丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

 さっき妻恋坂をおりきった街角に、人を集めて何か芸当を見せている二人の女遊芸人のすがたが、なんとはなく、印象にこびりついているのだった。
 三味線を斜めにかまえて、チラと馬上の自分をあおぎ見た年増おんな。
 十か九つの女の子が、扇子をひろげて何かのせていたが、通りすがりに馬の上からちょっと見ただけなので、よくわからなかったけれど。
 あの二人の女芸人が、妙に源三郎の心をはなれない。
 自分を思っている萩乃のこと、同じく自分に思いを寄せているらしいお蓮様――さては、国の兄……いまだに行方の知れないこけ猿の茶壺のことなど、戞々(かつかつ)と鳴る馬の一足ごとに、源三郎の想念(おもい)は、際限もなく伸びひろがってゆく。
「此馬(こやつ)に一汗かかせてくれよう」
 源三郎は大声に、
「つづけっ!」
 背後(うしろ)をふりむいて叫びながら、思いきり一鞭(ひとむち)くれた。
 馬は、長堤に呻りをたてて、土を掻い込むように走り出した。玄心斎、門之丞、谷大八の三人も、おくれじと馬脚を入り乱れさせて、若殿のあとを追う。
 木母寺(もっぽじ)には梅若塚(うめわかづか)、長明寺(ちょうみょうじ)門前の桜餅、三囲神社(みめぐりじんじゃ)、今は、秋葉(あきば)神社の火のような紅葉だ。白鬚(しらひげ)、牛頭天殿(ごずてんでん)、鯉(こい)、白魚(しらうお)……名物ずくめのこの向島のあたりは、数寄者(すきしゃ)、通人(つうじん)の別荘でいっぱいだ。庵(あん)とか、亭(てい)とか、楼(ろう)とか風流な名をつけた豪商の寮や、料理屋が、こんもりした樹立ちのなかに、洒落(しゃれ)た屋根を見せている。
 源三郎の視野のすみを、それらの景色が、一抹の墨絵のように、さっとうしろへ流れすぎる。
 ぽつりと、額(ひたい)を打つ水粒。
「雨だな……」
「若ッ! いったいどちらまで?」
 玄心斎が、息をはずませて追いついてきた。
 砂煙を立てて、馬の鼻面を源三郎と並べながら、
「どこまでいらっしゃるおつもりで――もうよいかげん、ひっかえされては」
 玄心斎の白髪に、落ち葉が一枚引っかかっている。

       三

 松平蔵之丞様(まつだいらくらのじょうさま)のお屋敷と、須田村(すだむら)の間をぬけて、関屋(せきや)の里まで行き着いた主従四人は、綾瀬川(あやせがわ)の橋のたもとにたちどまって、
「ハ、ハ、張り子の虎ではない。雨がなんだ、濡れたとて、破れはせぬぞ」
 と、どもる源三郎をとりまいて、今はもう、しとどに横顔を打つ斜めの雨に、ほおを預けながら、
「しかし、この雨の中を、どこまでお走らせになっても、何もおもしろいことはござりますまい。お早々と御帰還のほど、願わしゅう存じまする」
 玄心斎がしきりに帰りを促すそばから、谷大八もなんとなく胸騒ぎをおぼえて、
「これから先は、人家もござりませぬ。風流……も、ことによりけりで、この大雨のなかを――」
 止められると、理由(わけ)もなく進みたくなるのが、若殿育ちの源三郎の常で、彼は無言のまま、いきなり馬首を東南に向け、小川に沿って走らせ出した。
 いいかげんそこらまで行ったら、このすこし先の道が、水戸街道(みとかいどう)と出会うあたりから、もとへ引っ返すつもり……。
 菖蒲(しょうぶ)で名高い堀切(ほりきり)も、今は時候(じこう)はずれ。
 若宮八幡(わかみやはちまん)の森を右手に見て、ぐっと行きつくすと、掘割(ほりわり)のような川が、十文字に出会って……。
 右、市川(いちかわ)。
 左、松戸(まつど)――。
 肩をぐっしょり濡らした門之丞が、追いついた馬上から、大声に、
「思い出しました……」
 と、やにわに言った。
「お蓮様が、いま本郷の道場においでにならぬことは、殿をはじめ、玄心斎殿、大八殿も、ごぞんじでござろうな」
 そう言って門之丞は、何かすばらしい計画を思いついたように、馬をとめた源三郎と、安積玄心斎、谷大八の三人の顔を見まわす。
 雨のなかで、湯気をあげる馬が四頭かたまり、馬上の四人の侍が、何やら談合しているのですから、枯れ草をせおった近所の百姓が、こわそうに道をよけて行く。
 道が行きどまりになったので、いやでも引っ返さなければならないかと、業腹(ごうはら)でならなかった伊賀の暴れん坊は、この門之丞の一言に、たちまち眼をきらめかして、
「うむ、そう言えば、どこかの寮とやらへ出療治(でりょうじ)にまいっておるとか、ちらと聞いたが……」
「ナニ、療治と申しても、何も病気だというわけではござりませぬ。表面は保養ということにいたして、またかの峰丹波とトチ狂いかたがた、われわれに対する今後の対策を凝(こ)らしているものと察しられますが――ところで、わたしは、道場の婢(おんな)どもが噂をしているのを、ちょっと聞きましたので。なんでもお蓮と丹波は、この先の渋江村(しぶえむら)とやらにまいっておるとのこと」
 門之丞は言葉をくぎって、じっと源三郎の顔色をうかがった。
 玄心斎と大八は、門之丞め、悪い時につまらないことを言いだしたと、にがりきって黙っている。
 思い合わせてみると、きょうこの向島方面へ遠乗りにでかけようと言いだしたのも、この門之丞。それから、制止する玄心斎を無視して、それとなく巧みにここまで源三郎をみちびいてきたのも、門之丞。

       四

 仰向いて笑った門之丞の顔に、大粒の雨が……。
「彼奴(きゃつ)ら、われわれとの根(こん)くらべに負け、押し出されるがごとく一時道場をあけて、かような片田舎へ逃げこんだものに相違ござらぬが、もとより、対策がたちしだい、いついかなる謀計をもって道場へ引っ返してまいるやもはかりしれませぬ。今ごろは、かの女狐(めぎつね)と男狐(おぎつね)、知る人もなしと額をあつめて、謀(はかりごと)の真最中でござろう。そこへ乗りこんで、驚く顔を見てやるのも一興(きょう)……」
 そそのかすような門之丞の言葉に、思慮の深い玄心斎は眉をひそめ、
「門之丞は、どうしてさようなことを存じておるのかな。同じ屋敷内にあっても往き来もせぬ、いわば敵方の動静……それは、わしも、丹波とお蓮様がちかごろ道場におらぬらしいことは、聞き知っておったが、この近くの寮に出向いておるなどとは、夢にも知らなんだ」
「いや、わたしもはじめてで」
 と、谷大八が横あいから、いぶかしげな眼顔。じつは、二人とも知っていたんです、玄心斎も、大八も。
 お蓮様と丹波が、腹心の者十数名を引き連れて、近頃、この向島を遠く出はずれた渋江村(しぶえむら)の寮(りょう)に、それとなく身をひそめて何事か画策していることを。
 それも、この五、六日のことで。
 だが、道場では、どこまでも、お蓮様も丹波も在宅のように装(よそお)って、屋敷を明けていることはひた隠しにかくしているのだが、なんの交渉もないとはいえ、またいかに広い屋敷内でも、一つ屋根の下のこと――今まで知らなかったのは源三郎だけで、それだけに彼は、おどりあがるように馬上に身をひきしめ、
「おもしろい! これより押しかけて、ひと泡ふかせてくれよう。タ、タ、退屈しきっておったところだ。もう、あのにらみあいには、あきあきいたしたぞ。と言って、妻恋坂の道場では、先にも門弟が多いことだし、世間の眼というものもある。がまんにがまんをしてまいったが……ウム! この都離れた片ほとり、狐退治にはもってこいの場所だテ。おのれ、きょうというきょうは、かのお蓮と丹波を一刀のもとに、たたっ斬ってくれる」
 蒼白な顔に、決意の笑(え)みを浮かべた源三郎、やおら馬をめぐらして、土橋を渡り、葛西領(かさいりょう)の四ツ木村のほうへと向かって行く。
 玄心斎は、馬をいそがせて、
「若(わか)っ! 仮りにも老先生の御後室、婿のお身にとっては母上でござるぞ。斬り捨ててよいものならば、今までにもいくらも折りがありましたものを……あれほど無言の戦いを、そもそもなんのために今まで辛抱強く突っぱってこられたか。それを篤(とく)と御勘考のうえ、ここはひとまず思いとまられて、お返しください。おかえしください!」
「爺(じい)っ! 臆病風か」
「めっそうもござりませぬ。なれど、智謀には智謀をもって対し、隠忍には隠忍をもって向かう……お引っ返しくださいっ! 若っ!」
「十五人ほどの腕達者が、ひきそっておりますとのこと――」
 谷大八の声は、横から風にうばわれてしまう。
 雨はいよいよ本降りとなって、先頭の源三郎を、はばむがごとく濡らすのであった。
「暴風雨(あらし)じゃのう」
 源三郎の白い歯が、チカリと光って、すぐあとにつづく門之丞を、振り返った。

       五

 客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内、ずいぶん広い。
 その一隅……生い繁る老樹のかげに、風流な柴垣をめぐらした一棟がある。
 竹の濡れ縁に煙草盆を持ちだしていた司馬道場の御後室、お蓮様は、
「まあ、急にひどい吹き降りになって……」
 びっくりするほどの若やいだ声で、笑いながら、被布(ひふ)の袂をひるがえして、屋内(おくない)へにげこんだ。
 ドッ! と音をたてて、雹(ひょう)かと思うような大きな雨粒と、枯れ葉を巻きこんだ風が、ふきこんでくる。
「ほんとに、秋の空ほど頼りにならないものはない。朝はあんなに晴れていたのにねえ」
 と、思い出したように、
「ああ、いつまでこんなところに待っていなくっちゃアならないんだろう。ほんとに、嫌になってしまう。だけど、道場のほうでは、私達のいないことを、うまく隠しているだろうねえ」
「それは大丈夫だと思います。かたく申しつけてまいりましたから――あなた様をはじめ、一同道場にいるようにつくろって、よもや、源三郎一派に気取(けど)られるようなことはあるまいと存じます」
 峰丹波は、そう励ますように言いきって、自ら立って縁の雨戸を一、二枚繰り出した。
 その音を聞きつけて、次の間から、岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)、等々力(とどろき)十内(ない)の二人が、あわただしく走りでてきて、
「おてずから、恐れ入ります」
「わたしがしめます」
「ことによると、きょうあたり、かの門之丞の案内で、まいこんでくるかも知れませぬぞ」
 丹波は、急の暴風雨(あらし)に備える雨戸を、十内、達之助の二人にまかせてしめさせながら、自分は座にかえり、
「とにかく、門之丞をこっちへ抱きこんだのは大成功で……悪運がつきません証拠とみえますな、はははは」
 お蓮様はおもしろくもなさそうに、
「でも、なんとかうまいことを言って釣りだしてくればいいけれど――あの門之丞だって、主人を裏切るような男だもの。ほんとにこっちについたのかどうか、すっかり仕事がすんでみなけりゃアわかりゃあしない。お前のように、そう頭から信用することもできないと思うよ」
「ナニ、あの門之丞だけは、大丈夫です。計画どおり、彼の手引きで源三郎を処分した暁は、大枚の金子とともに、あの萩乃様を……こういう約束でございますからな。萩乃様に首ったけの門之丞としては、色と欲の二筋道で――もうこっちのものです」
 達之助と十内が、雨戸のあいだをすかして、別の間へしりぞいてゆく。どうせみんな同じ穴の狐ですから、二人に聞こえるのもかまわず、お蓮様と峰丹波は、高話です。閉(た)てのこした雨戸のすきから、縞のような光線がさしこむだけで、昼ながら、室内はうすぐらい。
 ここは司馬家の寮なのですが、故先生が老病になられてから、何年も来たこともなく、手入れもしないので、それこそ、狐や狸の巣のように荒れはてている。
 お蓮様が、何を考えてか、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内ほか十五人ほどの腹心の弟子達をひきつれて、こっそりここへ来てから、もう五日あまりになります。毎日毎日、しきりに、何かを待っているようす……。

       六

 一面の裏田圃……上木下川(かみきねがわ)、下木下川(しもきねがわ)、はるかに葛飾(かつしか)の野へかけて、稲田の面(おもて)が、波のようにゆらいでいる。釣鐘堂(つりがねどう)、浄光寺(じょうこうじ)の森は、大樹の梢が風にさわいで、まるで、女が髪を振り乱したようです。
 見渡すかぎりの稲葉(いなば)の海に、ところどころ百姓家の藁屋根が浮かんで、黒い低い雲から、さんざと落ちる雨の穂は、うなずくように、いっせいに首をまげています。物みなそうそうと黒く濡れそびれたなかに、鳴子(なるこ)や案山子(かかし)が、いまにも倒れそうに危うく立っている。
見るうちに人細り行(ゆ)く時雨(しぐれ)かな ではない、見るうちに馬細りゆく時雨かな……田圃(たんぼ)のなかの畦道(あぜみち)を、主従四人の騎馬すがたが、見る間に小さくなってゆくところは、まことに風流のようですが、当人達はそれどころではありません。
夕立(ゆうだち)にどの大名(だいみょう)か一しぼり 夕立ではないが、野狩りに出た殿様の一行が、雨に濡れて馬をいそがせて行く。はたから見たら、さながら画中の点景人物でしょうが――お蓮様と丹波がいつのまにかこの近くの寮へ来ていると聞いた柳生源三郎は、もう狂的です。
 これを絶好の機会に、一刀両断に邪魔をはらってしまおうという気……。
 とぶように馬を走らせて行く。
 どういう考えか門之丞は、しきりに、そのそばに馬の首をすり寄せて、
「もうすぐそこです! きょうこそは、ひと思いに――」
 焚(た)きつけるがごとき口調――。
「伊賀の若殿様ともあろうお方が、よく今まで、女や、丹波ごとき者どもに邪魔立てされて、辛抱しておられましたな。若のがまんづよいのに、わたくしはホトホト感心つかまつった……」
「イヤ、言うな。先ほども玄心斎が申したとおり、仮りにも母の名がついておるから、こらえにこらえてまいったのだ。だが、この暴風雨にまぎれて……門之丞、きょうで勝負をきめてしまおう」
 玄心斎と、大八は、おくれながらも、左右から声を追いつかせて、
「敵にはいかなるはかりごとがあろうも知れませぬ。なんの対策もなくそこへとびこんでまいるは、上々(じょうじょう)の策ではござりませぬ。なにとぞ思いとどまって――」
「若ッ! 若ッ! きょうは単なる遠乗りのはず。たしかにお蓮様一味が、その寮とやらにひそんでおるとわかりましたら、いずれ近く日を卜(ぼく)して……」
 耳にも入れない源三郎、馬の腹を蹴りつづけて、遮二無二(しゃにむに)突進――。
 暴風雨は、源三郎の頭の中にも、渦巻き、荒れくるっているのでした。
 最初。
 源三郎の一行が品川へ着いた時、駈け抜けて司馬の道場へ江戸入りの挨拶をしたのが、この門之丞。源三郎の側近にあって、何かと重く用いられている門之丞なんだが、魔がさしたというのか、どういうつもりか、しきりに源三郎を案内して、刻々敵の張りめぐらした罠(わな)の淵へとさそってゆく。
 揺れなびく田の面(も)の向うに、やがて客人大権現(まろうどだいごんげん)の木立ちが、不吉の城のように、黒く見えてきた。
「殿ッ、あの林のかげでござります」
 馬上、門之丞がゆびさした。

       七

 虫が知らせるというのか、玄心斎と大八は、こもごも源三郎の馬前に立ちふさがって、
「殿ッ! どうあってもこれから先へお進みなさるというならば、まず、この玄心斎めの白髪首をお打ち落としなされてから……」
 いらだつ源三郎の小鬢(こびん)から、雨の粒が、白玉をつないだように、したたり落ちる。
「何をたわけたことを申すっ! 亡き司馬先生の志をつぎ、道場と、かの可憐なる萩乃を申し受けて、わが面目(めんもく)を立て、また一つには、兄の顔を立てるためには、このさい、なんといたしても邪魔者を除かねばならぬではないかっ」
「ソ、それはわかっております。おっしゃるまでもござりませぬが、時機を待とうというお心で、今までああして、ただ、一つ屋根の下にはりあって、いわば血のなき闘い……ともかく穏便(おんびん)にお忍びになって来られたものを、いまとなってにわかに――」
「馬鹿を言えっ!」
 源三郎は、大八と玄心斎のあいだへ、つと馬首をつき入れながら、
「ドド道場では、人眼も多い。世間の騒ぎになろうを慮(おもんばか)って、今まで一心に堪(こら)えてまいったのだワ。お蓮と丹波が、あれなる寮にまいっておるというからには、もっけの幸い――ゼ、絶好の機会ではないか! いつの日かまた……萩乃に血を見せぬだけでも、余の心は慰むぞ」
「しかし、峰丹波をはじめ、相当手強(ごわ)いところがそろっておりますとのこと」
「丹波――?」
 上を向いて笑った源三郎の口へ、雨の条(すじ)が、小さな槍のように光って飛びこむ。
「これじゃ!」
 いきなり、ひょウッ! とふるった源三郎の鞭に、路傍の、雨を吸って重い芒(すすき)が微塵(みじん)に穂をみだれとばして、なびきたおれる。サッサと馬をすすめて、
「このとおりじゃ、丹波ごとき……いわんや、爾余(じよ)のとりまきども――」
「おいっ!」
 と大八が門之丞へ、
「どうしてお止め申さぬ。貴公には、この、無手で敵地に入るような危険が、わからぬのかっ?」
 ところが、門之丞はけろりとして、
「お止め申したとて、おとどまりになる若ではござらぬワ」
「と申して、貴公はさながら、手引きをするがごとき言動――奇ッ怪だぞ、門之丞!」
 いきおいこんだ谷大八も、もう大きな声を発することはできないので。
 いつのまにか一行は、客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内へはいって、司馬の寮の前へ来てしまっているのだった。
 争う時は、過ぎた。もはや、ここまで来た以上、主従四人一体となって、これから起こるどんな危機にも面(めん)しなければならぬ。
 蛇が出ても……。
 鬼がとびだしても。
 草屋根の門ぎわに、いっぱいの萩の株が、雨にたたかれ、風にさわいで、長い枝を地(つち)によごしている。
 古びた杉の一枚戸を、馬をおりた門之丞が、ホトホトとたたいて、
「頼(たの)もう! おたのみ申す……」
 中からは、なんの応(こた)えもない。草を打つ雨の音が、しずかに答えるばかり――源三郎がせきこんで、
「かかかかまわぬ。押しあけて通るのじゃ……」
 と呻いたとき、ギイと門内で、閂(かんぬき)をはずすけはいがした。

       八

 くぐりをあけたのは等々力十内で……。
「お、これはようこそ――」
 と、待っていたように言いかけたが、すぐ気がつき、
「これはお珍しい! どうしてわたしどもがここにまいっていることを、ごぞんじで?」
 急ぎ口を入れたのが、門之丞です。
「ごらんのとおり、遠乗りにまいられたのだが、にわかの吹き降りに当惑いたし、これなる森かげにかけこんでみれば、この一軒家……ホホウ、道場のお歴々(れきれき)が、この寮にまいっておられるのか。それはわたしどもはじめ、殿もごぞんじなかった次第で」
 なんとか辻褄(つじつま)をあわせているうちに。
 そんなことは意に介しない源三郎。
 きょうはいよいよ、邪魔だていたすお蓮様と丹波の上に、柳生一刀流の刃が触れると思うから、単純な伊賀の暴れン坊、自然に上機嫌です。
 まるで、いつもの憂鬱な彼とは、別人のよう……。
 若さと、華(はな)やかな力とを満面に見せて、その剃刀(かみそり)のように蒼白い顔を、得意の笑(え)みにほころばせながら――。
 ヒラリ、馬をおりるが早いか、まごつく十内を案内にうながしたてて、そのまま庭の柴垣にそって、雅(みや)びた庭門をあけさせ、飛石づたいに庵(いおり)のほうへと、雨に追われるように駈け込んでいきます。
 つづく玄心斎、谷大八も、自分達がついていて、若殿の身に何事かあってはたいへんだから、馬を木蔭へつなぐのも一刻を争い、門之丞の横顔をにらみつつ、小走りに源三郎のあとを追った。
 繰り残した雨戸の間(あいだ)から、庭に面した奥座敷に招じあげられた源三郎、見まわすとそこは、落ちついた風流(ふうりゅう)な部屋で、武芸者の寮とは思われない、静かな空気が流れている。
 誰もいません。
 源三郎は、むんずと床柱を背にすわって、腕組みをしました。顔に見覚えのある、司馬の門弟の少年が一人、褥(しとね)、天目台(てんもくだい)にのせた茶などを、順々に運び出てすすめたのち、つつましやかにさがってゆく。
 火燈(かとう)めかした小襖が、音もなくあいた。
 さやかな絹ずれの音とともに、あられ小紋の地味な着付けのお蓮様が、しとやかにはいってきた。
 二人は、無言のまま、チラと顔を見合った。切り髪のお蓮様は、いたくやつれているように見えるものの、その美しさはいっそうの輝(かがや)きを添えて、見る人の心に、いい知れぬ憐れみの情を喚び起こさずにはおかないのでした。
 横手に並ぶ玄心斎、門之丞、大八の三人には、会釈(えしゃく)もくれずに、源三郎と向かいあって座についたお蓮様は、白い、しなやかな指を、神経質らしく、しきりに膝の上で組んだり、ほごしたりしながらも、
「まあ、ひどい雨ですこと」
 思いついたように、戸外(そと)の庭へ眼をやり、
「この雨で、せっかくわたくしの丹精した芙蓉(ふよう)も、もうおしまいですね」
 と、笑った。雨になるか、風になるかわからない、この会合のまっ先に、お蓮様によって口火をきられた言葉は、これでした。
 お蓮様が尾のない狐なら、丹波はその上をゆく狸であろう。でも、それを承知で、こうして乗りこんで来た源三郎も、ただの狐ではありますまい。間に立って奇怪な行動の門之丞は、さしずめ小狸か……。
 沈黙がつづいています。

   上(うえ)には上(うえ)


       一

 源三郎が、言った。
「しかし、この暴風雨(あらし)のおかげです。きょうわたしがここへ来たのは――わたしにとっては、感謝すべき雨風だ」
 ニコリともしない源三郎の蒼顔に、お蓮様は、平然たる眼をすえて、
「あら、では、この雨の中を、わざわざお訪ねくだすったというわけではないんですのね」
 と、チラリと門之丞に視線を投げた。
 膝に手を置いた源三郎の肘(ひじ)が、角張った。
「わざわざお訪ねするのでしたら、こう簡略にはまいりません。なんのお手土産(みやげ)もなく」
 皮肉に、
「供もこれなる三人きり……まず、煮て食おうと焼いて食おうと、ここはそちらのごかってでござろうかな、ハハハハハ」
「ちょっと風邪(かぜ)心地でございましてね」
 とお蓮様は、まるで親しい人へ世間話でもするように、
「この四、五日、こっそりこちらへ養生にまいっておりました」
「それはいけませぬ。それで、もう御気分はよろしいのですか」
「はあ、ありがとう。もうだいぶいいのです」
「し、しかし、もう御養生の要も、あるまいと存じますが……」
「ええ、もうこんなによくなったのですから、ほんとに、養生の要もありません。近いうちに本郷のほうに帰ろうかと、思っていたところでございますよ」
「いや!」
 と、源三郎のつめたい眼が、真正面からお蓮様を射て、
「いや、私が養生の必要がないと申したのは、そういう意味ではござらぬ。もう、母上……さればサ、今まで母上と思っていましたからこそ、手加減をいたしておりましたが……もはや母上と思わず、ここでお目にかかったのを幸い、お命をいただくことにきめましたによって、しかる以上、もう御養生の要もござるまいと、かように申しあげたので――」
 ニッコリしたお蓮様は、
「このあたしがあなたの母では、たいへんなお婆さんのようで、あんまりかわいそうですよ、ほほほほほ。ですから、あなたももう母と思わずに、斬るというんでしょうが、なら、そこが相談ですよ、源様。おや! こちらにこわい顔をした人が、三人も並んでいては、お話がしにくいけれど、ホホホホホ……」
「退(さ)げましょうか」
 源三郎の言葉に、玄心斎と大八は、懸命に眼くばせして、死んでもこの座を起たない申しあわせ。
 少女のように、恥じらいをふくんで笑い崩れたお蓮様。
「いえ、誰がいても、思いきって言いますけれど、ねえ、源さま、いつかのお話は――」
「ナ、なんです、いつかの話とは?」
「あたしとしては、あなたが道場のお跡目(あとめ)になおるに、なんの異存もございませんけれど、ただ、そのお婿さんの相手が、あの萩乃ではなく、このあたしでさえあれば――」
「またさような馬鹿馬鹿しいことを!」
「でもね、源三郎さま、いま此寮(ここ)には、不知火流の免許取りばかりが、十五人ほどいっしょに来ているんでございますよ。よくお考えにならなければ、御損じゃないかと……」
「フン! その十五人が、またたくまに、一人もおらんようになりましょう。ついでに母上、あなたも……」
 言いながら源三郎は、今はじめて、夕陽(ゆうひ)に輝く山桜のような、このお蓮様の美しさに気がついたように、眼をしばたたいたのでした。

       二

「とにかく、母上――」
 言いかける源三郎を、お蓮様は、ヒラリと袂を上げて、打つような手つきをしながら、
「まあ! その母上だけは、どうぞ御勘弁を、ほほほほほ」
「いや、拙者にとっては、あくまで母上です」
 と源三郎は、鯱(しゃち)が鉛(なまり)を鋳込(いこ)まれたように、真っ四角にかたくなって、
「おっしゃりたいだけのことを、おっしゃってください。うかがいましょう」
 と、横を向く。
 若い蒼白な美男、源三郎――剣の腕前とともに、女にかけても名うての暴れ者なのだが――。
 このお蓮様の顔を前にしていると。
 その、黒水晶を露で包んだような瞳のおくへ、源三郎、ひきこまれるような気がするのだった。白いほおのえくぼは、小指の先の大きさでも、大(だい)の男を吸いこむだけの力はある。彼がしきりに母上、母上と呼ぶのは、そうでも言って絶えず自分の心に枷(かせ)を加えようという気持なので。
 お蓮様の視線を避けて、くるしそうに首をめぐらした源三郎の眼の前に、玄心斎、谷大八の二人は、今にも、スワ! と言えば膝をたてそうに、おっとり刀の顔。ふたりに挟まれた門之丞は、これはまた心ひそかに、何かの成算を期するもののごとく、腕を組み、眼をつぶって、じっと天井をふりあおいでいる。
 暴風雨(あらし)の音は、すこし弱くなった。寮のなかはシンとして、十何人もの荒らくれ男が、別室にひそんでいるとは思われないしずかさ。
 その静寂のなかに、かすかにすすり泣きの声が聞こえて、源三郎はぎょっとして、あたりを見まわしたが……。
 見まわすまでもなく。
 その泣き声の主はお蓮さま――何か急に思い出したように、彼女は襦袢(じゅばん)の袖を引き出してしきりに眼へ当てながら、身も世もなさそうに、泣き声をかみしめている。
「強いようなことを言ってみても女ですもの……あたくしは、源様あなたの御慈悲がなくては、生きて行けません」
「司馬先生の御遺志どおり、兄との約束にしたがって、穏便に事を運べば、源三郎、決して母上を粗略にはいたしませぬ考え――一に、そちらの出ようひとつでござる」
「はい、よくわかりました。はじめて、それに気がつきました。どうぞよろしくお取りはからいくださいますよう……」
「ソ、それは本心でござるな」
 いきおいこんで乗り出す源三郎を、玄心斎と大八は、傍(かた)えから制して、
「シッ、殿ッ、これには何か魂胆が――」
「若ッ、こう急に降参するとは思えませぬ」
 かわるがわるささやけば、お蓮様は、涙に輝く眼で一座を見わたし、
「そう思われても、しかたがござりませんけれど、今まで楯(たて)ついてきましたことは、ほんとに、世間知らずの女心から出た浅慮(せんりょ)、どうぞ、わたしの真心をおくみとりなされて――」
 生一本な源三郎です。このお蓮様の涙は、ただちに源三郎の心臓にふれて、彼は苦しそうに、つと起って縁の雨戸の間から、雨に乱れた庭へ眼を放った。
 さっきお蓮様が丹精していると言った、うす紅色の芙蓉(ふよう)の花は、無残に散り敷いている。それは、いまのお蓮様の姿のように、憐れにも同情すべきものとして、源三郎の眼に映ったのでした。

       三

 お蓮様は、その源三郎の立ち姿を、仮面のような顔で、いつまでも見守っていました。
 玄心斎がニヤニヤして、
「お気が弱くなられましたな、御後室様。ははははは」
 ニッコリうちうなずいたお蓮様、
「気が弱くもなろうじゃアありませんか。あなたのようなお強い方々(かたがた)が、女一人を取り巻いて、いじめるんですもの」
「どうですかナ」
 谷大八も気がるな声が出て、お蓮様と笑いをあわせた。
 源三郎は静かに座に帰り、
「では、ど、どうなさろうというので」
「それを明日にでも、ゆっくり御相談申しあげたいと存じまして」
 チラリと一同の顔を見たお蓮様は、
「わたしは、またすこし悪寒(さむけ)がしてきましたから、これで失礼を」
 衣の重さにも得(え)堪(た)えぬように、お蓮さまはスラリと立って、部屋を出て行きましたが……源三郎はそのあたりを払うばかりの美しさに打たれて、思わず、あと見送らずにはいられなかった。
「本心でござろうか」
 両肘(りょうひじ)を膝に、前屈(かが)みに首を突き出す玄心斎。
 谷大八はせせら笑って、
「さあ、どういうものでしょうな。女の涙は、拙者にはとんと判断がつき申さぬ。だが、まんざら計(はか)りごとのようにもみえなんだが……門之丞、貴公はどう思う」
「殿のお心一つだ。殿がお蓮様をお許しなさろうと思召せば、それで四方八方丸(まる)くおさまって、何より重畳(ちょうじょう)なわけ――だが、あんなにうちしおれておるものを、殿も、お斬りなさるのなんのというわけには、ちとゆくまいかと考えられまする」
 源三郎は、今は小降りになった雨の矢が、裾を払うのもかまわず、竹の濡れ縁に立ち出でて、ふたたびじっとみつめているのは……またしても、見る影もなく花を落とした芙蓉(ふよう)の一株、ふた株。危険なところです――いま気を許しては。
 しかし、上には上ということがある。
 だが、そのまた上に、上があるかも知れない。そしてまた、その上の上に、もう一つ上が……。
 お蓮様が引っ込んで行ったあと家内(やうち)はいっそう静まり返って、峰丹波をはじめ、誰一人、この部屋に挨拶にでる者もありません。
 たださえ暮れの早い初冬の日は雨風に追われるように西に傾いて、いつとはなしに湿った夜気が、この、木立ちの影深い客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内に……。
 どういう計画がひそんでいるかも知れないと、一同はすこしの油断もなく、無言のまま室の四隅から立ち迫る夕闇に眼を据えていますと……。
 ソッと襖があいて、
「お灯を――」
 と、いう声。
 さっきの少年の門弟が、燭台をささげてはいってきた。それを機会(しお)に、
「何もござりますまいが、お食事のしたくを頼んでまいりましょう」
 そう自然らしく言って、門之丞が、少年の後を追うように出ていった。夜になって、また風が出たようすです。轟(ごう)ッ! と、棟(むね)を鳴らす音に、燭台の灯が、おびえたように低くゆらぐ……。

   刀絡(かたなから)め


       一

 門之丞は、そのまま部屋へ帰ってきません。
 やがて、同じ少年の弟子が、敷居ぎわにあらわれて、手を突き、
「御膳部(ごぜんぶ)の用意が、できましてございますが……御家来衆は別室で、ということで、どうぞお二人はあちらへ――」
 と言う。
 玄心斎は、さてこそという眼顔で、源三郎を見た。
「若、わたくしどもも、ここで……」
 そして、少年へ、
「イヤ、拙者らもここで、いただいてかまわぬとおおせらるる。お手数ながら、拙者らの膳も、此室(ここ)へお運びねがおう」
「いや、待て、爺(じい)」
 源三郎は、いつになくニコニコして、
「お、お前達はあっちへ行って食え」
 谷大八が、懸命のいろを浮かべて、
「ですが、殿お一人をここへお残し申して――」
 この言葉に、伊賀の暴れン坊、ムッとしたらしく、
「ヨ、ヨ、余一人を残していっては、不安だというのか。何を馬鹿なことを、ダ、第一、ひとりになるのではない。コ、これを見よ」
 源三郎、膝わきに引きつけた大刀の柄をたたいて、闊然(かつぜん)とわらった。
「心配するでない。客は、主人側のいうとおりになるのが、礼である。玄心斎と大八は、別室へしりぞいて、心おきなく馳走にあずかるがよい」
 顔を見あわせたのは、大八と玄心斎です。なかなか、心おきなく……どころの騒ぎではない。敵の巣の真(ま)ッただなかにすわりこんで、平気で家来を遠ざけようというんですから、この若殿という人間は、危険ということをすこしも感じない、いわばまア一種の白痴じゃないかしら?――長年お側に仕えてきた二人ですが、この時は、そんな気までして、中腰のまま決し兼ねていると、
「あっちへ行って食えと申すに! なぜ行かぬ」
 いらいらした主君の声だ。源三郎の気性は、知りぬいている。もうこうなったら、いくら押しかえしたところで、許されません。かえって、怒りをますばかり……。
「門之丞は――」
 といって、玄心斎は、なおも心を残しながら、起ちあがった。
「は、別室にて、お二人のおいでをお待ちでございます」
 との少年の答えに、
「それみろ。早く行け」
 源三郎がうながす。部屋を出る時に、玄心斎がなんとかささやきますと、
「ウム。心得ておる」
 そう言って源三郎は、大きくうなずきました。
 やがて――。
 大八と玄心斎がその室を去りますと、少年の手で膳部が運びこまれて、源三郎の前に置かれた。
「ソ、そちが給仕をしてくれるのか」
「は。不調法ながら……」
 無言のまま源三郎は、まず、吸い物をすこし椀のふたにとって、少年の前につきだした。
 毒見をしろ……という意(こころ)。少年も、だまってそれを受け取って、口へもっていきます――。

       二

 膳にならんでいるすべての物は、順々にすこしずつ分けて、少年のまえにだまってさしだす……毒殺に備える用心。
 少年もまた、臆する色もなく、それらをみんな口に入れている。すき洩る風になびく燭台のあかりをとおして、じっとそのようすを見守っていた源三郎、笑いだした。
「はッはッは、ド、どうだ、ま、まだ死にそうなようすは見えぬな」
 少年は、ニッコリ微笑して、
「は? お言葉ともおぼえませぬ。それはどういう――?」
「イヤ、まだ腹は痛うならぬかと申すのじゃ、ハツハッハ」
「いえ、いっこうに……」
「うむ、其方(そち)は何も知らぬとみえるナ」
「と申しますと?」
「よろしい。タ、ただ、武将たるもの、敵地にあって飲食をいたすには、これだけの用心は当然――武士の心得の一つというものじゃ」
 眼をまるくした少年は、思わず、
「敵地?」
 と、声を高めました。
 その顔を、源三郎はつくづく見つめて、
「なるほど、其方(そち)はまだ年端(としは)もゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなる縺(もつ)れが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
「は。うすうすは……」
 と少年は、その前髪立ちの頭をしばし伏せましたが、
「しかし、なにとぞ御安心のうえ、お箸をお取りくださいますよう――」
 ウムとうなずいて、源三郎は食事をすすめたが、その間も、気になってならないのは……。
 丹波をはじめ十五人の道場のものどもが、いまだに顔を出さないのみか、さほど広くもなさそうなこの寮(りょう)が、イヤにヒッソリ閑(かん)として、どこにその連中がいるのか、そのけはいすらもないことです。
 挨拶に出べきはず。無礼!――と、いったんは心中におこってみたが、それよりも、不審のこころもちのほうが強い。いま、給仕の少年にきいてみたいと思ったが、なんだかうす気味わるがって、怖れているようで、かれの性質として、それもできないのです。
 もう一つは、あの、うちしおれて、憐れみを乞うたお蓮さまのことば……あれをそのままとっていいかどうか。裏にはうらがありはしないか。
 また、出ていったきり帰らない門之丞と、別室で食事しているはずの玄心斎と大八は、どうしたか――。
 やっぱりあのお蓮様は、斬ってしまうに限る。あしたにでも斬らねばならぬ。それから、峰丹波も……
 源三郎は、そうふたたび心に決しつつ、黙々として箸を置きました。雨に追われて、馬を走らせたので、空腹に、思わず食(しょく)をすごしたようです。
 食後も。
 誰もくるようすはない。
 雨はやみ、風が雲を吹き払って、月が顔をのぞかせたらしい。どこから迷いこんできたのか、死におくれたこおろぎが一匹、隅のたたみに長い脚を引きずっている。
 まるで自分は体(てい)のいい捕虜(とりこ)……気をひきしめねば、と自らをはげましつつも、源三郎、いつしか眼の皮がだるくなってくるので。

       三

 少年の敷いた夜のものにくるまって、源三郎は、なんのうれいも、警戒もないもののごとく、ぐっすり眠った。
 不覚! というよりも、腕の自信が強いからで。
 それは、呼べば応(こた)える別室に、玄心斎、門之丞、大八の三人が、寝もやらず控えている……という心がある。
 あらしの後の静けさは、いっそう身にしみます。土庇(どびさし)を打つ雨だれが、折りからの月を受けて銀に光っているのが、屋内(おくない)にあっても感じられる。
 それほど戸外(そと)は、クッキリと明るい月夜――。
 何刻(なんどき)ほどたったか……フと寝返りをうった源三郎は、瞼(まぶた)に、ほのかに光線(ひかり)を感じて、うす眼をあけました。
 はじめは、月のひかりだと思った。
 それにしては、黄ばんでいる――。
 夜が明けたのかしら……まだ夢にいるような混沌(こんとん)たるあたまで、瞬間、そうも感じたのでした。
 と!
 そっと襖のしまる音がした。といって、誰かがはいってきたのではなく、この時まで室内にひそんでいた何者かが、ちょうど今、忍びやかに出て行ったらしい気配――。源三郎は、一時にパッと眼がひらいて、ハッキリそれを感じた。全身に感じた。
 まるで、暗い海底から、陽のあかるい水面へ泡が立ちのぼって、ポッカリ割れるように、急に、冴えざえとした意識……。
 耳も眼も、異常に鋭くなった源三郎、気がつくと、燭台の灯が、うすあかく天井を照らし出している。
 ふしぎ! 寝る前に、たしかに消したはず。
 源三郎の顔に、ニッと、言うにいわれぬ微笑が――。
 来たナ。何かコソコソやりおるナ、というこころ。
 耳をすますと、ふすまの外で、
「ウム、ぐっすり眠っておるぞ」
 という低声(こごえ)。つづいて、
「だが、敷き寝(ね)しておって、取れぬ……」
 というのは、刀のことを言うらしい。
 源三郎は、床の下にさしこんで寝ている大刀を、そっと上からさすって――またしても浮かぶのは、残忍とも見える、血を待つほほえみ。
 にわかに、室外に、けんめいに笑いをこらえる声が聞こえた。それがだんだん高くなって、ウハハハハ、あははははは、と、突如として家をゆるがす夜中の哄笑、ぞっと総毛立つものすごさをともなって。
 七、八人をうしろに従えて、いきなり、ガラリ! 襖をあけた峰丹波は、
「源三郎殿、夜中ながら、御挨拶に推参……」
 低い声を投げこみましたが――丹波、ビックリした。
 床(とこ)は、もぬけのから……室内には、だれもいない。
 と見えたのは、源三郎、早くも起き出ると同時に、そのあけられたふすまの側の壁に、ピタリ背をはりつけているので。
 稽古襦袢(けいこじゅばん)に袴(はかま)の腿(もも)立ちとった一同、頓(と)みには入りかね、手に手に抜刀をひっさげて、敷居のそとに立ちすくんでいる。
 シイーンと静まり返った中から、やがて、伊賀の暴れン坊のふくみ笑いが……。
「ママ待ちかねておったゾ。ようこそ。サ、サ、ズッとこれへお通りめされ――」

       四

 むやみに飛びこんでは、身体を入れた瞬間に、真上からか、横からか、源三郎の豪刀が伸びてくるにきまっている。
 こうなると、室外(そと)の連中、呼吸をはかって竦(すく)みあうばかりで、いつかな埓(らち)があかない。
 こうした場合の常識……誰かが刀の斬っさきに羽織をひっかけてツイと、部屋の中へ投げこんだ。
 が、児戯(じぎ)――。
 気がうわずっていれば、これに釣られて羽織へ刀を振りおろす。その動きのすきをねらって、一団となっておどりこもうという寸法なんですが、ドッコイ、そんな月並みな手に乗る源三郎じゃアありません。
 ウフフフフフ……と、ふすまのかげから、源三郎の低い笑い。
「よせ、よせッ。こどもだましは!」
 声とともに、忍んでいる源三郎の手もとあたりに、ピカッ! ピカッ! と光のざわめくのが一同の眼を射るのは、明鏡(めいきょう)のように磨(と)ぎすました刀に、うす暗い燭台の灯が、映ろうのらしい。
 そして、源三郎が柄(つか)の握りかげんをなおすたびに、天井から向うの鴨居(かもい)へかけて、白い、ほそ長い閃光がチカチカ走るのが、敷居のそとから、気味わるく見えるのです。
 ちょっとはいれない……。
 深沈たる夜気がこって、鼓膜(こまく)にいたいほどの静寂。これは、声のない叫喚だ。呶号(どごう)をはらむ沈黙だ。
 かくてははてしがない――と見た不知火剣士の一人、つぎの間から壁越しに、ここらに源三郎がいると思うあたりへ、グザッ! 柄も通れとばかり刀を突っこんだ。と、見事な京壁、稲荷(いなり)と聚楽(じゅらく)をまぜた土が、ジャリッ! と刃をすり、メリメリッと細(ほそ)わりの破れる音!
 同時に、
「うわアッ……!」
 とのけぞる源三郎の叫声(きょうせい)。つづいて、
「痛(つ)ウ――!」
 と低くうめくのは、さすがの源三郎横腹の深傷(ふかで)をおさえて、よろめくようす……わが隠れている壁から、ふいに繰り出された一刀で、源三郎、脇腹から脇腹へ、刺し貫かれたとみえる。
「ウーム、苦しい! 卑怯だっ! 正面から来いっ!」
 血を吐くような源三郎の声が聞こえた秒間(びょうかん)、しすましたりと、こなたは丹波を先頭に、ドッ! と唐紙を蹴倒して、雪崩(なだれ)こみました。
 煽(あお)りをくらった灯が、消えなんとして、ぱッと燃えたつ。
 と! どうです。
 畳にころがって、のたうちまわってでもいるかと思った源三郎、部屋の隅にスウッと伸び立って、思いきり斬(き)っ尖(さき)をさげた下々段の構え――薄眼をあいて、ニヤニヤ笑っているじゃアありませんか。
「ははア、御苦労。やっと姿を現わしたナ」
 と言ったものです。血なんか流れてもいないどころか、この下々段のかまえたるや柳生流でもっとも恐ろしいとなっている不破(ふわ)の関守(せきもり)という刀法……不破(ふわ)、他流にはちょっと破れないんです。
 それと、ピタと向きあってしまった。このもっとも避けていた場面に立ちいたった峰丹波、もう面色蒼ざめて、
「おのおの方、御用心、御用心!」
 かすれた声で叫びました。

       五

 かつて植木屋の若い者に化けて、道場へはいりこんだこの柳生源三郎と……。
 峰丹波、いつか真剣の手合せをして、不動のにらみあいに気力で圧倒されたあげく、意気地なくも、フワーッとうしろへブッ倒れて、何も知らずにこんこんと眠ってしまったことがある。
 意気地なくも――とはいうものの、あの時、あの庭の隅で、相青眼(あいせいがん)にかまえたままのにらみあいは、いまから思うと、まるで永遠のように長かった。そのうちにかれ丹波、一刀を動かさず、一指をも働かせずに、ズウンと気がとおくなって、土をまくらにしてしまったのです。意識をとり戻したときは、身はすでに座敷へ運び入れられて、医者よ、薬よ……という面目ない騒ぎ。
 決して丹波が弱いんじゃない、源三郎が強過ぎるので。
 あの時のことは、丹波一代の不覚――いま思いだすと、暗いところに独りでいても、カッカと耳が熱くなるくらい。
 が、相手の腕前はこれで十二分に知っていればこそ、丹波、今まで自重に自重をかさねて、策をめぐらしてきたのだ。
 なみたいていのことで立ち向かっては、だれが出ても、とうてい敵(かな)いっこない……だから、苦心惨澹して、やっとここまでおびきだしたのに――。
 それなのに!
 やっぱり、いけない!
 みごとに裏をかかれて、今この、刀を持った源三郎と、こうしてこの狭い部屋で、面(めん)と顔をあわせることになってしまった。
 まるで獅子の檻(おり)へ、じぶんから飛びこんだも同然で……こりゃア丹波、あわてるなといっても、無理です。
 しかし、こっちは人数が多い。あたま数で押して、遮(しゃ)二無(む)二討ちとってしまおうと、自分はすばやく岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)のうしろへまわって、
「かかれっ! かかれっ!」
 声だけはげましたが、誰だって斬られるのはあまり好きじゃない。一同。しりごむ気配が見えた時……。
「キ、気の毒だが――」
 弁解(いいわけ)のようにうめいた伊賀のあばれン坊、不破(ふわ)の関守(せきもり)の構えから、いきなり、身を躍らせると見せておいて……とりまく剣陣のさわぐすきに、近くの一人へ、横薙(よこな)ぎの一刀をくれた。
 遠くを攻めると見せて、近くを払ったのだ。
 肉を斬り、骨を裂くものすごい音とともに、そいつは、持っていた刀を手放し、空気をつかんで、□(どう)ッ! と畳を打つ。
 とたんに。
 誰かの裾が燭台をあおって、フッと灯が消えた。
 闇黒――のどこかに、戸外の夜光がウッスラ流れこんで、白いものが白く見えるだけのうすあかり。
 一同は、言いあわしたように、さっと壁ぎわに身を沈めた。手に手に、白い棒とも見える抜刀を低めて。
 同時に、また一人の叫声(きょうせい)が走ったのは、源三郎の剣、ふたたび血を味わったらしい。
 すると、この瞬間です! 源三郎の横手に立っていた峰丹波の手から、何やら、長めの手拭いとも見える白い布ぎれが飛んで、ちょうど振りかぶっていた源三郎の刀へ、キュッと、ふしぎな音して捲きついたのです。

       六

 しゅウッ! と異様な音を発して、空(くう)をさいて峰丹波の手から、生あるごとく流れ出て源三郎の長剣に、捲きついたもの。
 ふたりを斃(たお)し、いま三人めをねらって、大きく刀をかぶっていた源三郎は。
 ぐっと手もとに、かすかな重みの加わったのを知ると同時に。
 何かしら、かたなを背後へひかれるような気がした。
 変なじゃまものに、刀をしばられた感じ――。
 オヤ! と思いました。
 それとともに、
 いま水粒がぱらっと飛んで、刀もつ手から自分の首すじへかけて、かすかにとばっちりをうけたのを意識した。
 丹波はそれなり壁ぎわへ飛びすさって、一刀を平青眼……。
 じっと闇黒(やみ)をすかして源三郎のようすを、見守っている。
 刹那のしずかさ。
 岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)、等々力(とどろき)十内(ない)、ほか大勢も。
 呼吸(いき)をのみ、うごきを制しあって、くらい中に源三郎の立ち姿を見つめていますと。
 源三郎、金(かな)縛りにあったようにそのままの姿勢です。
 この得体の知れない出来ごとに眉をひそめ、小首を捻って、とっさの判断に苦しむようす。
 無理もない……。
 いまも柄を握る源三郎の両手に、何かは知らず、うす気味わるい冷たい液体が、ジクジクしたたり落ちている。
 闇の中で見えませんから、このつめたい液体がなんだかひどく不吉なものに感じられて、これがとっさに、源三郎の心理におよぼす影響は、決して小さくありません。
「ウヌ……!」
 と源三郎、うなりながら、刀をひきおろしてみた。
 刻一刻、重味の加わるような気のするその刀――。
「小細工を……」
 剣林のまんなかですから、八方に気をくばりつつ、伊賀の若様、片手の指をその刀身に触らせて調べてみると!
「ナ、なんだ、これあ□」
 べっとりと冷たく濡れたものが、刃をつつむようにからみついて、キリキリと締めつけている。
 除(と)ろうとしても、急にはなれやしない。
「真綿でござるよ、アハハハハハ」
 かたすみから、笑(え)みをふくんだ峰丹波の声が流れて、
「濡らした真綿――オイソレとは取れぬもの。まず、そのお刀はお捨てめされ!」
 まったく。
 ドブリと水に漬けた、ほそ長い真綿なのだ。あつかうには、特別の術と習練を要する。水をふくませた真綿を、たくみに投げて、敵の刀を捲きつかせれば、適度な重味をあたえられた真綿のきれは、それ自らの力で小蛇のごとく、グルグルッとたちまち刀身ぜんたいにからみついて、水で貼りつき、綿でもつれて、ちっとやそっとのことでは取ろうたってとれない。
 どんな利刃も、即座に蒲団を被(き)て、人を斬るどころか、これじゃあ丸太ン棒よりも始末がわるい。源三郎、ギリッと歯をかんだ。
[#改ページ]

作者記 これまでのところを、先へすすむ前に、ちょっとここで整理いたします。本来ならば、お蓮様(れんさま)の寮で柳生源三郎が剣豪峰丹波(みねたんば)一党にとりかこまれ、くら闇(やみ)の中に命(いのち)と頼む白刃(はくじん)を濡(ぬ)れ真綿(まわた)でからめられた「源三郎の危機(きき)」から稿(こう)をつづけるべきですが、更始一新(こうしいっしん)の気持でここへこの「発端篇(ほったんへん)」をさし加えます。

   耳(みみ)こけ猿(ざる)(発端篇)

「触(さわ)るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
 五本骨の扇(おうぎ)、三百の侯伯(こうはく)をガッシとおさえ、三つ葉葵(ばあおい)の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川もさかりの絶頂です。
 そのころ、いま言ったような唄が流行(はや)った。
 唄の主(ぬし)――。
 伊賀の暴れん坊こと、柳生源(やぎゅうげん)三郎(ろう)は、江戸から百十三里、剣術大名柳生対馬守(やぎゅうつしまのかみ)の弟で、こいつがたいへんに腕(うで)のたつ怖(おっか)ない若侍。
 美男(びなん)で非常な女たらしだ。ちょいと不良めいたところのある人物だったんです。
 江戸へ婿入りすることになりまして、柳生家重代(じゅうだい)のこけ猿(ざる)の茶壺(ちゃつぼ)、朝鮮渡来(ちょうせんとらい)の耳(みみ)こけ猿(ざる)という、これは、相阿弥(そうあみ)、芸阿弥(げいあみ)の編した蔵帳(くらちょう)にのっている、たいそう結構な天下の名器だ。それを婿引出に守って、伊賀の源三郎、同勢をそろえて品川までやってきた。
 ところが、その夜。
 八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門(つるおかいちろうえもん)方の泊りで、
「若ッ! 一大事出来(しゅったい)! 三島の宿で雇い入れました鼓の与吉という人足めが、かのこけ猿の壺をさらって、逐電(ちくでん)いたしましたっ!」
 えらい騒ぎ。波紋の石は、まずこの江戸の咽喉首(のどくび)、品川の夜に投ぜられて、広く大きく、八百八町(ちょう)へひろがっていく。
 その、江戸は本郷(ほんごう)、妻恋坂に。
 十方不知火流(ぽうしらぬいりゅう)という看板を掲げた司馬老先生の道場が、柳生の若様の婿入り先で、娘を萩乃(はぎの)といいます。老先生は長(なが)のいたつき、後妻のお蓮(れん)さまという大年増(おおどしま)が、師範代峰丹波(みねたんば)とぐるになって、今いい気に品川まで乗りこんできている源三郎を、なんとかしてしりぞけ、道場をぶんどろうと企んでいるのだ。
「老先生がおなくなりになるまで、婿引出をぬすみ隠して、源三郎めを品川へとどめておけ」
 つづみの与の公、この丹波の命をうけて供の人数へ紛(まぎ)れこみ、こけ猿の茶壺をかつぎだしたのです。引出物がなくては、お婿さんの行列は立ち往生。
 一同、品川で足どめを食った形。あの辺の青楼(せいろう)やなんかは、イヤもう、どこへ行っても伊賀訛(いがなまり)でいっぱいだ。毎日隊伍(たいご)を組み、豪刀をよこたえて、こけ猿の茶壺やいずこ? と、江戸市中をさがしまわっている。
 この、消え失せたこけ猿の茶壺――耳が一つ虧(か)けているので、耳こけ猿、こけ猿という……この壺の秘密をめぐる葛藤(かっとう)が、本講談の中心でございます。
 さて。
 話はここで、お濠(ほり)の水しずかな千代田の城中、奥深く移って。
 将軍八代様のお湯殿(ゆどの)。八畳の高麗縁(こうらいべり)につづいて、八畳のお板の間、御紋(ごもん)散らしの塗り桶を前に、お流し場の金蒔絵(きんまきえ)の腰かけに、端然(たんぜん)とひかえておいでになるのが、後に有徳院殿(うとくいんでん)と申しあげた吉宗公で。
 来年は、二十年目ごとの、日光御廟(ごびょう)御修営(ごしゅうえい)の年に当たる。ひそかに軍用金でもためこんでいそうな雄藩(ゆうはん)を、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)修理奉行(しゅうりぶぎょう)に命じて、その金をじゃんじゃん吐きださせようという、徳川の最高政策です。
 どんな肥(ふと)った藩でも、日光を一ぺんくうと、げっそり痩(や)せると言われた。
「のう、愚楽(ぐらく)。来年の日光だが、こんどは誰にもっていったものかな?」
 吉宗公、お風呂番に相談している。そもそも、こいつをただの男とおもうと、大間違いなので……。

   金(きん)ピカ日光(にっこう)(発端篇)

 亀背で小男の愚楽老人(ぐらくろうじん)、この上様(うえさま)のお風呂番(ふろばん)は、垢(あか)すり旗下(はたもと)と呼ばれて、たいへんな学者で、かつ人格者だった。
 将軍の垢はするが、胡麻(ごま)は摺(す)らない。
 隠密(おんみつ)の総帥(そうすい)で、みずから称して地獄耳、いながらにしてなんでも知っている。八代吉宗、最高秘密の政機は、すべて入浴(にゅうよく)の際、このせむしの愚楽にはかって決めたものだそうだ。
「来年の日光造営(にっこうぞうえい)の奉行は、誰に?」
 との御下問(ごかもん)に、愚楽、答えて、
「伊賀の柳生対馬守へ――小藩だが、だいぶ埋蔵(まいぞう)しておりますようで」
 柳生対馬守は、源三郎の兄だ。この愚楽の進言の結果、莫大(ばくだい)な費用を要する日光修復は、撃剣と貧乏で日本中に有名な、柳生へ落ちることになった。
 その、いよいよ柳生を当てるにも、です。
 昔はまわりくどいことをやったもので……金魚籤(きんぎょくじ)。
 お城の大広間に、将軍家出御、諸大名ズラリといならび、その前に一つずつ、水をたたえた硝子(ギヤマン)の鉢をおいて、愚楽さんが一匹ずつ金魚を入れて歩くんです。その金魚の死んだ者に、東照宮様の神意があるというんだが、ナアニ、これと思うやつのまえに、前もって湯の鉢をすえとくんだから、金魚こそいい迷惑だ。
 こうして、人のいやがる日光修繕(しゅうぜん)をしょわされちまった柳生藩、剣なら柳生一刀流でお手のものだが、これには殿様はじめ重役連中、額をあつめて、
「よわった! こまった! どうしよう――」
 の連発……青いき吐息。
 この日光祖廟(そびょう)おなおしの件は、やがて本講談の大筋(おおすじ)の一つとなります。
 しかるに。
 その柳生藩に、百歳あまりの一風宗匠(いっぷうそうしょう)という、活(い)きた藩史(はんし)みたいな人物があった。この人によって、柳生の先祖が、かかる場合の用にもと、どこかの山間にとほうもない大金を埋(うず)め隠してあると知れて、一藩(ぱん)は蘇生(そせい)の色に、どよめき渡った。
 あの愚楽老人の言ったことは、やっぱり嘘じゃあなかったんです。其金(それ)さえさがしあてれば、柳生は貧乏どころか、日本一の富裕(ふゆう)な藩になるだろう。
 が、その大金の埋蔵個所は、ただ一枚の秘密の地図に描(えが)き示してあるだけで、誰も知らない。
 では、その密図は――?
「こけ猿の茶壺に封じこめあるもの也(なり)」
 口のきけない一風宗匠、筆談で答えた。
 さあ、たいへん! よろこんだのも束の間、問題のこけ猿の茶壺は、弟源三郎の婿引出に持たしてやって江戸で行方不明……
「名器は名器にしろ、あの薄(うす)ぎたない茶壺が、柳生家門外不出の逸品(いっぴん)と伝えられていたのは、さては、そういう宝の山の鍵がおさめられてあったのか。そうとも知らず――」
 と、地団駄(じだんだ)踏んでも、あとの祭。さっそく、藩士の一隊が決死の勢いで、壺探索に江戸へ立ち向かう。
 妻恋坂、司馬道場(しばどうじょう)の峰丹波はこのこけ猿の秘密を知っているに相違ない。お婿さんの源三郎には来てもらいたくないが、壺には来てもらいたいので、ああして鼓の与吉を使って盗みださせたのも道理こそ……。
 幾百万、幾千万という大財産の在所(ありか)を、そのお腹(なか)ン中に心得てる壺だ。
 そろそろ、四方八方からの眼の光り出したこけ猿……それは今、どこにある?

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:548 KB

担当:undef