丹下左膳
著者名:林不忘
大玄関には、四旒(りゅう)の生絹(すずし)、供えものの唐櫃(からびつ)、呉床(あぐら)、真榊(まさかき)、根越(ねごし)の榊(さかき)などがならび、萩乃とお蓮さまの輿(こし)には、まわりに簾(すだれ)を下げ、白い房をたらし、司馬家の定紋(じょうもん)の、雪の輪に覗き蝶車の金具が、燦然(さんぜん)と黄のひかりを放っている。
やしきの奥には。
永眠の間の畳をあげ、床板のうえに真あたらしい盥(たらい)を置いて、萩乃やお蓮さまや、代稽古峰丹波の手で、老先生の遺骸に湯灌を使わせて納棺(のうかん)してある。
在りし日と姿かわった司馬先生は、経かたびら、頭巾、さらし木綿の手甲(てっこう)脚絆をまとい、六文銭を入れたふくろを首に、珠数を手に、樒(しきみ)の葉に埋まっている。四方流れの屋根をかぶせた坐棺の上には、紙製の供命鳥(くめいちょう)を飾り、棺の周囲に金襴の幕をめぐらしてあるのだった。
仏式七分に神式三分、神仏まぜこぜの様式……。
玄関の横手に受付ができて、高弟のひとりが、帳面をまえに控えている。すべて喪中に使う帳簿は紙を縦にふたつ折りにして、その口のほうを上に向けてとじ、帳の綴り糸も、結び切りにするのが、古来の法で、普通とは逆に、奥から書きはじめて初めにかえるのである。
大名、旗下、名ある剣客等の弔問、ひきもきらず、そのたびに群衆がざわめいて、道をひらく。土下座する。えらい騒ぎだ。
萩乃は、奥の一間に、ひとり静かに悲しみに服しているものとみえる。お蓮さまも、表面だけは殊勝げに、しきりに居間で珠数をつまぐりながら、葬服の着つけでもしているのであろう。ふたりとも弔客や弟子たちの右往左往するおもて座敷のほうには、見えなかった。
やがてのことに、わっとひときわ高く、諸人のどよめきがあがったのは、いよいよ吉凶禍福(きっきょうかふく)につけ、司馬道場の名物の撒銭(まきぜに)がはじまったのである。
江都評判の不知火銭……。
白無垢(しろむく)の麻裃をつけた峰丹波、白木の三宝にお捻りを山と積み上げて、門前に組みあげた櫓のうえに突っ立ち、
「これより、撒(ま)きます――なにとぞ皆さん、ともに、故先生の御冥福をお祈りくださるよう」
どなりました。りっぱな恰幅(かっぷく)。よくとおる声だ。
すると、一時に、お念仏やお題目の声が、豪雨のように沸き立って、
「なむあみだぶつ、なんみょうほうれんげきょう……!」
丹波は一段と声を励まし、
「例によって、このなかにたった一つ、当家のお嬢様がお礼とおしたためになった包みがござる。それをお拾いの方は、どうぞ門番へお示しのうえ、邸内へお通りあるよう、御案内いたしまする」
バラバラッ! と一掴み、投げました。
招かざる客
一
ひとつの三宝が空(から)になると、あとから後からと、弟子が、銭包みを山盛りにしたお三宝をさしあげる。
丹波はそれを受け取っては、眼下の人の海をめがけて、自分の金じゃアないから、ばかに威勢がいい。つかんでは投げ、掴んでは投げ……。
ワーッ! ワッと、大浪の崩れるように、人々は鬨(とき)の声をあげて、拾いはじめた。
拾うというより、あたまの上へ来たやつを、人より先に跳びあがり、伸びあがって、ひっ掴むんです。こうなると、背高童子が一番割りがいい。
押しあい、へし合い、肩を揉み足を踏んづけあって、執念我欲の図……。
「痛えっ! 髷(まげ)をひっぱるのあ誰だっ!」
「おいっ、襟首へ手を突っこむやつがあるか」
「何いってやんでえ。我慢しろい。てめえの背中へお捻りがすべりこんだんだ」
「おれの背中へとびこんだら、おれのもんだ。やいっ、ぬすっと!」
「盗人だ? 畜――!」
畜生っ! とどなるつもりで、口をあけた拍子に、その口の中へうまく不知火銭が舞いこんで、奴(やっこ)さん、眼を白黒しながら、
「ありがてえ! 苦しい……」
どっちだかわからない。死ぬようなさわぎです。
どこへ落ちるか不知火銭。
誰に当たるか不知火小町のお墨つき――。
見わたす限り人間の手があがって、掴もうとする指が、まるでさざなみのように、ひらいたりとじたりするぐあい、じっと見てると、ちょうど穂薄(ほすすき)の野を秋風が渡るよう……壮観だ。
「お侍さまっ! どうぞこっちへお撒きくださいっ」
と、女の声。かと思うと、
「旦那! あっしのほうへ願います。あっしゃアまだ三つしか拾わねえ」
あちこちから呶声がとんで、
「三つしか拾わぬとは、なんだ。拙者はまだ一つもありつかぬ」
「この野郎、三つも掴みやがって、当分不知火銭で食う気でいやアがる」
中には、お婆さんなんか、両手に手ぬぐいをひろげて、あたまの上に張っているうちに、人波に溺れて群衆の足の間から、
「助けてくれッ!」
という始末。おんなの悲鳴、子供の泣き声……中におおぜいの武士がまじっているのは、武士は食わねど高楊枝などとは言わせない、皮肉な光景で。
もっとも、さむらいは、例外なしに萩乃様のおひねりが目的だから、躍りあがって掴んでみては、
「オ! これは違う。おっ! とこれもちがう……」
違うのは、捨てるんです――じぶんの袂へ。
この大騒動の真っ最中、もう一つ騒動が降って湧いたというのはちょうどこの時、坂下から群衆を蹴散らしてあがってくる、□々(かつかつ)たる騎馬の音……!
二
それも、一頭や二頭じゃない。
十五、六頭……どこで揃えたか、伊賀の暴れン坊の一行、騎馬で乗りこんで来た。
源三郎の白馬を先頭に、安積玄心斎、谷大八、脇本門之丞、その他、おもだった連中が馬で、あとの者は徒歩(かち)です。
ものすごいお婿さまの一行――大蛇のように群衆の中をうねって、妻恋坂の下から、押しあげてきました。
「寄れっ! 寄れっ!」
と、玄心斎の汗ばんだ叱咤が、騒然たる人声をつんざいて聞こえる。
「お馬さきをあけろっ!」
「ええイッ、道をあけぬかっ」
「ひづめにかけて通るぞ」
口々に叫んで、馬を進めようとしても、何しろ、通りいっぱいの人だから、馬はまるで人間の泥濘(ぬかるみ)へ嵌(は)まりこんだようなもので、馬腹(はら)を蹴ろうが、鞭をくれようが、いっかなはかどりません。
わがまま者の源三郎、火のごとくいらだって、
「こここれ! 途(みち)をひらけっ。けけ、蹴散らすぞっ……」
鏡のような、静かな顔に、蒼白い笑みをうかべた伊賀のあばれン坊、裃(かみしも)の肩を片ほうはずして、握り太の鞭を、群衆の頭上にふるう。
乱暴至極――。
ちょうど撒銭のたけなわなところで。
熱湯の沸騰するように、人々の興奮が頂点に達した時だから、たちまちにして、輪に輪をかけた混乱におちいった。
馬列の通路にあたった人々こそ、えらい災難……。
空(くう)に躍る銭をつかもうと夢中の背中へ、あらい鼻息とともに、ぬうっと、長い馬の顔があらわれて、あたまのうえで、ピューッ! ピュッと鞭がうなり、
「ム、虫けらどもっ! 踏みつぶして通るぞっ!」
というどなり声だ。柳生源三郎、街の人など、それこそ、蚤か蚊ぐらいにしか思っていないんで。
いまだ自分の意思を妨げられたことのない彼です。思うことで実現できないことが、この地上に存在しようなどとは、考えたこともない。
癇癖(かんぺき)をつのらせて、しゃにむに、馬をすすめ、
「ヨヨ、余の顔を知らぬか。ば、馬足にかかりたいか、ソソそれとも、柳生の斬っさきにかかりたいか、のかぬと、ぶった斬るぞっ!」
どっちにしたって、あんまり望ましくないから、群衆は命がけで犇(ひし)めきあい、必死に左右に押しひらいて、
「いくらお武家でも、無茶な人もあったものだ」
非難の声と同時に、馬の腹の下から助けを呼ぶ人……鞭をくらって泣き叫ぶおんな子供――阿修羅(あしゅら)のような中を、馬はさながら急流をさかのぼるごとく、たてがみを振り立て、ふり立て、やっと司馬道場の門前へ――。
群衆に馬を乗り入れる一行は、なんというひどいことをする奴! と、櫓の上から、あきれて見守っていた峰丹波、先なる白馬の人に気がつくと、銭を撒く手がシーンと宙で凍ってしまった。
三
阿鼻叫喚(あびきょうかん)をどこ吹く風と聞き流して、群衆を馬蹄にかけ、やっと門前までのしあがってきた源三郎の一行――。
見ると。
忌中の札が出ていて、邸内もただならないようすに、源三郎は馬上に腰を浮かして、やぐらのうえの丹波を見あげ、
「司馬道場の仁と見て、おたずね申す」
前に植木屋として入りこんでいたのは、知らぬ顔だ。
はじめて顔を合わせるものとして、源三郎、正式に名乗りをあげた。
「柳生源三郎、ただいま国おもてより到着いたしたるに、お屋敷の内外(ないがい)、こ、この騒ぎはなにごとでござる」
丹波も、さる者。
櫓の上から、しずかに一礼して、答えました。
「柳生? ハテ、当家と柳生殿とは、なんの関係もないはず。通りすがりのお方と、お見受け申す。御通行のおじゃまをして、恐縮千万なれど、ちと不幸ばしござって、今日は、当道場の例として、諸人(しょにん)に銭をまきおりまする。それがため、この群衆……なにとぞかってながら、他の道すじをお通りあるよう、願いまする」
そして、源三郎を無視し、けろりとした顔で、最後の三宝をとりあげ、
「これが打ち止めの一撒き――!」
と叫んで、その三宝ごと、パッと、わざと源三郎をめがけて、投げつけました。
三宝は、安積玄心斎が鞘ごと抜いて横に払った一刀で、見事にわれ散った。白いお捻りが雪のように乱れ飛ぶ。
丹波は悠々とやぐらを下りて、さっさと門内へ消えた。不知火銭は終わったが、おさまらないのは、うまくはずされた源三郎と、源三郎に踏みにじられた群衆とで。
「ヤイヤイ、江戸あ大原っぱじゃアねえんだ。馬場とまちがえちゃア困るぜ」
「柳生の一家だとヨ。道理で、箱根からこっちじゃアあんまり見かけねえ面(つら)が揃ってらあ」
半分逃げ腰で、遠くから罵声を浴びせかけるが、源三郎はにこにこして、ピタリ、門前に馬をとめたままです。つづく一同も、汗馬を鎮めて無言。
「おおい、お馬のおさむれえさん! おめえのおかげで、おらア、お嬢さんのおひねりを拾いそこねたじゃアねえか」
なんかと、ずっと向うにいるものだから、安全地帯と心得て、恨みをいうやつもいる。
丹波につぐ高弟、岩淵達之助(いわぶちたつのすけ)と、等々力(とどろき)十内(ない)のふたりが、門ぎわに立ちあらわれました。
「御礼と萩乃様お筆のあとのある、たった一つの銭包みを拾った者はないか」
「そのつつみを手に入れた人は、出てこられたい。奥へ御案内申す」
「ないのかな、だれも拾わぬのか」
みんな今更のように、自分の拾ったお捻りを見たりして、群衆がちょっとシーンとなった瞬間、
「ホホウ、こ、この包みに、墨で御礼とある……」
と、伊賀の若様が馬上高く手をあげました。
四
いま丹波が最後に、源三郎をねらって三宝もろとも、はっしとばかり銭包みを投げ落とした瞬間――!
源三郎、眼にもとまらぬ早業で、その一つを掴みとったのだったが、意外といおうか、偶然と言おうか、それこそは、諸人熱望の的たる萩乃さまお墨つきの不知火銭だったので。
にくらしくても、反感(はんかん)は抱いていても、人間には、強い颯爽(さっそう)たるものを無条件に讃美し、敬慕する傾向(けいこう)があります。
力こそは善であり、力こそは美であるとは、いつの時代になりましても、真理のひとつでありましょう。
今。
これだけ群衆を蹂躙(じゅうりん)し、その憤激を買った源三郎ではありますが……。
その手に御礼のお捻りが握られて、馬上高く差し示しているのを見ると、人々は、いまの今までの憎悪や怒りをうち忘れて、わっと一時に、割れるような喝采(かっさい)を送った。
色の抜けるほど白い、若い源三郎が、今まで片袖はずしていた裃の肩を入れて、馬上ゆたかに威をととのえ、ちいさな紙づつみを持った手を、さっと門へむかって突きだしたところは……さながら何か荒事(あらごと)の型にありそう。
江戸っ児は、たあいがない。
こんなことで、ワーッと訳もなく嬉しがっちまうんで。
「イヨウ! 待ってましたア!」
「天下一ッ!」
なにが天下一なんだか、サッパリわからない。
何か賞(ほ)めるとなると、よく両国(りょうごく)の花火にひっかけて、もじったもので、さっき柳生源三郎と名乗って丹波とのあいだに問答のあったのを聞いていますから、
「玉屋ア! 柳屋ア! 柳屋ア!」
と即座の思いつき……四方八方から、さかんに声がかかる。
なかには、岡焼き半分に、
「落ちるところへ、落ちましたよ。拙者は、諦めました」
「萩乃様とは、好一対。並べてみてえや、畜生」
「アアつまらねえ世の中だ。不知火小町も、これで悪くすると主(ぬし)が決まりますぜ」
溜息をついている。
が、群衆は、知らないものの――。
婿として乗りこんできた源三郎に、この萩乃のおひねりが当たったというのも、これも一つの因縁……臨終まぎわまで源三郎を待ちこがれた、きょうの仏の手引きというのかも知れない。
入場券代わりのこのたった一つの銭包み。
切符を持っているんだから、源三郎は悠然と馬から下りて、
「サ、御案内を……」
門の左右に立った岩淵達之助と等々力十内、顔を見あわせたが、定例(きまり)であってみれば、お前さんはよろしい、お前さんは困るということはできない。
「いざ、こちらへ――」
と仕方なく先に立って、邸内へはいったが、出る仏に入る鬼……きょう故先生の御出棺の日に、司馬道場、とんだ白鬼をよびこんでしまった――。
忍(しの)びの柏手(かしわで)
一
子として、父の死を悼(いた)まぬものが、どこにあろう。
殊(こと)に。
おさなくして生母(はは)をうしなった萩乃にとって、なくなった司馬先生は、父でもあり、母でもあった。
母のない娘(こ)は、いじらしさが増す。司馬先生としても、片親で両親を兼ねる気もちで、いつくしみ育ててきたのだけれど、あの素姓の知れないお蓮さまというものが腰元から後添に直ってからというものは、萩乃に対する先生の態度に、いくらかはさまったものができて、先生はそっとお蓮様のかげへまわって萩乃に慈愛をかたむけるというふうであった。
萩乃を見る老父の眼には、始終弁解(いいわけ)がましいものがひらめいて、彼女には、それがつらかった。
表面、お蓮さまによって父娘(おやこ)のあいだに、へだたりができたように見えたけれど……。
でも、それは、実は、父と娘の気もちの底を、いっそう固くつなぐに役立ったのだった。
その父、今や亡(な)し矣(い)――かなしみの涙におぼれて、身も世もない萩乃は、じぶんの座敷にひそかにたれこめて、侍女のすすめる白絹の葬衣に、袖をとおす気力だにない。
床の間に、故父(ちち)の遺愛の品々が飾ってある。それに眼が行くたびに、あらたなる泪(なみだ)頬を伝うて、葬列に加わるしたくの薄化粧は、朝から何度ほどこしても、流れるばかり……婢(おんな)どもも、もらい泣きに瞼をはらして、座にいたたまれず、いまはもう、みんな退室(さが)ってしまった。
ひとりになった萩乃は、なおもひとしきり、思うさま追憶のしのび泣きにふけったが――。この深い悲哀の中にも。
ただ一条、かすかによろこびの光線(ひかり)とも思われるのは、父があんなに待ったにもかかわらず、とうとう源三郎様がまに合わないで、死にゆく父の枕頭で、いやなお方と仮(か)りの祝言(しゅうげん)のさかずきごとなど、しないですんだこと。
源三郎の名を思い起こすと、萩乃はどんな時でも、われ知らず身ぶるいが走るのだった。
伊賀のあばれん坊なんて、おそろしい綽名(あだな)のある方、それは熊のような男にきまっている……ふつふつ嫌な――!
その源三郎が、どういう手ちがいか、いまだ乗りこんでこないのだから、いくら父のとり決めた相手でも、今となっては、じぶんさえしっかり頑張れば、なんとかのがれる術(すべ)があるかも知れない――。
それにしても、源三郎の名がきらいになるにつけて、日とともに深められていくのは、あの、植木屋へのやむにやまれぬ思慕のこころ……。
あの凜(りん)とした植木屋の若い衆を想うと、その悲痛のどん底にあっても、萩乃は、ひとりでポッと赧(あか)らむのです。
「じぶんとしたことが、なんという――しかも、この、お父様のお葬式の日に……」
いくら自らをたしなめても、胸の一つ灯は、逝(ゆ)きにし父へのなみだでは、消えべくもないのだ。
子として、父の死を悼まぬものが、どこにあろう――でも、かの若い植木屋を思い浮かべると、萩乃は自然に、ウットリと微笑まれてくるのだ。
二
焼香は、二度香をつまんで焚き、三歩逆行して一礼し、座に退くのだ。
出棺の時刻が迫り、最後の焼香である。
遺骸を安置した、おもて道場の大広間……。
片側には、司馬家の親戚をはじめ、生前、剣をとおして親交のあった各大名、旗下の名代が、格に順じてズラリと居流れ、反対の側には、喪服の萩乃、お蓮様を頭に、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内等重立った門弟だけでも、四、五十を数えるほど並んでいる。
緋(ひ)の袈裟(けさ)、むらさきの袈裟――高僧の読経(どきょう)の声に、香烟、咽ぶがごとくからんで、焼香は滞(とどこお)りなくすすんでゆく。
亡き父への胸を裂く哀悼と、あの、名もない若い植木屋への、抉(えぐ)るような恋ごころとの、辛い甘い、ふしぎな交錯に身をゆだねて、ひとり居間にたれこめていた萩乃は、侍女にせきたてられて白の葬衣をまとい、さっき、手を支えられてこの間へ通ったのだったが、着座したきり、ずっとうつむいたままで……。
気がつかないでいる――じぶんの隣、継母のお蓮さまとのあいだに、裃に威儀を正した端麗な若ざむらいが、厳然と控えていることには。
吉凶いずれの場合でも、人寄せのときには、不知火銭にまじえて、ただ一つ、自分が御礼と書いた包みを投げ、それを拾った者はたとえ足軽でも、樽(たる)ひろいでも、その座に招(しょう)じて自分のつぎにすわらせる例。
今度も、昨夜、おひねりの一つに御礼と書かされた。
だから、誰か一人この場に許されているはずだが……それもこれも、萩乃はすべてを忘れ果てて、じっとうなだれたまま、袖ぐちに重ねた両の手を見つめています。
が、お蓮様は、眼が早い。
岩淵(いわぶち)、等々力(とどろき)の両人に案内されて、さっきこの広間へはいってきた若い武士を一眼見ると、サッ! と顔いろを変えて峰丹波をふりかえりました。
これが源三郎とは知らないお蓮さまだが、あの得体の知れない植木屋が、こんどは、りっぱな武士のすがたで乗りこんで来たんだから、ただならない不審のようすで、丹波へ、
「植木屋が裃を着て、ほほほ、これはまた、なんの茶番――」
とささやかれた丹波、源三郎ということは、秒時も長く、ごまかせるだけごまかしておこうと、
「ハテ、拙者にも、とんと合点(がてん)がゆきませぬ。なれど、萩乃様の包みをひろいましたる以上、入れぬというわけには……」
まったく、それは丹波のいうとおりで。
御礼のつつみを拾われたからには、それが例法(しきたり)、拒む術(すべ)はありません。
門前に白馬をつないだ源三郎、
「許せよ」
と大手を振って、邸内へ通ってしまったのです。つづく玄心斎、その他四、五の面々(めんめん)、
「供の者でござる」
とばかり、これも門内へ押しとおってしまって、いまこの司馬道場の大玄関には、事ありげな馬のいななきと、武骨な伊賀弁とが、喧嘩のような、もの騒がしい渦をまいているので……。
三
植木屋がほんとか、武士姿がほんものか、それはまだお蓮さまには、見当がつきませんけれども、今その威と品をそなえた源三郎の顔すがたに、お蓮様が大いに興味をそそられたことは事実です。
いくらお祖父さんのような老夫であったにしても、良人(おっと)の葬式の日に、もう若い男を見そめてしまうなんて、ここらがお蓮様のお蓮さまたるところで、性質すこぶる多情なんです。
萩乃と自分との間へ座を占めた源三郎へ、お蓮さまはチラ、チラと横眼を投げて、心中ひそかに思えらく。
もとよりこれは、ただの植木屋ではあるまい。なにか大いに曰くのある人に相違ない。いや、たとえ植木屋の職人にしたところで、かまわない。じぶんはどんなことをしても、必ずこの青年の心とからだを手に入れよう……。
じぶんが、この自分の豊満な魅力を用いて近づく時、それをしりぞけた男性は、今まで一人もないのだから――死んだ司馬老先生然(しか)り、この峰丹波然り……。
焼香の場です。おのずと顔にうかぶほほえみを消すのに、お蓮さまは、人知れず努力しなければなりませんでした。
この、お蓮様の心中を知らない丹波は、気が気じゃアない。
人もあろうに、選(え)りに選って、とんでもないやつに御礼包みが落ちたものだ――柳生源三郎ということは、どうせ知れるにしても、せめては一刻も遅かれ、そのあいだに、なんとか対策を講じなくては……と、懸命に念じていると!
静かに起(た)った柳生源三郎――。
袴の裾さばきも鮮かに、正面へ進んだ。焼香だ。
つまんでは拝んで、二度香をくべた源三郎、ふたつ続けて、音のない柏手をうちました。うち合わせる両の手をとめて、音を立てない。無音(ぶいん)のかしわ手……。
これは、忍びの柏手といって、神式のとむらいにおける礼悼(れいとう)の正式作法で……まず、よほどの心得。
その粛然として、一糸みだれない行動に、一座は思わず無言のうちに、感嘆の視線をあつめています。
萩乃は、まだうつむいたきりだ。
するとこのとき、その萩乃の忘れたことのないあの若い植木職の声が朗々(ろうろう)とひびいてきたのです。
「義父司馬先生の御霊(みたま)に、もの申す。生前お眼にかかる機会(おり)のなかったことを、伊賀の柳生源三郎、ふかく遺憾(いかん)に存じまする。早くより品川に到着しておりましたが、獅子身中の虫ともいいつべき、当道場内の一派の策動にさまたげられ、今日まで延引いたし、ただいまやっとまいりましたるところ、先生におかせられては、すでに幽明さかいを異(こと)にし……」
柳生源三郎!……と聞いて、はっと眼をあげた萩乃の表情! 同じお蓮様のおもて――ふたつの顔に信じられない驚愕の色が起こりました。それぞれの意味で。
源三郎は、霊前にしずかにつづけて、
「遅ればせながら、婿源三郎、たしかに萩乃どのと道場を申し受けました。よって、これなる父上の御葬式に、ただいまよりただちに喪主として……」
室内の一同、声を失っている。
お美夜(みや)ちゃん
一
角(かど)が付木屋(つけぎや)で、薄いこけらの先に硫黄をつけたのを売り歩く小父さん……お美夜ちゃんは、もうこれで一月近くも朝から晩まで、その路地の角に立っているのだった。
竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋。
一ばん貧しい人たちの住む一廓(かく)で、貧乏だと、つい、気持もとがれば、口もとがる。四六時ちゅう、喧嘩口論の絶え間はなく、いつも荒びた空気が、この物の饐(す)えたようなにおいのする、うす暗い路地を占めているところから、人呼んでとんがり長屋――。
鰯(いわし)のしっぽが失くなったといっては、喧嘩。乾しておいた破れ襦袢(じゅばん)を、いつのまにか着こんでいたというので、山の神同士の大論判。
こうして、長屋の連中、寄ると触(さわ)ると互いに眼を光らせ、口を尖らせているので、恐ろしく仲がわるいようだが、そうではない。
一朝(ちょう)、なにか事があって外部に対するとなると、即座に、おどろくほど一致団結して当たる。ただふだんは口やかましく、もの騒がしいだけで、それがまた当人たちには、このうえなく楽しいとんがり長屋の生活なのだった。
つけ木屋の隣が、独身(ひとり)ものの樽(たる)買いのお爺さんで、毎日、樽はござい、樽はございと、江戸じゅうをあるきまわって、あき樽問屋へ売ってくるのである。
そのつぎは、文庫張(ぶんこば)りの一家族で、割り竹で編んだ箱へ紙を貼り、漆を塗って、手文庫、おんなの小片(こぎれ)入れなどをこしらえるのが稼業。相当仕事はあるのだけれど、おやじがしようのない呑(の)んだくれで、ついこの間も、上の娘をどこか遠くの宿場へ飲代(のみしろ)に売りとばしてしまった。
その他、しじみ屋、下駄の歯入れ、灰買い、あんま師、衣紋竹(えもんだけ)売り、説経祭文(せっきょうさいもん)、物真似、たどん作り……そういった人たちが、この竜泉寺(りゅうせんじ)名物、とんがり長屋の住人なので。
お美夜ちゃんの父親、作爺さんの住いは、この棟割長屋の真ん中あたりにある。
前も同じつくりの長屋で、両方から重なりあっている檐(のき)が、完全に日光をさえぎり、昼間も、とろんと澱(よど)んだ空気に、ものの腐った臭いがする。
作爺さんの家のまえは、ちょうど共同の井戸端で、赤児をくくりつけたおかみさん連の長ばなしが、片時も休まずつづいている。
羅宇屋(らうや)の作爺さん……上に煙管(きせる)を立てた、抽斗(ひきだし)つきの箱を背負って、街へ出る。きせるの長さは、八寸にきまっていたもので、七寸を殿中(でんちゅう)といった。価は八文(もん)、長煙管の羅宇(らう)は、十二文(もん)以上の定(さだ)め。
が、このごろは作爺さんも、商売を休んで家にいる。
それというのが……。
壁つづきの隣は、この間まで、あの、ところ天売りのチョビ安のいた家で、いまはあき家になっている。
あの日、朝出たっきり帰らないチョビ安を待って、お美夜ちゃんは、こうして日なが一日、路地の角にボンヤリ立ちつくしているのだ。
「お美夜や、いつまでそんなところに立っていてもしょうがねえ。へえんなよ」
作爺さんが、白髪あたまをのぞかせてどなると、袂を胸に抱いたお美夜ちゃん、ニコリともせずに振り返った。
二
「そんなところに立っていたって、チョビ安は帰って来はしないよ。うちへはいりなさいっていうのに」
作爺さんはやさしい顔で呼びこもうとする。洗いざらした真岡木綿(もおかもめん)の浴衣(ゆかた)の胸がはだけて、あばらが数えられる。
「チョビ安は、この作爺やお美夜のことなど、なんとも思ってはいねえのだよ。だから、ああして黙って出たっきり、なんの音沙汰もねえのだ」
そういう作爺さんの顔は、悲しそうである。
「あい」
と素直に答えたが、お美夜ちゃんは、ちょっとふり向いただけで、またすぐ竜泉寺の通りへ眼を凝(こ)らすのだった。
七歳(ななつ)のお美夜ちゃん……稚児輪(ちごわ)に結(ゆ)って、派手な元禄袖(げんろくそで)のひとえものを着て、眼のぱっちりしたかわいい顔だ。[#この行は底本では天付き]
作爺さんの娘ということになっているが、父娘(おやこ)にしては、あまりに年齢(とし)が違いすぎる。実は、この作爺はお美夜ちゃんの父ではなく、お祖父(じい)さんなので、その間にも何か深い事情がありそう……。
羅宇屋(らうや)の作爺さんとお美夜ちゃんが、このとんがり長屋の一軒に住んでいるところへ、どこからともなくあのチョビ安が、隣へ移って来たのは、一年とすこし前のことだった。
家といっても、天井(てんじょう)の低い、三畳一間(ま)ずつに仕切られた長屋。
壁の落ちたすき間から、となりが丸(まる)見えだし、はなしもできる、まるで細長い共同生活なのだった。
おとこの児の一人住まいなので作爺さんがいろいろ眼をかけてやると、ませた口をきくおもしろい子。
お美夜ちゃんともすっかり仲よしになったので、こっちへ引き取っていっしょに暮らそうと言っても、チョビ安は変に独立心が強くて、この作爺さんの申し出には、小さな首を横に振った。
そして、冬は、九里(り)四里(り)うまい十三里(り)の、焼き芋の立ち売りをしたり……夏は、江戸名物と自ら銘うったところてんの呼び売り。
聞けば、伊賀の生まれとかで、いつからか江戸に出て、親をさがしているのだという。
なにか身につまされるところでもあるかして、チョビ安に対する作爺さんの親切は、日とともに増し、また、お美夜ちゃんも、子供ごころに甚(いた)くその身の上に同情したのだろう、ひとつ違いの二人は、ふり分け髪(がみ)の筒井筒(つついづつ)といった仲で、ちいさな夫婦(めおと)よと、長屋じゅうの冗談の的だったのだが……。
そのチョビ安が、もうよほど前、ところ天の荷を担いで出たまま、いまだに帰らないのである。
お美夜ちゃんは、それから毎日毎日、こうして角に出て待っているのだが、今、作爺さんに呼ばれてあきらめたものか、小さな下駄を引きずって路地をはいろうとすると、覚えのある澄んだ唄声が、町のむこうから――。
「むこうの辻のお地蔵(じぞう)さん よだれくり進上、お饅頭(まんじゅう)進上……」
里帰(さとがえ)り
一
「向うの辻のお地蔵さん
よだれ繰(く)り進上、お饅頭(まんじゅう)進上
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父(ちゃん)はどこ行った
あたいのお母(ふくろ)どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
チョビ安自作の父母を恋うる唄……それが、巷の騒音の底から、余韻をふくんで聞こえてまいりますから、お美夜ちゃんは狂喜して、通りまで走り出ました。
子供同士の恋仲――むろん恋ではないが、一つちがいの兄妹のような、ほんのりと慕いあう気もちが、ふたりのあいだに流れているのです。
見ると、チョビ安、大手をふってやって来る。
まぎれもないチョビ安……には相違ないが、このとんがり長屋から、毎日ところてん売りに出ていたころとは、おっそろしく装(なり)が変わってる。
あたまをチャンと本多(ほんだ)にとりあげて、肩に継布(つぎ)が当たってるけれども、黒羽二重(くろはぶたえ)のぞろりとした、袂の紋つきを着ています。
おまけに、短い脇差を一ぽんさしたところは、なんのことはない、浪人をソックリそのまま小型にしたよう――。
途方もないこましゃくれ方です。
小さな大人、袖珍侍姿(しゅうちんさむらいすがた)……いっそチョビ安という人間には、ぴったり嵌(は)まったいでたちなので。
その、浪人の見本のような風俗のチョビ安、高さ二尺あまりの、大きな四角い箱をふろしき包みにしたのを両手に捧げて、
「おウ、お美夜ちゃんじゃねえか。会いたかったぜ」
と駈け寄ってきた。白の博多献上(はかたけんじょう)を貝の口に結んで、うら金の雪駄(せった)――さながら、子供芝居のおさむらいさんを見るようです。
「しばらくこっちに足が向かなかったが、それにャア深え仔細(しせえ)があるんだ」
と、相変わらず、チョビ安独特のおとなッぽい伝法口調。
「きょう来(こ)よう、明日(あす)[#「明日(あす)」は底本では「明日(あす)」]こようと思いながら、ぬけられねえもんだから、つい……すまなかったぜ」
お美夜ちゃんは、ツンとうしろを向いて、両手をぶらん、ぶらんさせ、足もとの小石を蹴っている。
拗(す)ねた恰好――無言です。
横ちょからチョビ安は、一生けんめいにのぞきこんで、
「決してお前(めえ)を忘れたわけじゃアねえ。かわいいお美夜ちゃんを忘れてたまるもんか。いろいろ話があるんだ。な、堪忍してくんな、な、な」
なんといっても、お美夜ちゃんはだんまりで、うつむいて、チョビ安のほうに背中を向けようとする。チョビ安はその肩に手をかけて、顔を見ようとするから、二人はいつまでも、同じところをクルクルまわっているんです。
「なア、お美夜ちゃん、よウ、勘弁しなってことよ。おいらアこんなに掌(て)を合わしてあやまってるんじゃねえか」
とチョビ安、手の荷物を地におろして、両手をあわせた。
ふたつの袖で顔を覆ったお美夜ちゃん、またクルッと向うをむいて、シクシク泣き出しました。
「あんまりだわ、あんまりだわ……」
二
ちょっと痴話(ちわ)喧嘩というところ……。
「いいわ、いいわ、知らないわ――」
と、かわいくふくれているお美夜ちゃんを、チョビ安は汗をかいて、なだめすかして、
「だって、おいらこうして帰(けえ)って来たんだから、もういいじゃアねえか」
「帰ってこようと、こまいと安さんのかってよ。あたいは待ってなんかいなかったわ」
やっと涙をふいて、お美夜ちゃんは、聞こえないほどの低声(こごえ)です。
チョビ安は得意気に笑って、
「うふふふふ、そんなこと言ったって、お前(めえ)、ここに立っていたのは、じゃ、誰を待っていたんだえ」
お美夜ちゃんはうつむいて、
「あたいの待っていたのはね、どこかの人よ。そして、その人は、意気なところてん屋さんなの。そんな、お侍さんのできそこないみたいな、ひねッこびた装(なり)した人じゃアなくってよ」
こんどはチョビ安がしょげる番で、
「だから、これにはわけがあるといってるじゃあねえか。おらア、仮りの父(ちゃん)ができて、さむれえの仲間入りをしたんだ」
「ふん!」
とお美夜ちゃんは、小鼻をふくらませて、
「そう? 安さんは、お武家衆になったの? じゃ、もう、お美夜ちゃなんかとは遊ばないつもりなのね。いいわ、あたいは、お武家なんか大きらいだから……」
大狼狽(おおあわて)のチョビ安は、また向うをむいたお美夜ちゃんの肩に手をまわして、
「おいらも、さむれえは好きじゃアねえが……」
「父(とう)ちゃんがいつも言うわ」
お美夜ちゃんが父(とう)ちゃんというのは、彼女は知らないものの、ほんとはお祖父さんに当たる作爺さんのことなんです。
「父ちゃんがいつもいうわ」
とお美夜ちゃんは、くりかえして、
「お侍なんて、つまんないものだ。食べるために、上の人にぺこぺこして、おまけに、眼に見えないいろんな綱で縛られているって……眼に見えない綱なら、いくらしばられていたって、見えないわね」
「ふうむ、そいつア理屈だ」
チョビ安、小さな腕を仔細らしく組んで、
「おいらの父上も、そんなことを言ったっけ――」
ピクンと耳を立てたお美夜ちゃん、ふしぎそうな顔に、よろこびの色を走らせて、
「父上……って? あら、安さん、あんた父ちゃんが見つかったの?」
「ううん、ほんとの父(ちゃん)じゃアねえんだ」
とチョビ安は悲しげに、だがすぐうれしそうにニッコリして、
「あるお侍さんを、当分、父(ちゃん)――じゃアねえ、父上と呼ぶことになったんだよ。眼が一つで、腕が一本しかねえ人だ。とっても怖(おっか)ねえ人だけれど、おいらにゃアそれは親切で、おらア、ほんとの父(ちゃん)のように思っているんだ」
しんみり話し出したチョビ安、不意に思い出して、その四角な木箱の包みをとりあげ、
「ホイ! こうしちゃアいられねえ。作爺(さくじい)さんに頼んで、此箱(これ)を預かってもらおうと思って来たんだ」
三
急にあわてだしたチョビ安、お美夜ちゃんを押しのけるように、溝板(どぶいた)を鳴らして路地へ駈け込みました。
「作爺(さくじい)さんはいるだろうな、家に」
後を追って走りこみながら、お美夜ちゃんの返事、
「ええ、このごろずっと商売にも出ないのよ。あれっきりいなくなった安さんのことが気になって、それどころじゃないんですって」
「すまねえ。そんなに思っててくれるとは知らなかった」
箱包みを抱えて、土間へ飛びこんだチョビ安は、昼間でも薄ぐらい三畳の間へ、大声をぶちまけて、
「作爺さん、いま帰(けえ)った。チョビ安さんのお里帰りだ。お土産を持って来たぜ」
暗さに眼がなれてみると、その三畳はみじめをきわめた乱雑さで、壁には、お爺さんとお美夜ちゃんの浴衣(ゆかた)が二、三枚だらりと掛かり、その下の壁の破れから、隣の家の光線(ひかり)が射しこんでいる始末。商売用の羅宇(らう)のなおし道具は、隅に押しこめられて、狭い部屋いっぱいに、鉋屑(かんなくず)が散らばっているんです。
そこにうごめいている影――作爺さんは、チョビ安の出現と同時に、何かひどく狼狽して、今まで削っていた小さな木片(きぎれ)を手早く押入れへほうりこみ、ぴっしゃり唐紙をしめきって、
「な、な、なんだ。チョビ安じゃあねえか。どうした」
と、せきこんできく作爺さんの声には、チョビ安を迎える喜びと、隠していたものを見られはしなかったかという恐れとが、まじっているので――。
ほんとうは彫刻師なのです、この作爺さんは。
何か故あって、この裏長屋に身をひそめ、孫のお美夜ちゃんを相手に、羅宇直(らうなお)しの細い煙を立ててはいるものの、芸術的な本能やむにやまれず、捨てたはずの鑿(のみ)を取っては、こうして日夜人知れず、何かしきりに彫っているんです。
その彫刻師という正体を、なぜかあくまで人に隠しておきたい作爺さんは、言い訳がましい眼とともに、そこらの木屑を片づけ、やっとチョビ安のために坐る場所を作ってやりながら、
「いったいきょうまでどこにどうしていたのだ、チョビ安。オ! 見りゃあ侍の雛形のような服装(なり)をしているが――その大きな箱包みは、なんだい」
重要らしい顔で、静かにあがりこんだチョビ安は、
「わかる時が来れゃあ、何もかもわかる。それまで何も言わず、きかずに、この箱を預かってもらいてえんだ」
「それゃあ、ほかならねえお前の頼みだから、預からねえものでもねえが――」
と、ふしぎそうな作爺さんの顔を、チョビ安はにやりと見上げて、
「おいらの身は決して心配することはねえ。それから、この箱がここにある間、入れかわりいろんな侍達が、なんのかんのと顔を出すかも知れねえが、そんな物は預かっていねえと、どこまでも白(しら)をきってもらいてえんだ。おいらはこれで、また当分来られねえかも知れねえから――」
「あら、来たと思ったら、もう帰るの。つまんないったらないわ」
鼻声のお美夜ちゃんは、また涙顔です。
矢文(やぶみ)
一
「起きろっ……」
刀のこじりが、とんと土に音立てて――。
「ウーム」
答えるともなく呻いて、眼を開けた丹下左膳の瞳に、上からのし掛かるようにのぞいている顔が映った。一人(ひとり)、二人(ふたり)、三人(にん)――。
清水粂之助(しみずくめのすけ)、風間兵太郎(かざまへいたろう)らの率いる壺捜索の一隊。
こけ猿の茶壺が、この橋下のほっ立て小屋に住む、丹下左膳の手にあることは、あの鼓の与吉が承知なのだ。
柳生の里から江戸入りした高大之進(こうだいのしん)を隊長とする一団は、麻布本村町(あざぶほんむらちょう)、林念寺前(りんねんじまえ)の柳生の上屋敷に旅装をとくが早いか、ただちに大捜索(だいそうさく)を開始した。
茶壺は、丹下左膳におさえられてしまう。おまけに、自分があの植木屋の正体を見破って立ち騒いだばかりに、峰丹波にあの後(おく)れをとらしたのだから、つづみの与吉は、このところ本郷に対して、ことごとく首尾のわるいことばかり。亡くなった老先生のお葬式があったとは聞いたけれど、道場へはしばらく顔出しもできない始末で、例によって浅草駒形、高麗屋敷(こうらいやしき)の尺取り横町、櫛巻きお藤の家にくすぶっていたのですが、柳生の里から応援隊が入京(はい)ったと聞いて、さっそく注進(ちゅうしん)にまかりでてみると――。
おも立った連中は、捜索に散らばって、いあわせたのは、留守居格の清水粂之助、風間兵太郎、ほか五、六人の連中だけだ。
めざす壺の在所(ありか)を、この鼓の与吉が知っていると聞いては、一刻も猶予がならない。一同が帰るまで待つわけにいきませんから、さてこそこうして、今この与の公の手引きで、この左膳の蒲鉾小屋へ乗り込んで来たところ。
夜中。川風に筵があおられて、水明りで内部(なか)はほのかに明るい。
チョビ安と並んで、夢路を辿っていた丹下左膳は、手のない片袖をぶらぶらさせて、ゆっくり起き上がりました。
「武士の住居へ、案内も乞わずに乱入(らんにゅう)するとは何事だ」
「黙れっ、貴様に用があって来たのではない。あれなる茶壺を取り返しにまいったのだ」
と清水粂之助の指さす部屋の一隅には、まぎれもないこけ猿の茶壺が、古びた桐箱にはいり、鬱金(うこん)の風呂敷(ふろしき)に包まれて――。
「これは異なことを!」
片眼を引きつらせて笑った左膳、
「あの壺は、先祖代々わが家に伝わる――」
「たわごとを聞きにまいったのではないっ!」
喚(わめ)くと同時に、気の早い風間兵太郎が、その壺のほうへ走り出そうとした瞬間、左膳の長身が、床を蹴って躍り上がったかと思うと、左手がぐっと伸びて、枯れ枝の刀架けからそのまま白光(はくこう)を噴き出したのは、左膳自慢の豪刀濡れ燕……!
ざ、ざ、ざァ――っ! と筵に掛かる血しぶきの音! 伊賀勢の一人、肩を割りつけられてのけぞりました。
「この壺を持っている限り、飽きるほど人が斬れそうだぞ。フフフこれはおもしろいことになった」
濡れ燕の血ぶるいとともに、微笑む左膳を取り巻いて、剣花、一時に開きました。
チョビ安はちょこなんと起き上がって、この騒動の真ん中で眼をこすっている。
二
「危ねえっ! チョビ安っ!」
おめいた左膳の声に従って、飛びのいたチョビ安の頭上を、青閃斜めに走って捜索隊の一人、左膳めがけてもろに斬りこんできた。
狭い乞食の小屋のなかだ。
刃妖左膳として鳴らしたかれの腕前を知らないから、柳生の面々気が強いんです。
片眼のほそ長い顔、ひだり手一本に剣を取って、ニヤリと笑った立ち姿……この痩せ犬一匹何ほどのことやある……という考え。
柳生の盆地に代々剣を磨いて、殿様から草履取りにいたるまで、上下を挙げて剣客ぞろい、柳生一刀流をもって天下に鳴る人達だから、恐ろしいの、用心するのという気もちは、はじめっからないんだ。
殊に、今。
主家存亡の秘鍵を握るこけ猿の茶壺を、眼の前に見ての活躍ですから、そのすごいったら――。
左膳にしても、です。
武士(さむらい)てえものがフツフツ嫌になり、文字どおり天涯孤独の一剣居士、青天井の下に筵をはって世間的なことはいっさい御免と、まくらに通う大川の浪音を友として、欠伸(あくび)の連続の毎日を送っているところへ……ある日突然、このチョビ安なる少年が、茶壺を抱えてとびこんできた。それを追っかけてまいこんだのが、あの、顔見知りのつづみの与吉――。
それからというものは、眼まぐるしい走馬燈のよう。
本郷の道場へ助(す)け太刀(だち)に頼まれていって、意外にも柳生の若様と斬り結んだり、それが後では、その源三郎といっしょになって不知火流の門弟を斬りまくったり……。
そうかと思うと。
親のないチョビ安に同情して、父子(おやこ)となって茶壺を預かることになったのだが、その日から、毎日毎晩得体の知れない人間が、この小屋のまわりをうろつく。侍や、町人や、御用聞きふうなのや――それらがみんなこのこけ猿の茶壺を狙っているようすだ。
お申しつけの壺は、ところ天売りの小僧が持ち逃げして、あづま橋の下の、あの、白衣(びゃくえ)の幽霊ざむらい、丹下左膳という無法者の小屋にありやす……と、つづみの与の公が、司馬道場の峰丹波に復命したんだから、道場から放たれた一味のものが、夜といわず昼と言わず、この橋の下を看視しているので。
これでみると、莫大な柳生家の埋宝と壺との関連を知る者に、外部にはただひとり、この峰丹波があるのかも知れません。
とにかく……。
みずから世を捨て、世に棄てられて、呑気に暮らしているところへ思わぬことから、この変てこなうず巻きに引きずり込まれた丹下左膳、なにが何やら、まださっぱり見当がつかない。自分の立場もわからないし、無我夢中……したがって、この古ぼけた壺には何かしら大いに、曰くがあるに相違ないとは想像しているものの、サテなんのためにこうして皆が壺をつけ狙うのか、じぶんはなぜこの連中と渡り合わなければならない位置におかれたのか、叩ッ斬るにしても、その概念がハッキリしませんから、左膳独特のすごみというものが、まだちっとも出ないんです。
で、清水粂之助(しみずくめのすけ)、風間兵太郎(かざまへいたろう)らチョイと左膳をなめてかかった。
三
壺の箱を抱えてうしろにまわったチョビ安を、左膳は背に庇(かば)って、左腕の剣をふりかぶっています。
風間兵太郎にしても、清水粂之助にしても、いま仲間のひとりを斬った左膳のうで前を見ているから、十二分(ぶん)にこころを配るべきはず。
だが、
相変わらずニヤニヤ笑っている左膳に、気をゆるして、いっせいに左右から斬りこんで行った。
いったい、片手大上段、片手青眼などといって、刀を片手に取ることは、めずらしくない。しかし、それらはみな剣道定法のひとつで右片手です。
ところが、左膳は、右腕は肩からないんだから、左腕左剣……これは相手にとって、恐ろしく勝手の違うものだそうで、三寸(ずん)にして太刀風を感じ、一寸にして身をかわし、また、敵のふところ深く踏みこんで、皮を切らして肉を斬るといった実戦の場合になると、左剣に対してはそれだけの用意をもって臨まなくては微妙な刀の流れ、角度など、とっさの判断と処置をあやまって、えて遅れをとりやすいと言われております。五分五分の剣技なら、まず、左剣手のほうに勝味がある。
いわんや、剣鬼左膳……。
その、天下に冠たる左手に握られた、大業物(おおわざもの)、濡れつばめです。
「おいっ、チョビ安、血を浴びるなよ!」
と、おめいたのが掛け声――風間兵太郎の首が、バッサリ! 音を立てて筵にぶつかった。皮一枚で胴とつながったまんまで……。
一瞬間、縦横に入り乱れた斬っ尖(さき)に、壁や天井代りの筵が、ズタズタに切り裂かれて、襤褸(ぼろ)のようにたれさがった。
その破れから、左膳はヒョロリと外へ抜け出て、
「広いぞ、ここは。どこからでもこいっ!」
白い剣身に、河原の水明りが閃(せん)々と映えて、川浪のはるかかなたに夜鳴きする都鳥と、じっと伸び青眼に微動だにしない、切れ味無二の濡れ燕と――。
が、もう、向かってくるものはない。
清水粂之助をはじめ、残った四、五の柳生の侍たちは、いまの風間の最期に、度胆を抜かれてしまった。
とても、これだけの人数では手に負えない……いずれ同勢をすぐってと、怖いもの見たさに橋の上に立つ人だかりに紛れて、ひとまず立ち去ったのです。
「やりやしたね、父上」
かたわらの草むらから、ヒョッコリ出てきたのは、チョビ安だ。大きなこけ猿の箱を、両手にしっかとかかえています。
さむらいの子は、父(ちゃん)などというもんじゃアねえ。父上(ちちうえ)といえ……という左膳(さぜん)の命(めい)を奉じて、つけなくてもいいところへ、盛んに父上をつけるので。
行き当たりばったりの仮りの親でも、親のないチョビ安にとっては、やたらに父を振りまわしたいのかも知れません。
「すげえ、すげえ、おいらの父上ときたら」
チョビ安、讃嘆に眼をきらめかして、父上左膳を見あげている。
四
翌日は、カラッとした日本晴れ。
風間兵太郎ら、その他の死骸は、町方のお役人が出張して、検視をする。
「深夜におよび、これは狼藉者が乱入いたしたる故、斬り捨てましたる次第……」
という左膳の申し立てだから、役人たちはおどろいて、
「乞食小屋へ強盗がはいるとは、イヤハヤ……」
「下には下があるものでござるて」
と言いかけたやつは、左膳の一眼に、ジロリにらまれて、だまってしまった。
とにかく、押込みだというので死体はそのままおとりすて……風間兵太郎らは、いい面(つら)の皮です。
内々は、伊賀の連中ということがわかっていますから、林念寺前の柳生の上屋敷へ、そっと照会があったんですが、そんな、いっぽん腕の浪人者に斬り殺されるような者が、一人ならず、ふたり、三人、剣が生命の同藩から出たとあっては、柳生一刀流の面目まるつぶれですから、高大之進が応対して、さようなものは存ぜぬ。柳生の藩中と称しておったとすれば、とんでもない偽者(にせもの)でござるから、かってに御処置あるよう――立派に言いきってしまった。
が、とり捨てになった死骸は、ひそかに一同が引き取って、手厚く葬ってやったんです。
そして、もうこれで壺のありかはわかったし、すでに犠牲者も出たことであるから、一日も早く、一段と力をあわせて壺を奪還せねば――と誓いを新たにして、ふるい立った。
とともに、丹下左膳という人間の腕前が、いかにものすごいか、それが知れたのですから、それはウッカリ手出しはできないと、一同策をねり、議をこらして、機会をうかがうことになる。
一方……。
壺をここへ置いたのでは、危険であると見た左膳、ああしてこの日に、さっそくチョビ安に命じて、その古巣とんがり長屋の作爺さんのもとへ、こけ猿を持たして預けにやったのです。そこで、あのチョビ安の晴れの里帰りとなったというわけ。
だが、左膳もさる者。
その、壺を持たしてやる時に、同じような箱をどこからか求めてきて、同じようなふろしき包み、こけ猿はここにあると、見せかけて、相変わらず小屋の隅に飾っておくことを忘れなかったので。
チョビ安が、とんがり長屋へ出て行ったあと。
「ひでえことをしやアがる」
ブツブツつぶやいた左膳、尻(しり)はしょりをして、小屋のそとにしゃがんで、ゆうべの斬合いで破れた筵の修繕をはじめた。
陽のカンカン照る河原……小屋はゆがみ、切られた筵は縄のようにさがって、めちゃめちゃのありさま。
左膳がぶつくさひとりごとをいいながら、せっせと筵の壁をなおしておりますと……。
ピュウーン!
どこからともなく飛んで来て、眼のまえの筵に突き刺さったものがある。
結び文をはさんだ矢……矢文(やぶみ)。
橋(はし)の上下(うえした)
一
矢……といっても、ほんとの矢ではない。こどもの玩具(おもちゃ)のような、ほそい節竹のさきをとがらし、いくつにも折った紙を二つ結びにして、はさんだもの。
そいつが、頭上をかすめて飛んで来て、つくろっている筵に、ブスッ! ちいさな音を立てて刺さったから、おどろいたのは左膳で。
「なんでえ、これあ――」
ぐいと抜きとりながらあたりを見まわすと、河原をはじめ、町へ登りになっている低い赭土(あかつち)の小みちにも、誰ひとり、人影はありません。
「矢文とは、乙(おつ)なまねをしやアがる」
口のなかで言いながら、左膳、その文を矢から取って、ひらいてみた。
躍るような、肉太の大きな筆あと――りっぱな字だ。
「こけ猿の茶壺に用なし。中に封じある図面に用あり。図面に用なし。その図面の示す柳生家初代の埋めたる黄金に用あり。われ黄金に用あるにあらず。これを窮民にわかち与えんがためなり。
すなわち、細民にほどこさんがために、いずくにか隠しある柳生の埋宝に用あり。埋宝に用あるがゆえに、その埋めある場所を記す地図に用あり。地図に用あるがゆえに、その地図を封じこめある茶壺に用あり。早々壺を渡して然るべし」
無記名です……こう書いてある。
じっと紙をにらんだ丹下左膳、二、三度、読みかえしました。
はじめて知った壺の秘密――左膳はそれにおどろくとともに、もう一人新たに、なに者か別の意味でこの壺をねらっている者のあらわれたことを知って……身構えするような気もち、左膳あたりを見まわした。
依然として、森閑とした秋の真昼だ。
江戸のもの音が、去った夏の夕べの蚊柱(かばしら)のように、かすかに耳にこもるきり、大川の水は、銀灰色(ぎんかいしょく)に濁って、洋々と岸を洗っています。
「この矢文で見ると、柳生の先祖がどこかに大金を埋め隠し、その個処を図面に書きのこして、茶壺のなかに封じこめてあるのだな……ウーム、はじめて読めた、チョビ安とともにあの壺を預かりしより、昼夜何人となく、さまざまな風体をいたしてこの小屋をうかがう者のあるわけが!――そうか、そうだったのか、昨夜もまた……」
左膳は、眼のまえにたれた筵に話しかけるように、大声にひとりごと。
「しかし、貧乏人にやるとかなんとか吐かしやがって、なんにするのか知れたもんじゃアねえ。貧民に施しをするなら、このおれの手でしてえものだ。こりゃアあの壺は、めったに人手にゃア渡されねえぞ」
そう左膳が、キッと自分に言い聞かせた瞬間、あたまの上の橋の袂から、
「わっはっはっは、矢を放ちてまず遠近を定む、これすなわち事の初めなり、どうだ、驚いたか」
という、とほうもない胴間声(どうまごえ)が……。
二
まず矢を放って、遠近を定む。すなわち事のはじめなり……あっけにとられた左膳、片手に矢を握って立ったまま、声のするほうを振りかえりました。
橋の上に、人が立っている――のだが、その人たるや、ただの人間ではない。じつに異様な人物なので。
ぼうぼうの髪を肩までたらし、ボロボロの着物は、わかめのように垂れさがって、やっと土踏まずをおおうに足る尻切れ草履をはいているのだが、丈高く、肩幅広く、腕など、隆々たる筋肉の盛りあがっているのが、その縦縞の破れ単衣(ひとえ)をとおして、眼に見えるようである。熊笹(くまざさ)のような胸毛を、河風にそよがせて、松の大木のごとく、ガッシと橋上に立った姿……思いきや、街の豪傑、蒲生泰軒(がもうたいけん)ではないか!
「オウ! 貴様は、いつぞやの乞食先生――!」
と、思わず左膳は、一眼をきらめかして、驚異七分に懐しさ三分の叫びをあげたが、橋の上の泰軒居士は、悠々閑々(ゆうゆうかんかん)たるもので、
「ウワッハッハッハ、乞食、乞食をよぶに乞食をもってす」
と、そらうそぶいた。
「つまり、同業じゃナ。爾後(じご)、昵懇(じっこん)に願おう」
ケロリとしている。
代々秩父(ちちぶ)の奥地に伝わり住む郷士の出で、豊臣の残党とかいう。それかさあらぬか、この徳川の治世に対して一大不平を蔵し、駕(が)を枉(ま)げ、辞を低うして仕官を求める諸国諸大名をことごとく袖にして、こうして、酒をくらってどこにでも寝てしまう巷の侠豪、蒲生泰軒です。
黄金(こがね)を山と積んでも、官位を囮(おとり)にしても、釣りあげることのできない大海の大魚……いわば、まあ、幕府にとっては一つの危険人物。
学問があるうえに、おまけに、若いころ薩南に遊んで、同地に行なわれる自源坊(じげんぼう)ひらくところの自源流(じげんりゅう)の秘義をきわめた剣腕、さすがの丹下左膳も、チョット一目(もく)おいているんです。
その泰軒蒲生先生――見ると、相変わらず片手に貧乏徳利をブラ下げ、片手に、竹をまげて釣糸でも張ったらしい、急造(きゅうぞう)の小弓を持っている。
今の矢文の主は、この蒲生泰軒――と知って、左膳二度ビックリ、だが、負けずに、ケロリとした顔で、
「フフン、手前(てめえ)にゃア用あねえが、てめえのその鬚(ひげ)っ面に用がある。手前のひげっ面にゃア用はねえが、その鬚(ひげ)っ面のくっついている首に少々ばかり用があるのだ。首が所望だっ……と、おらあ言いてえよ、うふふふっ」
泰軒は、徳利といっしょに、両手をうしろにまわして、ユックリ背伸びをしました。
「化け物――」
と、静かな声で、左膳に呼びかけた。
「なんだ」
化け物といわれて、左膳は平気に返事をしている。
自分から、ばけものの気(き)……。
橋の上と下とで、変り物と化け物との、珍妙な問答はつづいてゆく。
「これ、其方(そち)ごとき者でも、生ある以上、動物の本能といたして、日一刻も長生きしたいと願うであろうナ、どうじゃ……」
三
生ある以上、いつまでも生きていたかろう、どうじゃ……という、禅味を帯びた泰軒のことばに、左膳はニヤッと笑って、
「なんのつもりで、そんなことをいうのか知らねえが、おらア何も、むりに生きていてえこたアねえ。生まれたついでに、生きているだけのことだ。名分(めいぶん)せえ立ちゃア、いま死んでもいいのだが、それがどうした――」
橋の下から見あげて、そう問いかえす左膳の片眼は、秋陽を受けて異様に燃えかがやいている。
泰軒はぐっと欄干につかまって、乗り出した。
「ウム、小気味のよいことをぬかすやつじゃナ。生きておりたいならば、壺を渡せとわしは言うのじゃ」
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