丹下左膳
著者名:林不忘
作爺さんは、仮装を見破られた人のように、ゲッソリしょげこんでしまったが。
事実、このとんがり長屋の住人、羅宇(らう)なおしの作爺とは、世を忌み嫌ってのいつわりの姿で、以前は加州金沢の藩士だったのが、彫刻にいそしんで両刀を捨て、江戸に出て工人の群れに入り、ことに、馬の木彫(もくちょう)に古今無双(ここんむそう)の名を得て、馬の作阿弥(さくあみ)か、作阿弥(さくあみ)の馬かとうたわれた名匠。
「ふうむ。この小さな馬が、いまにも土煙を立て、鬣(たてがみ)を振って、走り出しそうに見えるテ」
ほれぼれと、長いことその馬の彫り物を、手に眺めていた泰軒は、
「して、その作阿弥殿(さくあみどの)がいかなる仔細にて、この陋巷に、この困窮の御境涯――」
問われたときに、作阿弥は暗然(あんぜん)と腕をこまぬき、
「高潔の士とお見受け申した。お話し申そう」
語り出したところでは……。
かれには、たった一人の娘があったが、作阿弥の弟子の、将来ある工人を婿にえらび、一、二年ほど夫婦となって、このお美夜ちゃんを産んだのち、その良人(おっと)が惜しまれる腕を残して早世(そうせい)するとともに、子供だいじに後家をたてとおすべきだと、涙とともに一心に説いた父、作阿弥の言をしりぞけて、自らすすんで某屋敷へ腰元にあがり、色仕掛(いろじかけ)で主人に取り入り、後には、そこの後添(のちぞ)えとまでなおったが、近ごろ噂(うわさ)にきけば、その老夫もまた世を去って、ふたたび未亡人の身の上だというが……それやこれやで、おもしろからぬ世を捨てた父作阿弥と、ひとり娘のお美夜ちゃんとの隠れすむこのとんがり長屋へは、もう何年にも、足一つ向けたことのない気の強さ――。
作阿弥と、蒲生泰軒とは、初対面から二人の間に強くひき合い、結びつける、眼に見えない糸があるかのよう……まもなく二人は、十年の知己のごとく、肝胆相照らし、この、疑問のこけ猿の茶壺を中心に、いま、江戸の奥底に大いなる渦を捲き起こそうとしている事件について、夜のふけるまで語りあったが――
いずくを家とも定めぬ泰軒、どこにいてもさしつかえない身分なので、この日から彼、乞われるままにこのとんがり長屋の作阿弥の家へ、ころげこむことになったのです。
えらい居候(いそうろう)……とんがり長屋に、もう一つ名物がふえた。
その夜、泰軒は、お美夜ちゃんの手をひいてニコニコ顔で、長屋じゅうの熊公、八公のもとへ、引越蕎麦(ひっこしそば)をくばってあるきました。
子(こ)を取(と)ろ子取(こと)ろ
一
先(せん)の業(わざ)とは、相手が行動を起こそうとするその鼻に、一秒先立って、こっちからほどこす業(わざ)。
後(ご)の先の業とは……?
相手が動きに移ろうとし、または移りかけた時に、当方からほどこす業(わざ)で、先方の出頭(でがしら)を撃つ出会面(であいめん)、出小手(でこて)、押(おさ)え籠手(こて)、払(はら)い籠手(こて)。
先(せん)々の先の業――とは。
先の業のもう一つさきで、相手が業をしかけようとするところを、こっちが先を越して動こうとする、そのもう一つさきを、相手のほうから業をほどこす、これが先々の先の業。
竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない。真夜中近く、両側の家がピッタリ大戸をおろした、浅草材木町(あさくさざいもくちょう)の通りを、駒形のほうへと、追いつ追われつして行く黒影、五つ、六つ……七つ。
近くの空まで、雨がきているらしい。闇黒(やみ)に、何やらシットリとしめった空気が流れている。鎬(しのぎ)から棟(むね)、目釘(めくぎ)へかけて、生温かい血でぬらぬらする大刀濡れ燕を、枯れ細った左手に構えた左膳は、
「くせの悪いこの濡れ燕の斬っ尖(さき)どこへとんでいくか知れねえから、てめえらたちっ、そのつもりでこいよっ」
しゃがれた声で、ひくく叫んだ。
髑髏(どくろ)の紋が、夜目にもハッキリ浮かんで、帯のゆるんだ裾前から、女物の派手な下着をだらりと見せた丹下左膳、足(そく)を割って、何かを踏まえているのは、これこそは、こけ猿の茶壺に相違ない風呂敷の木箱。
そしてその足もとには、例のチョビ安がうずくまっているので。
したい寄る影は、みな一様に黒の覆面に、黒装束。どこの何者ともわからないが、いっせいに剣輪をちぢめて、ヒタヒタヒタと進んでいく群れのなかに、
「よいかっ。一度にかかれっ! 壺はとにかく、小僧をおさえろ、小僧を!」
との声がするのは、たしかに、この壺捜索のために伊賀から江戸入りしている、柳生の隊長高大之進だ。
一気に壺を奪取しようと、月のない今宵を幸い、橋下の左膳の小屋へ斬り込みをかけたのだが、早くも二、三人にその濡れ燕を走らせた丹下左膳は、チョビ安に箱をだかせて、ともにこの材木町(ざいもくちょう)の通りを、いま、ここまで落ちのびて来たのだけれど。
払っても、抗(むか)っても、すがりよってくる黒法師のむれに、二人はまさに、おいつめられた形で。
左膳、こうして壺を大道の真ん中に置かせ、それをガッシと片あし掛けて、チョビ安を後ろにかばい、ここにしいた背水の陣だ。
この機会を逃がしては……と!
気負いたった伊賀勢、一人が駈けぬけて、真ッ向から左膳に激突するつもり!
だが一人ふたりの相手よりも、大勢を向うにまわしてこそ、刃妖の刃妖たるところを発揮する丹下左膳。
ニヤリと、笑った。
「安っ! 離れるなよっ」
左足を一歩引いて空を打たせ、敵の崩れるところを踏みこんで、剣尖からおろす唐竹割り、剣法でいう抜き面の一手です――左膳の体勢は、すこしもゆるがず、つぎの瞬間、また水のごとき静けさに返っています。
二
江戸のこどもの遊びに、「子を取ろ子とろ」というのがあった。これは明治のころまでありました。子供が多勢、帯につかまって一列になり、鬼になった子が前へ出てその列の最後の子をつかまえようとする。
「子を取ろ子とろ」
と、鬼になった子がさけぶ。
すると、一列縦隊のこどもたちが、一番おしまいの子を守りながら、
「さあ、取ってみなさいな」
と大声をあわせて、呼ばわるのだった。
かなり古い遊戯で、当時は子供達の間に、非常に流行(はや)ったもの。仏教のほうからきた遊びだといいますが、なんでも地獄の獄卒が、こどもたちをつれて通りかかると、戒問樹(かいもんじゅ)という木の下に、地蔵菩薩が待っていて、お地蔵さんは子供の神様で情け深い方ですから、こどもたちのために哀れみを乞(こ)います。獄卒はこどもを渡すまいとする。お地蔵さんは取ろうとする。その、お地蔵様と獄卒との間に、取ろう取られまいとする争いがもちあがって、これが「子を取ろ子とろ」の遊戯になったのだという。
とにかく……。
この「子を取ろ子とろ」が、この深夜、材木町(ざいもくちょう)の通(とお)りに斬りむすぶ剣林のなかに、始まった。
「小僧をつかまえてしまえっ」
高大之進は、大声にわめきながら疾駆して、
「壺はかまうな。子供をつかまえろっ」
チョビ安をひっとらえて、即座の人質にしようというのだ。
取ろうとする伊賀の一団が、お地蔵様か。
渡すまいとする丹下左膳が、地獄の獄卒か――。
「安ッ! すきを見て逃げろヨッ!」
左膳が、ちょっと後ろを振りむいて、チョビ安にささやいた……これが敵には、乗ずべきすきと見えたものか、かたわらの天水桶(てんすいおけ)のかげにひそんでいた黒影一つ、やにわに、刀とからだがひとつになって、飛びこんできた。
左膳としては。
足に踏まえているこけ猿の壺にも、気をくばらねばならぬし、うしろのチョビ安にも、心をとられる。
左膳の濡れ燕を、頭上斜めにかざして、ガッシリと受けとめるが早いか、二本の剣は、さながら白蛇のようにもつれ絡んで……鍔競(つばぜ)り合いです。
歯をかみしめた左膳の顔が、闇に大きく浮かびでる。
鍔ぜり合いは、動(どう)の極致(きょくち)の静(せい)……こうなると、思いきり敵に押しをくれて、刀を返しざま、身を低めて右胴を斬りかえすか。
または……。
こっちが押せば向うも押し返す、この押し返して来たところを力を抜き、敵の手の伸びきったのに乗じて、やはり刀をかえして右胴を頂戴(ちょうだい)するか。
二つに一つ。
だが、鍔競りあいの胴(どう)打ちは、大して力のきかぬものとされているから、どう動くにしても、最大の冒険です。
先にうごいたほうが、命をとられる。左膳も、その覆面の敵も、ギリッと鍔をかみあわせたまま、まるで二本の柱のように、突ったっている。とりまく一同も、柄を持つ手に汗を握って、声もありません。
三
真夜中の斬(き)りあいに驚いて、両側の商家の二階窓が、かすかに開き、黄色い灯の条(すじ)のなかに、いくつも顔が並んで見下ろしている。
すると、ふしぎなことが起こったのです。
左膳が、スーッと刀をおろしながら、その相手から二、三歩遠ざかった。
それでも、その男は、刀を鍔ぜり合いの形に構えたまま、斬っ尖に天をさして、凝然と立っている。
柱によりかかっていた人が、フワリとその柱をはなれる時のように、左膳は日常茶飯事(にちじょうさはんじ)の動作で、一間ほどその男から遠のいたのですが、黒い影は、まだガッキと腕に力をこめて、大地に根が生えたよう……。
離れた左膳は、不意に、大切なこけ猿を相手の足もとへ置いてきたのに気がついた、またブラリと引き返して、刀を口にくわえ、それを左手に抱きあげてもとのところへ帰って……相手は作り物のように、まだ鍔競り合いの恰好のまま動かないんです。周囲の伊賀の連中は、このありさまに何事が起こったのかと、あっけにとられて眺めているばかり――。
だが、さすが名剣手の高大之進だけは、心中に舌をまきました。
その、刀をくわえて、ボンヤリ壺を取りにひっかえしている左膳のどこにも、一点のすきもないんです。ピンの先で突いたほども、気の破れというものがない。
すると、ここにふたたびふしぎなことが起こったので。
二、三間離れて、壺を左の腋(わき)の下にかかえこんだ丹下左膳が、その、まだ一人立っている黒い影へ向かって、ひだり手に刀を持ちなおし、
「やいっ、汝(われ)アもう死んでるんだぞ。手前(てめえ)の斬られたのを知らなけれア世話アねえや」
さけんだかと思うと、その黒い影が大きく前後にゆらいで、まるで足をすくわれたように、バッタリ地に倒れました。同時に、右から左へかけてはすかいに胴がわれて、一時に土を染めて流れ出す血、臓腑(ぞうふ)……いつのまにか、ものの見事に斬られていたんです。
もののはずみというものは、おそろしい。死んだまま立っていたまでのこと。剣の妙も、こうなるとものすごいかぎりで、斬られた本人が気がつかないくらいだから、あたりの者は、誰も知らないわけ。
呆然としている柳生の侍達を、しりめにかけ、
「また出なおすとして、今夜はこれで、帰れ、帰れっ」
あざけりを残した左膳、濡れ燕をさげた左の腋(わき)の下に、こけ猿をかかえて歩き出したが……。
ハッとわれに返った高大之進をはじめ柳生の面々、こうなるとすきも機会もありはしない。一度に、渦巻きのように斬ってかかった。
一本腕の左膳が、刀と壺を持つのだから、防ぐためには、また壺を地面におろさなければならない。チョビ安に持たせておくのは不安だから――で、左膳が、
「まだ来る気かっ、性懲(しょうこ)りもねえ」
うめきざま、不自由な身で、刀を口に銜(くわ)えながら、左わきの下の壺を左手に持ちかえて足もとへおこうとした刹那(せつな)、ドッと襲いかかる足の下をくぐったチョビ安、逃げる気で、いきなり駈けだしたんです。
「そら、小僧を……」
誰かがさけぶ声がした。一同は左膳を捨ててチョビ安を追いにかかったが、こま鼠(ねずみ)のようなチョビ安、白刃の下をでるが早いか、駒形の通りをまっすぐにとんで、ふいっと横町へきれこんだ。
四
「馬鹿ア見やしたよ」
藍微塵(あいみじん)の素袷(すあわせ)で……そのはだけたふところから、腹にまいたさらし木綿をのぞかせ、算盤(そろばん)絞りの白木綿の三尺から、スイと、煙草入れをぬきとった。
つづみの与吉(よきち)はあぐらをかいている。
「それでさ、あるやつの小屋から、あるチョビ助のあとをつけてネ、その行った先を見とどけたと思ってくだせえ。目ざす品物が、チャンとそこへ納まったと見てとったから、一番金(かね)になるほうへ、そっと売りこんでやったのさ。そこまでアいったが姐御、先方が、いきおいこんで踏みこんでみるてえと、外見(そとみ)はそのねらっていた品物でも、中は石ころじゃアねえか。あっしは、呼びつけられの、どなられの、庭先へ引きすえておいて、すんでのことで斬るてえところを、泣いてたのんでゆるしてもらったんだが、あっしも、こんどてえこんどだけは、面目玉(めんぼくだま)を踏みつぶしやしたよ」
司馬の道場から、与吉の報告にこおどりして、あのとんがり長屋の作爺さんのところへでかけていった峰丹波の一味、石をのぞいて帰っただけじゃア、どうにも腹の虫が納まらないから、与吉をブッタ斬ると息まいたのも当然で、思い出しただけで、与吉は身ぶるいをしています。
市松格子(いちまつこうし)の半纏(はんてん)を、だらしなく羽織った櫛巻きお藤の顔へ、与吉のふかす煙草の煙が、フンワリからむ。
駒形をちょっとはいった、尺取り横町は櫛巻きお藤の隠れ家だ。
ふふんと笑ったお藤、だまって与吉から煙管(きせる)をとって、一服ふうとふきながら、
「三下(した)が、言うことがいいや。面目玉(めんぼくだま)をふみつぶしたって、お前なんざ、はじめっから、ふみつぶす面目玉がありゃアしないじゃないか。手を合わせて命乞いしたところを見たかったよ」
カラリと煙管を投げ出して、
「ある人の小屋から、ある子供のあとをつけて、あるところへ……なんかと、あたしに聞かせてぐあいのわるい話なら、はじめからだまっているがいい。いやに気をもたせて、なんだい、おもしろくもない。お前、なにかたいへんなことを、あたしに隠しているね?」
与吉はいったいかってなやつで、このお藤姐御の家にだって、よっぽどいるところがなくなって困らないかぎり、てんで寄りつきもしないのだ。だから、与吉がこうやってころげこんでくるのは、目下(もっか)八方ふさがりの証拠で――もっとも、相手が与の公ですから、お藤姐御はてんで歯牙(しが)にもかけていない。来れば来たかで、部屋の隅っこへごろ寝をさせてやるだけで、一つ屋根の下に泊まっていても、なんということはないんです。
丹下左膳が、つい近くの、浅草の橋の下に小屋を結んでいることは、与吉はまだ、お藤姐御に隠してあるので。
明かせば、いまだに左膳へ対して抱いている恋心(こいごころ)から、姐御(あねご)は、さっそく左膳のほうへ味方(みかた)をするにきまっている。それじゃア敵をふやすようなもので、こけ猿の茶壺を種に、司馬の道場へ加勢するか、あの伊賀の連中へ与(くみ)するか、どっちにしろ、ここでぼろい儲けをしようとたくらんでいる与の公にとっては、大痛事(おおいたごと)。
で、黙っていたんだが、隠していることがあると図星をさされてみると、相手は姐御の貫禄、与吉、グウの音もでないでいる時、不意に、表の路地にバタバタとあわただしい跫音(あしおと)。
「おや、なんだろうね、いま時分」
お藤の眉が、美しい八の字を描いて――。
五
ガラッ!……格子があいた。
お藤姐御は、乱れた裾前から、水色縮緬の湯巻をこぼし――。
与吉は、素袷(すあわせ)の膝をひっつかんで。
二人が突ったったとたん!……飛びこんで来たんです、息をきらした一人の子供が、せまい土間へ。
朧(おぼろ)の明りにすかし見た与の公、素頓狂(すっとんきょう)な声をあげて、
「やっ! 手前(てめえ)はいつかの小僧じゃアねえか。飛んで灯に入る夏の虫――」
講釈場(こうしゃくば)仕込みの文句を口に、与吉、つかつかと土間へおりようとすると――。
飛びこんで来たチョビ安は、必死の顔色だ。与吉とお藤へ向かって、かわるがわるに、小さな手をあわせたのは、かくまってくれという意味であろう。
「シイッ!」
と、与吉へ眼くばせとともに、無言をたのんだチョビ安は、内部(なか)からしっかと格子をおさえているが、その、恐怖と狼狽にみちたようすを、お藤姐御は、両手をだらしなく帯へ突っこんで、上がり框(かまち)の柱にもたれたまま、じっと見おろしているんです。
「太え餓鬼でさあ、こん畜生は」
と、与吉は、得たりと大声に、
「はじめこいつが、壺をさらって、突っ走りやがったばかりに……またこの間は、乙(おつ)な服装(なり)をしやがって、偽物の壺で、まんまとおいらにいっぺえくわしたのも、この餓鬼だ」
「誰かに追われているんだよ、しずかにしておやりよ」
お藤の眼が、ギロリと与吉へはしって、
「壺ってのは、いつかお前が持ってきて、しばらくここへ置いといた、あの薄汚い壺のことだね? すると、今も、ある子供のあとをつけて、なんて、お前がひどくうらんでいたのは、この兄(にい)ちゃんだったのかい。なんだか、隠し立てしていることが、そろそろほぐれてきそうだから、おもしろいねえ」
与吉はまごまごして、
「やいっ! ここをどこと思って飛びこんで来た。摘み出すぞ」
「相手が子供だと、与の公もえらい鼻息だね。だが、お前がそんなにいじめるなら、あたしは、この兄ちゃんの味方になるから、そう思うがいい……ねえ」
と、まだ懸命に格子をおさえているチョビ安へ、
「あたしはね、櫛巻きお藤っていうのさ。あたしんとこへ飛びこんできたからには、決して悪いようにはしやアしない、大船へ乗った気でおいで」
「よけいな侠気(おとこぎ)ってもんだ。悪い病(やめ)えだなア」
与吉は往生して苦笑しましたが、チョビ安は、かわいい顔を振りむけて、
「小母(おば)ちゃん、あたい、チョビ安っていうんだよ。悪い侍達に追っかけられているの。助けてね」
「ああ、いいとも。安心しておいで。だがねえ、兄ちゃん、小母ちゃんてのはまだ可哀そうだよ。姉(ねえ)ちゃんぐらいにしておくれ」
お藤が笑ったとき、路地の溝板(どぶいた)をふんで、行きつ戻りつする多人数の跫音(あしおと)は、ただごとではありません。
「あ、来た……!」
おびえたチョビ安のしのび声と同時に、自暴(やけ)になった与の公、突拍子もない大声で叫んでしまった。
「チョビ安の小僧なら、ここに逃げこんでおりやすよ! へい」
六
「オヤ! なんだい与の公、せっかくあたしが助けてやろうと思っているのに――」
いまの与吉の大声で、路地の跫音がいっせいに、この家(や)の表に集まって、ドンドンドン!
「あけろ、あけろ!」
「あけぬとたたッこわすぞ」
お藤姐御は、グッと癪(しゃく)にさわって、真剣な顔だ。
与吉を、にらみつけた。
「ごらん、馬鹿ッ声をはりあげるもんだから、雑魚(ざこ)が寄ってきたじゃないか!」
ピシャリ! 白い平手が空(くう)にひらめいて、与吉の頬に、大きな音がした。
姐御のビンタを食った与吉、こうなると、もう自棄(やけ)のやん八です。
駒形一帯にひびき渡るような濁声(だみごえ)をしぼって、
「戸外(そと)の旦那方ッ! 諸先生ッ! チョビ安をおさがしでござんすか、ここにおりやす。ここに逃げこんで……!」
「まあ、なんて野郎――!」
姐御は、もう一つ与吉の横面(よこつら)をはりとばして、胸ぐらをとって小突きまわしたが、その時はもう表の戸は、ぐいぐいあけられかかっている。
しばらく中から、戸をおさえてはみたものの、子供の力の詮(せん)すべくもなくもう諦めてしまってチョビ安は、
「なあに、ようがす、べつにとって食おうたア言うめえ」
落ちついたものです。相変わらずませた口をききながら、襟をあわせ、前をなおし、従容として捕えられるしたく、衣紋(えもん)をつくろっていると……パッ! 戸があいた。踏みこんできました、ドヤドヤと――。
黒装束に黒の覆面の伊賀の連中、懸命に左膳をくいとめている一人、二人を残して、高大之進を先頭に、こうしてチョビ安を追ってきたんだ。
子を取ろ子取ろ……壺よりも、まず子供をつかまえようという魂胆なので……。
子供は今や、鬼の手に――。
はいった土間に、チョビ安が両手を後ろに組んで立っているんですから、高大之進がいきなり手を伸ばして、
「小僧! 神妙にしろ」
お捕り方みたいなことをいって、ぐいと肩をつかもうとした瞬間、ピョイと上がり框(かまち)へとびあがったチョビ安、お藤の後ろへまわって、
「姉ちゃん! なんとかしておくれよ。この連中はあたいを捕えて、父上の持っている大事な壺と、とっかえっこしようとしてるんだからサ」
読めた! 人質にしようとしているんです、チョビ安を。
持って生まれた性分で、どうもよわいほうに味方したくなるんですから、お藤も因果な生れつき。
襟をつかんでいた与吉を、ドンと突っぱなした櫛巻きお藤の姐御、肩からずり落ちそうな半纏(はんてん)を、ひょいと一つ揺りあげながら、ぶらりと一歩前へ出て、
「吹けばとぶような長屋でも、一軒の世帯、あたしはここのあるじでございます。誰にことわって、この家へおはいりになりましたか。まず、それから伺いたいものですねえ」
七
無言です。
一同は、黒い影を重なりあわせて、押しあがってきました。
「なんです、土足でっ!」
お藤姐御の癇(かん)走った声も、耳にも入れない伊賀の連中……なんとか受け答えをすれば、お藤も、それに対していいようもあり、またその間に考えをめぐらして、とっさの策をたてることもできるのですが、黙っているんでは、さすがのお藤も相手ができない。
「この子に、指一本でもさわってごらん、あたしが承知しないよ」
金切り声でさけびながら、チョビ安を後ろにかばって、争ってみましたが、
「小僧っ、静かにしろっ!」
一人の手がやにわに伸びて、チョビ安の首根っ子をおさえると同時に、
「女、さわがせてすまんな」
高大之進の声です。静かにいって、つと、お藤姐御を後ろ手におさえてしまった。
与吉は?
と、見ると、こいつ、例によって逃げ足の早いやつで、あわてふためいて、戸外(そと)の闇へ……。
「チョビ安とやら申したな。貴様をとらえて、斬ろうの殺そうのというのではない。貴様と引き換えに壺をもらおうというだけのことだ。だが、彼奴(きゃつ)がどうしても壺を渡さんという時は、不憫(ふびん)ながら命をもらうかも知れぬからそう思え」
「お侍さん」
おくれ毛をキッと口尻にかみしめた櫛巻きお藤は、両手の骨の砕けるほど、高大之進に強く握られながら、艶な姿態に胴をくねらせて、ひとわたり黒頭巾を見上げ、
「この子は、今いきなりあたしのところへ飛びこんできたばかりで、いったいなんの騒ぎか、ちっとも存じませんけれど、いま壺がどうとやらおっしゃいましたね? それは、いま逃げていったつづみの与吉が、いつぞやここへ持ってきて、しばらくお預かりしたことのある壺でござんしょうが、それなら、あたしもまんざらかかり合いのないこともございません。まア、この手をお離しなすって、エイッ、離せって言うのに!」
「卑怯なまねをするなあ」
うそぶいたのは、チョビ安です。
「斬合いじゃあ敵(かな)わないもんだから、おいらをつかまえて、父上をくるしめようなんて、武士のするこっちゃねえや」
「ほざくなっ!」
と、チョビ安をおさえる一人が、いかりにまかせて、彼の小さな身体を畳へ押しころがし、ぎゅっと上からのしかかったとたん。
「あっ! やって来たっ!」
誰かの声に、一同の顔が戸口に向いた。
闇を背景に、格子をふさいで立っている白衣の痩身。手のない右袖が、夜風のあおりをくらってブラブラしているのは……丹下左膳。
だまって室内をながめまわしています。左の腋の下に壺をかかえ、その左手に血のしたたる濡れ燕をひっさげ、蒼くゆがんだ笑顔――。
「父上ッ」
チョビ安の声と同時に、
「あっ、お前様は、丹下の殿様――」
と、お藤が驚声をあげるまで、それが誰だか、左膳は気がつかないようすでした。
ありがたく頂戴(ちょうだい)
一
高大之進の一隊が、チョビ安の影を踏んで、路地の奥へ追いこんでいるあいだ……。
なんとかして、一刻も長く左膳をくいとめようと、刀をふるって駒形の街上に立ち向かった、二、三人の柳生の黒法師は。
剣鬼左膳の片手から生(せい)あるごとく躍動する怪刀濡れ燕の刃にかかって……いまごろは、三つの死骸が飛び石のように、夜の町にころがっているに相違ない。
壺も壺だが。
気になるのは、チョビ安の身の上。
野中の一本杉のような丹下左膳、親も妻子もない彼に、ああして忽然として現われ、親をもとめる可憐な心から、仮りにも自分を父と呼ぶチョビ安は、いつのまにか、まるで実の子のような気がして、ならないのでした。
ほんとうの人間の愛を、このチョビ安に感じている左膳なんです。
もう、半狂乱。
壺の木箱を左の腋の下にかいこみ、同じ手に抜刀をさげて、あわてたことのない彼が、一眼を血眼(ちまなこ)にきらめかし、追われて行ったチョビ安の姿をさがしもとめて、駒形も出はずれようとするここまで来ると。
とある横町に、パッと灯のさしている家があって、ガヤガヤという怒声、罵声の交錯。でも、ふっとのぞいてみたそこに、チョビ安がおさえられているのみか、あの櫛巻きお藤がとぐろを巻いていようとは、実に意外(いがい)……!
「なんだ、お藤じゃアねえか。ここはおめえの巣か」
言いながら左膳、冷飯草履(ひやめしぞうり)をゴソゴソとぬいで、あがってきた。
狭い家中に、いっぱいに立ちはだかっている黒装束の連中などは、頭(てん)から眼中にないようす。
まるで、お藤とチョビ安だけのところへ、のんきに訪ねて来たようなふうだ。
「どうした」
「おひさしぶりでしたねえ、左膳の殿様。手を突いて御挨拶をしたいんですけれど、ごらんのとおり、とっちめられていて、自由がききませんから、ホホホホホ……」
「おいっ、あまり世話をやかせるものではないぞ」
その時まで黙っていた高大之進が、いきなり左膳へ向かって、こう口を開きました。
「多くはいわぬ。壺が大事か、子供の命が大事か――ソレッ」
眼くばせをうけて、チョビ安をおさえている一人の手に、やにわに寒い光が立った。抜き身の斬っ尖を膝に敷きこんだチョビ安の喉元へ擬(ぎ)したのです。
返答いかに?
おとなしく壺を渡せばよし、さもなければ、血に餓えたこの刃が、グザとかわいい小さなチョビ安の咽喉(のど)首へ……。
チョビ安は、しっかり眼をつぶって、身動きもしない。できない。
左膳は、どっかとあぐらをかきました。
「まあ、話をしようじゃアねえか」
「えいっ、渡すか渡さぬか、それだけいえっ」
「あたいは死んでもいいから、壺をやらないでね」
むじゃきなチョビ安の言葉に、左膳は、たった一つの眼をうるませて、
「おれがここで暴(あば)れだしゃア、その前(めえ)に、チョビ安の頸が血を噴くってわけか。コーッと、なるほどこいつア、手も足も出ねえゾ――」
二
実際こうなってみると、いかに刃妖丹下左膳でも、ほどこすすべはない。
チョビ安の咽喉と白刃との間(あいだ)には、五分(ぶ)、いや、三分(ぶ)のすきもないので。
左膳の返事一つで、その斬っ尖がチョビ安の首に突きささることは、眼に見えている。
伊賀の連中も真剣だ。
決しておどかしでないことは、その、チョビ安に刀を構えている侍の、黒覆面からのぞいている血走った眼の色でも、わかるんです。
静寂……秋の夜更けは、身辺に黒い石を積みかさねるように、圧(お)しつけるがごとく感じられる。
沈黙を破ったのは、この隊の頭目(とうもく)、高大之進でした。
「子供をたすけたいと思うなら、さ、それなる壺を拙者の前にさしだされい」
左膳は、隻眼を笑わせて、凝然と天井を振りあおいでいる。
チョビ安は無言……お藤も、今はもう言葉もなく、うなだれているばかり、はだけた襟の白さが、この場の爆発的な空気に、一抹(まつ)の色を添えて。
「返答はどうしたっ! 返答はっ」
もう、完全に左膳を隅へ追いつめたのですから、伊賀っぽう、めっぽう気が荒いんです。
一人がそうどなった。
その尾について、ほかのひとりが、
「夜が明けるぞ、夜が」
「下手(へた)の考え休むに似たり。ええ面倒だ。小僧の首をもらってしまえ」
たちさわぐ部下を制した高大之進覆面の眼を、得意げに輝かせて、
「なかなか御決心がつかぬとみえますな。よろしい、拙者がいま、十まで数を数えますから、その間に御返事をねがいたい」
と、チョビ安をおさえつけている侍へ向かい、
「よいか、おれが十まで数えても、うんともすんともいわなかったら、気の毒だが、その子供の首をひと刺しにナ……」
「心得ました。十のお声と同時にブツリ刺し通してもかまわないのですね」
「そうだ。十の声を聞いたら、やっちまえ」
シインとした中で、やおら左膳に向きなおった高大之進は、きりっとした声で、数えはじめました。太く、低く、静かに……。
一、二、三、四――五――。
ゆっくり間(ま)をおいて、
「六……」
誰かが、エヘン! と、咳ばらいをした。
「七――」
左膳の焦慮(しょうりょ)は眼に見えてきた。娘(むすめ)一人に婿八人、各方面から、この壺をねらう者の多いなかに、片腕の孤剣を持って、よくここまでまもり通してきたものを、今むざむざ……。
と、言って。
ためらったが最後、かわいいチョビ安の命はないもの。
右せんか、左せんか。左膳の額部(ひたい)に、苦悶の脂汗が――。
「八――九……」
「待った!」
くるしい左膳の声だ。
「しかたがねえ。負けた」
静かに、壺を畳へ置いて、高大之進のほうへ押しやりました。
三
「ウム、神妙な――」
微笑した大之進、それでも、めったに油断をみせません。片手に抜刀を構えたまま、じっと上眼づかいに、左膳をみつめて。
ソロリ、ソロリ……片手で風呂敷をときにかかった。
一座の眼は、その指先に集まっている。
鬱金(うこん)の風呂敷が、パラリと落ちると、時代で黒ずんだ桐の木箱。
大之進は、ピタとその蓋に手をおいて、
「おのおの方ッ、こけ猿の茶壺でござるぞ。われわれの手で取りもどしたは、真に痛快事。これで、気を負(お)い剣を帯して、江戸表まで出てまいった甲斐があったと申すもの」
一人が、四角ばって、すわりなおした。
「殿の秘命をはたし得て、御同様、祝着至極(しゅうちゃくしごく)……」
「この問題も、これにて解決。殿のお喜びようが眼に見えるようでござるワ」
「さっそく、明朝江戸を発足いたし……」
謹んで、壺の蓋をおさえていた高大之進は、その間も、左膳から眼をはなさずに、
「当方にとってこそ、絶大なる価値を有する壺、だが、其許(そこもと)には、なんの用もないはず。おだやかにお渡しくだすって、千万かたじけない」
左膳、女物の派手(はで)な長襦袢(ながじゅばん)からのぞいている、痩せっこけた胡坐(あぐら)の毛脛を、ガリガリ掻いて、
「ウフフフ、あんまりおだやかでもなかったぜ。今になって礼を言われりゃア世話アねえや」
チョビ安もゆるされて、ピョッコリ起きあがって、ちょこなんとすわっています。
お藤も手を放されて、居住いをなおすなかに、つと声をあらためた高大之進、
「役目のおもて、大之進、お茶壺拝見」
おごそかに言いながら、ピョイと蓋をはじいた。
蓋は軽い桐材。四角い紙のように、ピョンと飛んで畳を打つ。
のぞきこんだ大之進といっしょに部屋中の眼が箱の中へ――
赤い絹紐であんだすがりの網に包まれて、柳生名物(めいぶつ)の茶壺、耳こけ猿が、ピッタリとその神秘の口を閉ざし、黒く黙々とすわっている……のが、一瞬間、みなの眼に見えた。
だが。
錯覚(さっかく)。そうと思いこんだ眼に、一時それが実在のごとく閃めいただけで、恋しなつかしのこけ猿の茶壺! と、思いきや!
鍋なんだ、中にはいっているのは。
破(や)れ鍋(なべ)が一つ、箱の底にゴロッと転がっているんです。
驚きも、声の出るのはまだいい。
高大之進も、左膳も、室内の一同、まじまじと箱の中をのぞいた眼を、互いの顔へパチクリかわしているだけで、なんの言葉もありません。
そうでしょう、大きな鍋が、鉄のつるを立てて、箱のなかにどっかと腰をすえているところは、真っ黒な醜男(ぶおとこ)が勝ちほこった皮肉の笑いを笑っているようで――。
「ウム!」
「フーム」
左膳と大之進が、いっしょにためいきをついたとき、鍋に、一枚の紙片のはいっているのが眼についた。驚きのあまり敵も味方もなくなって、左膳が拾いあげてみると、達者な筆で、
「ありがたく頂戴(ちょうだい)」
とある。
四
橋の下の小屋住居(ずまい)に[#「小屋住居(ずまい)に」は底本では「小屋住居(ずまい)に」]、朝夕眼をはなしたことのない壺。
それが、こうして中身が変わっていようとは!
いつ、何者にぬすまれたのか、左膳にも、チョビ安にも、すこしの心当りもありません。
左膳とチョビ安、四つの眼、いや三つの眼で見はっていた壺が、いつのまにやら鍋に化けて、しかも、ありがたく頂戴(ちょうだい)と嘲笑的(ちょうしょうてき)な一筆。
丹下左膳不覚といえば、これほどの不覚はないが、がんらいが剣腕一方のかれ左膳、いかなる手品師の早業か、すきを狙われては、どうにも防ぎようがなかったらしく。
こけ猿の茶壺は、とうの昔に左膳をはなれて、何者かの手に渡っていたのだ。
では、どこへ行ったか。
「ウーム、わからねえ、どう考えてもふしぎだ……」
一眼をとじ、沈痛にうめいている左膳を、チョビ安は唖然(あぜん)と見上げて、
「ねえ、父上。どうして盗まれたろう。あたい、いくら考えてもわからないよ」
父上……と聞いて、壺よりも、久方(ひさかた)ぶりにめぐりあった左膳その人に、多大の関心を持っている櫛巻きお藤は、そそくさと膝できざみ出ながら、
「あらっ、丹下の殿様、これお前さんの子供なのかい。まあ! いつのまに、こんな大きな子供が!」
その時まで、発音ということを忘れたように、ただ眼ばかりキョロつかせていた柳生の侍達、一度に大声にしゃべりだした。
「やられたっ! 見事この独眼竜(どくがんりゅう)に、一杯くわされたぞ」
「かつがれましたなア。鍋を抱えて逃げているとも知らず、懸命にここまで追いつめたが……」
「人をなべやがって――」
いやな洒落(しゃれ)です。
「かくまでわれわれを愚弄いたすとは! もう容赦はならぬっ」
さけぶと同時に一人は、またチョビ安を押しころがして、その胸もとに斬っ尖(さき)を突きつけ、左膳へ向かい、
「さ! 壺の所在(ありか)を言えっ」
蜂の巣をつついたような騒ぎのなかで、じっと眼をつぶっている丹下左膳は、甘い女の香が鼻をなでて……お藤が、そっと寄り添っていることを知った。
すると、高大之進は、だまって、さっさと土間へおりてしまった。
「この仁(じん)の驚きは、われわれ以上だよ。盗まれたことを知らずにいたのだ。責めても、むだだ。さあ、ひきあげよう」
「しかし、謀(はか)られたとしたら……」
「いや、そうでない。何者かが壺を盗み出したことは、この仁の顔色を見てわかる。出なおし、出なおし」
そう笑って高大之進は櫛巻きお藤へ、
「いや、騒がせたナ」
ブラリと尺取り横町を出ていった。他の連中も、しかたなしに、左膳とお藤とチョビ安を、かわるがわるにらみつけておいて、ガヤガヤ立ち去って行く。
急に、しんとしたなかに取り残された三人……鍋を前に、深い無言がつづいています。
扇子(せんす)の虫(むし)
一
顔を見合わせて、吐息をつくばかりです。
さア、こうなってみると、こけ猿の茶壺は、いまどこにあるのか、てんで見当もつかない。
茶壺というと……今の人の考えでは、たかが茶を入れておく容器(いれもの)で、道具の一つにすぎませんが、昔は、この茶壺にたいする一般の考えが、非常にちがっていて、まず、諸道具の上席におかれるべきもの、ことに、大名の茶壺や、将軍家の献上茶壺となると、それはそれはたいへんに羽振りをきかせたもので、禄高に応じて、その人と同じ待遇を受けたものです。
ことに、相阿弥(そうあみ)の蔵帳(くらちょう)、一名、名物帳(めいぶつちょう)にまでのっている柳生家の宝物こけ猿の茶壺。
単に茶壺としても、それが紛失したとなると、これだけの大騒動(おおそうどう)が持ちあがるになんのふしぎもないわけだが――。
そればかりではない。
柳生の先祖が、他日の用にと、しこたま蓄財した現金をひそかにある地点へ埋めた、その秘宝(ひほう)の所在を書きとめた地図が、このこけ猿の茶壺のどこかに封じこんであるのですから、いま、この宝探しのような、大旋風がまきおこっているのも、理の当然です。
左膳、チョビ安、お藤の三人は、無言の眼をかわして、考えこんでいましたが、そのうちに左膳、指を折って数えだした。
「一つ、壺を奪還せんとする柳生の連中――これは、司馬の道場へ乗りこんでおる源三郎一味と、捜索の手助けに伊賀から出て来た高大之進の一団と……今夜まいったのは、この高(こう)の一隊だが、彼奴(きゃつ)らは、道場と、林念寺前(りんねんじまえ)の柳生の上屋敷の間に連絡をとって、血みどろになって探しておる」
ひとりごとともつかない陰々(いんいん)たる左膳の声に、お藤もチョビ安も、ぞっとしたように口をつぐんでいる。
左膳は、壺をねらっている連中を、数えたてているのです。
「二つ……道場の峰丹波の奴ばら」しばらく間。「三つ、あの得体の知れぬ蒲生泰軒(がもうたいけん)。四つ、どうやら公儀の手も、動いておるようにも思われる――五番目には、かく言うおれと……はッはッは、いや、おれの片眼には、江戸じゅうの、イヤ、日本中の人間が、あの茶壺をねらっているように思われるワ。お藤、泊めてもらうぞ」
ごろっと、壁際に横になった。
大刀を枕元にひきつけて、左手の手まくら。
「いや、知らぬうちに、後生大事に鍋を秘蔵しておったとは、われながら笑止(しょうし)。なに、そのうちに、取り返すまでのことだ――」
無言におちたかと思うと、左膳は、いつのまにか眠りかけて、なんの屈託もなさそうな軽い鼾(いびき)が……。
「左膳の殿様、そんなところにおやすみになっては……」
お藤は静かに起(た)って、着ている市松格子(いちまつごうし)の半纏(はんてん)をぬいで、左膳の寝姿へ掛けたのち、にっこりチョビ安をかえりみ、
「兄ちゃんは、あたしといっしょに寝ようね。御迷惑?」
さびしそうな笑顔で、寝床を敷きにかかる。
その夜からだ、左膳、お藤、チョビ安の三人が、この長屋にふしぎな一家族を作って、おもむろに、壺(つぼ)奪還(だっかん)の術策をめぐらすことになったのは。
二
なんの因果で、こんな隻眼隻腕の痩せ浪人に……と、はたの眼にはうつるだろうが、お藤の身にとっては、三界(がい)一の殿御(とのご)です。
恋しいと思う左膳と、こうしていっしょに暮らすことができるようになったのだから、お藤の喜びようったらありませんでした。
莫連者(ばくれんもの)の大姐御でも、恋となれば生娘(きむすめ)も同然。まるで人が変わったように、かいがいしく左膳の世話をする。何かぽっと、一人で顔をあからめることもあるのでした。
だが、左膳は木石(ぼくせき)――でもあるまいが、始終冷々(れいれい)たる態度をとって、まるで男友達と一つ屋根の下に起き伏している気持。左膳の眼には、お藤は女とはうつらないらしいので。
同居しているというだけのことで、淡々としてさながら水のよう……あの最初の晩、一つしかない寝床に、チョビ安とお藤が寝て、左膳は畳にごろ寝したのだったが、それからもずっと左膳は、そこを自分の寝場所とさだめて、毎晩手枕(てまくら)の夢をむすんでいる。
さめては、思案。
「どう考えても、ふしぎでならねえ。あんなに、眼をはなさずに、昼夜見まもってきた壺の中身が、いつの間にすりかえられたか――」
「父上、あたいにも、ちっともわからないよ。だけどねえ、これからどうして探したらいいだろう」
ういういしい女房のように、土間の竈(かま)の下を焚きつけていたお藤が、姐さん被(かぶ)りの下から、
「くよくよすることはないやね。丹下の殿様がいらっしゃるんじゃアないか。およばずながらこのお藤もお力添えをして、三人でさがしまわれば、広いようでもせまいのが江戸、どこからどう糸口がつかないものでもないよ」
左膳を仮りの父と呼んでいるチョビ安は、ここにまたお藤というものが現われて、まるで母親を得たような喜びよう。
「ねえ、父上、あたい、この人をお母(っか)アといってもいいだろう?」
左膳の苦笑とともに、お藤の顔には、彼女らしくもない紅葉(もみじ)が散って、
「ああ、そうとも、丹下の殿様がお前の父(ちゃん)なら、あたしはおふくろでいいじゃないか」
チラと左膳を見ると、左膳、いやな顔をしてだまっている。
豪刀濡れ燕も、この、からみついてくる大姐御の恋慕心は、はらいのけることができないとみえる。
妙な生活がつづいている……すると、朝っぱらから出ていったお藤が、何か風呂敷包みをかかえて帰ってきた。左膳は毎日、ごろっと横になっているだけだが、その時チョビ安、左膳の背後(うしろ)にまわって、肩をたたいていました。
お藤がその前で、包みをとくと、出てきたのは、女の子の着る派手な衣装いっさいと、かわいい桃割(ももわ)れのかつら。
「芸があるんだよ、あたしにゃアね。めったに人に見せられない芸だけれど、壺を探しかたがた、その芸を売り物に、安公と二人、門付(かどづ)けをしてみようじゃアないか」
「いやだい、あたい、女の子に化(ば)けたりするのは」
その衣装を見て、チョビ安は口をとがらしたが、すぐ思い返したように、
「でも、そうやって江戸中を歩いていりゃあ、壺も壺だけれど、父(ちゃん)や母(おふくろ)に逢えるかもしれないね」
としんみり……。
三
「まあ、かわいい女の子だこと! 鳥追いじゃあなし、なんでしょうね」
「虫踊(むしおど)りなんですよ。虫踊りのお藤さんと、お安ちゃんですよ」
「虫踊り? 虫踊りとはなんでえ」
「オヤ、お前さんもずいぶん迂濶(うかつ)だねえ。いや江戸じゅうで評判の、尺取り踊りを知らないのかえ」
ぱっと晴れあがった日和(ひより)です。町角に、近所の人達がひとかたまりになって、ワイワイ話しあっている。
本郷は妻恋坂の坂下、通りのはるか向うから、粋な音じめの三味線の音が流れて来て、大小(だいしょう)二人の女の影が、ソロリソロリと、こっちへ近づいてくるのが見える。
「あの、ようすのいい年増(としま)のお藤さんと、十ばかりのかわいいお安ちゃんっていう女の子とが、組になってサ、お藤さんの三味線につれてお安ちゃんの持つ扇子の上で、尺取り虫がお前さん、踊(おど)りをおどるんだよ」
「へーイ! 尺取り虫が? そいつア見物(みもの)だ」
ガヤガヤ言いあっているところへ、櫛巻きお藤と、お安ちゃんこと、チョビ安扮するところの女の子とが、ぶらりぶらり近づいてくる。
「サア、代(だい)は見てのお帰りだ」
「一つ、呼びとめて、その珍芸を見せておもらいしようじゃアねえか」
街(まち)の人々にとりまかれた、お藤とチョビ安。
お藤は、木綿の着物に赤い襷(たすき)をかけて、帯の結びも下目に、きりりとした、絵のような鳥追い姿。
チョビ安の女装したお安ちゃんは、見ものです。
肩上げをした袂の長い、派手な女の子の姿。小さな笠を眼深にかぶって、厚く白粉(おしろい)をぬったあどけないほおに、喰(く)い入るばかりの紅(べに)のくけ紐。玉虫色の唇から、チョビ安いい気なもので、もうすっかり慣れっこになっているらしく、
「小父(おじ)ちゃん、小母(おば)ちゃん、虫の太夫さんに踊(おど)らせておくれよ。そして、たんと思召しを投げて頂戴(ちょうだい)ね」
みんなおもしろがって、
「さあ、やんな、やんな」
「お鳥目(ちょうもく)は、おいらがあとで集めてやらあ」
「毎度おやかましゅう」三味線の手を休めたお藤、
「ではお言葉にあまえまして、江戸名物は尺取り虫踊り……」
チチチン! と、三味をいれて、
「尺取り虫、虫、
尺取れ、寸取れ、
足の先から頭まで、
尺を取ったら命とれ……」
「太夫(たゆう)さん、御見物が多いけど、あがっちゃアいけないよ」
言いながらチョビ安、手にしていた日の丸の扇をさっとひらいて、袂からとりだした小箱の蓋をひらき、そっとその扇の上へ放しだしたのは、お藤手飼いの尺取り虫が三匹。
大事に、温かにして、押入れの奥で飼(か)ってきたのです。
三味の音に合わせて、その三匹の尺取(と)り虫が、伸びたり縮んだり、扇子の上で思い思いの方角に動くのが、見ようによっては、踊(おど)りとも見えて、イヤモウ、見物はわれるような喝采……。
狐と狸
一
縁に立っている源三郎だ。
柱によりかかって、じっと見上げているのは……空を行く秋のたたみ雲。
あせっているんです、源三郎は。
いつまでこうしていても、果てしがない――。
実際そのとおりで、源三郎のほうとしては、あくまで道場は自分のものの気、祝言も式もないものの萩乃は己(おの)が妻の気……。
それにひきかえ。
お蓮と峰丹波の側では、道場はどこまでも自分達の所有の気。萩乃は源三郎の妻でもなんでもない気。したがって、縁もゆかりもない田舎侍の一団が、道場へ押しこんできて、したい三昧(ざんまい)の生活をしているものと認めている気。
気と気です。
気の対立。どっちの気が倒れるか、自分こそは勝つ気で、両方で根比(こんくら)べをする気。
対立(たいりつ)の状態で、ここまでつづいてきましたけれど、性来気の短い源三郎としては、今まで頑張るだけでも、たいへんな努力でした。
それがこの先、どこまでつづくか際限がないのだから、源三郎、いささかくさってくるのに無理はない。
それも。
積極的に争うなら、源三郎お手のもので、間髪を入れず処理がつくのですけれど、今の言葉でいう、いわばまア占拠……双方(そうほう)じっとしてねばるだけだ。
消極的な戦いだから、伊賀の暴れん坊、しびれをきらしてきた。畳(たたみ)を焼いて煖(だん)をとったり、みごとな双幅(そうふく)や、金蒔絵(きんまきえ)の脇息(きょうそく)をたたッこわしたり、破いたり、それを燃料に野天風呂をわかすやら、ありとあらゆる乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)をはたらき、いやがらせの八方をつくして……。
いま文句が出るか、今文句が出るかと。
いくら待っても、先方はウンともスンとも言わない。
渡り廊下でつづいた別棟に、お蓮様、丹波をはじめ道場の一派、われ関(かん)せず焉(えん)とばかり、ひっそり閑(かん)と暮らしているんです。
売った喧嘩を買ってくれないほど、はりあいの抜けることはない。
源三郎を取り巻く伊賀の若侍たちも、拍子抜けがして――。
暴(あば)れくたびれ。
退屈。
あう――ウア! 欠伸(あくび)の合唱、源三郎の欠伸と門之丞の欠伸とがいっしょだったので、源三郎自嘲(じちょう)的な笑いを洩らし、
「秋晴れだナ。馬に乗りたい」
と言った。
「結構ですな、チトお気ばらしに……」
「余は、江戸はくらい。遠乗りにはどの方面がよかろうかな?」
「拙者もよくは存じませぬが、まず墨堤(ぼくてい)……いかがで?」
「ま、よかろう、馬ひけ」
「御意(ぎょい)。供は?」
「其方(そち)と、玄心斎と、大八と、三人でよい」
こうしたわけで、若さと力を持ちあつかった源三郎、轡(くつわ)を並べて、妻恋坂の道場を後に――。
空には、鱗のような雲の影が、ゆるやかに動いていました。
二
西北から、大きな緑の帯のような隅田川(すみだがわ)が、武蔵(むさし)と下総(しもうさ)の間を流れている……はるかに、富士と筑波を両方にひかえて。
昼ながら、秋の狭霧(さぎり)が静かに罩(こ)めわたって、まるで水面から、かすかに湯気があがっているように見えるのだった。その模糊(もこ)とした中から、櫓(ろ)の音が流れて来て、嘴(くちばし)と脛(すね)の赤い水鳥が、ぱっと波紋をのこして飛びたつ――都鳥である。
吾妻橋(あづまばし)から木母寺(もっぽじ)まで、長い堤(つつみ)に、春ならば花見の客が雑踏(ざっとう)し、梅屋敷(うめやしき)の梅、夏は、酒をつんでの船遊び――。
が、今は秋も半(なか)ば。
草紅葉の広い野に、まばらな林が風に騒いで、本郷の道場を出た時は、秋晴れの日和であったのに、いつしか空いっぱいに雲がひろがり、大川をくだる帆も早く、雨、そして風さえ孕(はら)んだ、暗いたたずまいである。
馬(うま)乗り袴(ばかま)が、さやさやと鳴る。
馬具がきしむ。
薄陽(うすび)と河風を顔の正面(まとも)にうけて源三郎は、駒の足掻(あが)きを早めた。
遠乗りの快味のほか、何ものもない彼の頭に、ただ一つ……。
さっき妻恋坂をおりきった街角に、人を集めて何か芸当を見せている二人の女遊芸人のすがたが、なんとはなく、印象にこびりついているのだった。
三味線を斜めにかまえて、チラと馬上の自分をあおぎ見た年増おんな。
十か九つの女の子が、扇子をひろげて何かのせていたが、通りすがりに馬の上からちょっと見ただけなので、よくわからなかったけれど。
あの二人の女芸人が、妙に源三郎の心をはなれない。
自分を思っている萩乃のこと、同じく自分に思いを寄せているらしいお蓮様――さては、国の兄……いまだに行方の知れないこけ猿の茶壺のことなど、戞々(かつかつ)と鳴る馬の一足ごとに、源三郎の想念(おもい)は、際限もなく伸びひろがってゆく。
「此馬(こやつ)に一汗かかせてくれよう」
源三郎は大声に、
「つづけっ!」
背後(うしろ)をふりむいて叫びながら、思いきり一鞭(ひとむち)くれた。
馬は、長堤に呻りをたてて、土を掻い込むように走り出した。玄心斎、門之丞、谷大八の三人も、おくれじと馬脚を入り乱れさせて、若殿のあとを追う。
木母寺(もっぽじ)には梅若塚(うめわかづか)、長明寺(ちょうみょうじ)門前の桜餅、三囲神社(みめぐりじんじゃ)、今は、秋葉(あきば)神社の火のような紅葉だ。白鬚(しらひげ)、牛頭天殿(ごずてんでん)、鯉(こい)、白魚(しらうお)……名物ずくめのこの向島のあたりは、数寄者(すきしゃ)、通人(つうじん)の別荘でいっぱいだ。庵(あん)とか、亭(てい)とか、楼(ろう)とか風流な名をつけた豪商の寮や、料理屋が、こんもりした樹立ちのなかに、洒落(しゃれ)た屋根を見せている。
源三郎の視野のすみを、それらの景色が、一抹の墨絵のように、さっとうしろへ流れすぎる。
ぽつりと、額(ひたい)を打つ水粒。
「雨だな……」
「若ッ! いったいどちらまで?」
玄心斎が、息をはずませて追いついてきた。
砂煙を立てて、馬の鼻面を源三郎と並べながら、
「どこまでいらっしゃるおつもりで――もうよいかげん、ひっかえされては」
玄心斎の白髪に、落ち葉が一枚引っかかっている。
三
松平蔵之丞様(まつだいらくらのじょうさま)のお屋敷と、須田村(すだむら)の間をぬけて、関屋(せきや)の里まで行き着いた主従四人は、綾瀬川(あやせがわ)の橋のたもとにたちどまって、
「ハ、ハ、張り子の虎ではない。雨がなんだ、濡れたとて、破れはせぬぞ」
と、どもる源三郎をとりまいて、今はもう、しとどに横顔を打つ斜めの雨に、ほおを預けながら、
「しかし、この雨の中を、どこまでお走らせになっても、何もおもしろいことはござりますまい。お早々と御帰還のほど、願わしゅう存じまする」
玄心斎がしきりに帰りを促すそばから、谷大八もなんとなく胸騒ぎをおぼえて、
「これから先は、人家もござりませぬ。風流……も、ことによりけりで、この大雨のなかを――」
止められると、理由(わけ)もなく進みたくなるのが、若殿育ちの源三郎の常で、彼は無言のまま、いきなり馬首を東南に向け、小川に沿って走らせ出した。
いいかげんそこらまで行ったら、このすこし先の道が、水戸街道(みとかいどう)と出会うあたりから、もとへ引っ返すつもり……。
菖蒲(しょうぶ)で名高い堀切(ほりきり)も、今は時候(じこう)はずれ。
若宮八幡(わかみやはちまん)の森を右手に見て、ぐっと行きつくすと、掘割(ほりわり)のような川が、十文字に出会って……。
右、市川(いちかわ)。
左、松戸(まつど)――。
肩をぐっしょり濡らした門之丞が、追いついた馬上から、大声に、
「思い出しました……」
と、やにわに言った。
「お蓮様が、いま本郷の道場においでにならぬことは、殿をはじめ、玄心斎殿、大八殿も、ごぞんじでござろうな」
そう言って門之丞は、何かすばらしい計画を思いついたように、馬をとめた源三郎と、安積玄心斎、谷大八の三人の顔を見まわす。
雨のなかで、湯気をあげる馬が四頭かたまり、馬上の四人の侍が、何やら談合しているのですから、枯れ草をせおった近所の百姓が、こわそうに道をよけて行く。
道が行きどまりになったので、いやでも引っ返さなければならないかと、業腹(ごうはら)でならなかった伊賀の暴れん坊は、この門之丞の一言に、たちまち眼をきらめかして、
「うむ、そう言えば、どこかの寮とやらへ出療治(でりょうじ)にまいっておるとか、ちらと聞いたが……」
「ナニ、療治と申しても、何も病気だというわけではござりませぬ。表面は保養ということにいたして、またかの峰丹波とトチ狂いかたがた、われわれに対する今後の対策を凝(こ)らしているものと察しられますが――ところで、わたしは、道場の婢(おんな)どもが噂をしているのを、ちょっと聞きましたので。なんでもお蓮と丹波は、この先の渋江村(しぶえむら)とやらにまいっておるとのこと」
門之丞は言葉をくぎって、じっと源三郎の顔色をうかがった。
玄心斎と大八は、門之丞め、悪い時につまらないことを言いだしたと、にがりきって黙っている。
思い合わせてみると、きょうこの向島方面へ遠乗りにでかけようと言いだしたのも、この門之丞。それから、制止する玄心斎を無視して、それとなく巧みにここまで源三郎をみちびいてきたのも、門之丞。
四
仰向いて笑った門之丞の顔に、大粒の雨が……。
「彼奴(きゃつ)ら、われわれとの根(こん)くらべに負け、押し出されるがごとく一時道場をあけて、かような片田舎へ逃げこんだものに相違ござらぬが、もとより、対策がたちしだい、いついかなる謀計をもって道場へ引っ返してまいるやもはかりしれませぬ。今ごろは、かの女狐(めぎつね)と男狐(おぎつね)、知る人もなしと額をあつめて、謀(はかりごと)の真最中でござろう。そこへ乗りこんで、驚く顔を見てやるのも一興(きょう)……」
そそのかすような門之丞の言葉に、思慮の深い玄心斎は眉をひそめ、
「門之丞は、どうしてさようなことを存じておるのかな。同じ屋敷内にあっても往き来もせぬ、いわば敵方の動静……それは、わしも、丹波とお蓮様がちかごろ道場におらぬらしいことは、聞き知っておったが、この近くの寮に出向いておるなどとは、夢にも知らなんだ」
「いや、わたしもはじめてで」
と、谷大八が横あいから、いぶかしげな眼顔。じつは、二人とも知っていたんです、玄心斎も、大八も。
お蓮様と丹波が、腹心の者十数名を引き連れて、近頃、この向島を遠く出はずれた渋江村(しぶえむら)の寮(りょう)に、それとなく身をひそめて何事か画策していることを。
それも、この五、六日のことで。
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