丹下左膳
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著者名:林不忘 

 またもや、ビュウッ!
 と、唸りとともに一隅から風を切って飛び来たった小刀一本、今度は避(さ)けるまもなく右から三人目に庭に面して立っていた山内外記の咽喉笛へ、ガッと骨を削(けず)る音といっしょにくいこんだ。
 ひいいい……ッ! と、気管の破れから、梢を渡る木枯(こがら)しのような息を高々ともらした外記、二、三秒、眼前の虚空(こくう)を掻き抱くがごとく見えたが、瞬時にしてどうッとふき出た血潮の海に、踏みこらえようとあせって足がすべって、腰の一刀を半ば抜いたなり、思いきりよく庭へのめり落ちると、ばあんと鼻ばしらが飛び石を打ってたちまち悶絶。
 これより先。
 やみに浮かぶ離室に氷柱(つらら)の白花一時に咲ききそって、抜き連れた北国剣士のむれ、なだれをうって縁をとびおり、短剣の来た庭隅へ喚声をあげて殺到していた。
 が!
 ここぞと思うあたりへ行ってみると、無!
 湿(しめ)っぽい夜気が重く地を圧しているばかりで、庭のどこにも、さきほど仙之助が見かけたという子供に似た人影なぞはいっさいないのだ。
 はてナ? と抜刀をさげた一同が、きょろきょろあたりを見まわしていると、近くにあたって、
「うふ、ふふふ……」
 と陰にこもる含みわらい。
「おぬし、いま笑ったか」
「いンや。笑ったのは貴公だろう?」
「違う。誰だ、笑ったのは?」
 がやがやと問いあっているところへ!
 二間と離れない草むらから猿のように黒い物がとび出したかと思うと、長い手が一振するが早いか燐光ふたたび流星のごとく閃尾(せんび)を引いて、またしても飛剣、真ッ先に立った夏目久馬の脇腹をえぐって地にのけぞらした。
「ふはははは!」
 笑いを残して、小さな影はすっ飛んでゆく。
「曲者(くせもの)ッ!」
 と面々、それッとばかりに追おうとするや、室内にとどまっていた左膳、源十郎、軍之助の三人が、口ぐちに叫んで皆を呼びあげた。
 そして、何事か――にわかに離庵(はなれ)全体の雨戸をおろさせ、丹下左膳が、最初に飛来して軍之助の酒盃を割った小剣を畳から抜き取るのを見ると、五寸あまりの鋭利な小柄で、手もとに一ぽんの小縒(こよ)りが結びつけてある。
 みなの目が好奇に光るまえで、左膳、紙縒(より)を戻して大声に読みあげた。
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的(まと)也。
 何者からか殺剣とともに送られた威嚇(いかく)の言!
「フン! きいたふうな真似をしやがる!」
 と吐き出すように苦笑した左膳、不意におちた沈黙の底で、なみいる頭数をかぞえ出したが、いま殺(や)られた二人を加えて月輪組の十七名に、源十郎、与吉で十九、それにじぶんでちょうど二十と最後におのれを指さしたころ。
 猿をつれた猿まわしのような弥生と豆太郎が、遠く鈴川の屋敷をあとに走っていた。
 火事装束一味のまわし者!
 これが、離庵(はなれ)の一同のあたまへ、期せずしてピンと来た考えだった。
 が、それにしてもあの、小児とも野猿ともつかない怪人物の手裏剣業(わざ)には、さすが独剣至妙の刃鬼丹下左膳の膚にさえ粟(あわ)を生ぜしむるにたるものがあった。
 しかし、世にいう手裏剣(しゅりけん)なる刀技は。
 手裏剣神妙剣などといって、一に本朝剣法の精極手字(せいきょくしゅじ)の則(そく)に出ている。手字(しゅじ)とは、空理(くうり)に敵の太刀や槍の位を見きわめて、その空理に事をかなえて我が道具を持ち、打たねども打つこと、突かねども突くわざ、払わねども払うことを、定住(じょうじゅう)空理に入れて働くをいい、敵の太刀筋の字を空に書く心もちだとある。
 こうなると、この手字の手のうちから出る剣だから手裏剣と称するわけで、いかさま剣道の妙諦(みょうたい)、ひどく禅機を帯びてむずかしくなるしだいだが、手裏剣すなわち神妙剣、あえて特に、長さ三、四寸の小剣を手のうちに返して投げ打つ術をのみ手裏剣と呼ぶのではない。手を放さずに使う太刀や槍も同じ道理で、いくら投剣の術ばかり修練したところで要は手字の空理に即してうちこむにある。しかしてその空理の徳は、人の頭に機を知らしめて逸(いち)早くきざすの一事につきる――と言われているだけあって、これによってもわかるとおりに、手裏剣を投げて人をたおし得るにいたるまでには、単なる小手さきの投術のみではいけない。もとよりその熟達はさることながら、技はいわば下々の下で、体得の域にのぼるためには、空理の理にあって手字の法を覚らねばならぬ。つまり行より心ができて剣意の秘奥(ひおう)にかなわなければ、手裏剣を投じて一家をなすことは不可能なのだ。
 しかるに、ただいまのかの投げ手は……?
 腥風(せいふう)一陣まき起こって、とっさに二つの命の灯を吹き消し去った手練でも知れるように、魔か魑魅(ちみ)か、きゃつよほど、腕と腹ふたつながらに完璧の巧者に相違ない。
 身みずから剣心をこころとする刃怪左膳だけに、かれは相手を測(はか)り知ることもまた早かった。
「世の中は広いものだなあ……ウウム! かかる名人がひそんでいたのか」
 と、今さらながら敵味方を越えて、左膳はしんから微笑みたい気にもなるのだったが! 二度、
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的(まと)也。
 という脅迫の文を読み返すと、なんとなく左膳、いずれ近い機会に、おのが左剣とこの手裏剣とちょうちょう火花を散らして相撃つべくさだめられているように思って来て、彼は、ほの暗い行燈のかげに一眼のきらめく顔を、敵意と憎悪に燃えたたして振りあげた。
 この左膳の気を窺知(きち)したものか、何にまれ容易に驚かず、たやすく発動したことのない月輪軍之助、普段のぼうっとした性に似げなく、覚悟に決然と口を結んで左膳を見返す。
 着府と同時に、ほとんど挨拶がわりに左膳から剣渦(けんか)の一伍一什(いちぶしじゅう)を聞かされて、栄三郎方および火事装束と刃を合わす期をたのしみに待っていた月輪門下の同志は、日ならずしてここに早くも怪しき小人のために二友を失い、かすかな不安のうちにも殺気あらたにみなぎるものあって、左膳、源十郎、軍之助の鼎座(ていざ)を中心に、それからただちに深夜の離室に密議の刻が移っていった。
 その結果。
 乾雲を囮(おとり)に坤竜をひきよせるいかなる秘策が生じたことか?……は第二として。
 ここでは、鈴川源十郎である。
 熟議の座にあって、終始黙々と腕をこまぬいていたかれ源十郎は、はたして外見どおりに自余の者とともに乾坤一致の計に脳髄を絞っていたであろうか――というに。
 大いに然らず!
 いまの先、お艶の儀はキッパリと相忘れ申した! などとりっぱな口をたたいたその舌の根も乾かぬうちに、もう彼の全部を支配しているのは、かつて心を離れたことのないわだかまり、あの、過日おさよに約束したまままだ渡してない五十両……お艶を栄三郎から奪うための手切れ金の才覚だった。
 で、しばらくは交際に、神妙に首をひねると見せかけていた源十郎が、今宵の手裏剣にちと心当りがござるから――とうまいことを言って、とめるのもきかずに化物屋敷の自宅を出てゆくと、あとには離室の一同、寒燈(かんとう)のもとになおも議を凝(こ)らしていたが、ただひとり暗い夜道を思案にくれてあてどもなく辿る源十郎の肩には、三更(こう)の露のほかに苦しい金策の荷が、背も折れんばかりに重かったのだった。
 その夜の闇黒は、源十郎のこころだった。
 真っ黒に塗りつぶされたような入江町の往来を、ふところ手に雪駄(せった)履きの源十郎が、形だけは八丁堀めかして、屈託げに顎をうずめてブラリ、ブラリ――さて、こうして人中を逃れて考えをまとめるつもりで出は出てきたものの、この夜更けにどこへいこうの当てがあってのことでもなければ、また何人のところへ持ちこんだところで、もう源十郎にはオイソレと金のはなしに乗ってくれるものもないのだった。
 で、思案投げ首。
 五十両……五十両と心中にうめきながら、河岸(かし)にそって歩いてゆくと、時の鐘楼が夜ぞらに浮かんで、南割下水の津軽越中様お上屋敷の森がひとしお黒ぐろと押し黙って見える。
 どこからか梅の香が漂ってきている。
 早春の夜のそぞろ歩き。
 とは言うものの、五百石旗本の身で五十両の金子(きんす)につまっている源十郎としては、風流心どころかいっさい夢中、とやこうと思い悩みながら、やみくもに歩をひろっているのだった。
 花町の角を曲がって、竪川にかかる三つ目の橋。
 それを渡って徳右衛門町から五間堀へと、糸に引かれるようにフラフラと深川の地へはいっていった。
 抜けるように白いお艶の顔と、山吹いろの小判とがかわるがわる幻(まぼろし)のように眼前にちらつく。
 おさよ婆を死んだ母御にそっくりだなどと敬(うやま)っておくのも、源十郎としては、いわば将を射る先にまず馬を射る戦法――やっとのことでそのおさよを手に入れ、ここに五十両の金さえあれば、それを縁切りにおさよを通しておおぴらに栄三郎からお艶を申し受けることができるところまで漕(こ)ぎつけながら、こうしてその金員の調達にはたと差(さ)しつかえているとは、宝の山に入りつつ手を空しゅうするようなものと、源十郎、思えば思うほどわれながらふがいなく、身内の焼けるような焦燥(しょうそう)の念に駆られざるを得なかった。
 左膳の刀争いなぞ、もはや彼の思慮のいずくにもない。
 あるのはただ、金のみ、五十両! 五十……。
 五百石取り天下のお旗本に、たったそれだけの工面がつかぬというのはまことに不思議なようだが、つねから放蕩無頼(ほうとうぶらい)、知行はすべて前納でとっくにとってしまい、おまけに博奕(わるさ)が嵩(こう)じて八方借金だらけ――見るに手も足も出ない鈴川源十郎着流しに銀拵えの大小をグイとうしろに落として、小謡(こうた)を口に小名木川の橋を過ぎながら、ふと思いついたのが麻布(あざぶ)我善坊(がぜんぼう)の伯父隈井九郎右衛門(くまいくろうえもん)のこと。
 四年まえに五十両借りたきりになっているが、なにしろ隈井の伯父はお広間番の頭、役得が多くしたがって工面がいい。泣きついていったらもう五十ぐらいなんとかしてくれるかも知れぬ。
 そうだ、一つ鉄面皮(てつめんぴ)に出かけてみようか。
 いや! よそう、よそう!
 そういえば去年の盆前にも一度二十両しぼり出しに行ったことがあったっけ。
 あの時、いやにお世辞がよく、たんと御馳走をしてくれたのはいいけれど、そのもてなしの最中に、伯父のやつこんなことを言いやがった――実はナ鈴川、昨年わしの知行が水かぶりで二百石まるつぶれになってしまった。が、まあ、お役料二百俵あるから、それでどうやらこうやら内外の入費をやってのけたけれど、そういう訳でまことに勝手向きが不如意だ。ついてはいつぞや用だてた五十両の金、全額といったら貴公も迷惑だろうから、どうか半金ばかり入れてもらいたい……とこう、真綿で首を締めるように、丁寧に催促されては、そこへこっちから、また二十両拝借ともきりだしかねて、なるほど、それではいずれ近日調達して返済いたします――と、俺は汗をかいてそこそこに逃げ帰って来た。
 ああ先手をうたれてやんわりやられちゃアかなわない。まったく我善坊(がぜんぼう)の伯父御(おじご)と来ちゃア食えない爺いだからなア……。
 と源十郎。
 自分こそ親類じゅうの爪弾(つまはじ)き、大の不実者、人間の屑のように言われているのを棚にあげ――アアこうなることとわかっていたら、ふだんからもうすこし不義理をつつしみ、年始暑寒にも顔を出して、あちこち敷居を低くしておけばよかったと、いま気がついても後のまつり。
 暗剣殺(あんけんさつ)……八方ふさがり。
 しんから途方にくれた鈴川源十郎が、五十両に魂を失って操り人形のように、仙台堀から千鳥橋を渡って永代(えいたい)に近い相川町、お船手組の横丁へでたときだった。
 月のない夜は、うるしのように暗い。
 ふとゆく手にあたって弓張提灯(ゆみはりぢょうちん)――まつ川と小意気な筆あとを灯ににじませて、「オッと! 棟梁(とうりょう)、ここは犬の糞が多うがす」
「なあに大丈夫でえ。踏みアしねえ」
 来かかった町人ていの男ふたり……。
 源十郎、自分で気がつくさきにもう片側の土塀に背をはりつけて、鼠絹長襦袢の袖をピリリと音のしないように破り取るが早いか、すっぽり頭からかぶって即座の覆面……汗ばむ手のひらを衣類にこすり拭(ふ)いてペッ! 大刀の目釘を湿(しめ)していた。

 岡場所(おかばしょ)……といっても。
 江戸の通客粋人が四畳半裡(り)に浅酌低唱(せんしゃくていしょう)する、ここは辰巳(たつみ)の里。
 ふかがわ。
 柳はくらく花は明るきなかに、仲町(なかちょう)、土橋(どばし)、表やぐらあたりにはかなり大きな楼も軒をならべて、くだっては裏やぐら、すそつぎ、直助など――。
 人も知る、後世京伝(きょうでん)先生作仕かけ文庫の世界。そこのやぐら下の置屋まつ川というのに。
 さきごろからお目見得に住みこんで来ていた若い美しい女があったが、容貌といい気性といい申し分ないとあって、この四、五日親元代りの大工伊兵衛と話しあいの末、きょうはいよいよ身売りの相談がなりたち、女は夢八と名乗ってまつ川から出ることになり、大工の伊兵衛は、今夜その金を受け取って新助(しんすけ)という若い者とともにさっきかえっていった。
 こうしてやぐら下のまつ川からあらわれた新顔の羽織衆、夢八。
 この夢八こそは、当り矢のお艶、というよりも、諏訪栄三郎の妻お艶が、ふたたび浮き世の浪に押され揉まれて、慣れぬ左褄(ひだりづま)を取る仮りの名であった。
 伊達(だて)の素足に、意地と張りを立て通す深川名物羽織芸者……とはいえ、この境涯へお艶が身を落とすにいたるまでには、じつはつぎのようないきさつがあったのだった。
 それは。
 弥生と乾坤二刀のためにわれとわが恋ふみにじって栄三郎を離れて来たお艶、泰軒に守られて江戸のちまたをさまよい歩いたのち、泰軒は彼女を、もったいなくも大岡越前様に押しつけて、与吉を追って北国の旅へたってしまった。
 そのあとで越前守忠相は。
 正道に与(くみ)する意と畏友(いゆう)泰軒へのよしみとから、かげながら坤竜丸に味方しているとはいえ、そしてこのお艶は、その坤竜の士諏訪栄三郎の妻だとはわかっていても、家中の者の手まえ、不見不識(みずしらず)の若い女性を屋敷にとめておくわけにはゆかない。
 といって、もとより帰る家なきものを追い出し得る忠相ではなかった。ましてや、これは泰軒から預かっている大切な身柄である。で、このうつくしい荷物にはさすがの南のお奉行さまもいろいろに頭をひねったあげくふと思いついたのが、ちょうどそのとき屋敷の手入れに呼ばせてあった出入りの棟梁、日本橋銀町(しろがねちょう)の大工伊兵衛(いへえ)のことだった。
 伊兵衛棟梁は、もと南町奉行の御用をつとめたこともあって、手先としても、下素者(げすもの)ながら忠相の信任厚い老人だったが、いまでは十手を返上して、もっぱら本業の大工にかえり、大岡家をはじめ出羽様などに出入りして御作事方(おさくじかた)いっさいをうけたまわっているほど、堅いので聞こえた男なので、彼なら安心して一時お艶を又預けにすることができると考えた忠相が、さっそく自身邸内の普請場へ出向いて伊兵衛をものかげへ呼び、その旨を話して依頼すると。
 ほかならぬお奉行様の命に二つ返辞で引き受けた伊兵衛、ただちにお艶をつれて、銀町の自宅へ戻る。
 はしなくも大岡様をおそば近く拝んだうえ、種々御下問にあずかって、雲と竜ふたつ巴(どもえ)の件、丹下左膳、鈴川源十郎一味の行状なぞ己が知るかぎりお答え申しあげたお艶は、わが一身のことまでお耳に入れて恐懼(きょうく)したまま、かくして伊兵衛とともに御前を退出したのだったが――。
 うちに帰ってよくお艶を見なおした伊兵衛は、その世にも稀(まれ)なる美貌におどろくと同時に、遊んでいても差しつかえないがそれではかえって気がつまるばかり、むしろしばらく芸者にでもなったら憂(う)さ晴らしにいいだろう……と、女房とも談合して、幸いやぐら下のまつ川というのが講中や何かで相識(しりあい)だからお艶さんをこっちの娘分にして当分まつ川へ置いてもらったらどうだろう? 決して枕はかせがないという一枚証文なら、べつに身体に瑕(きず)がつくわけでもなし、おもしろおかしい日がつづいたら本人もさぞ気がまぎれてよかろうではないか――こうお艶にすすめてみると、
 気兼ねのないようにされればされるほど、さきが届けば届くにつけ、いづらいのが他人の家。
 朝ゆう狭い肩身のお艶は、いっそここで思いきって芸者にでも出れば、第一、ひろく人に会い、したがって口も多いから、この日ごろ気になってならぬあの弥生さまの行方にもひょっとしたら手掛かりがあろうも知れぬし、自分をねらう本所の殿様へは何よりの防禦(ぼうぎょ)と面(つら)あて……が、ただ風の便りに栄三郎さまがお聞きなされたらどんなに悲しまれることか!
 けれどそれも、愛想づかしの上(うわ)ぬりとはこのうえもない渡りに舟!
 こうした泣き笑いに似た気もちから、大工伊兵衛を親元として、みずから幾何(そこばく)の金でまつ川へ身を売ってきた夢八のお艶であった。
 そうして今宵――。
 そうして今宵……。
 はじめて櫓(やぐら)下のまつ川から出た羽織芸者の夢八。
 身売りの金は、いずれ足を洗う時の用意にもと固い伊兵衛がそのまま預かって、まつ川と字の入った提灯を借り、弱子の新助を連れて河むこうの銀町へ帰って行ったのは、月のない夜の丑満(うしみつ)すぎてからだった。
 さんざ時雨(しぐれ)のさざめきも夜なかまで。
 夢八のお艶が伊兵衛を送ってまつ川の門ぐちへ出たときは、さしも北里のるいを摩(ま)するたつみの不夜城も深い眠りに包まれて、絃歌(げんか)の声もやみ、夜霧とともに暗いしじまがしっとりとあたりをこめていた。
 そとへ出るとすぐ、伊兵衛は夢八を押し戻すようにした。
「いや、お艶さん――、じゃアない、もう夢八姐さんだったね、はははは、ここでたくさん、夜風はぞっとします。風邪(かぜ)を引きこんだりしちゃアいけない。さ、構わずはいっとくんなさい。またね、何かつらいことがあったら遠慮なく言って来なさるがいい。お前さまは大岡様からの大事な預り人で、困って芸者に出る人じゃないから、嫌になったらいつでも廃業(よ)すこった。ここの親方は、さっきの話でも知れるとおり、よっくわかった仁(ひと)だから決してむりなことは言やしないが……マア気のすすまない座敷はドンドン断わって、保養に来たつもりでせいぜいきれいにして遊んでいなせえ。なみの芸者奉公たア違うんだから気を大きく持つんだよ。なアに、クヨクヨするこたアねえやな。またすぐにいい日が廻って来ようってもんだ」
「はい。何からなにまでお世話さまになりまして、お礼の言葉もございません」
「オッと! そんな固ッ苦しいこたアよしにしてもらおう。大岡様の御前様にゃ、わしからよく申しあげておくがね、お艶さん、お前さんなら大丈夫とにらめばこそ、あっしもこんなところへお前さまを預ける気になったんだから、イヤ、そこらに抜かりはあるめえが、世間にア馬鹿が多いからあっしも駄目を押すんだけれど、――いいかね、ひょんな間違いのねえように、これだけはくれぐれも頼みましたよ」
「ハイ。それはもう……」
「そうだろう、そう来(こ)なくちゃアお艶さんじゃアねえ。わしもそれで大きに安心をしました。だがヨ、見れば見るほど美(い)い女ッぷりだ。ア、なんだかまたわしはお前さんを残してゆくのが気になり出した。これでわしももう十年若いとね、およばねえまでも一つ口説(くど)いて見るんだが、ははははは――コラッ! 新公(しんこう)! てめえなんだってそうポカンと口を開けてお艶さんを見ているんだ? ソラ涎(よだれ)が垂れるじゃアねえかッ、この頓痴奇(とんちき)めッ! 汝(うぬ)みてえな野郎がいるから、どこへ行ってもお艶さんが苦労をするんだ。ハハハハハ――お! そりゃそうとお艶さん、この金だがね、こりゃア、言うまでもなくお前さんが身売りした代だからお前さんのものだけれど、縁あってわしが親元となっている以上、一時このままお預りしておきますよ。入要(いりよう)があったらいつでもそう言ってよこしなさい。大岡様のお眼がねに添うあっしだ、ちゃんとこのとおり、出羽様のお下(さ)げ金といっしょに胴巻きへ包んで――」と言うと、そこへ供(とも)の新助が口をはさんで、
「アアそうだ! そういえば、きょうここへまわる前に出羽様へうかがったんでしたね。あそこのお作事でお受け取んなすった小判三十両、あれは御隠居所のお手付けでございますか」
「何を言やがる! こんどの請負は二千三百両。近えうちに前金が千両さがる。それでなけア大工の足留め金を出すことができねえ」
「へえ? 豪勢な御普請ですねえ。じゃアあの三十両がなんのお金で!」
「あれは正月の手間の払い残りがあったのをくだすったんだ。ホラ見ろ、丸にワの字、松平出羽守様の極印(ごくいん)が打ってあらア」
 と、その出羽守様のしるしをうった小判とお艶の身売り金とをいっしょに懐中(ふところ)にして、棟梁伊兵衛はお艶に別れを告げ、新助に提灯を持たせて銀町へ帰っていったのだが。
 しょんぼりと一人、まつ川の戸をくぐって部屋へ通ったお艶。
 変わった姿にともすればもよおす涙が、今夜はひとしお過ぎ来し方ゆく末などへ走って、元相馬藩士和田宗右衛門というれっきとした武士の娘がなんの因果か芸者などに身をおとして! と耐らぬ自嘲の念が沸き起こる一方、考えてみれば、ついこの間まで水茶屋をかせいでいた自分、当り矢のお艶が夢八になったところで大した変りもないではないか。
 ぼうっと眼で追うなつかしい栄三郎さまの面影(おもかげ)。
 そして、鈴川様にいる母さよのこと。
 くずれるように坐ったお艶が、夜さむに気がついて、肩をつぼめながら、もうあの伊兵衛さんと新どんは永代を渡ったころだろう――と思うともなくこころに浮かべていたやさき!
 ドンドンドン! 割れんばかりに表戸をたたいて、
「まつ川さん! お艶さん! タタ大変だアッ! 棟梁が……」
 狂気のような新助の声だ!
 新助は、白痴のように取り乱して口もきけなかった。
 ブルブルと口唇(くちびる)をふるわせて、しきりに何かを刀断するような手真似をするのを、まつ川の家人とお艶が、左右からおさえてききただすとー
 ただ一言!
「棟梁が……棟梁が、そこの横町で殺(や)られたあッ――!」
 それなり新助、ベッタリとまつ川の格子ぐちに崩れて、自分が殺(や)られたようにへなへなになってしまった。
 この死人のような新助をうながして先に立て、お艶の夢八とまつ川の男衆とが宙を飛んで現場へ駈けつける。
 と!
 銀町の大工の棟梁伊兵衛、暗い路の片側に仰向けに倒れて、足を溝へおとしたまま、手に小砂利をつかんで悶絶(もんぜつ)していた。
 場所は、永代橋へ出ようとする深川相川町のうら、お船手組屋敷の横で、昼でも小暗(おぐら)い通行人のまばらなところ。
 傷は一太刀。
 ひだり肩口から乳下へかけてザックリ……下手人はよほど一流に達した武士であることに疑いを入れない。
 やがて仄(ほの)かに白(しら)もうとする寒天のもとに、お艶をはじめ一同は、変わり果てた伊兵衛の屍(むくろ)を路上にかこんで声もなく、なすところを知らなかった――。
 つい先ほど。
「じゃアお艶さん、こんどあっしアお客で来るぜ。ちったあ線香を助けさせてもらおう。ははははは、ま、ごめんなさいよ」
 と、例の渋(しぶ)い声で元気に笑いながら、新助と並んで帰っていった伊兵衛棟梁。
 あの声音がまだ耳の底に残っているのに、今はもうこんな姿になって!……とお艶、この驚愕の真っただなかにあって、うつし世のはかなさといったようなものがしみじみと胸を侵すのだった。
 紛失物(なくなりもの)は? と男衆のひとりが死骸のふところを探ると、案の定、財布がない!
 古渡唐桟(こわたりとうざん)の大財布に、出羽様のお作料の三十両とお艶の身売り金を預かったのとをいっしょに入れて、ズッシリと紐で首からさげていた、その財布が盗まれているのだ。
 人に意趣遺恨(いしゅいこん)をふくまれて暗討ちにあうような伊兵衛棟梁ではなし、これで最初の刹那からみなが考えていたように物盗(ものと)り、金が目当ての兇行ときまった。
 丸にワの字の極印を打った松平出羽守様お払下げの小判三十枚と、お艶がまつ川の夢八と身をおとしたその代とがない!
 兇刃、伊兵衛と知ってか識らずにか、または、かれが暗夜大金を所持して帰路についたことを見定めてのうえか否か――?
 ようよう人心地ついた新助が、わななく口で話すところはこうだ。
「棟梁といっしょに、わたしがまつ川さんで借りた提灯で足もとを照らしながらここまで来るてえと、そこの塀にくっついていたお侍さんがヌウッと出て来て、待てッ! と言いました。灯りで見ると、黒の覆面をして刀の柄に手をかけています。背の高い着流しの方でした。棟梁はああいう人ですから、黙って立ちどまりましたが、あっしが胆をつぶして逃げ出そうとしますと、その侍がヤッ! と叫んで刀を抜こうとする拍子(ひょうし)に、はずみで覆面がぬげ落ちました。はッとして私も顔を見ましたが、暗いのでかおだちはわかりません。が、うす鬢(びん)の小髷(こまげ)、八丁堀のお役人ふうでしたから、あっしが棟梁、お役人といいますと、棟梁はピタリと大地に手を突きました。するとお役人は棟梁の懐中物をしらべて、夜中大金を持ち歩くとは不審だ、明日まで預かっておくから朝奉行所へ出頭しろと、名も役目も言わずにそのまま財布を持って立ち去りそうにしますので、私と棟梁が泥棒(どろぼう)ッ! と大声をあげて騒ぎ立てたとたんに、私は、そのお役人がピカリと引っこ抜いたのを見ました。で、わアッ! と駈け出したとき、うしろに棟梁の魂切る声を聞きましたが、あとは夢中に転がりながら、まつ川さんへ戻ってたたき起こしたんで――」
 新助のいうところはこれだけだ。
 なるほど、持って出た提灯が、なかば焼け、土にまみれ落ちている。
 しかし、近くのどこを捜しても、ぬげた覆面はもとより、何ひとつ手懸りらしいものはみつからなかった。
 上(かみ)役人の斬り奪(と)り強盗……波紋はこれから大きくなっていく。
 新助が走って、日本橋銀町へ知らせると、帰りを案じていた伊兵衛(いへえ)の女房が若い者をつれて駈けつけてくる。
 自身番(じしんばん)から人が来て、ひとまず死骸を引き取っていったあと。
 未明……の雨。
 お艶はその足ですぐ、まつ川の男衆とともに辻駕籠をやとって、外桜田の大岡越前守お屋敷へ、おねむりを妨げるのもかまわずに訴え出た。
 あかつきかけて降りだした時節はずれの寒(さむ)しぐれ――さんざめかして駕籠の屋根を打つその音を、お艶はこの日ごろ耳にする色まちの絃歌、さんざ時雨と聞いてぼんやりしたこころにいっそうの哀愁と痛苦をつのらせるのだった。
 大岡様へ急の御用!――とあって女の身ながらも木戸木戸を許されたお艶、数丁さきで駕籠を捨てて、あとは裾をはさんで裸足になり、湿った土を踏んで、バタバタバタとあわただしくお裏門へかかると、
「この夜ふけに何者だ? なんの用で参った?……おお! 見れば若い女のようだが」
 御門番の士がのぞいてみて不審がお。
「はい。実はいそぎを要しまして、駈込みのおうったえでございます」
 狼狽したお艶が、こう懸命に声を張りあげると、門内の士はいっそう威猛高に、
「黙れ、だまれッ! 駈込みの訴えならば、夜が明けてから御奉行所へ参れッ、南のお役所を存じておろう、数寄屋橋(すきやばし)の袂だ」
 と、今にも、ピシャリ、潜門(くぐり)に小さく開いているのぞき窓をしめてしまいそうな形勢だから、お艶はもう泣かんばかり――。
 番士のほうにも理屈はある。
 強訴(ごうそ)……いわゆる駈込みうったえというのは。
 南町奉行所の前へ行くと、腰かけが並んで願い人相手方というのがズラリ並んでいるが、そのむこうに見えるお呼び出し門、これが開いたとみるや、ドンドン素足でとびこんでゆく。すると門番がいて、差し越し願いは取り上げにならん、帰れといって突き放す。そこをもう一度走りこむ。そうすると今度は、訴え事があるならば差添(さしそ)い同道、書面をもって願い立てろと門番がどなって、二度目に手あらくどんと門外へつき出すのだがそれを押しきり、三度目に御門内にとびこんで、わたくしはこの御門を出るとすぐに殺されてしまいますと大声をあげると、人命に関するとあってはお上でも容易ならずと見て、はじめてここにお取上げになり、荒筵(あらむしろ)のうえに坐らせられて、八丁堀同心見習の若侍が握り飯二つに梅干を添えてお手当として持ってくる。これをすぐさまむさぼるように食べて、大事の訴えに朝飯を食わずに来たという非常ぶりを見せなければならない。そのようすを当番の与力が訴え所の障子を細目に開けて見ていて、これはいかさまよほど重大な願いごとがあるのだろうと、そのおもむきをお奉行さまへ上申して第一の御前調べにひき出される……これが、当時公事の通(つう)とも言われるものは必ず一とおり心得ていた駈込み訴えの順序とコツ。
 言うまでもなく、これはすべて、お役所での法外の法なのだが――。
 が、しかるに今。
 お艶は、お役宅の門をたたいて駈込みの訴えだといったから、相手はここいらにふさわしからぬなまめかしい女のことだし、門番も、奇異の感とともに面倒に思って、雨中ではあり、さっさとひっこんでしまいそうにするので、
「アノ、ちょっと殿様の御存じの者でございますが……」
 お艶が言いかけるが、
「ナニ? 御前がお前見識(みし)りごしだというのか」
「いえ。わたくしではございません。お出入りの大工伊兵衛(いへえ)と申すものが八丁堀お役人ていの追剥(おいは)ぎに斬り殺されまして――」
「ナ、なに? あの伊兵衛が……?」
 とびっくりした御番士、伊兵衛ならば自分もよく知っているから、まだ夜中ではあるが、取り急ぎその旨をおつぎの間にひかえた御用人伊吹大作を通して申しあげると、
 オ、あの老人の大工が? それは! とこれも驚いた大作、かみにはおやすみではあろうが、ひとまずごようすをうかがって、もしお眼覚めならば御聴聞(ごちょうもん)に達しようと、境の襖をそろそろと開けてみてそしてギョッ! としたのだった。
 御就寝(おやすみ)とのみ思っていた越前守忠相、きちんと端座して蒔絵(まきえ)の火鉢に手をかざし、しかもそれをへだてて、ひとりの長髪異風な男が傲然(ごうぜん)と大あぐらをかいているではないか。
 仰天した伊吹大作、宿直(とのい)の際は万一の用に、常に身近に引きつけておく手槍を取るより早く、
「おのれッ! 無礼者ッ!」
 閃光、男の胸部を狙ってツツウ! と走った。

  風流(ふうりゅう)べに絵(え)売(う)り

 突如くり出された槍さきを、グッと胸もとに押し流した奇傑泰軒。
「わッはっはっは、夜中忍んで参ること数十回、いままで誰にもみつからなかったが、今夜こそは見事に現場をおさえられたぞ。アッハッハ」
 と、同時に、あっけにとられた大作に、忠相の声が正面からぶつかっていた。
「控えろッ大作! これなるは余の親友、名は言われんが大奥隠密(おんみつ)の要役を承る大切な御仁(ごじん)じゃ! やにわに真槍をもって突きかけなんとする? 引けい!」
 むかし伊勢の山田でも、忠相は泰軒を千代田の密偵に仕立てて手付きの者のまえをつくろったことがあるが、今また、大奥隠密! という忠相とっさの機知に、徳川家を快しとしない武田残党の流士蒲生泰軒、燭台の灯かげにいささかくすぐったそうな顔をなでていると、何も知らない大作は、思わぬ失策にすっかり恐縮し、カラリと槍を捨ててその場に平伏した。
「いえ、ソノ、いつお越しになったかも存ぜず、それに、あまり変わった服装(なり)をしておいででござりますゆえ、つい、失礼ながら怪しきやつと……」
「うむ……なんじの寝ぼけ眼に映じたのであろう?」
 忠相も、笑いをこらえている。
「はッ」
「かわった服装(なり)[#「服装(なり)」は底本では「服装(なり)」]と申すが、それもお役柄、隠密なればこそじゃ。その方とても時と場合によっては、探索の都合上、ずいぶんと変わった扮装(なり)をいたすのであろうがの」
「はっ。まことにどうも」
「一応声をかけて然るべきに、余と対談中の方へ槍を向けるとは粗忽(そこつ)なやつじゃ」
「なにとぞ平に御容赦……お客さまへも御前からおとりなしのほどを」
「越州(えっしゅう)どの、わかればもうそれでよいではござらぬか。ただ以後はわしの顔を覚えておいて、御門許しを願いたいものじゃて」
 と泰軒は、うまくバツを合わせながらおかしいのをおさえた。
「今後気をつけるがよい」
 ポツリと言った忠相、
「何か用か。聞こう」
「は」と始めてお艶の訴えを思い出した大作、ズズッと膝を進めて、
「御前(ごぜん)、あの伊兵衛めが先刻辻強盗に斬られて落命いたしたげにござります」
「何? 伊兵衛と申すと大工の伊兵衛か――して、いかにしてそう早く其方(そち)の耳に達したのか。訴人が参ったナ?」
「御意(ぎょい)にござりまする」
「女子(おなご)であろう?」
「は、いかにも女子。なれどどうして御前には……」
「越州殿は千里見通しの神眼じゃ。たえずかたわらにあって御存じないとみえるの」
 泰軒が口を挟む。大作はしんから低頭した。
「恐れ入りましてござりまする」
 いたずら気にニッコリした忠相。
「呼べ」
「は?」
「その女子をこれへ呼び入れるがよい」
「ハッ」
 立とうとする大作を、忠相の言葉がとめていた。
「訴えて参った女というのを、わしが一つ当てて見せようか。まず年若、稀(ま)れなる美女、世に申す羽織、深川の芸妓ふうのつくりであろうがな?」
「実はその、手前もまだ引見いたしませぬが、取次ぎの者の口ではどうもそのようで――」
「それに相違ない。連れて参れ」
 いよいよ恐懼(きょうく)した大作が、お艶を呼びに急ぎさがってゆくと、忠相と泰軒、顔を見合ってクスリと笑った。
 泰軒は、血筆帳の旅から帰府してまもなく、今夜また例によって庭からはいりこんで、相馬からの路を擁(よう)して月輪組を斬殺した次第を物語り、忠相は、泰軒の留守にお艶の身柄を出入りの大工棟梁伊兵衛なる者に預け、伊兵衛は又あずけにお艶を深川の置屋まつ川へ自分の娘として一枚証文の芸者に入れたことを泰軒に話しているところだった。
 大岡様へ申しあげる前に伊兵衛は不慮(ふりょ)のやいばにたおれたのに、忠相はいかにしてお艶のその後の消息を詳知(しょうち)しているのか? 泰軒に頼まれた大事な人妻お艶である女ひとりの動き、いわば奉行にとっては瑣事(さじ)とはいえ、かれはお艶を伊兵衛に渡したのちも決しておろそかにはしなかった。
 万事にとどく大岡さま……。
 小者を派してそれとなく伊兵衛方を探らせると、遊んでいては気がめいるから型ばかりに芸者にでも出して月日を早く送らせようとしているという。宴座に侍るだけならそれもよかろう。堅人の伊兵衛のすることだから間違いはあるまいと、忠相は最初から知って見ぬふりをしているのだった。
 いまそのことを泰軒へ伝えている時にこの訴え――。
 黙っていると、かすかに雨の音が聞こえる。
「暁雨(ぎょうう)」
 何か詩の一節を忠相が口ずさみかけた拍子に、パッと敷居に明るい花が咲いたように、お艶がうずくまった。

「お艶どのか」
「お! 泰軒先生もここに!」
 おどろくお艶へ、忠相はしずかに顔を向けて、
「雨らしいの」
 と、淡々として他のことをいう。
「たいへんでございます。伊兵衛さまが追剥(おいはぎ)に殺されましてございます!」
「うむ。いま聞いた」
 泰軒は平然と脇息(きょうそく)にもたれて、
「いつのことかな、それは」
「っい先ほど……」
「場所は?」
「はい。深川の相川町、こちらから参りますと、永代を渡ってすぐの、お船手組お組やしきの裏手、さびしい往来でござりました」
「ふうむ。それで奪(と)られた物は?」
「はい、アノ」と恥ずかしそうなお艶、「わたくしが身を売りましたお金と、それからなんでも出羽様からとかいただいた小判が三十とやら――」
「ほほう!」
 眼をつぶって聞いていた越前守忠相、急に何ごとか思い当たったらしく、呵々(かか)と大笑した。
「出羽殿の金とか? すりゃ極印があるはず。丸にワの字じゃ。すぐ出るわい。たどって元を突きとめればわけなく挙(あ)がるであろう。江戸内外の両替屋に手まわしして触帳(ふれちょう)に記入させておく。よろしい!……つぎに下手人じゃが、これは誰も見た者もないであろうナ?」
「いえ、ところが……」
 お艶はこの大事に、えらいお奉行さまの前をも忘れて、自分ながら驚くほどスラスラと言葉が出るのだった。
「ふむ。ところが……と言うと、何者か眼証人(めしょうにん)でもあると申すか」
「はい、伊兵衛の供(とも)をしておりました新どんが――」
「コレコレ、新どんとは何者だ?」
「新助と申しましてお弟子の大工でございます。その新助さんがいいますには、なんでも相手はお役人だったそうでございますが……」
「何を申す!」
 突然、威儀を正した忠相、いくぶん叱咤(しった)気味で声を励ました。
「上役人とな?」
「はい」
「黙れッ!」
「――――」
「不肖といえどもこの越前が奉行を勤めおるに、その下に、追い落としを働くがごとき不所存者はおらぬぞ! たしかにその者、じぶんは役人であると申したというか?」
「いえ、あの、決して初めからそう申したわけではございませんそうで、どうもお役人らしかったし、あとからその人もそう言ったという新どんのはなしでございます」
「偽役人(にせやくにん)であろう?」
 泰軒がこう横あいから口を出すと、忠相はジロリとそのほうを見やって、
「これは、貴公にも似合わぬ。最初からおれは上役人だが……と自ら名乗ってこそ故意に役人をかたったものとりっぱに言い得るが、今も聞いたとおり、初手(しょて)は黙っておったとすれば――? 越州察するところ、こりゃ単に役人にまぎらわしき風体のものであろう。ううむ、覆面でもとれるか、不覚に顔を照らし見られでもして、幸いおのれが平常より役人に似ておることを心得ているゆえ、また伊兵衛とその新助とやらが確かに役人と思いこみおるようすに、その場にいたってにわかに役人風を吹かせたものに相違あるまい」
「あッ!」かえってお艶のほうが大岡様から知らされるくらいで、
「おっしゃるとおりでございます。申し忘れましたが、初めは覆面をしておりましたそうで、それが抜け落ちて顔を見ますと、どうやらお役人……」
「そうであろう。曲者は、覆面で足りれば役人顔はしとうなかったのじゃ。それが、顔を見られて役人とふまれたればこそ、自ら役人に似ておることを利用したのであろうと思われる。フウム、いよいよ常から役人らしき風俗をいたしておるものの所業ときまった! めあては金子! ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り奪(と)り沙汰――誰じゃナ? 蒲生心当りはないか」
 泰軒を顧みた忠相の眼(まな)じりに、こまかい皺がにこやかにきざまれている。
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
 首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
 と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も直参(じきさん)の士、確たる実証の挙がるまでは、姓名を出すのも気の毒じゃ、万事、貴様とわしの胸に、な、わかっておる、わかっておる!」
 狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
 春とは言え。
 まだ膚(はだ)さむい早朝……。
 雨後の庭木に露の玉が旭(あさひ)に光って、さわやかな宙空に、しんしんと伸びる草の香が流れていた。
 ぼちゃりと池に水音がはねると、緋鯉(ひごい)の尾が躍って見えた。雨戸を繰(く)らないお屋敷のまわり縁に夜の名残りがたゆたって、むこうの石燈籠(いしどうろう)のあいだを、両手をうしろにまわし庭下駄を召して、煙のようにすがすがしいうす紫の明気をふかく呑吐(どんと)しながら、いったり来たりしている忠相のすがたを小さく浮かび出している。
 日例のあさの散策。
 遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
 射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
 が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
 大工伊兵衛の横死――。
 それがかれの脳裡(のうり)を去らない。
 一町人が邪剣を浴びて凶死(きょうし)した……それだけのことではすまされないものが、なんとなく奉行忠相の胸にこびりついて離れないのである。
 ――おそかった。
 ――手ぬかりだった。
 忠相はこうしみじみと思う。
 いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く手配(てくばり)をして引っくくってしまわなかったのが、返すがえすもわしの落ち度であった。
 申しわけない!
 さまざまのよからぬ風情(ふうじょう)も聞き、家事不取締りの条も数々あって、それらをもってしても容易におさえることはできたのに!
 事実、博奕(ばくち)の罪科のみでも彼奴(きゃつ)をひったて得たではないか。
 それなのに自分は――まだまだ、もう少し現に先方から法に触れてくるまで……手をこまぬいて待っているうちに、暴状ついに無辜(むこ)の行人におよんで、あったら好爺を刀下の鬼と化さしてしまった。伊兵衛にすまぬ!
 この忠相が、手を下さずして殺したようなものとも、いえばいえようも知れぬ。
 アアア、手おちであった……とおのれを責めるにやぶさかならぬ忠相が、ひとり心の隅々を厳正のひかりに照査して、すこしなりとも陰影を投げるわだかまりに対しては、どこまでも自らを叱って法道のまえに頭を垂れ、悔いおののいていると、
 この、粛然(しゅくぜん)襟を正すべき名奉行の貴い悶(もだ)えもしらずに、忠相の足もとに嬉々(きき)としてたわむれる愛犬の黒犬。
「黒か、わしは馬鹿じゃったよ。大馬鹿じゃったよ。おかげで人ひとり刀の錆(さび)にして果てた。なア、そうではないか」
 黒は、喜ばしげに振り仰いで……ワン!
「おお、そちもそう思うか」
 わん! ウアン、ウウウわん!
「はははは、おれをののしるか? うん、もっともっと罵倒するがよい!――奉行いたずらに賢人ぶるにおいては……ううむ! いや、たしかにわしの過失であった」
 と忠相は、ただ一工人の死がそれほど心を悩まし、さかのぼってまで彼の責任をたたかずにはおかないのか――? 傍で見る眼もいたいたしいほど苦しんでいるのだ。
 ほとんど瑕(きず)とはいえないほどの微小な瑕ですらも、それがおのれのうちにあるごとく感じられる以上、どこまでも自己を追究して、打ち返し築きなおさずにはいられない大岡忠相であった。
 いささかも自分と、じぶんの職責をゆるがせにできない冷刃のような判別、それをいま忠相はわれとわが身に加えているのだった。
 市井匹夫(しせいひっぷ)のいのちにかくまでも思いわずらう名奉行の誠心……これこそは人間至美のこころのすがたであると言わねばなるまい。
 忠相の忠相、越前の越前たるゆえん、またこれをおいて他になかった。
「これヨ黒! 貴様に弁当を分けてやりおった伊兵衛の仇は、この忠相には、すでに鏡にかけて見るがごとく知れておる。安堵せい。近く白洲に捕縄をまわして見せるが、まず、丸にワの字の極印つき小判が出るまでは当分沈伏(ちんぷく)沈伏……すべては、その出羽の小判が口をきくであろうからのう――」
 と忠相、いま黒犬が走り去ったのも気がつかず、しきりに話しかけているが、何におびえてか黒は、池のかなたの植えこみに駈け入って、火のつくように吠え立てる声。
 洗面のしたくでもできてお迎えに来たらしく、はるか庭のむこうを若い侍女が近づいてくるのが見える。
 忠相は、侍女の足労をはぶくために、もうさっさとこっちから歩き出していた。

「あの、先生……」
 朝日の影が障子に躍りはじめると同時に、いま、大岡様のお座敷を出て来たお艶、泰軒のうしろについて、二人がお庭の池に沿うて植えこみの細道に来た時、こうためらいがちに声をかけたのだった。
 例によって貧乏徳利(びんぼうどくり)を片手に、泰軒は歩調をゆるめて振りかえる。
 お艶は立ちどまった。
「先生!」
「なんじゃな?」
答えながら、かぐわしい朝の日光のなかに初めて、お艶のすがたを見た泰軒居士、一歩さがってその全身を見あげ見おろし、今さらのように驚いている。
 そこに、泰軒の眼に映っているのは、あさくさ瓦町の陋屋(ろうおく)にぐるぐる巻きでつっかぶっていたお艶ではなく江戸でも粋と意気の本場、辰巳の里は櫓下の夢八姐さん……夜の室内で見た時よりは一段と立ちまさって、すっきりした項(うなじ)から肩の線、白い顔にパッチリと整った眼鼻立ち、なるほど、よく見ればお艶には相違ないが、髪かたちから化粧、衣装着つけや身のこなしまで、彼女はもう五分の隙もない深川羽織衆になりすまして、これでは、識(し)った者で往来ですれ違ってもとても気がつくまいと思われるほど。
 夜来のおどろきと気づかいに疲れたのか――後(おく)れ毛が二、三本、ほの蒼い頬に垂れかかって、紅の褪(あ)せたくちびるも、後朝(きぬぎぬ)のわかれを思わせてなまめかしい。
 大きな眼が、泰軒の凝視を受けて遣り場もなく、こころもちうるんでいた。
 一雨ごとのあたたかさ。
 その雨後のしずくに耐え得で悩む木蘭(もくらん)の花。
 そういった可憐なものが、物思わしげに淋しい、なよなよと立つお艶のもの腰に、蔦(つた)かずらのようにまつわりついている。
 この嬌美(きょうび)にうたれた泰軒、何か珍奇なものを眺めるように、こと改めてしげしげと見つめながら、思うのだった。
 ――芸者になった……のか!
 これもよくよく考えあぐみ、身の振り方を思案しぬいたすえであろうが、芸者に! とはまた思いきったものだ。
 それも、源十郎の爪牙から自らを守るため。
 ひとつにはいっそう栄三郎をあきれさせ、あきらめさせるあいそづかしの策であろう――ウウム、いっそおもしろかろう! が、ただ……。
 つとお艶は顔を上げた。
 明眸(めいぼう)が露に濡れている。
「先生! つ、艶は、こんな風態(なり)[#「風態(なり)」は底本では「風態(なり)」]になりましてございます。お恥ずかしい――」
「いや! はずるどころか、美しくて結構じゃ、うう、これは皮肉ではない。今も、しんからそう思って見惚れていた、ハハハハ」
「お口のわるい……」
「しかしナ、どこで何をしようと、あんたは栄三郎どのの妻じゃ。それを忘れんように、栄三郎殿になり代わって泰軒がこのとおり頼みますぞ。稼業とはいえ、万一おかしなことでもあったら、仮りに栄三郎殿が許しても、この泰軒が承知せんからそのつもりでいてもらいたい」
「アレ先生、そんなことは、おっしゃるまでもなく艶は心得ております」
「それさえわかっておれば、わしも何も言うことはないが――」
 と急に声を低めた泰軒、
「お艶どの、何か言伝(ことづけ)はないかナ?」
「はい」
 お艶はもう哭(な)きくずれんばかり……。
「アノ、わたくしはいつまでも辛抱いたしますゆえ、どうぞ栄三郎様のほうを――」
「はははははは、お艶どの、このわしを泣かしてくれるな、はははは」
 泰軒は、むりに笑って顔をそむけた。
 その耳へ、何ごとかを訴えるがごときお艶のつぶやきが、低く断続して聞こえてくる。
 意味の聴きとれない泰軒、腰をかがめてお艶に顔をよせ、しばらくは、なにかしきりにうなずきながら聞いていたが、
 やがて、鬚だらけの顔がにっこりしたかと思うと、泰軒先生、喜色満面のていでそりかえった。
「うむ! そうか、そうか。やアめでたい! そりゃア何より……ワッハッハッハ! 早う栄三郎どのにしらせてやりたいが、今はそうもなるまい。しかし、でかしたぞ、お艶どの! あっぱれ、あっぱれ」
 そして、なぜか火のようにあかくなっているお艶をのぞきこんで、泰軒先生ひとりで大はしゃぎだ。
「男か女か」
「まあ先生、そんなことが――」
 お艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
 真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
 この享保(きょうほう)の初年に。
 筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
 同時に、金泥(きんでい)を置き墨のうえに膠(にかわ)を塗って光沢を出したものを漆絵(うるしえ)と呼び、べに絵とともに愛玩されたが、明和二年にいたって、江戸の版木師(はんぎし)金六という者、唐(から)の色刷りを模して版木に見当をつけることを工夫し、はじめて四度刷り五度ずりの彩色版画を作ったところが、時人こぞって賞讃し、その美なること錦に似ているというのでここに錦絵の名を負わすようになった――本朝版画のすすんだ道とにしき絵の濫觴(らんしょう)だが、これは後のこと。
 享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工奥村政信(おくむらまさのぶ)。
 で、いま。
 その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
 あたまは野郎(やろう)頭。
 京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した留袖(とめそで)。
 それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
 風流紅彩色(べにいろ)姿絵と横に大書した木箱を背負い、箱のうしろに商売物の絵をつるし、手に持った棒にもべに絵がたくさんさがっている。
 そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、庇(ひさし)まで備わり、三浦と染め出した暖簾(のれん)、横手の壁には吉原と書いた青楼(おちゃや)の雛形(ひながた)に載せてかついでいようという、いかにも女之助と呼びたい、みずからそのべに絵中の一人物――。
 後年はおもに女形の卵子や、芳町(よしちょう)辺で妙な稼業をしたものの一手の商売ときまり、またその時分すでにそうした気風も幾分かきざしていたけれど、それでも享保時代にはまだ、副業の男娼よりは、べに絵売りはただ新しく世に出て珍しい彩色絵(いろえ)を売り歩く単なる絵の行商人にすぎなかった。
 とはいっても。
 どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
 それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の優男(やさおとこ)が、風流紅彩色姿絵(ふうりゅうべにいろすがたえ)そのままの衣裳を凝(こ)らして、ぞろりぞろりと町を練り歩いたもので、決して五尺の男子が、自らいさぎよしとする職業ではなかった。
 世は泰平に倦(う)み、人は安逸に眠って、さてこそこんな男おんなみたいな商売もあらわれたわけだろうが、この風流べに絵売り、そのころボツボツ出はじめた当座で、だいぶんそこここの往来で見かけるのだった……。
 雨あがりの朝。
 外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす靄(もや)のようによどむ町々を罩(こ)めていた。
 お江戸の空は紺碧(こんぺき)だった。
 一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の普化僧(ふけそう)がぬかるみをまたいで来ると、槍をかついだ奴(やっこ)がむこうを横ぎる。町家では丁稚(でっち)が土間を掃(は)いていたり、娘が井戸水を汲んでいるのが見えたり、はたきの音、味噌汁の香――。
 親しい心のわく朝の街である。
 途中何やかやと話し合いながら呉服橋(ごふくばし)から蔵屋敷(くらやしき)を通って日本橋へ出た泰軒とお艶。
 こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
 その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには他(よそ)ながら栄三郎どのに会う機(おり)もあるであろうから、気を大きく持って……お! それから、何よりも身体を大切に、あんたひとりの身体ではないで、むりをせんようにナ」
 と、じぶんの言うことだけいったかと思うと飄々然(ひょうひょうぜん)、一升徳利とともに橋を渡って通行人のあいだに消えてしまった。
 まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて茅場町(かやばちょう)からこんにゃく島、一の橋をわたって伊兵衛の家へといそいで来た。
 いまは、侠(いき)なつくりの夢八姐さん。
 お座敷帰りとも見える姿で、ちょうど忌中(きちゅう)の札をかけて大混雑中の棟梁方の格子戸をくぐろうとした時だ。
 ちらとかなたの町を見やったお艶片足を土間に思わずハッといすくんだのだった。
 べに絵売りの若い男がひとり、朝風に絵紙をはためかして歩いてゆく……江戸街上なごやかな風景。

  影芝居(かげしばい)

「栄三郎どのか、ちょうどよいところへ戻られたナ。あがらんうちに、その足で小豆(あずき)をすこし買(こ)うて来てもらいたい」
 野太い泰軒の声が、まっくらな家の奥からぶつけるようにひびいてくる。
「あずき……」
 と思わずきき返して、いま帰って来た栄三郎は、背にした荷を敷居ぎわにおろした。
 浮き世のうら――とでもいいたい瓦町の露地裏、諏訪(すわ)栄三郎が佗び住居。
 お艶(つや)と泰軒が大岡様のもとにかち合って、そして日本橋で別れた、その日の夕刻である。
 今夜もまた灯油(あぶら)が切れたのか、もうすっかり暗くなっているのにまだ灯もつけずに、泰軒は例によって万年床から頭だけもたげているものとみえて、何だか低いところから声がしている。
 ……小豆をすこし買ってこいというのだ。栄三郎は、手探りでべに絵の木箱をおろすと、もう一度のぞきこんでたずねてみた。
「小豆を――? もとめて参るはいとやすいが、なんのための小豆でござる?」
 すると泰軒、暗いなかでクックッ笑い出した。
「アハハハ、知れたこと、赤飯をたくのだ」
「赤飯を? 何をまた思い出されて……しかし、蒸籠(せいろう)もなく、赤飯はむりでござろう?」
「なに、赤飯と申したところで強飯(こわめし)ではない。ただの赤いめしじゃ。小豆を入れてナ」
「ほう!」
 と軽く驚いた土間の栄三郎と家の中の泰軒とのあいだに、闇黒(やみ)を通して問答がつづいてゆく。
「ホホウ! 泰軒どのが小豆飯を御所望とは、何かお心祝いの儀でもござってか――?」
「さればサ、ほんのわし個人の悦びごとを思い出しましてな、あんたとともに赤飯を祝いとうなったのじゃ。お嫌いでなければつきあっていただきたい。きょうのべに絵の売上金のなかから小豆少量、奮発(ふんぱつ)めされ! 奮発めされ! わっはっはっは」
「いやどうも、細い儲けを割くのは苦しゅうござるが、ほかならぬ先生の御無心……」
 と栄三郎も、戯談(じょうだん)めかして迷惑らしい口ぶり、
「殊には、先生のお祝い事とあれば拙者にとってもよろこびのはず。承知いたした! 小豆をすこし、栄三郎、今宵は特別をもってりっぱに奢(おご)りましょうぞ」
 笑いながら、風流べに絵売りの扮装(つくり)のまま、栄三郎は小銭の袋を手にしておもての往来へ出ていった……同居している泰軒のために小豆を買いに。
 泰軒のために? ではない。
 今朝ほどお艶から、彼女が、まだ生まれ出ない栄三郎の子を感じていると聞かされた泰軒、こうしてないしょに、ただそれとなく赤の御飯を炊いて栄三郎に前祝いをさせる気なのであろう――。
 ガタピシと溝板を鳴らして、栄三郎の跫音が遠ざかってゆくと、泰軒居士、いたずららしい笑みとともにむっくり起きあがった。
「うむ! とうとう小豆を買いに参ったな。話せばどんなによろこぶかも知れぬが、今はまだ心からお艶どのを憎み恨んでいる最中、そのためかえって苦しみを増すこともあろうから、こりゃやっぱり、黙って、何事も知らせず祝わせてやるとしよう。どりゃ、そうと決まれば、こっちもそろそろ受持ちの飯炊きにとりかかろうかい」
 ひとりごちながら、火打ちを切って手近の行燈に灯を入れる。
 その黄暗い光に、ぼうッと照らし出された裏長屋の男世帯……。
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