丹下左膳
著者名:林不忘
一
左膳は、ただ一直線におちたような気がしたが。
穴は垂直ではなかった。
直径三尺ほどの幅に、急な勾配をもってずっとこの地底のあなぐらへ通じているのである。
察するところ、その地下室は、地上の穴から斜めに入りこんで、ちょうどあの、路傍を流れる三方子川(さんぼうしがわ)の真下にあたっているらしい。
左手に濡れ燕を突いて起きあがった左膳、したたか腰をうったらしく、抜けるようにいたい。
「イヤ、不覚……」
苦笑しながら、掘りたての土軟(やわら)かな床へ、刀を突きさし、ひだり手で腰のあたりをさすろうとした時……今あの、タ、丹下左膳ではないか、ひさしぶりだナ、その後は御無沙汰、という声がしたのだ。
「誰だっ?」
左膳、濡れ燕をかまえるが早いか壁に飛びのいて、眼をこらした。
地の底……。
幾丈とも知れない地下で、地上からの穴は急勾配(きゅうこうばい)なのだから、闇のなかに、どこやらかすかに外光(がいこう)がただよっているにすぎない。
が、声をかけた人は、この暗黒になれているらしく、
「キ、貴殿も足を踏みはずしたのか。ハハハハハ、やられたな」
という声は、伊賀の暴れん坊、柳生源三郎である。
左膳もそれと気づいて、
「源三じゃアねえか。お前(めえ)はこの司馬寮の火事で、焼け死んだと聞いたが、さては、ここは冥府(よみじ)とみえる。してみると、おれもあの世へきたのかな」
うすく笑って、左膳、声のするほうをすかして見ると、柳生源三郎のほのぼのとした白い顔が、その、四畳半ほどの真ん中にキチンと静座しているのが、彼の一眼にもうっすらと見えてきた。
「イヤ、源三、お前ははかられて、このおとし穴へ落ちこんだのだろうが、おれは、時のはずみでおちたのだ」
左膳はそう言って、源三郎の前にドッカと胡坐(あぐら)。
剣をもってふしぎな運命にむすばれる二人。
この思いがけない地底で、ふたたび顔をあわせたのだ。
「何から話してよいやら……」
と源三郎も、心からなつかしそうである。
左膳が、つづけた。
「この罠(わな)は、火事にまぎれてお前(めえ)を落としこむために、こしらえたものに相違ねえ。お前(めえ)は見事、それにかかったわけだが、丹波のやったこの仕事を、おれの相手の伊賀侍が知るはずはねえのだから、おれはかってにおちたようなもので――しかし、驚いた。だが、おかげてこうして、死んだと思った伊賀の暴れん坊にめぐりあったのは、左膳、こんな安心したことはねえ。これも、今おれの手にはいっている、こけ猿の茶壺の手引きにちげえねえのだ」
悠然と笑う左膳の片手を、源三郎、喜びと驚きにギュッと握りしめて、
「ナニ、こけ猿はいま貴公の手にある?」
「ウム、開きかけた壺をそのままに、貴様の災難を聞いたので、飛んできたまではいいが、おれもそのお供をしてこの始末よ、あははははは」
二人は、フッと話をきった。
どこやら闇のなかに、ポタリ! ポタリと、水のしたたる音がする……。
二
たとえば、豪雨がやんで、雲の切れめから青空がのぞくころ。
屋根の流れを集めた樋(とい)が、まだ乾きもやらず、大粒な雨垂(あまだ)れをたたくように地面へ落とす。
それによく似たひびきである。
ポタッ! ポタッ! と、一定の間をおいて、だるい水の音がせまい部屋にこもる。
天井のどこかから水が落ちて、床の土をうつのらしい。
ふたりは、べつに気にもとめずに、話をつづけて、左膳が、
「こうと知ったら、お前(めえ)なんざあ見殺しに、おらアあの壺の教えるところにしたがって、お前の先祖の埋めた大宝を掘りだしに行きゃアよかった」
剣友の無事な顔を見て、安堵の胸をさすった左膳、どうあっても源三郎を見殺しにすることはできないくせに、こうして顔を突きあわせていると、男同士の、口がわるいのだった。
「柳生の金は、柳生のものだ」
と、にがく言う源三郎へ、左膳はおッかぶせるように笑って、
「掘り出した埋宝の中から、日光にいるだけの金を柳生に返しゃあ、あとは、天下の財産だ」
「日光? フム、貴公は容易ならぬことを知っておるな」
「蒲生泰軒の矢文で、おれはなんでも知っておる。片眼でも、お前の両眼以上に見えるのだ」
「ナニ? 蒲生泰軒! 矢文?」
「まア、おれのことはいいやな。それより、おめえはどうしてこのもぐらもちになったのだ」
「卑怯なのは丹波とお蓮だ。剣の厄も、お蓮の女難も、源三郎見事にくぐり抜けたが……そのお蓮からとりあげたこけ猿の壺……」
「イヤ、待て。こけ猿は、おれの手にある。昨日この司馬寮に、同じ茶壺があるわけはねえのだ」
「何を言う! 現に余がこの眼で見、この手にとり、その壺を枕頭(まくらもと)にひきすえて、やっとのことでお蓮を遠ざけ、離室(はなれ)で一人寝についたのだが、すると――」
「ホ、すると?」
「すると、明け方近く、あの火事だ。四方八方から一時に火の手が起こったところを見ると……」
語をつごうとする源三郎を、左膳は手をあげて、静かに制し、
「マ、長話はあととして……この穴を出るくふうはねえかな」
「ハハハハ、言われるまでもなく、貴公が仲間入りする前に、今までおれはさんざんやってみたのだ。が、四方は土、天井は手のとどかぬほど高い。落ちてきた穴はほとんどまっすぐだし、第一、なんの足場もないから、その穴へ飛びつくこともできぬのだ」
「伊賀の暴れん坊と丹下左膳、この穴の底に同居住まいとは、気のきかねえ話だなア。だが、そのうちに出る算段をたてるとして、そこで朝方の火事だが――」
「ウム、四方から一時に火の起こったところをみると、丹波一味の放火にきまっておる」
言いながらも、源三郎のくやしさ、そのいきどおりは、烈々として焔のごとく感じられるのだった。
水の音は、やまない。土をうつ水滴が、二人の会話に奇妙な合いの手を入れる。
三
地上ではどんなにさわいでいるか知れない……。
耳を澄ましても、この深さではなんの物音も聞こえないのだ。
チョビ安はどうしたろう。
自分がこの穴へおちるところを彼は見ているのだから、きっとなんらかの方法を講じて、助けにくるに相違ない――と、左膳はそう思う一方、しかし、子供ではどうしようもあるまいし、それに、伊賀の連中につかまりでもしては、チョビ安、手も足も出まい。
闇になれてくると、その穴蔵のさまが、ぼんやりと眼にうつる。
上から細い穴を斜めに掘(ほ)ってきて、ここだけ部屋のように掘りひろげたものとみえる。四方は粘土まじりのしめった土。地中に特有のヒヤリとした空気がおどんで……床をうつ水の音が、耳いっぱいに断続して聞こえる。
左膳は思いだしたように、源三郎へ、
「こけ猿の茶壺が二つあるはずはねえ。おれが手に入れて、駒形のある女のところに隠してあるのだから、お前がここで、お蓮からとりあげたというのは、偽(にせ)の壺にきまってらアな」
源三郎は沈思の底から、太(ふと)いまゆをあげて、
「余はあけて見たわけではない。貴公もその壺を、まだひらいたのではないのだろう」
「ウム、今もいうとおり、あけかけたところで、この火事だ。とうとう開かずにここへ飛んできたのだが――」
「それでは、いずれが本物、いずれがにせ物と判断はできぬ」
「焼け跡に、こけ猿の壺らしいものをいだいた黒焦げの死骸が一つ、見つけだされて、それが源三郎に相違ないとのことだったが、貴様はこうしてりっぱに生きておるところをみると、その死骸はいったい何者であろうナ」
「丹波の計じゃ。宵のうちに余をとりまいて、亡き者にしようとした折り、あやまって仲間で斬りころした不知火組の若侍にきまっておる」
「ウム、その死骸を黒焦げにして伊賀の源三郎と見せかけようとしたのだな」
「こけ猿の壺を、死人とともに焼くわけはないから、それは名もない駄壺にきまっておるが――」
いらだち気味に、左膳はあたりを見まわして、
「埋もれた宝を掘りに行くはずのおれが、自分がこうして埋められては、せわアねえ」
自嘲的につぶやいて、たちあがりながら、左膳の胸中は、熱湯のにえくり返るように、苦しかった。
こうして源三郎が生きている以上、萩乃にたいする自分の恋は、そだててはならぬ。わが心に生えた芽のままで、摘みとってしまわなければならないのだ。
現に、彼のふところには、思いのたけを杜若(かきつばた)、あの恋文がはいっているのだけれど、もうこれを、萩乃にとどけることはできない……。
「こうしていてもはじまらぬ――」
そう言って源三郎も、身を起こした時。
天井からしたたる水粒は、早くなって、点々、点々と土をうつ。
うすくらがりの中を手探りで、その小部屋の隅へ行ってみると、上に小さな穴があいているらしく、そこから落ちる水が、じっとりと足下をぬらしている。
「この真上は?」
源三郎の問いに、左膳は静かに方向を考えて、
「三方子川の川底らしい」
「こりゃいかん! 頭の上を川が流れておるのか」
二人は、同時にうめいた。
四
ギョッ! として、顔をあげた二人。
左膳と源三郎の間に、天井からのしたたりは、ポタリ、ポタリとつづく。
その水滴の脚が、刻一刻早くなる。
「ウム、これは案外、深いたくらみがあるとみえるぞ」
歯ぎしりかむ源三郎の顔を、左膳は闇をすかして、じっと左眼にみつめた。
「落ちてきた穴を這いあがることはできぬし……」
水のしたたりは、二人の立っている土を濡らす。
小さなぬかるみが、だんだんひろがってゆく。
左膳はしゃがんで、左手を椀のようにへこませて、落ちてくる水を受けてみた。
トントンとやつぎばやに、掌(たなごころ)を打つ水の粒。
「三方子川の川水であろうか」
「この上が川床だとすると――その水であろう」
「点滴(てんてき)石を穿(うが)つ――この雨垂れのような水でも、こうひっきりなしに落ちてくるうちには……」
それよりも、今にも川床の地盤がゆるんで、この天井全体が、一時にドッと落ちてくることはないか。
そうすれば。
この地下の部屋全体、一瞬にして水浸しとなる。
逃(のが)るる術(すべ)はない……。
このおそれは、期せずして、今このふたりの心に、同時にわきおこったのだったが、それは、口にすべくあまりに恐ろしい――闇黒(やみ)にとざされて見えないが、おそらくこの時は、さすがの左膳も源三郎も、ともに顔色が変わっていたに相違ない。
剣をとっては、千万人といえどもわれゆかん――じっさい、この二人がそろっていれば、天下に恐るるもののない柳生源三郎と丹下左膳。
だが――。
柳生一刀流も、左膳の濡れ燕も、水を相手では、どうすることもできないのだ。
闇のなかに、突如左膳は、自分の片腕をギュッとつかむ源三郎の手を感じた。
そして、耳のそばに、伊賀の暴れん坊のささやき。
「オイッ! もうしたたりではない。ほれ、一筋に落ちてきた……」
まことに、そのとおり。
今までポタ、ポタとまをおいてしたたっていた水は、今はひとすじの細い線となって、絶えまもなくそそぎかけてきた。
「源三、おれを肩車に乗せてくれ」
懐中の手拭をとりだした左膳、
「とどくかとどかぬか知れぬが、なんとかして、あの天井の穴をふさがねばならぬ」
水さえはいらねば、そのあいだに脱出の方法も立つかも知れぬし、救いの手がのびてこようもはかられぬ。
源三郎は二つ返事で、左膳を肩に乗せた。
穴蔵の黒暗々裡に、ふしぎな水止め工作がはじまった。
若殿源三郎の肩に身をのせた左膳、片手を伸ばして、穴へ手拭をつめようとあせるのだが、天井に手が達しない。
もう一、二寸――。
「だめだ。貴公よりおれのほうが、背が高い。貴公、おれの肩車に乗ってくれ」
「ヤヤッ! そういう間も、もう水がたまりだしたぞ。土ふまずへ、ヒタヒタと水がきた」事実、部屋全体にうすく水が行きわたったらしく、線のほそい滝の水が、条々(じょうじょう)と……。
五
こんどは入れかわって。
左膳がしゃがみこみ、
「ごめん……」
と源三郎は、その左膳の首へまたぐらを入れた。
痩せた左膳のからだが、高々と源三郎をささえ上げる。両手を伸ばして伊賀の暴れん坊、
「やっぱりとどかぬ」
あせる指先を愚弄するように、天井は、まだ一、二寸高い。
「とびはねてくれぬか、左膳殿」
「そんな曲芸はできぬ。またヒョイと飛んだところで、お主(ぬし)の手のほうが長い仕事はできなかろう」
とつぜん、左膳は大声に笑いだした。
「こりゃあどうも、あわてているときは、しょうのねえものだ。おぬしが下になろうが、おれが台に立とうが、十尺のものは十尺、どう伸び縮みするわけもねえのに、アハハハハ」
「まったく、理屈だ。われら両人、かなり狼狽(ろうばい)いたしおるとみえる」
狼狽(ろうばい)するのも、もっともで。
鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条(ひとすじ)そそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
左膳の肩車をおりた源三郎、もう、足の甲まで水にかくれるのをおぼえて、愕然としたのであるが、なんの方策もたたぬ。
二人は、黙然と顔を見合わせるばかり。
左膳がこの穴へ落ちこんでから、もはや何ときたったであろう。
源三郎は、その一日前から飲まず食わずで、この地下に幽閉されていたのだ。
たいがいのことにはビクともせぬ伊賀の暴れん坊だけに、そのうちになんとかなるだろうと、泰然としてこの地底に、胡坐(あぐら)をかいて澄ましこんでいたのだが。
水が出ては。
もう、その胡坐もかけぬ。
いつのまにかふたりは、たかだかと着物の裾をはしょって、洪水の難にあった姿。
「一刻(とき)にどのくらい水嵩(みずかさ)がますのであろうの」
「サアそれは、ちょっとわからぬが――」
首まで来るまでには相当時間があろう。その間に、なんとでもして脱出のくふうをつけねばならぬ。
なんとでもして!
けれど。
どうしたらよいか?
四畳半ほどの地底の一室である。地面に達する唯一の穴は、天井高く三尺ほどの直径に、斜めに通じているだけで、そこにとどく足場もなければ、とびつこうにも手がかりがない。
周囲は、荒削(あらけず)りの土石の壁。
もう地上は、たそがれどきでもあろうか。
さっきまで、穴からかすかに流れこんでいた光線は、すっかり消えて、闇の中にそそぎ入る水音のみ、高い。
伊賀の連中はどうしたろう!
チョビ安は?
「オイッ!」
と、源三郎が、左膳の注意をうながした。
足でジャブジャブ水をけって見せた。
いつのまにか、もうふくら脛(はぎ)の半(なか)ばまできている。まもなく膝を没するであろう。それから腿(もも)、腹、胸、首……やがて全身水びたしに――。
左膳と源三郎、沈黙のうちに、狂的な眼をあわせた。
水は、つめたく脛(すね)をなめて、這いあがってくる……。
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