丹下左膳
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著者名:林不忘 

「こりゃいかん! 頭の上を川が流れておるのか」
 二人は、同時にうめいた。

       四

 ギョッ! として、顔をあげた二人。
 左膳と源三郎の間に、天井からのしたたりは、ポタリ、ポタリとつづく。
 その水滴の脚が、刻一刻早くなる。
「ウム、これは案外、深いたくらみがあるとみえるぞ」
 歯ぎしりかむ源三郎の顔を、左膳は闇をすかして、じっと左眼にみつめた。
「落ちてきた穴を這いあがることはできぬし……」
 水のしたたりは、二人の立っている土を濡らす。
 小さなぬかるみが、だんだんひろがってゆく。
 左膳はしゃがんで、左手を椀のようにへこませて、落ちてくる水を受けてみた。
 トントンとやつぎばやに、掌(たなごころ)を打つ水の粒。
「三方子川の川水であろうか」
「この上が川床だとすると――その水であろう」
「点滴(てんてき)石を穿(うが)つ――この雨垂れのような水でも、こうひっきりなしに落ちてくるうちには……」
 それよりも、今にも川床の地盤がゆるんで、この天井全体が、一時にドッと落ちてくることはないか。
 そうすれば。
 この地下の部屋全体、一瞬にして水浸しとなる。
 逃(のが)るる術(すべ)はない……。
 このおそれは、期せずして、今このふたりの心に、同時にわきおこったのだったが、それは、口にすべくあまりに恐ろしい――闇黒(やみ)にとざされて見えないが、おそらくこの時は、さすがの左膳も源三郎も、ともに顔色が変わっていたに相違ない。
 剣をとっては、千万人といえどもわれゆかん――じっさい、この二人がそろっていれば、天下に恐るるもののない柳生源三郎と丹下左膳。
 だが――。
 柳生一刀流も、左膳の濡れ燕も、水を相手では、どうすることもできないのだ。
 闇のなかに、突如左膳は、自分の片腕をギュッとつかむ源三郎の手を感じた。
 そして、耳のそばに、伊賀の暴れん坊のささやき。
「オイッ! もうしたたりではない。ほれ、一筋に落ちてきた……」
 まことに、そのとおり。
 今までポタ、ポタとまをおいてしたたっていた水は、今はひとすじの細い線となって、絶えまもなくそそぎかけてきた。
「源三、おれを肩車に乗せてくれ」
 懐中の手拭をとりだした左膳、
「とどくかとどかぬか知れぬが、なんとかして、あの天井の穴をふさがねばならぬ」
 水さえはいらねば、そのあいだに脱出の方法も立つかも知れぬし、救いの手がのびてこようもはかられぬ。
 源三郎は二つ返事で、左膳を肩に乗せた。
 穴蔵の黒暗々裡に、ふしぎな水止め工作がはじまった。
 若殿源三郎の肩に身をのせた左膳、片手を伸ばして、穴へ手拭をつめようとあせるのだが、天井に手が達しない。
 もう一、二寸――。
「だめだ。貴公よりおれのほうが、背が高い。貴公、おれの肩車に乗ってくれ」
「ヤヤッ! そういう間も、もう水がたまりだしたぞ。土ふまずへ、ヒタヒタと水がきた」事実、部屋全体にうすく水が行きわたったらしく、線のほそい滝の水が、条々(じょうじょう)と……。

       五

 こんどは入れかわって。
 左膳がしゃがみこみ、
「ごめん……」
 と源三郎は、その左膳の首へまたぐらを入れた。
 痩せた左膳のからだが、高々と源三郎をささえ上げる。両手を伸ばして伊賀の暴れん坊、
「やっぱりとどかぬ」
 あせる指先を愚弄するように、天井は、まだ一、二寸高い。
「とびはねてくれぬか、左膳殿」
「そんな曲芸はできぬ。またヒョイと飛んだところで、お主(ぬし)の手のほうが長い仕事はできなかろう」
 とつぜん、左膳は大声に笑いだした。
「こりゃあどうも、あわてているときは、しょうのねえものだ。おぬしが下になろうが、おれが台に立とうが、十尺のものは十尺、どう伸び縮みするわけもねえのに、アハハハハ」
「まったく、理屈だ。われら両人、かなり狼狽(ろうばい)いたしおるとみえる」
 狼狽(ろうばい)するのも、もっともで。
 鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条(ひとすじ)そそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
 左膳の肩車をおりた源三郎、もう、足の甲まで水にかくれるのをおぼえて、愕然としたのであるが、なんの方策もたたぬ。
 二人は、黙然と顔を見合わせるばかり。
 左膳がこの穴へ落ちこんでから、もはや何ときたったであろう。
 源三郎は、その一日前から飲まず食わずで、この地下に幽閉されていたのだ。
 たいがいのことにはビクともせぬ伊賀の暴れん坊だけに、そのうちになんとかなるだろうと、泰然としてこの地底に、胡坐(あぐら)をかいて澄ましこんでいたのだが。
 水が出ては。
 もう、その胡坐もかけぬ。
 いつのまにかふたりは、たかだかと着物の裾をはしょって、洪水の難にあった姿。
「一刻(とき)にどのくらい水嵩(みずかさ)がますのであろうの」
「サアそれは、ちょっとわからぬが――」
 首まで来るまでには相当時間があろう。その間に、なんとでもして脱出のくふうをつけねばならぬ。
 なんとでもして!
 けれど。
 どうしたらよいか?
 四畳半ほどの地底の一室である。地面に達する唯一の穴は、天井高く三尺ほどの直径に、斜めに通じているだけで、そこにとどく足場もなければ、とびつこうにも手がかりがない。
 周囲は、荒削(あらけず)りの土石の壁。
 もう地上は、たそがれどきでもあろうか。
 さっきまで、穴からかすかに流れこんでいた光線は、すっかり消えて、闇の中にそそぎ入る水音のみ、高い。
 伊賀の連中はどうしたろう!
 チョビ安は?
「オイッ!」
 と、源三郎が、左膳の注意をうながした。
 足でジャブジャブ水をけって見せた。
 いつのまにか、もうふくら脛(はぎ)の半(なか)ばまできている。まもなく膝を没するであろう。それから腿(もも)、腹、胸、首……やがて全身水びたしに――。
 左膳と源三郎、沈黙のうちに、狂的な眼をあわせた。
 水は、つめたく脛(すね)をなめて、這いあがってくる……。




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