丹下左膳
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著者名:林不忘 

 おぼろ夜にはまだ早いけれど、銀白の紗(しゃ)が下界を押しつつんで、人はいっそうの陶酔(とうすい)に新しくさざめき合う……。
 その時、人ごみのなかを左褄(ひだりづま)をとっていそぐ粋な姿があった。
 言わずと知れた羽織芸者――水のしたたりそうな、スッキリとした江戸好みに、群集中の女同士さては男までが眼顔で知らせ合って、振り返り、伸びあがって見送っていると、芸者は、裾さばきも軽やかに社庭を突っきり、艶っぽい声を投げて一軒の料理家の戸ぐちをくぐった。
 やぐら下まつ川の夢八が、羽織見番へ口がかかって、いまお座敷へ出るところ……。
 すぐあとから箱屋が三味線箱をかついでつづく。
 これはいかさま箱屋で、その三味線箱なるものが、大工の道具箱にも似ていれば、そうかと思うとあとつけにも見える。あとつけというのは、武士で道中で替差しの刀を入れておく箱のことだ。
 お祭り同然の山びらきで座はこんでいる。
「おやまあ、新がおの夢八姐さん、さっきからお客様がお待ちかねでネ、エエエエ、もう、じりじりなすっていらっしゃいますよ」
 こう言われて夢八のお艶、通されたのは庭の池に面した表二階の一間だった。
 人声と物音が綾をなして直下の道路に揺れている。
 どこか遠くの部屋で、酒でも呼ぶらしくつづけざまに手を叩いていた。
 廊下に小膝をついて障子をひきあけたお艶、
「ヨウ! 来たね」
 という客の、すこし訛(なま)りをおびた嗄声(かれごえ)で、なんだか聞きおぼえのあるような気がして、かすかにさげていた頭をあげ室内を見た。ちんまりと洒落(しゃれ)た小座敷。
 骨細のきゃしゃなあんどんをひきつけて坐っている町人のひとり……五十がらみのがっしりとした恰幅(かっぷく)、色黒――鍛冶富!……鍛冶屋富五郎である。
「おお!」
「アレ!」
 これがいっしょの声だった。
 客というのは鍛冶富――嫌なやつ! と思っても、お艶の夢八、とっさに立つわけにもゆかず、さりとてそのままはいる気にはなれず敷居のところでモジモジまごまごしていると、こっそり遊びに来て芸者を呼ぶとそれが昔のお艶だったので、より驚いたのは鍛冶富だ。
「イヤッ! お艶さんじゃアねえか。お前さん、どうしたえ? 喜左衛門どんも始終うわさをしていたよ。この土地から芸者に出ているなんておらアちっとも知らなかった。え? いつからだい? 栄三郎様とは別れたのかえ?……マずっとこっちへおはいんなさい。しばらくだったなア!」
「三間町さんでしたか。ほんとにマア御無沙汰申し上げております。お変りもなく――」
 言いながらお艶は、なんとか口実をつけて帰らせてもらおう――こう考えたが、富五郎はもう溶けんばかりにでれりとなって、
「いや! そんな挨拶はぬきだ、ぬきだ! それよりお艶さん、きれいになったなあ……」
 じいッとみつめる色ごのみな鍛冶富の視線にお艶はますます首肩のちぢむ思い――。

「軍(いくさ)にはまず兵糧が第一だて」
「さようさ。ここでしこたま詰めこんだのち出かければちょうど刻限もよかろう」
「なあに! 相手は優男に乞食ひとり、何ほどのことやある。これだけの人数をもって押しかけ参らばそれこそ一揉みに揉みつぶすは必定! さ、前祝いに一献(こん)……」
「善哉(よいかな)善哉!」
「今宵こそは左膳どのも本懐を達して――」お艶はギョ! として思わず呼吸をのんだ。
 最後の言葉が、動かないものとして彼女の耳をとらえたのである。
 じつは、さっきから隣の部屋にいろんな声がしていたのだが、どこかの家中の士が流れこんできて駄々羅(だだら)あそびをしているのだろうと、お艶は、それよりも目前のおのが客鍛冶富に気をとられて、隣室の話し声にはたいして意を払わずにいたのだったが、はじめはヒソヒソ低声(こごえ)にささやき合っていたのが、だんだん高くなるにつれてお艶もいつしかそれとなく耳を傾けていると!
 ……相手はやさ男に乞食ひとり、というのが聞こえた。
 さてはッ! といっそう聞き耳を立てたところへ、今宵こそは左膳どのも云々(うんぬん)――と誰かが言い出したからこっちの部屋のお艶、うっかり叫び声をあげそうだったのを危うくおさえて、つと鍛冶富のまえへ膝を進めながらニッコリ笑顔をつくった。
 が、耳の注意だけはやはり隣室へ!
 富五郎は気がつかない。
 もとからお艶にぞっこんまいって機会あらばと待ち構えていた彼、羽織衆夢八となってひとしお嬌美(きょうび)を増したお艶の前に、富五郎はもう有頂天になっているのだ。
「いや。人間一生は七転び八起きさ、そりゃア奥州浪人和田宗右衛門とおっしゃるりっぱなお武家(ぶけ)の娘御と生まれた身が、こうして芸者風情(ふぜい)に――と思うとね、お前さんだっていろいろおもしろくないこともあろうけれど、サ、そこが辛抱だ。なあ、そうやってるうちにアまた思わねえいい芽もふこうってものだ。だがネ、お前さんが栄三郎さんに見限(みき)りをつけたのは大出来だったよ。おらあ他人事(ひとごと)たア思わねえ、いつも喜左衛門どん夫婦と話してるんだ。ねエ、お艶さんは白痴だ。あんな普外(なみはず)れた器量を持ちながらサ、こういっちゃアなんだが、男がいいばかりで能(のう)のねえ御次男坊なんかと逃げ隠れて、末はいってえどうする気だろう?……今のうちに眼がさめて別れちまえば、まだそこに身の立て方もあろうてもんだが――なんてネ、寄るとさわるとお前さんのうわさで持ちきりだったよ。が、まあ、わしのにらんだとおり、お前さんも根ッから馬鹿じゃアなかった。栄三郎と手をきって、こうして羽織を稼いでいるたア褒(ほ)めてもいいね。ははははは、はやるだろう?」
「ええ、……おかげ様で、まあボツボツねえ」
「結構だ。せいぜい稼いでお母に楽ウさせるんだナ。ときに、おふくろといえば、どうしたえ、その後は? 音信(たより)でもあるかね?」
「は。まだ――」
「本所のお屋敷に?」
「ええ」
 平気をよそおって富五郎とやりとりしながら、全身これ耳と化したお艶が、襖越(ふすまご)しに気をくばっていると隣室には乾雲を取り巻く同勢十五、六人集まっているようすで、何か声(こわ)だかに話し合って笑い興じている。
「しからば露地ぐちに見張りをつけて……」
 といっているのは丹下左膳の声らしいが、あとは小声に変わって聞こえなくなった。
 鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)――とみえて、にわかにヒッソリとした静けさ。
 突然!
「ウム!」
 と大きくうなずいて笑いだしたのは、お艶は知らないが月輪の首領軍之助であろう。事実、偶然このお山びらきの夜、社地内の料亭に酒酌みかわして、刻の移るのを待っている一団は……!
 一眼片腕の剣魔丹下左膳を中心に、月輪門下の残士一同、深夜より暁にかけて大挙瓦町を襲って坤竜丸を奪おうとしているのだった。
 鈴川源十郎はつづみの与吉をつれて、物見の格でとうに栄三郎をさして先発している――が、かれ源十郎をどれほど信じていいかは、臭いもの同士の左膳が迷わざるを得ないところだ。
 酒がまわるにつれてそろそろうるさくなりかけた鍛冶屋の富五郎を、お艶はほどよく扱いながら、なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と千々(ちぢ)に思いめぐらしていると、何にも知らない鍛冶富はいい気なもので、
「お艶さん、何をそう思案しているんだ? え? わしに惚(ほ)れたら惚れたと、ハッキリ白状したらどうだえ。ま、もそっとこっちへ寄りなッてことよ」
 黒い手がムンズとお艶の帯にかかったので、びっくりしたお艶が、
「アレ! 何をなさいます!」
 と起き立ったとたん! 下の往来に聞き慣れた謡曲(うたい)の声が……。

「あ! 立ちどまったぞ、あそこに!」
 こう言って先なる小野塚伊織の弥生、うしろの豆太郎をかえりみて指さした。
 山開きの夜の人出も散りそめた深川八幡の境内である。
 九刻(ここのつ)も半に近い寂寞(せきばく)……。
 あさくさ瓦町の家から、泰軒、栄三郎をつけて来た弥生と豆太郎、つかず離れず見え隠れにこの別当金剛院のお庭へはいりこんで、ふと気がつくと、今まで先方をズンズン歩いていた栄三郎と泰軒が仔細ありげにぴたッと足をとめているから、こっちもあわてて樹陰の闇黒に身をひそめてじっとようすをうかがうと――。
 とある料理屋の表面に、歩をとめた泰軒と栄三郎、明るい灯の流れる二階を見上げたまま、動こうともしない。
 ただならぬ気配!
 とみて、弥生と豆太郎、同じく眼をあげてその正面の二階を眺めた。
 月光を溶かして青白い大気に、惜春行楽(せきしゅんこうらく)の色が香(にお)い濃く流れている夜だ。
 そのほんのりとした暗がりに、障子をしめきった旗亭(きてい)の二階座敷が、内部の灯火に映えてクッキリとうき出ている。
 二間ならんで閉(た)てきってある二階の障子は……いわば祭礼の夜の踊り屋台のよう。
 それへ、影が写っているのだ――かげ芝居。
 左の部屋には……武士らしい大一座が群れさわいで、だいぶん酒がはずんでいるらしく、大きな影法師が入り乱れて杯の流れ飛ぶのが蝶の狂うがごとくに見える。
 と!
 そこの障子に、細長い影が一つうつり出した。ほかの者が手を叩くのが聞こえる。するとその立っている影が、朗々たる詩吟の声に合わせて、剣舞でも舞いはじめたものとみえて、たしかに抜き身の手ぶり畳を踏み鳴らすひびきが伝わってくるのだが! 下の道路から見あげる泰軒と栄三郎がわれにもなく足をとめたゆえんのものは!
 その影が隻腕(せきわん)片剣……。
「栄三郎殿、あれはどうじゃ?」
「泰軒先生ッ」
 すばやく私語(しご)しあいつつ、なおも障子に躍る片腕長身の士のつるぎの舞いを見つめている両人――諏訪栄三郎満腔(まんこう)の戦意をこめて思わず柄がしらを握りしめ、おのずからなる武者ぶるいを禁じ得なかった。
 それが、分身坤竜丸の刀魂に伝わってか、カタカタカタとこまかく鍔(つば)の鳴る音! うしみつ。
 刀が刀を慕い刃が刃を呼んで、いまし脇差坤竜が夜泣きをしているとも聞こえる。
 が、まもなく。
 こんどは右の小座敷に……。
 男女のくろ影が鮮やかに映り出して、それは別の意味で、泰軒と栄三郎を、ひいてはすこし離れたところに隠れている弥生と豆太郎を、あっ! と言わせずにはおかなかった。
 障子へ墨で書いたように、はっきりと写っていたふたつの人かげ。
 男と女である。
 夜更けのあたりをはばかってか。声は聞こえない。が、男が無体をいって女を追いまわしているらしく帯のゆるんだ、しどけない姿の女の影が、右へ左へ、裾を乱して逃げかわすありさまが、影絵のように手にとるごとく見えるのだ。
 となりの広間には、痩身左腕の剣舞が今や高潮……。
 そのためこの一座は次の部屋のさわぎに気がつかないとみえて、それをもっけの幸いに男の影はますます女の影へ迫る。
 肩に手がかかる。かいくぐる。うしろから抱きすくめようとする。かがんでそらす――影と影とが、付いては離れはなれては付きしてさながら鬼ごっこ――。
 二階真下の往来に立つ栄三郎と泰軒、黙然と、二間つづきの障子におどるそれぞれの影法師を見あげていると、弥生と豆太郎も、遠くから、この二人と階上の影とに眼を離さない。
 隣室には鬼どもが……と思うと、お艶の夢八、声をたてることはできるだけ控えたかった。
 しかし! 気はあせる。
 どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
 と気が気ではないが、この場合、猛(たけ)りたっている鍛冶屋をなだめすかしておいて、そのまに身を抜いて浅草へ走るのが、唯一(ゆいつ)の道であると彼女は考えているのだった。
 けれど! かじ富の煩悩(ぼんのう)の腕は、払ってもはらっても伸びてくる。
 たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
 逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
 そしてばったり栄三郎と眼があった。

 瞬間!
 栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
 と! 同時に。
 ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を閉(し)めた。
 二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
 栄三郎様に泰軒先生!
 と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を閉(と)ざしていたのだったが、遅かった。
 泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、刹那(せつな)にして消えた二階の芸者が、意外にもお艶であることは一眼でわかった。
 奇遇――といえば奇遇。
 それはまことに思いがけない出会いであった。
 無数の青蛾(せいが)が羽をまじえて飛ぶと見える月明の夜半である。
 ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
 一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
 一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
 ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
 最初、栄三郎は、変わり果てたお艶に大きなおどろきを覚えたのだったが、一面かれは、お艶のこんにちあるは前もって知れきっていたような気がして、すぐにその驚愕から立ちなおることができたけれど、それとともにお艶に対する新しい憐憫が湧然(ゆうぜん)とこころをひたして、眼頭おのずから熱しきたるのを禁じ得なかった。
 しかし、憤りはより大きかった。
 ものもあろうに芸者なぞになりさがって、おのが恥のみならず拙者の顔にまで泥をぬりおる! と考えると栄三郎、お艶の真意を知らぬだけに、とっさの激情に青白く苦笑するよりほかなかった。
 で……。
「はしたないものを見ましたナ。はははは」
 ペッ! と唾(つば)してあるき出そうとしたが、お艶を解している泰軒は、なおも影芝居を宿している二階の障子を見上げたまま動かないので、つりこまれた栄三郎、見たくもない二階へヒョイと視線を戻すと!
 あろうことか!
 小座敷の男女の影が、これ見よがしに二つ映っている。
 お艶が男にしな垂れかかっているのだが、思わず栄三郎、カッ! と血があたまへのぼるのを感じて[#「感じて」は底本では「感じで」]空(から)つばをのみながら声がひしゃげていた。
「参りましょう、泰軒先生!」
 が、依然として泰軒はうごかない。
 栄三郎の眼がまたもや二階へ吸われると、こっちの弥生と豆太郎も、その障子の影がますます親しげになるのを見た。
 家内のお艶は。
 いま隣の部屋に、左膳の一味が坤竜強奪(ごうだつ)の秘策を凝(こ)らしていることを知っているから、栄三郎がこのあたりに長居をしては危険である。さりとて、瓦町へ帰すのもいっそうあぶない、これは、一時も早くここを立ち去らせて、すぐに後を追って今夜の奇襲をしらせるにかぎる……それには、まず鍛冶富になびくと見せて安心させ、すきを求めて逃げ出すことにしよう――こう考えたお艶が、急に心にもなく折れて出て、
「ねえ三間町さん、ホホホホ、もうよしましょうよ、鬼ごっこみたいなこと」
 と、われから鍛冶屋富五郎のふところに身を投げて擦りよると、富五郎は、短い太腕にお艶を抱きすくめて、その影がぼうっと大きく障子にうつったのだ。
 同じ一枚の障子に映ずる黒かげ――ではあるが、戸外から見上げる栄三郎と、内部(うち)にあって自ら眺めるお艶と果たしてどっちがいっそう苦しくつらかったであろうか。

  髑髏(どくろ)の譜(ふ)

 長閃(ちょうせん)! 月光に躍る白蛇のごとき一刃、突如として伸びきたると見るまに!
 声もなく反りかえって路上に転倒したのは、ひとり先に立った月輪剣門の士法勝寺三郎だった。
 三郎、相馬藩内外に聞こえた強力豪剣ではあったが、機を制せられてひとたまりもなく、まっくろな血潮の池が見る見る社庭の土に拡がって、二、三度、けもののようなうめきとともに砂礫(されき)をつかんだかと思うと、そのまま――月のみいたずらに蒼白く死の這い迫る顔を照らした。
 間髪(かんはつ)!
 いま、瓦町へ向かおうと、ついそこの料亭を出て来たばかりの乾雲丸丹下左膳を取りまく一同、まだ八幡の庭を半ばも過ぎないうちに、つぶてが飛来するようにいきなり横合いから斬りこんで来たこの太刀風に、命知らずの者がそろってはいるのだが、さすがに度胆(どぎも)を奪われてコレハッ! と歩をとめながらいい合わしたように腰を低めて先方の薄闇をのぞきこむと……。
 肩から月に濡れて立っている諏訪栄三郎。
 脇差坤竜をグルッと背中へまわし差して、手の、抜き放すと同時に法勝寺三郎の生き血を味わった愛剣武蔵太郎安国を、しきりにそばの、まだ映山紅(きりしま)を霜囲いにしてある藁へ擦りぬぐっている。
 そして、こともなげな静かな低声が、殷々(いんいん)として左膳の耳へ流れた。
「――丹下殿、乾雲丸をお所持になったか? ははは、いや、坤竜はたしかにここに! サ、雲よく竜をまきあげるか、それとも竜が雲を呼びおろすか……まだ夜あけまでは時刻もござる。今宵こそはゆっくりと朝まで斬りむすぼう、朝まで――」
 ひとりごとのようにこういいながら、栄三郎は、せっせと藁で血がたなをぬぐっている。
 虚心の境……。
 神変夢想流(しんぺんむそうりゅう)において、もっとも重くかつ、もっとも到りがたしとなっている忘人没我(ぼうじんぼつが)の域(いき)に、今宵の栄三郎は期せずして達しているのだった。
 何が機縁となって、かれらの剣胆(けんたん)をここまで導きあげたか?
 それは、いうまでもなく、お艶が泪(なみだ)をのんで打った、あの影芝居であった。
 思いにわだかまりあれば、腕がにぶる。
 栄三郎の場合がちょうどそれだった。
 すべてを捨てお艶に走ったかれとしては、そのお艶に去られたのちも、口や表面はともかく、胸の奥ふかくお艶を慕うこころ切々たるものあるのだったが、こんやという今夜、はからずも芸者姿のお艶を見て、これだけでさえ、いよいよ栄三郎に彼女を思いきらせるに十分だったところへ、まるで見せつけのような男との痴話ぐるい――栄三郎は、あの、二階の障子に黒く大きく写り出た男女の影によって、ここに初めて長夜の夢からさめたような気がしたのだった。
 やはり、当り矢のお艶は当り矢のお艶だけのもの。男をたらす稼業の水茶屋女が、それに輪をかけた芸者になったとてなんの不思議があろう?……こう思うと、栄三郎は、影の相手の男が誰であろうと、そんなことはもうどうでもよかった。
 ただ豁然(かつぜん)とあらゆる未練をたった彼、おのが心身の全部を挙げて乾坤二刀の争奪につくそうと、あらたなる闘魂剣意にしんそこからふるい起ったままであった。
 忘れかけていた小野塚鉄斎直伝神変夢想流の覇気、これによみがえった栄三郎は、もはやこの日ごろの栄三郎ではなく、ふたたび昔日、根岸あけぼのの里の道場に雄(ゆう)を唱えた弱冠の剣剛諏訪栄三郎であった。
 今やかれの前にお艶なく、われなく、世なく――在るはただ亡師の恩と高鳴る戦志の血のみ。
 かくてこそ、これからなお雲竜の刀陣に介(かい)して、更生の栄三郎が思うさま神変夢想の秘義を示し得るわけ……だが?
 お艶はどうした?
 彼女は、首すじに毛虫を這わせるおもいで鍛冶富になれなれしくして酒をすすめたのち、泰軒と栄三郎の立ち去ったのを見すますが早いか、ただちにその家の若い衆を走らせて泰軒だけを呼び戻しいそぎ二階の隣室に左膳の一団が宴を張っていて、いまにも瓦町へ押しかけようとしていることを告げたのだった。
 だから、時分はよかろうと、左膳、軍之助の連中が旗亭をあとに、ほんの四、五十歩も踏んだかと思うところへ先ほどから献燈のかげに待ち構えていた栄三郎が、現われると一拍子に、先頭の法勝寺三郎を抜き撃ちにたおしたのだ。
 月に更けゆく夜――。
 左膳をはじめ月輪組も、栄三郎も無言。
 泰軒はどこか近くにひそんでいるのであろう。
 遠くで、樹陰から木かげへと大小ふたつの人影が動いた。

 ポタリ……夜露が木の葉を打つ音。
 寂莫(せきばく)たる深夜――ふかがわ富ヶ岡八幡の社地に、時ならぬ冷光、花林(かりん)のごとく咲きつらなったのは丹下左膳、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八、岡崎兵衛、藤堂粂三郎ら乾雲の一団が、相手は一諏訪栄三郎と侮って、一気にしてこれを屠(ほふ)り坤竜丸をおさめるつもり――鍔鳴りのひびきが錚然(そうぜん)として月明に流れた。
 空はあかるく、地は夢の国のように霞んでいる……。
 膚さむい微風の底に、何がしの人の心を唆(そそ)らずにはおかない仲春のいろが漂って、どこか遠くの町に火事があるのか、かすかに間(ま)伸びした半鐘の音が流れていた。
 行春静夜。
 しかし、それは暴風雨のまえのあの不気味なしずもりにすぎなかった。
 今暁を期して瓦町に栄三郎方を突襲すべく宵のうちから本所の化物屋敷を出て、この料亭に酒汲みかわし、もうだいぶ時刻も移ったので、さあ、そろそろ出かけようではないか――という調子。くわえ楊子(ようじ)のほろ酔い気分でブラリといまその家を立ちいでて来たところだから、乾雲の一行、まさにひとつ出鼻をどやされた形で、ちょっと立ちおくれざるを得なかった。
 しかも! 諏訪栄三郎、飛び出すとともにはやひとり斬り捨てているのだ。
 抜く手も見せず……ということをいうが、ちょうどそれ。
 声高に話し合いながら三々伍々、金剛神院お庭の小径を徒歩(ひろ)って、先に立った法勝寺三郎がとある繁みのまえへさしかかった時だった。
 やにわに黒いものが躍りでたかと思うと、氷刃一閃――三郎のどこへくいこんだのか、そのままかれは土を舐(な)めて、代りにそこに立っているのは、血線あざやかな武蔵太郎を引っさげた諏訪栄三郎であった。
 と見るより、とっさの驚愕から立ちなおった左膳と月輪の勢、ピタリ! 踏みとどまると同時に、もういっせいに皎剣(こうけん)の鞘を払って、月の斑(ふ)がうろこのように鍛鉄の所々に光った。
 おのずから半月の陣!
 その背後から、しわがれた左膳の声が物の怪(け)のごとく走った。
「オオ坤竜か。これから参ろうとしているところへ、そちらから出かけて来るたアいよいよ運の尽(つ)きたしるしかナ。いかさま汝のいうとおりまだ短夜じゃアねえ……では、一晩こころおきなく斬りむすぶとしようか」
 いいながら左膳、隻腕の袖をグイと脱ぐと、例の女物の下着が月を受けて浮きたつ。
 不敵なほほえみが、その、刀痕の眼だつ顔をいびつに見せていた。
 風雲急!
 栄三郎は沈黙。
 ただ、霜がこいの藁で法勝寺三郎の血を拭き終った武蔵太郎を、かれはしずかに正面に持しただけである――神変夢想の平青眼(ひらせいがん)。
 と!
 タ! タ! と二、三あし、履物を棄てて草を踏みつつ、栄三郎の前へ進み出た長剣の士、月輪の道場にあって三位を保(たも)つ轟玄八だ。
 玄八。平潟(ひらかた)船(ふな)番士で、その剣筋、幅もあれば奥ゆきもゆたかに、年配は四十に手のとどく円熟練達の盛年。
 ガッシリした体躯に心もち肩をおとして、濡れ手拭を絞るようにやんわりと柄をささえ、
「参れッ! ウム!」
 大喝、誘いの声だ。と、ともに、スウッ! 手もとをおろして突きにいくがごとく見せかけ、老巧狷介(けんかい)の刀士、もろに足をあおって栄三郎の頭上へ!……飛刀、白弧をひいて舞いくだった瞬間、体を斜めに腰かわした栄三郎の剣、チャリーン! 青光一散、見事に流すが早いか、ただちにとって車返(くるまがえ)し武蔵太郎、血に渇して玄八の左肩を望んだ。
 が、轟玄八、即時左手を放して柄尻(つかじり)で受ける。
 そして!
 刹那、妙機の片手なぐり、グウンと空にうなった燐閃(りんせん)が、備えのあいた栄三郎の脇胴へ来た。
 竹刀ならばお胴一本取られただけですむかも知れない。しかしこれは真剣も真剣……見守る一同、秒刻ののちには上下半身を異にしている栄三郎を見ることと思った。
 ――にもかかわらず、ガッ! と音を発して玄八の刀をそらした栄三郎、すかさずつけ入ってヒタヒタと鍔(つば)を押している。
 これは見物(みもの)!
 といった色めきが、半月の列を渡った。
 ガッキ! と咬(か)み合ったまま微動だにしない鍔と鍔。
 諏訪栄三郎と轟玄八。
 一同が、眼をそばだてて熟視するなかにしばらくは双方、伯仲(はくちゅう)の力をあつめて保(も)ち合いの形と見えたが――。
 雲が出た。
 月の影が、さまざまの綾を地上に織りなす。
 やがて!
 いかなる隙ありと見たのか、玄八、やにわに、
「ううむ」
 一声! これが気合い、同時に、満身の筋力を刀手にこめて押しかかる――と思わせて、じつは逆に、スウッと張りを抜きながら数歩、引きこむようにさがろうとしたのは、いわずもがな、誘い入れの一手。
 栄三郎もさる者、離れゆく玄八をあえて追おうとはしなかった。
 不動。
 で。
 間余(けんよ)の間隔をおいた、ふたりいたずらに鋩子(ぼうし)先に月の白光を割いて、ふたたび対立静止の状をつづけだした。
 風死んで、露のしたたりが明日の晴天をしらせる。
 凄寂(せいじゃく)たる深更の剣気……。
 月輪軍之助以下北藩の援士は、抜きつらねた明刃をグルリと円列につくって、青眼の林、捲発(けんぱつ)する闘気をもって微動だにしない。
 左膳は、軍之助とともに剣列の背後にあった。
 誰ひとり声を出すものもない。はち切れそうな殺気に咽喉をつまらせて、一同ものをいう余裕などはなかったのだ。
 ジイ――ッと薄光の底に停止するおびただしい刀身を、春の夜の月が白く照らしている。
 突如!
 その氷柱(つらら)のごとき一剣が銀鱗をひらめかして上下に走ったと見るや、またもや玄八、これでは際限がないと思ったものかやにわに刀を起こして大上段……真っ向から栄三郎の前額を指して振りおろした。
 パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみの空(くう)をいろどった。
 と!
 この時まで受身の形だった栄三郎は、鼻を打つ鉄の香にひとしお強烈な戦志を呼びさまされたものか、はたしていきなり攻勢に出て、新刀を鍛えて東海にその人ありと聞こえた武蔵太郎安国晩年入神の一剣、突発して玄八を襲うが早いか、そのひるむところを、すかさず追うと見せて瞬転、横一文字に払った斬先に見事にかかって、刀を杖にたじろいだのも暫時(しばし)、モンドリうってその土に倒れたのは、月輪剣門の一士若松大太郎だった。
 大太郎といえども選に当たって江戸くんだりへ生命のやりとりに出てくるくらいだから、もとより刀のたたない男ではなかったが、油の乗りはじめた栄三郎には、所詮(しょせん)、敵ではなかった。
 腰の蝶番(ちょうつがい)へしたたか刃を打ちこまれた大太郎、全身の重みで土をたたいたのが、かれの最後だった。
 と見るや!
 気負いたった月輪の剣列、犇(ひし)ッ! とおめいて一栄三郎をなますにせんものと、燐閃(りんせん)、乱れ飛んで栄三郎に包みかけたが、かいくぐった栄三郎、最寄(もよ)りの一人に□(どう)ッ! 体あたりをくれると同時に、ただちに振り返って、おりから拝み撃ちに来ようとしていた山東平七郎へ!
「おウッ!」
 片手の突き!
「うむ!」
 平七郎、パッと払ってニッコリした。
「なかなかやるナ……来いッ!」
 息もしずかに、栄三郎はもう平青眼に返っている。
 月の端を雲がかすめた。

 夜明けが薄らいだ。
 月の端に雲がかかったのだ。
 ふかがわ富ヶ岡八幡の社地内に乾雲に乗ずる一団をむこうにまわして、武蔵太郎に殺剣乱跳(さつけんらんちょう)を舞わせる諏訪栄三郎、ツゥ……ツと刀をさげて下段のかまえ、取り巻く自余の者へは眼もくれずに前面の豪敵山東平七郎をめざして血のにじむ気あいを振りしぼった。
「エイッ」
 平七郎、ピタリ一刀、中青眼にかすかに微笑をふくんで応ずる。
「やッ!」
 と、この時。
 わざと誘いに乗ったとみせた栄三郎、俄然! 太郎安国を躍らせて平七郎の右脇へ!――と思うまもなく、たちまち銀閃(ぎんせん)ななめに走って、栄三郎、相手の腋(わき)の下を上へはねあげようと試みた。
 が!
 山東平七郎は、北州の雄剣月輪軍之助の門下にあって、師範代各務房之丞の次席、各務、山東、轟をもって月輪の三羽烏と呼ばれたその中堅だ。
 小野塚鉄斎の遺道に即して、栄三郎いかに神変夢想をよくすといえども、いまだ平七郎の生き血を刃に塗ることはできなかった……のであろう、平七郎、つと栄三郎の剣動を察して、一歩さがると同時に、パッ! 伸び来る刀鋩(とうぼう)を柄で叩くが早いか、側転! そのまま打ちおろして、手をかけた障子が自ら滑り出したように思わず空(くう)を泳いでいた栄三郎を、見事に真っ向から割りつけた――と思われた刹那、よろめきながら必死の機、栄三郎の刀尖、平七郎の剣をはじき流して、かろうじて危地を脱した栄三郎、強打を伝えて銀盤のごとくふるえ鳴る武蔵太郎を、こんどは車形にうち振りつつ、
「おウッ!」
 おめきざま、月輪の刃(やいば)ぶすまの真っただなかへ、身を斜(はす)かいに斬りこんでいった。
 乱戦――。
 空高く風が渡っているらしい。
 雲の流れが早いとみえて、月光を照ったりかげったり……そのたびに、樹間の広場に皎剣(こうけん)をひらめかす人のむれを、あるいは明るく小さく、またはただの一色のやみに押しつつんで、さながら舞台の幕が開閉するかのように見えた。
 豆を炒(い)るような剣人のうごき。
 飛びちがえては斬り結び、入りみだれたかと思うとサッと左右に別れ、草を踏みにじり木の葉を散らしてまさにここは神変夢想対月輪一刀の、二流優劣の見せ場となった。
 剣戟(けんげき)のひびきは、一種耳底をつらぬいて背骨を走る鋭烈な寒感(おかん)を帯びている。
 それが、助けをいそぐ夜の空気に霜ばしらのごとく立ち伝わってかけ声、風を起こす一進一退――気の弱い者を即殺するにたる凄壮な闘意が、烟霧のようにみなぎって地を這いだした。
 闇黒をこめる戦塵……。
 その刃渦(じんか)の底をすこしく離れた木かげに隠れて、さっきからこの剣闘をうかがっていたひとりの女があった。
 いうまでもなくお艶、いや、今は羽織芸者のまつ川の夢八だ。
 彼女は。
 うるさい客の鍛冶屋富五郎に、せいぜいなびくがごとく見せかけて酒をすすめ、その間にぬけ出て泰軒を呼び返し、左膳ら今宵の策動を未然に報じてこの対計を採らしめたのだが、こうしてここから眺めていても、斬り合っているのは栄三郎一個、頼みに思う泰軒先生はいまだに姿をあらわさないのだ。
 なるほど、今のうちは栄さまひとりでどうやら太刀打ちをしていけそうだが、なにしろこっちは一人に相手は多勢――どうなることであろうか? と、わが身も忘れてお艶はしきりにハラハラしているけれど!
 逆にここに待ち伏せして、出てくるところをこうして不意に襲ったくせに、栄三郎にだけ剣をとらして、泰軒はいったいどこにひそんでいるのか……?
 となおも見守っていると!
 あせりだした栄三郎、群刀をすかしてその背後をのぞめば、鞘ぐるみのかたなを杖に、しずかに会話(はなし)つつ観戦のていとしゃれている二人の人かげ――月輪軍之助と丹下左膳である。
「乾雲! そ、そこにいたのかッ!」
 声とともに躍りあがった栄三郎がいままでに何人か月輪の士の肉を咬み骨を削った武蔵太郎を正面にかざして打(ちょう)ッ! 撃ちこもうとしたとき、列を進んで中間にはいったのが土生(はぶ)仙之助だ。
「おのれッ! 邪魔立てするかッ!」
「何を言やアがる! さ、来いイッ!」
 仙之助、栄三郎に真向い立ってぴったりとつけたとたん! 足もとの草むらから沸き起こった破(わ)れ鐘(がね)のような笑い声がかたわらの左膳を振りむかせた。
「わっはッは! やりおる! やりおる! こりゃ儂(わし)は出んでもええらしいテ」

「うむ」
 早くも声の主をみてとったらしく、左膳は例になく沈痛な調子だった。
「乞食坊主であろう? そこで何か申しておるのは」
 いつのまにか一同のそば近く割りこんで来て、草の根に一升徳利をまくらに寝ていた泰軒先生は、すでに笑いながらゆっくりと立ちあがっていた。
 これも我流我伝(がりゅうがでん)の忍びの怪術か。かれ泰軒は、栄三郎とともに繁みに隠れて左膳の一行を待っていたにもかかわらず、栄三郎が躍り出て先頭の法勝寺三郎を斬り捨てると同時に、誰も気がつかないうちにコッソリ敵のうしろへまわったが、そうかといって背後をつくでもなければ虚を狙うでもなくこの修羅場をまえにして今までのんこのしゃあと草露にゴロリと寝ころんで見物していたのは、べつに栄三郎に不実なわけではない。まったくのところこれが泰軒先生独特の持ち前で、その証拠には逸(いち)はやく乾雲を鞘走らせた隻眼(せきがん)片腕の刃妖左膳と、一歩さがって大刀の柄に手をかけた月輪軍之助の両剣妙を前面にひかえて、泰軒先生、このとおりニヤニヤと鬚を動かしているだけだ。
「乞食坊主とはいささか的をはずれたぞ、いかさま拙者は乞食かも知れぬが、坊主ではない。以後ちと気をつけてものをいわっしゃい」
「よけいなことを吐(ぬ)かしくさる! たった今その舌の根をとめてつかわすからそう思え!」
「ホホウ! それは耳よりな! おもしろかろう」
 と、うそぶいた蒲生泰軒。貧乏徳利を片手にさげて半ば眼をつぶり、身体ここにあって心は遠く旅しているがごとく、ただボンヤリと佇立(ちょりつ)しているように見えて……そうではない。
 剣は手にしないが、その体置きの眼のくばりが、そっくり法にかなった自源流(じげんりゅう)水月(すいげつ)の構相――。
 たかの知れた白面柔弱の江戸ざむらいとあなどっていた栄三郎に、先刻から同志の三人まで斬り伏せられて、月輪の一統、すくなからず武蔵太郎の鋭鋒を持てあまし気味のところへ、相馬からの道中さんざ悩まされた血筆帳(けっぴつちょう)のもち主、ヌウッとしてつかまえどころのない例のひげ男が出て来たので、のこりの連中、急に浮き足が立ちはじめた――とみた援軍の盟主月輪軍之助、手にした霜冽(そうれつ)三尺の秋水にぶうんと、空振りの唸りをくれながら、あたりの乱陣に聞こえるような大声に呼ばわった。
「月輪軍之助、お相手つかまつる。いざ、おしたくを……」
 すると泰軒。
「ナニ、したく? したくも何もいらぬ。どこからでも打ちこんでくるがよい」
 放言。依然として身うごきだにしない。
「しからば……」
 いいかけた軍之助の声は宙に消えて、同時に、早瀬をさかのぼる魚鱗(ぎょりん)のごとき白線、一すじ伸びきって泰軒の胸元ふかく!
 と思われた瞬間!
 パアッと砕け散ったのは、泰軒先生愛用の一升徳利で、それとともに泰軒は、ついと軍之助の腕の下をくぐり抜けて、近くの月輪のひとりをダッ! 足蹴(あしげ)にしたかと思うと、その、はずみをくらって取りおとす大刀を拾い取るが早いか、やはり、のっそりの仁王立ちの、流祖自源坊案不破水月(ふわすいげつ)のかまえ。
 つねに刀を佩(はい)しない巷の流人(るにん)泰軒居士、例によって敵のつるぎで敵をたおすつもりと見えるが、無剣の剣、できれば、これこそ剣法の奥極かも知れない。
 しののめとともに月輪のざわめき。
 それは、またもやこの乞食が刃物をとったという驚きと戒めの声々であった。
 しかし、泰軒は泰軒として、
 今宵の諏訪栄三郎のはたらきは神わざに近かった――。
 かれは、はじめに法勝寺三郎を斬り、それから四人を地にのめらせたのだが、この長時の剣戦に疲れるどころか、蒼白(そうはく)の顔にほほえみさえうかべ、殺眼に冷たい色を加えて、神変夢想の技(わざ)ますます冴えわたり、
「やッ!」
 と捲(ま)き剣、当面の相手土生仙之助のまえに武蔵太郎の斬っ先を円くまわしていたと見るや、
「うヌ! 参るぞ!」
 一喚! 終わらぬに先んじてッ……慕いよるまもなく、縦横になぎたてたその一下が仙之助の虚につけいって、ザクリッと右肩を割りさげられた仙之助、
「うわアッ! 痛ウウウ――!」
 おさえる気で肩へやった左手が手首まではいりこむほどの重傷だ。
 月のひかりに、アングリと口を開けた自分の肩を、仙之助はちょっと不思議なものと見た。
 が、つぎの一瞬、かれは再び栄三郎の一刀を臓腑(ぞうふ)に感じて、焼けるような痛苦のうちにみずから呼吸をひきとりつつあるのを知った。
 ぷうんと新しい血の香。
 その時だった! どこからともなく飛来した一本の短剣が、折りから栄三郎へかかろうとしていた岡崎兵衛の咽喉ぼとけに射(い)立ったのは……!

 猛鳥のごとく、宙を裂いて来た一梃の小剣、あわや跳躍に移ろうとしていた岡崎兵衛の顎下へガッ! と音してくいこんだ。
 と見る!
 数条の血線、ながく闇黒に飛散して、兵衛はたちまちはりきっていた力が抜け、あやつり人形の糸が切れたように二、三度泳ぐような手つきをしたかと思うと、そのままガックリと地にくずれてのけぞった。
 思わぬ時に意外な伏勢!
 しかも、薄明の夜に防ぎようのない魔の手裏剣である!
 即座に、一同のあたまに電光のごとくひらめいたのが、あの、過ぐる夜半、本所化物屋敷の庭に突如として現われ、またたくまに二、三月輪の剣士を亡き者にしてはてた猿のような一寸法師と彼の投剣術だ……。
 なんじらは順次にわが手裏剣の的(まと)なり――。
 この威嚇(いかく)の文句も、いまだかれらの眼にこびりついている……そのやさき、こうしてなんの前ぶれもなく、小刀、どの方角からとも知れずに疾飛しきたって、またもや剣を取っては錚々(そうそう)たるひとりの同志を、まるで流れ矢にでも当たったように他愛なく射殺したのだから月輪の剣連、瞬間、栄三郎をも泰軒をも忘れて、ひとしく驚愕と畏怖にたじろいだ。
 事実!
 かのふしぎな、手裏剣手は岡崎兵衛を倒したのみにあきたらず今、夜はどこまでもその入神錬達の技を見せるつもりらしく、つづいて二の剣、三の剣と月光をついてシュッ! シュッ! という妖奇な音が、ながくあとを引いて木の間の空に走り出した。
 と思うと、
 ちょうどその時、刀を引っさげて、小剣来たる方を見さだめようとあたりを眺めまわしていた藤堂粂三郎の横腹へ命中して、粂三郎、二つに折れ曲がって傷口をおさえ、ウウム! と一こえ、うなり声もものすごく夜陰にこだまするが早いか、すでに彼は、ばったり土に仰向いて、空を蹴ろうとするように足を高く上げたのも、二、三度――まもなく草の根をつかんで静止……悶絶してしまった。
 そして!
 再びざわめき渡る月輪の一同へつぎの手裏剣! こんどは、燐閃、河魚(かわうお)のごとく躍って各務房之丞の鬢(びん)をかすめ、ガッシ! とうしろの樹幹に突き立ったから、ここに月輪の残士たち、はじめて短秒間のおどろきから立ちなおって、一団にかたまりあっていたのが、わアッ! と叫んで四方に散ずると同時に危険を実感したらしい首領軍之助のどら声が、指令一下、葉末の露を振るいおとしてひびき渡った。
「伏せ! 伏せ! ピッタリ腹をつけて土に寝ろ! 早く散って……早く!」
 これでようやく対策を得た月輪組、あわてふためきながらもソレッ! と蜘蛛の子のように跳び隠れて、一瞬のうちには、みなあちこちの地上に腹這いになったものらしく、見わたす八幡の底に立てる人影もなく、ただ草を濡らす血潮と死体から腥風(せいふう)いたずらにふき立って月の面をかげるばかり剣闘の場も一時は常の春の夜に返ったと見えた。
 騒擾(そうじょう)の夜の静寂は、ひとしお身にしみる。
 ことに夜……その不気味な休戦には、いっそ血を浴びていたほうが、まだましだと思わせる緊張がはらまれていた。
 早いあけぼの。
 栄三郎と山東平七郎は。
 泰軒と月輪軍之助は。
 また、かの丹下左膳は。
 かれらも、共同の敵なるこの玄妙飛来剣のまえには勝負を中止せざるを得なかったとみえて、どこにもそこらには立ち姿の見えないのは、いいあわしたように草に伏しているのであろう――。
 じっさい、かの手裏剣は左膳をはじめ、月輪組を襲うのみならず栄三郎泰軒をも目標にしているものに相違なかった。
 というのは、一度ならず二度、三度までも、例の小柄(こづか)が泰軒栄三郎の身辺に近く飛んで来て、ひとつは、栄三郎の腰なる武蔵太郎の鞘を殺(そ)いで落ちたことさえあったことだ。
 この得体の知れない飛び道具にはせっかく腕に油の乗りかけて来た栄三郎も、また天下に怖いもののないはずの泰軒先生も、ちょっと扱いようがなくて、とにかくとっさに相手の月輪とともに地に伏さっているのだった。
 左膳もどこかに這っているのであろう……しいんとした夜気に明け近い色がただよって、低く傾いた月は漸次に光を失いつつある。
 ところどころに小高く見えるのは、斬り殺された月輪の士の死体だ。
 この上に東天紅(とうてんこう)のそよ風なびいて、葉摺(はず)れの音をどくろの唄と聞かせている。
 この休止のままに夜があけるのであろうか?――と、こちらの木かげからのぞき見るお艶がひとり気をもんだとき、白煙のような朝靄(もや)のなかを小走りに遠ざかりゆく大小ふたつの人影が眼にはいったのだった。
 猿まわしと小猿……夢を見ているのではないかと、お艶は眼をこすった。

  さくら暦(ごよみ)

 あすか山。この享保年中に植えしものには、立春より七日目ごろもっとも盛んなり。
 王子権現(ごんげん)。同七十七日目ごろよし。古木五、六株あり。八重にて匂いふかし。
 すみだ川。おなじく六十四、五日ごろをよしとす。水辺(みずべ)ゆえ眺め殊(こと)にすぐれたり。
 御殿山(ごてんやま)。七十日目ごろさかん也(なり)。房総(ぼうそう)の遠霞(えんか)海辺の佳景、最もよし。
 大井村。七十五日ごろさかん也。品川のさき、来福寺、西光寺二カ所あり。
 柏木村。四谷の先、薬師堂まえ右衛門桜という。さかり同じころ也。
 金王桜。しぶや八幡の社地。おなじころよし。
 当時評判東都花ごよみ桜花の巻一節。
 さて――はな季節である。
 どんよりと濁った空。
 砂ほこり……そして雨。
 一あめごとのあたたかさという。
 咲き始めた。いや、さきそろった。もう散った――などとこのあわただしさが、さくらのさくらたる命だと聞くが、風呂屋や髪床のような人寄り場に、桜花より先に、花のうわさにはなが咲く……そうした一日の午後だった。
「いや、ようよう、我善坊(がぜんぼう)の伯父御隈井九郎右衛門殿から五十両立て換えてもらって、おれもこれでほっといたした。どうもこの節はふところ工合が悪く、そこもとにいろいろと心配をかけて相すまない。が、マア、こうして手切れの金もできたのだから、この上は一刻も早く栄三郎に渡して離縁状を取って来てくれるよう……源十郎、このとおり頼み入る」
「ま! 殿様、なんでございます、おじぎなんぞなさいまして!」
「ははは、不見識だといわるるか。ハテ、実は母者人(ははじゃびと)に生きうつしのそこもと、これからはまたお艶のお腹さまとして拙者にとっては二つとない大切な御隠居、そのお人に頭をさげるに、なんで異なことがござろう?」
「ホホホホ、それはまあそうでしょうけれど……ではあの五十枚たしかに」
 しずかな声が曇った春の陽のうつろう縁の障子をポソポソと洩れ出ている。
 本所法恩寺前――化物やしきと呼ばれる五百石小ぶしん入りの旗本、鈴川源十郎の奥座敷である。
 定斎屋(じょうさいや)の金具の音がのんびりと橋を渡って消えてゆくと、近くの武家の塀内で、去年の秋から落ち葉を焼くけむりが、白くいぶったままこの部屋の端にまでたゆって来ている。
 春長うして閑居。
 明窓浄几(めいそうじょうき)とはいかなくても、せめて庭に対して経(きょう)づくえの一脚をすえ、それに面して書見するなり、ものにはならないまでも、詩箋のひとつもひねくろうというのなら、さすがは徳川幕下直参(じきさん)の士、源十郎もすこしは奥ゆかしかろうというものだが、どうしてどうしてこの鈴川のお殿様ときた日には、書物といえば博奕(ばくち)の貸借をつける帳面以外には見たこともなく、筆なんか其帳(それ)へ記入する時のほか手にしたこともないという仁だから、いくら錆(さ)びた庭面に春の日が斑(まだら)に滑ろうが、あるかなしかの風に浮かれて桜の花びらが破れ畳に吹きこんでこようが、いっこうに風流雅味(がみ)のこころを動かされるふうもなく、きょうも先刻から、とうのむかしに抱きこんである老婆さよを呼び入れて、こうしてしきりに五十金の縁切り状だのと春らしくもないことを並べたてているのは、さては源十郎、いよいよお艶を手に入れる策略を現にめぐらしはじめたものとみえる。
 さてこそ、ふたりの中間に、山吹色――というといささか高尚だが、佐渡の土を人間の欲念で固めた黄金が五十枚、銅臭芬々(ふんぷん)として耳をそろえているわけ。
 俗物源十郎の妄執(もうしゅう)、炎火と燃えたってついにお艶におよばないではおかないのであろうか?
 邸前の野に、雲に入るひばりの声……。
 それも、買わんかな、売らんかなの両人の耳には入らぬらしく、源十郎、したり顔に膝を進めてつと声をおとした。
「サ! おさよ殿、これなる五十両を受け取って、約束どおりに栄三郎から三行半(みくだりはん)を取って来てもらいたい。いかがでござる?――よもや嫌とは……」
「いやだなどとめっそうもない! それではお殿様、はい、この五十両はわたくしがお預り申して」
 と何も知らないおさよは、眼を射る小判の色に眩惑(げんわく)されて、一枚二枚と小声で数えながら金を拾いあげはじめたが! その一つ一つに、出羽様の極印(ごくいん)で、丸にワの字が小さく押してあるのには、おさよはもとより、よく検(あら)ためもしなかったので、源十郎じしんさえすこしも気がつかなかった。
 血のにじんだ小判!
 大工伊兵衛の死相をうかべた金面!
 それが一つずつ老婆の貪欲(どんよく)の手に握りあげられてゆくとき、左膳と月輪の雑居した離室に、どッ! と雪崩(なだれ)のような笑い声が湧いて消えた。
 この室内のしじまにチロチロと金の触れるひびき……。

 怨霊(おんりょう)を宿した金子(きんす)に手をふれておさよの皮膚は焼けただれたか……というに、べつにそうしたこともなく、丸にワの字の出羽様の極印も両人とも知らぬが仏で、世のつねの小判のように、おさよはそのまま五十両を数え終わって、ちょっと改まって源十郎へ向きなおった。
「はい。たしかに五十枚。まことにありがとうございました。これでどうやらお艶の身の振り方もつき、またわたしもこの年になって安楽(らく)ができ、いわばわたしども母娘(おやこ)の出世の――いとぐちと申すべきもの、では、これからさっそく参りまして……」
「ア、そうしてもらいたい」
 源十郎は上々機嫌だ。
「なに、財布がない。では、これを持っていかれるがよい」
 と、これが世にいう運のつきであろうとは後になって思い合わされたところで、この時は源十郎お艶ほしさの一念でいっぱいだから後日の証拠のなんのということはいっこうに心が働かない。ごく気軽に自分の財布を取り出して内容をはたき、これに件(くだん)の五十金を入れておさよに渡すと、おさよは大切に昼夜帯(はらあわせ)のあいだへしまいこんで、
「じゃ、一っ走り――」
 起とうとするところを、ちょいとおさえた源十郎、
「何の中でも、当節(とうせつ)五十両といえばまず大金の部である。こころおぼえのために栄三郎から離縁状を取って戻るまで、受取りをひとつ書いてもらいたいものだが……」
 もっともと思ったおさよが、そこで、筆紙と硯を借りて文面は源十郎の言うとおり――。まず差入れ申す一札のこと……と、書きはじめて、やっと筆をおいた。その文言はこうだった。
差入れ申す一札のこと
一金五十両也。上記のとおり確かにお受取り申し候。娘艶儀、御前様へ生涯(しょうがい)抱切(かかえき)りお妾に差上げ申し候ところ実証なり。婿栄三郎方は右金子をもって私引き受け毛頭違背(いはい)無御座候。為後日証文依而如件(よってくだんのごとし)。
 享保四年四月十一日。
艶母    さよ
鈴川源十郎様
 御用人衆様
 この誓文(せいもん)を書き残したおさよは源十郎が棟梁伊兵衛を殺して奪った金……内いくらかは松平出羽守お作事方の払い金と、大部分はたらぬとはいい条、現在むすめお艶が羽織に身売りしたその代とを〆(し)めて五十になる。それを持ってイソイソと本所の鈴川様おやしきを立ち出たのだった。
 一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
 もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
 幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
 これも、春のなすすさびであろう。
 正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって展(ひら)かれるであろうはかない最後の安逸(あんいつ)を、早くもぼんやりと脳裡にえがいて、ひとりでに足の運びもはかどるのであった。
 本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
 まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の海棠(かいどう)は醒めやらぬ暁夢(ぎょうむ)を蔵して真昼の影をむらさきに織りなし、その下のたんぽぽの花は、あるいはほうけあるは永日ののどかさを友禅(ゆうぜん)のごと点々といろどっているけしき……いつの間にやら、春はどこにでも来ていた。
 南の風。
 そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
 気がついてみると、今日は吉野(よしの)の花会式(はなえしき)である。
 なつかしい心もち。
 そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
 どこへ行こう?……と考える。
 栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけからこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
 第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
 はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
 思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり頻(しき)りにうなずきながらまたあるきだした。
 まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
 駒が勇めば花が散る……。
 これは駒ではないが、細工場でおもい槌(つち)をふるって、真赤に焼けた金を錬(なら)すごとに、そのひのひびきに応じて土間ぐちに近く一本立っている桜の木から、雪のような白い花びらがヒラヒラ舞い落ちる。
 テンカアン、テンカアン! と一番槌の音。
 あさくさ三間町の鍛冶富、鍛冶屋富五郎の店さきである。
「サ、吉公、そこんところをもうすこし、裏をよく焼くんだぞ!」
 いそぎの請負仕事であるとみえて、きょうは富五郎、桜花をよそに弟子の吉公をむこうへまわして相変わらず口こごとだらけ。
「ふいごが弱えんじゃねえかナ。あんまり赤がまわらねえじゃねえか。なんでえ、飯ばかり一人前食いやがってしっかりしろい!」
 ――と、それでも珍しく自分で仕事場に立って真っ黒になっているところへ――。
「はい。ごめんなさい、富五郎さん」
 という薹(とう)の立ちすぎた女の声が、藪(やぶ)から棒に聞こえて来たから、富五郎が槌の手を休めてヒョイと戸口の方を見やると、田原町の家主喜左衛門といっしょにいろいろ面倒を見てやった、奥州相馬の御浪人和田宗右衛門さまの後家おさよ婆さんが、妙にニヤニヤ笑ってのぞいているので、
「イヨウ!」
 と驚いた鍛冶富、
「やア、おさよさんじゃアねえか」
「どうも申しわけもございません。お世話になりっぱなしでまだその御恩返しの万分の一もできずに、しじゅうわがことにばかりかまけて御無沙汰つづきでおります。そのうえ、今日はまた折り入ってお願いがあって参りましたので」
「ウムウム。ああそうかい、そりゃまアよく来なすった。いま仕事の最中で挨拶もできねえから、さ、かまわずズンズン奥へあがんなさい……といったところで、知ってのとおりの手狭なあばら家だ。ずうっとはいりこむのはいいが、とたんに裏へ抜けちまうからナ、そこは何だ、いいかげんのところにとまって待っていておくんなさい、はははは、ナニ、すぐにこいつを仕上げて、ひさしぶりだ、いろいろ話も聞こうし報(し)らせてえこともある。さ、ま、遠慮しねえで――」
 いいところへ彼のお艶の母が舞いこんで来たものだ。こいつは一番、このおさよ婆さんにこのごろのお艶の始末をうちあけ、さよから先に納得(なっとく)させてお艶を手に入れてやろうと、さっそくに考えをきめた富五郎、まるで天からぼた餅が降ってきたようなさわぎで、
「こらッ吉ッ! きょうはお客が見えたからこれで遊ばせてやる。いますこし励んだらしまいにして手前(てめい)はよくあと片づけしておけ」
 ジュウンと火熱の鉄を水につっこんで、富五郎はまっくろになった手と顔を洗い、上り端(ばな)の六畳へ来てみると、ふだんから小さなおさよ婆さんがいっそう小さくしぼんで、眼をしょぼつかせながらすわっている。
 そこで。
 どっかりと長火鉢の向うにあぐらをかいた富五郎と、出された座布団をちょいと膝でおさえたおさよとが、無音のわびやら何やらにまたひとしきり挨拶があったのちに、
「おさよさん――」とあらたまって鍛冶富が口をきったのだった。
「どうだえ? 眼がさめなすったかい?」低声になって、「俺ア毎度田原町とも、それからうちのおしんともお前のうわさをしているよ。あんな縹緻(きりょう)のいい娘を持ってサ、おれならお絹物(かいこ)ぐるみの左団扇(ひだりうちわ)、なア、気楽に世を渡る算段をするのに、なんぼ男がよくっても、ああして働きのねえ若造にお艶坊をあずけて、それでお艶さんを埋(う)もらせるばかりか、はええはなしがお前さんまでその年をしてお屋敷奉公に肩を凝(こ)らせる、なんてまあ馬鹿げた仕打ちだと、しじゅうおしんとも語りあっておらアお前さんのために惜しんでいた。が、そこはマア若え女のほうがじきに熱くもなりゃあ冷めるのも早えや、お艶坊はお前、とっくの昔にスッパリ栄三郎さんと手を切ってヨ。今じゃア……」
 いいかけて口をつぐんだ富五郎へおさよはいきなりすがりつくように乗り出したのだった。
「え? うすうすは聞いてもいましたが、それじゃアあの、お艶はすっかり栄三郎と別れて――して今はどこに何をして?」
「これおさよさん!」
 眼を鈍く光らせて、鍛冶富は急によそよそしくなった。
「同じ江戸にいながら、母として娘の所在も生活(くらし)も知らねえとは、おさよさん! おめえ情けねえとは思わねえか」
 さも慨然(がいぜん)と腕を組んだ富五郎のまえに、おさよは始めて欲得(よくとく)のない母の純心を拾い戻した気がして、ながらく忘れていたいとおしい涙が、お艶に対してこみあげるのを覚えた。
 そのようすに、鍛冶富の片頬が、しめたッ! とばかりにかすかに笑みくずれる。
 おさよは、しずかに鼻をかんだ。
「あ! そういえば、あの、おしんさんは?」
 おさよは顔をあげてきいた。富五郎はうそぶく。
「なに、かかあかい、かかあは先刻湯へ行きましたよ」
「道理で、影が見えないと思いました。おふたりともいつもお達者で結構でございますねえ」
「いんや、あんまり結構でもねえのさ」
 と、ほろにがい調子で富五郎が答えている時に、ちょうど露地づたいに近所の風呂から帰って来た富五郎女房のおしん、何ごころなく裏口からあがろうとすると、誰やら客らしい声がいやにしんみりと流れてくるから、おや! どなただろう? と障子の破れからのぞいてみたところが、かねがね亭主の富五郎がひそかに懸想(けそう)していることを自分も感づいているお艶の母のおさよなので、ハテ、珍しくなんの用だろう――? そのまま水ぐちにしゃがんで耳をすましている……とは知らない鍛冶富。
「女房と畳はたびたびかえるがいいそうでネ。ハハハハ、いや、こいつあ冗談だが、さて今の話で、お艶さんがこの日ごろどこに何して暮らしているかは、おさよさん、実はわっしも知らねえんだよ」

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