丹下左膳
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著者名:林不忘 

       三

 越前守と、官を賜(たまわ)っていても、多く、旗本などがお役付きになるのですから、殿中における町奉行の位置なんてものは、低いものだった。
 今……南町奉行大岡越前守忠相、踏みもしない羽織の裾を踏んだと、愚楽老人に言いがかりをつけられて、そのふくよかな顔に困(こん)じはてた色を見せ、
「いや、これはとんでもない粗相を――平に御容赦にあずかりたい」
 弁解はいたしません。踏みもしないのに、しきりにあやまっている。
 上様以外、お城に怖いもののない愚楽老人は、ますます亀背の肩をいからせて、つめよりながら、
「そういえば、貴殿は大岡殿であったな。不浄役人に、この羽織をけがされたとあっては、愚楽、めったに引きさがるわけにはゆき申さぬ」
 かさにかかっての無理難題……忠相を案内して来たお坊主は、かかりあいになるのを恐れて、おろおろして逃げてしまう。
 愚楽の声が高いから、人々は何事かと、眼をそばだてていくのです。
 松のお廊下は、千代田城中での主要な交通路の一つ。
 書類をかかえて、足ばやに通りすぎるのは、御書院番の若侍。
 文箱(ふばこ)をささげ、擦(す)り足を早めて来るのは、奥と表の連絡係、お納戸役付きの御用人でしょう。退出する裃(かみしも)と、出仕の裃とが、肩をかわして挨拶してすぎる。
 いわば、まあ、交通整理があってもいいくらいの、人通りのお廊下だ。
 その真中で、南のお奉行大岡様をつかまえて、愚楽老人が、かれ独特のたんかをきっているんですから、たちまち衆目の的になって、
「またお羽織が、横車を押しているぞ」
「ぶらさがられておるのは、大岡殿じゃ。早くあやまってしまえばよいのに」
 それは、言うまでもないので、大岡越前、さっきからこんなに、口をすっぱくして詫びているんですが、愚楽老人、いっかな退(ひ)かない、
「この年寄りは胸をさするにしても、お羽織がうんと承知せぬわい」
 無礼御免の大声をあげた愚楽は、
「こっちへござれ! 篤(とく)と言い訳を聞こう」
 そう、もう一つ聞こえよがしにどなっておいて、ぐいと大岡様の袖を掴むなり、そばの小部屋へはいっていく。
 大岡越前守忠相は、泰然たる顔つきです。愚楽老人に袖をとられたまま、眉一つ動かさずに、その控えのお座敷へついて行きましたが……ピシャリ、境の襖をたてきった愚楽、にわかに別人のごとき声をひそめ、
「ただいまは、とんだ御無礼を――ま、ああでもいたさねば、尊公と自然に、この密談に入るわけにはまいりませなんだので」
 大岡様は、事務的です。
「いや、それはわかっております。して、このたびの御用というのは、どういう……?」
「例の壺の一件ですがナ」
 と、愚楽老人、神屏風を作って伸びあがるとともに、御奉行の耳へ、何事かささやきはじめた。

   うるさいねえ


       一

「いかがいたしたものでござりましょう」
 というのは、峰丹波がこのごろ、日に何度となく口にしている言葉なので……。
 いまも、そう呟いたかれ丹波は、月光にほの白く浮かんでいるお蓮様の横顔を、じっとみつめて、
「不意をおそって斬るにしても、かの源三郎めに刃の立つ者は、当道場には一人も――」
「うるさいねえ」
 と、お蓮は、ふっと月に顔をそむけて、吐き出すように、
「ほんとに、業(ごう)が煮えるったら、ありゃアしない。弱虫ばっかりそろっていて――」
 丹波の苦笑の顔を、月に浮かれる夜烏の啼き声が、かすめる。
「当方が弱いのではござりませぬ。先方が強いので」
「同じこっちゃあないか、ばかばかしい。あの葬式の日に、不知火銭を拾って乗りこんで来て、名乗りをあげた時だって、お前達はみんな、ぽかんと感心したように、眺めていただけで、手も足も出なかったじゃないか。ほんとに、いまいましったら!」
 お蓮様の舌打ちに、合の手のように、草の葉を打つ露の音が、ポタリと……。
 それほど閑寂(しずか)。
 妻恋坂の道場の庭――その庭を行きつくした築山のかげに、小暗い木の下闇をえらんで、いま立ち話にふけっているのは、源三郎排斥の若い御後室お蓮様と、その相談役、師範代峰丹波の両人。
 あれから源三郎、ドッカとこの道場に腰をすえて、動かないんです。
 と言っても、もう萩乃と夫婦になったわけではない。ただ、一番いい奥座敷を、三間ほど占領して、源三郎はその一室に起居し、安積玄心斎、谷大八等の先生方は、源三郎を取りまいてその一廓に、勝手な暮しをしているのだ。
 同じ屋敷にいながら、司馬道場の人々とは、顔が合っても話もせず、朝晩の挨拶もかわさないありさま……一つの屋敷内に、二つの生活。
 持久戦にはいったわけだ。
 どっちかが出るか、押し出されるか――。
 こいつはよっぽど変わった光景で、お蓮様、峰丹波の一派は、源三郎を婿ともなんとも認めないばかりか、路傍の人間がかってにおしこんできたものと見ているので、われ関せず焉(えん)と、どんどん稽古もすれば、先生亡きあとの家事の始末をつけている。
 伊賀の暴れん坊の一団は。
 見事な廊下で、男の手だけで煮炊(にた)きをするやら、洗濯をして松の木にほすやら……当家の主人は、こっち側とばかり、梃子(てこ)でも動かぬ気組み。
「どうにかせねばなりませぬ。いかがいたしたものでござりましょう」
 これが毎日続いてきたんですから、丹波も悲鳴(ひめい)をあげて、これが口癖になるわけ。
「萩乃様は泣いてばかり――」
 いいかけた丹波の言葉を、お蓮様は横から奪って、
「うるさいねえ。あたしだって、泣きたくなるよ」
 と、どうやら急に、色っぽい口調……丹波が闇を透してのぞくと、お蓮様は顔をしかめて、切り髪の根に櫛を入れて、きゅっと掻いている。

       二

「おい、天野(あまの)、魚を縦に切るやつがあるか。骨などあってもかまわんから、こう横にぶった切って、たたきこんでしまえ。おうい、瀬川(せがわ)! 貴様、大根を買いに行くと言って、これは牛蒡(ごぼう)ではないか」
「豆腐(とうふ)はどうした、豆腐は?」
「飯(めし)の係は、斎田氏(さいだうじ)ではないか。こげ臭いが、斎田はどこへいった」
「斎田か。きゃつはいま、庭へ出て、燈籠を相手にお面、お小手とやりおったぞ」
 奥座敷の次の間から、廊下一面に、にわかに買いこんできた水桶(みずおけ)、七輪、皿(さら)、小鉢(こばち)……炊事道具(すいじどうぐ)をいっさいぶちまけて、泉水の水で米をとぐ。違い棚で魚を切る。毎日毎晩、この騒ぎなので――。
 自分達こそ、この屋敷の正当の権利者とばかり、かってきままの乱暴を働いている伊賀の連中、障子を破いて料理の通(かよ)い口をこしらえるやら、見事な蒔絵(まきえ)の化粧箱を、飯櫃(めしびつ)に使うやら、到らざるなき乱暴狼藉。
 その真ん中に泰然と腰をすえて、柳生源三郎、憂鬱な蒼白い顔で、がんばっているんです。
 忍耐くらべ……。
 先主司馬先生が萩乃の婿と決めただけで、公儀へお届けがすんだわけではない。源三郎は婿の気でいても、お蓮様や峰丹波は、いっこうに認めていないんですから、そこでこの居すわり戦となったわけで、間にはさまって一番困っているのは、当の萩乃だ。
 恋い慕っていたあの植木屋が、実は夫と決まっている源三郎様……と知った喜びも束(つか)の間、彼女は、柳生の一団の住んでいる奥座敷と道場の者が追いつめられている表屋敷との、ちょうど中間の自分の部屋に、あれからずっととじこもったきりで、誰にも顔を見せない。
 いつまでも、源三郎たちを、こうしておくわけにはいかない。
 そこで丹波、今夜そっとお蓮様を、この奥庭へつれだして、源三郎の処置を相談しはじめたのだが――。
「うるさいねえ」
 というのがお蓮様の一点張り。
「いったいいかがなされるおつもりで。斬り捨てることはできず、さりとて、このまま傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に――」
「フン、源三郎様に刀を向けたりすると、このあたしが承知しませんよ」
 ふとお蓮さまは、思わずほんとの心が口に出たのに、自らおどろいたようすで、とっさに笑い消し、
「むかったって、かないっこないくせに――ほほほほ、まあ、あわてないで、あたしにまかせてお置きよ」
 源三郎という名を口にする時の、お蓮様のうっとりした顔つきに、峰丹波は心配そうに、
「拙者らの手に負えぬ者を、あなたがいったい、どうなさろうというので――」
「うるさいねえ。男と女の間は、男と男のあいだとは、また違ったものさね。それにどうやら、あの源三郎は、このあたしなら、なんとかあやつれそうだからね。うるさいね。だまって見ておいでよ」
 すんなりしたお蓮様の姿が、もう、築山をまわって歩き出していた。

       三

「お嬢様、あの、萩乃様……」
 侍女の声に、萩乃は、むすめ島田の重い首を、突っぷしていた経机(きょうづくえ)からあげて、
「何よ、うるさいねえ」
「いえ、お嬢さま、毎度同じことをお耳に入れて恐れ入りますけれど、そうやって毎日とじこもって、ふさぎこんでばかりいらしっては、いまにお身体にさわりはしないかとお次の者一同、こんなに御心配申しあげているのでございますよ」
「好きなようにさせておいてくれたらいいじゃないの。うるさいねえ。どうしたらいいっていうの?」
 振り向いた萩乃の顔は、絹行燈の灯をうけて、白く冴えている。ほつれ髪が頬をなでるのを、眉をひそめて邪慳(じゃけん)に掻きあげながら、
「あたしの心は、誰もわかってくれないのだからよけいなことを言わずに、うっちゃっておいてくれたらいいじゃないの」
「またそんな情けないことをおっしゃいます。こうしておそばについております私どもに、どうしてお嬢様のお心がわからないはずがございましょう。お父様がお亡くなりになるとまもなく、人もあろうにあの乱暴者がああやってはいりこんできて昼も夜もあのまあ、割れっ返るような騒ぎ……」
 女中がだまりこむと、はるか離れた奥座敷で、伊賀の連中の騒ぐ声が手にとるように聞こえてくる。今夜も酒宴が始まったらしい――。
 ちょうど、庭の築山のかげで、お蓮様と丹波が話しこんでいる同じ時刻に、こうして女中の一人が、萩乃を慰めにその居間をのぞいたところです。
 女中が顔をしかめて、
「ほんとに、田舎者のずうずうしいのには、かないませんよ。お婿さんだなんていったって、先殿様がお決めになったばかりで、お嬢様がこんなにお嫌い遊ばしていらっしゃるのに、なんでしょう、まア、ああやってすわりこんで……そういえばお嬢さま、あの朝鮮唐津のお大切な水盤(すいばん)を、あの伊賀の山猿どもが持ち出して、まあ、なんにしていると思召す? さっきちょっと見ますと、あれをお廊下の真ん中に持ち出して、泥だらけのお芋を洗っているじゃアございませんか。あんまりくやしいから、なんとか言ってやろうと思ったんでございますけれど、あの鬼のような侍達に、じろりとにらまれましたら、総身(そうみ)がぞうっとしまして、どんどん逃げてまいりました。イエ、まあ、わたくしとしたことが、自分ながら意気地のない……ホホホホホ」
「ほんとに、うるさいねえ。あたしは頭痛がするんだから、そこでおしゃべりをしないでおくれ」
「なんと申してよいやら、おいたわしい。あんな田舎ざむらいにすわりこまれては、誰だって病気になりますでございますよ」
「いいえ、だからお前達は、ちっともあたしの気を察しておくれでないっていうのよ。いいから、あっちへ行っておくれ」
「とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――」
「うるさいねえ、ほんとに」
 萩乃は、キリキリと歯をかんでゆらりと長い袂を顔へ……。

       四

「若、あのお蓮様とやら申す女狐(めぎつね)が、お眼にかかりたいと申しておりますが……」
 と玄心斎が敷居際に手をついたとき、源三郎は、座敷の真ん中に、倒した脇息(きょうそく)を枕にして――眠ってでもいるのか、答えは、ない。
「お会いになる用はないと存じまするが、いかが取りはからいましょう」
「う、うるせえなあ」
 むっくり起きあがった源三郎、相変わらず、匕首(あいくち)のような、長い蒼白い顔に、もの言うたびに白い歯が、燭台の灯にちかちかする。
「ど、ど、どこへ来ておる」
「そこのお廊下までまいっております。強(た)って御面会を得たいという口上で……」
「自分でまいったのか」
「はい、自身できておりますが」
 ちっと考えた源三郎は、
「折(お)れたのかも知れぬ。会おう」
 起とうとするのを、玄心斎は静かにひきとめて、
「や、ちょっとお待ちを。あの峰丹波をだきこんでおりますことだけでも、かの女狐(めぎつね)は、なかなかのしたたか者ということは知れまする。こうやってわれら一同、いま文句が出るか、きょうにも苦情をもちこんでまいるか、何か申して来たら、それを機会に、この道場をこちらの手に納めてやろうと、かく連日連夜したい三昧(ざんまい)の乱暴を働いて、いわばこれでもか、これでもかと喧嘩を吹っかけておりますのに、きょうまでじっとこらえて、なんの音沙汰(さた)もなかったところは、いや、なかなかどうして、敵ながらさる者。拙者の考えでは、ことによると、先方(せんぽう)のほうが役者が一枚上ではないかと……」
「うるさい。会うのはやめいと申すのか」
「いえ、おとめはいたしませんが、いかなる策略があろうも知れませぬ故、充分ともにお気をおつけなされて……」
「女に会うに、刀はいるめえ」
 つぶやいた源三郎は、玄心斎の手を静かに振り払って、懐手(ふところで)のまま、ずいと部屋を出て行った。
 つぎの間(ま)から廊下へかけて、無礼講に立ちさわいでいた柳生の門弟達が、にわかにひっそりとなるなかを、供もつれずに廊下を立ち出た源三郎は、
「どこに?」
「はい、あちらのお廊下の角に――」
 と、とりついだ門之丞の眼くばせ。
 むっとした顔で、大股にあるいてきた源三郎を、お蓮様は、眉の剃りあとの青い顔を、ニッコリほほえませて迎えました。
「まあ、あれっきり、まだ御挨拶にも出ませんで」
 そう愛想よく言いながら、お蓮様は先に立って、その表屋敷へ通ずる長廊下を、ぶらりと歩き出す。
 ところどころに雪洞(ぼんぼり)の置いてある、うすぐらい廊下……源三郎には、ふとそれが、夢へ通ずる道のように思われたのです。
「いや、当方こそ――父上の御葬儀の節には、いろいろと御心配に預かり、かたじけのうござった」
 父上と、わざと力を入れた源三郎の言葉に、お蓮様は艶やかにふりかえって、
「源様、いつまでこうやっていらっしゃるおつもり?」
嬌然(きょうぜん)と笑った。

       五

「いや、そちらこそ、いつまでこうやって楯突くつもりかな」
 源三郎は、にこりともせずに、蹴るような足どりで、歩いて行く。
 奥座敷をすこし遠ざかると、柳生の連中の騒ぎが、罩(こ)もって聞こえるばかり……長い廊下には人影一つなく、シインとしている。
 一つの邸内には、柳生と司馬とをつなぐ桟橋(かけはし)。
「御用というは、ナ、ナ、ナ、なんでござる」
 と、源三郎がつかえるのは、相手に対して、幾分の気安さをおぼえた証拠です。
 内輪(うちわ)ではつかえるが、四角張った場合には、決してつかえない源三郎だ。
「用といって……わかっているじゃアありませんか」
 お蓮様は、急に思い出したように、片手を帯へさしこみ、身をくねらせて、ビックリするほど若やいだ媚態。
「御相談がありますの」
 斜めに源三郎を見上げた眼尻には、鉄をもとかしそうな若後家の情熱が溢れて……。
 鉄をもとかす――いわんや、若侍の心臓をや。
 というところだが。
 源三郎は、さながら、石が化石(かせき)したような平静な顔で、
「母上……」
 と、呼びなおした。
 母上――こいつは利きました。源三郎のほうでは、あくまで萩乃の婿の気。その順序からいえば、故先生の御後室お蓮様は、なるほど母上に相違(そうい)ないのだが、色恋の相手と見ている年下の男に、いきなり母上とやられちゃア、女の身として、これほどお座の醒(さ)める話はない。
 ことに今、恋愛工作の第一歩にはいりかけたやさき、お蓮様は、まるで、出鼻をピッシャリたたかれたような気がした。
 あなたはお幾歳(いくつ)でしたかしら。お年齢(とし)のことも考えていただきたい――そう言われたようにひびいて、年上のお蓮様は、ゲンナリしてしまいました。
 同時に、勃然たる怒りが渦巻いて、お蓮様は壁のような白い顔。口が皮肉にふるえてくるのを、制しも敢(あ)えず、
「母上!――まア、あなたは手きびしい方ね。あたしは、お前さんのような大きな息子を持ったおぼえはありませんよ。ほほほ、なんとかほかに呼びようはないものかしら」
 うらみを含んだまなざしを、源三郎は無視して、
「あすにも道場をお明け渡しになれば、あなただけは母上として、萩乃ともども、生涯御孝養をつくしましょう。さすれば、お身も立とうというもの。悪いことは申しませぬ」
「あたしはねえ、源様、あの丹波などにそそのかされて、お前様にこの道場をゆずるまいと、いろいろ考えたこともありましたけれど、源様というお人を見てから、あたしはすっかり変わったんですよ。今はわたしも、亡くなった先生と同じ意見で、ほんとに、あなたにこの道場を継いでもらいたいと思うんです」
 しんみりと語をきったお蓮様は、すぐ、炎のような熱い息とともに、
「でも、それには、たった一つの条件がありますの」
「条件――?」
 と、向きなおった源三郎へ、お蓮様は、顔一杯の微笑を見せて、
「お婿さまはお婿様でも、そのお婿様の相手を変えるのが、条件……」

       六

 灯のほのかな長廊下(ろうか)のまがり角だ。
 立ち話をしている源三郎と、お蓮様の影が、反対側の壁に大きく揺れている。
 源三郎は、両手をふところにおさめてそりかえるような含み笑いをしながら、
「ハテ、婿の相手が変わるとは?」
「萩乃からあたしへ」
 言いつつお蓮様は、つと手を伸ばして、源三郎の襟元へ取りすがろうとするのを、一歩退(さが)ってよけた源三郎、
「ジョ、ジョ、冗談じゃアねえ」
 ほんとにあわてたんだ。
「母上としたことが、なんと情けないことを。老先生のお墓の土が、まだかわきもせぬうちに、娘御の婿となっております拙者に、さようなけがらわしいことをおっしゃるなどとは、プッ! 見下げ果てた……」
 源三郎、懐中の右手がおどり出て、左の腰際へ走ったのは、いつものくせで、刀の柄(つか)に、手をかける心。
 無刀(むとう)なのを、瞬間忘れたほどの怒りでした。
「先生にかわって御成敗いたすところだが、まずまず堪忍……丹波とはちがい、さような手に乗る源三郎ではござらぬ」
 お蓮様は、壁にはりついて、あっけにとられた顔で、源三郎をみつめている。
 それは、言い知れない驚愕の表情であった。この自分の媚(こ)びを手もなくしりぞける男が、この世に一人でもあることを発見したおどろき。
 自信をきずつけられた憤りに、お蓮様は、総身(そうみ)をふるわせて、
「よろしい。よくも私に、恥をかかせてくれましたね。それならば今までどおり、どこまでも戦い抜きましょう。お前(まえ)はあくまでも萩乃の婿のつもり……だが、こちらでは、無態な田舎侍が、なんのゆかりもないのに押しこんで、動かぬものと見ますぞ。また根較べのやり直し――それもおもしろかろう、ホホホホホおぼえておいで」
 きっと言いきったお蓮様が、源三郎をのこして、足ばやに立ち去ろうとした時、
「源三郎様っ!」
 と泣き声とともにそこの角から転(まろ)び出たのは、裾ふみ乱した萩乃だ。
 聞いていたんです、廊下のまがり角に身をひそめて。
 侍女のさがるのを待って、源三郎恋しさのあまり、会ってどうしようという考えもなく、ふらふらと居間を立ち出でた萩乃が夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のようにこの廊下にさしかかると、壁にもつれる人影――何心なくたちどまった耳に、今までの二人の話が、すっかり聞こえてしまったので。
「どうぞ、源三郎さま、お母様のおっしゃるとおりになすって……あたくしは、どこへでもまいります。もう、もう、一人で――」
 泣きたおれようとする萩乃を、源三郎は、片手にガッシと抱きとめて、
「いかがなものでござる、母上。似合いの夫婦(めおと)で……ははははは」
 ニヤッと、はじめて、魔のようなほほえみ。
 振り返ったお蓮様は、トンと一つ、踊りのような足踏みをして、
「うるさいねえ、ほんとに。かってにするがいい」
 だが、その眼はキッと萩乃をにらんで、おそろしい嫉妬に、火のよう……。

   開(あ)けてくやしき


       一

「お手入れか。作爺さんが何をしたというんだ」
「あれはお前、ああ見えたって、押しこみ、詐(かた)り、土蔵(むすめ)破りのたいした仕事師なんだとよ」
 作爺さん、えらいことになってしまった――。
「なにを言やアがる。あの作爺さんにかぎって、そんなことのあるはずのもんじゃあねえ。でえいち乗りこんで来ている侍達(さんぴんたち)が、おれの眼じゃあ、八町堀じゃあねえとにらんだ」
「それにしても、まっぴるま長屋へ押しこんで来て、ああやって爺さんを脅かしつけているからにゃア、お役筋の絡んでいる者に相違ねえ」
「いや、待て。わからねえぞ。なんだか知らねえが、預(あず)かっている物を出せとか言って、大声をあげているぜ」
 とんがり長屋の入口は、わいわいいう人集(だか)り……。
 残ったにしては根強い暑さかな――洒落(しゃれ)たことを言ったもので、まったく、江戸の残暑ときちゃア、読んで字のごとく残った暑さにしては、根が深い。
 いつまでも、つづく、
 今日も朝から、赭銅色(しゃくどういろ)の太陽がカッと照りつけて、人の心を吸いこみそうな青空――。
 街には、一面に土陽炎(つちかげろう)がもえて、さなきだにごみごみしたとんがり長屋のあたりは、脂汗のにじむ暑さです。
 その汗を、額いっぱいに浮きださせて、
「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」
 わめきたっている侍がある。
 長屋の真ん中、作爺さんの住居です。
 さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児(ふたご)を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。
 一間(ま)っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。
 昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。
 狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。
 お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円(つぶ)らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています……。
 作爺さんは、すこしもあわてない。
 押入れの前にぴったりすわって、
「へい、ある筋(すじ)より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預(あず)かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」
「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」
「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手応(ごた)えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」
「だまれ。だまれ、汝(なんじ)のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」

       二

 あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行(びこう)して来た者があったと見えて――。
 そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?
 林念寺前(りんねんじまえ)の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?
 それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?
 あるいは……。
 その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。
 ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か……?
 こうなると、さっぱりわかりません。
 だいたい、あのつづみの与吉なる兄(にい)さんは、あっちへべったり、こっちへベッタリ、その場その場の風向きで、得になるほうにつくのだから、はたして誰がこの与吉の報告を買いこんで、壺の木箱がここにきていることを知り出したのか、そいつはちょっと見当がつかない。
 今や、四方八方から、壺をうかがっているありさま。
 まだ、このほかに、巷の豪、蒲生泰軒先生まで、これは何かしら自分一人の考えから、ああして壺をつけまわしているらしい。
 年長(としかさ)らしい赭(あか)ら顔の侍が、とうとうしびれをきらして、さけびをあげました。
「親爺(おやじ)! どけイ! その押入れをさがさせろっ」
「いや、お言葉ではござりますが、手前も、引き受けてお預(あず)かりしたものを、そう安々と――」
「何をぬかす。いたい目を見ぬうちに、おとなしくわきへ寄ったがよいぞ」
「しかし、私はあくまでも、内容(なかみ)は壺ではねえと存じますので」
「まあ、よい。壺でなくて、何がはいっておる? うん? 開けて見れば、わかることだ」
「お侍様、りっぱな旦那方が、四人もおそろいになって、もし箱の中身が壺でございません時には、いったいどう遊ばすおつもりで――?」
「うむ、それはおもしろい。賭けをしようというのじゃな。さようさ、その箱に壺がはいっておらん場合には……」
 と、ひとりが他の三人の顔を見ますと、三人は一時にうなずいて、
「そのときは、やむを得ん。拙者らの身分を明かすといたそう。親爺、それでどうじゃ、不服か」
「なるほど。あなた方のおみこみがはずれたら、御身分をおあかしくださるか。いや、結構でござります」
「待て、待て。そこで、もし壺がはいっておった場合には、貴様、いかがいたす」
「この白髪首を……と、申し上げたいところでござりますが、こんな首に御用はござりますまい。なんなりと――」
「よし、それなる娘を申し受けるといたそう。子供のことじゃ、連れていってどうしようとは言わぬ。屋敷にでも召し使うが、そのかわり、おやじ、生涯会われぬぞ」
「ようがす」
 と、うなずいた作爺さん、さっと押入れをあけて鬱金(うこん)の風呂敷に包んだ例の茶壺の木箱をとりだし、四人の前におきました。
「さ! お開けなすって」

       三

 四人のうちのひとり、小膝を突いて、袖をたくしあげた。
「世話をやかせた壺だ……」
「これさえ手に入れれば、こっちの勝ちだテ」
 他の三人をはじめ、作爺さんの手が、ふろしきの結び目をとく手に、集中した。
 お美夜ちゃんも、隅のほうから、伸びあがって見ている。
 家の中が静かになったので、長屋の連中も一人ふたり、路地をはいって来て、おっかなビックリの顔が戸口にのぞいています。
 バラリ、ふろしきがほどける。現われたのは、黒ずんだ桐の木箱で、十字に真田紐(さなだひも)がかかっている。
 その紐をとき、ふたをとる――中にもう一つ、布(きれ)をかぶっているその布をのぞくと、
「ヤヤッ! こ、これはなんだ……!」
 四人はいっしょに、驚愕のさけびをあげた。
 石だ!――手ごろの大きさの石、左膳の小屋のそばにころがっていた、河原の石なんです。
 ウウム! と唸った四人、眼をこすって、その石をみつめました。
 しかも。
 水で洗われて円くなっている石の表面に、墨痕あざやかに、字が書いてある――。
 虚々実々(きょきょじつじつ)……と、大きく読める。
 下に、小さく、いずれをまことと白真弓……とあるんです。
 あの丹下左膳が、チョビ安にこの壺を持たして、ここ作爺さんのもとへ預(あず)けによこした時、左膳も相当(そうとう)なもので、どこからか同じような箱と風呂敷を見つけてきて、それは橋下の自分の小屋へ置くことにしたと言いましたが、さては、かんじんのこけ猿の茶壺は、そっちの箱に入っていて、いまだに左膳の掘立て小屋にあるとみえる。
 囮(おとり)につかわれたチョビ安――さてこそ、人眼につきやすい、あのおとなびた武士の扮装で、真っ昼間、壺の箱を抱えて小屋を出たわけ。
 じぶんの小屋から、壺の箱らしいものが出れば、必ず、なに者かがあとをつけるに相違ないと、左膳はにらんでいた。
 まさに、そのとおり……おまけに、こどものくせに、いっぱしの侍の風(ふう)をした異装だから、まるでチンドン屋みたいなもので、あの日あのチョビ安が、与吉にとって絶好の尾行の的となったのは、当然で。
 それがまた、左膳のねらいどころ。
 開けてくやしき玉手箱――この四人のびっくりぎょうてんも、左膳のおもわくどおりであります。
 石のおもてに、左膳が左腕をふるって認めた文字……虚々実々、いずれをまことと白真弓――この揶揄(やゆ)と皮肉と、挑戦をこめた冷い字を、ジッと見つめていた四人は、いっせいに顔をあげて、
「やられたナ、見事に」
「ウム。すると、壺はまだ、例の乞食小屋に――」
「むろん、あるにきまっておる!」
 作爺さんを無視して、四人バタバタと家を駈(か)け出ようとするから、こんどは、作爺さんが承知しません。
「ちょっとお待ちを……それでは約束がちがいます」
 と呼びとめました。

   引越蕎麦(ひっこしそば)


       一

 お約束が違いはしませんか……と、引きとめられた四人の侍は、一時に、作爺さんを振りかえって、威丈高(いたけだか)――。
「約束? いかなる約束をいたしたか、身どもはすこしもおぼえておらんぞ」
 作爺さんは、畳に片手を突いて、にじりよった。
 こんな裏長屋に住む、羅宇(らう)なおしのお爺さんとは思えない人品骨柄が、不意に、その作爺さんの物腰ようすに現われて、とんがり長屋の作爺さんとは世を忍ぶ仮りの名、実は……と言いたい閃きが、なにやらパッと、その開きなおった作爺さんの身辺に燃えあがって、四人は思わず、歩きかかっていた歩をとめて見なおしました。
「これは、両刀をお番(つが)えになるお武家様のお言葉とはおぼえませぬ。その箱をあける前に、中身が壺であったら、この私の小女郎をお連れなさる、そのかわり、もし壺がはいっておらなんだ節は、お四人様(よったりさま)のお身分をおあかしくださると、あれほどかたい口約束ではござりませなんだか」
 作爺さんの枯れ木のような顔に、さっと血の色がのぼって。
「このとおり、箱のなかみは石ではござりませぬか。さ、御身分をおあかしください」
 詰めよられた四人は、ちょっと当惑の顔を見あわせたが、箱をあけた頭(かしら)だった一人が、のしかかるようににらみおろし、
「これ、これ、約束とは対等の人間の間で申すことだ。武士と武士、町人と町人のあいだなら、重んずべき約束もなりたとうが、貴様のような、乞食同然のやつと、武士の拙者等と、約束もへちまもあるものか」
 くるしまぎれに、理外の理屈をあみだして、またもや家を出かかりますから、作爺さんは別人のように、声を荒らげ、
「何を申さるる! 自らの言は食(は)むさえあるに、その得手かってのいい分(ぶん)……」
 いいかける作爺さんを、じっと見ていた一人は、
「これ、その方(ほう)は根ッからの長屋住まいではないナ。ただいまの其方(そち)の言動、曰くある者と見た。何者の変身か、その方こそ名を名乗れ」
 その尾について、もう一人が、
「そうだ。拙者らの身分、身分と申して、この親爺(おやじ)こそ、ただものではあるまい。おいっ、身もとを明かせ。明かさぬかっ」
 作爺さんは、はっとわれに返ったようで、
「と、とんでもございません。私はただの羅宇(らう)なおしの作爺(さくじい)で、お歴々の前に、身分を明かすなんのと、そんな――」
「貴様、この箱に壺がはいっておらんことを、前にあけて見て知っておっただろう」
「いえ、あけては見ませぬ。が、手に持った重みから、なんと申しましょうか、手応えが、茶壺ではないと感じておりましたので」
「手に持っただけで、それだけのことがわかるとすれば、いよいよ貴様は、何者かの変名――」
「問答無益だ!」
 一人がさけんだ。
「はじめから約束が違う以上、当方こそ約束どおりに、この娘を引っさらって行かねばならぬ」
 と、いきなり、隅にふるえているお美夜ちゃんを横だきにかかえこんで、追いすがる作爺さんをしりめにかけ、そろって家を出ようとするとたん、ぬっと戸口をふさいで立ったのは、房々と肩にたらした合総(がっそう)、松の木のような腕っ節にぶらりとさげたのは、一升入りの貧乏徳利で……。

       二

 泣きさけぶお美夜ちゃんを片手にかかえた一人、それにつづく三人が、掌(て)を合わせて追いすがる作爺さんを一喝して、その長屋を立ち出でようとしているところへ――。
 ずいと土間へはいりこんできたのは、あの、風来坊の蒲生泰軒先生。
 元来が風のような先生で、空の下、地の上ならば、どこでも自分の家と心得ているのですから、到るところへふらっと現われるのは、当然で。
 いつでも、どこにでもいるのが泰軒居士……同時に、さア用があるとなると、どこを探してもいないのが、この泰軒先生なのだ。
 いま、この通りかかった竜泉寺の横町で、長屋の前のただならない人だかりを見て、何事だろうとはいって来たのですが、
「わっはっはっは――」
 と、まず、笑いとばした泰軒は、
「めざしが四匹、年寄りと娘を相手に、えらく威張っておるな」
 尻切れ草履をぬぎ捨てて、埃だらけの足のまま、あがりこんできました。
 あっけにとられたのは四人で、思わずお美夜ちゃんを畳へおろし、
「なんだ、貴様は!」
「人に名を聞くなら、自ら先に名乗ってから、きくものだ」
「貴様ごときに、名乗る名は持たぬ」
 事面倒になりそうなので、そうお茶をにごした四人が、長居は無用と、こそこそと出て行こうとする後ろから、また、われっかえるような泰軒の笑い声がひびいて、
「名乗らんでも、おれにはちゃんとわかっているぞ。道場へ帰ったら、丹波にそう言え。長屋にあります箱は、偽物でした、とナ」
「道場? どこの道場?」
「丹波とは、何者のことか」
 と、そう四人は、口ぐちにしらをきったが、本郷の道場の者と見破られた以上、このうえどじを踏まないようにと、連れ立って足ばやに、路地(ろじ)を出ながら、
「おどろいたな。あの仁王(におう)のようなやつが、おれたちが司馬道場の者と知っているとは――」
「あいつは、そもそも何者であろう」
「虚々実々(きょきょじつじつ)、いずれをまことと白真弓(しらまゆみ)……か、うまく一ぱいくわされたぞ」
「かの与吉と申す町人、われわれにこんな恥をかかせやがって、眼にものみせてくれるぞ」
 空威張(からいば)り――肩で風を切って、とんがり長屋の路地を出てゆく。もうこうなると、長屋の連中は強気(つよき)一点ばりで、
「おう、どうでえ。八や、あの鬼みてえな乞食先生が、フラリとはいっていったら、めだか四匹逃げ出したぜ」
「おうい、おっかア、波の花を持ってきなよ。あの四人のさんぴんのうしろから、ばらばらっと撒いてやれ」
 振りかえってにらみつけると、どっと湧く笑い。四人は逃げるように、妻恋坂をさして立ち去りましたが、さて、そのあと。
 せまっくるしい作爺さんの家では、きちんとすわりなおしたお爺(じい)さんが、お美夜ちゃんをそばへひきつけて、
「どなたかは存じませぬが――」
 大胡坐(おおあぐら)の泰軒先生へ向かって、初対面の挨拶をはじめていた。

       三

「どなたかは存じませぬが――」
 と言いかけた作爺さんの言葉を、泰軒居士は、ムンズとひったくるように、
「いや、おれがどなたかは、このおれも御存じないような始末でナ……かたっくるしい挨拶は、ぬき、ぬき――」
 大声に笑われて、作爺さんは眼をパチクリ……鬚(ひげ)むくじゃらの泰軒の顔におどろいて、お美夜ちゃんは、そっと作爺さんのかげへかくれましたが。
 何を見たものか泰軒、突如、戸口へ向かって濁声(だみごえ)をはりあげたものだ。
「見世物じゃないっ! 何を見とるかっ!」
 権幕におどろいて、おもてからのぞいていた長屋の連中、
「突(すき)っ腹(ぱら)に聞くと、眼のまわりそうな声だ」
「おっそろしい人間じゃあねえか。侍ともなんとも、得体のしれぬ化け物だ」
 口々にささやきながら、溝板(どぶいた)を鳴らして逃げちっていくと、遠のく足音を聞きすました泰軒は、やおら形をあらため、
「卒爾(そつじ)ながら、おたずね申す」
 いやに他所(よそ)行きの声です。
「それなる馬の彫り物は、どなたのお作でござるかな?」
 と指さした部屋の隅には、木片に彫った小さな馬の像が、ころがっているんです。
 そばに、うすよごれた布に、大小数種の鑿(のみ)、小刀などがひろげてあり、彫った木屑がちらかっているのは、さっきあの四人が押しこんで来る前まで、作爺さん、この仕事をしていたらしいので。
 いつかも、あのチョビ安が、突然里帰りの形でこの石ころの入った木箱を持ちこんできた時、作爺さんは部屋じゅう木屑だらけにして、何か鉋(かんな)をかけていましたが、あのときもひどくあわてて、その鉋屑(かんなくず)や木片を押入れへ投げこんだように、今も、この泰軒の言葉に大いに狼狽(ろうばい)した作爺さんは、
「イエ、ナニ、お眼にとまって恐れ入りますが、これが、まあ、私の道楽なので、商売に出ない日は、こうして木片(こっぱ)を刻んでは、おもちゃにしております。お恥ずかしい次第で」
 と聞いた泰軒、何を思ったかやにわに手を伸ばし、その小さな馬の像を拾いあげるや、きちんとすわりなおして、しばし黙々とながめていたが、ややあって、
「ウーム! 御貴殿のお作でござるか。さぞかし、ひそかに会心のお作……」
 うなりだしてしまった。
 その、キラリとあげた泰軒の眼を受けて、こんどは作爺さんが、おそろしく驚いたようす。
「や! それを傑作とごらんになるところを見ると――」
 じっと泰軒をみつめて、作爺さん、小首をひねり、
「ウーム……」
 いっしょにうなっている。
 まったく、現代(いま)で申せば、民芸とでもいうのでしょうか。稚拙(ちせつ)がおもしろみの木彫りとしか、素人(しろうと)の眼にうつらない。
 と! いきなり泰軒が、大声をはりあげて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内(かいだい)随一の名ある作阿弥殿(さくあみどの)――」
 叫ぶように言って、作爺さんの顔を、穴のあくほど……。

       四

 作爺さんの驚きは、言語に絶した。
 しばらくは、口もきけなかったが、やがてのことに、深いためいきとともに、
「どうしてそれを!……かく言う拙者を作阿弥(さくあみ)と看破さるるとは、貴殿は、容易ならざる眼力の持主――」
「なんの、なんの! ただ、ごらんのとおり雨にうたれ、風に追われて、雲の下を住居(すまい)といたす者、チラリホラリと、何やかや、この耳に聞きこんでおりますだけのこと。当時日本に二人とない彫刻の名工に、作阿弥という御仁(ごじん)があったが、いつからともなく遁世(とんせい)なされて、そのもっとも得意とする馬の木彫りも、もはや見られずなったとは、ま、誰でも知っておるところで……」
 作爺さんは、仮装を見破られた人のように、ゲッソリしょげこんでしまったが。
 事実、このとんがり長屋の住人、羅宇(らう)なおしの作爺とは、世を忌み嫌ってのいつわりの姿で、以前は加州金沢の藩士だったのが、彫刻にいそしんで両刀を捨て、江戸に出て工人の群れに入り、ことに、馬の木彫(もくちょう)に古今無双(ここんむそう)の名を得て、馬の作阿弥(さくあみ)か、作阿弥(さくあみ)の馬かとうたわれた名匠。
「ふうむ。この小さな馬が、いまにも土煙を立て、鬣(たてがみ)を振って、走り出しそうに見えるテ」
 ほれぼれと、長いことその馬の彫り物を、手に眺めていた泰軒は、
「して、その作阿弥殿(さくあみどの)がいかなる仔細にて、この陋巷に、この困窮の御境涯――」
 問われたときに、作阿弥は暗然(あんぜん)と腕をこまぬき、
「高潔の士とお見受け申した。お話し申そう」
 語り出したところでは……。
 かれには、たった一人の娘があったが、作阿弥の弟子の、将来ある工人を婿にえらび、一、二年ほど夫婦となって、このお美夜ちゃんを産んだのち、その良人(おっと)が惜しまれる腕を残して早世(そうせい)するとともに、子供だいじに後家をたてとおすべきだと、涙とともに一心に説いた父、作阿弥の言をしりぞけて、自らすすんで某屋敷へ腰元にあがり、色仕掛(いろじかけ)で主人に取り入り、後には、そこの後添(のちぞ)えとまでなおったが、近ごろ噂(うわさ)にきけば、その老夫もまた世を去って、ふたたび未亡人の身の上だというが……それやこれやで、おもしろからぬ世を捨てた父作阿弥と、ひとり娘のお美夜ちゃんとの隠れすむこのとんがり長屋へは、もう何年にも、足一つ向けたことのない気の強さ――。
 作阿弥と、蒲生泰軒とは、初対面から二人の間に強くひき合い、結びつける、眼に見えない糸があるかのよう……まもなく二人は、十年の知己のごとく、肝胆相照らし、この、疑問のこけ猿の茶壺を中心に、いま、江戸の奥底に大いなる渦を捲き起こそうとしている事件について、夜のふけるまで語りあったが――
 いずくを家とも定めぬ泰軒、どこにいてもさしつかえない身分なので、この日から彼、乞われるままにこのとんがり長屋の作阿弥の家へ、ころげこむことになったのです。
 えらい居候(いそうろう)……とんがり長屋に、もう一つ名物がふえた。
 その夜、泰軒は、お美夜ちゃんの手をひいてニコニコ顔で、長屋じゅうの熊公、八公のもとへ、引越蕎麦(ひっこしそば)をくばってあるきました。

   子(こ)を取(と)ろ子取(こと)ろ


       一

 先(せん)の業(わざ)とは、相手が行動を起こそうとするその鼻に、一秒先立って、こっちからほどこす業(わざ)。
 後(ご)の先の業とは……?
 相手が動きに移ろうとし、または移りかけた時に、当方からほどこす業(わざ)で、先方の出頭(でがしら)を撃つ出会面(であいめん)、出小手(でこて)、押(おさ)え籠手(こて)、払(はら)い籠手(こて)。
 先(せん)々の先の業――とは。
 先の業のもう一つさきで、相手が業をしかけようとするところを、こっちが先を越して動こうとする、そのもう一つさきを、相手のほうから業をほどこす、これが先々の先の業。
 竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない。真夜中近く、両側の家がピッタリ大戸をおろした、浅草材木町(あさくさざいもくちょう)の通りを、駒形のほうへと、追いつ追われつして行く黒影、五つ、六つ……七つ。
 近くの空まで、雨がきているらしい。闇黒(やみ)に、何やらシットリとしめった空気が流れている。鎬(しのぎ)から棟(むね)、目釘(めくぎ)へかけて、生温かい血でぬらぬらする大刀濡れ燕を、枯れ細った左手に構えた左膳は、
「くせの悪いこの濡れ燕の斬っ尖(さき)どこへとんでいくか知れねえから、てめえらたちっ、そのつもりでこいよっ」
 しゃがれた声で、ひくく叫んだ。
 髑髏(どくろ)の紋が、夜目にもハッキリ浮かんで、帯のゆるんだ裾前から、女物の派手な下着をだらりと見せた丹下左膳、足(そく)を割って、何かを踏まえているのは、これこそは、こけ猿の茶壺に相違ない風呂敷の木箱。
 そしてその足もとには、例のチョビ安がうずくまっているので。
 したい寄る影は、みな一様に黒の覆面に、黒装束。どこの何者ともわからないが、いっせいに剣輪をちぢめて、ヒタヒタヒタと進んでいく群れのなかに、
「よいかっ。一度にかかれっ! 壺はとにかく、小僧をおさえろ、小僧を!」
 との声がするのは、たしかに、この壺捜索のために伊賀から江戸入りしている、柳生の隊長高大之進だ。
 一気に壺を奪取しようと、月のない今宵を幸い、橋下の左膳の小屋へ斬り込みをかけたのだが、早くも二、三人にその濡れ燕を走らせた丹下左膳は、チョビ安に箱をだかせて、ともにこの材木町(ざいもくちょう)の通りを、いま、ここまで落ちのびて来たのだけれど。
 払っても、抗(むか)っても、すがりよってくる黒法師のむれに、二人はまさに、おいつめられた形で。
 左膳、こうして壺を大道の真ん中に置かせ、それをガッシと片あし掛けて、チョビ安を後ろにかばい、ここにしいた背水の陣だ。
 この機会を逃がしては……と!
 気負いたった伊賀勢、一人が駈けぬけて、真ッ向から左膳に激突するつもり!
 だが一人ふたりの相手よりも、大勢を向うにまわしてこそ、刃妖の刃妖たるところを発揮する丹下左膳。
 ニヤリと、笑った。
「安っ! 離れるなよっ」
 左足を一歩引いて空を打たせ、敵の崩れるところを踏みこんで、剣尖からおろす唐竹割り、剣法でいう抜き面の一手です――左膳の体勢は、すこしもゆるがず、つぎの瞬間、また水のごとき静けさに返っています。

       二

 江戸のこどもの遊びに、「子を取ろ子とろ」というのがあった。これは明治のころまでありました。子供が多勢、帯につかまって一列になり、鬼になった子が前へ出てその列の最後の子をつかまえようとする。
「子を取ろ子とろ」
 と、鬼になった子がさけぶ。
 すると、一列縦隊のこどもたちが、一番おしまいの子を守りながら、
「さあ、取ってみなさいな」
 と大声をあわせて、呼ばわるのだった。
 かなり古い遊戯で、当時は子供達の間に、非常に流行(はや)ったもの。仏教のほうからきた遊びだといいますが、なんでも地獄の獄卒が、こどもたちをつれて通りかかると、戒問樹(かいもんじゅ)という木の下に、地蔵菩薩が待っていて、お地蔵さんは子供の神様で情け深い方ですから、こどもたちのために哀れみを乞(こ)います。獄卒はこどもを渡すまいとする。お地蔵さんは取ろうとする。その、お地蔵様と獄卒との間に、取ろう取られまいとする争いがもちあがって、これが「子を取ろ子とろ」の遊戯になったのだという。
 とにかく……。
 この「子を取ろ子とろ」が、この深夜、材木町(ざいもくちょう)の通(とお)りに斬りむすぶ剣林のなかに、始まった。
「小僧をつかまえてしまえっ」
 高大之進は、大声にわめきながら疾駆して、
「壺はかまうな。子供をつかまえろっ」
 チョビ安をひっとらえて、即座の人質にしようというのだ。
 取ろうとする伊賀の一団が、お地蔵様か。
 渡すまいとする丹下左膳が、地獄の獄卒か――。
「安ッ! すきを見て逃げろヨッ!」
 左膳が、ちょっと後ろを振りむいて、チョビ安にささやいた……これが敵には、乗ずべきすきと見えたものか、かたわらの天水桶(てんすいおけ)のかげにひそんでいた黒影一つ、やにわに、刀とからだがひとつになって、飛びこんできた。
 左膳としては。
 足に踏まえているこけ猿の壺にも、気をくばらねばならぬし、うしろのチョビ安にも、心をとられる。
 左膳の濡れ燕を、頭上斜めにかざして、ガッシリと受けとめるが早いか、二本の剣は、さながら白蛇のようにもつれ絡んで……鍔競(つばぜ)り合いです。
 歯をかみしめた左膳の顔が、闇に大きく浮かびでる。
 鍔ぜり合いは、動(どう)の極致(きょくち)の静(せい)……こうなると、思いきり敵に押しをくれて、刀を返しざま、身を低めて右胴を斬りかえすか。
 または……。
 こっちが押せば向うも押し返す、この押し返して来たところを力を抜き、敵の手の伸びきったのに乗じて、やはり刀をかえして右胴を頂戴(ちょうだい)するか。
 二つに一つ。
 だが、鍔競りあいの胴(どう)打ちは、大して力のきかぬものとされているから、どう動くにしても、最大の冒険です。
 先にうごいたほうが、命をとられる。左膳も、その覆面の敵も、ギリッと鍔をかみあわせたまま、まるで二本の柱のように、突ったっている。とりまく一同も、柄を持つ手に汗を握って、声もありません。

       三

 真夜中の斬(き)りあいに驚いて、両側の商家の二階窓が、かすかに開き、黄色い灯の条(すじ)のなかに、いくつも顔が並んで見下ろしている。
 すると、ふしぎなことが起こったのです。
 左膳が、スーッと刀をおろしながら、その相手から二、三歩遠ざかった。
 それでも、その男は、刀を鍔ぜり合いの形に構えたまま、斬っ尖に天をさして、凝然と立っている。
 柱によりかかっていた人が、フワリとその柱をはなれる時のように、左膳は日常茶飯事(にちじょうさはんじ)の動作で、一間ほどその男から遠のいたのですが、黒い影は、まだガッキと腕に力をこめて、大地に根が生えたよう……。
 離れた左膳は、不意に、大切なこけ猿を相手の足もとへ置いてきたのに気がついた、またブラリと引き返して、刀を口にくわえ、それを左手に抱きあげてもとのところへ帰って……相手は作り物のように、まだ鍔競り合いの恰好のまま動かないんです。周囲の伊賀の連中は、このありさまに何事が起こったのかと、あっけにとられて眺めているばかり――。
 だが、さすが名剣手の高大之進だけは、心中に舌をまきました。
 その、刀をくわえて、ボンヤリ壺を取りにひっかえしている左膳のどこにも、一点のすきもないんです。ピンの先で突いたほども、気の破れというものがない。
 すると、ここにふたたびふしぎなことが起こったので。
 二、三間離れて、壺を左の腋(わき)の下にかかえこんだ丹下左膳が、その、まだ一人立っている黒い影へ向かって、ひだり手に刀を持ちなおし、
「やいっ、汝(われ)アもう死んでるんだぞ。手前(てめえ)の斬られたのを知らなけれア世話アねえや」
 さけんだかと思うと、その黒い影が大きく前後にゆらいで、まるで足をすくわれたように、バッタリ地に倒れました。同時に、右から左へかけてはすかいに胴がわれて、一時に土を染めて流れ出す血、臓腑(ぞうふ)……いつのまにか、ものの見事に斬られていたんです。
 もののはずみというものは、おそろしい。死んだまま立っていたまでのこと。剣の妙も、こうなるとものすごいかぎりで、斬られた本人が気がつかないくらいだから、あたりの者は、誰も知らないわけ。
 呆然としている柳生の侍達を、しりめにかけ、
「また出なおすとして、今夜はこれで、帰れ、帰れっ」
 あざけりを残した左膳、濡れ燕をさげた左の腋(わき)の下に、こけ猿をかかえて歩き出したが……。
 ハッとわれに返った高大之進をはじめ柳生の面々、こうなるとすきも機会もありはしない。一度に、渦巻きのように斬ってかかった。
 一本腕の左膳が、刀と壺を持つのだから、防ぐためには、また壺を地面におろさなければならない。チョビ安に持たせておくのは不安だから――で、左膳が、
「まだ来る気かっ、性懲(しょうこ)りもねえ」
 うめきざま、不自由な身で、刀を口に銜(くわ)えながら、左わきの下の壺を左手に持ちかえて足もとへおこうとした刹那(せつな)、ドッと襲いかかる足の下をくぐったチョビ安、逃げる気で、いきなり駈けだしたんです。
「そら、小僧を……」
 誰かがさけぶ声がした。一同は左膳を捨ててチョビ安を追いにかかったが、こま鼠(ねずみ)のようなチョビ安、白刃の下をでるが早いか、駒形の通りをまっすぐにとんで、ふいっと横町へきれこんだ。

       四

「馬鹿ア見やしたよ」
 藍微塵(あいみじん)の素袷(すあわせ)で……そのはだけたふところから、腹にまいたさらし木綿をのぞかせ、算盤(そろばん)絞りの白木綿の三尺から、スイと、煙草入れをぬきとった。
 つづみの与吉(よきち)はあぐらをかいている。
「それでさ、あるやつの小屋から、あるチョビ助のあとをつけてネ、その行った先を見とどけたと思ってくだせえ。目ざす品物が、チャンとそこへ納まったと見てとったから、一番金(かね)になるほうへ、そっと売りこんでやったのさ。そこまでアいったが姐御、先方が、いきおいこんで踏みこんでみるてえと、外見(そとみ)はそのねらっていた品物でも、中は石ころじゃアねえか。あっしは、呼びつけられの、どなられの、庭先へ引きすえておいて、すんでのことで斬るてえところを、泣いてたのんでゆるしてもらったんだが、あっしも、こんどてえこんどだけは、面目玉(めんぼくだま)を踏みつぶしやしたよ」
 司馬の道場から、与吉の報告にこおどりして、あのとんがり長屋の作爺さんのところへでかけていった峰丹波の一味、石をのぞいて帰っただけじゃア、どうにも腹の虫が納まらないから、与吉をブッタ斬ると息まいたのも当然で、思い出しただけで、与吉は身ぶるいをしています。
 市松格子(いちまつこうし)の半纏(はんてん)を、だらしなく羽織った櫛巻きお藤の顔へ、与吉のふかす煙草の煙が、フンワリからむ。
 駒形をちょっとはいった、尺取り横町は櫛巻きお藤の隠れ家だ。
 ふふんと笑ったお藤、だまって与吉から煙管(きせる)をとって、一服ふうとふきながら、
「三下(した)が、言うことがいいや。面目玉(めんぼくだま)をふみつぶしたって、お前なんざ、はじめっから、ふみつぶす面目玉がありゃアしないじゃないか。手を合わせて命乞いしたところを見たかったよ」
 カラリと煙管を投げ出して、
「ある人の小屋から、ある子供のあとをつけて、あるところへ……なんかと、あたしに聞かせてぐあいのわるい話なら、はじめからだまっているがいい。いやに気をもたせて、なんだい、おもしろくもない。お前、なにかたいへんなことを、あたしに隠しているね?」
 与吉はいったいかってなやつで、このお藤姐御の家にだって、よっぽどいるところがなくなって困らないかぎり、てんで寄りつきもしないのだ。だから、与吉がこうやってころげこんでくるのは、目下(もっか)八方ふさがりの証拠で――もっとも、相手が与の公ですから、お藤姐御はてんで歯牙(しが)にもかけていない。来れば来たかで、部屋の隅っこへごろ寝をさせてやるだけで、一つ屋根の下に泊まっていても、なんということはないんです。
 丹下左膳が、つい近くの、浅草の橋の下に小屋を結んでいることは、与吉はまだ、お藤姐御に隠してあるので。
 明かせば、いまだに左膳へ対して抱いている恋心(こいごころ)から、姐御(あねご)は、さっそく左膳のほうへ味方(みかた)をするにきまっている。それじゃア敵をふやすようなもので、こけ猿の茶壺を種に、司馬の道場へ加勢するか、あの伊賀の連中へ与(くみ)するか、どっちにしろ、ここでぼろい儲けをしようとたくらんでいる与の公にとっては、大痛事(おおいたごと)。
 で、黙っていたんだが、隠していることがあると図星をさされてみると、相手は姐御の貫禄、与吉、グウの音もでないでいる時、不意に、表の路地にバタバタとあわただしい跫音(あしおと)。
「おや、なんだろうね、いま時分」
 お藤の眉が、美しい八の字を描いて――。

       五

 ガラッ!……格子があいた。
 お藤姐御は、乱れた裾前から、水色縮緬の湯巻をこぼし――。
 与吉は、素袷(すあわせ)の膝をひっつかんで。
 二人が突ったったとたん!……飛びこんで来たんです、息をきらした一人の子供が、せまい土間へ。
 朧(おぼろ)の明りにすかし見た与の公、素頓狂(すっとんきょう)な声をあげて、
「やっ! 手前(てめえ)はいつかの小僧じゃアねえか。飛んで灯に入る夏の虫――」
 講釈場(こうしゃくば)仕込みの文句を口に、与吉、つかつかと土間へおりようとすると――。
 飛びこんで来たチョビ安は、必死の顔色だ。与吉とお藤へ向かって、かわるがわるに、小さな手をあわせたのは、かくまってくれという意味であろう。
「シイッ!」
 と、与吉へ眼くばせとともに、無言をたのんだチョビ安は、内部(なか)からしっかと格子をおさえているが、その、恐怖と狼狽にみちたようすを、お藤姐御は、両手をだらしなく帯へ突っこんで、上がり框(かまち)の柱にもたれたまま、じっと見おろしているんです。
「太え餓鬼でさあ、こん畜生は」
 と、与吉は、得たりと大声に、
「はじめこいつが、壺をさらって、突っ走りやがったばかりに……またこの間は、乙(おつ)な服装(なり)をしやがって、偽物の壺で、まんまとおいらにいっぺえくわしたのも、この餓鬼だ」
「誰かに追われているんだよ、しずかにしておやりよ」
 お藤の眼が、ギロリと与吉へはしって、

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