丹下左膳
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著者名:林不忘 

 たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、郷藩(きょうはん)相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
 丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
 というのは……。
 舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
 片側は御用屋敷の新阪町。
 他は清水町(しみずちょう)の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈(しんちん)と眠る真夜中。
 向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
 乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇(く)しき出会いであったと言わなければならぬ。
 雪に埋(う)もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
 と、剣妖(けんよう)左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
 向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき青侍(あおざむらい)に要はねえのだ。ざまあ見やがれ」
 と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり有頂天(うちょうてん)にはなれぬぞ。さ、この大刀におぼえがあるかどうだッ?」
 言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
 と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
 土生(はぶ)仙之助をはじめ、化物屋敷の常連(じょうれん)が、博奕(ばくち)がくずれて帰路についたところだ。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
 立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
 左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて純粋無垢(じゅんすいむく)な若侍の真意が、暁の空のごとく彼の脳裡にもわかりかけたものか、たちまち快然と哄笑をゆすりあげて、
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、俺(おれ)もてめえに返すものがあるんだ」
 いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
 と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ釈然(しゃくぜん)と笑って、乾坤二刀を交換せざるを得ない立場だった。
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は嬉(うれ)しいところがあるよ……だがな、乾雲が俺の手にはいるや否や、今この場で、てめえをぶったぎるからそう思え。かわいそうだが仕方がねえのだ」
 と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
 おううッ! と一声、けもののようなうめき、
 どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
 あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
 乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
 そして今!
 しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に凝視(ぎょうし)しあっている。
 とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の冷刃(れいじん)がギラリ光った。とともに栄三郎は腰を落として、すでに剛刀武蔵太郎安国の鞘を静かにしずかに払っていた。此度こそはッ! と、心中に亡師(ぼうし)小野塚鉄斎の霊を念じながら。
 と! この時。
 あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが傍観(ぼうかん)はできぬ。幸(さいわ)い手がそろっているから、逃さぬように遠まきにいたしてくれる。存分にやれッ!」
 が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の斬先(きっさき)も鋭く、
「えいッ!」
 気合いもろとも、礫(つぶて)のごとく身を躍らして、突如! 左膳をおそうと見せて一瞬に右転、たちまち周囲にひろがりかけていた助勢の一人を唐竹割り、武蔵太郎、柄もとふかく人血を喫(きっ)して、戞(か)ッ! と鳴った。
「しゃらくせえ!」
 おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、皎剣(こうけん)、あわや迅落しようとするところをヒラリひっぱずした栄三郎は、そのとき眼前にたじろいだ土生仙之助へ血刀を擬して追いすがった。
 有象無象(うぞうむぞう)から先にやってしまえ! という腹。
 土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、鍔(つば)を返して左膳の乾雲を払うが早いか、こうじゃまが入った以上は、身をもって危機を脱するが第一と思ったのか、白刃をひらめかしてざんぶとばかり、堀へとびこんだ。
「ちえッ!」
 と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
 雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の掘割(ほりわ)りに、大きな渦まきが押し流れていった。

  虚実(きょじつ)烏鷺(うろ)談議

 離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
 主君相馬大膳亮(だいぜんのすけ)のために剣狂丹下左膳が、正当の所有主(もちぬし)小野塚鉄斎をたおして、大の乾雲丸(けんうんまる)を持ち出して以来、神変夢想流門下の遣手(つかいて)諏訪栄三郎が小の坤竜丸(こんりゅうまる)を佩(はい)して江戸市中に左膳を物色し、いくたの剣渦乱闘をへたのち――乾雲はおさよが、坤竜はお藤が、ともにこっそり盗み出して、ここに二刀ところを一にするかと見えたのも一瞬、こんどは逆に栄三郎が乾雲を、左膳が坤竜を帯びて雪中法恩寺橋上の出会い――。
 任侠(にんきょう)自尊の念につよい栄三郎の発議によって、両人雲竜二剣を交換して雲は左膳へ、竜は栄三郎へと、おのおのその盗まれたところへ戻ったが。
 婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、二度(ふたたび)つるぎと腕にかけて奪還するから……と、この栄三郎の意気に感じて、左膳もこころよく坤竜を返納したのは、二者ともさすがに侍なればこそといいたい美しい場面であった。
 が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
 しかし、それもほんの寸刻の間だった。
 折りもおり、土生(はぶ)仙之助の一行が左膳の助剣にあらわれたので、乱刃のままに長びいてはわが身あやうしと見た栄三郎、ひそかに、再び左膳と会う日近からんことを心中に祈りながら、橋下の暗流――雪の横川へとびこんで死地を脱した。
 あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
 それもやがて。
 暗黒(やみ)の水面に栄三郎を見失って長嘆息、いたずらに腕を扼(やく)しながら三々五々散じてゆく。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
 と左膳、片手に赤銅(しゃくどう)の柄(つか)をたたいて瓢々然(ひょうひょうぜん)、さてどの方角へ足が向いたことやら――?
 かくしてまたもや。
 悪因縁(あくいんねん)につながる雲竜(うんりゅう)双剣(そうけん)、刀乾雲丸は再び独眼片腕の剣鬼丹下左膳へ。そうして脇差坤竜丸は諏訪栄三郎の腰間(こし)へ――。
 それは、まわりまわってもとへ戻る数奇不可思議(すうきふかしぎ)な輪廻(りんね)の綾であった。
 しばらく頭(こうべ)をめぐらして本来の起相(きそう)を見れば。
 刀縁伝奇(とうえんでんき)の説に曰く。
 二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、凶(きょう)の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈(はらんばんじょう)、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
 そして、刀が哭(な)く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐(のき)も三寸さがるという丑満(うしみつ)のころになると、啾啾(しゅうしゅう)とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 この宿運の両刀。
 はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
 のみならず。
 駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁(よう)して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
 一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
 かれが唯一の助太刀快侠(かいきょう)蒲生泰軒(がもうたいけん)先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
 二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
 死肉の山が現出するであろう!
 生き血の川も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山血河(しざんけっか)をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
 雪の江戸に金いろの朝が来た。
 それからまもなく。
 ある梅日和(びより)の午(ひる)さがり――南町奉行越前守大岡忠相(ただすけ)の役宅では。

 雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
 眼をよろこばせる常磐樹(ときわぎ)のみどり。
 珊瑚(さんご)の象眼(ぞうがん)と見えるのは寒椿(かんつばき)の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
 幽邃(ゆうすい)な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
 数寄屋(すきや)がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
 茶立口、上壇(だん)ふちつきの床、洞庫(どうこ)、釣棚(つりだな)等すべて本格。
 道具だたみの前の切炉(きりろ)をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
 あるかなしかの風にゆらいで、香(こう)のけむりが床(ゆか)しく漂(ただよ)う。
 越前守忠相、ふとり肉(じし)のゆたかな身体を紋服(もんぷく)の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
 茶筅(ちゃせん)、匙(さじ)、柄杓(ひしゃく)、羽箒(はねぼうき)などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
 そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
 ぼつんと切り離したような静寂(しじま)、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒(じょしんけん)に負(お)うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧(さんまい)にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
 こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
 忠相は動(どう)じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂(かも)川、江戸では多摩(たま)川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為(うんい)するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主(ぬし)、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
 泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
 沈黙、
 泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
 忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
 いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有(みぞう)のことには、さっきこうして真(ま)っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術(ようじゅつ)を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
 あいも変わらぬ天下御免(ごめん)の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利(びんぼうどくり)をぶらさげて、大髻(おおたぶさ)を藁(わら)で束ねたいでたちのまま。
 おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
 という無遠慮(ぶえんりょ)な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
 と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑(めいわく)な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
 そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
 言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
 じぶん故(ゆえ)にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
 しかも!
 もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生(やよい)様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛(だいりびな)……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
 ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様(こんにちさま)に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
 自分さえなければ万事(よろず)まるく納まりそう。
 得るも恋なら、退くも恋。
 いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
 それが何よりも栄さまのおため。
 つぎに、お刀と弥生様への義理。
 また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞(ふて)くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
 栄三郎様はこのお艶の心変りを真(ま)にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫(わ)びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
 黙然(もくねん)、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯(ほおひげ)が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
 そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱(しんぼう)……栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
 ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘(わ)び住居を立ちいでたのだった。
 うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落(らいらく)に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
 爾来(じらい)数日。
 野良犬のごとく江戸のちまたに夜(よ)な夜(よ)なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。
 この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
 が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
 そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)――。
「今日はちと肩の凝(こ)るところへ案内をして進ぜよう、だまってついて来なさい」
 こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
 どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった品(ひん)のいいお殿様と、泰軒先生との友達づきあいの会話のあいだに、このお方こそほかならぬ南のお奉行様と知るや、ここで待つようにと泰軒に言われた縁下の地面に土下座して、いっそう身も世もなくちぢまる拍子に、白い額部(ひたい)が土を押した。
 室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
 越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
 躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に前肢(まえあし)をそろえて見ている。
 宇和島伊達(だて)遠江守殿から贈られた隣藩土佐産の名犬、忠相の愛する黒というりこうものである。
「黒よ! いかがいたした」
 忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
 春日遅々(ちち)として、のどかな画面。
 ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
 相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖(こわ)さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀(いぎ)をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣(きぬ)ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来(こ)い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一瞥(べつ)をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内(なか)へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交(かた)みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるありがたいお言葉!
 なんというお情けぶかい!
 お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上御辞退(ごじたい)申すはかえって非礼と、お艶は、はいとお応(こた)えするのも口のうちに、そこは女、手早く裾の土を払い髪をなおして、おそるおそるあがりこむと、お部屋のすみにべたりと手を突いた。
 お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
 と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに悠然(ゆうぜん)と泰軒へ向きなおって、他意なくほほえんでいる。
「わっはっはッ!」
 何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
 しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って床(とこ)の間(ま)から碁盤(ごばん)をおろして来た。
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を小癪(こしゃく)な! 殿様の碁の相手だけはまっぴらだが、貴公なら友だちずくに組(くみ)しやすい。来い!」
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
 なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
 その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
 驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
 パチリ!……と盤面にのった二つの石。
 ひとつは白、他は黒。
 これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
 うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
 が、忠相は平々然……。
 しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、夢語(むご)のごとくにつづけるのだった。
 あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
 この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
 凝(こ)りかたまったようなしずけさの底に、盤をへだてた泰軒と忠相――。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
 と忠相、もの憂(う)そうに手を出してふたつの石を盤の隅へ隅へ遠ざけてみせると。
 黙ったまま碁笥(ごけ)をとった泰軒は、やにわにそれを荒々しく振り立てた。無数の石の触れ合う音が騒然と部屋に流れる。
「ふうむ」と忠相は瞑目(めいもく)して、「いわば擾乱(じょうらん)、災禍(さいか)――じゃな。して、こうなればどうだ?」
 いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
 泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ! 鎮定礼和(ちんていらいわ)の相か。そうか。おもしろい」
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
 と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって哄笑(こうしょう)した。
「碁(ご)だ! 碁だ! 泰軒、碁のはなし、碁の話」
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
 と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
 ふたたび無言の行(ぎょう)――。
 いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように畏友(いゆう)大岡忠相の博知周到(はくちしゅうとう)に驚異と敬服の感をあらたにしておのずから頭のさがるのを禁じ得ないのだった。
 古今東西を通じて判官の職にありし者、挙(あ)げて数うべからずといえども、八代吉宗の信を一身にあつめて、今この江戸南町奉行の重位を占めている忠相にまさる人物才幹はまたとなかったであろう……人を観るには人を要す。これ蒲生泰軒は切実にこう感じて、こころの底からなる恭敬の念にうたれたのだ。その畏怖の情に包まれて、さすがの放胆泰軒居士も、ついぞなく、いま身うごきがとれずにいる不動金縛(ふどうかなしば)り。
 思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
 にこやかに温容(おんよう)をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来(こ)い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
 と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰(さた)という文字は、沙(すな)に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候(そうろう)。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿(せんさく)すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介(やっかい)なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
 蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。

 碁盤(ごばん)をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭(かしら)をもする者ども、軍法だてをして床几(しょうぎ)に腰を掛け、采配(さいはい)を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍(いくさ)に勝たるるものと心得るは大なる了簡(りょうけん)違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時(わじ)における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部(ぼんのくぼ)を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美(さいび)はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
 ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸(いっ)する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷(くちゅう)もその間にあるよ。この二石……」
 手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
 泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
 と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
 いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
 と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
 にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住(てんがいむじゅう)の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
 と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有(ゆう)にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧(か)けとる、ハッハッハ右が欠(か)ける」
「お! そうだったな。眼糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑うのたぐいか――しからば、これはどうだ?」
 忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
 迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
 奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒(よ)って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々(きょきょじつじつ)の烏鷺談議(うろだんぎ)がくりひろげられてゆくのだった。
 泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。

 昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
 丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字(もじ)が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
 ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆袈裟(けさ)がけ辻斬り左腕の下手人だ。
 ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
 これに端緒(たんちょ)を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審(しら)べあがっているのだった。
 が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請(こぶしん)入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼昼行(ちゅうこう)ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲(しらす)に名を出さねばならぬかも知れぬ。
 それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭青山備前守(あおやまびぜんのかみ)というものがついていて、鼠賊(そぞく)をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)なるれっきとした外様(とざま)さまの思召(おぼしめ)しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
 で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類(しゅうるい)のうえに、大鉄槌(てっつい)をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私(こうし)板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
 ちょうどその時、
 きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
 そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在(ありか)がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
 おおよそかくのごとく。
 その強記(きょうき)はいかなる市井(しせい)の瑣事(さじ)にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪(おなみ)女浪(めなみ)ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
 南町奉行大岡越前守忠相様。
 明微洞察(めいびどうさつ)神のごとく、世態人情の酸(す)いも甘(あま)いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議(しんぺんふかしぎ)な探索眼(たんさくがん)には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
 と!
 ふと蒲生泰軒のあたまに閃(ひら)めいたのは、いつか本所の化物屋敷に自分と栄三郎が斬りこみをかけた時突如として現れた、あの始終を知るらしい五梃駕籠(かご)のことであった。
 風のような火事装束(しょうぞく)の五人の武士!
 その正体は今もってわからないが、あのなかの頭(かしら)だった老人! と思い当たると、なぜか彼は、忠相がすべてを察知しているわけが読めたような気がして、その時まで碁盤をにらんでいた顔をあげると泰軒、ニッと忠相に笑いかけた。
 しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
 と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしいて」
 しずかにつぶやいた忠相、盤上の黒の一石を手にして、つうとそばのほうへそらしながら、
「さあ、泰軒、かようにひとつが助勢を求めて走っておるぞ。どうじゃ、どうじゃ、どうするつもりじゃ? これに対する処置は」
「ナニ! 助勢を? 誰がどこへ……?」と思わず泰軒、碁(ご)をそっちのけに乗りだすと、忠相は手の石で盤をパチパチたたきながら、
「泰軒! 碁だ、碁だ――が、サア、まず求援の使いの向かう方角は……」
「うむ。その方角は……」
「さればさ――さしずめ、北のかたかな」
 こう言い放っておいて、忠相はジロリと泰軒を見やった。
 一石駆けぬけて援軍を求めに走りつつある――しかも、その方角が北のかた!
 という忠相の言葉に、蒲生泰軒はキッとなって盤をにらんだ。
 いかさま、ひとつの黒い石が、忠相の手によって黒団を離れ、碁盤の隅に孤独の旅をいそぎつつあるように見える。
 これこそ、奥州中村相馬藩の城下へ、左膳のために剣客のむれを呼びに草まくらの数を重ねつつあるつづみの与吉のすがたではなかろうか。
「サ! どうする? どうする気じゃ?」
 忠相はこううながすように言って泰軒を見た。
 じっと石の配置に眼をすえたまま、泰軒は動かない。そのかげに身をすくませているお艶も、いつしかこの碁戦の底にひそむ真剣なかけひきに釣りこまれて、われを忘れて、横のほうからのぞきながら、見入り聞き入りしているのだった。
 外見はあくまでも閑々(かんかん)たる風流烏鷺(うろ)のたたかい……。
 陽のおもてに雲がかかったのであろう、障子いっぱいに射していた日光がつうとかげると、清冽(せいれつ)な岩間水に似たうそ寒さが部屋をこめて、お艶は身震いに肩をすぼめた。
「泰軒、下手(へた)の考えなんとかと申すぞ。なあ、この石をいかがいたすつもりなのだ?」
 かすかな揶揄(やゆ)をふくんだ越前守の声。
 が、泰軒は答えない。大きな膝が貧乏ゆるぎをしているのは、まさに沈思黙考というところらしい。
 すると忠相は、やにわにひとつかみの黒い石を取り出して、援軍をもとめに行きつつあると言った石のまわりに並べた。
「見るがよい。この通り首尾よく同勢を集めて、今やもとへ戻ろうとしておる。この対策はどうじゃな?」
「ふむ! 仔細(しさい)ないわ。こういたしてくれる」
 言ったかと思うと泰軒、手もとの白石(しろ)のひとつをとって、パチリとその新たなる黒の集団の真ん中へ入れた。
 忠相は首をひねって、
「ははあ。そう出向いていくか」
「さよう。かくして帰路の途中、せいぜい数を殺(そ)ぐのじゃな。まず、ひとつ二つと機会あるごとにしとめて――」
 といいながら、泰軒は、いま白をおいた周囲から黒石の二、三を取ってのける。
「かようにいたして、帰るまでにはもとの木阿弥(もくあみ)にしてやろうと思う」
「ウム! それがよい!」
 と忠相は膝を打って、
「急ぎ後を追って、せっかくの助軍を斬りくずすことじゃ……何しろ、この援兵を敵の本城へ入れてはならぬ。俗にも申す多数に無勢、勝ちいくさが負けになろうも知れぬからな。が、はたしてそううまく参ろうかの?」
「何がだ?」
「ただいまの、帰路を擁(よう)して徐々に援助の隊を屠(ほふ)るという戦法――」
「それはこの石の手腕(うで)ひとつにある。この石! この石! この、おぬしのいわゆる薄よごれた石じゃ!」
 こう豁然(かつぜん)と胸をたたいて泰軒が笑うと、忠相もおだやかな微笑をほころばせながら、
「たのもしい石じゃて」
 とチラと泰軒の顔を見やったが、やがて、
「北……と申せば道は一本みち。ただちに発足すればわけなく追いつくであろう」
「北の旅は荒谷行(こうやこう)――血を流すにはもってこいじゃ」
「が、大事な石、ぬかりはあるまいが気をつけてくれ」
「心配無用!」
 言い放った泰軒、助けの石と称する黒のかたまりをすっかりわが手に納めてしまうと、いきなり二つの白石を摘まみあげるが早いか、盤の隅の黒団へ突き入れて、同時にすべてをさらいおとした。
 盤上に残った黒白ふたつの石、それが中央にピッタリ並んでいる。
「もうよい! わかった」
 と忠相は、ゆったりとふところ手をして、
「わしのほうの仕事はそのうえ……あとは必ずわしが引き受けるから、それまでにおぬしが力を貸して、この二石をひとつにしてくれ」
 ふっと碁談がやむと、白っぽい午さがりのしずけさのなかで、どこか庭のむこうで愛犬の黒がなくのが聞こえた。
 いかにして忠相は、いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢を掌(たなごころ)を指すように知っているのか、それがふしぎと言えばふしぎだったが、忠相の今の口ぶりでは、誰か本所化物屋敷の者が、北藩中村へ助剣を求めに走っていること、疑いをいれない。
 では、すぐにこれから!――と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
 と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
 そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。

  北国旅日記(ほっこくたびにっき)

「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
 という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の葦簾(よしず)を通して耳にはいると、江戸者らしい若い小意気な旅人が、ひとり飲みかけた茶碗を置いて振り返った。
 縞の着物に手甲脚袢(きゃはん)、道中合羽に一本ざし、お約束の笠を手近の縁台(えんだい)へ投げ出したところ、いかにも何国の誰という歴(れっき)として名のあるお貸元が、ひょんな出入りから国を売ってわらじをはいているように見えるものの、さて顔を眺めると……まぎれもないあさくさ駒形の兄哥(あにい)つづみの与吉。
 こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の姐御(あねご)が先月から家をあけているのと折柄の好天気を幸いに、そそくさとわらじの紐をはきしめて、こうして奥州中村への旅に出て来たのだった。
 影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
 なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく散(さん)じてヨ、それに帰路(かえり)はお侍連の東道役(とうどうやく)、大いばりで江戸入りができようてんだからこんなうめえ話はねえサ。おまけにおいらのこの中村行きは誰ひとり知る者もねえはずだから、栄三郎の側から追っ手の来る心配もなし――ままよ、江戸ッ児の気晴らし旅、まあ、ゆっくりとやるとしよう。
 こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
 古河の町は、八万石土井大炊頭(おおいのかみ)の藩で江戸から十六里。
 その古河を今朝たって野木、間々田(ままだ)、小山、それから二里の長丁場(ながちょうば)でこの小金井。
 道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途遼遠(りょうえん)という次第だが、心がけが遊山気分で、いっこうに足を早めようともせず、こうして日の高いうちからどっかり腰をおろし茶店の老爺(ろうや)を相手に大いに江戸がっているところ。
 白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
 それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と銘(めい)うった団子がザラザラと舌にさわる。ちょいと趣の変わった木立ちや人家、黒ずんだ遠田(とおた)のおもて、路傍に群れさわぐ子供らの耳なれない言葉……。
 江戸っ児はうち弁慶(べんけい)、旅に出てはからきし意気地がないという。
 与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お膝下(ひざもと)を出はずれるてえと、食物と女の格がずんと落ちるのに往生するよ。女はお前、肌をみがく水が悪いとして眼エつぶるとしてもヨ、食物はなんでえ食物は!」
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。金竜山(きんりゅうざん)浅草寺(せんそうじ)名代の黄粉(きなこ)餅、伝法院大榎(えのき)下の桔梗屋安兵衛(ききょうややすべえ)てんだが、いまじゃア所変えして大繁昌(はんじょう)だ。馬道三丁目入口の角で、錦袋円(きんたいえん)と廿軒茶屋の間だなあ。おぼえときねえ」
 なんかと頼まれもしない浅草もちの広告(ひろめ)に力こぶをいれて、一人弁舌(べんぜつ)をふるっていると、
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
 与吉は大いに業(ごう)を煮やして、
「何イ! 馬だ? べら棒め、馬がどうしたッてんでえ!」
 威勢よくたんかをきって向きなおった拍子に、つづみの与吉、さっと顔から血の気がひいた。
 二軒むき合っている向う側の茶みせから、じっと眼を据えてこっちを見つめている異様な男!
 おぼえのある乞食すがたに貧乏徳利……。

 うまくお艶の身柄を忠相(ただすけ)へ押しつけおおせた泰軒、さっそく庭へおり立つところを忠相が呼びとめたのだった。
「これ、蒲生! 何やらここに落ちておるぞ」
 というので、ちょっと引っ返して部屋をのぞくと、いままで坐っていた場所に小判が数枚!
 泰軒の窮状(きゅうじょう)を察した忠相が、無心もないのに投げ出したもので、路用としてそれとなく与える意(こころ)。涙の出るほどのゆきとどきぶり……。
 ふたりは何も言わなかった。
 泰軒はただのっそりあがって来て金子(きんす)を納め、呵々(かか)大笑して再び出て行ったきり――礼もなければ辞儀もない。この両心友の胸間、じつにあっさりとして風のごとくに相通ずるものがあった。
 そして。
 お艶がなおもひれ伏しているうち大岡様のお屋敷を出た泰軒は、瓦町の栄三郎様へも立ちよらずに、その日のうちに江戸をあとに北上の旅にのぼったのである。
 乾雲のために求援の使いにたって、今や一路北州をさしていそいでいる者があると言ったが、はて誰だろう? まだ相馬へは着いてはいまいから、追い越して顔さえ見ればわかるに相違ない。そのうえ、相手のいかんによって策の施しようはいくらもあると、ゆく手に当たって人影が見えるたびに、泰軒はひたすらに足を早めて来たのだった。
 駅路(えきろ)のさざめきも鄙(ひな)びておもしろく、往(お)うさ来(く)るさの旅人すがた。
 が、住居を持たぬ泰軒先生は、江戸にいても四六時ちゅう旅をしているようなもの。したがってこうして都を離れるにも、何一つ身仕度などあろうはずもなく、きたきり雀の古布子(ふるぬのこ)に、それだけは片時も別れぬ一升徳利の道づれ――。
 奥の細みち。
 と言うと風流なようだが、泰軒は気がせく。
 人一倍の健脚に鞭(むち)をくれて、のしものしたり一日に十有数里。
 奥州街道。
 江戸から二里で千住(せんじゅ)。おなじく二里で草加(そうか)。それから越(こし)ヶ谷(や)、粕壁(かすかべ)、幸手(さって)で、ゆうべは栗橋の泊り。
 早朝に栗橋をたって中田、古河の城下を過ぎ、本街道をまっしぐらに来かかったのがこの小金井である。
 町を素通りに、スタスタ通り抜けようとした、宿場はずれ。
 ふと一軒の茶店からしきりに江戸江戸と江戸を売りに来ているような声がするので、泰軒、何ごころなくみやると、見たことのある町人がさかんに気焔(きえん)をあげている。
 ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖銀杏(いちょう)のしたで、諏訪栄三郎のふところから財布を抜いて走った男。これが本所鈴川源十郎の取巻きの一人で、名もわかっている……つづみの与吉! と、とっさにみてとったが、泰軒は知らん顔、そのまま向う側の茶店の入口近く陣取って、隠れるでもなければうかがうでもない、こっちから公然(おおっぴら)ににらみつけていると――。
 馬子をどなりつけて振り向いたとたん、思いがけない泰軒のいることに気のついた与の公、はッとすると同時に青菜に塩としおれ返ってしまった。
 今のいままで恐ろしく威勢のよかったやつが、ムニャムニャとにわかに折れてしまったから、びっくりしたのは茶店のおやじだ。
「どうしただね? 腹でも痛み出したかね?」
 うるさくきくので、与吉はこれをいいことに、
「うん? ううん……なんでもねえ。いや、腹が痛えや。こんな団子を食わせるからだ」
「あんだって、この人は団子にばかりそうけちイつけるだんべ! 三皿もお代りしたくせに……」
 顔をしかめてうなりながら、与吉がチラ! チラ! とうしろをふり返ると、路をへだてた床几(しょうぎ)に泰軒先生それこそ泰然と腰をすえてまたたきもせずにこっちの方をみつめている。
 与吉は、ジリジリと背中が焼けつくようで、いてもたってもいられぬ心地。
 蛇ににらまれた蛙同然――人もあろうに一番の難物が、どうしてここへこうヒョッコリ現れたんだろう! こいつア厄介なことになったもんだ! と一時は与吉、顛倒(てんとう)せんほどに驚いたが、なあに、この先まだ道は長え。宇都宮へへえるまえにでもどこかできれいにまいてやろうと決心を固めて、
「爺さん! ホイ、茶代だ。ここへおくぜ」
 と勢いよく起ちあがると、それを待っていたように、むこう側の茶店でも泰軒が腰をあげたようす。
 首すじがゾクゾクして、与吉はともすれば立ちすくみそうになったのだった。
 猛犬に踵(かかと)をかがれながらさびしい道をあるいていく時の気もち……ちょうどあれだった。背骨がしいんとして、腰の蝶番(ちょうつがい)が今にもはずれそうに思われる。駈け出すわけにはいかず、そうかといって振り返ることもできずに、与吉は半ば死んだ気でフラフラと往還(みち)のみちびくがままにたどってゆく。
 すぐあとから泰軒先生が、一升徳利を片手にぶらさげ、鬚(ひげ)の中から生えたような顔に微笑を浮かべて悠々閑々(ゆうゆうかんかん)とついて来るのだった。
 珍妙奇天烈(きてれつ)な二人行列。
 それが、陽うららかな宇都宮街道を、先が急げば後もいそぎ、緩急停発(ていはつ)ともに不即不離(ふそくふり)のまま、どこまでもどこまでもと練っていくところ、人が見たらずいぶんおもしろい図かも知れないが、当(とう)の与吉の身になると文字どおり汗だくの有様で、兄哥(あにい)すっかり逆上(あが)ってしまっている。
 どうも薄気味の悪いことこのうえない。
 もうすこし離れてつけてくるのなら、こっちも駒形の与の公、なんとかして撒(ま)く才覚も生まれようというものだが、こうピッタリかかとを踏まんばかりにくっついていられては、どうにもこうにも考えることさえできないのだ。
 それも。
 おい! とか、コラ! とか声でもかけてくれるならまだいい。そうしたら当方にも応対のしようがあって、おや! これはこれは乞食の旦那様、お珍しい! はて、どちらへ?――ぐらいのことが、スラスラと出ない与吉でもないし、じっさいその問答の二、三も心中に用意があるのだが、こんなに押し黙ってついて来られると、先方が普段からの苦手なだけに、与の公、手も足も出ないで、亡者(もうじゃ)のような心地。
 その亡者のような与の公と、お閻魔(えんま)さまの蒲生泰軒とが、ぶらりぶらりと野中の一本道を雁行(がんこう)していくのだ。
 小金井をたって下石橋、二里半の道で宇都宮……大通りを人馬にもまれて素どおり。
 もうそぼそぼ暮れだが、与吉はこんなつれといっしょに[#「いっしょに」は底本では「いっしよに」]旅籠(はたご)をとる気にもなれない。で、町を突っきり、夜道をかけて今度はどんどん足を早め出した。
 いけない!
 やっぱりスタコラついて来る。
 黙りこくって、影のようにうしろに迫りながら押っかぶさるようにしてついてくるのだ。
 与吉もこれにはすっかり往生したが、振り返りでもしようものなら、そのとたんにぽかんと拳固(げんこ)がとんできそうな気がするし、一度などは与吉が道路にしゃがんでわらじを結びなおすと、泰軒は平然とそばに立って待っている始末で、駒形名うてのつづみの与吉、まるで大きな荷物をしょいこんだ形でほとほと閉口(へいこう)してしまった。
 無言のまま同行二人。
 真夜中の白沢。
 氏家(うじいえ)。
 喜連川(きつれがわ)――喜連川左馬頭(さまのかみ)殿御城下。
 夜どおしがむしゃらに歩きつめて、へとへとに疲れきった与の公のうえに、さく山あたりで暁の色が動きかけた。
 脚は棒のようになる。眼はくらむ。狩り立てられた狼のようになった与吉、ひとこと泰軒が声をかけたら即座に降参してすべてをぶちまけ、すぐに江戸へ引っ返すなり、ことによったらこのままどこへでも突っ走ってしまおうと思っていると……。
 泰軒は平気の平左。
 ときどき貧乏徳利をぐいと傾けてひっかけながら、口のなかで、謡曲(うたい)の一節。
 明(あけ)の月が忘れられたように山の端(は)にかかって、きょうもどうやら好晴らしい。うす紫の朝靄(もや)には、人家が近いとみえて鶏の声が流れ、杉木立ちの並ぶ遠野の果てに日の出の雲は赤い。
 はるかに連山の残雪。
 ふっと近くに馬のいななきがきこえてゆく手の草むらにガサガサと音がしたので、与吉がびっくりして立ちどまると、放し飼いの馬が二、三頭、ヌッと鼻面を並べて出した。
「なんでえ! 驚かしゃがらア! シッ! どけ、どけ! シイ――ッ!」
 と、馬とわかって、与の公急に強くなっていばりだしたものだから、よほどそれがおかしかったとみえ、
「はっはっはッは……」
 うしろに泰軒の笑い声。
 与の公、とうとう泣き顔をふり向けて悲鳴をあげた。

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