丹下左膳
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著者名:林不忘 

「御意(ぎょい)にござりまする」
「女子(おなご)であろう?」
「は、いかにも女子。なれどどうして御前には……」
「越州殿は千里見通しの神眼じゃ。たえずかたわらにあって御存じないとみえるの」
 泰軒が口を挟む。大作はしんから低頭した。
「恐れ入りましてござりまする」
 いたずら気にニッコリした忠相。
「呼べ」
「は?」
「その女子をこれへ呼び入れるがよい」
「ハッ」
 立とうとする大作を、忠相の言葉がとめていた。
「訴えて参った女というのを、わしが一つ当てて見せようか。まず年若、稀(ま)れなる美女、世に申す羽織、深川の芸妓ふうのつくりであろうがな?」
「実はその、手前もまだ引見いたしませぬが、取次ぎの者の口ではどうもそのようで――」
「それに相違ない。連れて参れ」
 いよいよ恐懼(きょうく)した大作が、お艶を呼びに急ぎさがってゆくと、忠相と泰軒、顔を見合ってクスリと笑った。
 泰軒は、血筆帳の旅から帰府してまもなく、今夜また例によって庭からはいりこんで、相馬からの路を擁(よう)して月輪組を斬殺した次第を物語り、忠相は、泰軒の留守にお艶の身柄を出入りの大工棟梁伊兵衛なる者に預け、伊兵衛は又あずけにお艶を深川の置屋まつ川へ自分の娘として一枚証文の芸者に入れたことを泰軒に話しているところだった。
 大岡様へ申しあげる前に伊兵衛は不慮(ふりょ)のやいばにたおれたのに、忠相はいかにしてお艶のその後の消息を詳知(しょうち)しているのか? 泰軒に頼まれた大事な人妻お艶である女ひとりの動き、いわば奉行にとっては瑣事(さじ)とはいえ、かれはお艶を伊兵衛に渡したのちも決しておろそかにはしなかった。
 万事にとどく大岡さま……。
 小者を派してそれとなく伊兵衛方を探らせると、遊んでいては気がめいるから型ばかりに芸者にでも出して月日を早く送らせようとしているという。宴座に侍るだけならそれもよかろう。堅人の伊兵衛のすることだから間違いはあるまいと、忠相は最初から知って見ぬふりをしているのだった。
 いまそのことを泰軒へ伝えている時にこの訴え――。
 黙っていると、かすかに雨の音が聞こえる。
「暁雨(ぎょうう)」
 何か詩の一節を忠相が口ずさみかけた拍子に、パッと敷居に明るい花が咲いたように、お艶がうずくまった。

「お艶どのか」
「お! 泰軒先生もここに!」
 おどろくお艶へ、忠相はしずかに顔を向けて、
「雨らしいの」
 と、淡々として他のことをいう。
「たいへんでございます。伊兵衛さまが追剥(おいはぎ)に殺されましてございます!」
「うむ。いま聞いた」
 泰軒は平然と脇息(きょうそく)にもたれて、
「いつのことかな、それは」
「っい先ほど……」
「場所は?」
「はい。深川の相川町、こちらから参りますと、永代を渡ってすぐの、お船手組お組やしきの裏手、さびしい往来でござりました」
「ふうむ。それで奪(と)られた物は?」
「はい、アノ」と恥ずかしそうなお艶、「わたくしが身を売りましたお金と、それからなんでも出羽様からとかいただいた小判が三十とやら――」
「ほほう!」
 眼をつぶって聞いていた越前守忠相、急に何ごとか思い当たったらしく、呵々(かか)と大笑した。
「出羽殿の金とか? すりゃ極印があるはず。丸にワの字じゃ。すぐ出るわい。たどって元を突きとめればわけなく挙(あ)がるであろう。江戸内外の両替屋に手まわしして触帳(ふれちょう)に記入させておく。よろしい!……つぎに下手人じゃが、これは誰も見た者もないであろうナ?」
「いえ、ところが……」
 お艶はこの大事に、えらいお奉行さまの前をも忘れて、自分ながら驚くほどスラスラと言葉が出るのだった。
「ふむ。ところが……と言うと、何者か眼証人(めしょうにん)でもあると申すか」
「はい、伊兵衛の供(とも)をしておりました新どんが――」
「コレコレ、新どんとは何者だ?」
「新助と申しましてお弟子の大工でございます。その新助さんがいいますには、なんでも相手はお役人だったそうでございますが……」
「何を申す!」
 突然、威儀を正した忠相、いくぶん叱咤(しった)気味で声を励ました。
「上役人とな?」
「はい」
「黙れッ!」
「――――」
「不肖といえどもこの越前が奉行を勤めおるに、その下に、追い落としを働くがごとき不所存者はおらぬぞ! たしかにその者、じぶんは役人であると申したというか?」
「いえ、あの、決して初めからそう申したわけではございませんそうで、どうもお役人らしかったし、あとからその人もそう言ったという新どんのはなしでございます」
「偽役人(にせやくにん)であろう?」
 泰軒がこう横あいから口を出すと、忠相はジロリとそのほうを見やって、
「これは、貴公にも似合わぬ。最初からおれは上役人だが……と自ら名乗ってこそ故意に役人をかたったものとりっぱに言い得るが、今も聞いたとおり、初手(しょて)は黙っておったとすれば――? 越州察するところ、こりゃ単に役人にまぎらわしき風体のものであろう。ううむ、覆面でもとれるか、不覚に顔を照らし見られでもして、幸いおのれが平常より役人に似ておることを心得ているゆえ、また伊兵衛とその新助とやらが確かに役人と思いこみおるようすに、その場にいたってにわかに役人風を吹かせたものに相違あるまい」
「あッ!」かえってお艶のほうが大岡様から知らされるくらいで、
「おっしゃるとおりでございます。申し忘れましたが、初めは覆面をしておりましたそうで、それが抜け落ちて顔を見ますと、どうやらお役人……」
「そうであろう。曲者は、覆面で足りれば役人顔はしとうなかったのじゃ。それが、顔を見られて役人とふまれたればこそ、自ら役人に似ておることを利用したのであろうと思われる。フウム、いよいよ常から役人らしき風俗をいたしておるものの所業ときまった! めあては金子! ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り奪(と)り沙汰――誰じゃナ? 蒲生心当りはないか」
 泰軒を顧みた忠相の眼(まな)じりに、こまかい皺がにこやかにきざまれている。
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
 首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
 と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も直参(じきさん)の士、確たる実証の挙がるまでは、姓名を出すのも気の毒じゃ、万事、貴様とわしの胸に、な、わかっておる、わかっておる!」
 狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
 春とは言え。
 まだ膚(はだ)さむい早朝……。
 雨後の庭木に露の玉が旭(あさひ)に光って、さわやかな宙空に、しんしんと伸びる草の香が流れていた。
 ぼちゃりと池に水音がはねると、緋鯉(ひごい)の尾が躍って見えた。雨戸を繰(く)らないお屋敷のまわり縁に夜の名残りがたゆたって、むこうの石燈籠(いしどうろう)のあいだを、両手をうしろにまわし庭下駄を召して、煙のようにすがすがしいうす紫の明気をふかく呑吐(どんと)しながら、いったり来たりしている忠相のすがたを小さく浮かび出している。
 日例のあさの散策。
 遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
 射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
 が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
 大工伊兵衛の横死――。
 それがかれの脳裡(のうり)を去らない。
 一町人が邪剣を浴びて凶死(きょうし)した……それだけのことではすまされないものが、なんとなく奉行忠相の胸にこびりついて離れないのである。
 ――おそかった。
 ――手ぬかりだった。
 忠相はこうしみじみと思う。
 いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く手配(てくばり)をして引っくくってしまわなかったのが、返すがえすもわしの落ち度であった。
 申しわけない!
 さまざまのよからぬ風情(ふうじょう)も聞き、家事不取締りの条も数々あって、それらをもってしても容易におさえることはできたのに!
 事実、博奕(ばくち)の罪科のみでも彼奴(きゃつ)をひったて得たではないか。
 それなのに自分は――まだまだ、もう少し現に先方から法に触れてくるまで……手をこまぬいて待っているうちに、暴状ついに無辜(むこ)の行人におよんで、あったら好爺を刀下の鬼と化さしてしまった。伊兵衛にすまぬ!
 この忠相が、手を下さずして殺したようなものとも、いえばいえようも知れぬ。
 アアア、手おちであった……とおのれを責めるにやぶさかならぬ忠相が、ひとり心の隅々を厳正のひかりに照査して、すこしなりとも陰影を投げるわだかまりに対しては、どこまでも自らを叱って法道のまえに頭を垂れ、悔いおののいていると、
 この、粛然(しゅくぜん)襟を正すべき名奉行の貴い悶(もだ)えもしらずに、忠相の足もとに嬉々(きき)としてたわむれる愛犬の黒犬。
「黒か、わしは馬鹿じゃったよ。大馬鹿じゃったよ。おかげで人ひとり刀の錆(さび)にして果てた。なア、そうではないか」
 黒は、喜ばしげに振り仰いで……ワン!
「おお、そちもそう思うか」
 わん! ウアン、ウウウわん!
「はははは、おれをののしるか? うん、もっともっと罵倒するがよい!――奉行いたずらに賢人ぶるにおいては……ううむ! いや、たしかにわしの過失であった」
 と忠相は、ただ一工人の死がそれほど心を悩まし、さかのぼってまで彼の責任をたたかずにはおかないのか――? 傍で見る眼もいたいたしいほど苦しんでいるのだ。
 ほとんど瑕(きず)とはいえないほどの微小な瑕ですらも、それがおのれのうちにあるごとく感じられる以上、どこまでも自己を追究して、打ち返し築きなおさずにはいられない大岡忠相であった。
 いささかも自分と、じぶんの職責をゆるがせにできない冷刃のような判別、それをいま忠相はわれとわが身に加えているのだった。
 市井匹夫(しせいひっぷ)のいのちにかくまでも思いわずらう名奉行の誠心……これこそは人間至美のこころのすがたであると言わねばなるまい。
 忠相の忠相、越前の越前たるゆえん、またこれをおいて他になかった。
「これヨ黒! 貴様に弁当を分けてやりおった伊兵衛の仇は、この忠相には、すでに鏡にかけて見るがごとく知れておる。安堵せい。近く白洲に捕縄をまわして見せるが、まず、丸にワの字の極印つき小判が出るまでは当分沈伏(ちんぷく)沈伏……すべては、その出羽の小判が口をきくであろうからのう――」
 と忠相、いま黒犬が走り去ったのも気がつかず、しきりに話しかけているが、何におびえてか黒は、池のかなたの植えこみに駈け入って、火のつくように吠え立てる声。
 洗面のしたくでもできてお迎えに来たらしく、はるか庭のむこうを若い侍女が近づいてくるのが見える。
 忠相は、侍女の足労をはぶくために、もうさっさとこっちから歩き出していた。

「あの、先生……」
 朝日の影が障子に躍りはじめると同時に、いま、大岡様のお座敷を出て来たお艶、泰軒のうしろについて、二人がお庭の池に沿うて植えこみの細道に来た時、こうためらいがちに声をかけたのだった。
 例によって貧乏徳利(びんぼうどくり)を片手に、泰軒は歩調をゆるめて振りかえる。
 お艶は立ちどまった。
「先生!」
「なんじゃな?」
答えながら、かぐわしい朝の日光のなかに初めて、お艶のすがたを見た泰軒居士、一歩さがってその全身を見あげ見おろし、今さらのように驚いている。
 そこに、泰軒の眼に映っているのは、あさくさ瓦町の陋屋(ろうおく)にぐるぐる巻きでつっかぶっていたお艶ではなく江戸でも粋と意気の本場、辰巳の里は櫓下の夢八姐さん……夜の室内で見た時よりは一段と立ちまさって、すっきりした項(うなじ)から肩の線、白い顔にパッチリと整った眼鼻立ち、なるほど、よく見ればお艶には相違ないが、髪かたちから化粧、衣装着つけや身のこなしまで、彼女はもう五分の隙もない深川羽織衆になりすまして、これでは、識(し)った者で往来ですれ違ってもとても気がつくまいと思われるほど。
 夜来のおどろきと気づかいに疲れたのか――後(おく)れ毛が二、三本、ほの蒼い頬に垂れかかって、紅の褪(あ)せたくちびるも、後朝(きぬぎぬ)のわかれを思わせてなまめかしい。
 大きな眼が、泰軒の凝視を受けて遣り場もなく、こころもちうるんでいた。
 一雨ごとのあたたかさ。
 その雨後のしずくに耐え得で悩む木蘭(もくらん)の花。
 そういった可憐なものが、物思わしげに淋しい、なよなよと立つお艶のもの腰に、蔦(つた)かずらのようにまつわりついている。
 この嬌美(きょうび)にうたれた泰軒、何か珍奇なものを眺めるように、こと改めてしげしげと見つめながら、思うのだった。
 ――芸者になった……のか!
 これもよくよく考えあぐみ、身の振り方を思案しぬいたすえであろうが、芸者に! とはまた思いきったものだ。
 それも、源十郎の爪牙から自らを守るため。
 ひとつにはいっそう栄三郎をあきれさせ、あきらめさせるあいそづかしの策であろう――ウウム、いっそおもしろかろう! が、ただ……。
 つとお艶は顔を上げた。
 明眸(めいぼう)が露に濡れている。
「先生! つ、艶は、こんな風態(なり)[#「風態(なり)」は底本では「風態(なり)」]になりましてございます。お恥ずかしい――」
「いや! はずるどころか、美しくて結構じゃ、うう、これは皮肉ではない。今も、しんからそう思って見惚れていた、ハハハハ」
「お口のわるい……」
「しかしナ、どこで何をしようと、あんたは栄三郎どのの妻じゃ。それを忘れんように、栄三郎殿になり代わって泰軒がこのとおり頼みますぞ。稼業とはいえ、万一おかしなことでもあったら、仮りに栄三郎殿が許しても、この泰軒が承知せんからそのつもりでいてもらいたい」
「アレ先生、そんなことは、おっしゃるまでもなく艶は心得ております」
「それさえわかっておれば、わしも何も言うことはないが――」
 と急に声を低めた泰軒、
「お艶どの、何か言伝(ことづけ)はないかナ?」
「はい」
 お艶はもう哭(な)きくずれんばかり……。
「アノ、わたくしはいつまでも辛抱いたしますゆえ、どうぞ栄三郎様のほうを――」
「はははははは、お艶どの、このわしを泣かしてくれるな、はははは」
 泰軒は、むりに笑って顔をそむけた。
 その耳へ、何ごとかを訴えるがごときお艶のつぶやきが、低く断続して聞こえてくる。
 意味の聴きとれない泰軒、腰をかがめてお艶に顔をよせ、しばらくは、なにかしきりにうなずきながら聞いていたが、
 やがて、鬚だらけの顔がにっこりしたかと思うと、泰軒先生、喜色満面のていでそりかえった。
「うむ! そうか、そうか。やアめでたい! そりゃア何より……ワッハッハッハ! 早う栄三郎どのにしらせてやりたいが、今はそうもなるまい。しかし、でかしたぞ、お艶どの! あっぱれ、あっぱれ」
 そして、なぜか火のようにあかくなっているお艶をのぞきこんで、泰軒先生ひとりで大はしゃぎだ。
「男か女か」
「まあ先生、そんなことが――」
 お艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
 真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
 この享保(きょうほう)の初年に。
 筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
 同時に、金泥(きんでい)を置き墨のうえに膠(にかわ)を塗って光沢を出したものを漆絵(うるしえ)と呼び、べに絵とともに愛玩されたが、明和二年にいたって、江戸の版木師(はんぎし)金六という者、唐(から)の色刷りを模して版木に見当をつけることを工夫し、はじめて四度刷り五度ずりの彩色版画を作ったところが、時人こぞって賞讃し、その美なること錦に似ているというのでここに錦絵の名を負わすようになった――本朝版画のすすんだ道とにしき絵の濫觴(らんしょう)だが、これは後のこと。
 享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工奥村政信(おくむらまさのぶ)。
 で、いま。
 その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
 あたまは野郎(やろう)頭。
 京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した留袖(とめそで)。
 それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
 風流紅彩色(べにいろ)姿絵と横に大書した木箱を背負い、箱のうしろに商売物の絵をつるし、手に持った棒にもべに絵がたくさんさがっている。
 そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、庇(ひさし)まで備わり、三浦と染め出した暖簾(のれん)、横手の壁には吉原と書いた青楼(おちゃや)の雛形(ひながた)に載せてかついでいようという、いかにも女之助と呼びたい、みずからそのべに絵中の一人物――。
 後年はおもに女形の卵子や、芳町(よしちょう)辺で妙な稼業をしたものの一手の商売ときまり、またその時分すでにそうした気風も幾分かきざしていたけれど、それでも享保時代にはまだ、副業の男娼よりは、べに絵売りはただ新しく世に出て珍しい彩色絵(いろえ)を売り歩く単なる絵の行商人にすぎなかった。
 とはいっても。
 どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
 それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の優男(やさおとこ)が、風流紅彩色姿絵(ふうりゅうべにいろすがたえ)そのままの衣裳を凝(こ)らして、ぞろりぞろりと町を練り歩いたもので、決して五尺の男子が、自らいさぎよしとする職業ではなかった。
 世は泰平に倦(う)み、人は安逸に眠って、さてこそこんな男おんなみたいな商売もあらわれたわけだろうが、この風流べに絵売り、そのころボツボツ出はじめた当座で、だいぶんそこここの往来で見かけるのだった……。
 雨あがりの朝。
 外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす靄(もや)のようによどむ町々を罩(こ)めていた。
 お江戸の空は紺碧(こんぺき)だった。
 一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の普化僧(ふけそう)がぬかるみをまたいで来ると、槍をかついだ奴(やっこ)がむこうを横ぎる。町家では丁稚(でっち)が土間を掃(は)いていたり、娘が井戸水を汲んでいるのが見えたり、はたきの音、味噌汁の香――。
 親しい心のわく朝の街である。
 途中何やかやと話し合いながら呉服橋(ごふくばし)から蔵屋敷(くらやしき)を通って日本橋へ出た泰軒とお艶。
 こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
 その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには他(よそ)ながら栄三郎どのに会う機(おり)もあるであろうから、気を大きく持って……お! それから、何よりも身体を大切に、あんたひとりの身体ではないで、むりをせんようにナ」
 と、じぶんの言うことだけいったかと思うと飄々然(ひょうひょうぜん)、一升徳利とともに橋を渡って通行人のあいだに消えてしまった。
 まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて茅場町(かやばちょう)からこんにゃく島、一の橋をわたって伊兵衛の家へといそいで来た。
 いまは、侠(いき)なつくりの夢八姐さん。
 お座敷帰りとも見える姿で、ちょうど忌中(きちゅう)の札をかけて大混雑中の棟梁方の格子戸をくぐろうとした時だ。
 ちらとかなたの町を見やったお艶片足を土間に思わずハッといすくんだのだった。
 べに絵売りの若い男がひとり、朝風に絵紙をはためかして歩いてゆく……江戸街上なごやかな風景。

  影芝居(かげしばい)

「栄三郎どのか、ちょうどよいところへ戻られたナ。あがらんうちに、その足で小豆(あずき)をすこし買(こ)うて来てもらいたい」
 野太い泰軒の声が、まっくらな家の奥からぶつけるようにひびいてくる。
「あずき……」
 と思わずきき返して、いま帰って来た栄三郎は、背にした荷を敷居ぎわにおろした。
 浮き世のうら――とでもいいたい瓦町の露地裏、諏訪(すわ)栄三郎が佗び住居。
 お艶(つや)と泰軒が大岡様のもとにかち合って、そして日本橋で別れた、その日の夕刻である。
 今夜もまた灯油(あぶら)が切れたのか、もうすっかり暗くなっているのにまだ灯もつけずに、泰軒は例によって万年床から頭だけもたげているものとみえて、何だか低いところから声がしている。
 ……小豆をすこし買ってこいというのだ。栄三郎は、手探りでべに絵の木箱をおろすと、もう一度のぞきこんでたずねてみた。
「小豆を――? もとめて参るはいとやすいが、なんのための小豆でござる?」
 すると泰軒、暗いなかでクックッ笑い出した。
「アハハハ、知れたこと、赤飯をたくのだ」
「赤飯を? 何をまた思い出されて……しかし、蒸籠(せいろう)もなく、赤飯はむりでござろう?」
「なに、赤飯と申したところで強飯(こわめし)ではない。ただの赤いめしじゃ。小豆を入れてナ」
「ほう!」
 と軽く驚いた土間の栄三郎と家の中の泰軒とのあいだに、闇黒(やみ)を通して問答がつづいてゆく。
「ホホウ! 泰軒どのが小豆飯を御所望とは、何かお心祝いの儀でもござってか――?」
「さればサ、ほんのわし個人の悦びごとを思い出しましてな、あんたとともに赤飯を祝いとうなったのじゃ。お嫌いでなければつきあっていただきたい。きょうのべに絵の売上金のなかから小豆少量、奮発(ふんぱつ)めされ! 奮発めされ! わっはっはっは」
「いやどうも、細い儲けを割くのは苦しゅうござるが、ほかならぬ先生の御無心……」
 と栄三郎も、戯談(じょうだん)めかして迷惑らしい口ぶり、
「殊には、先生のお祝い事とあれば拙者にとってもよろこびのはず。承知いたした! 小豆をすこし、栄三郎、今宵は特別をもってりっぱに奢(おご)りましょうぞ」
 笑いながら、風流べに絵売りの扮装(つくり)のまま、栄三郎は小銭の袋を手にしておもての往来へ出ていった……同居している泰軒のために小豆を買いに。
 泰軒のために? ではない。
 今朝ほどお艶から、彼女が、まだ生まれ出ない栄三郎の子を感じていると聞かされた泰軒、こうしてないしょに、ただそれとなく赤の御飯を炊いて栄三郎に前祝いをさせる気なのであろう――。
 ガタピシと溝板を鳴らして、栄三郎の跫音が遠ざかってゆくと、泰軒居士、いたずららしい笑みとともにむっくり起きあがった。
「うむ! とうとう小豆を買いに参ったな。話せばどんなによろこぶかも知れぬが、今はまだ心からお艶どのを憎み恨んでいる最中、そのためかえって苦しみを増すこともあろうから、こりゃやっぱり、黙って、何事も知らせず祝わせてやるとしよう。どりゃ、そうと決まれば、こっちもそろそろ受持ちの飯炊きにとりかかろうかい」
 ひとりごちながら、火打ちを切って手近の行燈に灯を入れる。
 その黄暗い光に、ぼうッと照らし出された裏長屋の男世帯……。
 乱雑、殺風景を通りこして、じっさい世にいうとおりうじくらい生きていそうな無頓着(むとんぢゃく)をきめた散らかし方だ。
 お艶が家を出たあと、栄三郎がひとりで自炊していたところへ、相馬の旅から帰った泰軒がズルズルベッタリにいすわりこんだから、その無茶苦茶な朝夕、まことに思い半ばにすぎようというもの。
 紙屑、ぼろ布、箸茶碗、食べかけの皿などが足の踏み立て場もなく散らかり、摺鉢(すりばち)に箒が立っていたり、小丼(こどんぶり)に肌着がかぶせてあったり、そして、腐(す)えたような塵埃のにおいが柱から畳と部屋じゅうにしみわたって、男ふたりのものぐさいでたらめな生活ぶりをそのままに語っている。
 勝手もとで、不器用な手つきで米をとぎだした泰軒先生、思い出してはしきりに、
「ウム! めでたい! こりゃあめでたいぞ!」
 ひとりでさかんにめでたがりつつ、泰軒、ふとあがり口のべに絵木箱に、眼を留めて、
「オオ! きょうはだいぶ売れたようだな。ありがたい――」
 栄三郎が、小豆を買って来たらしい。露地に、あし音が近づいていた。

 早い月の出……。
 下りきった夕ぐれの色が煙霧のようにただよって、そこここの油障子から黄色な光線の筋が往来に倒れている。
 どこかの鐘の音が遠く空に沈んで、貧しい人々の住む町は、宵の口からひっそりとしていた。
 たたき大工の夫婦、按摩、傘張りの浪人者、羅宇屋(らうや)――そして、五十近いその羅宇屋の女房は、夜になると、真っ白な厚化粧に赤い裏のついた着物を着て、手拭をかぶってどこかへ出かけてゆく。そうすると、火のつくように泣く赤児を抱いて、羅宇屋が長屋中を貰い乳してまわる……このあたりは絶えて輝しい太陽の照ったこともなく、しじゅうジメジメと臭い瓦町の露地奥だ。
 いま、小豆を買って帰る途中の栄三郎、露地へはいろうとして、角の酒屋の灯火を全身に浴びるといつものことながら、はッとして足のすくむのを覚えた。
 みずからのすがたである!
 湯島あたりのかげまか、歌舞伎(かぶき)の若衆でもなければ見られない面映(おもは)ゆい扮装(いでたち)……。
 ものもあろうに風流べに絵売りとしての自分には、たとえそれが世を忍ぶ仮りの生業(なりわい)とはいえ、根津あけぼのの里小野塚鉄斎道場に鳴らした神変夢想流の剣士諏訪栄三郎または御書院番大久保藤次郎実弟と生まれた諏訪栄三郎――どうしてこれが恥じないでいられようか。
 何事も! 何ごとも……と常にみずからをおさえてはいる。が、こうしたものさびしい早春のたそがれなど、ひとり路を歩いていると、いったい今この道を踏んで行ってどこへいき着くのか? わが身の末はどうなのであろうか? 自然とかぶさってくる暗い考えが、眼に見えぬ蜘蛛(くも)の糸のようにかれの心身にからみつくのをどうすることもできないのだった。
 弥生様のほうはお艶ゆえに断ちきった。
 鳥越(とりごえ)の兄藤次郎には勘当されている身分。いままたそのお艶とも別れて、しかも事件の起こりの乾坤二刀はいまだに離れたままである。
 ことすべておのれに不利。
 真の闇黒――そういった気がモヤモヤとわきたって来て、ちょうど寄辺(よるべ)なぎさの捨(す)て小舟(おぶね)とでも言いたい無気力なこころもちにつつまれる朝夕、栄三郎は何度となく万事を棄てて仏門へでも入りたく思ったのだが。
 この若い、そして若いがゆえにねばりのすくない栄三郎の心をひきたたせて、そばから怠らずはげましているのが、唯一(ゆいつ)の助太刀、同時に今は友であり師である蒲生泰軒先生であった。
 お艶の去ったのち、栄三郎はお艶の思い出とともにひとりさびしく瓦町の家に暮らしていたが、かれはいよいよお艶のこころが遠くおのれを去ったことと思いこんで、その不実無情を嘆き悲しんだのも暫時(しばし)、昨今はすっかりあきらめおおせて、今やその精心の全部を雲竜二剣にのみ集中しているべきはずなのが、ともすればそれさえ棄てて、いっそくだけて町人にでもなろうか……などという考えを、よしぼんやりにしろ起こすところを見れば、栄三郎かえってお艶に執心(しゅうしん)の強いものがあるのではなかろうか。
 もちろん、ここはそうなくてはならぬところ。世の栄誉順境のすべてを犠牲に、ともに誓い誓われたお艶ではないか。どこにどうしているかは知らぬものの、やはり栄三郎の胸ふかくお艶を思う念の消えぬのはむりもなかった。消えぬどころか、相見ぬ日の重なるにつれて、四六時じゅう栄三郎の心にあるのはお艶のおもかげ態度(ものごし)、口ぶり――、あア、あの時ああいって笑ったッけ、そうそう、またいつぞやあれが軽い熱でふせった折りは……。
 と栄三郎、こうして戸外をあるいていても、お艶恋しやの情炎にかりたてられて、さながら画中のよそおいの美男風流べに絵売り、もの思いに深くうなだれて、暗い裏町の小路をトボトボとたどってゆく。
 だが! この美男のべに絵売り!
 一朝、つるぎを抜いては神変夢想の遣い手、しかも日中しょい歩く絵箱の中に関の孫六の稀作、夜泣きの刀の片割れ陣太刀づくりの坤竜丸を秘して、その艶な眼は、それとなく途上行人(とじょうこうじん)のあいだに、同じ陣太刀乾雲丸とその佩刀者を物色しているものとは、誰ひとりとして知る者はなかったろう。
 離れれば夜泣きする二つの刀……それは取りもなおさず、別れていて夜泣きするお艶栄三郎の身の上であった。
 定(さだ)まれる奇縁。
 栄三郎は、そういう気がする。
 黙想のうちにわが家の門口まで来たかれ、そのままはいりかけた足をとめて、ふと露地のむこうの闇黒をすかし見た。
 何やら黒い影がふたつ、逃げるように急ぎ去っていくのだ。
 ひとつはどうやら若侍のうしろ姿。だが、つれとみえる他のかげは?
 小児か?……それとも野猿のたぐい?
 栄三郎、思わずギョッ! として眼をこすった。
 大小二つの人影!
 ひとつは煙のごとく、他は地を這うように、たちまち消え失せたと見るや、栄三郎は、追いかけようとした身の構えをくずして家内へはいった。
 飯のふきこぼれるにおい。
 泰軒の大声。
「うわアッ! いま沢庵(たくあん)を切っとって手が離されん。早く、その、釜のふたをとってくれ」
 帰るやいなや、栄三郎も手伝って、ふたりの男がてんてこまいを演じたのち、ようように小豆も煮えて、どうやら赤の御飯らしいものができあがる。
 台所道具から夜具蒲団まで勝手放題に取り散らかした真ん中で、両人さっそく夕餉(ゆうげ)の膳に向かう。
 くらい行燈の灯かげ……。
 無言のうちに箸をとる。
 ふと栄三郎が気がつくと、むこう側の泰軒正座して眼をつぶり、しきりに何かを念じているようす。
 ははあ、今宵は心祝いがあるといって小豆めしを炊いた、それを祈っているのであろう――とは思ったが、栄三郎は聞きもしなかったし、泰軒もまた黙ったまますぐ食事にかかった。栄三郎がこの赤の御飯を食べさえすれば、かれが知る識らぬにかかわらず、やがては身ふたつになる、お艶への前祝いと観じて、泰軒はそれでこころから満足しているのだった。
 だんまりをつづけて食事がすむ。あと片づけは栄三郎の役目。
 泰軒は手枕、ゴロリとそこに横になった。
 そして、栄三郎が水口で皿小鉢を洗う音をウツラウツラと聞きながら、ひとり何ごとか思いめぐらしている。
 しいんと世間はしずまりかえって夜の呼吸が秘めやかに忍びよってきていた。
 蒲生泰軒……。
 かれは、かの殺生道中血筆帳(けっぴつちょう)をふところに北州の旅から帰って、この瓦町の栄三郎方にわらじの紐をとき、そうして血筆帳を示してすべてを物語ったのち、相馬藩月輪一刀流の剣軍が江戸へはいって、いま本所の化物屋敷に根城(ねじろ)を置いているから、近く左膳を頭に彼らの一味が来襲するに相違ないといましめて、いまだに放れ駒のように、恋と義にはさまれて心の拠りどころなく苦しんでいた栄三郎に緊褌(きんこん)一番、一大奮励をうながしたのだった。
 と同時に。
 敵の眼をくらましてその裏をかく方便として、泰軒が栄三郎にすすめたのが、この、風流べに絵売りの変装であった。
 泰軒が味噌をすれば、栄三郎が米をとぐ。栄三郎が水を汲めば泰軒先生が箒を手にする。が、居候(いそうろう)四角な部屋を丸く掃き――掃除というのも名ばかり型ばかりで、男同士の住居は梁山泊(りょうざんぱく)そのままに、寝床は敷きっ放し、手まわりの道具や塵埃は散らかり放題。それで、栄三郎がかつぎ売りに出ている昼のあいだは、泰軒居士は寝てばかりいて、床のなかから豆腐屋を呼んだり金山(きんざん)寺を値切ったり……いまではこの家、瓦町長屋の一名物となっているのだ。
 白皙(はくせき)紅顔の美青年栄三郎は、このごろはべに絵売りの扮装(いでたち)も板についてきて、毎日、はでなつくりに木箱を背負っては江戸の町々を徘徊(はいかい)し、乾雲の眼を避けながらその動静を探っている。
「アレ! きれいなべに絵さんだこと!」
 はすっぱな下町娘や色気たっぷりの後家(ごけ)などが、ゆきずりに投げてゆくこうした淫(みだ)らがましい言葉、それにさえ慣れて、はじめのような憤りや自嘲を感じなくなった栄三郎であった。
 が、しかし!
 家にある泰軒先生が一日じゅう蒲団をかぶって奇策練想に余念のないごとく、優(ゆう)にやさしいべに絵売り栄三郎の胸中にも最近闘気勃然(ぼつぜん)としてようやくおさえがたきものが鬱積していた。
 背にした箱の脇差坤竜!
 それはやがて乾雲をひきつけるよすがである。
 ――こうして泰軒先生と栄三郎との奇妙な生活のうえに、こともなく日が重なって来たのだったが!
 それが今朝!
 日本橋銀町伊兵衛棟梁の家の前で、お艶はべに絵売りの栄三郎を見かけた……けれど、栄三郎は気がつかずに通り過ぎてしまった。
 風流べに絵売りの栄三郎と、芸者夢八のお艶と――そのたがいに変わった姿に泣いたのは、だからお艶だけだったのである。
 いま……真夜中近い亥(い)の刻。
 突如ムックリ起きあがった泰軒、何を思い出したか、
「栄三郎どの、だまってついて来なさい」
 とひとりサッサとはやもう戸口におり立っていた。
 すっかり浪人風に返った栄三郎、武蔵太郎安国(むさしたろうやすくに)と坤竜丸をぶっちがえて、泰軒とともに露地を立ち出でた時、中空に月は高く、そして地には、かれのあとから、またもや大小ふたつの影が動くともなくつけていた。
「ね、伊織さん、殺(ば)らしちゃいけねえんですね?」
 小の影――山椒の豆太郎、チョコチョコ走りに追いつきながら、こう声を忍ばせた。
 人通りのない、両国広小路である。
 月のみ白く、町は紺いろに眠っていた。
 その、小石さえ数えられる明るい往来(みち)のむこうに、細長い影を斜めに倒して、泰軒と栄三郎の並んでゆくのが、小さく、だがハッキリと見える。
 そのうしろ姿から眼を離さず小野塚伊織の弥生、同伴の豆太郎を顧みて答えるのだった。
「うむ! 殺すはもとより、どちらにも怪我があってはならぬ。そちのその手裏剣をもって、ほどよくおどかしてくれればよいのじゃ」
 豆太郎は、グルリと帯のあいだにさしつらねた十幾つの短剣をなでながら、にやりと笑った。月光がその顔にゆがむ。
「むずかしい御注文ですね。いっそひと思いにやっちまえというんなら骨は折れませんが、傷をつけねえようにおどかせなんて、こいつア少々……」
「そこが豆太郎の手腕ではないか」
 いいながらも弥生は、前をゆく二人をみつめているので、そばの豆太郎が、これはいささか曰(いわ)くがありそうだわい! というように狡(こす)そうに首をかしげたのに気がつかなかった。
 米沢町(よねざわちょう)から薬研堀(やげんぼり)へと、先なる両人は肩を並べて歩いてゆく。
 月しろと夜露。
 あとの、豆太郎と弥生のふたりも、戸をおろした町家の軒下づたいに、見えがくれにつけていくのだが、深夜の無人にすっかり安堵してか、泰軒も栄三郎も一度も振り返らないで、忍びとはいえ、半ば公然なのんきな尾行。
 もう四つ半をまわったろう。中央に冴え返る月が、こころもち東へ傾いて、遠街を流す按摩の笛が細く尾を引いて消える。
 脚が短いので、ともすれば遅れがちの豆太郎、ベタベタと草履を鳴らして弥生の横へ出た。
「どこイ行くんでげしょう、あいつら?」
「まあ――どうも方角が辰巳(たつみ)だな」
「たつみ? フウッ、乙ですね」
「そうかナ。方角が辰巳だと乙ということになるかな」
「しらばくれちゃアいけませんぜ。失礼ながら殿様なんざア男でせえふるいつきてえぐらいいいごようすだ。ねえ、女の子がうっちゃっちゃアおかねえや。さだめし罪なおはなしがたくさんごわしょう。だんまりで夜道を徒歩(ひろ)うてえなア気がきかねえ。一つ、色懺悔(ざんげ)をなさいまし、色懺悔を……豆太郎、謹んでお聞きしますよ、エヘヘヘヘ」
「たわけ! 黙って歩け!」
「へ? するてえとなんですかい、それほどの男ぶりでまだ女を――てエのは、ハテ! 変だな!」
「ナ、何がへんだ?」
 弥生の声には、早くも警戒の気が動いている。豆太郎は笑いほごした。
「いえ、なあに、こっちのことで……ただね、ただ殿様にゃア女性(おなご)のにおいがするから、それでその、あんまり女の子が寄りつかねえんじゃねえかと――はははは、これああっしの勘ですがね」
 ギラリと凄い光が、豆太郎の眼尻から弥生の横顔へはねあがる。
 弥生は、大きく口を開けて欠伸(あくび)をした。
「見ろ! きゃつら両人、いよいよ深川へはいりおるぞ! さ、すこし急ごう」
「いそぐのはいいが、こうして尾(つ)けてってどうするんです?」
「さきは拙者のいうとおりにしろ」
 と足を早めると、なるほど、泰軒と栄三郎は、もう永代(えいたい)寺門前通り山本町、名代の火の見やぐらの下あたりにさしかかっている。
 この夜ふけに、いずくへ?――いくのだろう?
 心中にはいぶかしく思っても、栄三郎はべつにたずねもせず、また泰軒も話そうとはしないで、瓦町を出てから口ひとつきかずに押し黙ったまま、ここまで来たのだ。
 柳暗花明(りゅうあんかめい)、名にし負う傾斜のちまた。
 栄三郎、ちと迷惑げに眉をひそめていると、ぼろ一枚に貧乏徳利の泰軒先生、心得がおにブラリブラリと先に立つ……。
 何かは知らず、早くから弥生につれられ、青山長者ヶ丸子恋の森のふしぎな家を出てきて、宵の口いっぱい瓦町に張りこんで今あとをつけて来た豆太郎も、弥生とともにすこし遅れてついてゆくのだが。
 一寸法師、おまけに亀背で手長の甲州無宿山椒の豆太郎、すくなからず勝手がちがってキョロキョロしている。
 ただこうして先刻夕がた、べに絵売りとまで身をやつしている栄三郎のあらぬ姿を見た弥生、こころいたんでやまないのはぜひもなかった。
 三月二十一日より四月十五日まで深川八幡(ふかがわはちまん)のお山びらき。
 山開き客も女も狂い獅子。
 これは山びらきに牡丹(ぼたん)町から獅子頭が出るので、それにかけて言ったものだが、とにかく当時はふかがわの山開きといえば大した人気、さかんな行事の一つであった。
 この期間、別当のお庭見物差しゆるす。
 別当は、大栄山永代寺金剛神院。
 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に擬して富ヶ岡八幡といい、社地に二軒茶屋とて、料理をひさぐ家があったことは有名なはなし……。
 ――さて、
 ちょうど今がその山びらきお庭拝観の最中で昼は昼で申すもさらなり、夜は夜景色見物と、そのまた見物に出る美形(びけい)を見物しようというので、近くはもとより、江戸のあちこちから集まって来る老若男女の群れが自然と行列をつくって切れもなく流れ動いている。
 樹間の灯籠が光線の魔術を織り出し、そこここの焚き火の余映を受けて人の顔は赤い。
 木の下やみに隠れてつれを驚かそうとする職人、ふくべをさげた隠居、句でも案ずるらしくゆきつ戻りつする大店の主人てい、肩で人浪を分けてゆく若侍の一隊、左右に揺れて押しあいへしあい笑いさざめいてくる町のむすめ達……人を呼ぶ声、ひるがえる袂、騒然とうす闇に漂う跫音――、
 夢のなかで、もう一つ夢を見ているような、それは夜霧もまどやかな人出の宵であった。
 そこへ、月が昇る。
 おぼろ夜にはまだ早いけれど、銀白の紗(しゃ)が下界を押しつつんで、人はいっそうの陶酔(とうすい)に新しくさざめき合う……。
 その時、人ごみのなかを左褄(ひだりづま)をとっていそぐ粋な姿があった。
 言わずと知れた羽織芸者――水のしたたりそうな、スッキリとした江戸好みに、群集中の女同士さては男までが眼顔で知らせ合って、振り返り、伸びあがって見送っていると、芸者は、裾さばきも軽やかに社庭を突っきり、艶っぽい声を投げて一軒の料理家の戸ぐちをくぐった。
 やぐら下まつ川の夢八が、羽織見番へ口がかかって、いまお座敷へ出るところ……。
 すぐあとから箱屋が三味線箱をかついでつづく。
 これはいかさま箱屋で、その三味線箱なるものが、大工の道具箱にも似ていれば、そうかと思うとあとつけにも見える。あとつけというのは、武士で道中で替差しの刀を入れておく箱のことだ。
 お祭り同然の山びらきで座はこんでいる。
「おやまあ、新がおの夢八姐さん、さっきからお客様がお待ちかねでネ、エエエエ、もう、じりじりなすっていらっしゃいますよ」
 こう言われて夢八のお艶、通されたのは庭の池に面した表二階の一間だった。
 人声と物音が綾をなして直下の道路に揺れている。
 どこか遠くの部屋で、酒でも呼ぶらしくつづけざまに手を叩いていた。
 廊下に小膝をついて障子をひきあけたお艶、
「ヨウ! 来たね」
 という客の、すこし訛(なま)りをおびた嗄声(かれごえ)で、なんだか聞きおぼえのあるような気がして、かすかにさげていた頭をあげ室内を見た。ちんまりと洒落(しゃれ)た小座敷。
 骨細のきゃしゃなあんどんをひきつけて坐っている町人のひとり……五十がらみのがっしりとした恰幅(かっぷく)、色黒――鍛冶富!……鍛冶屋富五郎である。
「おお!」
「アレ!」
 これがいっしょの声だった。
 客というのは鍛冶富――嫌なやつ! と思っても、お艶の夢八、とっさに立つわけにもゆかず、さりとてそのままはいる気にはなれず敷居のところでモジモジまごまごしていると、こっそり遊びに来て芸者を呼ぶとそれが昔のお艶だったので、より驚いたのは鍛冶富だ。
「イヤッ! お艶さんじゃアねえか。お前さん、どうしたえ? 喜左衛門どんも始終うわさをしていたよ。この土地から芸者に出ているなんておらアちっとも知らなかった。え? いつからだい? 栄三郎様とは別れたのかえ?……マずっとこっちへおはいんなさい。しばらくだったなア!」
「三間町さんでしたか。ほんとにマア御無沙汰申し上げております。お変りもなく――」
 言いながらお艶は、なんとか口実をつけて帰らせてもらおう――こう考えたが、富五郎はもう溶けんばかりにでれりとなって、
「いや! そんな挨拶はぬきだ、ぬきだ! それよりお艶さん、きれいになったなあ……」
 じいッとみつめる色ごのみな鍛冶富の視線にお艶はますます首肩のちぢむ思い――。

「軍(いくさ)にはまず兵糧が第一だて」
「さようさ。ここでしこたま詰めこんだのち出かければちょうど刻限もよかろう」
「なあに! 相手は優男に乞食ひとり、何ほどのことやある。これだけの人数をもって押しかけ参らばそれこそ一揉みに揉みつぶすは必定! さ、前祝いに一献(こん)……」
「善哉(よいかな)善哉!」
「今宵こそは左膳どのも本懐を達して――」お艶はギョ! として思わず呼吸をのんだ。
 最後の言葉が、動かないものとして彼女の耳をとらえたのである。
 じつは、さっきから隣の部屋にいろんな声がしていたのだが、どこかの家中の士が流れこんできて駄々羅(だだら)あそびをしているのだろうと、お艶は、それよりも目前のおのが客鍛冶富に気をとられて、隣室の話し声にはたいして意を払わずにいたのだったが、はじめはヒソヒソ低声(こごえ)にささやき合っていたのが、だんだん高くなるにつれてお艶もいつしかそれとなく耳を傾けていると!
 ……相手はやさ男に乞食ひとり、というのが聞こえた。
 さてはッ! といっそう聞き耳を立てたところへ、今宵こそは左膳どのも云々(うんぬん)――と誰かが言い出したからこっちの部屋のお艶、うっかり叫び声をあげそうだったのを危うくおさえて、つと鍛冶富のまえへ膝を進めながらニッコリ笑顔をつくった。
 が、耳の注意だけはやはり隣室へ!
 富五郎は気がつかない。
 もとからお艶にぞっこんまいって機会あらばと待ち構えていた彼、羽織衆夢八となってひとしお嬌美(きょうび)を増したお艶の前に、富五郎はもう有頂天になっているのだ。
「いや。人間一生は七転び八起きさ、そりゃア奥州浪人和田宗右衛門とおっしゃるりっぱなお武家(ぶけ)の娘御と生まれた身が、こうして芸者風情(ふぜい)に――と思うとね、お前さんだっていろいろおもしろくないこともあろうけれど、サ、そこが辛抱だ。なあ、そうやってるうちにアまた思わねえいい芽もふこうってものだ。だがネ、お前さんが栄三郎さんに見限(みき)りをつけたのは大出来だったよ。おらあ他人事(ひとごと)たア思わねえ、いつも喜左衛門どん夫婦と話してるんだ。ねエ、お艶さんは白痴だ。あんな普外(なみはず)れた器量を持ちながらサ、こういっちゃアなんだが、男がいいばかりで能(のう)のねえ御次男坊なんかと逃げ隠れて、末はいってえどうする気だろう?……今のうちに眼がさめて別れちまえば、まだそこに身の立て方もあろうてもんだが――なんてネ、寄るとさわるとお前さんのうわさで持ちきりだったよ。が、まあ、わしのにらんだとおり、お前さんも根ッから馬鹿じゃアなかった。栄三郎と手をきって、こうして羽織を稼いでいるたア褒(ほ)めてもいいね。ははははは、はやるだろう?」
「ええ、……おかげ様で、まあボツボツねえ」
「結構だ。せいぜい稼いでお母に楽ウさせるんだナ。ときに、おふくろといえば、どうしたえ、その後は? 音信(たより)でもあるかね?」
「は。まだ――」
「本所のお屋敷に?」
「ええ」
 平気をよそおって富五郎とやりとりしながら、全身これ耳と化したお艶が、襖越(ふすまご)しに気をくばっていると隣室には乾雲を取り巻く同勢十五、六人集まっているようすで、何か声(こわ)だかに話し合って笑い興じている。
「しからば露地ぐちに見張りをつけて……」
 といっているのは丹下左膳の声らしいが、あとは小声に変わって聞こえなくなった。
 鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)――とみえて、にわかにヒッソリとした静けさ。
 突然!
「ウム!」
 と大きくうなずいて笑いだしたのは、お艶は知らないが月輪の首領軍之助であろう。事実、偶然このお山びらきの夜、社地内の料亭に酒酌みかわして、刻の移るのを待っている一団は……!
 一眼片腕の剣魔丹下左膳を中心に、月輪門下の残士一同、深夜より暁にかけて大挙瓦町を襲って坤竜丸を奪おうとしているのだった。
 鈴川源十郎はつづみの与吉をつれて、物見の格でとうに栄三郎をさして先発している――が、かれ源十郎をどれほど信じていいかは、臭いもの同士の左膳が迷わざるを得ないところだ。
 酒がまわるにつれてそろそろうるさくなりかけた鍛冶屋の富五郎を、お艶はほどよく扱いながら、なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と千々(ちぢ)に思いめぐらしていると、何にも知らない鍛冶富はいい気なもので、
「お艶さん、何をそう思案しているんだ? え? わしに惚(ほ)れたら惚れたと、ハッキリ白状したらどうだえ。ま、もそっとこっちへ寄りなッてことよ」
 黒い手がムンズとお艶の帯にかかったので、びっくりしたお艶が、
「アレ! 何をなさいます!」
 と起き立ったとたん! 下の往来に聞き慣れた謡曲(うたい)の声が……。

「あ! 立ちどまったぞ、あそこに!」
 こう言って先なる小野塚伊織の弥生、うしろの豆太郎をかえりみて指さした。
 山開きの夜の人出も散りそめた深川八幡の境内である。
 九刻(ここのつ)も半に近い寂寞(せきばく)……。
 あさくさ瓦町の家から、泰軒、栄三郎をつけて来た弥生と豆太郎、つかず離れず見え隠れにこの別当金剛院のお庭へはいりこんで、ふと気がつくと、今まで先方をズンズン歩いていた栄三郎と泰軒が仔細ありげにぴたッと足をとめているから、こっちもあわてて樹陰の闇黒に身をひそめてじっとようすをうかがうと――。
 とある料理屋の表面に、歩をとめた泰軒と栄三郎、明るい灯の流れる二階を見上げたまま、動こうともしない。
 ただならぬ気配!
 とみて、弥生と豆太郎、同じく眼をあげてその正面の二階を眺めた。
 月光を溶かして青白い大気に、惜春行楽(せきしゅんこうらく)の色が香(にお)い濃く流れている夜だ。
 そのほんのりとした暗がりに、障子をしめきった旗亭(きてい)の二階座敷が、内部の灯火に映えてクッキリとうき出ている。
 二間ならんで閉(た)てきってある二階の障子は……いわば祭礼の夜の踊り屋台のよう。
 それへ、影が写っているのだ――かげ芝居。
 左の部屋には……武士らしい大一座が群れさわいで、だいぶん酒がはずんでいるらしく、大きな影法師が入り乱れて杯の流れ飛ぶのが蝶の狂うがごとくに見える。
 と!
 そこの障子に、細長い影が一つうつり出した。ほかの者が手を叩くのが聞こえる。するとその立っている影が、朗々たる詩吟の声に合わせて、剣舞でも舞いはじめたものとみえて、たしかに抜き身の手ぶり畳を踏み鳴らすひびきが伝わってくるのだが! 下の道路から見あげる泰軒と栄三郎がわれにもなく足をとめたゆえんのものは!
 その影が隻腕(せきわん)片剣……。
「栄三郎殿、あれはどうじゃ?」
「泰軒先生ッ」
 すばやく私語(しご)しあいつつ、なおも障子に躍る片腕長身の士のつるぎの舞いを見つめている両人――諏訪栄三郎満腔(まんこう)の戦意をこめて思わず柄がしらを握りしめ、おのずからなる武者ぶるいを禁じ得なかった。
 それが、分身坤竜丸の刀魂に伝わってか、カタカタカタとこまかく鍔(つば)の鳴る音! うしみつ。
 刀が刀を慕い刃が刃を呼んで、いまし脇差坤竜が夜泣きをしているとも聞こえる。
 が、まもなく。
 こんどは右の小座敷に……。
 男女のくろ影が鮮やかに映り出して、それは別の意味で、泰軒と栄三郎を、ひいてはすこし離れたところに隠れている弥生と豆太郎を、あっ! と言わせずにはおかなかった。
 障子へ墨で書いたように、はっきりと写っていたふたつの人かげ。
 男と女である。
 夜更けのあたりをはばかってか。声は聞こえない。が、男が無体をいって女を追いまわしているらしく帯のゆるんだ、しどけない姿の女の影が、右へ左へ、裾を乱して逃げかわすありさまが、影絵のように手にとるごとく見えるのだ。
 となりの広間には、痩身左腕の剣舞が今や高潮……。
 そのためこの一座は次の部屋のさわぎに気がつかないとみえて、それをもっけの幸いに男の影はますます女の影へ迫る。
 肩に手がかかる。かいくぐる。うしろから抱きすくめようとする。かがんでそらす――影と影とが、付いては離れはなれては付きしてさながら鬼ごっこ――。
 二階真下の往来に立つ栄三郎と泰軒、黙然と、二間つづきの障子におどるそれぞれの影法師を見あげていると、弥生と豆太郎も、遠くから、この二人と階上の影とに眼を離さない。
 隣室には鬼どもが……と思うと、お艶の夢八、声をたてることはできるだけ控えたかった。
 しかし! 気はあせる。
 どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
 と気が気ではないが、この場合、猛(たけ)りたっている鍛冶屋をなだめすかしておいて、そのまに身を抜いて浅草へ走るのが、唯一(ゆいつ)の道であると彼女は考えているのだった。
 けれど! かじ富の煩悩(ぼんのう)の腕は、払ってもはらっても伸びてくる。
 たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
 逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
 そしてばったり栄三郎と眼があった。

 瞬間!
 栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
 と! 同時に。
 ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を閉(し)めた。
 二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
 栄三郎様に泰軒先生!
 と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を閉(と)ざしていたのだったが、遅かった。
 泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、刹那(せつな)にして消えた二階の芸者が、意外にもお艶であることは一眼でわかった。
 奇遇――といえば奇遇。
 それはまことに思いがけない出会いであった。
 無数の青蛾(せいが)が羽をまじえて飛ぶと見える月明の夜半である。
 ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
 一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
 一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
 ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
 最初、栄三郎は、変わり果てたお艶に大きなおどろきを覚えたのだったが、一面かれは、お艶のこんにちあるは前もって知れきっていたような気がして、すぐにその驚愕から立ちなおることができたけれど、それとともにお艶に対する新しい憐憫が湧然(ゆうぜん)とこころをひたして、眼頭おのずから熱しきたるのを禁じ得なかった。
 しかし、憤りはより大きかった。
 ものもあろうに芸者なぞになりさがって、おのが恥のみならず拙者の顔にまで泥をぬりおる! と考えると栄三郎、お艶の真意を知らぬだけに、とっさの激情に青白く苦笑するよりほかなかった。
 で……。
「はしたないものを見ましたナ。はははは」
 ペッ! と唾(つば)してあるき出そうとしたが、お艶を解している泰軒は、なおも影芝居を宿している二階の障子を見上げたまま動かないので、つりこまれた栄三郎、見たくもない二階へヒョイと視線を戻すと!
 あろうことか!
 小座敷の男女の影が、これ見よがしに二つ映っている。
 お艶が男にしな垂れかかっているのだが、思わず栄三郎、カッ! と血があたまへのぼるのを感じて[#「感じて」は底本では「感じで」]空(から)つばをのみながら声がひしゃげていた。
「参りましょう、泰軒先生!」
 が、依然として泰軒はうごかない。
 栄三郎の眼がまたもや二階へ吸われると、こっちの弥生と豆太郎も、その障子の影がますます親しげになるのを見た。
 家内のお艶は。
 いま隣の部屋に、左膳の一味が坤竜強奪(ごうだつ)の秘策を凝(こ)らしていることを知っているから、栄三郎がこのあたりに長居をしては危険である。さりとて、瓦町へ帰すのもいっそうあぶない、これは、一時も早くここを立ち去らせて、すぐに後を追って今夜の奇襲をしらせるにかぎる……それには、まず鍛冶富になびくと見せて安心させ、すきを求めて逃げ出すことにしよう――こう考えたお艶が、急に心にもなく折れて出て、
「ねえ三間町さん、ホホホホ、もうよしましょうよ、鬼ごっこみたいなこと」
 と、われから鍛冶屋富五郎のふところに身を投げて擦りよると、富五郎は、短い太腕にお艶を抱きすくめて、その影がぼうっと大きく障子にうつったのだ。
 同じ一枚の障子に映ずる黒かげ――ではあるが、戸外から見上げる栄三郎と、内部(うち)にあって自ら眺めるお艶と果たしてどっちがいっそう苦しくつらかったであろうか。

  髑髏(どくろ)の譜(ふ)

 長閃(ちょうせん)! 月光に躍る白蛇のごとき一刃、突如として伸びきたると見るまに!
 声もなく反りかえって路上に転倒したのは、ひとり先に立った月輪剣門の士法勝寺三郎だった。
 三郎、相馬藩内外に聞こえた強力豪剣ではあったが、機を制せられてひとたまりもなく、まっくろな血潮の池が見る見る社庭の土に拡がって、二、三度、けもののようなうめきとともに砂礫(されき)をつかんだかと思うと、そのまま――月のみいたずらに蒼白く死の這い迫る顔を照らした。
 間髪(かんはつ)!

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