丹下左膳
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著者名:林不忘 

「へえい! 江戸名物はチョビ安(やす)のところ天――盛りのいいのが身上だい」
 ところ天やの小僧、ませた口をきくんで。
「こちとら、かけ酢の味を買ってもらうんだい。ところ天は、おまけだよ」
「おめえ、チョビ安ってのか。おもしれえあんちゃんだな。ま、なんでもいいや。早えとこ一ぺえ突き出してくんねえ」
 言いながら、与の公、手のつつみを地面(した)へおろして、鬱金(うこん)のふろしきをといた。出てきたのは、時代がついて黒く光っている桐の箱だ。そのふたを取って、いよいよ壺を取り出す。
 古色蒼然たる錦のふくろに包んである。それを取ると、すがりといって、赤い絹紐の網が壺にかかっております。
 その網の口をゆるめ、奉書の紙を幾重にも貼り固めた茶壺のふたへ、与吉の手がかかったとき、その時までジッと見ていたところ天売りの子供、みずから名乗ってチョビ安が、
「小父(おじ)ちゃん、ところ天が冷(さ)めちゃうよ」
 洒落(しゃれ)たことをいって、皿をつき出した。
「まア、待ちねえってことよ。それどころじゃアねえや」
 与吉がそう言って、チラと眼を上げると、あ! いけない! 折りしも、佐竹様の塀について、この横町へはいってくる一団の武士のすがた! 安積玄心斎(あさかげんしんさい)の白髪をいただいた赭(あか)ら顔を先頭に……。

       三

 それと見るより、与吉、顔色を変えた。この連中にとっ掴まっちゃア、たまらない。たちまち、小意気な江戸ッ児のお刺身ができあがっちまう。
「うわあっ!」
 と、とびあがったものです。
 むこうでも、すぐ与吉に気がついた。気の荒いなかでも気のあらい脇本門之丞(わきもともんのじょう)、谷大八(たにだいはち)なんかという先生方が、
「オ! おった! あそこにおる!」
「やっ! 与吉め、おのれっ!」
「ソレっ! おのおの方ッ!」
「天道われに与(くみ)せしか――」
 古風なことを言う人もある。ドッ! と一度に、砂ほこりをまきあげて、追いかけてきますから、与吉の野郎、泡をくらった。
 もう、ところてんどころではありません。
「おウ、チョビ安といったな。此壺(こいつ)をちょっくら預かってくんねえ。あの侍(さんぴん)たちに見つからねえようにナ、おらア、ぐるッとそこらを一まわりして、すぐ受けとりに来るからな」
 と、見えないように、箱ごと壺を、ところ天屋の小僧のうしろへ押しこむより早く、与の公、お尻に帆あげて、パッと駈け出した。
 いったい、このつづみの与吉ってえ人物は、ほかに何も取得(とりえ)はないんですが、逃げ足にかけちゃア天下無敵、おっそろしく早いんです。
 今にもうしろから、世に名だたる柳生の一刀が、ズンと肩口へ伸びて来やしないか。一太刀受けたら最後、あっというまに三まいにおろされちまう……と思うから、この時の与吉の駈けっぷりは、早かった。
 まるで踵(かかと)に火がついたよう――背後(うしろ)からは、与吉待てえ、与吉待てえと、ガヤガヤ声をかけて追ってくるが、こいつばかりは、へえといって待つわけにはいかない。
 ぐるっと角をまがって、佐竹様のおもて御門から、木戸をあけて飛びこんだ。御門番がおどろいて、
「おい、コラコラ、なんじゃ貴様は」
 あっけにとられているうちに、
「へえ、ごらんのとおり人間で――人ひとり助けると思召(おぼしめ)して」
 と与吉、たちさわぐ佐竹様の御家来に掌(て)を合わせて拝みながら、御番衆が妙なやつだナと思っているうちに、ぬけぬけとしたやつで、すたすた御邸内を通りぬけて、ヒョックリさっきの横町へ出てまいりました。
「ざまア見やがれ。ヘッ、うまく晦(ま)いてやったぞ」
 ところが、与吉、二度びっくり――ところてんのチョビ安が、こけ猿の茶壺とともに、影もかたちもないんで。

       四

 ところ天の荷は、置きっ放しになっている。
 あわてた与吉が、ふと向うを見ると、こけ猿の包みを抱えたチョビ安が、尻切れ草履の裏を背中に見せて、雲をかすみととんでゆくのだ。
 安積玄心斎の一行は、与吉にあざむかれて、横町へ切れて行ったものらしく、あたりに見えない。
「小僧め! 洒落(しゃれ)た真似をしやがる」
 きっとくちびるを噛んだ与吉、豆のように遠ざかって行くチョビ安のあとを追って、駈けだした。
 柳沢弾正少弼(やなぎさわだんじょうしょうひつ)、小笠原頼母(おがさわらたのも)と、ずっと屋敷町がつづいていて、そう人通りはないから、逃げてゆく子供のすがたは、よく見える。
「どろぼうっ! 泥棒だっ! その小僧をつかまえてくれっ!」
 と与吉は、大声にどなった。
 早いようでも子供の足、与吉にはかなわない。ぐんぐん追いつかれて、今にも首へ手が届きそうになると、チョビ安が大声をはりあげて、
「泥棒だ! 助けてくれイ!」
 と喚(わめ)いた。
「この小父(おじ)さんは泥棒だよ。あたいのこの箱を奪(と)ろうっていうんだよ」
 と聞くと、そこらにいた町の人々、気の早い鳶(とび)人足や、お店者(たなもの)などが、ワイワイ与吉の前に立ちふさがって、
「こいつ、ふてえ野郎だ。おとなのくせに、こどもの物を狙うてえ法があるか」
 おとなと子供では、どうしてもおとなのほうが割りがわるい。みんなチョビ安に同情して、与吉はすんでのことで袋だたきにあうところ……。
 やっとそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋(あづまばし)のたもと。
 ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭(せま)い河原(かわら)、橋杭(くい)のあいだに筵(むしろ)を張って、お菰(こも)さんの住まいがある。
 飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
 中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。

       五

「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
 とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
 いい兄哥(あにい)が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
 筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
 隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
 箒(ほうき)のような赭茶(あかちゃ)けた毛を、大髻(おおたぶさ)にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
 その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
 黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏(しゃれこうべ)を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢(ながじゅばん)が、痩せた脛(すね)にからまっている。
「おめえか」
 と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
 右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
 与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
 と、刻むような左膳の微笑。
「二本さして侍(さむれえ)だといったところで、主君や上役にぺこぺこしてヨ、御機嫌をとらねえような御機嫌をとって、仕事といやア、それだけじゃアねえか。おもしろくもねえ。かく河原住まいの丹下左膳、こんなさっぱりしたことはないぞ」
「へえ、さようで――」
 と、撥(ばち)をあわせながら、与吉、気が気でない。その左膳のうしろに、あのチョビ安の小僧が、お小姓然と、ちゃんと控えているんで。
 しかも、こけ猿の包みを両手に抱えて。

   妙(みょう)な裁判(さいばん)


       一

 この丹下左膳は。
 いつか、金華山沖あいの斬り合いで、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、左膳の長身が、生けるとも死んだともなく、遠く遠く漂い去りつつあった……はずのかれ左膳、うまく海岸に流れついたとみえて、こうしていつのまにか、ふたたび江戸へまぎれこみ、この橋の下に浮浪の生活をつづけていたのだ。
 が、いまの与吉には、そんなことは問題でない。
 左膳のうしろにチョコナンとすわっているチョビ安をにらんで、どう切りだしたものかと考えている。
 何しろ、チョビ安のそば、左膳の左手のすぐ届くところに、鹿の角の形をした、太短い松の枯れ枝が二本向い合せに土にさしてあって、即妙(そくみょう)の刀架け……それに、赤鞘の割れたところへ真田紐(さなだひも)をギリギリ千段巻きにしたすごい刀(やつ)が、かけてあるのだから、与吉も、よっぽど気をつけて口をきかなければならない。
 まず……。
「へへへへへ」と笑ってみた。
「ちょっと伺いやすが、そのお子さんは、先生の、イエ、丹下の旦那様のお坊っちゃまなので――?」
 すると、左膳、すぐにはそれに答えずに、夢を見ているような顔だ。
「今は左膳、根ッからの乞食浪人……これでチョイチョイ人斬りができりゃア、文句はねえ。どうだ、与吉、思う存分人を斬れるような、おもしれえ話はねえかナ。どこかおれを人殺しに雇ってくれるところはねえか」
 ほそい眼を笑わせて、口を皮肉にピクピクさせるところなど、相変わらずの丹下左膳だ。
 そろそろおいでなすったと、与吉は首をすくめて、
「へえ。せいぜい心がけやしょう。それはそうと丹下の殿様、そこにおいでの子供衆は、そりゃいってえ……」
「うむ、この子か。知らぬ」
「まるっきり、なんの関係(かかりあい)もおありにならないんで?」
「おめえより一足さきに、この小屋へ飛びこんで来たのだ」
 と聞いて与吉、急に気が強くなって、
「ヤイ! ヤイ! チョビ安といったナ。ふてえ畜生だ。こんなところへ逃げこんでも、だめだぞ。さ、その壺をけえせ!」
 と、どなったのだが、チョビ安はけろりとした顔で、
「何いってやんで! 小父ちゃんこそ、おいらからこの包みをとろうとして、追っかけて来たんじゃアねえか。乞食のお侍さん、あたいを助けておくんなね。この小父ちゃんは、泥棒なんだよ」

       二

 与吉はせきこんで、
「餓鬼のくせに、とんでもねえことを言やアがる。てめえが其箱(それ)を引っさらって逃げたこたア、天道さまも御照覧じゃあねえか」
「やい、与吉、おめえ、天道様を口にする資格はあるめえ」
 左膳のことばに、与吉がぐっとつまると、チョビ安は手を拍(う)って、
「そうれ、見な。あたいの物をとろうとして、ここまでしつこく追っかけて来たのは、小父ちゃんじゃあねえか。このお侍さんは、善悪ともに見とおしだい。ねえ、乞食のお侍さん」
 与の公は、泣きださんばかり、
「あきれた小倅(こせがれ)だ。白を黒と言いくるめやがる。やい! この壺は、こどものおもちゃじゃねえんだぞ。こっちじゃア大切なものだが、何も知らねえお前(めえ)らの手にありゃあ、ただの小汚(こぎた)ねえ壺だけのもんだ。小父ちゃんが褒美(ほうび)をやるから、サ、チョビ安、器用に小父ちゃんに渡しねえナ」
「いやだい!」チョビ安は、いっそうしっかと壺の箱を抱えなおして、
「あたいのものをあたいが持ってるんだ。小父ちゃんの知ったこっちゃアねえや」
 眼をいからした与吉、くるりと裾をまくって、膝をすすめた。
「盗人猛々(たけだけ)しとはてめえのこったぞ。いいか、現におめえは、おいらの預けたその箱をさらって、ドロンをきめこみ、いいか、一目山随徳寺(いちもくさんずいとくじ)と――」
「うめえうそをつくなあ!」
 とチョビ安は、感に耐えた顔だ。
 与吉、ピタリとそこへ手をついたものだ。
「チョビ安様々、拝む! おがみやす。まずこれ、このとおり、一生の恩に被(き)やす。どうぞどうぞ、お返しなされてくだされませ」
「ウフッ! 泣いてやがら。おかしいなあ!」
「なにとぞ、チョビ安大明神、ところてんじくから唐(から)日本の神々さま、あっしを助けるとおぼしめして――」
 チョビ安、どこ吹く風と、
「小父ちゃん、あきらめて帰(けえ)んな、けえんな」
「買うがどうだ!」
 与吉は必死の面持ち、ぽんと上から胴巻をたたき、
「一両! 二両! その古ぼけた壺を二両で買おうてんだ、オイ! うぬが物をうぬが銭(ぜに)出して買おうなんて、こんなべらぼうな話アねえが、一すじ縄でいく餓鬼じゃアねえと見た。二両!」
「じゃ、清く手を打つ……と言いてえところだが」
 とチョビ安、大人のような口をきいて、そっくり返り、
「まあ、ごめんこうむりやしょう。千両箱を万と積んでも、あたいは、この壺を手放す気はねえんだよ、小父ちゃん」

       三

 その時まで黙っていた丹下左膳、きっと左眼を光らせて二人を見くらべながら、
「ようし。おもしれえ。大岡越前じゃアねえが」
 と苦笑して、
「おれが一つ裁(さば)いてやろうか」
「小父ちゃん、そうしておくれよ」
「殿様、あっしから願いやす。その御眼力をもちまして、どっちがうそをついてるか、見やぶっていただきやしょう。こんないけずうずうしい餓鬼ア、見たことも聞いたこともねえ」
「こっちで言うこったい」
「まア、待て」
 と左膳、青くなっている与吉から、チョビ安へ眼を移して、にっこりし、
「小僧、汝(われ)ア置き引きを働くのか」
 置き引きというのは、置いてある荷をさらって逃げることだ。
 これを聞くと、与吉は、膝を打って乗りだした。
「サ! どうだ。ただいまの御一言、ピタリ適中じゃアねえか。ところてん小僧の突き出し野郎め! さあ壺をこっちに、渡した、わたした!」
 チョビ安は、しょげ返ったようすで、
「しょうがねえなあ。乞食のお侍さん、どうしてそれがわかるの?」
「なんでもいいや。早く其壺(そいつ)を出さねえか」
 と、腕を伸ばして、ひったくりにかかる与吉の手を、左膳は、手のない右の袖で、フワリと払った。
「だが、待った! 品物は与吉のものに相違あるめえが、返(けえ)すにゃおよばねえぞ小僧」
「へ? タタ丹下の殿様、そ、そんなわからねえ――」
「なんでもよい。壺はあらためて左膳より、この小僧に取らせることにする」
 よろこんだのは、チョビ安で、
「ざまア見やがれ! やっぱりおいらのもんじゃアねえか。さらわれる小父ちゃんのほうが、頓馬(とんま)だよねえ、乞食のお侍さん」
「先生、旦那、いやサ、丹下様」
 と与吉は、持ち前の絡み口調になって、
「あんまりひでえじゃあござんせんか。あっしゃアこのお裁きには、承服できねえ」
「なんだと?」
 左膳の顔面筋肉がピクピクうごいて、左手が、そっと、うしろの枯れ枝の刀かけへ……。
「もう一ぺん吐かしてみろ!」
「ま、待ってください。ナ、何もそんなに――」
 ぐっと左膳の手が、大刀へ伸びた瞬間、これはいけないと見た与の公、
「おぼえてやがれっ!」
 と、チョビ安へひとこと置き捨てて、その蒲鉾(かまぼこ)小屋を跳び出した。

   親(おや)なし千鳥(ちどり)


       一

 いくら大名物(おおめいぶつ)のこけ猿でも、いのちには換えられない……と、与吉が、ころがるように逃げて行ったあと。
 朝からもう何日もたったような気のする、退屈するほど長い夏の日も、ようやく西に沈みかけて、ばったり風の死んだ夕方。
 江戸ぜんたいが黄色く蒸(む)れて、ムッとする暑さだ。
 だが、橋の下は別世界――河原には涼風が立って、わりに凌(しの)ぎよい。
 ゲゲッ! と咽喉の奥で蛙(かわず)が鳴くような、一風変わった笑いを笑った丹下左膳。
「小僧、チョビ安とか申したナ。前へ出ろ」
「あい」
 と答えたが、チョビ安、かあいい顔に、用心の眼をきらめかせて、
「だが、うっかり前へ出られないよ。幸い求めしこれなる一刀斬れ味試さんと存ぜしやさき、デデン……なんて、すげえなア。嫌だ、いやだ」
 左膳は苦笑して、
「おめえ、おとなか子供かわからねえ口をきくなあ」
「口だけ、おいらより十年ほどさきに生まれたんだとさ」
「そうだろう」左膳は、左手で胸をくつろげて、河風を入れながら、
「誰も小僧を斬ろうたア言わねえ。ササ、もそっとこっちへ来い。年齢(とし)はいくつだ」
 チョビ安は、裾をうしろへ撥(は)ね、キチンとならべた小さな膝頭へ両手をついて、
「あててみな」
「九つか。十か」
「ウンニャ、八つだい」
「いつから悪いことをするようになった」
「おい、おい、おさむれえさん。人聞きのわりいことは言いっこなし!」
「だが、貴様、置き引きが稼業(しょうべえ)だというじゃあねえか」
「よしんば置きびきは悪いことにしても、何もおいらがするんじゃアねえ。みんな世間がさせるんだい」
「フン、容易ならねえことを吐かす小僧だな」
「だって、そうじゃアねえか。上を見りゃあ限(き)りがねえ。大名や金持の家に生まれたってだけのことで、なんの働きもねえ野郎が、大威張りでかってな真似をしてやがる。下を見りゃあ……下はねえや。下は、あたいや、羅宇屋(らうや)の作爺(さくじい)さんや、お美夜(みや)ちゃんがとまりだい。わるいこともしたくなろうじゃアねえか」
「作爺とは、何ものか」
「竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋で、あたいの隣家(となり)にいる人だよ」
「お美夜と申すは?」
「作爺さんのむすめで、あたいの情婦だよ」

       二

「情婦だと?」
 さすがの左膳も、笑いだして、
「そのお美夜ちゃんてえのは、いくつだ?」
「あたいと同い年だよ。ううん、ひとつ下かも知れない」
「あきれけえった小僧だな」
「なぜ? 人間自然の道じゃアねえか」
 今度は左膳、ニコリともしないで、
「おめえ、親アねえか」
 ちょっと淋しそうに、くちびるを噛んだチョビ安は、すぐ横をむいて、はきだすように、
「自慢じゃアねえが、ねえや、そんなもの」
「といって、木の股から生まれたわけでもあるまい」
「コウ、お侍さん、理に合わねえこたア言いっこなしにしようじゃねえか。きまってらあな。そりゃあ、あたいだってね、おふくろのぽんぽんから生まれたのさ」
「いやな餓鬼だな。その母親(おふくろ)や、父(ちゃん)はどうした」
「お侍さんも、またそれをきいて、あたいを泣かせるのかい」
 とチョビ安、ちいさな手の甲でぐいと鼻をこすって、しばらく黙したが、やがて、特有のませた口調で話し出したところによると……。
 このチョビ安――名も何もわからない。ただのチョビ安。
 伊賀の国柳生の里の生れだとだけは、おさな心にぼんやり聞き知っているが、両親は何者か、生きているのか、死んだのか、それさえ皆目(かいもく)知れない。どうして、こうして江戸に来ているのか……。
「それもあたいは知らないんだよ。ただ、あたいは、いつからともなく江戸にいるんだい」
 とチョビ安は、あまりにも簡単な身の上ばなしを結んで、思い出したようにニコニコし、
「でも、あたいちっとも寂しくないよ。作爺ちゃんが親切にしてくれるし、お美夜ちゃんってものがあるもの。お美夜ちゃんはそりゃあ綺麗で、あたいのことを兄(にい)ちゃん兄ちゃんっていうよ。早く大きくなって夫婦(めおと)になりてえなあ」
 いいほうの左の眼をつぶって、じっと聞いていた左膳、何やらしんみりと、
「それでチョビ安、おめえ、親に会いたかアねえのか」
「会いたかねえや」
「ほんとに、会いたくねえのか」
 すると、たまりかねたチョビ安、いきなり大声に泣き出して、
「会いてえや! べらぼうに会いてえや! そいで毎日、こうして江戸じゅう探し歩いてるんだい」

       三

「そうなくちゃあならねえところだ」
 と左膳は、見えない眼に、どうやら涙を持っているようす。
 そっとチョビ安をのぞき見やって、いつになくしみじみした声だ。
「だがなあ、親を探すといって、何を手がかりにさがしているのだ」
 チョビ安は、オイオイ泣いている。
「おっ母(かあ)に会いてえ、父(ちゃん)にあいてえ。うん? 手がかりなんか何もないけど、あたい、一生けんめいになれば、一生のうちいつかは会えるよねえ、乞食のお侍さん」
「そうだとも、そんなかあいいおめえを棄てるにゃア、親のほうにも、よほどのわけがあるに相違ねえ。親もお前(めえ)を探してるだろう。武士(さむらい)か」
「知らねえ」
「町人か、百姓か」
「なんだか知らねえんだ」
「こころ細い話だなあ」
「作爺ちゃんも、お美夜ちゃんも、いつもそういうんだよ」
 と洟(はな)をすすりあげたチョビ安、そのまま筵をはぐって河原へ出たかと思うと、大声にうたい出した。澄んだ、愛(あい)くるしい声だ。
「むこうの辻のお地蔵さん
涎(よだれ)くり進上、お饅頭(まんじゅう)進上
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父(ちゃん)はどこ行った
あたいのお母(ふくろ)どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
 それを聞く左膳、ぐっと咽喉を詰まらせて、
「おウ、チョビ安」
 と呼びこんだ。
「どうだ、父(ちゃん)が見つかるまで、おれがおめえの父親になっていてやろうか」
 チョビ安は円(つぶら)な眼を見張って、
「ほんとかい、乞食のお侍さん」
「ほんとだとも、だが、そういちいち、乞食のお侍さんと、乞食をつけるにはおよばぬ。これからは、父上と呼べ。眼をかけてつかわそう」
「ありがてえなあ。あたいも一眼見た時から、乞食の……じゃアねえ、お侍さんが好きだったんだよ。うそでも、父(ちゃん)とよべる人ができたんだもの。こんなうれしいこたあねえや。あたい、もうどこへも行かないよ」
「うむ、どこへも行くな。その壺は、この俄(にわか)ごしらえの父が、預かってやる。これからは、河原の二人暮しだ。親なし千鳥のその方(ほう)と、浮世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」

   血(ち)の哄笑(こうしょう)


       一

 子供の使いじゃあるまいし、壺をとられました……といって、手ぶらで、本郷の道場へ顔出しできるわけのものではない。
 あの端気(ママ)丹波が、ただですますはずはないのだ。
 首が飛ぶ……と思うと、与吉は、このままわらじをはいて、遠く江戸をずらかりたかったが、そうもいかない。
 いつの間にか、うす紫の江戸の宵だ。
 待乳山(まつちやま)から、河向うの隅田の木立ちへかけて、米の磨(と)ぎ汁のような夕靄(ゆうもや)が流れている。
 あのチョビ安というところ天売りの小僧は、なにものであろう……丹下の殿様は、あれからいったいどういう流転(るてん)をへて、あんな橋の下に、小屋を張っているのだろうと、与吉のあたまは、数多(あまた)の疑問符が乱れ飛んで、飛白(かすり)のようだ。
 思案投げ首。
 世の中には、イケずうずうしい餓鬼もあったものだ。それにしても、悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
 ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。あやうく助かったのはいいが、またしても心配になるのは、なんといって峰丹波様に言いわけしたらいいか……。
 それを思うと、妻恋坂へ向かいだした与の公の足は、おのずと鈍ってしまう。
 しかし待てよ、駒形高麗屋敷と、吾妻橋と、つい眼と鼻のあいだにいながら、櫛巻きの姐御は、丹下様が生きてることを知らねえのだ。あの左膳の居どころを、お藤姐御にそっと知らせたら、またおもしろい芝居が見られないとも限らない……。
 そんなことを思って、ひとり含み笑いを洩らしながら、与吉がしょんぼりやってきたのは、考えごとをして歩く道は早い、もう本郷妻恋坂、司馬道場の裏口だ。
 お待ち兼ねの柳生の婿どのに会わぬうちは、死ぬにも死にきれぬとみえて、司馬老先生は、まだ虫の息がかよっているのだろう。広いやしきがシインと静まりかえっている。この道場によって食べている付近の町家一帯も、黒い死の影におびえて、鳴り物いっさいを遠慮し、大きな声ひとつ出すものもない。
 なんといって峰の殿様にきりだしたら……と与吉が、とつおいつ思案して、軽い裏木戸も鉄(くろがね)の扉の心地、とみにははいりかねているところへ、その木戸を内からあけて、夕やみの中へぽっかり出てきた若い植木屋――。
 一眼見るより、与吉、悲鳴に似た声をあげた。
「うわあッ! あなた様は、や、柳生源……!」

       二

「シッ! キ、貴様は、つ、つづみの与吉だな」
 と、その蒼白い顔の植木屋が、つかえた。
 根岸の植留の弟子と偽って、この道場の庭仕事にまぎれこんでいる柳生源三郎……ふしぎなことに、職人の口をきく時は、化けようという意識が働くせいか、ちっともつかえないのに、こうして地(じ)の武士(さむらい)にかえると、すぐつかえるのだ。
「ミ、三島以来、どうやら面(つら)におぼえがあるぞ。壺はいかがいたした。こけ猿は――」
 と眉ひとつ動かさずに、きく。
 与吉は、およぐような手つきで、あッあッと喘(あえ)ぐだけだ。声が出ない。
 どうしてこの伊賀の暴れん坊が、当屋敷に?……などという疑問は、あとで、すこし冷静になってから、与吉のあたまにおこったことで、この時は、つぎの瞬間に斬られる!――と思っただけだ。
 植木屋すがたの源三郎は、うら木戸の植えこみを背に、声を低めた。
「壺を出せ! ダ、出さぬと、コレ、ザックリ行くぞ!」
 与吉は、やっと声を見つけた。
「へえ、こけ猿の壺は、丹下左膳てえ化け物みてえなお方の手もとに……あっしもそれで、とんだ迷惑を――実あ、チョビ安というところ天屋の小僧が、あらわれ出やしてネ……」
 一語ずつ唾を呑み呑み、手まね足真似で、与吉は自分で何を言っているかも知らず、しどろもどろだ。
「丹下左膳? 何やつか、その者は。どこにおる」
「ヘエ、吾妻橋の下に――」
「何を吐(ぬ)かす? 壺の儀は、いずれ詮議いたす。それより、貴様は、余が源三郎であることを観破したうえは、一刻も早く道場の者に知らせたくて、うずうずしておるであろうな」
 源三郎は、ほほえんで、
「行け! 行って、峰丹波に告げてまいれ。余はここで待っておる。逃げも隠れもせんぞ」
 ものすごい微笑だ。与吉は、いい気なもので、このときすきを発見した気になった。サッと源三郎の横をすっ飛んで、勝手口へ駈けあがった与吉……。
 そこにいた婢(おんな)がおどろいて、
「あれま! この人は草履のまんま――」
 言われて、台所の板の間に麻裏を脱ぎ棄てた与吉は、どんどん奥へ走りこんで、かって知った峰丹波の部屋をあけるなり、
「ア、おどろいた! います! この家にいるんです! なんて胆ッ玉のふとい……」
 さけびながら与吉、べたべたと敷居にすわった。

       三

 この剣術大名の家老にも等しい峰丹波である。奥ざしきの一つを与えられて、道場に起居しているのだ。
 机にむかって、何か書見をしていた丹波は、あわただしい与吉の出現に、ゆっくり振りかえった。
「今までどこにおった。壺は、どうした」
 どこへ行っても壺は? ときかれるので、与吉はすっかり腐ってしまう。
 でも、今はそれどころではないので、壺のことは、丹下左膳という得体の知れない人斬り狂人におさえられてしまったと、その一条(ひとくさり)をざっと物語ると、ジッと眼をつぶって聴いていた丹波、
「壺の儀は、いずれ後で詮議いたす」
 源三郎と同じことを言って、
「与吉、あの男に気がついたか」
 と、ためいきをついた。
「気がついたかとおっしゃる。冗談じゃございません。あの男に気がつかないでどういたします。あれこそは、峰の殿様、品川に足どめを食ってるはずの源三郎で……」
「声が高いぞ」
 と丹波は、押っかぶせるように、
「一同を品川に残して、そっと当方へ単身入りこんだものであろうが、はてさて、いい度胸だ」
「あなた様は、前から御存じだったので?」
「うむ、知っておった。秘伝(ひでん)銀杏返(いちょうがえ)し――イヤナニ、其方(そち)の知ったことではないが、この丹波、ちゃんと見ぬいておったぞ」
「それで、どうしてお斬りにならなかったので?」
「斬る? 斬る? 伊賀のあばれン坊を誰が斬れる?」
 丹波は、またしずかに眼を閉じて、
「源三郎に刃の立つ者は、広い天下にたった一人しかないぞ?」
 いぶかしげに、与吉は首をかしげて、
「へえイ、それはどなたで?」
「もう一人の源三郎殿だ。つまり、いまひとり源三郎殿があらわれねば、彼と刃を合わすものはあるまい」
「フウム、もう一人の源三郎……」
 と、何を思ったか、与吉、ハタと小膝を打って、
「峰の殿様、あっしに心当りがねえでもねえが――」
「いま、源三郎殿は、どこにおる?」
 いつのまにか、丹波は、顔いろを変えて、突ったっていた。
「其方(そち)が知った以上、やむを得ん。わしが斬られよう。丹波の生命もまず、今宵限りであろう」
「待った! あっしに一思案……」
「とめてくれるな」
 と丹波、大刀を左手(ゆんで)に、廊下へ出た。

       四

 逃げも隠れもせぬ。ここに待っておるから、丹波に告げてこい……源三郎はそうは言ったが、よもやあの刀を帯びない植木屋すがたで、暢気(のんき)に丹波の来るのを待ってはいまい――与吉はそう思って、丹波のあとからついていった。
 司馬道場の代稽古、十方不知火の今では第一のつかい手峰丹波の肩が、いま与吉がうしろから見て行くと、ガタガタこまかくふるえているではないか。
 剛愎(ごうふく)そのものの丹波、伊賀の暴れん坊がこの屋敷に入りこんでいることを、さわらぬ神に祟(たた)りなしと、今まで知らぬ顔をしてきたものの、もうやむを得ない。今宵ここで源三郎の手にかかって命を落とすのかと、すでにその覚悟はできているはず。
 死ぬのが怖くて顫(ふる)えているのではない。
 きょうまで自分が鍛えに鍛えてきた不知火流も、伊賀の柳生流には刃が立たないのかと、つまり、名人のみが知る業(わざ)のうえの恐怖なので。
「どうせ、あとで知れる。お蓮さまや萩乃様をはじめ、道場の若い者には、何もいうなよ。ひとりでも、無益な命を落とすことはない」
 と丹波が、ひとりごとのように、与吉に命じた。
 ずっと奥の先生の病間(びょうま)のほうから、かすかに灯りが洩れているだけで、暗い屋敷のなかは、海底のように静まりかえっている。
「だが、峰の殿様、どうして植木屋になぞ化けて、はいりこんだんでげしょう。根岸の植留の親方を、抱きこんだんでしょうか」
 丹波は、答えない。無言で、大刀に反(そ)りを打たせて、空気の湿った夜の庭へ、下り立った。
 雲のどこかに月があるとみえて、ほのかに明るい。樹の影が、魔物のように、黒かった。
 丹波のあとから、与吉がそっとさっきの裏木戸のところへ来てみると!
 まさか待っていまいと思った柳生源三郎が、ムッツリ石に腰かけている。
 丹波の姿を見ると、独特の含み笑いをして、
「キ、来たな。では、久しぶりに血を浴びようか」
 と言った、が、立とうともしない。
 四、五間(けん)の間隔をおいて、丹波は、ピタリと歩をとめた。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあそう早くからあきらめることはない」
 源三郎が笑って、石にかけたまま紺の法被(はっぴ)の腕ぐみをした瞬間、
「では、ごめん……」
 キラリ、丹波の手に、三尺ほどの白い細い光が立った。抜いたのだ。

       五

 あの与吉めが、あんなに泣いたり騒いだりして、取り戻そうとしたこの壺は、いったい何がはいっているのだろう……。
 左膳は、河原の畳にあぐらをかいて、小首を捻(ひね)った。
 竹のさきに蝋燭(ろうそく)を立てたのが、小石のあいだにさしてあって、ボンヤリ菰(こも)張りの小屋を照らしている。
 きょうから仮りの父子(おやこ)となった左膳と、チョビ安――左膳にとっては、まるで世話女房が来たようなもので、このチョビ安、子供のくせにはなはだ器用(きよう)で、御飯もたけば茶碗も洗う。
 珍妙なさし向いで、夕飯をすますと、
「安公」
 と左膳は、どこやら急に父親めいた声音(こわね)で、
「この壺をあけて見ろ」
 川べりにしゃがんで、ジャブジャブ箸を洗っていたチョビ安、
「あい。なんでも父(ちゃん)――じゃなかった、父上の言うとおりにするよ。あけてみようよね」
 と小屋へかえって、箱の包みを取りだした。布づつみをとって、古い桐箱のふたをあけ、そっと壺を取りあげた。
 高さ一尺四、五寸の、上のこんもりひらいた壺で、眼識ないものが見たのでは、ただのうすぎたない瀬戸ものだが、焼きといい、肌といい、薬のぐあいといい、さすが蔵帳(くらちょう)の筆頭にのっている大名物(おおめいぶつ)だけに、神韻(しんいん)人に迫る気品がある。
 すがりといって、赤い絹紐を網に編んで、壺にかぶせてあるのだ。
 そのすがりの口を開き、壺のふたをとろうとした。壺のふたは、一年ごとに上から奉書の紙を貼り重ねて、その紙で固く貼りかたまっている。
「中には、なにが……?」
 と左膳の左手が、その壺のふたにかかった瞬間、いきなり、いきおいよく入口の菰をはぐって飛びこんできたのは、さっき逃げていった鼓の与吉だ。
 パッと壺の口をおさえて、左膳は、しずかに見迎えた。
「また来たナ、与の公――」
 と、壺とチョビ安を背に庇(かば)って、
「汝(うぬ)ア、この壺にそんなに未練があるのかっ」
 ところが、与吉は立ったまま口をパクパクさせて、
「壺どころじゃアござんせん。あっしア、今、本郷妻恋坂からかけつづけてきたんだ。丹下の殿様、あなた様はさっき、思うさま人の斬れるおもしれえこたアねえかとおっしゃいましたね。イヤ、その人斬り騒動が持ちあがったんだ。ちょっと来ておくんなさい。左膳さまでなくちゃア納まりがつかねえ。相手は伊賀の暴れン坊、柳生源三郎……」

       六

「何イ? 伊賀の柳生……?」
 突ったった左膳、急にあわてて、頬(ほお)の刀痕をピクピクさせながら、チョビ安をかえり見、
「刀を――刀を取れ」
 と、枯れ枝の刀架けを指さした。
 そこに掛かっている破れ鞘……鞘は、見る影もないが、中味は相模大進坊(さがみだいしんぼう)、濡(ぬ)れ燕(つばめ)の名ある名刀だ。
 濡れ紙を一まい空にほうり投げて、見事にふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめ――。
 左膳はもう、ゾクゾクする愉快さがこみあげて来るらしく、濡れ燕の下げ緒を口にくわえて、片手で衣紋(えもん)をつくろった。
「相手は?」
「司馬道場の峰丹波さまで」
「場所は?」
「本郷の道場で、ヘエ」
「おもしろいな。ひさしぶりの血のにおい……」
 と左膳、あたまで筵を押して、夜空の下へ出ながら、
「安! 淋しがるでないぞ」
「父上、人の喧嘩に飛びこんでいって、怪我をしちゃアつまんないよ」
 と、チョビ安は、こけ猿の壺を納(しま)いこんで、
「もっとも、それ以上怪我のしようもあるめえがネ」
 と言った。
 チョビ安が左膳を父上と呼ぶのを聞いて、与吉は眼をパチクリさせている。左膳はもう与吉をしたがえて、河原から橋の袂へあがっていた。
 こけ猿の壺は、開かれようとして、また開かれなかった。まだ誰もこの壺のふたをとって、内部(なか)[#ルビの「なか」は底本では「なな」]を見たものはないのである。
 気が気でない与吉は、辻待ちの駕籠に左膳を押しこんで、自分はわきを走りながら、まっしぐらに本郷へ……。
 仔細も知らずに、血闘の真っただなかへとびこんでいく左膳、やっと生き甲斐を見つけたような顔を、駕籠からのぞかせて、
「明るい晩だなあ。おお、降るような星だ――おれあいってえどっちへ加勢するんだ」
 駕籠舁(か)きども、ホウ! ホウ! と夜道を飛びながら、気味のわるい客だと思っている。
 道場へ着いて裏木戸へまわってみると……驚いた。
 シインとしている。源三郎は石に腰かけ、四、五間離れて、丹波が一刀を青眼に構えて、微動だにしない。あれから与吉が浅草へ往復するあいだ、ずいぶんたったのに、まださっきのまんまだ。

       七

 与吉が、そっとうしろからささやいて、
「丹下さま、こいつアいってえどうしたというんでげしょう。あっしが、あなた様をお迎いに飛び出した時と、おんなじ恰好(かっこう)だ。あれからずっとこのまんまとすると、二人とも、おっそろしく根気のいいもんでげすなア」
 その与吉の声も、左膳の耳には入らないのか、かれは、蒼白(まっさお)な顔をひきつらせて、凝然と樹蔭に立っている。
 ひしひしと迫る剣気を、その枯れ木のような細長い身体いっぱいに、しずかに呼吸して、左膳は、別人のようだ。
 与吉とかれは、裏木戸の闇の溜まりに、身をひそめて、源三郎と丹波の姿を、じっと見つめているのである。
 藍を水でうすめたような、ぼうっと明るい夜だ。物の影が黒く地に這って……耳を抉(えぐ)る静寂。
 夏の晴夜は、更(ふ)けるにしたがって露がしげって、下葉(したば)に溜まった水粒が、ポタリ! 草を打つ音が聞こえる――。
 源三郎は、その腰をおろしている庭石の一部と、化したかのよう……ビクとも動かない。
 白い鏡とも見える一刀を、青眼に取ったなり、峰丹波は、まるで大地から生えたように見える。斬っ尖(さき)ひとつうごかさず、立ったまま眠ってでもいるようだ。
 二分、三分、五分……この状態はいつ果つべしともなく、続いていきそうである。
 邸内(なか)では、だれもこの、裏庭にはらんでいる暴風雨(あらし)に気づかぬらしく、夜とともに静まりかえっている。病先生のお部屋のあたりに、ぱっと灯が洩れているだけで、さっきまで明りの滲んでいた部屋部屋も、ひとつずつ暗くなってゆく。
 左膳は、口の中で何やら唸りながら、源三郎と丹波を交互(かたみ)に見くらべて、釘づけになっているのだ。二人は、左膳と与吉の来ていることなど、もとより意識にないらしい。
 と、たちまち、ふしぎなことが起こったのだ。
 丹波の口から、低い長い呻き声が流れ出たかと思うと……かれ丹波、まるで朽ち木が倒れるように、うしろにのけぞって、ドサッ! 地ひびき打って仰向けに倒れた。
 かた手に抜刀をさげたまま――そして、草に仰臥したなり、その大兵(たいひょう)のからだは長々と伸びきって、すぐ眠りにはいったかのよう……丸太のごとくうごかない。
 むろん斬られたのではない。気に負けたのである。
 源三郎は、何ごともなかったように、その丹波のようすを見守っている。
 左膳が、ノッソリと、その前に進み出た。

       八

「オウ、若えの」
 と左膳は、源三郎へ顎をしゃくって、
「この大男は、じぶんでひっくりけえったんだなア」
 源三郎は、不愛想な顔で、左膳を見あげた。
「ウム、よくわかるな。余はこの石に腰かけて、あたまの中で、唄を歌っておったのだよ。全身すきだらけ……シシシ然るに丹波は、それがかえって怖ろしくて、ど、どうしても撃ちこみ得ずに、固くなって気をはっておるうちに、ははははは、じぶんで自分の気に負けて――タ丹波が斬りこんでまいったら、余は手もなく殺(や)られておったかも知れぬに、こらッ、与吉と申したナ。その丹波の介抱をしてやれ。すぐ息を吹きかえすであろうから」
 与吉はおずおずあらわれて、
「ヘ、ヘエ。いや、まったくどうも、おどろきやしたナ」
 と意識を失っている丹波に近づき、
「といって、この丹波様を、あっしひとりで、引けばとて押せばとて、動こう道理はなし……弱ったな」
 左膳へ眼をかえした源三郎、
「タ、誰じゃ、貴様は」
 ときいた。
 眼をトロンとさせて、酔ったようによろめきたっている左膳は、まるで、しなだれかかるように源三郎に近づき、
「誰でもいいじゃアねえか。おれア、伊賀の暴れン坊を斬ってみてえんだ。ヨウ、斬らせてくれ、斬らせてくれ……」
 甘えるがごとき言葉に、源三郎は、気味わるげに立ちあがって、
「妙(みょう)なやつだ」
 つぶやきながら、倒れている丹波のそばへ行って、
「カカカ借りるぞ」
 と、その握っている刀をもぎとり、さっと振りこころみながら、
「植木屋剣法――うふふふふふ」
 と笑った。
 変わった構えだ。片手に刀をダラリとさげ、斬っさきが地を撫でんばかり……足(そく)を八の字のひらき、体をすこしく及び腰にまげて、若い豹(ひょう)のように気をつめて左膳を狙うようす。
 一気に!――と源三郎、機を求めて、ジリ、ジリ! 左へ左へと、まわってくる。
 濡れ燕の豪刀を、かた手大上段に振りかぶった丹下左膳、刀痕の影を見せて、ニッと微笑(わら)った。
「これが柳生の若殿か。ヘッ、青臭え、青臭え……」
 夜風が、竹のような左膳の痩せ脛に絡む。

       九

「おウ、たいへんだ! 鮪(まぐろ)があがった。手を貸してくんねえ」
 飛びこんできた与吉の大声に、道場の大部屋に床を敷きならべて、がやがや騒いでいた不知火流の内弟子一同、とび起きた。
「与吉とか申す町人ではないか。なんだ、この夜ふけに」
「まぐろが、なんとしたと? 寝ぼけたナ、貴様」
 口々にどなられて、与吉はけんめいに両手を振り、
「イエ、丹波様が、お裏庭で、鮪(まぐろ)のようにぶっ倒れておしまいなすったから、皆さんのお手を拝借してえんで」
「ナニ、峰先生が――」
 与吉の話に、深夜の道場が、一時に沸き立った。それでも、瀕死の老先生や、お蓮様や萩乃のいる奥には知らせまいと、一同、手早く帯しめなおして、
「日本一の乱暴者が二人、斬り合っておりますから、そのおつもりで……」
 という与吉の言葉に、若い連中せせら笑いながら、手に手に大刀をひっ掴んで、うら庭へ――。
 闇黒(やみ)から生まれたように駈けつけて来る、おおぜいの跫音(あしおと)……左膳がそれに耳をやって、
「源三郎、じゃまがへえりそうだナ」
 と言った瞬間、地を蹴って浮いた伊賀の暴れん坊、左膳の脇腹めがけて斬りこんだ一刀……ガッ! と音のしたのは、濡れ燕がそれを払ったので、火打ちのように、青い火花が咲き散った。
「ウム、丹下左膳に悪寒(さむけ)をおぼえさせるのア、おめえばかりだぞ」
 言いながら左膳、おろした刀をそのまま片手突きに、風のごとく踏みこんだのを、さすがは柳生の若様、パパッと逃げて空(くう)を突かせつつ……フと気がつくと、二人の周囲をぐるりかこんで、一面の剣輪、剣林――。
 筑紫の不知火が江戸に燃えたかと見える、司馬道場の同勢だ。
 気を失った峰丹波の身体は、手早く家内(なか)へ運んだとみえて、そこらになかった。
 この騒ぎが、奥へも知れぬはずはない。庭を明るくしようと、侍女たちが総出で雨戸を繰り開け、部屋ごとに、縁端(えんばた)近く燭台を立てつらねて、いつの間にか、真昼のようだ。廊下廊下を走りまわり、叫びかわすおんな達の姿が、庭からまるで芝居のように見える。
 左膳は、一眼をきらめかせて、源三郎をにらみ、
「なお、おい、源公。乗合い舟が暴風(しけ)をくらったようなものよなア。おれとおめえは、なんのゆかりもねえが、ここだけアいっしょになって、こいつらを叩っ斬ろうじゃアねえか」

       十

 はからずも顔をあわせ、焼刃(やいば)をあわせた左膳と源三郎……今後長く、果たして敵となるか、味方となるか――。
「では、この勝負、一時お預けとするか」
「さよう、いずれ後日に……」
 ほほえみかわした二人は、サッと背中を合わせて、包囲する司馬道場の若侍たちへ、怒声を投げた。
「こいつらア、金物の味を肉体(からだ)に知りてえやつは前へ出ろっ!」
 と左膳、ふりかぶった左腕の袖口に、おんな物(もの)のはでな長じゅばんを、チラチラさせて。
 源三郎は、丹波の大刀を平青眼、あおい長い顔に、いたずらげな眼を笑わせて、
「命不知火(いのちしらぬい)、と申す流儀かの」
 与吉は、丹波について部屋へ行ったとみえて、そこらに見えなかった。源三郎が植木屋すがたに身をやつして、入りこんでいたことは、与吉は丹波に口止めされたので、一同にいってない。植木屋にしては、武士めいた横柄(おうへい)な口をきくやつ……皆は、そう思いながら、
「これはおもしろいことになったぞ」
「真剣は、今夜がはじめてで――」
「拙者が、まず一刀を……」
 自分らの腕が低いから、相手のえらさ、強さがわからない。
 白林いっせいに騒いで、斬り込んできた。
「殺生(せっしょう)だが……」
 つぶやいた源三郎、ツと左膳の背に背押しをくれたかと思うと、上身を前へのめらして、
「ザ、ザ、雑魚(ざこ)一匹ッ!」
 つかえながら、横なぎの一刀、ふかく踏みこんできた一人の脇腹を諸(もろ)に割りつけて、
「…………!」
 声のない叫びをあげたその若侍は、おさえた手が、火のように熱い自分の腹中へ、手首までめいりこむのを意識しながら、グワッと土を噛み、もう一つの手に草の根をむしって――ものすごい断末魔。
 同時に左膳は。
 右へ来た一人をかわす秒間に、
「あははははは、あっはっはっは――」
 狂犬のような哄笑を響かせたかと思うと! 濡れつばめの羽ばたき……。
 もうその男は、右の肩を骨もろとも、乳の下まで斬り下げられて、歩を縒(よ)ってよろめきつつ、何か綱にでも縋ろうとするように、両手の指をワナワナとひらいて、夜の空気をつかんでいる。
 左膳のわらいは、血をなめた者の真っ赤な哄笑であった。
 不知火の一同、思わずギョッとして、とり巻く輪が、ひろがった。

   流(なが)れ星(ぼし)


       一

 庭には斬合いが……と聞いても、萩乃は、なんの恐怖も、興味も、動かさなかった。
 剣客のむすめだけに、剣のひびきに胆をひやさぬのは、当然にしても、じつは萩乃、この数日なにを見ても、何を聞いても、こころここにないありさまなのだった。
 屋敷中に、パッと明るく灯が輝いて、婢(おんな)たちの駈けまわるあわただしい音、よびあう声々――遠く裏庭のほうにあたっては、多人数のあし音、掛け声が乱れ飛んで、たいがいの者なら、ゾクッと頸すじの寒くなる生血の気はいが、感じられる。
 にもかかわらず、派手な寝まきすがたの萩乃は、この大騒動をわれ関せず焉(えん)と、ぼんやり床のうえにすわって、もの思いにふけっているのだ。
 ぼんぼりの光が、水いろ紗(しゃ)の蚊帳を淡く照らして、焚きしめた香のかおりもほのかに、夢のような彼女の寝間だ。
 ほっと、かすかな溜息が、萩乃の口を逃げる。
 恋という字を、彼女は、膝に書いてみた。そして、ぽっとひとりで桜いろに染まった。
 あの植木屋の面影が、この日ごろ、鳩のような萩乃の胸を、ひとときも去らないのである。
 無遠慮(ぶえんりょ)に縁側に腰かけて、微笑したあの顔。丹波の小柄をかわして、ニッとわらった不敵な眼もと……なんという涼しい殿御(とのご)ぶりであろう!
 植木屋であの腕並みとは?……丹波はおどろいて、平伏して身もとを問うたが。
「ああ、よそう。考えるのは、よしましょう」
 と萩乃は口に出して、ひとりごとをいった。
「自分としたことが、どうしたというのであろう――お婿さまときまった柳生源三郎様が、もうきょうあすにもお見えになろうというのに、あんな者に、こんなに心を奪われるなどとは」
 ほんとに、あの男は、卑しい男なのだ、と萩乃は、今まで日になんべんとなく、じぶんにいい聞かしていることを、また胸にくりかえして。
「植木屋の下職(したしょく)などを、いくら想ったところで、どうなるものでもない。じぶんには、父のきめた歴(れっき)とした良人(おっと)が、いまにも伊賀から乗りこんでこようとしている……」
 でも、伊賀の暴れん坊などと名のある、きっと毛むくじゃらの熊のような源三郎様と、あのすっきりした植木屋と――ほんとうに世の中はままならぬ。でも、恋に上下の隔てなしという言葉もあるものを……。
「萩乃さん、まだ起きていたのかえ」
 萩乃は、はっとした。継母のお蓮さまが、艶(えん)な姿ではいってきた。

       二

 気をうしなった峰丹波は。
 自室(へや)へかつぎこまれるとまもなく、意識をとり戻したが、おのが不覚をふかく恥じるとともに、なにか考えるところがあるかして、駈けつけたお蓮様をはじめ介抱の弟子たちへ、
「いや、なに、面目次第もござらぬ。ちと夜風に当たりかたがたお庭の見まわりをいたそうと存じて、うら木戸へさしかかったところ、何やら魔のごときものが現われしゆえ、刀をふるって払わんとしたるも、その時すでに、霧のごとき毒気を吹きかけられてあの始末……イヤ、丹波、諸君に会わす顔もござらぬ」
 と夢のような話をして、ごまかしてしまったが――心中では、かの柳生源三郎がどうして植木屋になぞ化けて当屋敷へ? と、恐ろしい疑問はいっそう拡大してゆくばかり……。
 しかも、素手で、一合も交じえずして自分を倒したあの剣気、迫力!――そう思うと丹波は、乗りかけた船とはいえ、この容易ならぬ敵を向うにまわして、道場横領の策謀に踏み出したものだと、いまさらのごとく、内心の恐怖は木の葉のように、かれの巨体をふるわせてやまなかったのである。
 今……。
 お蓮さまはこの丹波の話を、萩乃の部屋へ持って来て、
「ほんとに、白い着ものをきた一本腕の、煙のような侍が、どこからともなく暴れこんできたんですって。丹波のはなしでは、それを相手どって、一手に防ぎとめているのが、まあ、萩乃さん、誰だと思います、あの、若い植木屋なんですって」
「あら、あの、いつかの植木屋――?」
 と眼を上げた萩乃の顔は、たちまち、朱で刷(は)いたように赤い。
「ですけれど、植木屋などが出ていって、もしものことがあっては……」
 と、萩乃はすぐ、男の身が案じられて、血相かえ、おろおろとあたりへ眼を散らして、起ちかけるのを、お蓮さまは何も気づかずに、
「いえ、みんな出ていって植木屋に加勢しているらしいの。でも、なんだか知らないけど、あの植木屋にまかせておけば、大丈夫ですとさ。丹波がそういっていますよ。丹波がアッとたおれたら、植木屋がとんできて、御免といって丹波の手から、刀を取って、その狼藉者(ろうぜきもの)に立ちむかったんですって」
 とお蓮様も、かの植木屋が源三郎とは、ゆめにも知らない。
「たいへんな腕前らしいのよ、あの美男の植木屋……」
 そう言いさしたお蓮さまの瞳(め)には、つと、好色(いたずら)っぽいあこがれの火が点ぜられて――。
 二人のおんなは、言いあわしたように口をつぐみ、耳をそばだてた。
 裏庭のほうからは、まだ血戦のおめきが、火気のように強く伝わってくる。
 と思うと、時ならぬ静寂が耳を占めるのは、敵味方飛びちがえてジッと機をうかがっているのであろう……。
 と、このとき、けたたましいあし音が長廊下を摺ってきて、病間にのこして来た侍女の声、
「奥様、お嬢さま! こちらでいらっしゃいますか。あの、御臨終でございます。先生がもう――」

       三

 今まで呼吸(いき)のつづいたのが、ふしぎであった。
 医師はとうに匙(さじ)を投げていたが、源三郎に会わぬうちは……という老先生の気組み一つが、ここまでもちこたえてきたのだろう。
 丹波とお蓮様を首謀者に、道場乗っ取りの策動が行なわれているなどとは、つゆ知らぬ司馬先生――めざす源三郎が、とっくのむかしに品川まで来て、供のもの一同はそこで足留めを食い、源三郎だけが姿を変えて、このやしきに乗りこんでいようとは、もとよりごぞんじない。
 ただ、乱暴者が舞いこんだといって、今、うら手にあたって多勢の立ち騒ぐ物音が、かすかに伝わってきているが、先生はそれを耳にしながら、とうとう最期の息をひきとろうとしています。
 燭台を立てつらねて、昼よりもあかるい病間……司馬先生は、眼はすっかり落ちくぼみ、糸のように痩せほそって、この暑いのに、麻の夏夜具をすっぽり着て、しゃれこうべのような首をのぞかせている。もう、暑い寒いの感覚はないらしい。
 はっはっと喘(あえ)ぎながら、
「おう、不知火が見える。筑紫の不知火が――」
 と口走った。たましいは、すでに故郷へ帰っているとみえる。
 並(な)みいる医師や、二、三の高弟は、じっとあたまをたれたまま、一言も発する者はない。
 侍女に導かれて、お蓮様と萩乃が泣きながらはいってきた。
 覚悟していたこととはいえ、いよいよこれがお別れかと、萩乃は、まくらべ近くいざりよって、泣き伏し、
「お父さま……」
 と、あとは涙。お蓮の眼にも、なみだ――いくらお蓮さまでも、こいつは何も、べつに唾をつけたわけじゃアない。
 女性というものは、ふしぎなもので、早く死んでくれればいいと願っていたお爺さんでも、とうとう今あの世へ出発するのかと思うと、不意と心底から、泪(なみだ)の一つぐらいこぼれるようにできているんです。
 よろめきながら、峰丹波がはいってきた。
 やっと意識をとり戻してまもないので、髪はほつれ、色蒼(あお)ざめて、そうろうとしている。
「先生ッ!」
 とピタリ手をついて、
「お心おきなく……あとは、拙者が引き受けました」
 こんな大鼠(おおねずみ)に引き受けられては、たまったものじゃない。
 すると、先生、ぱっと眼をあけて、
「おお、源三郎どのか。待っておったぞ」
 と言った。丹波がぎょっとして、うしろを振り向くと、だれもいない。死に瀕した先生の幻影らしい。
「源三郎殿、萩乃と道場を頼む」
 丹波、仕方がないから、
「はっ。必ずともにわたくしが……」
「萩乃、お蓮、手を――手をとってくれ」
 これが最後の言葉でした。先生の臨終と聞いて、斬合いを引きあげてきた多くの弟子たちが、どやどやッと室内へ雪崩(なだれ)こんできた。

       四

 一人が室内から飛んできて、斬りあっている連中に、何かささやいてまわったかと思うと……。
 一同、剣を引いて、あわただしく奥の病間のほうへ駈けこんでいった後。
 急に相手方がいなくなったので、左膳と源三郎は、狐につままれたような顔を見あわせ、
「なんだ、どうしたのだ――」
「知らぬ。家の中に、なにごとか起こったとみえる」
「烏(からす)の子が巣へ逃げこむように飛んで行きおった、ははははは」
「はっはっはっ、なにが何やら、わけがわからぬ」
 ふたりは、腹をゆすって笑いあったが、左膳はふと真顔にかえって、
「わけがわからぬといえば、おれたちのやり口も、じぶんながら、サッパリわけがわからぬ。おれとおめえは、今夜はじめて会って、いきなり斬り結び、またすぐ味方となり、力をあわせて、この道場の者と渡り合った……とまれ、世の中のことは、すべてかような出たらめでよいのかも知れぬな、アハハハハ」
「邪魔者が去った、いま一手まいろうか」
 闇の中で、あお白く笑った源三郎へ、丹下左膳は懶(ものう)げに手を振り、
「うむ、イヤ、また後日の勝負といたそう。おらアお前(めえ)をブッタ斬るには、もう一歩工夫が肝腎だ」
「いや、拙者も、尊公のごとき玄妙不可思議(げんみょうふかしぎ)な手筋の仁(じん)に、出会ったことはござらぬ。テ、テ、天下は広しとつくづく思い申した」
 濡れ燕を鞘におさめた左膳と、峰丹波の刀を草に捨てて、もとの丸腰の植木屋に戻った柳生源三郎と――名人、名人を知る。すっかり仲よしになって本郷の道場をあとに、ブラリ、ブラリ歩きだしながら、左膳、
「だが、おらアそのうちに、必ずお前の首を斬り落とすからナ。これだけは言っておく」
「うははははは、尊公に斬り落とさるる首は、生憎(あいにく)ながら伊賀の暴れン坊、持ち申さぬ。そ、それより、近いうちに拙者が、ソレ、その、たった一つ残っておる左の腕(かいな)をも、申し受ける機(おり)がまいろう」
 左膳はニヤニヤ笑って歩いて行くが、これでは、仲よしもあんまり当てにならない。
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