丹下左膳
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著者名:林不忘 

「夜が明けるぞ、夜が」
「下手(へた)の考え休むに似たり。ええ面倒だ。小僧の首をもらってしまえ」
 たちさわぐ部下を制した高大之進覆面の眼を、得意げに輝かせて、
「なかなか御決心がつかぬとみえますな。よろしい、拙者がいま、十まで数を数えますから、その間に御返事をねがいたい」
 と、チョビ安をおさえつけている侍へ向かい、
「よいか、おれが十まで数えても、うんともすんともいわなかったら、気の毒だが、その子供の首をひと刺しにナ……」
「心得ました。十のお声と同時にブツリ刺し通してもかまわないのですね」
「そうだ。十の声を聞いたら、やっちまえ」
 シインとした中で、やおら左膳に向きなおった高大之進は、きりっとした声で、数えはじめました。太く、低く、静かに……。
 一、二、三、四――五――。
 ゆっくり間(ま)をおいて、
「六……」
 誰かが、エヘン! と、咳ばらいをした。
「七――」
 左膳の焦慮(しょうりょ)は眼に見えてきた。娘(むすめ)一人に婿八人、各方面から、この壺をねらう者の多いなかに、片腕の孤剣を持って、よくここまでまもり通してきたものを、今むざむざ……。
 と、言って。
 ためらったが最後、かわいいチョビ安の命はないもの。
 右せんか、左せんか。左膳の額部(ひたい)に、苦悶の脂汗が――。
「八――九……」
「待った!」
 くるしい左膳の声だ。
「しかたがねえ。負けた」
 静かに、壺を畳へ置いて、高大之進のほうへ押しやりました。

       三

「ウム、神妙な――」
 微笑した大之進、それでも、めったに油断をみせません。片手に抜刀を構えたまま、じっと上眼づかいに、左膳をみつめて。
 ソロリ、ソロリ……片手で風呂敷をときにかかった。
 一座の眼は、その指先に集まっている。
 鬱金(うこん)の風呂敷が、パラリと落ちると、時代で黒ずんだ桐の木箱。
 大之進は、ピタとその蓋に手をおいて、
「おのおの方ッ、こけ猿の茶壺でござるぞ。われわれの手で取りもどしたは、真に痛快事。これで、気を負(お)い剣を帯して、江戸表まで出てまいった甲斐があったと申すもの」
 一人が、四角ばって、すわりなおした。
「殿の秘命をはたし得て、御同様、祝着至極(しゅうちゃくしごく)……」
「この問題も、これにて解決。殿のお喜びようが眼に見えるようでござるワ」
「さっそく、明朝江戸を発足いたし……」
 謹んで、壺の蓋をおさえていた高大之進は、その間も、左膳から眼をはなさずに、
「当方にとってこそ、絶大なる価値を有する壺、だが、其許(そこもと)には、なんの用もないはず。おだやかにお渡しくだすって、千万かたじけない」
 左膳、女物の派手(はで)な長襦袢(ながじゅばん)からのぞいている、痩せっこけた胡坐(あぐら)の毛脛を、ガリガリ掻いて、
「ウフフフ、あんまりおだやかでもなかったぜ。今になって礼を言われりゃア世話アねえや」
 チョビ安もゆるされて、ピョッコリ起きあがって、ちょこなんとすわっています。
 お藤も手を放されて、居住いをなおすなかに、つと声をあらためた高大之進、
「役目のおもて、大之進、お茶壺拝見」
 おごそかに言いながら、ピョイと蓋をはじいた。
 蓋は軽い桐材。四角い紙のように、ピョンと飛んで畳を打つ。
 のぞきこんだ大之進といっしょに部屋中の眼が箱の中へ――
 赤い絹紐であんだすがりの網に包まれて、柳生名物(めいぶつ)の茶壺、耳こけ猿が、ピッタリとその神秘の口を閉ざし、黒く黙々とすわっている……のが、一瞬間、みなの眼に見えた。
 だが。
 錯覚(さっかく)。そうと思いこんだ眼に、一時それが実在のごとく閃めいただけで、恋しなつかしのこけ猿の茶壺! と、思いきや!
 鍋なんだ、中にはいっているのは。
 破(や)れ鍋(なべ)が一つ、箱の底にゴロッと転がっているんです。
 驚きも、声の出るのはまだいい。
 高大之進も、左膳も、室内の一同、まじまじと箱の中をのぞいた眼を、互いの顔へパチクリかわしているだけで、なんの言葉もありません。
 そうでしょう、大きな鍋が、鉄のつるを立てて、箱のなかにどっかと腰をすえているところは、真っ黒な醜男(ぶおとこ)が勝ちほこった皮肉の笑いを笑っているようで――。
「ウム!」
「フーム」
 左膳と大之進が、いっしょにためいきをついたとき、鍋に、一枚の紙片のはいっているのが眼についた。驚きのあまり敵も味方もなくなって、左膳が拾いあげてみると、達者な筆で、
「ありがたく頂戴(ちょうだい)」
 とある。

       四

 橋の下の小屋住居(ずまい)に[#「小屋住居(ずまい)に」は底本では「小屋住居(ずまい)に」]、朝夕眼をはなしたことのない壺。
 それが、こうして中身が変わっていようとは!
 いつ、何者にぬすまれたのか、左膳にも、チョビ安にも、すこしの心当りもありません。
 左膳とチョビ安、四つの眼、いや三つの眼で見はっていた壺が、いつのまにやら鍋に化けて、しかも、ありがたく頂戴(ちょうだい)と嘲笑的(ちょうしょうてき)な一筆。
 丹下左膳不覚といえば、これほどの不覚はないが、がんらいが剣腕一方のかれ左膳、いかなる手品師の早業か、すきを狙われては、どうにも防ぎようがなかったらしく。
 こけ猿の茶壺は、とうの昔に左膳をはなれて、何者かの手に渡っていたのだ。
 では、どこへ行ったか。
「ウーム、わからねえ、どう考えてもふしぎだ……」
 一眼をとじ、沈痛にうめいている左膳を、チョビ安は唖然(あぜん)と見上げて、
「ねえ、父上。どうして盗まれたろう。あたい、いくら考えてもわからないよ」
 父上……と聞いて、壺よりも、久方(ひさかた)ぶりにめぐりあった左膳その人に、多大の関心を持っている櫛巻きお藤は、そそくさと膝できざみ出ながら、
「あらっ、丹下の殿様、これお前さんの子供なのかい。まあ! いつのまに、こんな大きな子供が!」
 その時まで、発音ということを忘れたように、ただ眼ばかりキョロつかせていた柳生の侍達、一度に大声にしゃべりだした。
「やられたっ! 見事この独眼竜(どくがんりゅう)に、一杯くわされたぞ」
「かつがれましたなア。鍋を抱えて逃げているとも知らず、懸命にここまで追いつめたが……」
「人をなべやがって――」
 いやな洒落(しゃれ)です。
「かくまでわれわれを愚弄いたすとは! もう容赦はならぬっ」
 さけぶと同時に一人は、またチョビ安を押しころがして、その胸もとに斬っ尖(さき)を突きつけ、左膳へ向かい、
「さ! 壺の所在(ありか)を言えっ」
 蜂の巣をつついたような騒ぎのなかで、じっと眼をつぶっている丹下左膳は、甘い女の香が鼻をなでて……お藤が、そっと寄り添っていることを知った。
 すると、高大之進は、だまって、さっさと土間へおりてしまった。
「この仁(じん)の驚きは、われわれ以上だよ。盗まれたことを知らずにいたのだ。責めても、むだだ。さあ、ひきあげよう」
「しかし、謀(はか)られたとしたら……」
「いや、そうでない。何者かが壺を盗み出したことは、この仁の顔色を見てわかる。出なおし、出なおし」
 そう笑って高大之進は櫛巻きお藤へ、
「いや、騒がせたナ」
 ブラリと尺取り横町を出ていった。他の連中も、しかたなしに、左膳とお藤とチョビ安を、かわるがわるにらみつけておいて、ガヤガヤ立ち去って行く。
 急に、しんとしたなかに取り残された三人……鍋を前に、深い無言がつづいています。

   扇子(せんす)の虫(むし)


       一

 顔を見合わせて、吐息をつくばかりです。
 さア、こうなってみると、こけ猿の茶壺は、いまどこにあるのか、てんで見当もつかない。
 茶壺というと……今の人の考えでは、たかが茶を入れておく容器(いれもの)で、道具の一つにすぎませんが、昔は、この茶壺にたいする一般の考えが、非常にちがっていて、まず、諸道具の上席におかれるべきもの、ことに、大名の茶壺や、将軍家の献上茶壺となると、それはそれはたいへんに羽振りをきかせたもので、禄高に応じて、その人と同じ待遇を受けたものです。
 ことに、相阿弥(そうあみ)の蔵帳(くらちょう)、一名、名物帳(めいぶつちょう)にまでのっている柳生家の宝物こけ猿の茶壺。
 単に茶壺としても、それが紛失したとなると、これだけの大騒動(おおそうどう)が持ちあがるになんのふしぎもないわけだが――。
 そればかりではない。
 柳生の先祖が、他日の用にと、しこたま蓄財した現金をひそかにある地点へ埋めた、その秘宝(ひほう)の所在を書きとめた地図が、このこけ猿の茶壺のどこかに封じこんであるのですから、いま、この宝探しのような、大旋風がまきおこっているのも、理の当然です。
 左膳、チョビ安、お藤の三人は、無言の眼をかわして、考えこんでいましたが、そのうちに左膳、指を折って数えだした。
「一つ、壺を奪還せんとする柳生の連中――これは、司馬の道場へ乗りこんでおる源三郎一味と、捜索の手助けに伊賀から出て来た高大之進の一団と……今夜まいったのは、この高(こう)の一隊だが、彼奴(きゃつ)らは、道場と、林念寺前(りんねんじまえ)の柳生の上屋敷の間に連絡をとって、血みどろになって探しておる」
 ひとりごとともつかない陰々(いんいん)たる左膳の声に、お藤もチョビ安も、ぞっとしたように口をつぐんでいる。
 左膳は、壺をねらっている連中を、数えたてているのです。
「二つ……道場の峰丹波の奴ばら」しばらく間。「三つ、あの得体の知れぬ蒲生泰軒(がもうたいけん)。四つ、どうやら公儀の手も、動いておるようにも思われる――五番目には、かく言うおれと……はッはッは、いや、おれの片眼には、江戸じゅうの、イヤ、日本中の人間が、あの茶壺をねらっているように思われるワ。お藤、泊めてもらうぞ」
 ごろっと、壁際に横になった。
 大刀を枕元にひきつけて、左手の手まくら。
「いや、知らぬうちに、後生大事に鍋を秘蔵しておったとは、われながら笑止(しょうし)。なに、そのうちに、取り返すまでのことだ――」
 無言におちたかと思うと、左膳は、いつのまにか眠りかけて、なんの屈託もなさそうな軽い鼾(いびき)が……。
「左膳の殿様、そんなところにおやすみになっては……」
 お藤は静かに起(た)って、着ている市松格子(いちまつごうし)の半纏(はんてん)をぬいで、左膳の寝姿へ掛けたのち、にっこりチョビ安をかえりみ、
「兄ちゃんは、あたしといっしょに寝ようね。御迷惑?」
 さびしそうな笑顔で、寝床を敷きにかかる。
 その夜からだ、左膳、お藤、チョビ安の三人が、この長屋にふしぎな一家族を作って、おもむろに、壺(つぼ)奪還(だっかん)の術策をめぐらすことになったのは。

       二

 なんの因果で、こんな隻眼隻腕の痩せ浪人に……と、はたの眼にはうつるだろうが、お藤の身にとっては、三界(がい)一の殿御(とのご)です。
 恋しいと思う左膳と、こうしていっしょに暮らすことができるようになったのだから、お藤の喜びようったらありませんでした。
 莫連者(ばくれんもの)の大姐御でも、恋となれば生娘(きむすめ)も同然。まるで人が変わったように、かいがいしく左膳の世話をする。何かぽっと、一人で顔をあからめることもあるのでした。
 だが、左膳は木石(ぼくせき)――でもあるまいが、始終冷々(れいれい)たる態度をとって、まるで男友達と一つ屋根の下に起き伏している気持。左膳の眼には、お藤は女とはうつらないらしいので。
 同居しているというだけのことで、淡々としてさながら水のよう……あの最初の晩、一つしかない寝床に、チョビ安とお藤が寝て、左膳は畳にごろ寝したのだったが、それからもずっと左膳は、そこを自分の寝場所とさだめて、毎晩手枕(てまくら)の夢をむすんでいる。
 さめては、思案。
「どう考えても、ふしぎでならねえ。あんなに、眼をはなさずに、昼夜見まもってきた壺の中身が、いつの間にすりかえられたか――」
「父上、あたいにも、ちっともわからないよ。だけどねえ、これからどうして探したらいいだろう」
 ういういしい女房のように、土間の竈(かま)の下を焚きつけていたお藤が、姐さん被(かぶ)りの下から、
「くよくよすることはないやね。丹下の殿様がいらっしゃるんじゃアないか。およばずながらこのお藤もお力添えをして、三人でさがしまわれば、広いようでもせまいのが江戸、どこからどう糸口がつかないものでもないよ」
 左膳を仮りの父と呼んでいるチョビ安は、ここにまたお藤というものが現われて、まるで母親を得たような喜びよう。
「ねえ、父上、あたい、この人をお母(っか)アといってもいいだろう?」
 左膳の苦笑とともに、お藤の顔には、彼女らしくもない紅葉(もみじ)が散って、
「ああ、そうとも、丹下の殿様がお前の父(ちゃん)なら、あたしはおふくろでいいじゃないか」
 チラと左膳を見ると、左膳、いやな顔をしてだまっている。
 豪刀濡れ燕も、この、からみついてくる大姐御の恋慕心は、はらいのけることができないとみえる。
 妙な生活がつづいている……すると、朝っぱらから出ていったお藤が、何か風呂敷包みをかかえて帰ってきた。左膳は毎日、ごろっと横になっているだけだが、その時チョビ安、左膳の背後(うしろ)にまわって、肩をたたいていました。
 お藤がその前で、包みをとくと、出てきたのは、女の子の着る派手な衣装いっさいと、かわいい桃割(ももわ)れのかつら。
「芸があるんだよ、あたしにゃアね。めったに人に見せられない芸だけれど、壺を探しかたがた、その芸を売り物に、安公と二人、門付(かどづ)けをしてみようじゃアないか」
「いやだい、あたい、女の子に化(ば)けたりするのは」
 その衣装を見て、チョビ安は口をとがらしたが、すぐ思い返したように、
「でも、そうやって江戸中を歩いていりゃあ、壺も壺だけれど、父(ちゃん)や母(おふくろ)に逢えるかもしれないね」
 としんみり……。

       三

「まあ、かわいい女の子だこと! 鳥追いじゃあなし、なんでしょうね」
「虫踊(むしおど)りなんですよ。虫踊りのお藤さんと、お安ちゃんですよ」
「虫踊り? 虫踊りとはなんでえ」
「オヤ、お前さんもずいぶん迂濶(うかつ)だねえ。いや江戸じゅうで評判の、尺取り踊りを知らないのかえ」
 ぱっと晴れあがった日和(ひより)です。町角に、近所の人達がひとかたまりになって、ワイワイ話しあっている。
 本郷は妻恋坂の坂下、通りのはるか向うから、粋な音じめの三味線の音が流れて来て、大小(だいしょう)二人の女の影が、ソロリソロリと、こっちへ近づいてくるのが見える。
「あの、ようすのいい年増(としま)のお藤さんと、十ばかりのかわいいお安ちゃんっていう女の子とが、組になってサ、お藤さんの三味線につれてお安ちゃんの持つ扇子の上で、尺取り虫がお前さん、踊(おど)りをおどるんだよ」
「へーイ! 尺取り虫が? そいつア見物(みもの)だ」
 ガヤガヤ言いあっているところへ、櫛巻きお藤と、お安ちゃんこと、チョビ安扮するところの女の子とが、ぶらりぶらり近づいてくる。
「サア、代(だい)は見てのお帰りだ」
「一つ、呼びとめて、その珍芸を見せておもらいしようじゃアねえか」
 街(まち)の人々にとりまかれた、お藤とチョビ安。
 お藤は、木綿の着物に赤い襷(たすき)をかけて、帯の結びも下目に、きりりとした、絵のような鳥追い姿。
 チョビ安の女装したお安ちゃんは、見ものです。
 肩上げをした袂の長い、派手な女の子の姿。小さな笠を眼深にかぶって、厚く白粉(おしろい)をぬったあどけないほおに、喰(く)い入るばかりの紅(べに)のくけ紐。玉虫色の唇から、チョビ安いい気なもので、もうすっかり慣れっこになっているらしく、
「小父(おじ)ちゃん、小母(おば)ちゃん、虫の太夫さんに踊(おど)らせておくれよ。そして、たんと思召しを投げて頂戴(ちょうだい)ね」
 みんなおもしろがって、
「さあ、やんな、やんな」
「お鳥目(ちょうもく)は、おいらがあとで集めてやらあ」
「毎度おやかましゅう」三味線の手を休めたお藤、
「ではお言葉にあまえまして、江戸名物は尺取り虫踊り……」
 チチチン! と、三味をいれて、
「尺取り虫、虫、
 尺取れ、寸取れ、
 足の先から頭まで、
 尺を取ったら命とれ……」
「太夫(たゆう)さん、御見物が多いけど、あがっちゃアいけないよ」
 言いながらチョビ安、手にしていた日の丸の扇をさっとひらいて、袂からとりだした小箱の蓋をひらき、そっとその扇の上へ放しだしたのは、お藤手飼いの尺取り虫が三匹。
 大事に、温かにして、押入れの奥で飼(か)ってきたのです。
 三味の音に合わせて、その三匹の尺取(と)り虫が、伸びたり縮んだり、扇子の上で思い思いの方角に動くのが、見ようによっては、踊(おど)りとも見えて、イヤモウ、見物はわれるような喝采……。

   狐と狸


       一

 縁に立っている源三郎だ。
 柱によりかかって、じっと見上げているのは……空を行く秋のたたみ雲。
 あせっているんです、源三郎は。
 いつまでこうしていても、果てしがない――。
 実際そのとおりで、源三郎のほうとしては、あくまで道場は自分のものの気、祝言も式もないものの萩乃は己(おの)が妻の気……。
 それにひきかえ。
 お蓮と峰丹波の側では、道場はどこまでも自分達の所有の気。萩乃は源三郎の妻でもなんでもない気。したがって、縁もゆかりもない田舎侍の一団が、道場へ押しこんできて、したい三昧(ざんまい)の生活をしているものと認めている気。
 気と気です。
 気の対立。どっちの気が倒れるか、自分こそは勝つ気で、両方で根比(こんくら)べをする気。
 対立(たいりつ)の状態で、ここまでつづいてきましたけれど、性来気の短い源三郎としては、今まで頑張るだけでも、たいへんな努力でした。
 それがこの先、どこまでつづくか際限がないのだから、源三郎、いささかくさってくるのに無理はない。
 それも。
 積極的に争うなら、源三郎お手のもので、間髪を入れず処理がつくのですけれど、今の言葉でいう、いわばまア占拠……双方(そうほう)じっとしてねばるだけだ。
 消極的な戦いだから、伊賀の暴れん坊、しびれをきらしてきた。畳(たたみ)を焼いて煖(だん)をとったり、みごとな双幅(そうふく)や、金蒔絵(きんまきえ)の脇息(きょうそく)をたたッこわしたり、破いたり、それを燃料に野天風呂をわかすやら、ありとあらゆる乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)をはたらき、いやがらせの八方をつくして……。
 いま文句が出るか、今文句が出るかと。
 いくら待っても、先方はウンともスンとも言わない。
 渡り廊下でつづいた別棟に、お蓮様、丹波をはじめ道場の一派、われ関(かん)せず焉(えん)とばかり、ひっそり閑(かん)と暮らしているんです。
 売った喧嘩を買ってくれないほど、はりあいの抜けることはない。
 源三郎を取り巻く伊賀の若侍たちも、拍子抜けがして――。
 暴(あば)れくたびれ。
 退屈。
 あう――ウア! 欠伸(あくび)の合唱、源三郎の欠伸と門之丞の欠伸とがいっしょだったので、源三郎自嘲(じちょう)的な笑いを洩らし、
「秋晴れだナ。馬に乗りたい」
 と言った。
「結構ですな、チトお気ばらしに……」
「余は、江戸はくらい。遠乗りにはどの方面がよかろうかな?」
「拙者もよくは存じませぬが、まず墨堤(ぼくてい)……いかがで?」
「ま、よかろう、馬ひけ」
「御意(ぎょい)。供は?」
「其方(そち)と、玄心斎と、大八と、三人でよい」
 こうしたわけで、若さと力を持ちあつかった源三郎、轡(くつわ)を並べて、妻恋坂の道場を後に――。
 空には、鱗のような雲の影が、ゆるやかに動いていました。

       二

 西北から、大きな緑の帯のような隅田川(すみだがわ)が、武蔵(むさし)と下総(しもうさ)の間を流れている……はるかに、富士と筑波を両方にひかえて。
 昼ながら、秋の狭霧(さぎり)が静かに罩(こ)めわたって、まるで水面から、かすかに湯気があがっているように見えるのだった。その模糊(もこ)とした中から、櫓(ろ)の音が流れて来て、嘴(くちばし)と脛(すね)の赤い水鳥が、ぱっと波紋をのこして飛びたつ――都鳥である。
 吾妻橋(あづまばし)から木母寺(もっぽじ)まで、長い堤(つつみ)に、春ならば花見の客が雑踏(ざっとう)し、梅屋敷(うめやしき)の梅、夏は、酒をつんでの船遊び――。
 が、今は秋も半(なか)ば。
 草紅葉の広い野に、まばらな林が風に騒いで、本郷の道場を出た時は、秋晴れの日和であったのに、いつしか空いっぱいに雲がひろがり、大川をくだる帆も早く、雨、そして風さえ孕(はら)んだ、暗いたたずまいである。
 馬(うま)乗り袴(ばかま)が、さやさやと鳴る。
 馬具がきしむ。
 薄陽(うすび)と河風を顔の正面(まとも)にうけて源三郎は、駒の足掻(あが)きを早めた。
 遠乗りの快味のほか、何ものもない彼の頭に、ただ一つ……。
 さっき妻恋坂をおりきった街角に、人を集めて何か芸当を見せている二人の女遊芸人のすがたが、なんとはなく、印象にこびりついているのだった。
 三味線を斜めにかまえて、チラと馬上の自分をあおぎ見た年増おんな。
 十か九つの女の子が、扇子をひろげて何かのせていたが、通りすがりに馬の上からちょっと見ただけなので、よくわからなかったけれど。
 あの二人の女芸人が、妙に源三郎の心をはなれない。
 自分を思っている萩乃のこと、同じく自分に思いを寄せているらしいお蓮様――さては、国の兄……いまだに行方の知れないこけ猿の茶壺のことなど、戞々(かつかつ)と鳴る馬の一足ごとに、源三郎の想念(おもい)は、際限もなく伸びひろがってゆく。
「此馬(こやつ)に一汗かかせてくれよう」
 源三郎は大声に、
「つづけっ!」
 背後(うしろ)をふりむいて叫びながら、思いきり一鞭(ひとむち)くれた。
 馬は、長堤に呻りをたてて、土を掻い込むように走り出した。玄心斎、門之丞、谷大八の三人も、おくれじと馬脚を入り乱れさせて、若殿のあとを追う。
 木母寺(もっぽじ)には梅若塚(うめわかづか)、長明寺(ちょうみょうじ)門前の桜餅、三囲神社(みめぐりじんじゃ)、今は、秋葉(あきば)神社の火のような紅葉だ。白鬚(しらひげ)、牛頭天殿(ごずてんでん)、鯉(こい)、白魚(しらうお)……名物ずくめのこの向島のあたりは、数寄者(すきしゃ)、通人(つうじん)の別荘でいっぱいだ。庵(あん)とか、亭(てい)とか、楼(ろう)とか風流な名をつけた豪商の寮や、料理屋が、こんもりした樹立ちのなかに、洒落(しゃれ)た屋根を見せている。
 源三郎の視野のすみを、それらの景色が、一抹の墨絵のように、さっとうしろへ流れすぎる。
 ぽつりと、額(ひたい)を打つ水粒。
「雨だな……」
「若ッ! いったいどちらまで?」
 玄心斎が、息をはずませて追いついてきた。
 砂煙を立てて、馬の鼻面を源三郎と並べながら、
「どこまでいらっしゃるおつもりで――もうよいかげん、ひっかえされては」
 玄心斎の白髪に、落ち葉が一枚引っかかっている。

       三

 松平蔵之丞様(まつだいらくらのじょうさま)のお屋敷と、須田村(すだむら)の間をぬけて、関屋(せきや)の里まで行き着いた主従四人は、綾瀬川(あやせがわ)の橋のたもとにたちどまって、
「ハ、ハ、張り子の虎ではない。雨がなんだ、濡れたとて、破れはせぬぞ」
 と、どもる源三郎をとりまいて、今はもう、しとどに横顔を打つ斜めの雨に、ほおを預けながら、
「しかし、この雨の中を、どこまでお走らせになっても、何もおもしろいことはござりますまい。お早々と御帰還のほど、願わしゅう存じまする」
 玄心斎がしきりに帰りを促すそばから、谷大八もなんとなく胸騒ぎをおぼえて、
「これから先は、人家もござりませぬ。風流……も、ことによりけりで、この大雨のなかを――」
 止められると、理由(わけ)もなく進みたくなるのが、若殿育ちの源三郎の常で、彼は無言のまま、いきなり馬首を東南に向け、小川に沿って走らせ出した。
 いいかげんそこらまで行ったら、このすこし先の道が、水戸街道(みとかいどう)と出会うあたりから、もとへ引っ返すつもり……。
 菖蒲(しょうぶ)で名高い堀切(ほりきり)も、今は時候(じこう)はずれ。
 若宮八幡(わかみやはちまん)の森を右手に見て、ぐっと行きつくすと、掘割(ほりわり)のような川が、十文字に出会って……。
 右、市川(いちかわ)。
 左、松戸(まつど)――。
 肩をぐっしょり濡らした門之丞が、追いついた馬上から、大声に、
「思い出しました……」
 と、やにわに言った。
「お蓮様が、いま本郷の道場においでにならぬことは、殿をはじめ、玄心斎殿、大八殿も、ごぞんじでござろうな」
 そう言って門之丞は、何かすばらしい計画を思いついたように、馬をとめた源三郎と、安積玄心斎、谷大八の三人の顔を見まわす。
 雨のなかで、湯気をあげる馬が四頭かたまり、馬上の四人の侍が、何やら談合しているのですから、枯れ草をせおった近所の百姓が、こわそうに道をよけて行く。
 道が行きどまりになったので、いやでも引っ返さなければならないかと、業腹(ごうはら)でならなかった伊賀の暴れん坊は、この門之丞の一言に、たちまち眼をきらめかして、
「うむ、そう言えば、どこかの寮とやらへ出療治(でりょうじ)にまいっておるとか、ちらと聞いたが……」
「ナニ、療治と申しても、何も病気だというわけではござりませぬ。表面は保養ということにいたして、またかの峰丹波とトチ狂いかたがた、われわれに対する今後の対策を凝(こ)らしているものと察しられますが――ところで、わたしは、道場の婢(おんな)どもが噂をしているのを、ちょっと聞きましたので。なんでもお蓮と丹波は、この先の渋江村(しぶえむら)とやらにまいっておるとのこと」
 門之丞は言葉をくぎって、じっと源三郎の顔色をうかがった。
 玄心斎と大八は、門之丞め、悪い時につまらないことを言いだしたと、にがりきって黙っている。
 思い合わせてみると、きょうこの向島方面へ遠乗りにでかけようと言いだしたのも、この門之丞。それから、制止する玄心斎を無視して、それとなく巧みにここまで源三郎をみちびいてきたのも、門之丞。

       四

 仰向いて笑った門之丞の顔に、大粒の雨が……。
「彼奴(きゃつ)ら、われわれとの根(こん)くらべに負け、押し出されるがごとく一時道場をあけて、かような片田舎へ逃げこんだものに相違ござらぬが、もとより、対策がたちしだい、いついかなる謀計をもって道場へ引っ返してまいるやもはかりしれませぬ。今ごろは、かの女狐(めぎつね)と男狐(おぎつね)、知る人もなしと額をあつめて、謀(はかりごと)の真最中でござろう。そこへ乗りこんで、驚く顔を見てやるのも一興(きょう)……」
 そそのかすような門之丞の言葉に、思慮の深い玄心斎は眉をひそめ、
「門之丞は、どうしてさようなことを存じておるのかな。同じ屋敷内にあっても往き来もせぬ、いわば敵方の動静……それは、わしも、丹波とお蓮様がちかごろ道場におらぬらしいことは、聞き知っておったが、この近くの寮に出向いておるなどとは、夢にも知らなんだ」
「いや、わたしもはじめてで」
 と、谷大八が横あいから、いぶかしげな眼顔。じつは、二人とも知っていたんです、玄心斎も、大八も。
 お蓮様と丹波が、腹心の者十数名を引き連れて、近頃、この向島を遠く出はずれた渋江村(しぶえむら)の寮(りょう)に、それとなく身をひそめて何事か画策していることを。
 それも、この五、六日のことで。
 だが、道場では、どこまでも、お蓮様も丹波も在宅のように装(よそお)って、屋敷を明けていることはひた隠しにかくしているのだが、なんの交渉もないとはいえ、またいかに広い屋敷内でも、一つ屋根の下のこと――今まで知らなかったのは源三郎だけで、それだけに彼は、おどりあがるように馬上に身をひきしめ、
「おもしろい! これより押しかけて、ひと泡ふかせてくれよう。タ、タ、退屈しきっておったところだ。もう、あのにらみあいには、あきあきいたしたぞ。と言って、妻恋坂の道場では、先にも門弟が多いことだし、世間の眼というものもある。がまんにがまんをしてまいったが……ウム! この都離れた片ほとり、狐退治にはもってこいの場所だテ。おのれ、きょうというきょうは、かのお蓮と丹波を一刀のもとに、たたっ斬ってくれる」
 蒼白な顔に、決意の笑(え)みを浮かべた源三郎、やおら馬をめぐらして、土橋を渡り、葛西領(かさいりょう)の四ツ木村のほうへと向かって行く。
 玄心斎は、馬をいそがせて、
「若(わか)っ! 仮りにも老先生の御後室、婿のお身にとっては母上でござるぞ。斬り捨ててよいものならば、今までにもいくらも折りがありましたものを……あれほど無言の戦いを、そもそもなんのために今まで辛抱強く突っぱってこられたか。それを篤(とく)と御勘考のうえ、ここはひとまず思いとまられて、お返しください。おかえしください!」
「爺(じい)っ! 臆病風か」
「めっそうもござりませぬ。なれど、智謀には智謀をもって対し、隠忍には隠忍をもって向かう……お引っ返しくださいっ! 若っ!」
「十五人ほどの腕達者が、ひきそっておりますとのこと――」
 谷大八の声は、横から風にうばわれてしまう。
 雨はいよいよ本降りとなって、先頭の源三郎を、はばむがごとく濡らすのであった。
「暴風雨(あらし)じゃのう」
 源三郎の白い歯が、チカリと光って、すぐあとにつづく門之丞を、振り返った。

       五

 客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内、ずいぶん広い。
 その一隅……生い繁る老樹のかげに、風流な柴垣をめぐらした一棟がある。
 竹の濡れ縁に煙草盆を持ちだしていた司馬道場の御後室、お蓮様は、
「まあ、急にひどい吹き降りになって……」
 びっくりするほどの若やいだ声で、笑いながら、被布(ひふ)の袂をひるがえして、屋内(おくない)へにげこんだ。
 ドッ! と音をたてて、雹(ひょう)かと思うような大きな雨粒と、枯れ葉を巻きこんだ風が、ふきこんでくる。
「ほんとに、秋の空ほど頼りにならないものはない。朝はあんなに晴れていたのにねえ」
 と、思い出したように、
「ああ、いつまでこんなところに待っていなくっちゃアならないんだろう。ほんとに、嫌になってしまう。だけど、道場のほうでは、私達のいないことを、うまく隠しているだろうねえ」
「それは大丈夫だと思います。かたく申しつけてまいりましたから――あなた様をはじめ、一同道場にいるようにつくろって、よもや、源三郎一派に気取(けど)られるようなことはあるまいと存じます」
 峰丹波は、そう励ますように言いきって、自ら立って縁の雨戸を一、二枚繰り出した。
 その音を聞きつけて、次の間から、岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)、等々力(とどろき)十内(ない)の二人が、あわただしく走りでてきて、
「おてずから、恐れ入ります」
「わたしがしめます」
「ことによると、きょうあたり、かの門之丞の案内で、まいこんでくるかも知れませぬぞ」
 丹波は、急の暴風雨(あらし)に備える雨戸を、十内、達之助の二人にまかせてしめさせながら、自分は座にかえり、
「とにかく、門之丞をこっちへ抱きこんだのは大成功で……悪運がつきません証拠とみえますな、はははは」
 お蓮様はおもしろくもなさそうに、
「でも、なんとかうまいことを言って釣りだしてくればいいけれど――あの門之丞だって、主人を裏切るような男だもの。ほんとにこっちについたのかどうか、すっかり仕事がすんでみなけりゃアわかりゃあしない。お前のように、そう頭から信用することもできないと思うよ」
「ナニ、あの門之丞だけは、大丈夫です。計画どおり、彼の手引きで源三郎を処分した暁は、大枚の金子とともに、あの萩乃様を……こういう約束でございますからな。萩乃様に首ったけの門之丞としては、色と欲の二筋道で――もうこっちのものです」
 達之助と十内が、雨戸のあいだをすかして、別の間へしりぞいてゆく。どうせみんな同じ穴の狐ですから、二人に聞こえるのもかまわず、お蓮様と峰丹波は、高話です。閉(た)てのこした雨戸のすきから、縞のような光線がさしこむだけで、昼ながら、室内はうすぐらい。
 ここは司馬家の寮なのですが、故先生が老病になられてから、何年も来たこともなく、手入れもしないので、それこそ、狐や狸の巣のように荒れはてている。
 お蓮様が、何を考えてか、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内ほか十五人ほどの腹心の弟子達をひきつれて、こっそりここへ来てから、もう五日あまりになります。毎日毎日、しきりに、何かを待っているようす……。

       六

 一面の裏田圃……上木下川(かみきねがわ)、下木下川(しもきねがわ)、はるかに葛飾(かつしか)の野へかけて、稲田の面(おもて)が、波のようにゆらいでいる。釣鐘堂(つりがねどう)、浄光寺(じょうこうじ)の森は、大樹の梢が風にさわいで、まるで、女が髪を振り乱したようです。
 見渡すかぎりの稲葉(いなば)の海に、ところどころ百姓家の藁屋根が浮かんで、黒い低い雲から、さんざと落ちる雨の穂は、うなずくように、いっせいに首をまげています。物みなそうそうと黒く濡れそびれたなかに、鳴子(なるこ)や案山子(かかし)が、いまにも倒れそうに危うく立っている。
見るうちに人細り行(ゆ)く時雨(しぐれ)かな ではない、見るうちに馬細りゆく時雨かな……田圃(たんぼ)のなかの畦道(あぜみち)を、主従四人の騎馬すがたが、見る間に小さくなってゆくところは、まことに風流のようですが、当人達はそれどころではありません。
夕立(ゆうだち)にどの大名(だいみょう)か一しぼり 夕立ではないが、野狩りに出た殿様の一行が、雨に濡れて馬をいそがせて行く。はたから見たら、さながら画中の点景人物でしょうが――お蓮様と丹波がいつのまにかこの近くの寮へ来ていると聞いた柳生源三郎は、もう狂的です。
 これを絶好の機会に、一刀両断に邪魔をはらってしまおうという気……。
 とぶように馬を走らせて行く。
 どういう考えか門之丞は、しきりに、そのそばに馬の首をすり寄せて、
「もうすぐそこです! きょうこそは、ひと思いに――」
 焚(た)きつけるがごとき口調――。
「伊賀の若殿様ともあろうお方が、よく今まで、女や、丹波ごとき者どもに邪魔立てされて、辛抱しておられましたな。若のがまんづよいのに、わたくしはホトホト感心つかまつった……」
「イヤ、言うな。先ほども玄心斎が申したとおり、仮りにも母の名がついておるから、こらえにこらえてまいったのだ。だが、この暴風雨にまぎれて……門之丞、きょうで勝負をきめてしまおう」
 玄心斎と、大八は、おくれながらも、左右から声を追いつかせて、
「敵にはいかなるはかりごとがあろうも知れませぬ。なんの対策もなくそこへとびこんでまいるは、上々(じょうじょう)の策ではござりませぬ。なにとぞ思いとどまって――」
「若ッ! 若ッ! きょうは単なる遠乗りのはず。たしかにお蓮様一味が、その寮とやらにひそんでおるとわかりましたら、いずれ近く日を卜(ぼく)して……」
 耳にも入れない源三郎、馬の腹を蹴りつづけて、遮二無二(しゃにむに)突進――。
 暴風雨は、源三郎の頭の中にも、渦巻き、荒れくるっているのでした。
 最初。
 源三郎の一行が品川へ着いた時、駈け抜けて司馬の道場へ江戸入りの挨拶をしたのが、この門之丞。源三郎の側近にあって、何かと重く用いられている門之丞なんだが、魔がさしたというのか、どういうつもりか、しきりに源三郎を案内して、刻々敵の張りめぐらした罠(わな)の淵へとさそってゆく。
 揺れなびく田の面(も)の向うに、やがて客人大権現(まろうどだいごんげん)の木立ちが、不吉の城のように、黒く見えてきた。
「殿ッ、あの林のかげでござります」
 馬上、門之丞がゆびさした。

       七

 虫が知らせるというのか、玄心斎と大八は、こもごも源三郎の馬前に立ちふさがって、
「殿ッ! どうあってもこれから先へお進みなさるというならば、まず、この玄心斎めの白髪首をお打ち落としなされてから……」
 いらだつ源三郎の小鬢(こびん)から、雨の粒が、白玉をつないだように、したたり落ちる。
「何をたわけたことを申すっ! 亡き司馬先生の志をつぎ、道場と、かの可憐なる萩乃を申し受けて、わが面目(めんもく)を立て、また一つには、兄の顔を立てるためには、このさい、なんといたしても邪魔者を除かねばならぬではないかっ」
「ソ、それはわかっております。おっしゃるまでもござりませぬが、時機を待とうというお心で、今までああして、ただ、一つ屋根の下にはりあって、いわば血のなき闘い……ともかく穏便(おんびん)にお忍びになって来られたものを、いまとなってにわかに――」
「馬鹿を言えっ!」
 源三郎は、大八と玄心斎のあいだへ、つと馬首をつき入れながら、
「ドド道場では、人眼も多い。世間の騒ぎになろうを慮(おもんばか)って、今まで一心に堪(こら)えてまいったのだワ。お蓮と丹波が、あれなる寮にまいっておるというからには、もっけの幸い――ゼ、絶好の機会ではないか! いつの日かまた……萩乃に血を見せぬだけでも、余の心は慰むぞ」
「しかし、峰丹波をはじめ、相当手強(ごわ)いところがそろっておりますとのこと」
「丹波――?」
 上を向いて笑った源三郎の口へ、雨の条(すじ)が、小さな槍のように光って飛びこむ。
「これじゃ!」
 いきなり、ひょウッ! とふるった源三郎の鞭に、路傍の、雨を吸って重い芒(すすき)が微塵(みじん)に穂をみだれとばして、なびきたおれる。サッサと馬をすすめて、
「このとおりじゃ、丹波ごとき……いわんや、爾余(じよ)のとりまきども――」
「おいっ!」
 と大八が門之丞へ、
「どうしてお止め申さぬ。貴公には、この、無手で敵地に入るような危険が、わからぬのかっ?」
 ところが、門之丞はけろりとして、
「お止め申したとて、おとどまりになる若ではござらぬワ」
「と申して、貴公はさながら、手引きをするがごとき言動――奇ッ怪だぞ、門之丞!」
 いきおいこんだ谷大八も、もう大きな声を発することはできないので。
 いつのまにか一行は、客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内へはいって、司馬の寮の前へ来てしまっているのだった。
 争う時は、過ぎた。もはや、ここまで来た以上、主従四人一体となって、これから起こるどんな危機にも面(めん)しなければならぬ。
 蛇が出ても……。
 鬼がとびだしても。
 草屋根の門ぎわに、いっぱいの萩の株が、雨にたたかれ、風にさわいで、長い枝を地(つち)によごしている。
 古びた杉の一枚戸を、馬をおりた門之丞が、ホトホトとたたいて、
「頼(たの)もう! おたのみ申す……」
 中からは、なんの応(こた)えもない。草を打つ雨の音が、しずかに答えるばかり――源三郎がせきこんで、
「かかかかまわぬ。押しあけて通るのじゃ……」
 と呻いたとき、ギイと門内で、閂(かんぬき)をはずすけはいがした。

       八

 くぐりをあけたのは等々力十内で……。
「お、これはようこそ――」
 と、待っていたように言いかけたが、すぐ気がつき、
「これはお珍しい! どうしてわたしどもがここにまいっていることを、ごぞんじで?」
 急ぎ口を入れたのが、門之丞です。
「ごらんのとおり、遠乗りにまいられたのだが、にわかの吹き降りに当惑いたし、これなる森かげにかけこんでみれば、この一軒家……ホホウ、道場のお歴々(れきれき)が、この寮にまいっておられるのか。それはわたしどもはじめ、殿もごぞんじなかった次第で」
 なんとか辻褄(つじつま)をあわせているうちに。
 そんなことは意に介しない源三郎。
 きょうはいよいよ、邪魔だていたすお蓮様と丹波の上に、柳生一刀流の刃が触れると思うから、単純な伊賀の暴れン坊、自然に上機嫌です。
 まるで、いつもの憂鬱な彼とは、別人のよう……。
 若さと、華(はな)やかな力とを満面に見せて、その剃刀(かみそり)のように蒼白い顔を、得意の笑(え)みにほころばせながら――。
 ヒラリ、馬をおりるが早いか、まごつく十内を案内にうながしたてて、そのまま庭の柴垣にそって、雅(みや)びた庭門をあけさせ、飛石づたいに庵(いおり)のほうへと、雨に追われるように駈け込んでいきます。
 つづく玄心斎、谷大八も、自分達がついていて、若殿の身に何事かあってはたいへんだから、馬を木蔭へつなぐのも一刻を争い、門之丞の横顔をにらみつつ、小走りに源三郎のあとを追った。
 繰り残した雨戸の間(あいだ)から、庭に面した奥座敷に招じあげられた源三郎、見まわすとそこは、落ちついた風流(ふうりゅう)な部屋で、武芸者の寮とは思われない、静かな空気が流れている。
 誰もいません。
 源三郎は、むんずと床柱を背にすわって、腕組みをしました。顔に見覚えのある、司馬の門弟の少年が一人、褥(しとね)、天目台(てんもくだい)にのせた茶などを、順々に運び出てすすめたのち、つつましやかにさがってゆく。
 火燈(かとう)めかした小襖が、音もなくあいた。
 さやかな絹ずれの音とともに、あられ小紋の地味な着付けのお蓮様が、しとやかにはいってきた。
 二人は、無言のまま、チラと顔を見合った。切り髪のお蓮様は、いたくやつれているように見えるものの、その美しさはいっそうの輝(かがや)きを添えて、見る人の心に、いい知れぬ憐れみの情を喚び起こさずにはおかないのでした。
 横手に並ぶ玄心斎、門之丞、大八の三人には、会釈(えしゃく)もくれずに、源三郎と向かいあって座についたお蓮様は、白い、しなやかな指を、神経質らしく、しきりに膝の上で組んだり、ほごしたりしながらも、
「まあ、ひどい雨ですこと」
 思いついたように、戸外(そと)の庭へ眼をやり、
「この雨で、せっかくわたくしの丹精した芙蓉(ふよう)も、もうおしまいですね」
 と、笑った。雨になるか、風になるかわからない、この会合のまっ先に、お蓮様によって口火をきられた言葉は、これでした。
 お蓮様が尾のない狐なら、丹波はその上をゆく狸であろう。でも、それを承知で、こうして乗りこんで来た源三郎も、ただの狐ではありますまい。間に立って奇怪な行動の門之丞は、さしずめ小狸か……。
 沈黙がつづいています。

   上(うえ)には上(うえ)


       一

 源三郎が、言った。
「しかし、この暴風雨(あらし)のおかげです。きょうわたしがここへ来たのは――わたしにとっては、感謝すべき雨風だ」
 ニコリともしない源三郎の蒼顔に、お蓮様は、平然たる眼をすえて、
「あら、では、この雨の中を、わざわざお訪ねくだすったというわけではないんですのね」
 と、チラリと門之丞に視線を投げた。
 膝に手を置いた源三郎の肘(ひじ)が、角張った。
「わざわざお訪ねするのでしたら、こう簡略にはまいりません。なんのお手土産(みやげ)もなく」
 皮肉に、
「供もこれなる三人きり……まず、煮て食おうと焼いて食おうと、ここはそちらのごかってでござろうかな、ハハハハハ」
「ちょっと風邪(かぜ)心地でございましてね」
 とお蓮様は、まるで親しい人へ世間話でもするように、
「この四、五日、こっそりこちらへ養生にまいっておりました」
「それはいけませぬ。それで、もう御気分はよろしいのですか」
「はあ、ありがとう。もうだいぶいいのです」
「し、しかし、もう御養生の要も、あるまいと存じますが……」
「ええ、もうこんなによくなったのですから、ほんとに、養生の要もありません。近いうちに本郷のほうに帰ろうかと、思っていたところでございますよ」
「いや!」
 と、源三郎のつめたい眼が、真正面からお蓮様を射て、
「いや、私が養生の必要がないと申したのは、そういう意味ではござらぬ。もう、母上……さればサ、今まで母上と思っていましたからこそ、手加減をいたしておりましたが……もはや母上と思わず、ここでお目にかかったのを幸い、お命をいただくことにきめましたによって、しかる以上、もう御養生の要もござるまいと、かように申しあげたので――」
 ニッコリしたお蓮様は、
「このあたしがあなたの母では、たいへんなお婆さんのようで、あんまりかわいそうですよ、ほほほほほ。ですから、あなたももう母と思わずに、斬るというんでしょうが、なら、そこが相談ですよ、源様。おや! こちらにこわい顔をした人が、三人も並んでいては、お話がしにくいけれど、ホホホホホ……」
「退(さ)げましょうか」
 源三郎の言葉に、玄心斎と大八は、懸命に眼くばせして、死んでもこの座を起たない申しあわせ。
 少女のように、恥じらいをふくんで笑い崩れたお蓮様。
「いえ、誰がいても、思いきって言いますけれど、ねえ、源さま、いつかのお話は――」
「ナ、なんです、いつかの話とは?」
「あたしとしては、あなたが道場のお跡目(あとめ)になおるに、なんの異存もございませんけれど、ただ、そのお婿さんの相手が、あの萩乃ではなく、このあたしでさえあれば――」
「またさような馬鹿馬鹿しいことを!」
「でもね、源三郎さま、いま此寮(ここ)には、不知火流の免許取りばかりが、十五人ほどいっしょに来ているんでございますよ。よくお考えにならなければ、御損じゃないかと……」
「フン! その十五人が、またたくまに、一人もおらんようになりましょう。ついでに母上、あなたも……」
 言いながら源三郎は、今はじめて、夕陽(ゆうひ)に輝く山桜のような、このお蓮様の美しさに気がついたように、眼をしばたたいたのでした。

       二

「とにかく、母上――」
 言いかける源三郎を、お蓮様は、ヒラリと袂を上げて、打つような手つきをしながら、
「まあ! その母上だけは、どうぞ御勘弁を、ほほほほほ」
「いや、拙者にとっては、あくまで母上です」
 と源三郎は、鯱(しゃち)が鉛(なまり)を鋳込(いこ)まれたように、真っ四角にかたくなって、
「おっしゃりたいだけのことを、おっしゃってください。うかがいましょう」
 と、横を向く。
 若い蒼白な美男、源三郎――剣の腕前とともに、女にかけても名うての暴れ者なのだが――。
 このお蓮様の顔を前にしていると。
 その、黒水晶を露で包んだような瞳のおくへ、源三郎、ひきこまれるような気がするのだった。白いほおのえくぼは、小指の先の大きさでも、大(だい)の男を吸いこむだけの力はある。彼がしきりに母上、母上と呼ぶのは、そうでも言って絶えず自分の心に枷(かせ)を加えようという気持なので。
 お蓮様の視線を避けて、くるしそうに首をめぐらした源三郎の眼の前に、玄心斎、谷大八の二人は、今にも、スワ! と言えば膝をたてそうに、おっとり刀の顔。ふたりに挟まれた門之丞は、これはまた心ひそかに、何かの成算を期するもののごとく、腕を組み、眼をつぶって、じっと天井をふりあおいでいる。
 暴風雨(あらし)の音は、すこし弱くなった。寮のなかはシンとして、十何人もの荒らくれ男が、別室にひそんでいるとは思われないしずかさ。
 その静寂のなかに、かすかにすすり泣きの声が聞こえて、源三郎はぎょっとして、あたりを見まわしたが……。
 見まわすまでもなく。
 その泣き声の主はお蓮さま――何か急に思い出したように、彼女は襦袢(じゅばん)の袖を引き出してしきりに眼へ当てながら、身も世もなさそうに、泣き声をかみしめている。
「強いようなことを言ってみても女ですもの……あたくしは、源様あなたの御慈悲がなくては、生きて行けません」
「司馬先生の御遺志どおり、兄との約束にしたがって、穏便に事を運べば、源三郎、決して母上を粗略にはいたしませぬ考え――一に、そちらの出ようひとつでござる」
「はい、よくわかりました。はじめて、それに気がつきました。どうぞよろしくお取りはからいくださいますよう……」
「ソ、それは本心でござるな」
 いきおいこんで乗り出す源三郎を、玄心斎と大八は、傍(かた)えから制して、
「シッ、殿ッ、これには何か魂胆が――」
「若ッ、こう急に降参するとは思えませぬ」
 かわるがわるささやけば、お蓮様は、涙に輝く眼で一座を見わたし、
「そう思われても、しかたがござりませんけれど、今まで楯(たて)ついてきましたことは、ほんとに、世間知らずの女心から出た浅慮(せんりょ)、どうぞ、わたしの真心をおくみとりなされて――」
 生一本な源三郎です。このお蓮様の涙は、ただちに源三郎の心臓にふれて、彼は苦しそうに、つと起って縁の雨戸の間から、雨に乱れた庭へ眼を放った。
 さっきお蓮様が丹精していると言った、うす紅色の芙蓉(ふよう)の花は、無残に散り敷いている。それは、いまのお蓮様の姿のように、憐れにも同情すべきものとして、源三郎の眼に映ったのでした。

       三

 お蓮様は、その源三郎の立ち姿を、仮面のような顔で、いつまでも見守っていました。
 玄心斎がニヤニヤして、
「お気が弱くなられましたな、御後室様。ははははは」
 ニッコリうちうなずいたお蓮様、
「気が弱くもなろうじゃアありませんか。あなたのようなお強い方々(かたがた)が、女一人を取り巻いて、いじめるんですもの」
「どうですかナ」
 谷大八も気がるな声が出て、お蓮様と笑いをあわせた。
 源三郎は静かに座に帰り、
「では、ど、どうなさろうというので」
「それを明日にでも、ゆっくり御相談申しあげたいと存じまして」
 チラリと一同の顔を見たお蓮様は、
「わたしは、またすこし悪寒(さむけ)がしてきましたから、これで失礼を」
 衣の重さにも得(え)堪(た)えぬように、お蓮さまはスラリと立って、部屋を出て行きましたが……源三郎はそのあたりを払うばかりの美しさに打たれて、思わず、あと見送らずにはいられなかった。
「本心でござろうか」
 両肘(りょうひじ)を膝に、前屈(かが)みに首を突き出す玄心斎。
 谷大八はせせら笑って、
「さあ、どういうものでしょうな。女の涙は、拙者にはとんと判断がつき申さぬ。だが、まんざら計(はか)りごとのようにもみえなんだが……門之丞、貴公はどう思う」
「殿のお心一つだ。殿がお蓮様をお許しなさろうと思召せば、それで四方八方丸(まる)くおさまって、何より重畳(ちょうじょう)なわけ――だが、あんなにうちしおれておるものを、殿も、お斬りなさるのなんのというわけには、ちとゆくまいかと考えられまする」
 源三郎は、今は小降りになった雨の矢が、裾を払うのもかまわず、竹の濡れ縁に立ち出でて、ふたたびじっとみつめているのは……またしても、見る影もなく花を落とした芙蓉(ふよう)の一株、ふた株。危険なところです――いま気を許しては。
 しかし、上には上ということがある。
 だが、そのまた上に、上があるかも知れない。そしてまた、その上の上に、もう一つ上が……。
 お蓮様が引っ込んで行ったあと家内(やうち)はいっそう静まり返って、峰丹波をはじめ、誰一人、この部屋に挨拶にでる者もありません。
 たださえ暮れの早い初冬の日は雨風に追われるように西に傾いて、いつとはなしに湿った夜気が、この、木立ちの影深い客人大権現(まろうどだいごんげん)の境内に……。
 どういう計画がひそんでいるかも知れないと、一同はすこしの油断もなく、無言のまま室の四隅から立ち迫る夕闇に眼を据えていますと……。
 ソッと襖があいて、
「お灯を――」
 と、いう声。
 さっきの少年の門弟が、燭台をささげてはいってきた。それを機会(しお)に、
「何もござりますまいが、お食事のしたくを頼んでまいりましょう」
 そう自然らしく言って、門之丞が、少年の後を追うように出ていった。夜になって、また風が出たようすです。轟(ごう)ッ! と、棟(むね)を鳴らす音に、燭台の灯が、おびえたように低くゆらぐ……。

   刀絡(かたなから)め


       一

 門之丞は、そのまま部屋へ帰ってきません。
 やがて、同じ少年の弟子が、敷居ぎわにあらわれて、手を突き、
「御膳部(ごぜんぶ)の用意が、できましてございますが……御家来衆は別室で、ということで、どうぞお二人はあちらへ――」
 と言う。
 玄心斎は、さてこそという眼顔で、源三郎を見た。
「若、わたくしどもも、ここで……」
 そして、少年へ、
「イヤ、拙者らもここで、いただいてかまわぬとおおせらるる。お手数ながら、拙者らの膳も、此室(ここ)へお運びねがおう」
「いや、待て、爺(じい)」
 源三郎は、いつになくニコニコして、
「お、お前達はあっちへ行って食え」
 谷大八が、懸命のいろを浮かべて、
「ですが、殿お一人をここへお残し申して――」
 この言葉に、伊賀の暴れン坊、ムッとしたらしく、
「ヨ、ヨ、余一人を残していっては、不安だというのか。何を馬鹿なことを、ダ、第一、ひとりになるのではない。コ、これを見よ」
 源三郎、膝わきに引きつけた大刀の柄をたたいて、闊然(かつぜん)とわらった。
「心配するでない。客は、主人側のいうとおりになるのが、礼である。玄心斎と大八は、別室へしりぞいて、心おきなく馳走にあずかるがよい」
 顔を見あわせたのは、大八と玄心斎です。なかなか、心おきなく……どころの騒ぎではない。敵の巣の真(ま)ッただなかにすわりこんで、平気で家来を遠ざけようというんですから、この若殿という人間は、危険ということをすこしも感じない、いわばまア一種の白痴じゃないかしら?――長年お側に仕えてきた二人ですが、この時は、そんな気までして、中腰のまま決し兼ねていると、
「あっちへ行って食えと申すに! なぜ行かぬ」
 いらいらした主君の声だ。源三郎の気性は、知りぬいている。もうこうなったら、いくら押しかえしたところで、許されません。かえって、怒りをますばかり……。
「門之丞は――」
 といって、玄心斎は、なおも心を残しながら、起ちあがった。
「は、別室にて、お二人のおいでをお待ちでございます」
 との少年の答えに、
「それみろ。早く行け」
 源三郎がうながす。部屋を出る時に、玄心斎がなんとかささやきますと、
「ウム。心得ておる」
 そう言って源三郎は、大きくうなずきました。
 やがて――。
 大八と玄心斎がその室を去りますと、少年の手で膳部が運びこまれて、源三郎の前に置かれた。
「ソ、そちが給仕をしてくれるのか」
「は。不調法ながら……」
 無言のまま源三郎は、まず、吸い物をすこし椀のふたにとって、少年の前につきだした。
 毒見をしろ……という意(こころ)。少年も、だまってそれを受け取って、口へもっていきます――。

       二

 膳にならんでいるすべての物は、順々にすこしずつ分けて、少年のまえにだまってさしだす……毒殺に備える用心。
 少年もまた、臆する色もなく、それらをみんな口に入れている。すき洩る風になびく燭台のあかりをとおして、じっとそのようすを見守っていた源三郎、笑いだした。
「はッはッは、ド、どうだ、ま、まだ死にそうなようすは見えぬな」
 少年は、ニッコリ微笑して、
「は? お言葉ともおぼえませぬ。それはどういう――?」
「イヤ、まだ腹は痛うならぬかと申すのじゃ、ハツハッハ」
「いえ、いっこうに……」
「うむ、其方(そち)は何も知らぬとみえるナ」
「と申しますと?」
「よろしい。タ、ただ、武将たるもの、敵地にあって飲食をいたすには、これだけの用心は当然――武士の心得の一つというものじゃ」
 眼をまるくした少年は、思わず、
「敵地?」
 と、声を高めました。
 その顔を、源三郎はつくづく見つめて、
「なるほど、其方(そち)はまだ年端(としは)もゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなる縺(もつ)れが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
「は。うすうすは……」
 と少年は、その前髪立ちの頭をしばし伏せましたが、
「しかし、なにとぞ御安心のうえ、お箸をお取りくださいますよう――」
 ウムとうなずいて、源三郎は食事をすすめたが、その間も、気になってならないのは……。
 丹波をはじめ十五人の道場のものどもが、いまだに顔を出さないのみか、さほど広くもなさそうなこの寮(りょう)が、イヤにヒッソリ閑(かん)として、どこにその連中がいるのか、そのけはいすらもないことです。
 挨拶に出べきはず。無礼!――と、いったんは心中におこってみたが、それよりも、不審のこころもちのほうが強い。
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