丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

       四

 逃げも隠れもせぬ。ここに待っておるから、丹波に告げてこい……源三郎はそうは言ったが、よもやあの刀を帯びない植木屋すがたで、暢気(のんき)に丹波の来るのを待ってはいまい――与吉はそう思って、丹波のあとからついていった。
 司馬道場の代稽古、十方不知火の今では第一のつかい手峰丹波の肩が、いま与吉がうしろから見て行くと、ガタガタこまかくふるえているではないか。
 剛愎(ごうふく)そのものの丹波、伊賀の暴れん坊がこの屋敷に入りこんでいることを、さわらぬ神に祟(たた)りなしと、今まで知らぬ顔をしてきたものの、もうやむを得ない。今宵ここで源三郎の手にかかって命を落とすのかと、すでにその覚悟はできているはず。
 死ぬのが怖くて顫(ふる)えているのではない。
 きょうまで自分が鍛えに鍛えてきた不知火流も、伊賀の柳生流には刃が立たないのかと、つまり、名人のみが知る業(わざ)のうえの恐怖なので。
「どうせ、あとで知れる。お蓮さまや萩乃様をはじめ、道場の若い者には、何もいうなよ。ひとりでも、無益な命を落とすことはない」
 と丹波が、ひとりごとのように、与吉に命じた。
 ずっと奥の先生の病間(びょうま)のほうから、かすかに灯りが洩れているだけで、暗い屋敷のなかは、海底のように静まりかえっている。
「だが、峰の殿様、どうして植木屋になぞ化けて、はいりこんだんでげしょう。根岸の植留の親方を、抱きこんだんでしょうか」
 丹波は、答えない。無言で、大刀に反(そ)りを打たせて、空気の湿った夜の庭へ、下り立った。
 雲のどこかに月があるとみえて、ほのかに明るい。樹の影が、魔物のように、黒かった。
 丹波のあとから、与吉がそっとさっきの裏木戸のところへ来てみると!
 まさか待っていまいと思った柳生源三郎が、ムッツリ石に腰かけている。
 丹波の姿を見ると、独特の含み笑いをして、
「キ、来たな。では、久しぶりに血を浴びようか」
 と言った、が、立とうともしない。
 四、五間(けん)の間隔をおいて、丹波は、ピタリと歩をとめた。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあそう早くからあきらめることはない」
 源三郎が笑って、石にかけたまま紺の法被(はっぴ)の腕ぐみをした瞬間、
「では、ごめん……」
 キラリ、丹波の手に、三尺ほどの白い細い光が立った。抜いたのだ。

       五

 あの与吉めが、あんなに泣いたり騒いだりして、取り戻そうとしたこの壺は、いったい何がはいっているのだろう……。
 左膳は、河原の畳にあぐらをかいて、小首を捻(ひね)った。
 竹のさきに蝋燭(ろうそく)を立てたのが、小石のあいだにさしてあって、ボンヤリ菰(こも)張りの小屋を照らしている。
 きょうから仮りの父子(おやこ)となった左膳と、チョビ安――左膳にとっては、まるで世話女房が来たようなもので、このチョビ安、子供のくせにはなはだ器用(きよう)で、御飯もたけば茶碗も洗う。
 珍妙なさし向いで、夕飯をすますと、
「安公」
 と左膳は、どこやら急に父親めいた声音(こわね)で、
「この壺をあけて見ろ」
 川べりにしゃがんで、ジャブジャブ箸を洗っていたチョビ安、
「あい。なんでも父(ちゃん)――じゃなかった、父上の言うとおりにするよ。あけてみようよね」
 と小屋へかえって、箱の包みを取りだした。布づつみをとって、古い桐箱のふたをあけ、そっと壺を取りあげた。
 高さ一尺四、五寸の、上のこんもりひらいた壺で、眼識ないものが見たのでは、ただのうすぎたない瀬戸ものだが、焼きといい、肌といい、薬のぐあいといい、さすが蔵帳(くらちょう)の筆頭にのっている大名物(おおめいぶつ)だけに、神韻(しんいん)人に迫る気品がある。
 すがりといって、赤い絹紐を網に編んで、壺にかぶせてあるのだ。
 そのすがりの口を開き、壺のふたをとろうとした。壺のふたは、一年ごとに上から奉書の紙を貼り重ねて、その紙で固く貼りかたまっている。
「中には、なにが……?」
 と左膳の左手が、その壺のふたにかかった瞬間、いきなり、いきおいよく入口の菰をはぐって飛びこんできたのは、さっき逃げていった鼓の与吉だ。
 パッと壺の口をおさえて、左膳は、しずかに見迎えた。
「また来たナ、与の公――」
 と、壺とチョビ安を背に庇(かば)って、
「汝(うぬ)ア、この壺にそんなに未練があるのかっ」
 ところが、与吉は立ったまま口をパクパクさせて、
「壺どころじゃアござんせん。あっしア、今、本郷妻恋坂からかけつづけてきたんだ。丹下の殿様、あなた様はさっき、思うさま人の斬れるおもしれえこたアねえかとおっしゃいましたね。イヤ、その人斬り騒動が持ちあがったんだ。ちょっと来ておくんなさい。左膳さまでなくちゃア納まりがつかねえ。相手は伊賀の暴れン坊、柳生源三郎……」

       六

「何イ? 伊賀の柳生……?」
 突ったった左膳、急にあわてて、頬(ほお)の刀痕をピクピクさせながら、チョビ安をかえり見、
「刀を――刀を取れ」
 と、枯れ枝の刀架けを指さした。
 そこに掛かっている破れ鞘……鞘は、見る影もないが、中味は相模大進坊(さがみだいしんぼう)、濡(ぬ)れ燕(つばめ)の名ある名刀だ。
 濡れ紙を一まい空にほうり投げて、見事にふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめ――。
 左膳はもう、ゾクゾクする愉快さがこみあげて来るらしく、濡れ燕の下げ緒を口にくわえて、片手で衣紋(えもん)をつくろった。
「相手は?」
「司馬道場の峰丹波さまで」
「場所は?」
「本郷の道場で、ヘエ」
「おもしろいな。ひさしぶりの血のにおい……」
 と左膳、あたまで筵を押して、夜空の下へ出ながら、
「安! 淋しがるでないぞ」
「父上、人の喧嘩に飛びこんでいって、怪我をしちゃアつまんないよ」
 と、チョビ安は、こけ猿の壺を納(しま)いこんで、
「もっとも、それ以上怪我のしようもあるめえがネ」
 と言った。
 チョビ安が左膳を父上と呼ぶのを聞いて、与吉は眼をパチクリさせている。左膳はもう与吉をしたがえて、河原から橋の袂へあがっていた。
 こけ猿の壺は、開かれようとして、また開かれなかった。まだ誰もこの壺のふたをとって、内部(なか)[#ルビの「なか」は底本では「なな」]を見たものはないのである。
 気が気でない与吉は、辻待ちの駕籠に左膳を押しこんで、自分はわきを走りながら、まっしぐらに本郷へ……。
 仔細も知らずに、血闘の真っただなかへとびこんでいく左膳、やっと生き甲斐を見つけたような顔を、駕籠からのぞかせて、
「明るい晩だなあ。おお、降るような星だ――おれあいってえどっちへ加勢するんだ」
 駕籠舁(か)きども、ホウ! ホウ! と夜道を飛びながら、気味のわるい客だと思っている。
 道場へ着いて裏木戸へまわってみると……驚いた。
 シインとしている。源三郎は石に腰かけ、四、五間離れて、丹波が一刀を青眼に構えて、微動だにしない。あれから与吉が浅草へ往復するあいだ、ずいぶんたったのに、まださっきのまんまだ。

       七

 与吉が、そっとうしろからささやいて、
「丹下さま、こいつアいってえどうしたというんでげしょう。あっしが、あなた様をお迎いに飛び出した時と、おんなじ恰好(かっこう)だ。あれからずっとこのまんまとすると、二人とも、おっそろしく根気のいいもんでげすなア」
 その与吉の声も、左膳の耳には入らないのか、かれは、蒼白(まっさお)な顔をひきつらせて、凝然と樹蔭に立っている。
 ひしひしと迫る剣気を、その枯れ木のような細長い身体いっぱいに、しずかに呼吸して、左膳は、別人のようだ。
 与吉とかれは、裏木戸の闇の溜まりに、身をひそめて、源三郎と丹波の姿を、じっと見つめているのである。
 藍を水でうすめたような、ぼうっと明るい夜だ。物の影が黒く地に這って……耳を抉(えぐ)る静寂。
 夏の晴夜は、更(ふ)けるにしたがって露がしげって、下葉(したば)に溜まった水粒が、ポタリ! 草を打つ音が聞こえる――。
 源三郎は、その腰をおろしている庭石の一部と、化したかのよう……ビクとも動かない。
 白い鏡とも見える一刀を、青眼に取ったなり、峰丹波は、まるで大地から生えたように見える。斬っ尖(さき)ひとつうごかさず、立ったまま眠ってでもいるようだ。
 二分、三分、五分……この状態はいつ果つべしともなく、続いていきそうである。
 邸内(なか)では、だれもこの、裏庭にはらんでいる暴風雨(あらし)に気づかぬらしく、夜とともに静まりかえっている。病先生のお部屋のあたりに、ぱっと灯が洩れているだけで、さっきまで明りの滲んでいた部屋部屋も、ひとつずつ暗くなってゆく。
 左膳は、口の中で何やら唸りながら、源三郎と丹波を交互(かたみ)に見くらべて、釘づけになっているのだ。二人は、左膳と与吉の来ていることなど、もとより意識にないらしい。
 と、たちまち、ふしぎなことが起こったのだ。
 丹波の口から、低い長い呻き声が流れ出たかと思うと……かれ丹波、まるで朽ち木が倒れるように、うしろにのけぞって、ドサッ! 地ひびき打って仰向けに倒れた。
 かた手に抜刀をさげたまま――そして、草に仰臥したなり、その大兵(たいひょう)のからだは長々と伸びきって、すぐ眠りにはいったかのよう……丸太のごとくうごかない。
 むろん斬られたのではない。気に負けたのである。
 源三郎は、何ごともなかったように、その丹波のようすを見守っている。
 左膳が、ノッソリと、その前に進み出た。

       八

「オウ、若えの」
 と左膳は、源三郎へ顎をしゃくって、
「この大男は、じぶんでひっくりけえったんだなア」
 源三郎は、不愛想な顔で、左膳を見あげた。
「ウム、よくわかるな。余はこの石に腰かけて、あたまの中で、唄を歌っておったのだよ。全身すきだらけ……シシシ然るに丹波は、それがかえって怖ろしくて、ど、どうしても撃ちこみ得ずに、固くなって気をはっておるうちに、ははははは、じぶんで自分の気に負けて――タ丹波が斬りこんでまいったら、余は手もなく殺(や)られておったかも知れぬに、こらッ、与吉と申したナ。その丹波の介抱をしてやれ。すぐ息を吹きかえすであろうから」
 与吉はおずおずあらわれて、
「ヘ、ヘエ。いや、まったくどうも、おどろきやしたナ」
 と意識を失っている丹波に近づき、
「といって、この丹波様を、あっしひとりで、引けばとて押せばとて、動こう道理はなし……弱ったな」
 左膳へ眼をかえした源三郎、
「タ、誰じゃ、貴様は」
 ときいた。
 眼をトロンとさせて、酔ったようによろめきたっている左膳は、まるで、しなだれかかるように源三郎に近づき、
「誰でもいいじゃアねえか。おれア、伊賀の暴れン坊を斬ってみてえんだ。ヨウ、斬らせてくれ、斬らせてくれ……」
 甘えるがごとき言葉に、源三郎は、気味わるげに立ちあがって、
「妙(みょう)なやつだ」
 つぶやきながら、倒れている丹波のそばへ行って、
「カカカ借りるぞ」
 と、その握っている刀をもぎとり、さっと振りこころみながら、
「植木屋剣法――うふふふふふ」
 と笑った。
 変わった構えだ。片手に刀をダラリとさげ、斬っさきが地を撫でんばかり……足(そく)を八の字のひらき、体をすこしく及び腰にまげて、若い豹(ひょう)のように気をつめて左膳を狙うようす。
 一気に!――と源三郎、機を求めて、ジリ、ジリ! 左へ左へと、まわってくる。
 濡れ燕の豪刀を、かた手大上段に振りかぶった丹下左膳、刀痕の影を見せて、ニッと微笑(わら)った。
「これが柳生の若殿か。ヘッ、青臭え、青臭え……」
 夜風が、竹のような左膳の痩せ脛に絡む。

       九

「おウ、たいへんだ! 鮪(まぐろ)があがった。手を貸してくんねえ」
 飛びこんできた与吉の大声に、道場の大部屋に床を敷きならべて、がやがや騒いでいた不知火流の内弟子一同、とび起きた。
「与吉とか申す町人ではないか。なんだ、この夜ふけに」
「まぐろが、なんとしたと? 寝ぼけたナ、貴様」
 口々にどなられて、与吉はけんめいに両手を振り、
「イエ、丹波様が、お裏庭で、鮪(まぐろ)のようにぶっ倒れておしまいなすったから、皆さんのお手を拝借してえんで」
「ナニ、峰先生が――」
 与吉の話に、深夜の道場が、一時に沸き立った。それでも、瀕死の老先生や、お蓮様や萩乃のいる奥には知らせまいと、一同、手早く帯しめなおして、
「日本一の乱暴者が二人、斬り合っておりますから、そのおつもりで……」
 という与吉の言葉に、若い連中せせら笑いながら、手に手に大刀をひっ掴んで、うら庭へ――。
 闇黒(やみ)から生まれたように駈けつけて来る、おおぜいの跫音(あしおと)……左膳がそれに耳をやって、
「源三郎、じゃまがへえりそうだナ」
 と言った瞬間、地を蹴って浮いた伊賀の暴れん坊、左膳の脇腹めがけて斬りこんだ一刀……ガッ! と音のしたのは、濡れ燕がそれを払ったので、火打ちのように、青い火花が咲き散った。
「ウム、丹下左膳に悪寒(さむけ)をおぼえさせるのア、おめえばかりだぞ」
 言いながら左膳、おろした刀をそのまま片手突きに、風のごとく踏みこんだのを、さすがは柳生の若様、パパッと逃げて空(くう)を突かせつつ……フと気がつくと、二人の周囲をぐるりかこんで、一面の剣輪、剣林――。
 筑紫の不知火が江戸に燃えたかと見える、司馬道場の同勢だ。
 気を失った峰丹波の身体は、手早く家内(なか)へ運んだとみえて、そこらになかった。
 この騒ぎが、奥へも知れぬはずはない。庭を明るくしようと、侍女たちが総出で雨戸を繰り開け、部屋ごとに、縁端(えんばた)近く燭台を立てつらねて、いつの間にか、真昼のようだ。廊下廊下を走りまわり、叫びかわすおんな達の姿が、庭からまるで芝居のように見える。
 左膳は、一眼をきらめかせて、源三郎をにらみ、
「なお、おい、源公。乗合い舟が暴風(しけ)をくらったようなものよなア。おれとおめえは、なんのゆかりもねえが、ここだけアいっしょになって、こいつらを叩っ斬ろうじゃアねえか」

       十

 はからずも顔をあわせ、焼刃(やいば)をあわせた左膳と源三郎……今後長く、果たして敵となるか、味方となるか――。
「では、この勝負、一時お預けとするか」
「さよう、いずれ後日に……」
 ほほえみかわした二人は、サッと背中を合わせて、包囲する司馬道場の若侍たちへ、怒声を投げた。
「こいつらア、金物の味を肉体(からだ)に知りてえやつは前へ出ろっ!」
 と左膳、ふりかぶった左腕の袖口に、おんな物(もの)のはでな長じゅばんを、チラチラさせて。
 源三郎は、丹波の大刀を平青眼、あおい長い顔に、いたずらげな眼を笑わせて、
「命不知火(いのちしらぬい)、と申す流儀かの」
 与吉は、丹波について部屋へ行ったとみえて、そこらに見えなかった。源三郎が植木屋すがたに身をやつして、入りこんでいたことは、与吉は丹波に口止めされたので、一同にいってない。植木屋にしては、武士めいた横柄(おうへい)な口をきくやつ……皆は、そう思いながら、
「これはおもしろいことになったぞ」
「真剣は、今夜がはじめてで――」
「拙者が、まず一刀を……」
 自分らの腕が低いから、相手のえらさ、強さがわからない。
 白林いっせいに騒いで、斬り込んできた。
「殺生(せっしょう)だが……」
 つぶやいた源三郎、ツと左膳の背に背押しをくれたかと思うと、上身を前へのめらして、
「ザ、ザ、雑魚(ざこ)一匹ッ!」
 つかえながら、横なぎの一刀、ふかく踏みこんできた一人の脇腹を諸(もろ)に割りつけて、
「…………!」
 声のない叫びをあげたその若侍は、おさえた手が、火のように熱い自分の腹中へ、手首までめいりこむのを意識しながら、グワッと土を噛み、もう一つの手に草の根をむしって――ものすごい断末魔。
 同時に左膳は。
 右へ来た一人をかわす秒間に、
「あははははは、あっはっはっは――」
 狂犬のような哄笑を響かせたかと思うと! 濡れつばめの羽ばたき……。
 もうその男は、右の肩を骨もろとも、乳の下まで斬り下げられて、歩を縒(よ)ってよろめきつつ、何か綱にでも縋ろうとするように、両手の指をワナワナとひらいて、夜の空気をつかんでいる。
 左膳のわらいは、血をなめた者の真っ赤な哄笑であった。
 不知火の一同、思わずギョッとして、とり巻く輪が、ひろがった。

   流(なが)れ星(ぼし)


       一

 庭には斬合いが……と聞いても、萩乃は、なんの恐怖も、興味も、動かさなかった。
 剣客のむすめだけに、剣のひびきに胆をひやさぬのは、当然にしても、じつは萩乃、この数日なにを見ても、何を聞いても、こころここにないありさまなのだった。
 屋敷中に、パッと明るく灯が輝いて、婢(おんな)たちの駈けまわるあわただしい音、よびあう声々――遠く裏庭のほうにあたっては、多人数のあし音、掛け声が乱れ飛んで、たいがいの者なら、ゾクッと頸すじの寒くなる生血の気はいが、感じられる。
 にもかかわらず、派手な寝まきすがたの萩乃は、この大騒動をわれ関せず焉(えん)と、ぼんやり床のうえにすわって、もの思いにふけっているのだ。
 ぼんぼりの光が、水いろ紗(しゃ)の蚊帳を淡く照らして、焚きしめた香のかおりもほのかに、夢のような彼女の寝間だ。
 ほっと、かすかな溜息が、萩乃の口を逃げる。
 恋という字を、彼女は、膝に書いてみた。そして、ぽっとひとりで桜いろに染まった。
 あの植木屋の面影が、この日ごろ、鳩のような萩乃の胸を、ひとときも去らないのである。
 無遠慮(ぶえんりょ)に縁側に腰かけて、微笑したあの顔。丹波の小柄をかわして、ニッとわらった不敵な眼もと……なんという涼しい殿御(とのご)ぶりであろう!
 植木屋であの腕並みとは?……丹波はおどろいて、平伏して身もとを問うたが。
「ああ、よそう。考えるのは、よしましょう」
 と萩乃は口に出して、ひとりごとをいった。
「自分としたことが、どうしたというのであろう――お婿さまときまった柳生源三郎様が、もうきょうあすにもお見えになろうというのに、あんな者に、こんなに心を奪われるなどとは」
 ほんとに、あの男は、卑しい男なのだ、と萩乃は、今まで日になんべんとなく、じぶんにいい聞かしていることを、また胸にくりかえして。
「植木屋の下職(したしょく)などを、いくら想ったところで、どうなるものでもない。じぶんには、父のきめた歴(れっき)とした良人(おっと)が、いまにも伊賀から乗りこんでこようとしている……」
 でも、伊賀の暴れん坊などと名のある、きっと毛むくじゃらの熊のような源三郎様と、あのすっきりした植木屋と――ほんとうに世の中はままならぬ。でも、恋に上下の隔てなしという言葉もあるものを……。
「萩乃さん、まだ起きていたのかえ」
 萩乃は、はっとした。継母のお蓮さまが、艶(えん)な姿ではいってきた。

       二

 気をうしなった峰丹波は。
 自室(へや)へかつぎこまれるとまもなく、意識をとり戻したが、おのが不覚をふかく恥じるとともに、なにか考えるところがあるかして、駈けつけたお蓮様をはじめ介抱の弟子たちへ、
「いや、なに、面目次第もござらぬ。ちと夜風に当たりかたがたお庭の見まわりをいたそうと存じて、うら木戸へさしかかったところ、何やら魔のごときものが現われしゆえ、刀をふるって払わんとしたるも、その時すでに、霧のごとき毒気を吹きかけられてあの始末……イヤ、丹波、諸君に会わす顔もござらぬ」
 と夢のような話をして、ごまかしてしまったが――心中では、かの柳生源三郎がどうして植木屋になぞ化けて当屋敷へ? と、恐ろしい疑問はいっそう拡大してゆくばかり……。
 しかも、素手で、一合も交じえずして自分を倒したあの剣気、迫力!――そう思うと丹波は、乗りかけた船とはいえ、この容易ならぬ敵を向うにまわして、道場横領の策謀に踏み出したものだと、いまさらのごとく、内心の恐怖は木の葉のように、かれの巨体をふるわせてやまなかったのである。
 今……。
 お蓮さまはこの丹波の話を、萩乃の部屋へ持って来て、
「ほんとに、白い着ものをきた一本腕の、煙のような侍が、どこからともなく暴れこんできたんですって。丹波のはなしでは、それを相手どって、一手に防ぎとめているのが、まあ、萩乃さん、誰だと思います、あの、若い植木屋なんですって」
「あら、あの、いつかの植木屋――?」
 と眼を上げた萩乃の顔は、たちまち、朱で刷(は)いたように赤い。
「ですけれど、植木屋などが出ていって、もしものことがあっては……」
 と、萩乃はすぐ、男の身が案じられて、血相かえ、おろおろとあたりへ眼を散らして、起ちかけるのを、お蓮さまは何も気づかずに、
「いえ、みんな出ていって植木屋に加勢しているらしいの。でも、なんだか知らないけど、あの植木屋にまかせておけば、大丈夫ですとさ。丹波がそういっていますよ。丹波がアッとたおれたら、植木屋がとんできて、御免といって丹波の手から、刀を取って、その狼藉者(ろうぜきもの)に立ちむかったんですって」
 とお蓮様も、かの植木屋が源三郎とは、ゆめにも知らない。
「たいへんな腕前らしいのよ、あの美男の植木屋……」
 そう言いさしたお蓮さまの瞳(め)には、つと、好色(いたずら)っぽいあこがれの火が点ぜられて――。
 二人のおんなは、言いあわしたように口をつぐみ、耳をそばだてた。
 裏庭のほうからは、まだ血戦のおめきが、火気のように強く伝わってくる。
 と思うと、時ならぬ静寂が耳を占めるのは、敵味方飛びちがえてジッと機をうかがっているのであろう……。
 と、このとき、けたたましいあし音が長廊下を摺ってきて、病間にのこして来た侍女の声、
「奥様、お嬢さま! こちらでいらっしゃいますか。あの、御臨終でございます。先生がもう――」

       三

 今まで呼吸(いき)のつづいたのが、ふしぎであった。
 医師はとうに匙(さじ)を投げていたが、源三郎に会わぬうちは……という老先生の気組み一つが、ここまでもちこたえてきたのだろう。
 丹波とお蓮様を首謀者に、道場乗っ取りの策動が行なわれているなどとは、つゆ知らぬ司馬先生――めざす源三郎が、とっくのむかしに品川まで来て、供のもの一同はそこで足留めを食い、源三郎だけが姿を変えて、このやしきに乗りこんでいようとは、もとよりごぞんじない。
 ただ、乱暴者が舞いこんだといって、今、うら手にあたって多勢の立ち騒ぐ物音が、かすかに伝わってきているが、先生はそれを耳にしながら、とうとう最期の息をひきとろうとしています。
 燭台を立てつらねて、昼よりもあかるい病間……司馬先生は、眼はすっかり落ちくぼみ、糸のように痩せほそって、この暑いのに、麻の夏夜具をすっぽり着て、しゃれこうべのような首をのぞかせている。もう、暑い寒いの感覚はないらしい。
 はっはっと喘(あえ)ぎながら、
「おう、不知火が見える。筑紫の不知火が――」
 と口走った。たましいは、すでに故郷へ帰っているとみえる。
 並(な)みいる医師や、二、三の高弟は、じっとあたまをたれたまま、一言も発する者はない。
 侍女に導かれて、お蓮様と萩乃が泣きながらはいってきた。
 覚悟していたこととはいえ、いよいよこれがお別れかと、萩乃は、まくらべ近くいざりよって、泣き伏し、
「お父さま……」
 と、あとは涙。お蓮の眼にも、なみだ――いくらお蓮さまでも、こいつは何も、べつに唾をつけたわけじゃアない。
 女性というものは、ふしぎなもので、早く死んでくれればいいと願っていたお爺さんでも、とうとう今あの世へ出発するのかと思うと、不意と心底から、泪(なみだ)の一つぐらいこぼれるようにできているんです。
 よろめきながら、峰丹波がはいってきた。
 やっと意識をとり戻してまもないので、髪はほつれ、色蒼(あお)ざめて、そうろうとしている。
「先生ッ!」
 とピタリ手をついて、
「お心おきなく……あとは、拙者が引き受けました」
 こんな大鼠(おおねずみ)に引き受けられては、たまったものじゃない。
 すると、先生、ぱっと眼をあけて、
「おお、源三郎どのか。待っておったぞ」
 と言った。丹波がぎょっとして、うしろを振り向くと、だれもいない。死に瀕した先生の幻影らしい。
「源三郎殿、萩乃と道場を頼む」
 丹波、仕方がないから、
「はっ。必ずともにわたくしが……」
「萩乃、お蓮、手を――手をとってくれ」
 これが最後の言葉でした。先生の臨終と聞いて、斬合いを引きあげてきた多くの弟子たちが、どやどやッと室内へ雪崩(なだれ)こんできた。

       四

 一人が室内から飛んできて、斬りあっている連中に、何かささやいてまわったかと思うと……。
 一同、剣を引いて、あわただしく奥の病間のほうへ駈けこんでいった後。
 急に相手方がいなくなったので、左膳と源三郎は、狐につままれたような顔を見あわせ、
「なんだ、どうしたのだ――」
「知らぬ。家の中に、なにごとか起こったとみえる」
「烏(からす)の子が巣へ逃げこむように飛んで行きおった、ははははは」
「はっはっはっ、なにが何やら、わけがわからぬ」
 ふたりは、腹をゆすって笑いあったが、左膳はふと真顔にかえって、
「わけがわからぬといえば、おれたちのやり口も、じぶんながら、サッパリわけがわからぬ。おれとおめえは、今夜はじめて会って、いきなり斬り結び、またすぐ味方となり、力をあわせて、この道場の者と渡り合った……とまれ、世の中のことは、すべてかような出たらめでよいのかも知れぬな、アハハハハ」
「邪魔者が去った、いま一手まいろうか」
 闇の中で、あお白く笑った源三郎へ、丹下左膳は懶(ものう)げに手を振り、
「うむ、イヤ、また後日の勝負といたそう。おらアお前(めえ)をブッタ斬るには、もう一歩工夫が肝腎だ」
「いや、拙者も、尊公のごとき玄妙不可思議(げんみょうふかしぎ)な手筋の仁(じん)に、出会ったことはござらぬ。テ、テ、天下は広しとつくづく思い申した」
 濡れ燕を鞘におさめた左膳と、峰丹波の刀を草に捨てて、もとの丸腰の植木屋に戻った柳生源三郎と――名人、名人を知る。すっかり仲よしになって本郷の道場をあとに、ブラリ、ブラリ歩きだしながら、左膳、
「だが、おらアそのうちに、必ずお前の首を斬り落とすからナ。これだけは言っておく」
「うははははは、尊公に斬り落とさるる首は、生憎(あいにく)ながら伊賀の暴れン坊、持ち申さぬ。そ、それより、近いうちに拙者が、ソレ、その、たった一つ残っておる左の腕(かいな)をも、申し受ける機(おり)がまいろう」
 左膳はニヤニヤ笑って歩いて行くが、これでは、仲よしもあんまり当てにならない。
 ツと立ちどまって、空を仰いだ源三郎、
「あ、星が流れる……ウ、ム……さては、ことによると、司馬道場の老先生が、お亡くなりに――し、しまったっ!」
「あばよ」
 左膳は横町へ、
「星の流れる夜に、また会おうぜ」
 ひとこと残して、ズイと行ってしまった。
 もの思いに沈んで、うなだれた源三郎は、それから品川へ帰って行く――。
 根岸の植留が、司馬道場へ入れる人工(にんく)をあつめていると聞きだして、身をやつして桂庵(けいあん)の手をとおしてもぐりこんだ源三郎、久しぶりに八ツ山(やま)下の本陣、鶴岡市郎右衛門方へ帰ってきますと、安積玄心斎(あさかげんしんさい)はじめ供の者一同、いまだにこけ猿の茶壺の行方は知れず、かつは敵の本城へ単身乗りこんで行った若き主君の身を案じて、思案投げ首でいました。

   旅(たび)の衣(ころも)は


       一

 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で……そんな暢気(のんき)なんじゃない。
 その吉田は。
 松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)七万石の御城下、豊川稲荷(とよかわいなり)があって、盗難よけのお守りが出る。たいへんなにぎわい――。
 ギシと駕籠の底が地に鳴って、問屋場の前です。駕籠かきは、あれは自分から人間の外をもって任じていたもので、馬をきどっていた。
 馬になぞらえて、お尻のところへふんどしの結びを長くたらし、こいつが尾のつもり、尿(いばり)なんか走りながらしたものだそうで、お大名の先棒をかついでいて失礼があっても、すでに本人が馬の気でいるんだから、なんのおとがめもなかったという。
 冬の最中、裸体で駕籠をかついで、からだに雪が積もらないくらい精の強いのを自慢にした駕籠かき、いまは真夏だから、くりからもんもんからポッポと湯気をあげて……トンと問屋場のまえに駕籠をおろした二組の相棒、もう、駕籠へくるっと背中を見せて、しゃがんでいる。
 駕籠は二梃(ちょう)――早籠(はや)です。
 先なる駕籠の垂れをはぐって、白髪あたまをのぞかせたのは、柳生対馬守の江戸家老、田丸主水正(たまるもんどのしょう)で、あとの駕寵は若党儀作(ぎさく)だ。
 金魚くじが当たって、来年の日光御用が柳生藩に落ちたことを、飛脚をもって知らせようとしたが、それよりはと、主水正、気に入りの若党ひとりを召しつれて、東海道に早籠(はや)を飛ばし、自分で柳生の里へ注進に馳せ戻るところなので……。
 駕籠から首をつき出した田丸主水正、「おいっ! 早籠(はや)じゃ。御油(ごゆ)までなんぼでまいるっ」
 駅継(えきつ)ぎなのです。
 筆を耳へはさんだ問屋場の帳づけが、
「へえ、二里半四町、六十五文(もん)!」
「五十文(もん)に負けろっ!」
 円タクを値切るようなことをいう。
「定(き)めですから、おウ、尾州(びしゅう)に因州(いんしゅう)、土州(としゅう)に信州(しんしゅう)、早籠(はや)二梃だ。いってやんねえ」
 ノッソリ現われたのは、坊主あたまにチャンチャンコを着たのや、股に大きな膏薬を貼ったのやら……。
 エイ! ホウ! トットと最初(はな)から足をそろえて、息杖振って駈け出しました。
 吉田を出ると、ムッと草の香のする夏野原……中の二人は、心得のある据わり方をして、駕籠の天井からたらした息綱につかまってギイギイ躍るのも、もう夢心地――江戸から通しで、疲れきっているので。

       二

 坂へかかって駕籠足がにぶると、主水正は夢中で、胸に掛けたふくろから一つかみの小銭(こぜに)をつかみ出し、それをガチャガチャ振り立てて、
「酒手(さかて)ッ……酒手ッ――!」
 余分に酒手をやるという。じぶんでは叫んでるつもりだが、虫のうめきにしか聞こえない。
 長丁場で、駕籠かきがすこしくたびれてくると、主水正、「ホイ、投げ銭だ……」
 と駕籠の中から、パラパラッと銭を投げる。すると、路傍にボンヤリ腰かけていた駕籠かきや、通行の旅人の中の屈強で好奇(ものずき)なのが、うしろから駕籠かきを押したり、時には、駕籠舁きが息を入れるあいだ、代わってかついで走ったり……こんなことはなかったなどと言いっこなし、とにかく田丸主水正はこうやって、このときの早駕籠(はや)を乗り切ったのです。
 田丸という人には、ちょっと文藻(ぶんそう)があった。かれがこの道中の辛苦を書きとめた写本(しゃほん)、旅之衣波(たびのころもは)には、ちゃんとこう書いてあります。
 御油(ごゆ)――名物は甘酒に、玉鮨(たまずし)ですな。
 つぎは赤坂(あかさか)。名物、青小縄(あおこなわ)、網、銭差(ぜにさ)し、田舎(いなか)っくさいものばかり。
 芭蕉の句に、夏の月御油(ごゆ)より出でて赤坂(あかさか)や……だが、そんな風流気は、いまの主水正主従にはございません。
 駕籠は、飛ぶ、飛ぶ……。
 岡崎――本多中務大輔殿(ほんだなかつかさたいすけどの)御城下。八丁味噌(ちょうみそ)[#「八丁味噌(ちょうみそ)」は底本では「八丁味噌(ちょうみそ)」]の本場で、なかなか大きな街。
 それから、なるみ絞りの鳴海(なるみ)。一里十二丁、三十一文(もん)の駄賃でまっしぐらに宮(みや)へ――大洲観音(たいすかんのん)の真福寺(しんぷくじ)を、はるかに駕籠の中から拝みつつ。
 宮(みや)から舟で津(つ)へ上がる。藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)どの、三十二万九百五十石(ごく)とは、ばかにきざんだもんだ。電話番号にしたって、あんまり感心しない……田丸主水正は、そんなことを思いながら、道はここから東海道本筋から離れて、文居(もんい)、藤堂佐渡守様(とうどうさどのかみさま)、三万二千石、江戸より百六里(り)。
 つぎが、長野(ながの)、山田(やまだ)、藤堂氏の領上野、島ヶ原、大川原と、夜は夜で肩をかえ、江戸発足以来一泊(ぱく)もしないで、やがて、柳生の里は、柳生対馬守御陣屋(ごじんや)、江戸から百十三里です。
 こんもりと樹のふかい、古い町だ。そこへ、江戸家老の早駕籠が駈けこんできたのだから、もし人あって山の上から見下ろしていたなら、両側の家々から、パラパラッと蟻(あり)のような人影が走り出て、たちまち、二ちょうの駕籠は、まるで黒い帯を引いたよう……ワイワイいってついてくる。
 何ごと? と町ぜんたい、一時に緊張した中を、一直線に対馬守の陣屋へ突っこんだ駕籠の中から、田丸主水正、ドサリ敷き台にころげ落ちて、
「金魚が――金魚が……」
 立ち迎えた柳生家の一同、あっけにとられて、
「田丸様ッ、しっかり召されっ! しきりに金魚とおおせらるるは、水か。水が御所望かっ?」

   右(みぎ)御意之趣(ぎょいのおもむき)


       一

 山里の空気は、真夏でも、どこかひやりとしたものを包んで、お陣屋の奥ふかく、お庭さきの蝉(せみ)しぐれが、ミーンと耳にしみわたっていた。
 柳生対馬守は、源三郎の兄ですが、色のあさ黒い、筋骨たくましい三十そこそこの人物で、だれの眼にも兄弟とは見えない。
 二万三千石の小禄ながら、剣をとっては柳生の嫡流、代々この柳生の庄の盆地に蟠踞(ばんきょ)して、家臣は片っぱしから音に聞こえた剣客ぞろい……貧乏だが腕ッぷしでは、断然天下をおさえていました。
 半死半生のてい、おおぜいの若侍にかつがれて、即刻、鉢巻のまま主君のお居間へ許された田丸主水正、まだ早駕籠に揺られている気とみえて、しきりに、眼のまえにたれる布につかまる手つきをしながら、
「オイッ! 鞠子(まりこ)までいくらでまいるっ? なに、府中(ふちゅう)より鞠子へ一里半四十七文とな?」
「シッ! 田丸殿、御前(ごぜん)でござる。御前でござる――」
「いや苦しゅうない」
 対馬守は、微笑して、
「其方(そち)らも早駕籠に乗ってみい。主水正は、まだ血反吐(ちへど)を吐かぬだけよいぞ……主水ッ! しっかりせい。予じゃ、対馬じゃ」
「おや、これはいかな! 柳生の里を遠く乗り越して、対馬とはまたいかい日本のはずれへ来おったものじゃが――おウッ! 殿ッ!」
 と初めて気のついた主水正、膝できざみ寄って、
「タ、たいへんでござります。金魚が死に申した」
 江戸家老が、こうして夜を日に継いで注進してきたのだから、もとより大事件出来(しゅったい)とはわかっているが、対馬守は、さきごろ司馬道場の婿として上京して行った弟、伊賀の暴れン坊が、何かとんでもない問題を起こしたのだとばっかり思っているから、
「ナニ、源三郎が金魚を……何か、司馬先生お手飼いの珍奇な金魚に、源三郎めが失礼でも働いたというのかっ?」
「違いまする、違いまする!」
 田丸は、両手を振り立てて、
「源三郎様とは無関係で――おあわて召さるな。金魚籤の金魚が浮かんで、明年の日光御造営奉行は、御当家と決まりましたぞっ」
 これを聞くと、樽(たる)のような胆ッ玉の対馬守、さっと蒼味(あおみ)走った額になって、
「事実か、それは! 金魚が――金魚が……ウウム、予も早駕籠を走らせてどこぞへ行きたい」
 貧乏な柳生藩に、この重荷ですから、破産したって、借金したって追っつかない。天から降った災難も同然で、殿をはじめ、一座暗澹(あんたん)たる雲に閉ざされたのも、無理はありません。
 と言って、のがれる術(すべ)はない。死んだ金魚をうらんでもはじまらないし……と、しばし真っ蒼で瞑目(めいもく)していた柳生対馬守、
「山へまいる。したくをせい」
 ズイと起ちあがった。

       二

 山へ……という俄(にわか)の仰せ。
 だが、思案に余った対馬守、急に思い立って、これから憂さばらしに、日本アルプスへ登山しようというじゃアありません。
 お城のうしろ、庭つづきに、帝釈山(たいしゃくやま)という山がある。山といっても、丘のすこし高いくらいのもので、数百年をへた杉が、日光をさえぎって生い繁っている。背中のスウッとする冷たさが、むらさきの山気とともに流れて、羊腸(ようちょう)たる小みちを登るにつれて、城下町の屋根が眼の下に指呼される。
 どこかに泉があるのか、朽葉がしっとり水を含んでいて、蛇の肌のような、重い、滑かな苔です。
「殿! お危のうございます」
 お気に入りの近習、高大之進(こうだいのしん)があとから声をかけるのも、対馬守は耳にはいらないようす。庭下駄で岩角を踏み試みては、上へ上へと登って行く。
 いま言った高大之進をはじめ、駒井甚(こまいじん)三郎(ろう)、喜田川頼母(きたがわたのも)、寺門一馬(てらかどかずま)、大垣(おおがき)七郎右衛門(ろうえもん)など、側近の面々、おくれじとつづきながら、これはえらいことになった、この小藩に日光お出費(ものいり)とは、いったいどう切り抜けるつもりだろう……ことによると、お受けできぬ申し訳に殿は御切腹、主家はちりぢりバラバラになり、自分たちは失業するんじゃあるまいか――なんかと、このごろの人間じゃないから、すぐそんなけちなことは考えない。金のできない場合には、一藩ことごとく全国へ散って切り取り強盗でもしようか――まさかそんなこともできないが、と一同黒い無言。
 出るのは溜息だけで、やがて対馬守を先頭に登ってきたのは、帝釈山の頂近く、天を摩(ま)す老杉の下に世捨て人の住まいとも見える風流な茶室です。
 このごろの茶室は、ブルジョア趣味の贅沢なものになっているが、当時はほんとの侘(わ)びの境地で、草葺きの軒は傾き、文字どおりの竹の柱が、黒く煤けている。
「どうじゃ、爺。その後は変わりないかな。こまったことが起きたぞ」
 対馬守は、そういって、よりつきから架燈口(かとうぐち)をあけた。家臣たちは、眼白押しにならんで円座にかける。
 三畳台目(じょうだいめ)のせまい部屋に、柿のへたのようなしなびた老人がひとり、きちんと炉ばたにすわって、釜の音を聞いている。
 老人も老人、百十三まで年齢(とし)を数えて覚えているが、その後はもうわからない、たしか百二十一か二になっている一風宗匠(いっぷうそうしょう)という人で、柳生家の二、三代前のことまですっかり知っているという生きた藩史。
 だが、年が年、などという言葉を、とうに通り過ぎた年なので、耳は遠いし、口がきけない。
 でも、この愛庵の帝釈山の茶室を、殿からいただいて、好んで一人暮しをしているくらいだから、足腰は立つのです。
 一風宗匠は、きょとんとした顔で対馬守を迎えましたが、黙って矢立と紙をさし出した。これへ書け……という意味。

       三

 誰の金魚を殺すかと、お風呂場での下相談の際。
 柳生は、剣術はうまかろうが、金などあるまい……とおっしゃった八代吉宗公のおことばに対して。
 千代田の垢すり旗下、愚楽老人(ぐらくろうじん)の言上したところでは――ナアニ、先祖がしこたまためこんで、どこかに隠してあるんです、という。
 果たしてそれが事実なら……。
 当主対馬守がその金の所在(ありか)を知らぬというはずはなさそうなものだが。
 貧乏で、たださえやりくり算段に日を送っている小藩へ、百万石の雄藩でさえ恐慌をきたす日光おつくろいの番が落ちたのだから、藩中上下こぞって周章狼狽。
 刃光刀影にビクともしない柳生の殿様、まっ蒼になって、いまこの裏庭つづきの帝釈山へあがってきたわけ。
 その帝釈山の拝領の茶室、無二庵(むにあん)に隠遁する一風宗匠は、齢(よわ)い百二十いくつ、じっさい奇蹟の長命で、柳生藩のことなら先々代のころから、なんでもかんでも心得ているという口をきく百科全書です。
 いや、口はきけないんだ。耳も遠い。ただ、お魚のようなどんよりした眼だけは、それでもまだ相当に見えるので、この一風宗匠との話は、すべて筆談でございます。
 木の根が化石したように、すっかり縮まってしまってる一風宗匠、人間もこう甲羅(こうら)をへると、まことに脱俗に仙味をおびてまいります。岩石か何か超時間的な存在を見るような、一種グロテスクな、それでいて涼しい風骨(ふうこつ)が漂っている。
 この暑いのに茶の十徳を着て、そいつがブカブカで貸間だらけ、一風宗匠は十徳のうちでこちこちにかたまっていらっしゃる。皮膚など茶渋を刷(は)いたようで、ところどころに苔のような斑点が見えるのは、時代がついているのでしょう。
 髪は、白髪をとおりこして薄い金いろです。そいつを合総(がっそう)にとりあげて、口をもぐもぐさせながら、矢立と筆をつき出したのを、対馬守はうなずきつつ受け取って、
「明年の日光御用、当藩に申し聞けられ候も、御承知の小禄、困却このことに候、腹掻っさばき、御先祖のまつりを絶てばとて、家稷(かしょく)に対し公儀に対し申し訳相立たず、いかにも無念――」
 対馬守がそこまで書くのを、子供のようににじりよって、わきからのぞきこんでいた一風宗匠、やにわに筆をもぎとって、
「短気はそんき、とくがわの難題、なにおそれんや」
 達筆です。一気に書き流した一風宗匠、筆をカラリと捨てて、ニコニコしている。
 対馬守はせきこんで、その筆を拾い上げ、
「宗匠、遺憾ながら事態を解せず。剣力、膂力(りょりょく)をもって処せんには、あに怖れんや。ただ金力なきをいかんせん」
 一風宗匠は依然として、植物性の静かな微笑をふくみ、
「風には木立ち、雨には傘、物それぞれに防ぎの手あるものぞかし、金の入用には金さえあらば、吹く雨風も柳に風、蛙のつらに雨じゃぞよ」
 さあ、対馬守わからない。

       四

「宗匠、何を言わるる。そ、その金がないから、予をはじめ家臣一同、この心配ではござらぬか」
 思わず対馬守は、口に出してどなったが、いかな大声でも、一風宗匠には通じないので。
 唖然(あぜん)たる対馬守の顔へ、宗匠は相変わらず、百年を閲(けみ)した静かな笑みを送りながら、また筆をとって、
「金は何ほどにてもある故に、さわぐまいぞえ。剣は腹なり。人の世に生くるすべての道なり。いたずらに立ち騒ぐは武将の名折れと知るべし」
 と書いた。百二十いくつの一風宗匠から見れば、やっと三十に近い柳生対馬守など、赤ん坊どころか、アミーバくらいにしかうつらないらしい。
 だから、いくら殿様でも対馬守、この一風宗匠に叱られるのは、毎度のことで、ちっともおどろかないが、金は何ほどでもある故に、騒ぐまいぞえ……という意外な文句に、ピタリ、驚異の眼を吸いつけられて、
「金はいくらでもあるという――」
 呻いたひとりごとが、すぐそばの寄りつきに待つ側近の人々の耳にはいったから、一同、わっと腰を浮かして、気の早い喜田川頼母(きたがわたのも)などは、
「金はいくらでもござりますと? どこに、どこに……」
 茶室へ駈けあがって来ようとするのを、寺門(てらかど)七郎右衛門(ろうえもん)がとめて、
「まア、待たれい! この話には落ちがあるようだ。文献によれば、三百万両積んだ和蘭(オランダ)船が、唐の海に沈んでおるそうじゃから、それを引きあげればなんでもないとか、なんとか――」
「さよう、一風宗匠のいうことなら、おおかたそこらが落ちでござろう」
 と、もう一人が口をとがらし、
「城下のおんなどものかんざしを取りあげて、小判に打ち直せばいいなどとナ、うははははは、殿! かような危急な場合、たあいもない老人を相手に、いたずらに時を過ごさるるとは、その意を得ませぬ。早々御下山あってしかるべく存じまする」
「そうだ、そうだ、一風宗匠はおひとりで、夢の国にあそばせておくに限るて」
 まるで博物館あつかい――耳が聞こえないから、宗匠、何を言われても平気です。
 対馬守も、暗然として宗匠を見下ろしていたが、ややあって長嘆息。
「ああ、やはり年齢(とし)じゃ。シッカリしておられるようでも、もう耄碌(もうろく)しておらるる。詮ないことじゃ。ごめん」
 一礼して土間へおりようとすると対馬守の裾を、ガッシとおさえたのは一風宗匠だ。
 動かぬ舌をもどかしげに、恨むがごとく殿様を見上げておりましたが、すぐまた、筆に墨をなすって、
「かかる時の用にもと、当家御初代さまの隠しおきたる金子(きんす)、幾百万両とも知れず。埋めある場処は――」
 眼をきらめかせた対馬守、じっと宗匠の筆のさきを見つめていると、
「――こけ猿の壺にきけ」
 と一風の筆が書きました。

       五

 こけ猿の茶壺にきけ――対馬守が、口のなかでつぶやいて、小首を傾けるのを、じっと見つめていた一風宗匠は、やがて筆をとって懐紙(かいし)に、左の意味のことをサラサラと書き流したのです。
 それによると……。
 剣道によって家をなした柳生家第一代の先祖が、死の近いことを知ると同時に、戦国の余燼(よじん)いまだ納まらない当時のこととて、不時の軍用金にもと貯えておいた黄金をはじめ、たびたびの拝領物、めぼしい家財道具などをすべて金に換えて、それをそっくり山間の某地に埋めたというのである。
「山間の某地にナ」
 と対馬守は、眼をきらめかして、
「夢のごとき昔語りじゃ」
 と、きっと部屋の一隅をにらんだ。
 すると、殿の半信半疑の顔を見た一風宗匠は、また筆をうごかして、
「在りと観ずれば在り。無しと信ずれば無し。疑うはすなわち失うことなり」[#この行は底本では3字下げ]
「ふうむ……」
 腕こまぬいた対馬守のようすに、家来たちも、もうふざけるものはない。みんな円座から乗りだして、肩を四角くしている。
 対馬守は、筆談をつづけて、
「その儀事実とあらば、藩主たる予の今まで知らざりしこと、まことに合点ゆかず」
 一風宗匠の応答……。
「用なきときに子孫に知らすれば、無駄使いするは必定。さすれば、かかる場合もやと、まさかの役に立てんと隠しおきたる御先君の思召し相立たずそうろうことと相なり――」
 苦笑した対馬守は、
「されど、天、宗匠に嘉(か)するに稀有(けう)の寿命をもってしたれば、過(か)なかりしも、もし宗匠にして短命なりせば、いつの日誰によってかこれを知らん。家中のもの何人も知らずば、大金いたずらに土中に埋ずもれんのみ。心得難きことなり」
「その不都合は万々これなし。迂生(うせい)臨終のさいは、殿に言上いたすべき心組みに候いき」
 濶然(かつぜん)と哄笑した一風は、なおも筆を走らせ、
「大金の所在は、壺中にあり」
 急(せ)きこんだ柳生対馬守、
「壺中にありとは、これいかに」
「埋没の個処を詳細紙面にしるし、これをこけ猿の壺中に封じあるものなり」
 そのこけ猿の茶壺は、弟源三郎に持たせて、江戸へやってしまった!
 対馬守は、大いにあわてて、紙を掴みとるなり、大書しました。
「うずめある場所は、宗匠御存じなきや」
「何人もこれを知らず。その地図は、こけ猿の茶壺に封じ込めあるをもって、茶壺をひらけ」[#この行は底本では天付き]
 長い筆談に疲れたものか、宗匠はカラリと筆を投じて、不機嫌に横を向いてしまった。

       六

 大金をうずめてある個処を示した秘密の地図が、こけ猿の茶壺に封じてある――なんてことは、だれも知らないから、彼壺(あれ)はもうとうのむかしに、司馬道場に婿入りする源三郎の引出ものとして、江戸へ持たしてやってしまった!
 あとの祭り……。
 その黄金さえ掘り出せば、日光御修繕なんか毎年引き受けたってお茶の子サイサイ、柳生の里は貧乏どころか西国一はもちろん、ことによると海内(かいだい)無双の富裕な家になるやも知れない――。
「しまったっ」
 と呻ったのは、対馬守です。主君から一伍一什(いちぶしじゅう)を聞いた高大之進(こうだいのしん)、大垣(おおがき)七郎右衛門(ろうえもん)、寺門一馬(てらかどかずま)、駒井甚(こまいじん)三郎(ろう)、喜田川頼母(きたがわたのも)の面々(めんめん)、口々に、
「惜しみてもあまりあること――」
「まだなんとか取りかえす途(みち)は……」
「イヤ、かのこけ猿の茶壺は、茶道から申して名物は名物に相違ござるまいが、門外不出と銘うって永代当家に伝わるべきものとしてあったのは、さような仔細ばなしござってか。道理で――」
「それを知らずに、源三郎様につけて差しあげたのは、近ごろ不覚千万!」
「迂濶(うかつ)のいたりと申して、殿すら御存じなかったのじゃから、だれの責任というのでもござらぬ。あの老いぼれの一風が、もうすこし早くお耳に入れればよいものを……」
「だが、かような問題が起こらねば、一風は死ぬ時まで、黙っておる所存であったというから――」
「おいっ! おのおの方、司馬道場への婿引出は、何もあの壺とは限らぬのだ。なんでもよいわけのもの。ただ、絶大の好意を示す方便として、御当家においてもっとも重んずる宝物、かのこけ猿を進呈したというまでのことじゃ。今のうちなら、取り戻すことも容易でござろう」
「そうだっ! 是が非でも壺をとり返せっ!」
 対馬守は、もとよりこの意見です。なんとかして壺を手に入れねばならぬ!
 さっそく下山して、一間に休息させてあった田丸主水正を呼び出し、きいてみると、
「ハッ。金魚の……イエ、日光御用の儀にとりまぎれて、言上がおくれましたが、道中宰領(さいりょう)安積玄心斎が江戸屋敷に出頭しての話によりますと、まだ源三郎様の御一行は、江戸の入口品川にとどまっていらっしゃる模様で、それにつきましては、司馬道場のほうと、何か話にくいちがいがありますようで――」
 思わず怒声をつのらせた対馬守、
「ナニ? 源三郎は、まだ品川にうろうろいたしておると? しからば、こけ猿の茶壺は、いまだ本郷の手へは渡っておらぬのだな?」
「それがソノ」
 と主水正自分の落ち度のように平伏して、
「同じく玄心斎の報告では、こけ猿のお壺は、つづみの与吉とやら申す者のために持ち出されて、連日連夜捜索中なれど、今もって行方知れずと……」
「何イ? 壺を、ぬ、盗まれたっ――!」

       七

 そのこけ猿の茶壺を、つづみの与吉の手から引っさらったのが、あの得体の知れないところてん売りの小僧、名も親もはっきりしないチョビ安で――
 そのまたチョビ安が与の公に追いつめられて、苦しまぎれに飛びこんだ橋下の掘立て小屋が、偶然にも、かの隻眼隻腕の剣鬼、丹下左膳の世をしのぶ住まい。
 何ごとかこの壺に、曰くありと見た刃怪左膳、チョビ安の身柄といっしょに今、こけ猿の茶壺を手もとに預かっているので。
 人もあろうに、左膳の手に壺が落ちようとは……。
 これは、だれにとっても、まことに相手が悪い。
 だが。
 そんなことは知らない柳生の藩中、対馬守をはじめ、家臣一同、こけ猿が行方不明だと聞いて、サッと顔いろを変えた。
 さっそく城中の大広間にあつまって、会議です。
「あの壺さえありますれば、なにも驚くことはござらぬ。危急存亡の場合、なんとかして壺を見つけ出さねば……」
「しかし、拙者はふしぎでならぬ。壺は昔から一度もひらいたことがないのか」
「いや、今まで毎年、宇治(うじ)の茶匠へあの壺をつかわして、あれにいっぱい新茶を詰めて、取り寄せておるのです。いつも新茶を取りに宇治へやった壺……厳重に封をして当方へ持ち帰り、御前において封切りの茶事を催して開くのです。そんな、一風の申すような地図など入っておるとすれば、とうに気づいておらねばならぬ」
「じゃが、それほど大切な図面を隠すのじゃから、なにか茶壺に、特別のしかけがしてあろうも知れぬ。とにかく、壺を手に入れることが、何よりの急務じゃ!」
「評定(ひょうじょう)無用! 一刻も早く同勢をすぐり、捜索隊を組織し、江戸おもてへ発足せしめられたい!」
 剣をもって日本国中に鳴る家中です。ワッ! という声とともに、広場いっぱいに手があがって、ガヤガヤいう騒ぎ……。
 拙者も、吾輩も、それがしも、みんながわれおくれじと江戸へ押し出す気組み。それじゃア柳生の里がからっぽになってしまう。
 黙って一同のいうところを聞いていた対馬守、お小姓をしたがえて奥へおはいりになった。するとしばらくして、祐筆(ゆうひつ)に命じて書かせた大きな提示が、広間に張り出されました。
 一、天地神明に誓いて、こけ猿の茶壺を発見すべきこと。
 一、柳生一刀流の赴くところ、江戸中の瓦をはがし、屍山血河を築くとも、必ずともに壺を入手すべし。
右御意之趣(ぎょいのおもむき)……。
 源三郎につぐ柳門(りゅうもん)非凡の剣手、高大之進を隊長に、大垣(おおがき)七郎右衛門(ろうえもん)、寺門一馬(てらかどかずま)、喜田川頼母(きたがわたのも)、駒井甚(こまいじん)三郎(ろう)、井上近江(いのうえおうみ)、清水粂之介(しみずくめのすけ)ほか一団二十三名、一藩の大事を肩にさながら出陣のごとく、即夜(そくや)、折りからの月明を踏んで江戸へ、江戸へ……。

   足留(あしど)め稲荷(いなり)


       一

 品川や袖にうち越す花の浪……とは、菊舎尼(きくしゃに)の句。
 その、しながわは。
 東海寺(とうかいじ)、千体荒神(たいこうじん)、足留稲荷(あしどめいなり)とそれぞれいわれに富む名所が多い。
 中でも、足どめの稲荷は。
 このお稲荷さんを修心すれば、長く客足を引きとめておくことができるというので、旅籠(はたご)や青楼(せいろう)、その他客商売の参詣で賑わって、たいへんに繁昌したもの。
 ふとしたことから馴染(なじ)んだ客に、つとめを離れて惹かれて、ひそかにこの足留稲荷へ願をかけた一夜妻もあったであろう……。
 その足留稲荷のとんだ巧徳(くどく)ででもあろうか。
 伊賀の暴れン坊、柳生源三郎の婿入り道中は、いまだ八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方(つるおかいちろうえもんかた)に引っかかっているので。
 こけ猿の茶壺は、今もって行方知れず。植木屋に化けてひとり本郷の道場へ潜入して行った主君、源三郎の帰るまでに、なんとかして壺を見つけ出そうと、安積玄心斎が躍起となって采配を振り、毎日、早朝から深夜まで、入り代わり立ちかわり、隊をつくってこの品川から、江戸の町じゅうへ散らばって、さがし歩いて来たのだが――。
 一度は、佐竹右京太夫(さたけうきょうだゆう)の横町で、あのつづみの与吉に出あったものの、みごとに抜けられてしまって……。
 来る日も、くる日も、飽きずに照りつける江戸の夏だ。
 若き殿、源三郎の腕は、みんな日本一と信じているから、ひとりで先方へ行っていても、だれも心配なんかしない。何しろ、血の気の多い若侍が、何十人となく、毎日毎晩、宿屋にゴロゴロしているんだから、いつまでたってもいっこう壺の埓(らち)があかないとなると、そろそろ退屈してきて、脛(すね)押し、腕相撲のうちはまだいいが、
「おいっ! まいれっ! ここで一丁稽古をつけてやろう」
「何をっ! こちらで申すことだ。さァ、遠慮せずと打ちこんでこいっ!」
「やあ、こやつ、遠慮せずに、とは、いつのまに若先生の口調を覚えた」
 なんかと、てんでに荷物から木剣を取り出し、大広間での剣術のけいこをされちゃア宿屋がたまらない。
「足どめ稲荷が、妙なところへきいたようで」
「どうも、弱りましたな。この分でゆくと、もう一つ、足留稲荷の向うを張って、早発(だ)ち稲荷てえのをまつって、せいぜい油揚げをお供えしなくっちゃアなりますめえぜ」
 本陣の帳場格子のなかで、番頭たちが、こんなことをいいあっている。
 品川のお茶屋は、どこへ行っても伊賀訛りでいっぱいです。そいつが揃って酔っぱらって、大道で光る刀(やつ)を抜いたりするから、陽が落ちて暗くなると、鶴岡の前はバッタリ人通りがとだえる。
 こういう状態のところへ、植木屋姿の源三郎が、ひょっこり帰ってきました。

       二

 立ち帰ってきた源三郎は、てっきり司馬先生はおなくなりになったに相違ない……と肚をきめて、二、三日考えこんだ末、
「おいっ、ゲ、ゲ、玄心斎、すぐしたくをせい。これから即刻、本郷へ乗り込むのだ」
 と下知をくだした。

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