丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

 相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖(こわ)さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀(いぎ)をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣(きぬ)ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来(こ)い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一瞥(べつ)をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内(なか)へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交(かた)みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるありがたいお言葉!
 なんというお情けぶかい!
 お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上御辞退(ごじたい)申すはかえって非礼と、お艶は、はいとお応(こた)えするのも口のうちに、そこは女、手早く裾の土を払い髪をなおして、おそるおそるあがりこむと、お部屋のすみにべたりと手を突いた。
 お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
 と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに悠然(ゆうぜん)と泰軒へ向きなおって、他意なくほほえんでいる。
「わっはっはッ!」
 何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
 しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って床(とこ)の間(ま)から碁盤(ごばん)をおろして来た。
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を小癪(こしゃく)な! 殿様の碁の相手だけはまっぴらだが、貴公なら友だちずくに組(くみ)しやすい。来い!」
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
 なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
 その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
 驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
 パチリ!……と盤面にのった二つの石。
 ひとつは白、他は黒。
 これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
 うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
 が、忠相は平々然……。
 しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、夢語(むご)のごとくにつづけるのだった。
 あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
 この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
 凝(こ)りかたまったようなしずけさの底に、盤をへだてた泰軒と忠相――。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
 と忠相、もの憂(う)そうに手を出してふたつの石を盤の隅へ隅へ遠ざけてみせると。
 黙ったまま碁笥(ごけ)をとった泰軒は、やにわにそれを荒々しく振り立てた。無数の石の触れ合う音が騒然と部屋に流れる。
「ふうむ」と忠相は瞑目(めいもく)して、「いわば擾乱(じょうらん)、災禍(さいか)――じゃな。して、こうなればどうだ?」
 いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
 泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ! 鎮定礼和(ちんていらいわ)の相か。そうか。おもしろい」
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
 と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって哄笑(こうしょう)した。
「碁(ご)だ! 碁だ! 泰軒、碁のはなし、碁の話」
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
 と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
 ふたたび無言の行(ぎょう)――。
 いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように畏友(いゆう)大岡忠相の博知周到(はくちしゅうとう)に驚異と敬服の感をあらたにしておのずから頭のさがるのを禁じ得ないのだった。
 古今東西を通じて判官の職にありし者、挙(あ)げて数うべからずといえども、八代吉宗の信を一身にあつめて、今この江戸南町奉行の重位を占めている忠相にまさる人物才幹はまたとなかったであろう……人を観るには人を要す。これ蒲生泰軒は切実にこう感じて、こころの底からなる恭敬の念にうたれたのだ。その畏怖の情に包まれて、さすがの放胆泰軒居士も、ついぞなく、いま身うごきがとれずにいる不動金縛(ふどうかなしば)り。
 思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
 にこやかに温容(おんよう)をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来(こ)い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
 と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰(さた)という文字は、沙(すな)に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候(そうろう)。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿(せんさく)すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介(やっかい)なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
 蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。

 碁盤(ごばん)をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭(かしら)をもする者ども、軍法だてをして床几(しょうぎ)に腰を掛け、采配(さいはい)を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍(いくさ)に勝たるるものと心得るは大なる了簡(りょうけん)違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時(わじ)における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部(ぼんのくぼ)を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美(さいび)はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
 ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸(いっ)する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷(くちゅう)もその間にあるよ。この二石……」
 手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
 泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
 と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
 いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
 と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
 にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住(てんがいむじゅう)の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
 と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有(ゆう)にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧(か)けとる、ハッハッハ右が欠(か)ける」
「お! そうだったな。眼糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑うのたぐいか――しからば、これはどうだ?」
 忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
 迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
 奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒(よ)って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々(きょきょじつじつ)の烏鷺談議(うろだんぎ)がくりひろげられてゆくのだった。
 泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。

 昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
 丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字(もじ)が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
 ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆袈裟(けさ)がけ辻斬り左腕の下手人だ。
 ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
 これに端緒(たんちょ)を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審(しら)べあがっているのだった。
 が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請(こぶしん)入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼昼行(ちゅうこう)ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲(しらす)に名を出さねばならぬかも知れぬ。
 それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭青山備前守(あおやまびぜんのかみ)というものがついていて、鼠賊(そぞく)をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)なるれっきとした外様(とざま)さまの思召(おぼしめ)しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
 で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類(しゅうるい)のうえに、大鉄槌(てっつい)をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私(こうし)板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
 ちょうどその時、
 きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
 そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在(ありか)がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
 おおよそかくのごとく。
 その強記(きょうき)はいかなる市井(しせい)の瑣事(さじ)にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪(おなみ)女浪(めなみ)ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
 南町奉行大岡越前守忠相様。
 明微洞察(めいびどうさつ)神のごとく、世態人情の酸(す)いも甘(あま)いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議(しんぺんふかしぎ)な探索眼(たんさくがん)には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
 と!
 ふと蒲生泰軒のあたまに閃(ひら)めいたのは、いつか本所の化物屋敷に自分と栄三郎が斬りこみをかけた時突如として現れた、あの始終を知るらしい五梃駕籠(かご)のことであった。
 風のような火事装束(しょうぞく)の五人の武士!
 その正体は今もってわからないが、あのなかの頭(かしら)だった老人! と思い当たると、なぜか彼は、忠相がすべてを察知しているわけが読めたような気がして、その時まで碁盤をにらんでいた顔をあげると泰軒、ニッと忠相に笑いかけた。
 しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
 と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしいて」
 しずかにつぶやいた忠相、盤上の黒の一石を手にして、つうとそばのほうへそらしながら、
「さあ、泰軒、かようにひとつが助勢を求めて走っておるぞ。どうじゃ、どうじゃ、どうするつもりじゃ? これに対する処置は」
「ナニ! 助勢を? 誰がどこへ……?」と思わず泰軒、碁(ご)をそっちのけに乗りだすと、忠相は手の石で盤をパチパチたたきながら、
「泰軒! 碁だ、碁だ――が、サア、まず求援の使いの向かう方角は……」
「うむ。その方角は……」
「さればさ――さしずめ、北のかたかな」
 こう言い放っておいて、忠相はジロリと泰軒を見やった。
 一石駆けぬけて援軍を求めに走りつつある――しかも、その方角が北のかた!
 という忠相の言葉に、蒲生泰軒はキッとなって盤をにらんだ。
 いかさま、ひとつの黒い石が、忠相の手によって黒団を離れ、碁盤の隅に孤独の旅をいそぎつつあるように見える。
 これこそ、奥州中村相馬藩の城下へ、左膳のために剣客のむれを呼びに草まくらの数を重ねつつあるつづみの与吉のすがたではなかろうか。
「サ! どうする? どうする気じゃ?」
 忠相はこううながすように言って泰軒を見た。
 じっと石の配置に眼をすえたまま、泰軒は動かない。そのかげに身をすくませているお艶も、いつしかこの碁戦の底にひそむ真剣なかけひきに釣りこまれて、われを忘れて、横のほうからのぞきながら、見入り聞き入りしているのだった。
 外見はあくまでも閑々(かんかん)たる風流烏鷺(うろ)のたたかい……。
 陽のおもてに雲がかかったのであろう、障子いっぱいに射していた日光がつうとかげると、清冽(せいれつ)な岩間水に似たうそ寒さが部屋をこめて、お艶は身震いに肩をすぼめた。
「泰軒、下手(へた)の考えなんとかと申すぞ。なあ、この石をいかがいたすつもりなのだ?」
 かすかな揶揄(やゆ)をふくんだ越前守の声。
 が、泰軒は答えない。大きな膝が貧乏ゆるぎをしているのは、まさに沈思黙考というところらしい。
 すると忠相は、やにわにひとつかみの黒い石を取り出して、援軍をもとめに行きつつあると言った石のまわりに並べた。
「見るがよい。この通り首尾よく同勢を集めて、今やもとへ戻ろうとしておる。この対策はどうじゃな?」
「ふむ! 仔細(しさい)ないわ。こういたしてくれる」
 言ったかと思うと泰軒、手もとの白石(しろ)のひとつをとって、パチリとその新たなる黒の集団の真ん中へ入れた。
 忠相は首をひねって、
「ははあ。そう出向いていくか」
「さよう。かくして帰路の途中、せいぜい数を殺(そ)ぐのじゃな。まず、ひとつ二つと機会あるごとにしとめて――」
 といいながら、泰軒は、いま白をおいた周囲から黒石の二、三を取ってのける。
「かようにいたして、帰るまでにはもとの木阿弥(もくあみ)にしてやろうと思う」
「ウム! それがよい!」
 と忠相は膝を打って、
「急ぎ後を追って、せっかくの助軍を斬りくずすことじゃ……何しろ、この援兵を敵の本城へ入れてはならぬ。俗にも申す多数に無勢、勝ちいくさが負けになろうも知れぬからな。が、はたしてそううまく参ろうかの?」
「何がだ?」
「ただいまの、帰路を擁(よう)して徐々に援助の隊を屠(ほふ)るという戦法――」
「それはこの石の手腕(うで)ひとつにある。この石! この石! この、おぬしのいわゆる薄よごれた石じゃ!」
 こう豁然(かつぜん)と胸をたたいて泰軒が笑うと、忠相もおだやかな微笑をほころばせながら、
「たのもしい石じゃて」
 とチラと泰軒の顔を見やったが、やがて、
「北……と申せば道は一本みち。ただちに発足すればわけなく追いつくであろう」
「北の旅は荒谷行(こうやこう)――血を流すにはもってこいじゃ」
「が、大事な石、ぬかりはあるまいが気をつけてくれ」
「心配無用!」
 言い放った泰軒、助けの石と称する黒のかたまりをすっかりわが手に納めてしまうと、いきなり二つの白石を摘まみあげるが早いか、盤の隅の黒団へ突き入れて、同時にすべてをさらいおとした。
 盤上に残った黒白ふたつの石、それが中央にピッタリ並んでいる。
「もうよい! わかった」
 と忠相は、ゆったりとふところ手をして、
「わしのほうの仕事はそのうえ……あとは必ずわしが引き受けるから、それまでにおぬしが力を貸して、この二石をひとつにしてくれ」
 ふっと碁談がやむと、白っぽい午さがりのしずけさのなかで、どこか庭のむこうで愛犬の黒がなくのが聞こえた。
 いかにして忠相は、いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢を掌(たなごころ)を指すように知っているのか、それがふしぎと言えばふしぎだったが、忠相の今の口ぶりでは、誰か本所化物屋敷の者が、北藩中村へ助剣を求めに走っていること、疑いをいれない。
 では、すぐにこれから!――と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
 と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
 そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。

  北国旅日記(ほっこくたびにっき)

「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
 という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の葦簾(よしず)を通して耳にはいると、江戸者らしい若い小意気な旅人が、ひとり飲みかけた茶碗を置いて振り返った。
 縞の着物に手甲脚袢(きゃはん)、道中合羽に一本ざし、お約束の笠を手近の縁台(えんだい)へ投げ出したところ、いかにも何国の誰という歴(れっき)として名のあるお貸元が、ひょんな出入りから国を売ってわらじをはいているように見えるものの、さて顔を眺めると……まぎれもないあさくさ駒形の兄哥(あにい)つづみの与吉。
 こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の姐御(あねご)が先月から家をあけているのと折柄の好天気を幸いに、そそくさとわらじの紐をはきしめて、こうして奥州中村への旅に出て来たのだった。
 影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
 なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく散(さん)じてヨ、それに帰路(かえり)はお侍連の東道役(とうどうやく)、大いばりで江戸入りができようてんだからこんなうめえ話はねえサ。おまけにおいらのこの中村行きは誰ひとり知る者もねえはずだから、栄三郎の側から追っ手の来る心配もなし――ままよ、江戸ッ児の気晴らし旅、まあ、ゆっくりとやるとしよう。
 こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
 古河の町は、八万石土井大炊頭(おおいのかみ)の藩で江戸から十六里。
 その古河を今朝たって野木、間々田(ままだ)、小山、それから二里の長丁場(ながちょうば)でこの小金井。
 道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途遼遠(りょうえん)という次第だが、心がけが遊山気分で、いっこうに足を早めようともせず、こうして日の高いうちからどっかり腰をおろし茶店の老爺(ろうや)を相手に大いに江戸がっているところ。
 白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
 それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と銘(めい)うった団子がザラザラと舌にさわる。ちょいと趣の変わった木立ちや人家、黒ずんだ遠田(とおた)のおもて、路傍に群れさわぐ子供らの耳なれない言葉……。
 江戸っ児はうち弁慶(べんけい)、旅に出てはからきし意気地がないという。
 与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お膝下(ひざもと)を出はずれるてえと、食物と女の格がずんと落ちるのに往生するよ。女はお前、肌をみがく水が悪いとして眼エつぶるとしてもヨ、食物はなんでえ食物は!」
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。金竜山(きんりゅうざん)浅草寺(せんそうじ)名代の黄粉(きなこ)餅、伝法院大榎(えのき)下の桔梗屋安兵衛(ききょうややすべえ)てんだが、いまじゃア所変えして大繁昌(はんじょう)だ。馬道三丁目入口の角で、錦袋円(きんたいえん)と廿軒茶屋の間だなあ。おぼえときねえ」
 なんかと頼まれもしない浅草もちの広告(ひろめ)に力こぶをいれて、一人弁舌(べんぜつ)をふるっていると、
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
 与吉は大いに業(ごう)を煮やして、
「何イ! 馬だ? べら棒め、馬がどうしたッてんでえ!」
 威勢よくたんかをきって向きなおった拍子に、つづみの与吉、さっと顔から血の気がひいた。
 二軒むき合っている向う側の茶みせから、じっと眼を据えてこっちを見つめている異様な男!
 おぼえのある乞食すがたに貧乏徳利……。

 うまくお艶の身柄を忠相(ただすけ)へ押しつけおおせた泰軒、さっそく庭へおり立つところを忠相が呼びとめたのだった。
「これ、蒲生! 何やらここに落ちておるぞ」
 というので、ちょっと引っ返して部屋をのぞくと、いままで坐っていた場所に小判が数枚!
 泰軒の窮状(きゅうじょう)を察した忠相が、無心もないのに投げ出したもので、路用としてそれとなく与える意(こころ)。涙の出るほどのゆきとどきぶり……。
 ふたりは何も言わなかった。
 泰軒はただのっそりあがって来て金子(きんす)を納め、呵々(かか)大笑して再び出て行ったきり――礼もなければ辞儀もない。この両心友の胸間、じつにあっさりとして風のごとくに相通ずるものがあった。
 そして。
 お艶がなおもひれ伏しているうち大岡様のお屋敷を出た泰軒は、瓦町の栄三郎様へも立ちよらずに、その日のうちに江戸をあとに北上の旅にのぼったのである。
 乾雲のために求援の使いにたって、今や一路北州をさしていそいでいる者があると言ったが、はて誰だろう? まだ相馬へは着いてはいまいから、追い越して顔さえ見ればわかるに相違ない。そのうえ、相手のいかんによって策の施しようはいくらもあると、ゆく手に当たって人影が見えるたびに、泰軒はひたすらに足を早めて来たのだった。
 駅路(えきろ)のさざめきも鄙(ひな)びておもしろく、往(お)うさ来(く)るさの旅人すがた。
 が、住居を持たぬ泰軒先生は、江戸にいても四六時ちゅう旅をしているようなもの。したがってこうして都を離れるにも、何一つ身仕度などあろうはずもなく、きたきり雀の古布子(ふるぬのこ)に、それだけは片時も別れぬ一升徳利の道づれ――。
 奥の細みち。
 と言うと風流なようだが、泰軒は気がせく。
 人一倍の健脚に鞭(むち)をくれて、のしものしたり一日に十有数里。
 奥州街道。
 江戸から二里で千住(せんじゅ)。おなじく二里で草加(そうか)。それから越(こし)ヶ谷(や)、粕壁(かすかべ)、幸手(さって)で、ゆうべは栗橋の泊り。
 早朝に栗橋をたって中田、古河の城下を過ぎ、本街道をまっしぐらに来かかったのがこの小金井である。
 町を素通りに、スタスタ通り抜けようとした、宿場はずれ。
 ふと一軒の茶店からしきりに江戸江戸と江戸を売りに来ているような声がするので、泰軒、何ごころなくみやると、見たことのある町人がさかんに気焔(きえん)をあげている。
 ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖銀杏(いちょう)のしたで、諏訪栄三郎のふところから財布を抜いて走った男。これが本所鈴川源十郎の取巻きの一人で、名もわかっている……つづみの与吉! と、とっさにみてとったが、泰軒は知らん顔、そのまま向う側の茶店の入口近く陣取って、隠れるでもなければうかがうでもない、こっちから公然(おおっぴら)ににらみつけていると――。
 馬子をどなりつけて振り向いたとたん、思いがけない泰軒のいることに気のついた与の公、はッとすると同時に青菜に塩としおれ返ってしまった。
 今のいままで恐ろしく威勢のよかったやつが、ムニャムニャとにわかに折れてしまったから、びっくりしたのは茶店のおやじだ。
「どうしただね? 腹でも痛み出したかね?」
 うるさくきくので、与吉はこれをいいことに、
「うん? ううん……なんでもねえ。いや、腹が痛えや。こんな団子を食わせるからだ」
「あんだって、この人は団子にばかりそうけちイつけるだんべ! 三皿もお代りしたくせに……」
 顔をしかめてうなりながら、与吉がチラ! チラ! とうしろをふり返ると、路をへだてた床几(しょうぎ)に泰軒先生それこそ泰然と腰をすえてまたたきもせずにこっちの方をみつめている。
 与吉は、ジリジリと背中が焼けつくようで、いてもたってもいられぬ心地。
 蛇ににらまれた蛙同然――人もあろうに一番の難物が、どうしてここへこうヒョッコリ現れたんだろう! こいつア厄介なことになったもんだ! と一時は与吉、顛倒(てんとう)せんほどに驚いたが、なあに、この先まだ道は長え。宇都宮へへえるまえにでもどこかできれいにまいてやろうと決心を固めて、
「爺さん! ホイ、茶代だ。ここへおくぜ」
 と勢いよく起ちあがると、それを待っていたように、むこう側の茶店でも泰軒が腰をあげたようす。
 首すじがゾクゾクして、与吉はともすれば立ちすくみそうになったのだった。
 猛犬に踵(かかと)をかがれながらさびしい道をあるいていく時の気もち……ちょうどあれだった。背骨がしいんとして、腰の蝶番(ちょうつがい)が今にもはずれそうに思われる。駈け出すわけにはいかず、そうかといって振り返ることもできずに、与吉は半ば死んだ気でフラフラと往還(みち)のみちびくがままにたどってゆく。
 すぐあとから泰軒先生が、一升徳利を片手にぶらさげ、鬚(ひげ)の中から生えたような顔に微笑を浮かべて悠々閑々(ゆうゆうかんかん)とついて来るのだった。
 珍妙奇天烈(きてれつ)な二人行列。
 それが、陽うららかな宇都宮街道を、先が急げば後もいそぎ、緩急停発(ていはつ)ともに不即不離(ふそくふり)のまま、どこまでもどこまでもと練っていくところ、人が見たらずいぶんおもしろい図かも知れないが、当(とう)の与吉の身になると文字どおり汗だくの有様で、兄哥(あにい)すっかり逆上(あが)ってしまっている。
 どうも薄気味の悪いことこのうえない。
 もうすこし離れてつけてくるのなら、こっちも駒形の与の公、なんとかして撒(ま)く才覚も生まれようというものだが、こうピッタリかかとを踏まんばかりにくっついていられては、どうにもこうにも考えることさえできないのだ。
 それも。
 おい! とか、コラ! とか声でもかけてくれるならまだいい。そうしたら当方にも応対のしようがあって、おや! これはこれは乞食の旦那様、お珍しい! はて、どちらへ?――ぐらいのことが、スラスラと出ない与吉でもないし、じっさいその問答の二、三も心中に用意があるのだが、こんなに押し黙ってついて来られると、先方が普段からの苦手なだけに、与の公、手も足も出ないで、亡者(もうじゃ)のような心地。
 その亡者のような与の公と、お閻魔(えんま)さまの蒲生泰軒とが、ぶらりぶらりと野中の一本道を雁行(がんこう)していくのだ。
 小金井をたって下石橋、二里半の道で宇都宮……大通りを人馬にもまれて素どおり。
 もうそぼそぼ暮れだが、与吉はこんなつれといっしょに[#「いっしょに」は底本では「いっしよに」]旅籠(はたご)をとる気にもなれない。で、町を突っきり、夜道をかけて今度はどんどん足を早め出した。
 いけない!
 やっぱりスタコラついて来る。
 黙りこくって、影のようにうしろに迫りながら押っかぶさるようにしてついてくるのだ。
 与吉もこれにはすっかり往生したが、振り返りでもしようものなら、そのとたんにぽかんと拳固(げんこ)がとんできそうな気がするし、一度などは与吉が道路にしゃがんでわらじを結びなおすと、泰軒は平然とそばに立って待っている始末で、駒形名うてのつづみの与吉、まるで大きな荷物をしょいこんだ形でほとほと閉口(へいこう)してしまった。
 無言のまま同行二人。
 真夜中の白沢。
 氏家(うじいえ)。
 喜連川(きつれがわ)――喜連川左馬頭(さまのかみ)殿御城下。
 夜どおしがむしゃらに歩きつめて、へとへとに疲れきった与の公のうえに、さく山あたりで暁の色が動きかけた。
 脚は棒のようになる。眼はくらむ。狩り立てられた狼のようになった与吉、ひとこと泰軒が声をかけたら即座に降参してすべてをぶちまけ、すぐに江戸へ引っ返すなり、ことによったらこのままどこへでも突っ走ってしまおうと思っていると……。
 泰軒は平気の平左。
 ときどき貧乏徳利をぐいと傾けてひっかけながら、口のなかで、謡曲(うたい)の一節。
 明(あけ)の月が忘れられたように山の端(は)にかかって、きょうもどうやら好晴らしい。うす紫の朝靄(もや)には、人家が近いとみえて鶏の声が流れ、杉木立ちの並ぶ遠野の果てに日の出の雲は赤い。
 はるかに連山の残雪。
 ふっと近くに馬のいななきがきこえてゆく手の草むらにガサガサと音がしたので、与吉がびっくりして立ちどまると、放し飼いの馬が二、三頭、ヌッと鼻面を並べて出した。
「なんでえ! 驚かしゃがらア! シッ! どけ、どけ! シイ――ッ!」
 と、馬とわかって、与の公急に強くなっていばりだしたものだから、よほどそれがおかしかったとみえ、
「はっはっはッは……」
 うしろに泰軒の笑い声。
 与の公、とうとう泣き顔をふり向けて悲鳴をあげた。
「旦那(だんな)! 先生! 人が悪いや、あっしをこんなに追いまくるなんて――ねえ、旅は道づれ世は情けって言いまさあ。ひとついかがで、御相談いたしやしょう」
 と与吉、大道商人が客をつかまえたように小腰をかがめて手をもんだ。
「相談……とは、なんじゃ」
 与吉を見おろして立ちはだかった泰軒のぼろ姿に、さわやかな朝の光が徐々(じょじょ)と這い上がっている。
 与吉は首をなでたり頭をかいたり、眼まぐるしく両手を動かしながら、
「テヘヘヘヘ、どうも先生、旦那、いや殿様――ッてのも変だが、そう意地にかかってついて来られちゃア私が歩きにくくてしようがございません。もういいかげんに、ここらでなんとか一つ話をつけていただいて、手前も考えなおしとうございます、へい」
「つける。……と申して、おれは貴様をつけた覚えはないぞ。第一貴様こそ始終おれの前に立って、歩きにくくてかなわん。いったいどこへ行くのだ」
「ヘヘヘヘ、御冗談で」
「ヘヘヘヘではない、いずこへ参るのかとそれをきいておるに」
「へえ。実はその、松島――へえ、松島見物でございます。松島やああ松島や松島や……」
「春に向かって松島見物とは結構な身分だな」
「ナニ、あまり結構でもございません」
「いや、結構だ。遠く俗塵(ぞくじん)を離れて天然の妙致(みょうち)に心気を洗う。その心がけがたのもしいぞ」
「恐れ入ります」
「なあに、恐れ入らんでもよい。おれもその松島へゆく途中だ。同道いたそう」
「え? では、あの、先生も松島へ?」
「さよう。一生に一度は見ておいてもよいところじゃからナ」
「ちッ! 仕方がございません。与吉もあきらめました。りっぱにお供しやしょう」
「これこれ、与吉と申したな。ただいまの挨拶はなんだ?」
「いえなに、こっちのことで――ごいっしょに行けばよろしいんでございましょう? ええ参りますとも! 松島だって、どこだって、こうなりゃ……」
「ア、これこれ与吉、黙って来るがよい」
 そこで。
 仏頂面の与吉と、笑いを噛みしめていかめしい顔を作った泰軒とが、妙なふうに肩を並べて歩き出したまではいいが、この二人の奇体な取合せに、朝早くさく山の町へ用たしに出る百姓などが驚いて道をよけている。
「先生! 先生はいつ江戸をおたちになったんで? たいそうおみ足が早うございますな」
「はははは、お前が松島に向かったと聞いてな、わしも急に思い立って出て来たのだ。足の早いのは貴様こそ、親は飛脚(ひきゃく)ででもあったかな?」
「かなわねえや先生にゃア」
 なんとかほどよくばつを合わせて歩きながら――。
 つづみの与の公、心中ひそかに思えらく。
 これはなんといっても相手が悪い。今ここで下手(へた)にあがこうものなら、かえってだにのように食いつきとおして、いっそうおもしろくないことになろうから、いいかげんにあしらっておいて、奥州本街道から横にはずれて相馬へ出ようとする福島の町ででも器用にずらかってやることにしようと。
 泰軒は泰軒でまた胸に一物(もつ)を蔵(ぞう)している。本所の鈴川方から誰かが中村へ援軍を呼びに旅立ったと聞いてその使者とは何者だろう? それによってこっちも大いに出かたがあると内心いきおいこんで追いついてみるとあにはからんや、対等の役者として太刀打ちもできないつづみの与の公だから、泰軒はいささか失望の感だった。こんな者をとっちめたところで、張り殺してみたところでつまらない。相手にするさえいさぎよしとしないので、それならばむしろいっしょに相馬中村まで与吉を見とどけて、かれが何十人かの剣団(けんだん)を案内して江戸へ戻る途中を擁(よう)し、ひさかた振りに根限り腕をふるって一大修羅場に死人(しびと)の山を築いてくれよう――こういう気だから表面はしごくのんきだ。
 これ、与吉、この徳利へ酒をつめて参れ。
 これ、与吉、ついでに金をたてかえておけ。
 これ、与吉、坂道でくたびれたから背後から押してくれ。コレ与吉、コレ与吉と、泰軒先生さかんに与の公を使いたてる。与の公もいま先生を怒らしちゃア厄介だと思うから何ごともヘイコラこれ命に従っているうちに。
 大田原――大田原飛騨(ひだ)守城下。一万一千四百石。
 白河の関――阿部播磨(はりま)守城下。十万石。
 二本松――丹羽左京太夫殿。十万七百石。
 このところ江戸より六十六里なり。
 ……で、これからあと四つの宿場で福島へ着くという、その二本松の町へはいったのが、江戸を発足してから八日目の夕ぐれだった。
 両側に並ぶ宿屋を物色しながらふと気がつくと、今までそばを歩いていた泰軒先生の姿が見えない!
 つづみの与吉、しめたッ! とばかりにいきなり眼の前の柳屋と行燈をあげたはたごへ飛びこんだ。
「いらっしゃいまし――お早いお着きでございます」
 二、三人の婢(おんな)が黄色い声を合わせる。

 二本松の町。
 諸国旅人宿(しょこくりょじんやど)、やなぎ屋のおもて二階。
 いま洗足(すすぎ)をとってあがって来たつづみの与吉、うす暗い一間へ通されてのっけからケチをつけてかかる。
 口の悪いのは江戸っ児の相場……それがこうして旅へ出ているのだから、何かにつけひとことわるくちをいわなければ腹の虫が納まらないという役得根性も手伝い、泰軒先生をたくみに振りおとした気でいる与の公は、もうすっかりいい気もちになって、
「チッ! こんなしみったれた部屋しかねえのか。馬鹿にしてやがら」
 と、ジロジロとそこらを見まわしてすわろうともしない。案内して来た女中も心得たもので、
「もっと宿料を奮発(ふんぱつ)なされば、あっちにいくらもいいお座敷があいておりますよ」
 これには与吉、ギャフンと参って、
「そりゃそうだろう。そうなくちゃアかなわねえところだ――人間万事金の世の中ってナ、アハハハ」
 どうも与の公ときたらうるさい野郎で、四六時中しゃべっていなければ気のすまないところへ、今は、泰軒という苦しい厄介がなくなったのだから、ひとしお上機嫌に口が多い。
 飯か湯かどっちを先にするときかれて、湯へはいりながら飯を食いてえ……などと勝手なことをしゃべり散らすので、女もあきれて降りていってしまう。
 あとで与吉が、宿の丹前に着かえて、力を入れてもたれかかるとひとたまりもなく折れそうな、名ばかりの二階縁の欄干にもたれて下の往来をのぞくと。
 うら淋しいながらに、ちょうど上(のぼ)り下(くだ)りの旅の人があわてて宿をとる刻限(こくげん)とて、客引きの声もかしましく、この奥州街道に沿う町にもさすがに夕ぐれはあわただしい。
 よごれた白壁。檐(のき)の低い瓦屋根のつづき。取りこむのを忘れた、色のさめた町家の暖簾(のれん)、灯のにじむ油障子。馬糞に石ころ……何をひさぐ店か、和田屋(わだや)と筆太に塗ったここらでの老舗(しにせ)らしい間口の広い家――そういったものが、迫りくる暮色のなかに雑然蕪然(ぶぜん)と押し並んで、立枯れの雑木ばやしを見るような、まことに骨さむい景色……。
 投入れのひからびている間(あい)の宿。
 与吉が、柄にもなくこんな句を思い出していささか悵然(ちょうぜん)としながら、あの乞食先生はどうしたろう? さぞ今ごろは泡をくらってこの与吉を探しているに違えねえ、ざまア見ろ! と心中に快哉(かいさい)を叫んだ時、廊下に面した障子が開いて人がはいって来た。
「恐れ入りますが、お一方(ひとかた)お相宿を願います」という番頭の挨拶にギョッ! とした与吉が振り向いてみると、越後の毒消し売りがひとり荷を抱えて割り込んで来ている。
 これで与吉はすこし気を悪くしたが、それでも、婢(おんな)が晩めしを運んで来て給仕をする。
「姐(ねえ)さん、この辺に飯盛はいねえのかえ」
「御飯ならわたしが盛(も)ってあげますよ」
「ちょッ! この飯じゃアねえや。こうッと、草餅よ。はははは、くさもちは、どうでエ?」
「くさもちはありませんが、かき餅が名物でござんす」
「笑(わら)わかしゃがらア! 草もちのかわりにかき餅とくりゃあ世話アねえ。にっぽん語の通じねえところだから情けねえ――それなら姐(ねえ)や、なんだぜ、今夜忍んで行くぜオイ。え? いいだろう?」
「あれ! 知りませんよ」
「なに、知らねえことがあるものか。お前みてえなべっぴんは江戸にも珍しい」
「ホホホ、それほどでもござんすまい――そんな殺し文句をまいて歩くと、あの女(ひと)がただはおきませんよ」
「何を言やんでえ!」
 などと与吉一流の無駄口をたたきながら飯をすまして、一風呂ザアッと流してくるからと按摩を頼み、手拭をぶらさげて突っかけ草履、与吉が廊下へ出たところへ、どこの部屋からかあまり粋とはいえない三味線の音……。
しぐれ降る浅茅(あさじ)ヶ原(はら)の夕ぐれに二こえ三声雁(かり)がねの、便り待つ身の憂きつらさ――。
 と来たときに、お節介(せっかい)な与の公、耳をおさえて、
「よしゃアがれッ!」
 と、どなりながら、暗い裏梯子を駈けおりると、とっつきが風呂場になっていて、ガヤガヤと人声がこもっている。
 男女混浴……国貞(くにさだ)画(えが)くとまではいかないが、それでも裸形(らぎょう)の菩薩(ぼさつ)が思い思いの姿態をくねらせているのが、もうもうたる湯気をとおして見えるから、与吉はもう大よろこび。
「あらよウッ! みなさん、ごめんねえ!」
 と、精々いなせに飛びこんでゆくと! 聞き覚えのある謡曲の声とともに、よもぎのような惣髪(そうはつ)のあたまが一つ、せまい湯船の隅にうだっている。
 はッ! と思うと与の公、ちょいと身体を濡らしただけで、そのまま女たちのあいだをこっそり抜け出て来ようとしたが、すでに遅かった。
「はっはッはっは、待っておったぞ!」
 と割れっ返るような大声といっしょに、泰軒先生がヌッと湯の中に立ちあがったから、与吉は妙な恰好に流し場にしゃがんで、
「おや! 先生でございますか。どうなさいましたかと、じつは御心配申しあげておりましたよ。でもまあ、よく御無事で、エヘヘヘ……」
「ひさしく会わんような挨拶だナ」
「いえね、全く。さっきこの柳屋の前の往来でひょいと気がつくてえと、先生のお姿がかき消すようにドロンでげしょう? あっしゃア――」
「しすましたり矣(い)と此家(ここ)へ飛びこんだのであろうが、ドッコイ! そうは問屋がおろさん。貴様もここへはいるだろうと思って、おれは一足先にあがったのだ」
「どうも質(たち)のよくねえわるさをなさいますよ。びっくりするじゃございませんか」
「ビックリではない。がっかりであろう。とにかく、ざっと暖まったらあがって来て、背中を流してくれ」
「あい。ようがす」
 とは答えたものの入って来た時の元気はどこへやら、与吉はがらりとしょげ返って、白く濁った湯に首を浮かべて一渡りそこらを眺めまわしたけれど、眼にはいる雪の肌もいっこうにこころ楽しくない。
 奥と入口に魚油の灯がとろとろと燃えて、老若男女の五百羅漢(らかん)。
 仕舞(しま)い湯のせいか女が多い。立て膝して髱(たぼ)をなでつける婀娜女(あだもの)、隅っこの羽目板へへばりついている娘、小桶(おけ)を占領して七つ道具を並べ立てた大年増、ちょっとの隙(すき)にはいだして洗い粉をなめている赤ん坊、それを見つけて叱る母親、いやもう大変なさわぎ。
 喧々囂々(けんけんごうごう)として湯気とともに立ちあがる甲高い声々……その間を世辞湯(せじゆ)のやりとり、足を拭く曲線美(きょくせんび)――与吉がいい気もちに顎(あご)を湯にひたしてヤニさがっていると、
「アアこれこれ与吉、ゆであがらんうちに出て来て流せ」
 はじまった! 仕方がないから三助よろしくの体(てい)で、大きな背中をごしごしこすり出すと、
「そんなことではくすぐるようで痒(かゆ)くてならん、もっと力を入れて! もっと! もっと!」
 与吉は真赤にりきんでフウフウ言っているが、泰軒はすこしも感じないと見えてしきりに強く強くとうながす。おかげで与吉はふらふらになってしまったのはいいが、いかにも乞食先生の下男のようで、なみいる女客の手まえ男をさげたことおびただしい。
 しかも、ようよう流しがすんだかと思うと、アアこれこれ与吉、湯を汲んで参れ、アアこれこれ与吉、脚をもんでくれ、アアこれこれ与吉……与吉がいくつあってもたりない始末。
 泰軒先生がさきにあがると、やっとのことで赦免(しゃめん)になった与吉、疲れをいやすどころか、かえってクタクタにくたびれきって部屋へ戻ったが!
 先生は階下の裏座敷。
 それに、相部屋の毒消し売りはぐっすり寝こんでいるようすだからまず怪しまれる心配はないと、急に思い立って湯の香のさめぬ身体を旅仕度にかため、ひどい奴で、往きがけの駄賃(だちん)に毒消し売りの煙草入れを腰に、ころんでもただは起きないつづみの兄イ、今夜のうちに二本松、八町目、若宮、根子町(ねこちょう)の四宿を突破して、朝には、福島からいよいよ相馬街道へ折れるつもり――用意万端ととのえて、そっと部屋を忍び出ようとしているところへ、
「今晩は、按摩の御用はこちらでございますか、おそくなって相すみません」
 宵の口に言いつけておいたあんまが来たので、その声に、ねている毒消し売りがムニャムニャ動き出す。
 あわてた与吉、とっさに端の障子を滑らして廊下に出るとにわか盲目とみえて、勘が悪く、まだなんとか言っているのをうしろに聞きながらもとより宿賃は踏み倒し、そのまま軒づたいに裏へ飛びおりてほっと安心!
 泰軒先生は委細御存じなく、白河夜船の最中らしい。
 こんどというこんどこそは、ものの見事にまいてやったぞ……。
 思わず会心の笑みとともに歩き出した与吉、振り返って見ると、宿の洩れ灯に屋号の柳の枝葉が映えて、湯上りの頬に夜風がこころよい。
 寂然たる天地のあいだを福島の城下まで五里十七丁。
 飯野山の峰はずれに月は低く、星の降るような夜だった。

  血筆帳(けっぴつちょう)

 堀の水は、松の影を宿して暗く静まり、塗(ぬ)りつぶしたような闇黒(やみ)のなかに、ほの白い石垣が亀甲(きっこう)につづいて大浪のごとく起伏する木立ちのむこうに、天守閣の屋根が夜空をついて望見される。
 刻をしらせる拍子木の音が、遠く余韻(よいん)をひいて城内に渡っていた。
 外様(とざま)六万石として北東の海辺に覇(は)を唱える相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の湯池鉄壁(とうちてっぺき)、中村城のそと構えである。
 寒星、風にまたたいて、深更霜凜烈(しんこうしもりんれつ)。
 町家、城中ともに眠りについて、まっくらな静けさが限りなく押しひろがっている……。
 と!
 なんに驚いてか、寝ていた水禽(みずどり)が低く飛び立ってバサと水面を打った時!――大手の並木みちを蹣跚(よば)うように駆け抜けてきて、そのままタタタ! と二足三あし上(あ)げ橋の板を鳴らしてお城のなかへ踏みこもうとした人影がひとつ。
 見とがめた番士数名。たちまちばらばらッと躍り出て六尺棒を又の字に組み、橋の中央にピタリとこれをおさえてしまう。安房(あわ)は貝淵(かいぶち)、林駿河守の案技になり、貝淵流(かいぶちりゅう)の棒使い海蘊絡(もくずがら)めの一手――。
「何奴(なにやつ)ッ!……無礼者ッ! さがれッ!」
 鋭い声ながら、夜ふけのあたりをはばかって低いのがかえってものすごくひびいた。
「へ!」
 と答えるともなく、押し戻される拍子にベタリとその場へ膝をついた件(くだん)の男……つづみの与吉はだらしなく肩息のありさまだった。
 むりもない。
 ゆうべ夜中に二本松で泰軒先生に置いてけぼりを食わせてから、五里の山道をひた走りに明け方には福島に出て、そこから東へ切れて舟地(ふなち)の町で三春川を渡り、九十九折(つづらおり)の相馬街道を無我夢中のうちに四里半、手土(てつち)一万石立花出雲守の城下を過ぎ、ふたたび夜の山坂を五里半……いのちがけに走りとおして、今ようようこの相馬中村へ到着したところだから、さすがの与の公、洗濯物をしぼって叩きつけたようにぐったりとなっているわけ。
 一昼夜、飲まず食わずに険路十五里――それというのも、左膳の用命を大事にと思うよりは与吉としては正直、泰軒先生がこわいからで――。
 ところが、何度ふり返っても先生は影も形も見えなかった。
 しかし柳屋の一件で見てもわかるとおり、どこをどう先まわりして、いつひょっこり眼前へ現れないものでもないと、与吉は、問屋場のお休み処を横目ににらんで、ひたすら痩脛(やせずね)をカッとばして来たのだが、やはり泰軒は与吉の脱出を知らずに、柳屋の裏座敷で大いびきをかいていたものとみえ、とうとう与吉がこの中村に着くまで、泰軒のにおいもしなかったのだった。
 りっぱにあの羽がい締(じ)めをのがれ得た。
 ああ見えてもこのつづみにかかっちゃア甘えもんだと、与吉はいっそう足を早めて、見えぬ泰軒に追われるように絶えず小走りをつづけて来たのだ。
 で、今。
 はね橋の真ん中にガッタリ手をついた与吉。
「水……おなさけ、水を……! え、江戸の、タ、丹下左膳様からお使いに参ったものでござります。ど、どうぞ水をいっぱい……」
 と聞いて、びっくり顔を見合わせたのは番士達。
 仔細は知らぬが、出奔した丹下左膳が立ち帰って参ったなら門切れであろうと苦しゅうない、ただちに手厚く番所へ招じ入れて上申するようにと、ふだん組頭から厳命されているその丹下の急使というので[#「というので」は底本では「とういので」]、一同、与吉を城内へ許しておいて、すぐひとりが、何人もの口を通して宿直(とのい)の重役へ伝達する。
 重役から茶坊主、坊主からお側(そば)小姓と順をふんで、それから国主大膳亮の耳へ――。
 早速これへ!
 となって、城内に時ならぬ人の動き。
 とりあえず焚(た)き火をあたえられて暖をとっていたつづみの与吉、旅仕度のまんまでお呼び出しに預かり、火焔をうつして樹影あざやかなお庭を、案内の近侍について縫ってゆくと、繁みあり、池水あり、数奇結構をこらしてさながら禁裡仙洞(きんりせんどう)へ迷いこんだおもむき。
 夢のような夜景色といおうか……ぼんやりした与の公が、キョトキョトあちこち見まわしながら、とある植えこみから急に広い芝生へ出たときだった。
 さきに立つ若侍がしいッ! と声をかけたので、あわてて頭をさげた与吉、気がついてみると、遙か向うのお縁側にくっきりと明るい灯がうかんで、二、三の人影が豆のように小さく並んで見える。
 まだよほど遠いが、それでもここから摺(す)り足に移った。

 骨を刺す寒夜ににわかの謁見(えっけん)だった。
 縁ちかく敷居ぎわに、厚い夜の物を高々とのべさせ、顎を枕に支えて腹這(はらば)いになっている国主大膳亮は、うち見たところ五十前後の、でっぷり肥った癇癖(かんぺき)らしい中老人である。
 広い頭部、大きな眼……絶えず口尻をヒクヒクさせて、ものをいうたびに顔ぜんたいが横にひきつる。
 大きな茶筅髪(ちゃせんがみ)を緋(ひ)の糸で巻いたところなど、さすがに有名な変物(へんぶつ)だけあって、白絹の寝巻の袖ぐちを指先へ巻いて、しきりに耳垢(みみあか)を擦りとってはふっと吹いている。
 が、眼は、射るように近づいて来る与吉に注がれていた。
 燭台の光が煌々(こうこう)とかがやき渡って、金泥(きんでい)の襖(ふすま)に何かしら古(いにしえ)の物語めいた百八つの影を躍らせているのだった。
 剣怪丹下左膳の主君、乾坤二刀の巴渦(ともえうず)を巻き起こしたそもそもの因たる蒐剣狂愛(しゅうけんきょうあい)の相馬大膳亮(だいぜんのすけ)が、この深夜に、寝床の中からつづみの与吉に対面を許して、左膳の秘使を聞きとり、それに応じてさっそく対策を講じようとしているところ……。
 江戸へ出て以来無音(むいん)の左膳から突如急使が到着したと聞いて何事? とすぐさま端近く褥(しとね)を移させたのだが、どうせ代人が手ぶらでくる以上、大した吉報でないのに相違ないと、こうして与吉を待つあいだも、癇癪(かんしゃく)もちの大膳亮、ひとりさかんにいらいらして続けざまに舌打ち――。
 まえはいちめんの広庭。
 遠くからこの寝間の光が小さく四角に浮き出で、灯のはいった箱船のように見えた時、与吉はいよいよお殿様へお眼通りだナと胸がドキンとしたが、なあにたかが田舎大名、恐れるこたアねえやな……こう空(から)元気をつけて、申しあぐべきことづけを口の中で繰り返しながら、飛石を避けて鞠躬如(きくきゅうじょ)、ソロリソロリと御前へ進んで、ここいらと思うと、はるか彼方(かなた)にぴたりと平伏しようとすると、
「チッ、近う! ち、近う、ま、参れッ!」
 と、どなりつけるようなお声がかり。
 大膳亮はいう。
「タタタタタタタッ……たッ、たたたッ丹下左膳カ、から、ッ、つ――ツ、使いに来たというのは、そ、そのほうかッ……」
「さ、さようでごぜえます」
 思わず釣りこまれてどもった与吉はッとして眼をあげたとたん、大柄な殿様の顔が、愛(う)いやつとでも言うようにニッコリ一笑したのを見た。
 こいつぁ江戸張りに生地(きじ)でぶつかってゆくに限る――与吉は早くも要領をつかんだ。
 同時に、大膳亮が四辺(あたり)を見まわして、
「モ、者ども、密談じゃ! 密談じゃ! 遠慮せい、遠慮!」
 やつぎ早に喚(わめ)きたてると、暗くて見えなかったが、左右の廊下にいながれていたお側用人、国家老をはじめ室内の小姓まで、音ひとつたてず消えるようにひきとって行く。
 与吉をうながして、縁の直下までつれていっておいて案内の若侍も倉皇(そうこう)と退出した。
 後には。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:759 KB

担当:undef