「小細工を……」
 剣林のまんなかですから、八方に気をくばりつつ、伊賀の若様、片手の指をその刀身に触らせて調べてみると!
「ナ、なんだ、これあ□」
 べっとりと冷たく濡れたものが、刃をつつむようにからみついて、キリキリと締めつけている。
 除(と)ろうとしても、急にはなれやしない。
「真綿でござるよ、アハハハハハ」
 かたすみから、笑(え)みをふくんだ峰丹波の声が流れて、
「濡らした真綿――オイソレとは取れぬもの。まず、そのお刀はお捨てめされ!」
 まったく。
 ドブリと水に漬けた、ほそ長い真綿なのだ。あつかうには、特別の術と習練を要する。水をふくませた真綿を、たくみに投げて、敵の刀を捲きつかせれば、適度な重味をあたえられた真綿のきれは、それ自らの力で小蛇のごとく、グルグルッとたちまち刀身ぜんたいにからみついて、水で貼りつき、綿でもつれて、ちっとやそっとのことでは取ろうたってとれない。
 どんな利刃も、即座に蒲団を被(き)て、人を斬るどころか、これじゃあ丸太ン棒よりも始末がわるい。源三郎、ギリッと歯をかんだ。
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作者記 これまでのところを、先へすすむ前に、ちょっとここで整理いたします。本来ならば、お蓮様(れんさま)の寮で柳生源三郎が剣豪峰丹波(みねたんば)一党にとりかこまれ、くら闇(やみ)の中に命(いのち)と頼む白刃(はくじん)を濡(ぬ)れ真綿(まわた)でからめられた「源三郎の危機(きき)」から稿(こう)をつづけるべきですが、更始一新(こうしいっしん)の気持でここへこの「発端篇(ほったんへん)」をさし加えます。

   耳(みみ)こけ猿(ざる)(発端篇)

「触(さわ)るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
 五本骨の扇(おうぎ)、三百の侯伯(こうはく)をガッシとおさえ、三つ葉葵(ばあおい)の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川もさかりの絶頂です。
 そのころ、いま言ったような唄が流行(はや)った。
 唄の主(ぬし)――。
 伊賀の暴れん坊こと、柳生源(やぎゅうげん)三郎(ろう)は、江戸から百十三里、剣術大名柳生対馬守(やぎゅうつしまのかみ)の弟で、こいつがたいへんに腕(うで)のたつ怖(おっか)ない若侍。
 美男(びなん)で非常な女たらしだ。ちょいと不良めいたところのある人物だったんです。
 江戸へ婿入りすることになりまして、柳生家重代(じゅうだい)のこけ猿(ざる)の茶壺(ちゃつぼ)、朝鮮渡来(ちょうせんとらい)の耳(みみ)こけ猿(ざる)という、これは、相阿弥(そうあみ)、芸阿弥(げいあみ)の編した蔵帳(くらちょう)にのっている、たいそう結構な天下の名器だ。それを婿引出に守って、伊賀の源三郎、同勢をそろえて品川までやってきた。
 ところが、その夜。
 八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門(つるおかいちろうえもん)方の泊りで、
「若ッ! 一大事出来(しゅったい)! 三島の宿で雇い入れました鼓の与吉という人足めが、かのこけ猿の壺をさらって、逐電(ちくでん)いたしましたっ!」
 えらい騒ぎ。波紋の石は、まずこの江戸の咽喉首(のどくび)、品川の夜に投ぜられて、広く大きく、八百八町(ちょう)へひろがっていく。
 その、江戸は本郷(ほんごう)、妻恋坂に。
 十方不知火流(ぽうしらぬいりゅう)という看板を掲げた司馬老先生の道場が、柳生の若様の婿入り先で、娘を萩乃(はぎの)といいます。老先生は長(なが)のいたつき、後妻のお蓮(れん)さまという大年増(おおどしま)が、師範代峰丹波(みねたんば)とぐるになって、今いい気に品川まで乗りこんできている源三郎を、なんとかしてしりぞけ、道場をぶんどろうと企んでいるのだ。
「老先生がおなくなりになるまで、婿引出をぬすみ隠して、源三郎めを品川へとどめておけ」
 つづみの与の公、この丹波の命をうけて供の人数へ紛(まぎ)れこみ、こけ猿の茶壺をかつぎだしたのです。引出物がなくては、お婿さんの行列は立ち往生。
 一同、品川で足どめを食った形。あの辺の青楼(せいろう)やなんかは、イヤもう、どこへ行っても伊賀訛(いがなまり)でいっぱいだ。毎日隊伍(たいご)を組み、豪刀をよこたえて、こけ猿の茶壺やいずこ? と、江戸市中をさがしまわっている。
 この、消え失せたこけ猿の茶壺――耳が一つ虧(か)けているので、耳こけ猿、こけ猿という……この壺の秘密をめぐる葛藤(かっとう)が、本講談の中心でございます。
 さて。
 話はここで、お濠(ほり)の水しずかな千代田の城中、奥深く移って。
 将軍八代様のお湯殿(ゆどの)。八畳の高麗縁(こうらいべり)につづいて、八畳のお板の間、御紋(ごもん)散らしの塗り桶を前に、お流し場の金蒔絵(きんまきえ)の腰かけに、端然(たんぜん)とひかえておいでになるのが、後に有徳院殿(うとくいんでん)と申しあげた吉宗公で。
 来年は、二十年目ごとの、日光御廟(ごびょう)御修営(ごしゅうえい)の年に当たる。ひそかに軍用金でもためこんでいそうな雄藩(ゆうはん)を、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)修理奉行(しゅうりぶぎょう)に命じて、その金をじゃんじゃん吐きださせようという、徳川の最高政策です。
 どんな肥(ふと)った藩でも、日光を一ぺんくうと、げっそり痩(や)せると言われた。
「のう、愚楽(ぐらく)。来年の日光だが、こんどは誰にもっていったものかな?」
 吉宗公、お風呂番に相談している。そもそも、こいつをただの男とおもうと、大間違いなので……。

   金(きん)ピカ日光(にっこう)(発端篇)

 亀背で小男の愚楽老人(ぐらくろうじん)、この上様(うえさま)のお風呂番(ふろばん)は、垢(あか)すり旗下(はたもと)と呼ばれて、たいへんな学者で、かつ人格者だった。
 将軍の垢はするが、胡麻(ごま)は摺(す)らない。
 隠密(おんみつ)の総帥(そうすい)で、みずから称して地獄耳、いながらにしてなんでも知っている。八代吉宗、最高秘密の政機は、すべて入浴(にゅうよく)の際、このせむしの愚楽にはかって決めたものだそうだ。
「来年の日光造営(にっこうぞうえい)の奉行は、誰に?」
 との御下問(ごかもん)に、愚楽、答えて、
「伊賀の柳生対馬守へ――小藩だが、だいぶ埋蔵(まいぞう)しておりますようで」
 柳生対馬守は、源三郎の兄だ。この愚楽の進言の結果、莫大(ばくだい)な費用を要する日光修復は、撃剣と貧乏で日本中に有名な、柳生へ落ちることになった。
 その、いよいよ柳生を当てるにも、です。
 昔はまわりくどいことをやったもので……金魚籤(きんぎょくじ)。
 お城の大広間に、将軍家出御、諸大名ズラリといならび、その前に一つずつ、水をたたえた硝子(ギヤマン)の鉢をおいて、愚楽さんが一匹ずつ金魚を入れて歩くんです。その金魚の死んだ者に、東照宮様の神意があるというんだが、ナアニ、これと思うやつのまえに、前もって湯の鉢をすえとくんだから、金魚こそいい迷惑だ。
 こうして、人のいやがる日光修繕(しゅうぜん)をしょわされちまった柳生藩、剣なら柳生一刀流でお手のものだが、これには殿様はじめ重役連中、額をあつめて、
「よわった! こまった! どうしよう――」
 の連発……青いき吐息。
 この日光祖廟(そびょう)おなおしの件は、やがて本講談の大筋(おおすじ)の一つとなります。
 しかるに。
 その柳生藩に、百歳あまりの一風宗匠(いっぷうそうしょう)という、活(い)きた藩史(はんし)みたいな人物があった。この人によって、柳生の先祖が、かかる場合の用にもと、どこかの山間にとほうもない大金を埋(うず)め隠してあると知れて、一藩(ぱん)は蘇生(そせい)の色に、どよめき渡った。
 あの愚楽老人の言ったことは、やっぱり嘘じゃあなかったんです。其金(それ)さえさがしあてれば、柳生は貧乏どころか、日本一の富裕(ふゆう)な藩になるだろう。
 が、その大金の埋蔵個所は、ただ一枚の秘密の地図に描(えが)き示してあるだけで、誰も知らない。
 では、その密図は――?
「こけ猿の茶壺に封じこめあるもの也(なり)」
 口のきけない一風宗匠、筆談で答えた。
 さあ、たいへん! よろこんだのも束の間、問題のこけ猿の茶壺は、弟源三郎の婿引出に持たしてやって江戸で行方不明……
「名器は名器にしろ、あの薄(うす)ぎたない茶壺が、柳生家門外不出の逸品(いっぴん)と伝えられていたのは、さては、そういう宝の山の鍵がおさめられてあったのか。そうとも知らず――」
 と、地団駄(じだんだ)踏んでも、あとの祭。さっそく、藩士の一隊が決死の勢いで、壺探索に江戸へ立ち向かう。
 妻恋坂、司馬道場(しばどうじょう)の峰丹波はこのこけ猿の秘密を知っているに相違ない。お婿さんの源三郎には来てもらいたくないが、壺には来てもらいたいので、ああして鼓の与吉を使って盗みださせたのも道理こそ……。
 幾百万、幾千万という大財産の在所(ありか)を、そのお腹(なか)ン中に心得てる壺だ。
 そろそろ、四方八方からの眼の光り出したこけ猿……それは今、どこにある?
 浅草(あさくさ)は駒形(こまがた)の兄哥(あにい)、つづみの与吉とともに、彼の仲間の大姐御(おおあねご)、尺取り横町の櫛巻(くしまき)お藤(ふじ)の意気な住居に、こけ猿、くだらないがらくたのように、ごろんところがっているんです。
 口あれど、壺に声なく――。

   俺あ丹下左膳てえ者(もん)だ(発端篇)

 ヒュードロドロドロ……青いお江戸の空に、鳶(とび)が輪を描いています。
 ばかにいいお天気。
「姐御、もうでえぶほとぼりの冷めたころだから、あっしアこれから、品川であの柳生源三郎の一行から盗みだしたこの壺を、妻恋坂の峰丹波様へ納めてくるぜ」
「チョイト、張り板が裃(かみしも)を着たような、ヤに突ッぱった田舎のお侍さんたちが、眼の色かえて江戸じゅう、そいつを探しているっていうじゃないか。与の公、大丈夫かえ」
「止めてくれるな、出足がにぶるってんだ。思いついたが吉日でえ」
 勢いよく壺の箱を抱えて、とびだした与吉だったが、途中で与の公、壺の中が見たくなった。
「源三郎には用はないが、その持っておるこけ猿の壺には、当方において大いに用があるのだっ! 必ずともに壺を盗みだしてこいヨ。よいかナ」
 そう、峰の殿様はすごい顔で、厳命したっけ。よウし! なにが入(へえ)ってるか、一つ見てやれ――と与吉は、本郷への途中、壺を開きかけると、あ! いけねえ!
 言わないこっちゃアない。ちょうど向うを通りかかっていた、柳生の侍の一団が、この時与吉を見つけて、ドッ! と雪崩(なだれ)をうって迫ってきました。
 あわてた与吉、かたわらに荷を出していたところてん屋の小僧、チョビ安という八つばかりの少年に壺を預(あず)けて、お尻(しり)に帆上げて逃げだした。イヤ、その早いこと、早いこと! グルッとそこらを一まわりして、伊賀の連中を晦(ま)いてから、ノホホンと元のところへ来てみると、与の公、二度びっくり!
 今度はそのところてん屋の小僧チョビ安が、壺をかかえてドンドン逃げていくではないか。
「小僧! 待てエッ! 待てエッ!」
 与吉は必死に追っかける。チョビ安少年は、その壺の包みに、何か素晴らしいものでもはいっていると勘違いしているらしく、一生懸命にすっ飛んでいきます。
 逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。三味線堀(しゃみせんぼり)は佐竹右京太夫様(さたけうきょうだゆうさま)のお上屋敷、あれからいたしまして、吾妻橋(あづまばし)の袂といいますから、かなりの長丁場(ながちょうば)。
 チョビ安、どんどん駈けながら、
「泥棒だアッ、助けてくれえ!」
 大声をはりあげる。これにはさすがの与の公も、子供ながら上には上があると、あきれている。
 とたんに、チョビ安の姿がふっと消えた。橋下の河原へとびおりたんです。つづいて与吉も、橋桁(げた)の下へもぐりこんでみると、そこに、浮き世をよその蒲鉾(かまぼこ)建ての乞食小屋。
 チョビ安、えらいところへ逃げこんだもので……筵(むしろ)の垂れをはぐって、与吉が顔をさし入れて見ると!
 薄暗い中にむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがバラリ額にかかって、隻眼片腕の痩(や)せさらばえた浪人姿――。
 箒(ほうき)のような赤茶(あかちゃ)けた頭髪(かみのけ)。一眼はうつろにくぼみ、その眉から口尻へかけて、溝のごとく深い一線の刀痕――黒襟(くろえり)かけた白着に、大きく髑髏(しゃれこうべ)の紋を染めて、下には女物の派手な長襦袢(ながじゅばん)が、竹(たけ)ン棒(ぼう)みたいなやせ脛(すね)にからまっている。
「アッハッハッハ、おれか? 俺あ丹下左膳(たんげさぜん)てえ人斬り病(やまい)……」
 その背後(うしろ)に、チョビ安め、お小姓然と控えているんで。イヤ、与吉の野郎、おどろきました。

   くるりくるりと走馬燈(そうまとう)(発端篇)

 こうして偶然にも、この万人のつけねらうこけ猿の茶壺は、巷(ちまた)の放浪児(ほうろうじ)チョビ安の手から、人もあろうに隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳の手に納まることとはなった。まことに厄介な次第になったもので。
 このチョビ安という小僧は。伊賀の国は柳生の郷(さと)の生れとだけで、両親(ふたおや)の顔も名も知らない、まったくの親なし千鳥。
 当時、浅草の竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋、羅宇屋(らうや)の作爺(さくじい)さんの隣家(となり)に住んでいるが、その作爺に、お美夜(みや)ちゃんという七つになる孫娘があって、これがチョビ安と筒井筒(つついづつ)の幼同士、まア、子供の恋仲てえのも変だけれど、相手が化け物みたいにませたチョビ安だから、わけもわからずに、末は夫婦(めおと)よ、てなことを言いあっているんです。とにかく、おっそろしく仲がいい遊び友達のチョビ安とお美夜ちゃん。
 そのチョビ安が、ある日ふらっと、例によってところてん売りにでかけたきり、とんがり長屋へ帰ってまいりませんから、お美夜ちゃんはたいへんな悲観と心配。
 これは安公、長屋へ帰らないわけで、
「向うの辻のお地蔵さん、涎(よだれ)くり進上、お饅頭(まんじゅう)進上、ちょいときくから教えておくれ、あたいの父(ちゃん)はどこへ行(い)た、あたいのお母(ふくろ)どこにいる、ええじれったいお地蔵さん、石では口がきけないね――」
 この、チョビ安自作(じさく)の、父母を慕いさがす唄を耳にした左膳、同情のあまり彼を手もとにとどめおいて、
「うむ。これからはおれが、仮りの父親になってやろう。どこへも行くな。その曰(いわ)くありげな壺はこのにわか拵(ごしら)えの父が、預かってやる。父と子と、仲よく河原の二人暮しだ。親なし千鳥の其方(そのほう)と、浮き世になんの望みもねえ丹下左膳(たんげさぜん)と、ウハハハハハ」
 というわけ。変な父子(おやこ)ができちまったが……それからほどなく。
 河原の小屋に壺を置いたのでは、夜(よ)な夜(よ)なねらう者の多いところから、左膳はチョビ安に、人眼につきやすい侍姿をさせて、壺の箱を持たして竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋、作爺さんのもとへ預けにやったのです。
 子供が、おとなもおとな、浪人の装(なり)をして街を行くのだから、眼にたつ。はたしてこの後をつけて、壺が作爺さんの家へ納(おさ)まるところを見きわめたのが、日夜左膳の掘立小屋(ほったてごや)を見張っていた鼓の与吉だ。チョビ安、それを知ってか知らずにか、壺の箱を作爺さんにあずけ、お美夜ちゃんともしばしの対面を惜んで、帰ってゆく。
 この作爺さん、実は作阿弥(さくあみ)というたいへんな彫刻の名人で、当時故(ゆえ)あって江戸の陋巷にかくれすまい、その娘、つまりお美夜ちゃんの母なる人は、腰元からなおって、今はさる御大家の後添いにおさまり、お美夜ちゃんなど見向きもしないということです。
 話かわって……。
 本郷妻恋坂、司馬十方斎の道場では。
 老先生は病あらたまって、死の床。きょうあすをも知れない身でしきりに、剣をもって相識る柳生対馬守の弟を、娘萩乃の入り婿に乞い請(う)けた。その柳生源三郎の到着を、枕の上に首を長くして待っている。
 ところで――かんじんの萩乃は、伊賀の暴れン坊と唄にもあるくらいだから、強いばかりが能(のう)の、山猿みたいな醜男(ぶおとこ)に相違ないと、頭(てん)からきめて、まだ見たこともない源三郎を、はや嫌い抜いている。
 この時です。妻恋坂の司馬の屋敷へ雇われてきた、若いいなせな植木屋がございました。
 色白な、滅法界いい男。

   罪ですネ源(げん)ちゃんは(発端篇)

 瀕死の司馬十方斎先生は、同じ剣家、柳生一刀流の大御所対馬守との間に話のきまった、その弟伊賀の源三郎の江戸入りを、きょうかあすかと待って、死ぬにも死ねないでいます。
 源ちゃん、品川まで来たのはいいが、婿引出のこけ猿の茶壺を失って、目下大騒ぎをしてさがしていることは、一同ひた隠しにして先生の耳へ入れないでいる。
「源三郎の顔を見て、萩乃と祝言(しゅうげん)させ、この道場を譲らぬうちは、行くところへも行けぬわい」
 というのが、死の床での司馬先生の口癖。
 ところが。
 当の萩乃は、恋(こい)不知火(しらぬい)のむすめ十九、京ちりめんのお振袖も、袂重い年ごろですなア。
「源三郎様なんて、馬が紋つきを着たような、みっともない男にきまってるわ」
 ひどいことを考えている。
「おお嫌だ! 伊賀の山奥から、猿が一匹来ると思えばいい」
 まだ品物を見ないうちから、身ぶるいするほど怖毛(おじけ)をふるっている。
 すると……。
 紺の香のにおう法被(はっぴ)の上から、棕櫚縄(しゅろなわ)を横ちょにむすんで、それへ鋏をさした植木屋の兄(あに)イ――見なれない職人が、四、五日前から、この不知火御殿(しらぬいごてん)といわれた壮麗な司馬の屋敷へはいって、さかんにチョキチョキやっていましたが。
「触(さわ)るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗(くり)のいが」
 口の中で、いやに気になる鼻唄をうたっている。こいつが萩乃に、変に馴れなれしく口をきいているのを見て、怒ったのが師範代峰丹波だ。
 短気(たんき)丹波といわれた男……。
「植木屋風情が、この奥庭まで入りこむとは何事ッ! 誰に許しを得て――無礼者めがッ!」
 発止(はっし)! 投げた小柄を、植木屋、肘を楯(たて)に、ツーイと横にそらしてしまった。柳生流秘伝銀杏返(いちょうがえ)しの一手……銀杏返(いちょうがえ)しといったって、なまめかしいんじゃアない。ひどくなまめかしくない剣術のほうだが、峰丹波はサッ! と顔色をかえ、ドサリ縁にすわって――指を折りはじめた。
「ハテナ、柳生流をこれだけ使う方は、まず第一に、対馬守殿、これはむろん、つぎに、代稽古安積玄心斎(あさかげんしんさい)先生、高大之進(こうだいのしん)……ややっ! これは迂闊(うかつ)! その前に、兄か弟かと言わるる柳生源三――おおウッ!」
 傲岸(ごうがん)[#ルビの「ごうがん」は底本では「ごうかん」]、丹波の顔は汗だ。そのうめき声を後に……触るまいぞえ手を出しゃ痛い――唄声が、植えこみを縫って遠ざかっていく。
 根岸の植留の若えもンで、渡り職人の金公てエ半(はん)チク野郎(やろう)――こういう名で入りこんではいるが。
 これが、実は、伊賀の若様源三郎その人なんだ。
 こういうところが、源三郎の源三郎たるゆえん。
 供の連中は品川を根城に、眼の色変えてこけ猿の行方を、探索している。その間に自分は、ちょっと退屈しのぎに、かくは植木屋に化けて、この婿入りさき司馬道場のようすをさぐるべく、みずからスパイに――そんなこととは知らない萩乃は、この美男の植木屋に、ひそかに、熱烈なる恋(こい)ごころを抱くにいたりました。
「あんなしがない植木屋などを、こんなに想うなんて、あたしはいったいどうしたというのだろう……あアあ、それにつけても源三郎さまが、あの植木屋の半分も、きれいであってくれればいいけれど――」
 娘島田もガックリ垂れて、小さな胸にあまる大きな思案。
 罪ですネ、源ちゃんは。

   相模大進坊(さがみだいしんぼう)濡(ぬ)れ燕(つばめ)(発端篇)

 せっかく盗みだしたこけ猿の壺を、チョビ安てえ余計者(よけいもん)がとびだしたばっかりに、丹下左膳という化け物ざむらいにおさえられてしまった鼓の与吉。
 なんといって、妻恋坂の峰丹波様に言いわけしたらいいか。
 いつまで黙ってるわけにもいかないから、ことによったら、この首はないものと、おっかなびっくりの身には、軽い裏木戸も鉄(くろがね)の扉の心地……与吉のやつ、司馬道場へやって来た。
 とたんに。
 出あい頭(がしら)に会った若い植木屋を、一眼見るより与の公、イヤおどろいたのなんのって、あたまの素ッてんぺんから、汽笛みたいな音をあげましたね。
「うわアッ! あなた様は、や、柳生の、げん、げん、源三郎さまッ!――」
 こいつあ驚かずにはいられない。これから起こった、あの深夜の乱陣です。与吉の口から、柳生源三郎とわかった以上、もはや捨ててはおけない。峰丹波、今宵ここで、伊賀の暴れン坊に斬られて死ぬ気で、立ち向かいました。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあ、ソ、ソ、そう早くから、あきらめるにもおよぶまい」
 法被姿(はっぴすがた)の源三、庭石に腰かけて、含み笑い……素手(すで)です。
 星の降るような晩でした。
 これより先、伊賀の若殿に刃(は)向かう者は、一人しかない。それは、もうひとりの源三郎が現われねばならぬと――いう丹波の言葉に、与吉はふっと思いついて、こっそり屋敷を抜け出るが早いか、夜道を一散走り。
 吾妻橋(あづまばし)下の河原の小屋へ。
 かの、隻眼隻腕の刃妖(じんよう)、丹下左膳を迎えに。
 思いきり人が斬られる……と聞いて、おどりあがってよろこんだのは、左膳だ。しばらく人血を浴びないで、腕がうずうずしているところへ、しかも相手は、西国にさる者ありと聞いた伊賀の若様、柳生源三郎!
「イヤ、おもしれえことになったぞ」
 相模大進坊(さがみだいしんぼう)、濡(ぬ)れ燕(つばめ)の豪刀を、一つきりない左腕ににぎった丹下左膳、与吉のさわぎたてるまま辻駕籠に打ち乗って――。
 ホイ、駕籠! ホイ!
 棒鼻(ぼうはな)におどる提灯……まっしぐらに妻恋坂へかけつけました。この時の左膳は、理由(わけ)なんかどうでもよい、ただ柳生流第一の使い手と、一度刃を合わせてみたいという、熱火のような欲望に駆られて。
 行ってみると、おどろいた!
 丹波と源三郎は、まだ二本の棒のように、向かいあって立ったままだ。丹波は正眼、源三郎は無手。と! すっかり気おされて、精根がつきはてたものか、峰丹波、朽ち木が倒れるように堂(どう)ッと地にのけぞってしまった。
 刀痕の影をきざませて、ニッと微笑(わら)った左膳。
「なかなかやるのう。かわりあって、おれが相手だ」
 もとより、なんの恨みもない。斬りつ斬られつすべき仔細(わけあい)は、すこしもないのだ。ただ、剣を執る身の、やむにやまれぬ興味だけで、左膳と源三郎、ここに初めて真剣の手合せ――まるで初対面の挨拶のように。
 源三郎は、意識を失った丹波の手から、その一刀をもぎとって、柳生流独特の下段の構え。
 丹波の身体は、与吉が屋内へかつぎこんだ。
 この騒動に、お庭をけがす狼藉者(ろうぜきもの)とばかり、不知火の門弟一同、抜きつれて二人をかこむ。名人同士の至妙な立合いを、妨げられた怒りも手伝い、左膳と源三郎、こんどは力をあわせて、この司馬道場の連中を斬りまくることとなった。
 ちょうどこの時、奥まった司馬先生の病間では……。

   出る仏(ほとけ)に入る鬼(おに)(発端篇)

「おうッ! 不知火(しらぬい)が見える! 生れ故郷の不知火(しらぬい)が――」
 これが最後の言葉、司馬老先生は、とうとう婿の源三郎に会わずに、呼吸をひきとってしまった。庭で、左膳と源三郎に剣林を向けていた弟子達は、いっせいに刀を引いて、われがちに先生の臨終に駈けつける。
 急に邸内がざわめいて、あかあかと灯がともったと見る間に、サッと潮のひくよう、囲みの人数がひきあげて行くから、左膳と源三郎、狐につままれたごとき顔を見合わせ、
「烏(からす)の子が、巣へ逃げこみおった。何が何やら、さっぱりわからぬ、うわははははは」
 そのとき……。
 ツーイと銀砂子(ぎんすなご)の空を流れる、一つ星。
「あ、星が流れる――ウウム、さては、ことによると老先生がおなくなりに……し、しまった!」
 刀を納(おさ)めた源三郎へ、左膳は、
「あばよ」
 と一瞥(べつ)をくれて、
「星の流れる夜に、また会おうぜ」
 一言残して、そのままズイと行ってしまった。
 勝負なし……さすがの左膳も、この柳生源三郎に一太刀浴びせるには、もう一段、腕の工夫が必要と見たに相違ない。
 このおれと、ほとんど対等に立ちあうとは、世の中は広いもの――かれ左膳、ひそかに心中に舌を巻いたのです。
 一方、品川の旅宿(はたご)へ立ち帰った源三郎は。
 こけ猿の茶壺は手になくとも、もはや一刻の猶予(ゆうよ)はならぬと、急遽供をまとめて本郷の道場へ乗りこんできた……あられ小紋の裃(かみしも)に、威儀(いぎ)をただした正式の婿入り行列。
 ちょうどこの日、妻恋坂では、伊賀の暴れン坊を待ちきれずに死んだ、司馬十方斎の葬儀。
 その威勢、大名をしのいだ、不知火流の家元のおとむらいですから、イヤその盛大なこと。
 白黒の鯨幕(くじらまく)、四旒(りゅう)の生絹(すずし)、唐櫃(からびつ)、呉床(あぐら)、真榊(まさかき)、四方流れの屋根をかぶせた坐棺(ざかん)の上には、紙製の供命鳥(くめいちょう)をかざり、棺の周囲には金襴(きんらん)の幕……昔は神仏まぜこぜ、仏式七分に神式三分の様式なんです。
 この日、門前にひしめく群集に撤銭(まきせん)をするのが、司馬道場の習慣(しきたり)だった。当時、江都(こうと)評判の不知火銭(しらぬいぜに)というのは、これです。
 その、山のように撒くお捻(ひね)りのなかに、たった一つ、道場のお嬢様萩乃(はぎの)の手で、吉事ならば紅筆(べにふで)で、今日のような凶事(きょうじ)には墨(すみ)で、御礼(おんれい)と書いた一包みの銭がある。これを拾った者は、お乞食(こも)さんでも樽拾(たるひろ)いでも、一人だけ邸内へ許されて、仏前に焼香する資格があるのだ。われこそはその萩乃のお墨つきを手に入れて、きょうの幸運児になろうと眼の色変えて押すな押すなの騒ぎだ。
 ここへ馬を乗りいれた源三郎をめがけて、銭撒(ぜにま)き役(やく)の峰丹波、三方(ぽう)ごと残りのお捻りを投げつけたのだが、偶然源三郎のつかんだ一つが、その、万人のねらう萩乃のお墨(すみ)つきでありました。
 入場切符みたいなもの――招かざる客、伊賀の暴れン坊は、こうしてどんどん焼香の場へとおってしまった。
 出(で)る仏(ほとけ)に入(はい)る鬼(おに)。
 きょう故先生の御出棺の日に、司馬道場、とんだ白鬼を呼びこんだもので。
「おくればせながら、婿源三郎、たしかに萩乃どのと道場を申し受けました。よって、これなる父上の御葬儀は、ただいまよりただちに喪主として……」
 源三郎のりっぱな挨拶に、室内の一同、声を失っている。あの恋する植木屋と、見ずに嫌いぬいてきた伊賀の若殿とが、同一人であることを知った萩乃の胸中、その驚きとよろこびは、どんなでしたでしょうか。

   娘(むすめ)ひとりに婿(むこ)八人(発端篇)

 こけ猿の茶壺は、まだ橋下の左膳の掘立小屋にある――と、にらんでいるらしく、いま四方八方からねらって毎夜のように壺奪還の斬り込みがある。
 君(きみ)懐(なつか)しと都鳥(みやこどり)……幾夜かここに隅田川(すみだがわ)。
 その風流な河原も、今は血(ち)なまぐさい風が吹きまくって。
 柳生藩(はん)の人達は、江戸で二手に別れて、壺をはさみ撃(う)ちにしようというのです。日光御造営に大金のいる日は、刻々近づいてくる。早くこけ猿をさがしだして、その秘める埋蔵金の所在(ありか)を解かねば、殿は切腹、お家は四散しても、追っつくことではない。一同、火を噴かんばかりにあせりきっています。

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