丹下左膳
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著者名:林不忘 

       三

「用意を」
 と吉宗、お傍(そば)小姓をかえりみた。
 お小姓の合図で、裾模様の御殿女中が、何人となく列をつくって、しずしずとあらわれ出た。濃いおしろい、前髪のしまった、髱(たぼ)の長く出た片はずし……玉虫いろのおちょぼ口で、めいめい手に手に、満々と水のはいった硝子の鉢を捧げている。
 それを、一同の前へ、膝から三尺ほどのところへ、一つずつ置いた。
 二十年めの日光御修理の役をきめるには、こうして将軍のまえで、ふしぎな籤(くじ)をひいたものである。
 さて、一同の前に一つずつ、水をたたえたギヤマンの鉢が配られると、裃(かみしも)すがたの愚楽老人が、ちょこちょこ出てきた。子供のようなからだに、しかつめらしいかみしもを着ているのだから、ふだんなら噴飯(ふきだ)すものがあるかも知れないがいまは、それどころではない。
 みな呼吸(いき)をつめて、愚楽を見つめている。
 老人、手に桶(おけ)をさげている。桶の中には、それはまた、なんと! 金魚がいっぱい詰まっていて、柄杓(ひしゃく)がそえてあるのだ。
 生きた金魚……真紅の鱗(ひれ)をピチピチ躍らせて。
 金魚籤(きんぎょくじ)が、はじまった。
 愚楽老人は、一匹ずつ柄杓で、手桶の金魚をすくい出しては、はしから順々に、大名達の前に置いてあるギヤマン鉢へ、入れてゆくのだ。
 ごっちゃに押しこめられた桶から、急に、鉢の清水へ放されて、金魚はうれしげに、尾ひれを伸ばして泳いでいる。
 ふしぎな儀式かなんぞのよう――一同は、眼を見ひらいて、順に金魚を入れてゆく老人の手もとに、視線を凝(こ)らしている。
 じぶんの鉢に入れられた金魚が、無事におよぎ出した者は、ホッと安心のてい。
 愚楽老人の柄杓が、上座から順に、鉢に一ぴきずつ金魚をうつしてきて、いま、半(なか)ばを過ぎた一人のまえの鉢へ、一匹すくい入れると、
「やっ! 死んだっ! 当たったっ……!」
 と口々に叫びが起こった。この鉢に限って、金魚が死んだのだ。どの金魚も、すぐ、いきおいよくおよぎ出すのに、これだけは、ちりちりと円くなって、たちまち浮かんでしまった。
「おう、柳生どのじゃ。伊賀侯じゃ」
 その鉢を前にして、柳生藩江戸家老、田丸主水正(たまるもんどのしょう)、蒼白な顔で、ふるえだした。

       四

 シンとした大広間で、一座が、じっと見守っていると、愚楽老人の柄杓で手桶から、柳生対馬守の代理、江戸家老、田丸主水正のまえにおかれたギヤマン鉢へ、一ぴきすくい入れられた金魚が、こいつに限って、即座に色を変えて死んでしまったから、サア、御前をもかえりみず、一同、ガヤガヤという騒ぎ……。
「ヤ! 金魚が浮かんだ。金魚籤が、当たった!」
「来年の日光お手入れは柳生どのときまった!」
「伊賀の柳生は、二万三千石の小禄――これはチト重荷じゃのう」
 いならぶ裃(かみしも)の肩さきが、左右に触れ合って、野分のすすきのよう……ザワザワと揺れうごく。
 みんな助かったという顔つきで、ホッとした欣(よろこ)びは、おおいようもなく、その面色にみなぎっているので。
 なぜこの田丸主水正の鉢だけ、金魚が死んだか?
 ナアニ、こいつは死ぬわけだ。この鉢だけ、清水のかわりに、熱湯が入れてあるのだ。
 シンシンとたぎりたって、湯気もあげず、独楽(こま)のように静かに澄みきっている熱湯――しかも、膝さき三尺離して置くのだから、他(た)の一列の冷水の鉢と、まったくおなじに見えて、どうにも区別がつかない。
 指もはいらない熱湯なんだから、これじゃあ金魚だってたまらない。たちまちチリチリと白くあがって、金魚の白茹(しらゆで)ができてしまうわけ。
 この、金魚の死んだ不可思議(ふかしぎ)な現象こそは、東照宮さまの御神託で、その者に修営(なお)してもらいたい……という日光様のお望みなんだそうだが、インチキに使われる金魚こそ、いい災難。
「煮ても焼いても食えねえ、あいつは金魚みたいなやつだ、なんてえことをいうが、冗談じゃアねえ。上には上があらあ」
 と、断末魔の金魚が、苦笑しました。
 二十年目の日光大修理は、こうして、これと思う者の前へ熱湯の鉢を出しておいて、決めたのだった。
 子供だましのようだが、こんな機関(からくり)があろうとは知らないから、田丸主水正は、まっ蒼な顔――。ピタリ、鉢のまえに平伏していると、
「伊賀の名代(みょうだい)、おもてを上げい」
 前へ愚楽老人が来て、着座した。東照宮のおことばになぞらえて、敬称はいっさい用いない。
「はっ」
 と上げた顔へ、突きだされたのは、今まで吉宗公の御前に飾ってあった、お三宝の白羽の矢だ。
「ありがたくお受け召され」
 主水正、ふるえる手で、その白羽の矢を押しいただいた。

       五

「ありがたきしあわせ……」
 主水正、平伏したきり、しばし頭をあげる気力もない。
「柳生か」
 はるかに、御簾(みす)の中から、八代公のお声、
「しからば、明年の日光造営奉行、伊賀藩に申しつけたぞ。名誉に心得ろ」
「ハハッ!」
 もう決まってしまったから、ほかの大名連中、一時に気が強くなって、
「いや、光栄あるお役にお当たりになるとは、おうらやましい限りじゃテ」
「拙者も、ちとあやかりたいもので」
「それがしなどは、先祖から今まで、一度も金魚が死に申さぬ。無念でござる。心中、お察しくだされい」
「わたくしの藩も、なんとかして日光さまのお役に立ちたいと念じながら、遺憾ながら、どうも金魚に嫌われどおしで――」
 うまいことを言っている。
 吉宗公、さっき一同が、あかるみの中で愚楽老人に突っかえされて、皆もぞもぞうしろに隠している菓子箱へ、ジロリ鋭い一瞥をくれて、
「失望するでない。またの折りもあることじゃ」
 一座は、ヒヤリと、肩をすぼめる。
「それにしても、だいぶ御馳走が出ておるのう」
 みんな妙な顔をして、だれもなんともいわない。
「山吹色の砂糖菓子か。なるほど、それだけの菓子があったら、日光御用は、誰にでもつとまるじゃろうからの、余も安堵(あんど)いたした」
「へへッ」
 皮肉をのこして、そのままスッとお立ちです。諸侯連、控えの間へさがると現金なもので、
「伊達侯、首がすっと伸びたではないか」
「わっはっはっは、それはそうと柳生の御家老、御愁傷なことで」
 みんな悔(くや)みをいいにくる。
「しかし、おかげでわれわれは助かった。柳生様々じゃ」
 いろんな声にとりまかれながら、色蒼ざめて千代田城を退出した田丸主水正、駕籠の揺れも重くやがてたちかえったのは、そのころ、麻布本村町(あざぶほんむらちょう)、林念寺前(りんねんじまえ)にあった柳生の上屋敷。
「お帰り――イ」
 という若党儀作(ぎさく)の声も、うつろに聞いて、ふかい思案に沈んでいた主水正、あわてふためいて用人部屋へ駈けあがるが早いか、
「おい、おいっ! だれかおらぬか。飛脚じゃ! お国おもてへ、急飛脚じゃ!」
 折(お)れよとばかり手をたたいて、破(わ)れ鐘(がね)のような声で叫んだ。

   恋(こい)不知火(しらぬい)


       一

 病間にあてた書院である。やがてそこが、司馬先生の臨終の室となろうとしているのだった。
 病人が光をいとうので、こうして真昼も雨戸をしめ切って、ほのかな灯りが、ちろちろと壁に這っているきりである。中央に、あつい褥(しとね)をしいて、長の大病にやつれた十方不知火流(ぽうしらぬいりゅう)の剣祖、司馬先生が、わずかに虫の息を通わせて仰臥しているのだった。落ちくぼんだ眼のまわりに、青黒く隈(くま)どりが浮かんでいるのは、これが死相というのであろう。
 本郷妻恋坂に、広い土地をとって、御殿といってもよい壮麗な屋敷であった。剣ひとつで今日の地位を築き、大名旗下を多く弟子にとって、この大きな富を積み、江戸の不知火流として全国にきこえているのが、この司馬先生なのだった。その権力、その富は、大名にも匹敵して、ひろく妻恋坂の付近は、一般の商家などすべて、この道場ひとつで衣食しているありさまであった。だから、妻恋坂の剣術大名という異名があるくらいだった。
 故郷の筑紫にちなんで不知火流と唱え、孤剣をもって斯界(しかい)を征服した司馬先生も、老いの身の病(やまい)には勝てなかった。暗い影のなかに、いまはただ、最後の呼吸を待つばかりであった。
 まくらもとに控えている、茶筅(ちゃせん)あたまに十徳の老人は、医師であろう。詰めかけている人々も、ひっそりとして、一語も発する者もない。
 空気は、こもっている、香と、熱のにおいで、重いのだった。
「お蓮(れん)――」
 と、死に瀕(ひん)した老先生の口が、かすかにうごいた。
 医者が、隣にすわっているお蓮さまに、ちょっと合図した。
「はい――」
 泣きながら袂で眼をおさえて、お蓮さまは、病夫の口もとへ耳を持っていった。
 このお蓮さまは、司馬老先生のお気に入りの腰元だったのが、二、三年前、後妻になおったのである。それにしても、先生のむすめといってもいい若さで、それに、なんという美しい女性であろう!
 明りを受けたお蓮さまの顔は、真珠をあたためたようにかがやいて、眉の剃りあとの青いのも、絵筆で引いたように初々(ういうい)しいのだった。
「もう長いことはない」老先生は、喘(あえ)ぐように、
「まだ来んか。伊賀の――源三郎は、まだ江戸へ着かんか」
「はい。まだでございます。ほんとに、気が気でございません。どう遊ばしたのでございましょう」
 お蓮さまは、あせりぬいている顔つきだった。

       二

「神奈川、程(ほど)ヶ谷(や)のほうまで、迎いの者を出してありますから、源三郎様のお行列が見えましたら、すぐ飛びかえって注進することになっております。どうぞ御安心遊ばして、お待ちなさいませ」
 まことしやかなお蓮さまの言葉に、老先生は、満足げにうち笑(え)んで、
「源三郎に会うて、萩乃(はぎの)の将来(ゆくすえ)を頼み、この道場をまかせぬうちは、行くところへも行けぬ。もはや品川あたりに、さしかかっておるような気がしてならぬが、テモ遅いことじゃのう」
 と司馬先生は、絶え入るばかりに、はげしく咳(せ)く。
 いまこの室内に詰めているのは、医師をはじめ、侍女、高弟たち、すべてお蓮さま一派の者のみである。老先生と柳生対馬守とのあいだにできたこの婚約を、じゃまして、これだけの財産と道場を若い後妻お蓮様の手に入れ、うまい汁を吸おうという陰謀なのだ。
 剣をとっては十方不知火、独特の刀法に天下を睥睨(へいげい)した司馬先生も、うつくしい婦人のそらなみだには眼が曇って、このお蓮さまの正体を見やぶることができなかった。
 十方不知火の正流は、ここに乗っ奪(と)られようという危機である。
 多勢が四方から、咳(せ)き入る先生をなでるやら、擦(さす)るやら、半暗(はんあん)のひと間(ま)のうちが、ざわざわ騒ぎたったすきに乗(じょう)じて、お蓮さまはするりと脱け出て、廊下に立ちいでた。
 嬋妍(せんけん)たる両鬢(りょうびん)は、秋の蝉(せみ)のつばさである。暗い室内から、ぱっとあかるい午後の光線のなかへ出てきたお蓮様のあでやかさに、出あい頭(がしら)に、まぶしそうに眼をほそめて、そこに立っているのは、代稽古主席(だいげいこしゅせき)、この剣術大名の家老職といわれる峰丹波(みねたんば)だった。
「いかがです、まだ――」
 六尺近い、大兵(だいひょう)の峰丹波である。そう太い声で言って、にっと微笑(わら)った。
 まだ老先生は息を引きとらぬか――という意味だが、さすがに口に出し兼ねて、語尾を消した。
「早くかたづくといいのにねえ」
 とお蓮さまは、うつくしい顔をしかめて、かんざしで髪の根を掻きながら、
「品川から、なんとかいって来た?」
「いや、一行はいまだに本陣に頑張って、威張っておるそうですが――」
「あの、手紙をくわえた首は、だれも見なかったろうね?」
「あれには驚きましたナ。イヤどうも腐りが早いので、首は、甕(かめ)へ入れて庭へ埋めました。手紙はここに持っておりますが、私の身体まで、死のにおいがするようで――」

       三

 京ちりめんに、浅黄(あさぎ)に白で麻の葉を絞りあわせた振り袖のひとえもの……萩乃(はぎの)は、その肩をおとして、ホッとちいさな溜息を洩らした。
 父の病室からすこし離れた、じぶんの居間で、彼女は、ひとりじっともの思いに沈んでいるのだった。
 うちに火のような情熱を宿して、まだ恋を知らぬ十九の萩乃である。庭前の植えこみに、長い初夏の陽あしが刻々うつってゆくのを、ぼんやり見ながら、きびしい剣家のむすめだけに、きちんとすわって、さっきから、身うごきひとつしない。
 病父(ちち)の恢復は、祈るだけ祈ったけれど、いまはもうその甲斐もなく、追っつけ、こんどは、冥福を祈らなければならないようになるであろう……。
 萩乃は、いま、まだ見ぬ伊賀の源三郎のうえに、想いを馳(は)せているのだ。
 先方の兄と、司馬の父とのあいだに、去年ごろから話があったが、父のやまいがあらたまると同時に、急にすすんで、源三郎さまはきょうあすにも、江戸入りするはずになっているのだ――が、まだお着きにならない。どうなされたのであろう……。
 といって、彼女は決して、源三郎を待っているわけではない。父がかってにきめた縁談で、一度も会ったことのない男を、どうして親しい気もちで待ちわびることができよう。
 伊賀のあばれン坊としてのすばらしい剣腕は、伝え聞いている――きっと見るからに赤鬼のようなあの、うちの峰丹波のような大男で、馬が紋つきを着たような醜男(ぶおとこ)にきまっていると、萩乃は思った。
 気性が荒々しいうえに、素行のうえでも、いろいろよからぬ評判を耳にしているので、萩乃は、源三郎がじぶんの夫として乗りこんでくることを思うと、ゾッとするのだった。
 山猿が一匹、伊賀からやってくると思えばいい。自分はそのいけにえになるのか……と、萩乃が身ぶるいをしたとたん。
「おひとりで、辛気(しんき)くそうござんしょう、お嬢さま」
 と、庭さきに声がした。
 見ると、紺(え)の香のにおう法被(はっぴ)の腰に、棕梠縄(しゅろなわ)を帯にむすんで、それへ鋏(はさみ)をさした若いいなせな植木屋である。
 父が死ねば、この広い庭に門弟全部があつまって、遺骸に別れを告げることになっているので、もはや助からないと見越して、庭の手入れに四、五日前から、一団の植木屋がはいっている。そのうちの一人なのだが、この若い男は、妙に萩乃に注意を払って、なにかと用をこしらえては、しじゅうこの部屋のまえを通りかかるので――。

   秘伝(ひでん)銀杏返(いちょうがえ)し


       一

 どうしてこんな奥庭まで、まぎれこんできたのだろう……と、萩乃が、見向きもせずに、眉をひそめているうちに。
 その若い植木屋は、かぶっていた手ぬぐいをとって、半纏(はんてん)の裾をはらいながら、かってに、その萩乃の部屋の縁側に腰かけて、
「エエ、お嬢さま。たばこの火を拝借いたしたいもので、へえ」
 と、スポンと、煙草入れの筒をぬいた。
 水あぶらの撥(ばち)さきが、ぱらっと散って、蒼味の走った面長な顔、職人にしては険(けん)のある、切れ長な眼――人もなげな微笑をふくんだ、美(い)いおとこである。
 なんという面憎(つらにく)い……!
 萩乃は、品位をととのえて振りむきざま、
「火うちなら、勝手へおまわり」
「イヤ、これはどうも、仰せのとおりで」
 と、男は、ニヤリと笑いつつ煙管(きせる)をおさめて、
「じゃ、たばこはあきらめましょう。だがネ、お嬢さん、どうしてもあきらめられないものがあるとしたら、どうでございますね、かなえてくださいますかね」
 と、その鋭い眼じりに、吸いよせるような笑みをふくんで、ジロッと見据えられたときに、萩乃は、われにもなく、ふと胸がどきどきするのを覚えた。
 不知火流大御所のお嬢様と、植木屋の下職……としてでなく、ただの、男とおんなとして。
 なんてきれいなひとだろう、情(じょう)の深そうな――源三郎さまも、こんなお方ならいいけれど。
 などと、心に思った萩乃、じぶんと自分で、不覚にも、ポッと桜いろに染まった。
 でも、源三郎様は、この植木屋とは月とすっぽん、雪と墨(すみ)、くらべものにならない武骨な方に相違ない……。
 オオ、いやなこった! と萩乃は、想像の源三郎の面(おも)ざしと、この男の顔と、どっちも見まいとするように眼をつぶって、
「無礼な無駄口をたたくと、容赦しませぬぞ。ここは、お前たちのくるところではありませぬ。おさがり!」
「へへへへへ、なんかと、その御立腹になったところの風情がまた、なんとも――」
「萩乃さん、萩乃さんはそこかえ」
 声を先立てて、継母のお蓮さまが、はいってきた。例によって、大男の峰丹波をしたがえて。
「源三郎様は、まだお越しがないねえ……オヤ、この者は、なんです。これ、お前は植木屋ではないか。まあどうしてこんなところへはいりこんで、なんてずうずうしい!――丹波っ、追っぱらっておしまい!」

       二

 司馬の道場をここまで持ってきたのは、むろん、老先生の剣と人物によることながら、ひとつには、この膂力(りょりょく)と才智のすぐれた峰丹波というものがあったからで。
 妻恋坂の大黒柱、峰丹波、先生の恩を仇でかえそうというのか、このごろ、しきりにお蓮さまをけしかけて、源三郎排斥の急先鋒、黒幕となっているのだ。
 まさか変なことはあるまいが、それも、相手が強(したた)か者のお蓮様だから、ふたりの仲は、案外すすんでいるのかも知れない……などと、屋敷うちでは、眼ひき袖引きする者もあるくらい。とにかく、お蓮さまの行くところには、かならず丹波がノッソリくっついて、いつも二人でコソコソやっている。
 醜態である。
 萩乃は、この、ふだんからこころよく思っていないふたりが、はいってきたので、ツンとすまして横を向いていると――身長六尺に近く、でっぷりとふとって、松の木のようにたくましい丹波だ。縁側を踏み鳴らしてくだんの植木屋に近づくなり、
「無礼者っ!」
 と一喝。植木屋、へたばって、そこの土庇(どびさし)に手をついてしまうかと思いのほか、
「あっはっは、大飯食らいの大声だ」
 ブラリ起ちあがって、立ち去ろうとする横顔を、丹波のほうがあっけにとられて、しばしジッと見守っていたが、
「何イ?」
 おめくより早く、短気丹波といわれた男、腰なる刀の小柄を抜く手も見せず、しずかに庭を行く植木屋めがけて、投げつけました。
 躍るような形で、縁に上体をひらいた丹波、男の背中に小柄が刺さって、血がピュッと虹のように飛ぶところを、瞬間、心にえがいたのでしたが……どうしてどうして、そうは問屋でおろさない。
 ふしぎなことが起こったのだ。
 あるき出していた植木屋が、パッと正面を向きなおったかと思うと、ひょいと肘(ひじ)をあげて、小柄を撥(は)ねたのだ。
 飛んでくる刃物を、直角に受けちゃアたまらない。平行に肘を持っていって、スイと横にそらしてしまうんです。
 柳生流の奥ゆるしにある有名な銀杏返(いちょうがえ)しの一手。
 銀杏返しといっても、意気筋なんじゃあない。ひどく不(ぶ)意気な剣術のほうで、秋、銀杏の大樹の下に立って、パラパラと落ちてくる金扇(きんせん)の葉を、肘ひとつでことごとく横に払って、一つも身に受けないという……。

   尺取(しゃくと)り横町(よこちょう)


       一

 なんでも芸はそうで、ちょいと頭をだすまでには、なみたいていのことではございません。人の知らない苦労がある。それがわかるには、同じ段階と申しますか、そこまで来てみなければ、こればっかりは金輪際(こんりんざい)わかりっこないものだそうで、そうして、その苦労がわかってくると、なんだかんだと人のことをいえなくなってしまう。なんでも芸事は、そうしたものだと聞いております。
 いま、仮りに。
 この峰丹波が、あんまり剣術のほうの心得のない人だったら、オヤ! 植木屋のやつ、はずみで巧く避けやがったナ、ぐらいのことで、格別驚かなかったかも知れない。
 が、なにしろ、峰丹波ともあろう人。
 剣のことなら、他流(たりゅう)にまですべて通じているから、今その小柄がツーイと流れて、石燈籠の胴(どう)ッ腹(ぱら)へぶつかって撥(は)ねかえったのを見ると、丹波、まっ青になった。
「ウーム!」
 と呻(うめ)いて、縁に棒立ちです。
 植木屋は?
 と見ると、その蒼白い顔を、相変わらずニコニコさせて、萩乃とお蓮さまへ目礼、スタスタ行っちまおうとするから、丹波、こんどはあわてて、
「お待ちを……ちょっとお待ちを願います」
 ことばづかいまで一変、ピタリ縁にすわって、
「まさか、あなた様は――?」
 恐怖と混迷で、丹波の顔は汗だ。
 お蓮さまと萩乃は、おんなのことで、剣術なんかわからないから、小柄が横にそれただけのことで、この傲岸(ごうがん)な丹波が、どうしてこう急に恐れ入ったのだろう……何かこの植木屋、おまじないでもしたのかしら、と、ふしぎに思って見ている。
「柳生流をあれだけお使いなさるお方は……」
 と、丹波小首を捻(ひね)って、
「ほかにあろうとは思われませぬ。違いましたら、ごめんこうむるといたしまして、もしかあなたさまは、あの――イヤ、しかし、さようなことがあろうはずはござらぬ。御尊名を……ぜひ御尊名を伺わせていただきたい」
「オウ、おさむれえさん。おめえ、何か感ちがいしていやアしませんかい」
 植木屋は、ペコペコあたまを掻いて、
「御尊名と来た! おどろき桃の木――あっしあ、根岸の植留の若えもンで、金公(きんこう)てえ半チク野郎で、へえ」
「なんと仰せられます。ただいまのは、柳生流秘伝銀杏返し……お化けなすっても、チラと尻尾が見えましてござります、しっぽが!」
「へ?」
 と金公、キョトンとした顔。

       二

 うたたねの夢からさめた櫛(くし)まきお藤(ふじ)は、まア! とおどろいた。
 じぶんの昼寝のからだに、いつの間にか、意気な市松(いちまつ)のひとえが、フワリとかけてあるのである。
「まあ! あんなやつにも、こんな親切気があるのかねえ」
 と、口の中で言って、とろんとした眼、自暴(やけ)に髪の根を掻いている。
 ここは、浅草駒形(あさくさこまがた)、高麗屋敷(こうらいやしき)の櫛まきお藤のかくれ家です。縁起棚の下に、さっき弾きあきたらしい三味線が一梃(ちょう)、投げだしてあるきり、まことに夏向きの、ガランとした家で、花がるたを散らしに貼った地ぶくろも、いかさまお藤姐御(あねご)の住まいらしい。
 どんよりした初夏の午(ひる)さがり……ジッとしていると、たまらなく睡(ねむ)くなる陽気だ。
 お藤、真っ昼間から一ぱいやって、いまとろとろしたところらしく、吐く息が、ちと臭い。
 今のことばを、口のなかでいったつもりだったのが、声になって外へ出たとみえて、
「姐御、おめざめですかい。あんなやつはねえでしょう。相変わらず口がわるいね」
 といって、二間(ま)ッきりの奥の間から、出てきたのは、しばらくここに厄介になって身をひそめている、鼓の与吉である。
 妻恋坂のお蓮様に頼まれ、東海道の三島まで出張って、あの柳生源三郎の一行に、荷かつぎ人足としてまぎれこみ、ああして品川の泊りで、うまく大名物こけ猿の茶壺を盗み出したこの与吉。いままでこのお藤姐御の家に鳴りをひそめて、ほとぼりをさましていたので。
 ゆうき木綿(もめん)の単衣(ひとえ)に、そろばん絞りの三尺を、腰の下に横ちょに結んで、こいつ、ちょいとした兄哥(あにい)振りなんです。
 見ると、どっかへ出かける気らしく、藍玉(あいだま)の手ぬぐいを泥棒かむりにして、手に、大事そうに抱えているのは、これが、あの、伊賀の暴れン坊の婿引出、柳生流伝来の茶壺こけ猿であろう。鬱金(うこん)のふろしきに包んだ、高さ一尺五、六寸の四角い箱だ。
「おや、いよいよきょうは一件を持って、お出ましかえ」
 と笑うお藤の眼を受けて、
「あい。あんまり長くなるから、ひとつ思い切って峰丹波さまへこいつをお届けしようと思いやしてネ」
「だけど、伊賀の連中は、眼の色変えて毎日毎晩、品川から押し出して、江戸じゅう、そいつを探してるというじゃないか。もう、大丈夫かえ?」
「なあに――」
 与吉の足は、もう土間へおりていました。

       三

 櫛は野代(のしろ)の本ひのき……素顔自慢のお藤姐御は、髪も、あぶら気をいとって乱したまんま、名のとおり、グルグルっと櫛巻にして、まア、言ってみれば、持病が起こりましてネ、化粧(みじまい)もこの半月ほど、ちっともかまいませんのさ、ようようゆうべひさしぶりで、ちょいと銭湯へはいったところで――なんかと、さしずめ春告鳥(はるつげどり)にでも出てきそうな、なかなかうるさい風俗。
 ここんところ、ちょっと、お勝手もと不都合とみえて、この暑いのに縞縮緬(しまちりめん)の大縞(おおしま)の継(つぎ)つぎ一まいを着て、それでも平気の平左です。白い二の腕を見せて、手まくらのまま、
「さわるまいぞえ、手を出しゃ痛い――柳生の太刀風をバッサリ受けても、知らないよ」
 土間の与吉は、やっこらさとこけ猿の茶壺をかかえて、
「何しろ、大将が大暴れン坊で、小あばれん坊がウントコサ揃っていやすからネ。そいつが、江戸中を手分けして、この与吉様とこの茶壺をさがしてるんだ。ちいとばかり、おっかなくねえことアねえが、峰の殿様も、いそいでいらっしゃる。きっと、与の公のやつ、どうしたかと……」
「じゃ、いそいで行って来な」
「へえ、此壺(こいつ)を妻恋坂へ届けせえすれア、とんでけえってめえります。また当分かくまっておもらい申してえんで」
「あいさ、これは承知だよ」
「こういう危ねえ仕事には、けえって夜より、真っ昼間のほうがいいんです」
「お前がそうしてそれを持ったところは、骨壺を持ってお葬式(とむらい)に出るようだよ。似合うよ」
「ヤ、姐御、そいつあ縁起でもねえなあ」
 与吉が閉口して、出て行きますと、あとは急にヒッソリして、おもて通りの駒形を流して行く物売りの声が、のどかに――。
 しばらく、天井の雨洩りのあとを見ていたお藤は、やおらムックリ起きあがって、手を伸ばして三味線をとりあげました。
 すぐ弾きだすかと思うと、さにあらず、押入れをあけて、とり出したのは、中を朱に、ふちを黒に塗った状箱です。紐をほどく。ふたを除く――。
 そして、お藤、まるで人間に言うように、
「さア、みんな、しっかり踊るんだよ」
 と! です。おどろくじゃアありませんか。その状箱からぞろぞろ這い出したのは、五、六匹の尺とり虫ではないか――。
 同時に、お藤、爪びきで唄いだした。
「尺取り虫、虫
  尺とれ、寸取れ」

       四

「尺取り虫、虫
尺とれ、寸とれ
寸を取ったら
背たけ取れ!
尺とり虫、虫
尺取れ、背とれ
足の先からあたままで
尺を取ったら
命(いのち)取れ!」
 こういう唄なんだ。命とれとは、物騒。
 こいつを、お藤、チリチリツンテンシャン! と三味(しゃみ)に合わせて歌っているんでございます。
 畳のうえには、五匹ほどの尺とり虫が、ゾロゾロ這っている。まことに妖異なけしき……。
 トロンと空気のよどんだ、江戸の夏の真昼。隣近所のびっしり立てこんだこの高麗やしきのまん中で、ひとりのあやしいまでに美しい大年増が、水色ちりめんの湯まきをチラリこぼして、横ずわり――爪弾きの音も忍びがちに、あろうことか、尺取り虫に三味を聞かせているんで。
 お藤はじっと眼を据えて、這いまわる尺取り虫を見つめながら、ツンツルルン、チチチン、チン……。
「尺とれ、背取れ
足のさきから頭まで
尺をとったら
命(いのち)取れ――」
 一生けんめいに呼吸をつめて、唄っているお藤の額は、汗だ、あぶら汗だ。この汗は、閉め切った部屋の暑さのせいばかりではない。人間のもつ精神力のすべてを、三味と唄とに集中して櫛まきお藤は、いま、一心不乱の顔つきです。
 上気した頬のいろが、見る間にスーッと引いて、たちまち蒼白(そうはく)に澄んだお藤は、無我の境に入ってゆくようです。
 背を高く丸く持ちあげては、長く伸びて、伸びたり縮んだりしながら、思い思いの方角に這ってゆく尺取り虫……。
 西洋の言葉に、「牡蠣(かき)のように音楽を解しない」というのがあります。また蓄音機のマークに、犬が主人の声に聞き惚れているのがある。マーク・トウェインか誰かの作品にも、海老(えび)が音楽に乗ってうごき出すのがあったように記憶しております。
 とにかく、動物は音楽を解するかどうか――こいつはちょっとわからないし、また、尺取り虫に音楽の理解力があろうとは思われないが……いま見ていると、この虫ども、一心不乱のお藤姐御の三味に合わせて、緩慢な踊りをおどっているように見えるので。
 じつに、世にも奇態なことをするお藤――。

   お釈迦様(しゃかさま)でも


       一

 この、なんの変哲もない古びた茶壺ひとつを、ああして大名の乗り物におさめて、行列のまん中へ入れて、おおぜいで護ってくるなんて、その好奇(ものずき)さ加減も、気が知れねえ……と、打てばひびくというところから、鼓(つづみ)の名ある駒形の兄(あに)い与吉、ひとり物思いにふけりながら、ブラリ、ブラリやってくる。
 その御大層(ごたいそう)もない茶壺を、あの品川へ着いた夜の酒宴(さかもり)に、三島から狙ってきたこのおいらに、見ごとに盗みだされるたア、強いだけで能(のう)のねえ田舎ざむれえ、よくもああ木偶(でく)の坊が揃ったもんだと、与吉は、大得意だ。今ごろは、吠え面(づら)かいて探してるだろうが、ざまア見やがれ――。
 いい若い者が、何か四角い包みを抱えて、ニヤニヤ思い出し笑いをしながら行くから変じァないかと、道行く人がみんな気味わるそうに、よけて行く。
 しかし、こんな騒ぎをして、わざわざこんなものを盗みださせる妻恋坂のお蓮さんも、峰丹波様も、すこし酔狂がすぎやアしねえか――。
「萩乃どのの婿として乗りこんでくる源三郎様には、すこしも用がない」
 と、この命令を授ける時、峰の殿様がおっしゃったっけ……。
「彼奴(きゃつ)は、あくまでも阻止せねばならぬ。が、その婿引出に持ってまいるこけ猿の茶壺には、当方において大いに用があるのだ」
 そして、丹波、抜からず茶壺を持ち出せと、すごい顔つきで厳命をくだしたものだが、してみると――。
 してみると……この茶壺の中は、空(から)じゃアないかも知れない。
 そう思うと、なんだかただの茶壺にしては、重いような気がして来た。
 与吉は、矢も楯もなく、今ここで箱をあけて、壺のなかを吟味したくてたまらなくなりました。
 好奇心は、猫を殺す――必ずともに壺のふたを取るでないぞ! 中をあらためてはならぬぞ! こういう峰丹波の固い命令(いいつけ)だったので、それで与吉、今まであの高麗屋敷の櫛まきお藤の家で、この茶壺と寝起きしていた何日かのあいだも、見たいこころをジッとおさえて、我慢してきたのだが……。
 これから妻恋坂の道場へ納めてしまえば、もう二度と見る機会はなくなる。
 見るなと言われると、妙に見たいのが人情で、
「ナアニ、ちょっとぐれえ見る分にゃア、さしつけえあるめえ。第一、おいらが持ち出した物じゃアねえか」
 与の公、妙な理屈をつけて、あたりを見まわした。

       二

 浅草の駒形を出まして、あれから下谷を突っ切って本郷へまいる途中、ちょうど三味線堀(さみせんぼり)へさしかかっていました。
 松平下総守様(しもうさのかみさま)のお下屋敷を左に見て、韓軫橋(かんしんばし)をわたると、右手が佐竹右京太夫(さたけうきょうだゆう)のお上屋敷……鬱蒼(うっそう)たる植えこみをのぞかせた海鼠塀(なまこべい)がずうっとつづいていて、片側は、御徒組(おかちぐみ)の長屋の影が、墨をひいたように黒く道路に落ちている。
 夏のことですから、その佐竹さまの塀の下に、ところ天の荷がおりていて、みがきぬいた真鍮(しんちゅう)のたがをはめた小桶をそばに、九つか十ばかりの小僧がひとり、ぼんやりしゃがんで、
「ところてんや、てんやア……」
 と、睡そうな声で呼んでいる。大きな椎の木が枝をはり出していて、ちょっと涼しい樹蔭をつくっている。
 近処のおやしきの折助がふたり、その路ばたにしゃがみこんで、ツルツルッとところ天を流しこんで立ち去るのを見すますと、与吉のやつ、よしゃアいいのに、
「おう、兄(あん)ちゃん、おいらにも一ぺえくんな。酢をきかしてナ」
 と、その桶(おけ)のそばへうずくまった。
「へえい! 江戸名物はチョビ安(やす)のところ天――盛りのいいのが身上だい」
 ところ天やの小僧、ませた口をきくんで。
「こちとら、かけ酢の味を買ってもらうんだい。ところ天は、おまけだよ」
「おめえ、チョビ安ってのか。おもしれえあんちゃんだな。ま、なんでもいいや。早えとこ一ぺえ突き出してくんねえ」
 言いながら、与の公、手のつつみを地面(した)へおろして、鬱金(うこん)のふろしきをといた。出てきたのは、時代がついて黒く光っている桐の箱だ。そのふたを取って、いよいよ壺を取り出す。
 古色蒼然たる錦のふくろに包んである。それを取ると、すがりといって、赤い絹紐の網が壺にかかっております。
 その網の口をゆるめ、奉書の紙を幾重にも貼り固めた茶壺のふたへ、与吉の手がかかったとき、その時までジッと見ていたところ天売りの子供、みずから名乗ってチョビ安が、
「小父(おじ)ちゃん、ところ天が冷(さ)めちゃうよ」
 洒落(しゃれ)たことをいって、皿をつき出した。
「まア、待ちねえってことよ。それどころじゃアねえや」
 与吉がそう言って、チラと眼を上げると、あ! いけない! 折りしも、佐竹様の塀について、この横町へはいってくる一団の武士のすがた! 安積玄心斎(あさかげんしんさい)の白髪をいただいた赭(あか)ら顔を先頭に……。

       三

 それと見るより、与吉、顔色を変えた。この連中にとっ掴まっちゃア、たまらない。たちまち、小意気な江戸ッ児のお刺身ができあがっちまう。
「うわあっ!」
 と、とびあがったものです。
 むこうでも、すぐ与吉に気がついた。気の荒いなかでも気のあらい脇本門之丞(わきもともんのじょう)、谷大八(たにだいはち)なんかという先生方が、
「オ! おった! あそこにおる!」
「やっ! 与吉め、おのれっ!」
「ソレっ! おのおの方ッ!」
「天道われに与(くみ)せしか――」
 古風なことを言う人もある。ドッ! と一度に、砂ほこりをまきあげて、追いかけてきますから、与吉の野郎、泡をくらった。
 もう、ところてんどころではありません。
「おウ、チョビ安といったな。此壺(こいつ)をちょっくら預かってくんねえ。あの侍(さんぴん)たちに見つからねえようにナ、おらア、ぐるッとそこらを一まわりして、すぐ受けとりに来るからな」
 と、見えないように、箱ごと壺を、ところ天屋の小僧のうしろへ押しこむより早く、与の公、お尻に帆あげて、パッと駈け出した。
 いったい、このつづみの与吉ってえ人物は、ほかに何も取得(とりえ)はないんですが、逃げ足にかけちゃア天下無敵、おっそろしく早いんです。
 今にもうしろから、世に名だたる柳生の一刀が、ズンと肩口へ伸びて来やしないか。一太刀受けたら最後、あっというまに三まいにおろされちまう……と思うから、この時の与吉の駈けっぷりは、早かった。
 まるで踵(かかと)に火がついたよう――背後(うしろ)からは、与吉待てえ、与吉待てえと、ガヤガヤ声をかけて追ってくるが、こいつばかりは、へえといって待つわけにはいかない。
 ぐるっと角をまがって、佐竹様のおもて御門から、木戸をあけて飛びこんだ。御門番がおどろいて、
「おい、コラコラ、なんじゃ貴様は」
 あっけにとられているうちに、
「へえ、ごらんのとおり人間で――人ひとり助けると思召(おぼしめ)して」
 と与吉、たちさわぐ佐竹様の御家来に掌(て)を合わせて拝みながら、御番衆が妙なやつだナと思っているうちに、ぬけぬけとしたやつで、すたすた御邸内を通りぬけて、ヒョックリさっきの横町へ出てまいりました。
「ざまア見やがれ。ヘッ、うまく晦(ま)いてやったぞ」
 ところが、与吉、二度びっくり――ところてんのチョビ安が、こけ猿の茶壺とともに、影もかたちもないんで。

       四

 ところ天の荷は、置きっ放しになっている。
 あわてた与吉が、ふと向うを見ると、こけ猿の包みを抱えたチョビ安が、尻切れ草履の裏を背中に見せて、雲をかすみととんでゆくのだ。
 安積玄心斎の一行は、与吉にあざむかれて、横町へ切れて行ったものらしく、あたりに見えない。
「小僧め! 洒落(しゃれ)た真似をしやがる」
 きっとくちびるを噛んだ与吉、豆のように遠ざかって行くチョビ安のあとを追って、駈けだした。
 柳沢弾正少弼(やなぎさわだんじょうしょうひつ)、小笠原頼母(おがさわらたのも)と、ずっと屋敷町がつづいていて、そう人通りはないから、逃げてゆく子供のすがたは、よく見える。
「どろぼうっ! 泥棒だっ! その小僧をつかまえてくれっ!」
 と与吉は、大声にどなった。
 早いようでも子供の足、与吉にはかなわない。ぐんぐん追いつかれて、今にも首へ手が届きそうになると、チョビ安が大声をはりあげて、
「泥棒だ! 助けてくれイ!」
 と喚(わめ)いた。
「この小父(おじ)さんは泥棒だよ。あたいのこの箱を奪(と)ろうっていうんだよ」
 と聞くと、そこらにいた町の人々、気の早い鳶(とび)人足や、お店者(たなもの)などが、ワイワイ与吉の前に立ちふさがって、
「こいつ、ふてえ野郎だ。おとなのくせに、こどもの物を狙うてえ法があるか」
 おとなと子供では、どうしてもおとなのほうが割りがわるい。みんなチョビ安に同情して、与吉はすんでのことで袋だたきにあうところ……。
 やっとそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋(あづまばし)のたもと。
 ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭(せま)い河原(かわら)、橋杭(くい)のあいだに筵(むしろ)を張って、お菰(こも)さんの住まいがある。
 飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
 中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。

       五

「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
 とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
 いい兄哥(あにい)が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
 筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
 隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
 箒(ほうき)のような赭茶(あかちゃ)けた毛を、大髻(おおたぶさ)にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
 その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
 黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏(しゃれこうべ)を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢(ながじゅばん)が、痩せた脛(すね)にからまっている。
「おめえか」
 と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
 右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
 与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
 と、刻むような左膳の微笑。
「二本さして侍(さむれえ)だといったところで、主君や上役にぺこぺこしてヨ、御機嫌をとらねえような御機嫌をとって、仕事といやア、それだけじゃアねえか。おもしろくもねえ。かく河原住まいの丹下左膳、こんなさっぱりしたことはないぞ」
「へえ、さようで――」
 と、撥(ばち)をあわせながら、与吉、気が気でない。その左膳のうしろに、あのチョビ安の小僧が、お小姓然と、ちゃんと控えているんで。
 しかも、こけ猿の包みを両手に抱えて。

   妙(みょう)な裁判(さいばん)


       一

 この丹下左膳は。
 いつか、金華山沖あいの斬り合いで、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、左膳の長身が、生けるとも死んだともなく、遠く遠く漂い去りつつあった……はずのかれ左膳、うまく海岸に流れついたとみえて、こうしていつのまにか、ふたたび江戸へまぎれこみ、この橋の下に浮浪の生活をつづけていたのだ。
 が、いまの与吉には、そんなことは問題でない。
 左膳のうしろにチョコナンとすわっているチョビ安をにらんで、どう切りだしたものかと考えている。
 何しろ、チョビ安のそば、左膳の左手のすぐ届くところに、鹿の角の形をした、太短い松の枯れ枝が二本向い合せに土にさしてあって、即妙(そくみょう)の刀架け……それに、赤鞘の割れたところへ真田紐(さなだひも)をギリギリ千段巻きにしたすごい刀(やつ)が、かけてあるのだから、与吉も、よっぽど気をつけて口をきかなければならない。
 まず……。
「へへへへへ」と笑ってみた。
「ちょっと伺いやすが、そのお子さんは、先生の、イエ、丹下の旦那様のお坊っちゃまなので――?」
 すると、左膳、すぐにはそれに答えずに、夢を見ているような顔だ。
「今は左膳、根ッからの乞食浪人……これでチョイチョイ人斬りができりゃア、文句はねえ。どうだ、与吉、思う存分人を斬れるような、おもしれえ話はねえかナ。どこかおれを人殺しに雇ってくれるところはねえか」
 ほそい眼を笑わせて、口を皮肉にピクピクさせるところなど、相変わらずの丹下左膳だ。
 そろそろおいでなすったと、与吉は首をすくめて、
「へえ。せいぜい心がけやしょう。それはそうと丹下の殿様、そこにおいでの子供衆は、そりゃいってえ……」
「うむ、この子か。知らぬ」
「まるっきり、なんの関係(かかりあい)もおありにならないんで?」
「おめえより一足さきに、この小屋へ飛びこんで来たのだ」
 と聞いて与吉、急に気が強くなって、
「ヤイ! ヤイ! チョビ安といったナ。ふてえ畜生だ。こんなところへ逃げこんでも、だめだぞ。さ、その壺をけえせ!」
 と、どなったのだが、チョビ安はけろりとした顔で、
「何いってやんで! 小父ちゃんこそ、おいらからこの包みをとろうとして、追っかけて来たんじゃアねえか。乞食のお侍さん、あたいを助けておくんなね。この小父ちゃんは、泥棒なんだよ」

       二

 与吉はせきこんで、
「餓鬼のくせに、とんでもねえことを言やアがる。てめえが其箱(それ)を引っさらって逃げたこたア、天道さまも御照覧じゃあねえか」
「やい、与吉、おめえ、天道様を口にする資格はあるめえ」
 左膳のことばに、与吉がぐっとつまると、チョビ安は手を拍(う)って、
「そうれ、見な。あたいの物をとろうとして、ここまでしつこく追っかけて来たのは、小父ちゃんじゃあねえか。このお侍さんは、善悪ともに見とおしだい。ねえ、乞食のお侍さん」
 与の公は、泣きださんばかり、
「あきれた小倅(こせがれ)だ。白を黒と言いくるめやがる。やい! この壺は、こどものおもちゃじゃねえんだぞ。こっちじゃア大切なものだが、何も知らねえお前(めえ)らの手にありゃあ、ただの小汚(こぎた)ねえ壺だけのもんだ。小父ちゃんが褒美(ほうび)をやるから、サ、チョビ安、器用に小父ちゃんに渡しねえナ」
「いやだい!」チョビ安は、いっそうしっかと壺の箱を抱えなおして、
「あたいのものをあたいが持ってるんだ。小父ちゃんの知ったこっちゃアねえや」
 眼をいからした与吉、くるりと裾をまくって、膝をすすめた。
「盗人猛々(たけだけ)しとはてめえのこったぞ。いいか、現におめえは、おいらの預けたその箱をさらって、ドロンをきめこみ、いいか、一目山随徳寺(いちもくさんずいとくじ)と――」
「うめえうそをつくなあ!」
 とチョビ安は、感に耐えた顔だ。
 与吉、ピタリとそこへ手をついたものだ。
「チョビ安様々、拝む! おがみやす。まずこれ、このとおり、一生の恩に被(き)やす。どうぞどうぞ、お返しなされてくだされませ」
「ウフッ! 泣いてやがら。おかしいなあ!」
「なにとぞ、チョビ安大明神、ところてんじくから唐(から)日本の神々さま、あっしを助けるとおぼしめして――」
 チョビ安、どこ吹く風と、
「小父ちゃん、あきらめて帰(けえ)んな、けえんな」
「買うがどうだ!」
 与吉は必死の面持ち、ぽんと上から胴巻をたたき、
「一両! 二両! その古ぼけた壺を二両で買おうてんだ、オイ! うぬが物をうぬが銭(ぜに)出して買おうなんて、こんなべらぼうな話アねえが、一すじ縄でいく餓鬼じゃアねえと見た。二両!」
「じゃ、清く手を打つ……と言いてえところだが」
 とチョビ安、大人のような口をきいて、そっくり返り、
「まあ、ごめんこうむりやしょう。千両箱を万と積んでも、あたいは、この壺を手放す気はねえんだよ、小父ちゃん」

       三

 その時まで黙っていた丹下左膳、きっと左眼を光らせて二人を見くらべながら、
「ようし。おもしれえ。大岡越前じゃアねえが」
 と苦笑して、
「おれが一つ裁(さば)いてやろうか」
「小父ちゃん、そうしておくれよ」
「殿様、あっしから願いやす。その御眼力をもちまして、どっちがうそをついてるか、見やぶっていただきやしょう。こんないけずうずうしい餓鬼ア、見たことも聞いたこともねえ」
「こっちで言うこったい」
「まア、待て」
 と左膳、青くなっている与吉から、チョビ安へ眼を移して、にっこりし、
「小僧、汝(われ)ア置き引きを働くのか」
 置き引きというのは、置いてある荷をさらって逃げることだ。
 これを聞くと、与吉は、膝を打って乗りだした。
「サ! どうだ。ただいまの御一言、ピタリ適中じゃアねえか。ところてん小僧の突き出し野郎め! さあ壺をこっちに、渡した、わたした!」
 チョビ安は、しょげ返ったようすで、
「しょうがねえなあ。乞食のお侍さん、どうしてそれがわかるの?」
「なんでもいいや。早く其壺(そいつ)を出さねえか」
 と、腕を伸ばして、ひったくりにかかる与吉の手を、左膳は、手のない右の袖で、フワリと払った。
「だが、待った! 品物は与吉のものに相違あるめえが、返(けえ)すにゃおよばねえぞ小僧」
「へ? タタ丹下の殿様、そ、そんなわからねえ――」
「なんでもよい。壺はあらためて左膳より、この小僧に取らせることにする」
 よろこんだのは、チョビ安で、
「ざまア見やがれ! やっぱりおいらのもんじゃアねえか。さらわれる小父ちゃんのほうが、頓馬(とんま)だよねえ、乞食のお侍さん」
「先生、旦那、いやサ、丹下様」
 と与吉は、持ち前の絡み口調になって、
「あんまりひでえじゃあござんせんか。あっしゃアこのお裁きには、承服できねえ」
「なんだと?」
 左膳の顔面筋肉がピクピクうごいて、左手が、そっと、うしろの枯れ枝の刀かけへ……。
「もう一ぺん吐かしてみろ!」
「ま、待ってください。ナ、何もそんなに――」
 ぐっと左膳の手が、大刀へ伸びた瞬間、これはいけないと見た与の公、
「おぼえてやがれっ!」
 と、チョビ安へひとこと置き捨てて、その蒲鉾(かまぼこ)小屋を跳び出した。

   親(おや)なし千鳥(ちどり)


       一

 いくら大名物(おおめいぶつ)のこけ猿でも、いのちには換えられない……と、与吉が、ころがるように逃げて行ったあと。
 朝からもう何日もたったような気のする、退屈するほど長い夏の日も、ようやく西に沈みかけて、ばったり風の死んだ夕方。
 江戸ぜんたいが黄色く蒸(む)れて、ムッとする暑さだ。
 だが、橋の下は別世界――河原には涼風が立って、わりに凌(しの)ぎよい。
 ゲゲッ! と咽喉の奥で蛙(かわず)が鳴くような、一風変わった笑いを笑った丹下左膳。
「小僧、チョビ安とか申したナ。前へ出ろ」
「あい」
 と答えたが、チョビ安、かあいい顔に、用心の眼をきらめかせて、
「だが、うっかり前へ出られないよ。幸い求めしこれなる一刀斬れ味試さんと存ぜしやさき、デデン……なんて、すげえなア。嫌だ、いやだ」
 左膳は苦笑して、
「おめえ、おとなか子供かわからねえ口をきくなあ」
「口だけ、おいらより十年ほどさきに生まれたんだとさ」
「そうだろう」左膳は、左手で胸をくつろげて、河風を入れながら、
「誰も小僧を斬ろうたア言わねえ。ササ、もそっとこっちへ来い。年齢(とし)はいくつだ」
 チョビ安は、裾をうしろへ撥(は)ね、キチンとならべた小さな膝頭へ両手をついて、
「あててみな」
「九つか。十か」
「ウンニャ、八つだい」
「いつから悪いことをするようになった」
「おい、おい、おさむれえさん。人聞きのわりいことは言いっこなし!」
「だが、貴様、置き引きが稼業(しょうべえ)だというじゃあねえか」
「よしんば置きびきは悪いことにしても、何もおいらがするんじゃアねえ。みんな世間がさせるんだい」
「フン、容易ならねえことを吐かす小僧だな」
「だって、そうじゃアねえか。上を見りゃあ限(き)りがねえ。大名や金持の家に生まれたってだけのことで、なんの働きもねえ野郎が、大威張りでかってな真似をしてやがる。下を見りゃあ……下はねえや。下は、あたいや、羅宇屋(らうや)の作爺(さくじい)さんや、お美夜(みや)ちゃんがとまりだい。わるいこともしたくなろうじゃアねえか」
「作爺とは、何ものか」
「竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋で、あたいの隣家(となり)にいる人だよ」
「お美夜と申すは?」
「作爺さんのむすめで、あたいの情婦だよ」

       二

「情婦だと?」
 さすがの左膳も、笑いだして、
「そのお美夜ちゃんてえのは、いくつだ?」
「あたいと同い年だよ。ううん、ひとつ下かも知れない」
「あきれけえった小僧だな」
「なぜ? 人間自然の道じゃアねえか」
 今度は左膳、ニコリともしないで、
「おめえ、親アねえか」
 ちょっと淋しそうに、くちびるを噛んだチョビ安は、すぐ横をむいて、はきだすように、
「自慢じゃアねえが、ねえや、そんなもの」
「といって、木の股から生まれたわけでもあるまい」
「コウ、お侍さん、理に合わねえこたア言いっこなしにしようじゃねえか。きまってらあな。そりゃあ、あたいだってね、おふくろのぽんぽんから生まれたのさ」
「いやな餓鬼だな。その母親(おふくろ)や、父(ちゃん)はどうした」
「お侍さんも、またそれをきいて、あたいを泣かせるのかい」
 とチョビ安、ちいさな手の甲でぐいと鼻をこすって、しばらく黙したが、やがて、特有のませた口調で話し出したところによると……。
 このチョビ安――名も何もわからない。ただのチョビ安。
 伊賀の国柳生の里の生れだとだけは、おさな心にぼんやり聞き知っているが、両親は何者か、生きているのか、死んだのか、それさえ皆目(かいもく)知れない。どうして、こうして江戸に来ているのか……。
「それもあたいは知らないんだよ。ただ、あたいは、いつからともなく江戸にいるんだい」
 とチョビ安は、あまりにも簡単な身の上ばなしを結んで、思い出したようにニコニコし、
「でも、あたいちっとも寂しくないよ。作爺ちゃんが親切にしてくれるし、お美夜ちゃんってものがあるもの。お美夜ちゃんはそりゃあ綺麗で、あたいのことを兄(にい)ちゃん兄ちゃんっていうよ。早く大きくなって夫婦(めおと)になりてえなあ」
 いいほうの左の眼をつぶって、じっと聞いていた左膳、何やらしんみりと、
「それでチョビ安、おめえ、親に会いたかアねえのか」
「会いたかねえや」
「ほんとに、会いたくねえのか」
 すると、たまりかねたチョビ安、いきなり大声に泣き出して、
「会いてえや! べらぼうに会いてえや! そいで毎日、こうして江戸じゅう探し歩いてるんだい」

       三

「そうなくちゃあならねえところだ」
 と左膳は、見えない眼に、どうやら涙を持っているようす。
 そっとチョビ安をのぞき見やって、いつになくしみじみした声だ。
「だがなあ、親を探すといって、何を手がかりにさがしているのだ」
 チョビ安は、オイオイ泣いている。
「おっ母(かあ)に会いてえ、父(ちゃん)にあいてえ。うん? 手がかりなんか何もないけど、あたい、一生けんめいになれば、一生のうちいつかは会えるよねえ、乞食のお侍さん」
「そうだとも、そんなかあいいおめえを棄てるにゃア、親のほうにも、よほどのわけがあるに相違ねえ。親もお前(めえ)を探してるだろう。武士(さむらい)か」
「知らねえ」
「町人か、百姓か」
「なんだか知らねえんだ」
「こころ細い話だなあ」
「作爺ちゃんも、お美夜ちゃんも、いつもそういうんだよ」
 と洟(はな)をすすりあげたチョビ安、そのまま筵をはぐって河原へ出たかと思うと、大声にうたい出した。澄んだ、愛(あい)くるしい声だ。
「むこうの辻のお地蔵さん
涎(よだれ)くり進上、お饅頭(まんじゅう)進上
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父(ちゃん)はどこ行った
あたいのお母(ふくろ)どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
 それを聞く左膳、ぐっと咽喉を詰まらせて、
「おウ、チョビ安」
 と呼びこんだ。
「どうだ、父(ちゃん)が見つかるまで、おれがおめえの父親になっていてやろうか」
 チョビ安は円(つぶら)な眼を見張って、
「ほんとかい、乞食のお侍さん」
「ほんとだとも、だが、そういちいち、乞食のお侍さんと、乞食をつけるにはおよばぬ。これからは、父上と呼べ。眼をかけてつかわそう」
「ありがてえなあ。あたいも一眼見た時から、乞食の……じゃアねえ、お侍さんが好きだったんだよ。うそでも、父(ちゃん)とよべる人ができたんだもの。こんなうれしいこたあねえや。あたい、もうどこへも行かないよ」
「うむ、どこへも行くな。その壺は、この俄(にわか)ごしらえの父が、預かってやる。これからは、河原の二人暮しだ。親なし千鳥のその方(ほう)と、浮世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」

   血(ち)の哄笑(こうしょう)


       一

 子供の使いじゃあるまいし、壺をとられました……といって、手ぶらで、本郷の道場へ顔出しできるわけのものではない。
 あの端気(ママ)丹波が、ただですますはずはないのだ。
 首が飛ぶ……と思うと、与吉は、このままわらじをはいて、遠く江戸をずらかりたかったが、そうもいかない。
 いつの間にか、うす紫の江戸の宵だ。
 待乳山(まつちやま)から、河向うの隅田の木立ちへかけて、米の磨(と)ぎ汁のような夕靄(ゆうもや)が流れている。
 あのチョビ安というところ天売りの小僧は、なにものであろう……丹下の殿様は、あれからいったいどういう流転(るてん)をへて、あんな橋の下に、小屋を張っているのだろうと、与吉のあたまは、数多(あまた)の疑問符が乱れ飛んで、飛白(かすり)のようだ。
 思案投げ首。
 世の中には、イケずうずうしい餓鬼もあったものだ。それにしても、悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
 ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。
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