丹下左膳
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著者名:林不忘 

 と、おめいたのが掛け声――風間兵太郎の首が、バッサリ! 音を立てて筵にぶつかった。皮一枚で胴とつながったまんまで……。
 一瞬間、縦横に入り乱れた斬っ尖(さき)に、壁や天井代りの筵が、ズタズタに切り裂かれて、襤褸(ぼろ)のようにたれさがった。
 その破れから、左膳はヒョロリと外へ抜け出て、
「広いぞ、ここは。どこからでもこいっ!」
 白い剣身に、河原の水明りが閃(せん)々と映えて、川浪のはるかかなたに夜鳴きする都鳥と、じっと伸び青眼に微動だにしない、切れ味無二の濡れ燕と――。
 が、もう、向かってくるものはない。
 清水粂之助をはじめ、残った四、五の柳生の侍たちは、いまの風間の最期に、度胆を抜かれてしまった。
 とても、これだけの人数では手に負えない……いずれ同勢をすぐってと、怖いもの見たさに橋の上に立つ人だかりに紛れて、ひとまず立ち去ったのです。
「やりやしたね、父上」
 かたわらの草むらから、ヒョッコリ出てきたのは、チョビ安だ。大きなこけ猿の箱を、両手にしっかとかかえています。
 さむらいの子は、父(ちゃん)などというもんじゃアねえ。父上(ちちうえ)といえ……という左膳(さぜん)の命(めい)を奉じて、つけなくてもいいところへ、盛んに父上をつけるので。
 行き当たりばったりの仮りの親でも、親のないチョビ安にとっては、やたらに父を振りまわしたいのかも知れません。
「すげえ、すげえ、おいらの父上ときたら」
 チョビ安、讃嘆に眼をきらめかして、父上左膳を見あげている。

       四

 翌日は、カラッとした日本晴れ。
 風間兵太郎ら、その他の死骸は、町方のお役人が出張して、検視をする。
「深夜におよび、これは狼藉者が乱入いたしたる故、斬り捨てましたる次第……」
 という左膳の申し立てだから、役人たちはおどろいて、
「乞食小屋へ強盗がはいるとは、イヤハヤ……」
「下には下があるものでござるて」
 と言いかけたやつは、左膳の一眼に、ジロリにらまれて、だまってしまった。
 とにかく、押込みだというので死体はそのままおとりすて……風間兵太郎らは、いい面(つら)の皮です。
 内々は、伊賀の連中ということがわかっていますから、林念寺前の柳生の上屋敷へ、そっと照会があったんですが、そんな、いっぽん腕の浪人者に斬り殺されるような者が、一人ならず、ふたり、三人、剣が生命の同藩から出たとあっては、柳生一刀流の面目まるつぶれですから、高大之進が応対して、さようなものは存ぜぬ。柳生の藩中と称しておったとすれば、とんでもない偽者(にせもの)でござるから、かってに御処置あるよう――立派に言いきってしまった。
 が、とり捨てになった死骸は、ひそかに一同が引き取って、手厚く葬ってやったんです。
 そして、もうこれで壺のありかはわかったし、すでに犠牲者も出たことであるから、一日も早く、一段と力をあわせて壺を奪還せねば――と誓いを新たにして、ふるい立った。
 とともに、丹下左膳という人間の腕前が、いかにものすごいか、それが知れたのですから、それはウッカリ手出しはできないと、一同策をねり、議をこらして、機会をうかがうことになる。
 一方……。
 壺をここへ置いたのでは、危険であると見た左膳、ああしてこの日に、さっそくチョビ安に命じて、その古巣とんがり長屋の作爺さんのもとへ、こけ猿を持たして預けにやったのです。そこで、あのチョビ安の晴れの里帰りとなったというわけ。
 だが、左膳もさる者。
 その、壺を持たしてやる時に、同じような箱をどこからか求めてきて、同じようなふろしき包み、こけ猿はここにあると、見せかけて、相変わらず小屋の隅に飾っておくことを忘れなかったので。
 チョビ安が、とんがり長屋へ出て行ったあと。
「ひでえことをしやアがる」
 ブツブツつぶやいた左膳、尻(しり)はしょりをして、小屋のそとにしゃがんで、ゆうべの斬合いで破れた筵の修繕をはじめた。
 陽のカンカン照る河原……小屋はゆがみ、切られた筵は縄のようにさがって、めちゃめちゃのありさま。
 左膳がぶつくさひとりごとをいいながら、せっせと筵の壁をなおしておりますと……。
 ピュウーン!
 どこからともなく飛んで来て、眼のまえの筵に突き刺さったものがある。
 結び文をはさんだ矢……矢文(やぶみ)。

   橋(はし)の上下(うえした)


       一

 矢……といっても、ほんとの矢ではない。こどもの玩具(おもちゃ)のような、ほそい節竹のさきをとがらし、いくつにも折った紙を二つ結びにして、はさんだもの。
 そいつが、頭上をかすめて飛んで来て、つくろっている筵に、ブスッ! ちいさな音を立てて刺さったから、おどろいたのは左膳で。
「なんでえ、これあ――」
 ぐいと抜きとりながらあたりを見まわすと、河原をはじめ、町へ登りになっている低い赭土(あかつち)の小みちにも、誰ひとり、人影はありません。
「矢文とは、乙(おつ)なまねをしやアがる」
 口のなかで言いながら、左膳、その文を矢から取って、ひらいてみた。
 躍るような、肉太の大きな筆あと――りっぱな字だ。
「こけ猿の茶壺に用なし。中に封じある図面に用あり。図面に用なし。その図面の示す柳生家初代の埋めたる黄金に用あり。われ黄金に用あるにあらず。これを窮民にわかち与えんがためなり。
 すなわち、細民にほどこさんがために、いずくにか隠しある柳生の埋宝に用あり。埋宝に用あるがゆえに、その埋めある場所を記す地図に用あり。地図に用あるがゆえに、その地図を封じこめある茶壺に用あり。早々壺を渡して然るべし」
 無記名です……こう書いてある。
 じっと紙をにらんだ丹下左膳、二、三度、読みかえしました。
 はじめて知った壺の秘密――左膳はそれにおどろくとともに、もう一人新たに、なに者か別の意味でこの壺をねらっている者のあらわれたことを知って……身構えするような気もち、左膳あたりを見まわした。
 依然として、森閑とした秋の真昼だ。
 江戸のもの音が、去った夏の夕べの蚊柱(かばしら)のように、かすかに耳にこもるきり、大川の水は、銀灰色(ぎんかいしょく)に濁って、洋々と岸を洗っています。
「この矢文で見ると、柳生の先祖がどこかに大金を埋め隠し、その個処を図面に書きのこして、茶壺のなかに封じこめてあるのだな……ウーム、はじめて読めた、チョビ安とともにあの壺を預かりしより、昼夜何人となく、さまざまな風体をいたしてこの小屋をうかがう者のあるわけが!――そうか、そうだったのか、昨夜もまた……」
 左膳は、眼のまえにたれた筵に話しかけるように、大声にひとりごと。
「しかし、貧乏人にやるとかなんとか吐かしやがって、なんにするのか知れたもんじゃアねえ。貧民に施しをするなら、このおれの手でしてえものだ。こりゃアあの壺は、めったに人手にゃア渡されねえぞ」
 そう左膳が、キッと自分に言い聞かせた瞬間、あたまの上の橋の袂から、
「わっはっはっは、矢を放ちてまず遠近を定む、これすなわち事の初めなり、どうだ、驚いたか」
 という、とほうもない胴間声(どうまごえ)が……。

       二

 まず矢を放って、遠近を定む。すなわち事のはじめなり……あっけにとられた左膳、片手に矢を握って立ったまま、声のするほうを振りかえりました。
 橋の上に、人が立っている――のだが、その人たるや、ただの人間ではない。じつに異様な人物なので。
 ぼうぼうの髪を肩までたらし、ボロボロの着物は、わかめのように垂れさがって、やっと土踏まずをおおうに足る尻切れ草履をはいているのだが、丈高く、肩幅広く、腕など、隆々たる筋肉の盛りあがっているのが、その縦縞の破れ単衣(ひとえ)をとおして、眼に見えるようである。熊笹(くまざさ)のような胸毛を、河風にそよがせて、松の大木のごとく、ガッシと橋上に立った姿……思いきや、街の豪傑、蒲生泰軒(がもうたいけん)ではないか!
「オウ! 貴様は、いつぞやの乞食先生――!」
 と、思わず左膳は、一眼をきらめかして、驚異七分に懐しさ三分の叫びをあげたが、橋の上の泰軒居士は、悠々閑々(ゆうゆうかんかん)たるもので、
「ウワッハッハッハ、乞食、乞食をよぶに乞食をもってす」
 と、そらうそぶいた。
「つまり、同業じゃナ。爾後(じご)、昵懇(じっこん)に願おう」
 ケロリとしている。
 代々秩父(ちちぶ)の奥地に伝わり住む郷士の出で、豊臣の残党とかいう。それかさあらぬか、この徳川の治世に対して一大不平を蔵し、駕(が)を枉(ま)げ、辞を低うして仕官を求める諸国諸大名をことごとく袖にして、こうして、酒をくらってどこにでも寝てしまう巷の侠豪、蒲生泰軒です。
 黄金(こがね)を山と積んでも、官位を囮(おとり)にしても、釣りあげることのできない大海の大魚……いわば、まあ、幕府にとっては一つの危険人物。
 学問があるうえに、おまけに、若いころ薩南に遊んで、同地に行なわれる自源坊(じげんぼう)ひらくところの自源流(じげんりゅう)の秘義をきわめた剣腕、さすがの丹下左膳も、チョット一目(もく)おいているんです。
 その泰軒蒲生先生――見ると、相変わらず片手に貧乏徳利をブラ下げ、片手に、竹をまげて釣糸でも張ったらしい、急造(きゅうぞう)の小弓を持っている。
 今の矢文の主は、この蒲生泰軒――と知って、左膳二度ビックリ、だが、負けずに、ケロリとした顔で、
「フフン、手前(てめえ)にゃア用あねえが、てめえのその鬚(ひげ)っ面に用がある。手前のひげっ面にゃア用はねえが、その鬚(ひげ)っ面のくっついている首に少々ばかり用があるのだ。首が所望だっ……と、おらあ言いてえよ、うふふふっ」
 泰軒は、徳利といっしょに、両手をうしろにまわして、ユックリ背伸びをしました。
「化け物――」
 と、静かな声で、左膳に呼びかけた。
「なんだ」
 化け物といわれて、左膳は平気に返事をしている。
 自分から、ばけものの気(き)……。
 橋の上と下とで、変り物と化け物との、珍妙な問答はつづいてゆく。
「これ、其方(そち)ごとき者でも、生ある以上、動物の本能といたして、日一刻も長生きしたいと願うであろうナ、どうじゃ……」

       三

 生ある以上、いつまでも生きていたかろう、どうじゃ……という、禅味を帯びた泰軒のことばに、左膳はニヤッと笑って、
「なんのつもりで、そんなことをいうのか知らねえが、おらア何も、むりに生きていてえこたアねえ。生まれたついでに、生きているだけのことだ。名分(めいぶん)せえ立ちゃア、いま死んでもいいのだが、それがどうした――」
 橋の下から見あげて、そう問いかえす左膳の片眼は、秋陽を受けて異様に燃えかがやいている。
 泰軒はぐっと欄干につかまって、乗り出した。
「ウム、小気味のよいことをぬかすやつじゃナ。生きておりたいならば、壺を渡せとわしは言うのじゃ」
 痩せ細った左膳の腹が、浪を打って揺れたかと思うと、ブルルッと、寒さを感じたように身ぶるいした左膳……さっと、顔まで別人のように、すごみが走った。
 金属性の甲(かん)高い、ふしぎな笑い声が、高々と秋ぞらに吸われて――。
「なんのために皆が壺をつけまわすか知らなかったが、してみると汝(われ)も、柳生の埋宝をねらう一人か。細民にほどこしをいたすなどと、口はばったいことを看板に……イヤ、壺を渡さぬと申すのではない。渡すから腕で取れといっておるのだ」
「さようか。どうせいらぬ命というなら、それもおもしろかろう」
 しずかな微笑とともに、泰軒ははや歩き出して、
「いずれ、また会う。それまで、壺を離すなよ。天下の大名物(おおめいぶつ)こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
 片手に持っていた竹の小弓を、ポイと河へほうりこんだ泰軒、つきものの貧乏徳利をヒョイと肩にかついで、そのまま、橋上を右往左往する人馬にのまれて見えなくなった。
 あとに残った左膳は――。
 もう、筵のつくろいをつづける気にもなれない。
 ドサリ、小屋のそばの草に腰をおろして、考えこんだ……いままで生きて来た自分の一生、左膳のあたまに、めずらしく、こんなことが浮かぶのです。
 相馬中村(そうまなかむら)の藩を出て、孤剣を抱いて江戸中を彷徨(ほうこう)するようになってから、いろんなことがあったっけ……手にかけた人の数は、とてもかぞえきれない。冒(おか)した危険、直面した一身の危機も、幾度か知れないけれど、それはいったいみんななんであったか――?
 左膳が眉をひそめると、刀痕がぐっと浮きたつのだ。
 自分はいったい、故郷(くに)を出てから、なんのために刀をふるってきたのか――わからない。それが、わからなくなってしまった。
 ただ、こういうことだけは言える。じぶんはきょうの日まで、自分のことを考えなかった。その証拠には、いまこうして橋の下の小屋住い……ここで一つ、壺によって、その柳生の埋宝をさがし出し、この風来坊が一躍栄華の夢をみる――それも一生、これも一生ではないかと、剣魔左膳に、この時初めて、黄金魔(おうごんま)左膳の決心が……。

   狼(おおかみ)が衣(ころも)を


       一

 白綸子(しろりんず)のお寝まきのまま、広いお庭に南面したお居間へ、いま、ノッソリとお通りになったのは、八代吉宗公(よしむねこう)……寝起きのところで、むっと不機嫌なお顔をしてらっしゃる。
 朝の六つ半、すこしまわったところ。
 お納戸(なんど)坊主が、閉口頓首(へいこうとんしゅ)して、御寝(ぎょしん)の間のお雨戸をソロソロ繰りはじめる、そのとたんを見すまし、つまり、お坊主の手が雨戸にかかるか掛からないかに、お傍(そば)小姓がお眼覚めを申し上げるのです。
 お居間は、たたみ十二枚。上段の間で、つきあたりは金襖(きんぶすま)のはまっている違い棚、お床の間、左右とも無地の金ぶすまで、お引き手は総銀(そうぎん)に、葵(あおい)のお模様にきまっていた。
 正面の御書院づくりの京間には、夏のうち、ついこの間までは七草を描いた萌黄紗(もえぎしゃ)のお障子が立っていたが、今はもう秋ぐちなので。縁を黒漆(くろうるし)に塗った四尺のお障子が、ズラリ並んでいる。
 まことにお見事……八代さまは、ズシリ、ズシリと歩いて、紺緞子(こんどんす)二まい重ねのお褥(しとね)にすわった。
 お庭さきのうららかな日光に眼をほそめて、あーアッ、と大きな欠伸(あくび)とともに、白地に葵(あおい)の地紋のある綸子(りんず)の寝巻の袖を、二の腕までまくって、ポリポリ掻いた。
 現代(いま)ならここで、朝刊でも、金梨地(きんなしじ)か何かのほそ長い新聞入れに入れて、お前におすすめするところだが……二人のお子供小姓が、お手水(ちょうず)のお道具をささげて、すり足ではいってきた。
 さきのお小姓は、黒ぬりのお盥(たらい)を奉じている。
 あとの一人は、八寸の三宝に三種の歯みがき――塩(しお)、松脂(まつやに)、はみがきをのせて、お嗽(すす)ぎを申し入れる。
 それから、お居間からずっと離れたお湯殿へいらせられて、朝の御入浴です。
 相変わらず、垢すり旗下愚楽老人が、お待ち受けしていて、お流し申しあげる。
 ぜいたくなものです。まア、こうはいかないが、亭主関白の位とかいって、たいがいの人が、家庭で奥さんのまえでは、これに似た調子で大いにいばっているけれども、一歩省線の吊皮(つりかわ)につかまって役所なり会社なりへ出ると、社長、重役、部長、課長なんてのが威張っていて、ヘイコラしなくちゃアならない。ちょっと悲哀を感ずることもあるでしょう。ところが将軍様なんてのは、いばりっぱなしなんだから、一日でもこうなってみたら、さぞ痛快だろうと思うんで。
 やがてのことに……。
 湯からあがってきた吉宗は、平服に着かえて、居間へ帰った。
「お爪を――」
 といって、あとを追ってきた愚楽老人が、そこの九尺の畳廊下(たたみろうか)に、平伏した。手に、小さな鋏を持っている。
 いま見ると、この愚楽老人、上様拝領の葵の黒紋つきをはおっているのだが、亀背の小男だから、まるで子供がおとなの羽織を引っかけたようにしか見えない。
 吉宗はニコリともせずに、縁に足を投げ出した。
 愚楽が冴えた鋏の音を立てて、その爪の一つを切りはじめると、
「柳生は、だいぶ苦しがっておるかの?」
 御下問です。

       二

 冬は、黒ちりめん。
 夏は黒絽(くろろ)を……。
 お数寄屋(すきや)坊主は、各諸侯に接するとき、その殿様にいただいたお定紋(じょうもん)つきの羽織を着て出たもので。
 だから、下谷御徒町(したやおかちまち)の青石横町(あおいしよこちょう)に住む、お坊主頭(ぼうずがしら)の自宅(うち)なんかには、各大名の羽織が何百枚となく、きちんと箪笥に整理されていたもので、まるで羽織専門の古着屋の観、
「オイ、きょうはお城で、阿部播磨守(あべはりまのかみ)様におめどおりするのだが――」
 と出がけに言うと、細君が心得ていて、
「阿部播磨(あべはりま)さまは、糸輪入(いとわい)らずの鷹(たか)の羽(は)の御紋でしたね。ハイ、そのいの抽斗の、上から三番目のホのところですよ」
 なんかと、出してくる。
 亀井讃岐守(かめいさぬきのかみ)に会うのに、森美作守(もりみまさかのかみ)のお羽織で出ちゃア、まずいんです。
 松平能登守(まつだいらのとのかみ)は、丸に変り柏(かしわ)。
 永井信濃守(ながいしなののかみ)は、一引(ぴ)きに丸屋三ツ。
 丹下左膳は、黒地に白抜きの髑髏(しゃれこうべ)……。
 こいつアお数寄屋衆には、用事がない。
 お大名の袖の下が、唯一の目あてのお茶坊主ですから、そのお大名に会う時は、その御紋のついた羽織でないと、ぐあいがわるい。何人もの恋人からネクタイをもらってるモダンボーイが、特定の彼女とのランデブーには、その彼女のプレゼントであるネクタイをして出かける必要があるようなもの。
 同時に。
 お数寄屋坊主は、その諸侯の羽織[#「羽織」は底本では「羽繊」]のおかげで、殿中でもウンとはぶりがきいたものなんです。おれはきょうは堀備中守(ほりびっちゅうのかみ)さまのお羽織を着ている、イヤ、きょうの下拙(げせつ)の紋は、捧剣梅鉢(ほうけんうめばち)で加賀中納言様(かがちゅうなごんさま)だゾ――なんかといったあんばい。
 でも。
 その諸侯の長たる将軍家の拝領羽織(はいりょうはおり)を着ているものは、ひとりもない。
 愚楽老人はお坊主ではございませんが、終始、チャンとそのお拝領を一着におよんでいるのは、この老人たったひとりなのだ。
 お湯殿以外のところでは、つねにその羽織を着て、肩で風をきっている。もっとも、三尺そこそこだから、肩で風をきるという、颯爽(さっそう)たるようすにはまいらない。裾はひきずり、手なんかスッカリかくれて、ブクブクです。まるで狼(おおかみ)が衣を着たよう……。
 それでも、何かというと、背中の瘤(こぶ)にのっかっている大きな葵の御紋を、グイと突き出して見せると、老中でも、若年寄でも、
「へへッ!」
 とばかり、おそれ入ってしまう。
 本人は得意気で、
「虎の威(い)を借る羊じゃ」
 というのが、口癖。よく知っているんです。――上様も、だまって見て、笑っていらっしゃる。
 その、拝領のお羽織の袖をまくった愚楽老人……柳生はだいぶ弱っておるかの?
 というお問いに答えるまえに、パチン、パチンと、ふたつ三つ将軍のお爪をきりましたが、ややあって、
「埋めある黄金をとりまいて、執念三つ巴(どもえ)、いや、四つ、五つ巴を描きそうな形勢にござりまする、はい」
 と、左の足の小指へ鋏を移しながら、言上した。

   名所(めいしょ)松(まつ)の廊下(ろうか)


       一

「ふうむ」
 と、八代様は、両手を縁につき、おみ足を愚楽老人の手に預けたまま、
「柳生の財産をめぐって、騒ぎをいたしおると?――じゃが、愚楽、その黄金が埋め隠してあるというのは、たしかな事実であろうな?」
 愚楽老人は、またしばらく沈黙です。
 すんだ鋏の音が、ほがらかな朝の空気に伝わって、銀の波紋のように、さわやかにちってゆく……。
「へい、事実も事実、上様が八代将軍様で、わっしが垢すり旗下じゃというくらいの紛れもない事実にござります。じゃがな、このことを知っているのは、柳生の大年寄、一風てえお茶師と、あっしぐらいのもんで、へえ。それも、そういう金が、柳生家初代の手で、どこかの山中に埋めてあるということだけは聞いておりますものの、所在は、誰も知りません」
「誰も知らんものを、どうして掘り出す?」
「それがその、こけ猿の茶壺と申す天下の名器に、埋蔵場所を記して封じこんでありますんで。ただいまその壺をとりまいて、渦乱が起こりそうなあんばい……」
 吉宗公の眼に、興味の灯が、ぽつりとともりました。
「柳生の金なら、柳生のものじゃのに、何者がそれを横からねらいおるのか。余も、その争奪(そうだつ)に加わろうかな、あははははは」
 大声に笑った八代様は、半分冗談のような、はんぶん本気のような口調だ。
 まじめ顔の愚楽老人は、
「柳生は必死でござります。本郷の司馬道場に、居坐り婿となっております弟源三郎を、江戸まで送ってまいりました連中――これは、安積玄心斎(あさかげんしんさい)なるものを頭(かしら)としておりますが、そこへまた、国もとからも、一団の応援隊が入府(にゅうふ)いたしまして、目下江戸の町々に潜行いたしておる柳生の暴れ者は、おびただしい数でござります。それらがみな力を合わせて、いま申したこけ猿の壺をつけまわしておりますが……かんじんの壺はどこにありますのか、とんと行方が知れませぬ由――」
 愚楽の地獄耳といって、巷の出来事は、煙草屋の看板娘の情事(いろごと)から、横町の犬の喧嘩まで、そっくりこの愚楽老人へつつぬけなのだから、この、こけ猿の騒ぎにこんなに通じているのも、なんのふしぎもないけれども、まだ丹下左膳なる怪物のことは、さすがの愚楽老人も知らないようす。
「ほかに、どういう筋から壺をねらっておるのかな?」
「本郷の道場の峰丹波、および、お蓮と申す若後家の一派と――それよりも、何者かこの壺をにぎって、離さぬものがありますので……日光御造営の日は刻々近づいてまいりますし、伊賀の奴ばらは気が気でないらしく、これは大きな騒ぎになって、お膝もとを乱さねばよいがと――」
「その金がのうては、伊賀も日光にさしつかえて、柳生藩そのものが自滅しても追いつかぬであろう。名家のあとを絶やすのは、余の本意ではない」
 お縁の天井(てんじょう)を仰いで、長大息した吉宗のことばに、愚楽老人は、わが意を得たりといったふうに、にやりと微笑し、
「すると、私の手において別働隊を組織し、柳生に加勢して、壺を奪還いたしますかな?」

       二

 爪は切り終わっていました。
 八代様は、静かに立って居間(いま)へはいりながら、
「しかし、柳生のために壺を取ってやるもよいが、日光じゃとて、それほどの大金は必要あるまい。貧藩を急に富まして、その莫大な金を蔵せしめておくは、これまた不穏の因(もと)であろう」
 そそくさと羽織を引きずって二、三歩、後を慕った愚楽、ふたたびそこへ平伏するとともに、
「さあ、そこでござりまする。こちらへ壺を入手し、その壺中の書き物によって、埋宝をさがしだし、日光御修営に必要なだけを柳生に下げ戻しまして、あとはお城のお金蔵(かねぐら)へ納めましたならば、八方よきように鎮(しず)まりますことと存じますが」
 下を向いて言う愚楽の声……これは、隠密などが使った一種の含み声で、口の中で小声を発するのだけれども、奇妙に一直線に走って、数間離れた相手にまで、はっきり聞こえる。そして、それ以上遠いところや、部屋の外へなどは、絶対に洩れることのないという、独特の発音法です。
 吉宗は、もうその話は倦(あ)きたといったように、
「名案じゃ、よきにはからえ」
 つぶやくようにいったきり、だまりこんでしまった。
 お納戸役が御膳部(おたて)へ、朝飯のお風味に出かけていったのち、毒味がすんで、お膳を受け取ってお次の間まで運んでまいります。二、三人のお子供小姓やお坊主が、それを引きついで、将軍の御前へすすめる。
 入れちがいに、一礼して立ちあがった愚楽老人は、人形がお風呂敷をかぶったような恰好で、御拝領羽織をだぶだぶさせながら、大奥から、お鈴(すず)の間(ま)のお畳廊下へ出ていきました。
 なんとも珍妙な風態だけれど、いつものことだから、行き交(か)う奥(おく)女中、茶坊主、お傍御用の侍たちも、さわらぬ神に祟(たた)りなしと、知らん顔。
「ソレ、お羽織が通る……」
 というんで、誰もこの愚楽老人のことを、まともに呼ぶ者はなかった。城外では、垢すり旗本、殿中では、この、お羽織お羽織で通ったものです。
 眼引き、袖引き、ひそかに笑う者があったりすると、愚楽老人、
「御紋が見えぬか」
 と、背中のこぶを突き出して、きめつけていく。
 真青なお畳廊下。金の釘隠しがにぶく光って、杉の一枚戸に松を描いたのが、ズラリと並んでいる。これが有名な松の廊下……元禄(げんろく)の浅野(あさの)事件の現場です。
 お羽織がそこまでさがってきたとき、お坊主を案内に立てて、向うの角からまがってきた裃(かみしも)姿のりっぱな武士……象(ぞう)のような柔和な眼、下(しも)ぶくれの豊かな頬には、世の中と人間に対する深い理解と、経験の皺(しわ)が刻まれ、鬚(びん)にすこし白いものがまじって、小肥りのにがみばしったさむらい。
 愚楽老人とその侍が、ちょっと目礼をかわして、すれちがおうとしたとたん、不意に立ちどまった愚楽、
「や! これは奇怪な! なんでこのお羽織を踏まれた。いやさ、なんの遺恨ばしござって、このお羽織の裾を踏まれたか。それを聞こう、うけたまわろう!」
 と、やにわに、くってかかりました。

       三

 越前守と、官を賜(たまわ)っていても、多く、旗本などがお役付きになるのですから、殿中における町奉行の位置なんてものは、低いものだった。
 今……南町奉行大岡越前守忠相、踏みもしない羽織の裾を踏んだと、愚楽老人に言いがかりをつけられて、そのふくよかな顔に困(こん)じはてた色を見せ、
「いや、これはとんでもない粗相を――平に御容赦にあずかりたい」
 弁解はいたしません。踏みもしないのに、しきりにあやまっている。
 上様以外、お城に怖いもののない愚楽老人は、ますます亀背の肩をいからせて、つめよりながら、
「そういえば、貴殿は大岡殿であったな。不浄役人に、この羽織をけがされたとあっては、愚楽、めったに引きさがるわけにはゆき申さぬ」
 かさにかかっての無理難題……忠相を案内して来たお坊主は、かかりあいになるのを恐れて、おろおろして逃げてしまう。
 愚楽の声が高いから、人々は何事かと、眼をそばだてていくのです。
 松のお廊下は、千代田城中での主要な交通路の一つ。
 書類をかかえて、足ばやに通りすぎるのは、御書院番の若侍。
 文箱(ふばこ)をささげ、擦(す)り足を早めて来るのは、奥と表の連絡係、お納戸役付きの御用人でしょう。退出する裃(かみしも)と、出仕の裃とが、肩をかわして挨拶してすぎる。
 いわば、まあ、交通整理があってもいいくらいの、人通りのお廊下だ。
 その真中で、南のお奉行大岡様をつかまえて、愚楽老人が、かれ独特のたんかをきっているんですから、たちまち衆目の的になって、
「またお羽織が、横車を押しているぞ」
「ぶらさがられておるのは、大岡殿じゃ。早くあやまってしまえばよいのに」
 それは、言うまでもないので、大岡越前、さっきからこんなに、口をすっぱくして詫びているんですが、愚楽老人、いっかな退(ひ)かない、
「この年寄りは胸をさするにしても、お羽織がうんと承知せぬわい」
 無礼御免の大声をあげた愚楽は、
「こっちへござれ! 篤(とく)と言い訳を聞こう」
 そう、もう一つ聞こえよがしにどなっておいて、ぐいと大岡様の袖を掴むなり、そばの小部屋へはいっていく。
 大岡越前守忠相は、泰然たる顔つきです。愚楽老人に袖をとられたまま、眉一つ動かさずに、その控えのお座敷へついて行きましたが……ピシャリ、境の襖をたてきった愚楽、にわかに別人のごとき声をひそめ、
「ただいまは、とんだ御無礼を――ま、ああでもいたさねば、尊公と自然に、この密談に入るわけにはまいりませなんだので」
 大岡様は、事務的です。
「いや、それはわかっております。して、このたびの御用というのは、どういう……?」
「例の壺の一件ですがナ」
 と、愚楽老人、神屏風を作って伸びあがるとともに、御奉行の耳へ、何事かささやきはじめた。

   うるさいねえ


       一

「いかがいたしたものでござりましょう」
 というのは、峰丹波がこのごろ、日に何度となく口にしている言葉なので……。
 いまも、そう呟いたかれ丹波は、月光にほの白く浮かんでいるお蓮様の横顔を、じっとみつめて、
「不意をおそって斬るにしても、かの源三郎めに刃の立つ者は、当道場には一人も――」
「うるさいねえ」
 と、お蓮は、ふっと月に顔をそむけて、吐き出すように、
「ほんとに、業(ごう)が煮えるったら、ありゃアしない。弱虫ばっかりそろっていて――」
 丹波の苦笑の顔を、月に浮かれる夜烏の啼き声が、かすめる。
「当方が弱いのではござりませぬ。先方が強いので」
「同じこっちゃあないか、ばかばかしい。あの葬式の日に、不知火銭を拾って乗りこんで来て、名乗りをあげた時だって、お前達はみんな、ぽかんと感心したように、眺めていただけで、手も足も出なかったじゃないか。ほんとに、いまいましったら!」
 お蓮様の舌打ちに、合の手のように、草の葉を打つ露の音が、ポタリと……。
 それほど閑寂(しずか)。
 妻恋坂の道場の庭――その庭を行きつくした築山のかげに、小暗い木の下闇をえらんで、いま立ち話にふけっているのは、源三郎排斥の若い御後室お蓮様と、その相談役、師範代峰丹波の両人。
 あれから源三郎、ドッカとこの道場に腰をすえて、動かないんです。
 と言っても、もう萩乃と夫婦になったわけではない。ただ、一番いい奥座敷を、三間ほど占領して、源三郎はその一室に起居し、安積玄心斎、谷大八等の先生方は、源三郎を取りまいてその一廓に、勝手な暮しをしているのだ。
 同じ屋敷にいながら、司馬道場の人々とは、顔が合っても話もせず、朝晩の挨拶もかわさないありさま……一つの屋敷内に、二つの生活。
 持久戦にはいったわけだ。
 どっちかが出るか、押し出されるか――。
 こいつはよっぽど変わった光景で、お蓮様、峰丹波の一派は、源三郎を婿ともなんとも認めないばかりか、路傍の人間がかってにおしこんできたものと見ているので、われ関せず焉(えん)と、どんどん稽古もすれば、先生亡きあとの家事の始末をつけている。
 伊賀の暴れん坊の一団は。
 見事な廊下で、男の手だけで煮炊(にた)きをするやら、洗濯をして松の木にほすやら……当家の主人は、こっち側とばかり、梃子(てこ)でも動かぬ気組み。
「どうにかせねばなりませぬ。いかがいたしたものでござりましょう」
 これが毎日続いてきたんですから、丹波も悲鳴(ひめい)をあげて、これが口癖になるわけ。
「萩乃様は泣いてばかり――」
 いいかけた丹波の言葉を、お蓮様は横から奪って、
「うるさいねえ。あたしだって、泣きたくなるよ」
 と、どうやら急に、色っぽい口調……丹波が闇を透してのぞくと、お蓮様は顔をしかめて、切り髪の根に櫛を入れて、きゅっと掻いている。

       二

「おい、天野(あまの)、魚を縦に切るやつがあるか。骨などあってもかまわんから、こう横にぶった切って、たたきこんでしまえ。おうい、瀬川(せがわ)! 貴様、大根を買いに行くと言って、これは牛蒡(ごぼう)ではないか」
「豆腐(とうふ)はどうした、豆腐は?」
「飯(めし)の係は、斎田氏(さいだうじ)ではないか。こげ臭いが、斎田はどこへいった」
「斎田か。きゃつはいま、庭へ出て、燈籠を相手にお面、お小手とやりおったぞ」
 奥座敷の次の間から、廊下一面に、にわかに買いこんできた水桶(みずおけ)、七輪、皿(さら)、小鉢(こばち)……炊事道具(すいじどうぐ)をいっさいぶちまけて、泉水の水で米をとぐ。違い棚で魚を切る。毎日毎晩、この騒ぎなので――。
 自分達こそ、この屋敷の正当の権利者とばかり、かってきままの乱暴を働いている伊賀の連中、障子を破いて料理の通(かよ)い口をこしらえるやら、見事な蒔絵(まきえ)の化粧箱を、飯櫃(めしびつ)に使うやら、到らざるなき乱暴狼藉。
 その真ん中に泰然と腰をすえて、柳生源三郎、憂鬱な蒼白い顔で、がんばっているんです。
 忍耐くらべ……。
 先主司馬先生が萩乃の婿と決めただけで、公儀へお届けがすんだわけではない。源三郎は婿の気でいても、お蓮様や峰丹波は、いっこうに認めていないんですから、そこでこの居すわり戦となったわけで、間にはさまって一番困っているのは、当の萩乃だ。
 恋い慕っていたあの植木屋が、実は夫と決まっている源三郎様……と知った喜びも束(つか)の間、彼女は、柳生の一団の住んでいる奥座敷と道場の者が追いつめられている表屋敷との、ちょうど中間の自分の部屋に、あれからずっととじこもったきりで、誰にも顔を見せない。
 いつまでも、源三郎たちを、こうしておくわけにはいかない。
 そこで丹波、今夜そっとお蓮様を、この奥庭へつれだして、源三郎の処置を相談しはじめたのだが――。
「うるさいねえ」
 というのがお蓮様の一点張り。
「いったいいかがなされるおつもりで。斬り捨てることはできず、さりとて、このまま傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に――」
「フン、源三郎様に刀を向けたりすると、このあたしが承知しませんよ」
 ふとお蓮さまは、思わずほんとの心が口に出たのに、自らおどろいたようすで、とっさに笑い消し、
「むかったって、かないっこないくせに――ほほほほ、まあ、あわてないで、あたしにまかせてお置きよ」
 源三郎という名を口にする時の、お蓮様のうっとりした顔つきに、峰丹波は心配そうに、
「拙者らの手に負えぬ者を、あなたがいったい、どうなさろうというので――」
「うるさいねえ。男と女の間は、男と男のあいだとは、また違ったものさね。それにどうやら、あの源三郎は、このあたしなら、なんとかあやつれそうだからね。うるさいね。だまって見ておいでよ」
 すんなりしたお蓮様の姿が、もう、築山をまわって歩き出していた。

       三

「お嬢様、あの、萩乃様……」
 侍女の声に、萩乃は、むすめ島田の重い首を、突っぷしていた経机(きょうづくえ)からあげて、
「何よ、うるさいねえ」
「いえ、お嬢さま、毎度同じことをお耳に入れて恐れ入りますけれど、そうやって毎日とじこもって、ふさぎこんでばかりいらしっては、いまにお身体にさわりはしないかとお次の者一同、こんなに御心配申しあげているのでございますよ」
「好きなようにさせておいてくれたらいいじゃないの。うるさいねえ。どうしたらいいっていうの?」
 振り向いた萩乃の顔は、絹行燈の灯をうけて、白く冴えている。ほつれ髪が頬をなでるのを、眉をひそめて邪慳(じゃけん)に掻きあげながら、
「あたしの心は、誰もわかってくれないのだからよけいなことを言わずに、うっちゃっておいてくれたらいいじゃないの」
「またそんな情けないことをおっしゃいます。こうしておそばについております私どもに、どうしてお嬢様のお心がわからないはずがございましょう。お父様がお亡くなりになるとまもなく、人もあろうにあの乱暴者がああやってはいりこんできて昼も夜もあのまあ、割れっ返るような騒ぎ……」
 女中がだまりこむと、はるか離れた奥座敷で、伊賀の連中の騒ぐ声が手にとるように聞こえてくる。今夜も酒宴が始まったらしい――。
 ちょうど、庭の築山のかげで、お蓮様と丹波が話しこんでいる同じ時刻に、こうして女中の一人が、萩乃を慰めにその居間をのぞいたところです。
 女中が顔をしかめて、
「ほんとに、田舎者のずうずうしいのには、かないませんよ。お婿さんだなんていったって、先殿様がお決めになったばかりで、お嬢様がこんなにお嫌い遊ばしていらっしゃるのに、なんでしょう、まア、ああやってすわりこんで……そういえばお嬢さま、あの朝鮮唐津のお大切な水盤(すいばん)を、あの伊賀の山猿どもが持ち出して、まあ、なんにしていると思召す? さっきちょっと見ますと、あれをお廊下の真ん中に持ち出して、泥だらけのお芋を洗っているじゃアございませんか。あんまりくやしいから、なんとか言ってやろうと思ったんでございますけれど、あの鬼のような侍達に、じろりとにらまれましたら、総身(そうみ)がぞうっとしまして、どんどん逃げてまいりました。イエ、まあ、わたくしとしたことが、自分ながら意気地のない……ホホホホホ」
「ほんとに、うるさいねえ。あたしは頭痛がするんだから、そこでおしゃべりをしないでおくれ」
「なんと申してよいやら、おいたわしい。あんな田舎ざむらいにすわりこまれては、誰だって病気になりますでございますよ」
「いいえ、だからお前達は、ちっともあたしの気を察しておくれでないっていうのよ。いいから、あっちへ行っておくれ」
「とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――」
「うるさいねえ、ほんとに」
 萩乃は、キリキリと歯をかんでゆらりと長い袂を顔へ……。

       四

「若、あのお蓮様とやら申す女狐(めぎつね)が、お眼にかかりたいと申しておりますが……」
 と玄心斎が敷居際に手をついたとき、源三郎は、座敷の真ん中に、倒した脇息(きょうそく)を枕にして――眠ってでもいるのか、答えは、ない。
「お会いになる用はないと存じまするが、いかが取りはからいましょう」
「う、うるせえなあ」
 むっくり起きあがった源三郎、相変わらず、匕首(あいくち)のような、長い蒼白い顔に、もの言うたびに白い歯が、燭台の灯にちかちかする。
「ど、ど、どこへ来ておる」
「そこのお廊下までまいっております。強(た)って御面会を得たいという口上で……」
「自分でまいったのか」
「はい、自身できておりますが」
 ちっと考えた源三郎は、
「折(お)れたのかも知れぬ。会おう」
 起とうとするのを、玄心斎は静かにひきとめて、
「や、ちょっとお待ちを。あの峰丹波をだきこんでおりますことだけでも、かの女狐(めぎつね)は、なかなかのしたたか者ということは知れまする。こうやってわれら一同、いま文句が出るか、きょうにも苦情をもちこんでまいるか、何か申して来たら、それを機会に、この道場をこちらの手に納めてやろうと、かく連日連夜したい三昧(ざんまい)の乱暴を働いて、いわばこれでもか、これでもかと喧嘩を吹っかけておりますのに、きょうまでじっとこらえて、なんの音沙汰(さた)もなかったところは、いや、なかなかどうして、敵ながらさる者。拙者の考えでは、ことによると、先方(せんぽう)のほうが役者が一枚上ではないかと……」
「うるさい。会うのはやめいと申すのか」
「いえ、おとめはいたしませんが、いかなる策略があろうも知れませぬ故、充分ともにお気をおつけなされて……」
「女に会うに、刀はいるめえ」
 つぶやいた源三郎は、玄心斎の手を静かに振り払って、懐手(ふところで)のまま、ずいと部屋を出て行った。
 つぎの間(ま)から廊下へかけて、無礼講に立ちさわいでいた柳生の門弟達が、にわかにひっそりとなるなかを、供もつれずに廊下を立ち出た源三郎は、
「どこに?」
「はい、あちらのお廊下の角に――」
 と、とりついだ門之丞の眼くばせ。
 むっとした顔で、大股にあるいてきた源三郎を、お蓮様は、眉の剃りあとの青い顔を、ニッコリほほえませて迎えました。
「まあ、あれっきり、まだ御挨拶にも出ませんで」
 そう愛想よく言いながら、お蓮様は先に立って、その表屋敷へ通ずる長廊下を、ぶらりと歩き出す。
 ところどころに雪洞(ぼんぼり)の置いてある、うすぐらい廊下……源三郎には、ふとそれが、夢へ通ずる道のように思われたのです。
「いや、当方こそ――父上の御葬儀の節には、いろいろと御心配に預かり、かたじけのうござった」
 父上と、わざと力を入れた源三郎の言葉に、お蓮様は艶やかにふりかえって、
「源様、いつまでこうやっていらっしゃるおつもり?」
嬌然(きょうぜん)と笑った。

       五

「いや、そちらこそ、いつまでこうやって楯突くつもりかな」
 源三郎は、にこりともせずに、蹴るような足どりで、歩いて行く。
 奥座敷をすこし遠ざかると、柳生の連中の騒ぎが、罩(こ)もって聞こえるばかり……長い廊下には人影一つなく、シインとしている。
 一つの邸内には、柳生と司馬とをつなぐ桟橋(かけはし)。
「御用というは、ナ、ナ、ナ、なんでござる」
 と、源三郎がつかえるのは、相手に対して、幾分の気安さをおぼえた証拠です。
 内輪(うちわ)ではつかえるが、四角張った場合には、決してつかえない源三郎だ。
「用といって……わかっているじゃアありませんか」
 お蓮様は、急に思い出したように、片手を帯へさしこみ、身をくねらせて、ビックリするほど若やいだ媚態。
「御相談がありますの」
 斜めに源三郎を見上げた眼尻には、鉄をもとかしそうな若後家の情熱が溢れて……。
 鉄をもとかす――いわんや、若侍の心臓をや。
 というところだが。
 源三郎は、さながら、石が化石(かせき)したような平静な顔で、
「母上……」
 と、呼びなおした。
 母上――こいつは利きました。源三郎のほうでは、あくまで萩乃の婿の気。その順序からいえば、故先生の御後室お蓮様は、なるほど母上に相違(そうい)ないのだが、色恋の相手と見ている年下の男に、いきなり母上とやられちゃア、女の身として、これほどお座の醒(さ)める話はない。
 ことに今、恋愛工作の第一歩にはいりかけたやさき、お蓮様は、まるで、出鼻をピッシャリたたかれたような気がした。
 あなたはお幾歳(いくつ)でしたかしら。お年齢(とし)のことも考えていただきたい――そう言われたようにひびいて、年上のお蓮様は、ゲンナリしてしまいました。
 同時に、勃然たる怒りが渦巻いて、お蓮様は壁のような白い顔。口が皮肉にふるえてくるのを、制しも敢(あ)えず、
「母上!――まア、あなたは手きびしい方ね。あたしは、お前さんのような大きな息子を持ったおぼえはありませんよ。ほほほ、なんとかほかに呼びようはないものかしら」
 うらみを含んだまなざしを、源三郎は無視して、
「あすにも道場をお明け渡しになれば、あなただけは母上として、萩乃ともども、生涯御孝養をつくしましょう。さすれば、お身も立とうというもの。悪いことは申しませぬ」
「あたしはねえ、源様、あの丹波などにそそのかされて、お前様にこの道場をゆずるまいと、いろいろ考えたこともありましたけれど、源様というお人を見てから、あたしはすっかり変わったんですよ。今はわたしも、亡くなった先生と同じ意見で、ほんとに、あなたにこの道場を継いでもらいたいと思うんです」
 しんみりと語をきったお蓮様は、すぐ、炎のような熱い息とともに、
「でも、それには、たった一つの条件がありますの」
「条件――?」
 と、向きなおった源三郎へ、お蓮様は、顔一杯の微笑を見せて、
「お婿さまはお婿様でも、そのお婿様の相手を変えるのが、条件……」

       六

 灯のほのかな長廊下(ろうか)のまがり角だ。
 立ち話をしている源三郎と、お蓮様の影が、反対側の壁に大きく揺れている。
 源三郎は、両手をふところにおさめてそりかえるような含み笑いをしながら、
「ハテ、婿の相手が変わるとは?」
「萩乃からあたしへ」
 言いつつお蓮様は、つと手を伸ばして、源三郎の襟元へ取りすがろうとするのを、一歩退(さが)ってよけた源三郎、
「ジョ、ジョ、冗談じゃアねえ」
 ほんとにあわてたんだ。
「母上としたことが、なんと情けないことを。老先生のお墓の土が、まだかわきもせぬうちに、娘御の婿となっております拙者に、さようなけがらわしいことをおっしゃるなどとは、プッ! 見下げ果てた……」
 源三郎、懐中の右手がおどり出て、左の腰際へ走ったのは、いつものくせで、刀の柄(つか)に、手をかける心。
 無刀(むとう)なのを、瞬間忘れたほどの怒りでした。
「先生にかわって御成敗いたすところだが、まずまず堪忍……丹波とはちがい、さような手に乗る源三郎ではござらぬ」
 お蓮様は、壁にはりついて、あっけにとられた顔で、源三郎をみつめている。
 それは、言い知れない驚愕の表情であった。この自分の媚(こ)びを手もなくしりぞける男が、この世に一人でもあることを発見したおどろき。
 自信をきずつけられた憤りに、お蓮様は、総身(そうみ)をふるわせて、
「よろしい。よくも私に、恥をかかせてくれましたね。それならば今までどおり、どこまでも戦い抜きましょう。お前(まえ)はあくまでも萩乃の婿のつもり……だが、こちらでは、無態な田舎侍が、なんのゆかりもないのに押しこんで、動かぬものと見ますぞ。また根較べのやり直し――それもおもしろかろう、ホホホホホおぼえておいで」
 きっと言いきったお蓮様が、源三郎をのこして、足ばやに立ち去ろうとした時、
「源三郎様っ!」
 と泣き声とともにそこの角から転(まろ)び出たのは、裾ふみ乱した萩乃だ。
 聞いていたんです、廊下のまがり角に身をひそめて。
 侍女のさがるのを待って、源三郎恋しさのあまり、会ってどうしようという考えもなく、ふらふらと居間を立ち出でた萩乃が夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のようにこの廊下にさしかかると、壁にもつれる人影――何心なくたちどまった耳に、今までの二人の話が、すっかり聞こえてしまったので。
「どうぞ、源三郎さま、お母様のおっしゃるとおりになすって……あたくしは、どこへでもまいります。もう、もう、一人で――」
 泣きたおれようとする萩乃を、源三郎は、片手にガッシと抱きとめて、
「いかがなものでござる、母上。似合いの夫婦(めおと)で……ははははは」
 ニヤッと、はじめて、魔のようなほほえみ。
 振り返ったお蓮様は、トンと一つ、踊りのような足踏みをして、
「うるさいねえ、ほんとに。かってにするがいい」
 だが、その眼はキッと萩乃をにらんで、おそろしい嫉妬に、火のよう……。

   開(あ)けてくやしき


       一

「お手入れか。作爺さんが何をしたというんだ」
「あれはお前、ああ見えたって、押しこみ、詐(かた)り、土蔵(むすめ)破りのたいした仕事師なんだとよ」
 作爺さん、えらいことになってしまった――。
「なにを言やアがる。あの作爺さんにかぎって、そんなことのあるはずのもんじゃあねえ。でえいち乗りこんで来ている侍達(さんぴんたち)が、おれの眼じゃあ、八町堀じゃあねえとにらんだ」
「それにしても、まっぴるま長屋へ押しこんで来て、ああやって爺さんを脅かしつけているからにゃア、お役筋の絡んでいる者に相違ねえ」
「いや、待て。わからねえぞ。なんだか知らねえが、預(あず)かっている物を出せとか言って、大声をあげているぜ」
 とんがり長屋の入口は、わいわいいう人集(だか)り……。
 残ったにしては根強い暑さかな――洒落(しゃれ)たことを言ったもので、まったく、江戸の残暑ときちゃア、読んで字のごとく残った暑さにしては、根が深い。
 いつまでも、つづく、
 今日も朝から、赭銅色(しゃくどういろ)の太陽がカッと照りつけて、人の心を吸いこみそうな青空――。
 街には、一面に土陽炎(つちかげろう)がもえて、さなきだにごみごみしたとんがり長屋のあたりは、脂汗のにじむ暑さです。
 その汗を、額いっぱいに浮きださせて、
「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」
 わめきたっている侍がある。
 長屋の真ん中、作爺さんの住居です。
 さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児(ふたご)を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。
 一間(ま)っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。
 昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。
 狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。
 お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円(つぶ)らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています……。
 作爺さんは、すこしもあわてない。
 押入れの前にぴったりすわって、
「へい、ある筋(すじ)より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預(あず)かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」
「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」
「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手応(ごた)えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」
「だまれ。だまれ、汝(なんじ)のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」

       二

 あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行(びこう)して来た者があったと見えて――。
 そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?
 林念寺前(りんねんじまえ)の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?
 それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?
 あるいは……。
 その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。
 ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か……?
 こうなると、さっぱりわかりません。
 だいたい、あのつづみの与吉なる兄(にい)さんは、あっちへべったり、こっちへベッタリ、その場その場の風向きで、得になるほうにつくのだから、はたして誰がこの与吉の報告を買いこんで、壺の木箱がここにきていることを知り出したのか、そいつはちょっと見当がつかない。
 今や、四方八方から、壺をうかがっているありさま。
 まだ、このほかに、巷の豪、蒲生泰軒先生まで、これは何かしら自分一人の考えから、ああして壺をつけまわしているらしい。
 年長(としかさ)らしい赭(あか)ら顔の侍が、とうとうしびれをきらして、さけびをあげました。
「親爺(おやじ)! どけイ! その押入れをさがさせろっ」
「いや、お言葉ではござりますが、手前も、引き受けてお預(あず)かりしたものを、そう安々と――」
「何をぬかす。いたい目を見ぬうちに、おとなしくわきへ寄ったがよいぞ」
「しかし、私はあくまでも、内容(なかみ)は壺ではねえと存じますので」
「まあ、よい。壺でなくて、何がはいっておる? うん? 開けて見れば、わかることだ」
「お侍様、りっぱな旦那方が、四人もおそろいになって、もし箱の中身が壺でございません時には、いったいどう遊ばすおつもりで――?」
「うむ、それはおもしろい。賭けをしようというのじゃな。さようさ、その箱に壺がはいっておらん場合には……」
 と、ひとりが他の三人の顔を見ますと、三人は一時にうなずいて、
「そのときは、やむを得ん。拙者らの身分を明かすといたそう。親爺、それでどうじゃ、不服か」
「なるほど。あなた方のおみこみがはずれたら、御身分をおあかしくださるか。いや、結構でござります」
「待て、待て。そこで、もし壺がはいっておった場合には、貴様、いかがいたす」
「この白髪首を……と、申し上げたいところでござりますが、こんな首に御用はござりますまい。なんなりと――」
「よし、それなる娘を申し受けるといたそう。子供のことじゃ、連れていってどうしようとは言わぬ。屋敷にでも召し使うが、そのかわり、おやじ、生涯会われぬぞ」
「ようがす」
 と、うなずいた作爺さん、さっと押入れをあけて鬱金(うこん)の風呂敷に包んだ例の茶壺の木箱をとりだし、四人の前におきました。
「さ! お開けなすって」

       三

 四人のうちのひとり、小膝を突いて、袖をたくしあげた。
「世話をやかせた壺だ……」
「これさえ手に入れれば、こっちの勝ちだテ」
 他の三人をはじめ、作爺さんの手が、ふろしきの結び目をとく手に、集中した。
 お美夜ちゃんも、隅のほうから、伸びあがって見ている。
 家の中が静かになったので、長屋の連中も一人ふたり、路地をはいって来て、おっかなビックリの顔が戸口にのぞいています。
 バラリ、ふろしきがほどける。現われたのは、黒ずんだ桐の木箱で、十字に真田紐(さなだひも)がかかっている。
 その紐をとき、ふたをとる――中にもう一つ、布(きれ)をかぶっているその布をのぞくと、
「ヤヤッ! こ、これはなんだ……!」
 四人はいっしょに、驚愕のさけびをあげた。
 石だ!――手ごろの大きさの石、左膳の小屋のそばにころがっていた、河原の石なんです。
 ウウム! と唸った四人、眼をこすって、その石をみつめました。
 しかも。
 水で洗われて円くなっている石の表面に、墨痕あざやかに、字が書いてある――。
 虚々実々(きょきょじつじつ)……と、大きく読める。
 下に、小さく、いずれをまことと白真弓……とあるんです。
 あの丹下左膳が、チョビ安にこの壺を持たして、ここ作爺さんのもとへ預(あず)けによこした時、左膳も相当(そうとう)なもので、どこからか同じような箱と風呂敷を見つけてきて、それは橋下の自分の小屋へ置くことにしたと言いましたが、さては、かんじんのこけ猿の茶壺は、そっちの箱に入っていて、いまだに左膳の掘立て小屋にあるとみえる。
 囮(おとり)につかわれたチョビ安――さてこそ、人眼につきやすい、あのおとなびた武士の扮装で、真っ昼間、壺の箱を抱えて小屋を出たわけ。
 じぶんの小屋から、壺の箱らしいものが出れば、必ず、なに者かがあとをつけるに相違ないと、左膳はにらんでいた。
 まさに、そのとおり……おまけに、こどものくせに、いっぱしの侍の風(ふう)をした異装だから、まるでチンドン屋みたいなもので、あの日あのチョビ安が、与吉にとって絶好の尾行の的となったのは、当然で。
 それがまた、左膳のねらいどころ。
 開けてくやしき玉手箱――この四人のびっくりぎょうてんも、左膳のおもわくどおりであります。
 石のおもてに、左膳が左腕をふるって認めた文字……虚々実々、いずれをまことと白真弓――この揶揄(やゆ)と皮肉と、挑戦をこめた冷い字を、ジッと見つめていた四人は、いっせいに顔をあげて、
「やられたナ、見事に」
「ウム。すると、壺はまだ、例の乞食小屋に――」
「むろん、あるにきまっておる!」
 作爺さんを無視して、四人バタバタと家を駈(か)け出ようとするから、こんどは、作爺さんが承知しません。
「ちょっとお待ちを……それでは約束がちがいます」
 と呼びとめました。

   引越蕎麦(ひっこしそば)


       一

 お約束が違いはしませんか……と、引きとめられた四人の侍は、一時に、作爺さんを振りかえって、威丈高(いたけだか)――。
「約束? いかなる約束をいたしたか、身どもはすこしもおぼえておらんぞ」
 作爺さんは、畳に片手を突いて、にじりよった。
 こんな裏長屋に住む、羅宇(らう)なおしのお爺さんとは思えない人品骨柄が、不意に、その作爺さんの物腰ようすに現われて、とんがり長屋の作爺さんとは世を忍ぶ仮りの名、実は……と言いたい閃きが、なにやらパッと、その開きなおった作爺さんの身辺に燃えあがって、四人は思わず、歩きかかっていた歩をとめて見なおしました。
「これは、両刀をお番(つが)えになるお武家様のお言葉とはおぼえませぬ。その箱をあける前に、中身が壺であったら、この私の小女郎をお連れなさる、そのかわり、もし壺がはいっておらなんだ節は、お四人様(よったりさま)のお身分をおあかしくださると、あれほどかたい口約束ではござりませなんだか」
 作爺さんの枯れ木のような顔に、さっと血の色がのぼって。
「このとおり、箱のなかみは石ではござりませぬか。
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