丹下左膳
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著者名:林不忘 

       五

 こんどは入れかわって。
 左膳がしゃがみこみ、
「ごめん……」
 と源三郎は、その左膳の首へまたぐらを入れた。
 痩せた左膳のからだが、高々と源三郎をささえ上げる。両手を伸ばして伊賀の暴れん坊、
「やっぱりとどかぬ」
 あせる指先を愚弄するように、天井は、まだ一、二寸高い。
「とびはねてくれぬか、左膳殿」
「そんな曲芸はできぬ。またヒョイと飛んだところで、お主(ぬし)の手のほうが長い仕事はできなかろう」
 とつぜん、左膳は大声に笑いだした。
「こりゃあどうも、あわてているときは、しょうのねえものだ。おぬしが下になろうが、おれが台に立とうが、十尺のものは十尺、どう伸び縮みするわけもねえのに、アハハハハ」
「まったく、理屈だ。われら両人、かなり狼狽(ろうばい)いたしおるとみえる」
 狼狽(ろうばい)するのも、もっともで。
 鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条(ひとすじ)そそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
 左膳の肩車をおりた源三郎、もう、足の甲まで水にかくれるのをおぼえて、愕然としたのであるが、なんの方策もたたぬ。
 二人は、黙然と顔を見合わせるばかり。
 左膳がこの穴へ落ちこんでから、もはや何ときたったであろう。
 源三郎は、その一日前から飲まず食わずで、この地下に幽閉されていたのだ。
 たいがいのことにはビクともせぬ伊賀の暴れん坊だけに、そのうちになんとかなるだろうと、泰然としてこの地底に、胡坐(あぐら)をかいて澄ましこんでいたのだが。
 水が出ては。
 もう、その胡坐もかけぬ。
 いつのまにかふたりは、たかだかと着物の裾をはしょって、洪水の難にあった姿。
「一刻(とき)にどのくらい水嵩(みずかさ)がますのであろうの」
「サアそれは、ちょっとわからぬが――」
 首まで来るまでには相当時間があろう。その間に、なんとでもして脱出のくふうをつけねばならぬ。
 なんとでもして!
 けれど。
 どうしたらよいか?
 四畳半ほどの地底の一室である。地面に達する唯一の穴は、天井高く三尺ほどの直径に、斜めに通じているだけで、そこにとどく足場もなければ、とびつこうにも手がかりがない。
 周囲は、荒削(あらけず)りの土石の壁。
 もう地上は、たそがれどきでもあろうか。
 さっきまで、穴からかすかに流れこんでいた光線は、すっかり消えて、闇の中にそそぎ入る水音のみ、高い。
 伊賀の連中はどうしたろう!
 チョビ安は?
「オイッ!」
 と、源三郎が、左膳の注意をうながした。
 足でジャブジャブ水をけって見せた。
 いつのまにか、もうふくら脛(はぎ)の半(なか)ばまできている。まもなく膝を没するであろう。それから腿(もも)、腹、胸、首……やがて全身水びたしに――。
 左膳と源三郎、沈黙のうちに、狂的な眼をあわせた。
 水は、つめたく脛(すね)をなめて、這いあがってくる……。




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