丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

 きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
 まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
 ……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡(うまい)に。
 深更(しんこう)。
 ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
 うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。

「栄三郎様……栄三郎さん!」
 忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
 コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
 栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
 が、
「栄三郎様!」
 という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
 戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
 まんじ巴(ともえ)と闇夜におどる六つの花びらだ。
 その風にあおられて、白い被衣(かつぎ)をかぶったと見える女の立ち姿が……。
 雪女郎?
 ――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏(も)れる光線(ひかり)のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
 いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
 と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来(しゅったい)しましたか」
「オオ寒(さむ)!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産(みやげ)を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
 ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
 母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏(くいな)についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
 と、自ら先に立ったが――
 これよりさき!
 栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
 ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
 見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
 武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
 左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
 間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
 しんにとっさの出来事。
 ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の跫音(あしおと)がかすかにうらにひびいた。栄三郎はさよを招じあげながら、何事も気づかずに大声に話していた。
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「降(ふ)りますねえ。いえ、この御土産から……」
 おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
 栄三郎はこうしんみり言って、戸外(そと)の雪を聴くように静かに耳をすましながら、おさよの手もとに見入った。
 ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。

 ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ片(ぎれ)がとけてゆくうちに、いつしか堅く唾(つば)をのみながら、じっとおさよの手もとをみつめていた栄三郎の眼に、一閃チラリと映ったのは!
 平糸まきの鞘の一部! つづいて陣太刀作り赤銅の柄(つか)!
 いわずと知れた夜泣きの刀乾雲丸とみてとるや、栄三郎、一声のどのつまったような叫びをあげて、狂者のごとくおさよを突きのけ、残りの包みに手をかけてバリバリバリッ! と破るより早く、なかの乾雲を取りあげて血走った眼を犇(ひし)! と注いだ。
 いつ見ても戦国の霜魄(そうはく)鬱勃(うつぼつ)たる関の孫六の鍛刀……。
「ううむ――」
 思わずうなった栄三郎、ハッタとかたわらのおさよを睨(ね)[#ルビの「ね」は底本では「ぬ」]めてにじり寄った。
「お! いかにしてそのもとがこの乾雲丸を……た、丹下左膳はどうしましたッ! さ、それを言われい、それを!」
 剣幕にのまれたおさよは、何からどう言い出したものかと、ただもうドギマギするばかり。
「え、あのそれは――」
「エイッ! はっきりと、はっきりとお話しありたい。そもそもこれは何者の指図でござる?」
 言いながら栄三郎、乾雲丸を引きつけて眼を寝床のほうへやると! 上気した栄三郎の顔が一度に蒼白に転じた。
 何はともあれ、これで手にある坤竜(こんりゅう)と番(つがい)に返り、雲竜ところをひとつにしたと思ったのも束(つか)のま、さっきまで確かに行燈の下にあった脇差坤竜丸が姿を消しているのだ。
「やッ! 坤竜がッ!」
 おめいた栄三郎、同時に突っ起っていた。バタバタッと駈けよって枕を蹴る。あろうはずがない! やけつく視線を部屋じゅうに走らせても、櫛まきお藤が忍び入って先刻持ち出した坤竜丸、どうしてそこらに転がっていよう!
「ああない! ない……坤竜がない! ふしぎ……」
 栄三郎、乾雲を杖によろめいた。
「あの、では、もう一つのお刀が失くなったのでございますか」
 おさよのおろおろ声も栄三郎の耳へははいらなかった。
 おのが手の竜、ひそかに天角の雲を呼んで、ここに乾坤二刀たえてひさしく再会するかと思いきや、その瞬間にこのたびは竜を逸した栄三郎、二つを対(つい)に、とりあえず腰に帯びてみようと意気ごんだだけに茫然自失のていでしばらくは言葉もなかった――。
 と!
 ふと気がついたのが裏の戸口。
 一足飛びに走り出てみると、果たして台所の土間(どま)が雪に汚れて、何ものかの忍びこんだ形跡(ぎょうせき)歴然(れきぜん)!
「おのれッ!」
 と栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
 深夜の江戸を一刷(は)けに押し包んで、雪はいつやむべしと見えなかった。
 宿業(しゅくごう)と言おうか――それとも運気(うんき)?
 双剣一に収まって和平を楽しむの期(き)いまだ到(いた)らざる証(あかし)であろうが、前門に雲舞いくだって後門(こうもん)竜(りゅう)を脱す。
 はいる乾雲に出る坤竜。
 それはまことに不可測(ふかそく)なめぐりあわせであったが、栄三郎はついに乾雲の柄をたたいてにっこりとした。
 思ってもみよ!
 きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の手垢(てあか)に赤銅のひかりを増した利刀乾雲丸が、今宵からは若年の剣士諏訪栄三郎のかいなに破邪(はじゃ)のつるぎと変じて、倍旧の迅火殺陣(じんかさつじん)の場に乾雲独自のはたらきを示そうとしているのだ。
 そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
 乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
 それまではこの夜の雪をさながらにまんじ巴(ともえ)、去就ともに端倪(たんげい)すべからざる渦乱であった。
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
 おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。

 夜□(やち)のごとくに栄三郎の隙をうかがって入りこみ、小刀坤竜丸をさらって逃げ去った櫛まきお藤は、この深夜の雪を蹴って、そもいずこへ消え去ったのであろうか?
 かのお藤……。
 本所の化物屋敷に出入して、万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)紅一点、悪旗本や御家人くずれと車座になって勝負を争っているうちに、人もあろうに離室(はなれ)の食客、隻眼隻腕の剣怪丹下左膳に恋をおぼえ、その取り持ち方を殿様鈴川源十郎に頼んだまではいいが、源十郎に裏切られるにおよんで、深くかれを恨んでいるやさき、当の左膳に意中の女があると聞いて一転妬情(とじょう)の化身と変じた末が、あの雨の夜、左膳が片思いの相手をつれだして源十郎のこがれるお艶と、栄三郎を仲に醜い角突き合いを演じさせ、ひそかに鬱憤(うっぷん)をはらそうとしたものの、弥生お艶の女同士がやさしい涙にとけあって、お藤のもくさんはガラリとはずれたばかりか。――
 江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
 まもなく。
 魔猫(まびょう)の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢(しろむく)鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管(きせる)をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
 思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
 かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊(こわ)してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
 恋はいろいろに動く。
 ことにお藤のような女においては、いっさいの有(ゆう)かいっさいの無(む)、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば桜のお藤、手練手管(てれんてくだ)のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
 しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
 かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
 いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
 浅草のお藤の隠れ家?
 否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみの与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
 してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
 遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
 とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖(あなぐら)のような闇黒の底だった。
 やみ? そうだ。黒暗々の奈落(ならく)。
 それは、兇状持ちのお藤が、始終お上(かみ)を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
 闇黒が左膳を包んでいる。
 その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
 闇黒――ぬば玉(たま)の無明(むみょう)のやみ。
 それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘(ぼう)じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
 いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
 お藤はまだ帰らない。

 はじめお藤の懐中(ふところ)鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
 左膳は。
 暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
 源十郎が頼みにならないうえに、つづみの与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
 さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎(しい)の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
 こういう気もちから易々諾々(いいだくだく)としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれも知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざという時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留(とうりゅう)なさいましよ」
 こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
 とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめもわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
 低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵(むしろ)や夜着蒲団のたぐいといっしょに簡単な炊事道具がころがっているらしいことは手さぐりでもわかった。片隅に粗末な階段がついていて、そこはいまはいって来た秘密の入口――。
 お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと真(ま)に受けて、今にも鈴川屋敷へ斬りこもうとたけりたつのをお藤がおさえて、
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
 となだめているうちに。
 せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって咽(む)せ返りそう……丹下左膳、いかにこの間に処したことか。
 さて今夜。
 暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
 お藤が入れていった置き炬燵(ごたつ)に暖をとって、長ながと蒲団にはらばった左膳、ひとりこうしていると、ゆくりなくもさまざまのことが思い出されるのだった。
 追いつ追われつする運命の二剣! それに絡(まつ)わるおのが秘命。
 わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
 と思わず左膳が、自嘲(じちょう)に似たつぶやきを洩らした刹那(せつな)!
 タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の機械仕(からくりじ)かけがんどう返しの扉がサッと開いたかと思うと、全身白く塗(まみ)れた櫛まきお藤が、落ちるようにころがりこんで来た。
「どうしたのだ? 雪か」
 左膳は闇黒に瞳を凝(こ)らしたまま起きあがろうともしない。
「ええ。ひどい雪」
 笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
 といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
 と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
 と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を蹴(け)ひらいて戸外に躍り出た。
 乾雲は庭すみに埋めてある!
 と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を帯(たい)して本所をさして急いだが。
 同じ時刻に。
 本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに駆(か)けていた。

 鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
 言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の代償(だいしょう)!
 と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の双頬(そうきょう)にさっ[#「さっ」は底本では「さつ」]と血の気が走った。
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
 こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
 竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で奪(と)り、つるぎにかけて争ってこそ互いに武士の面目もあろうというもの――。
 それをなんぞや! 一老婆が偸盗(ちゅうとう)のごとく持ち出したものを、なんとておめおめと受納できようか。
 しかもそれが妻を売る値(あたい)だという。もってのほかと言うべきところへ、あまつさえそのお艶もすでに家を出ているではないか。
 これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
 こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を腰間(こし)に佩(はい)してパッと雪の深夜へとび出したのだった。けたたましく呼ぶおさよの声をあとにして。
 天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
 どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
 トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
 左膳の心もちはおのずから別だった。
 目的のために手段をえらばない丹下左膳。
 たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、郷藩(きょうはん)相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
 丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
 というのは……。
 舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
 片側は御用屋敷の新阪町。
 他は清水町(しみずちょう)の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈(しんちん)と眠る真夜中。
 向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
 乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇(く)しき出会いであったと言わなければならぬ。
 雪に埋(う)もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
 と、剣妖(けんよう)左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
 向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき青侍(あおざむらい)に要はねえのだ。ざまあ見やがれ」
 と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり有頂天(うちょうてん)にはなれぬぞ。さ、この大刀におぼえがあるかどうだッ?」
 言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
 と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
 土生(はぶ)仙之助をはじめ、化物屋敷の常連(じょうれん)が、博奕(ばくち)がくずれて帰路についたところだ。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
 立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
 左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて純粋無垢(じゅんすいむく)な若侍の真意が、暁の空のごとく彼の脳裡にもわかりかけたものか、たちまち快然と哄笑をゆすりあげて、
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、俺(おれ)もてめえに返すものがあるんだ」
 いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
 と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ釈然(しゃくぜん)と笑って、乾坤二刀を交換せざるを得ない立場だった。
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は嬉(うれ)しいところがあるよ……だがな、乾雲が俺の手にはいるや否や、今この場で、てめえをぶったぎるからそう思え。かわいそうだが仕方がねえのだ」
 と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
 おううッ! と一声、けもののようなうめき、
 どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
 あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
 乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
 そして今!
 しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に凝視(ぎょうし)しあっている。
 とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の冷刃(れいじん)がギラリ光った。とともに栄三郎は腰を落として、すでに剛刀武蔵太郎安国の鞘を静かにしずかに払っていた。此度こそはッ! と、心中に亡師(ぼうし)小野塚鉄斎の霊を念じながら。
 と! この時。
 あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが傍観(ぼうかん)はできぬ。幸(さいわ)い手がそろっているから、逃さぬように遠まきにいたしてくれる。存分にやれッ!」
 が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の斬先(きっさき)も鋭く、
「えいッ!」
 気合いもろとも、礫(つぶて)のごとく身を躍らして、突如! 左膳をおそうと見せて一瞬に右転、たちまち周囲にひろがりかけていた助勢の一人を唐竹割り、武蔵太郎、柄もとふかく人血を喫(きっ)して、戞(か)ッ! と鳴った。
「しゃらくせえ!」
 おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、皎剣(こうけん)、あわや迅落しようとするところをヒラリひっぱずした栄三郎は、そのとき眼前にたじろいだ土生仙之助へ血刀を擬して追いすがった。
 有象無象(うぞうむぞう)から先にやってしまえ! という腹。
 土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、鍔(つば)を返して左膳の乾雲を払うが早いか、こうじゃまが入った以上は、身をもって危機を脱するが第一と思ったのか、白刃をひらめかしてざんぶとばかり、堀へとびこんだ。
「ちえッ!」
 と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
 雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の掘割(ほりわ)りに、大きな渦まきが押し流れていった。

  虚実(きょじつ)烏鷺(うろ)談議

 離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
 主君相馬大膳亮(だいぜんのすけ)のために剣狂丹下左膳が、正当の所有主(もちぬし)小野塚鉄斎をたおして、大の乾雲丸(けんうんまる)を持ち出して以来、神変夢想流門下の遣手(つかいて)諏訪栄三郎が小の坤竜丸(こんりゅうまる)を佩(はい)して江戸市中に左膳を物色し、いくたの剣渦乱闘をへたのち――乾雲はおさよが、坤竜はお藤が、ともにこっそり盗み出して、ここに二刀ところを一にするかと見えたのも一瞬、こんどは逆に栄三郎が乾雲を、左膳が坤竜を帯びて雪中法恩寺橋上の出会い――。
 任侠(にんきょう)自尊の念につよい栄三郎の発議によって、両人雲竜二剣を交換して雲は左膳へ、竜は栄三郎へと、おのおのその盗まれたところへ戻ったが。
 婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、二度(ふたたび)つるぎと腕にかけて奪還するから……と、この栄三郎の意気に感じて、左膳もこころよく坤竜を返納したのは、二者ともさすがに侍なればこそといいたい美しい場面であった。
 が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
 しかし、それもほんの寸刻の間だった。
 折りもおり、土生(はぶ)仙之助の一行が左膳の助剣にあらわれたので、乱刃のままに長びいてはわが身あやうしと見た栄三郎、ひそかに、再び左膳と会う日近からんことを心中に祈りながら、橋下の暗流――雪の横川へとびこんで死地を脱した。
 あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
 それもやがて。
 暗黒(やみ)の水面に栄三郎を見失って長嘆息、いたずらに腕を扼(やく)しながら三々五々散じてゆく。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
 と左膳、片手に赤銅(しゃくどう)の柄(つか)をたたいて瓢々然(ひょうひょうぜん)、さてどの方角へ足が向いたことやら――?
 かくしてまたもや。
 悪因縁(あくいんねん)につながる雲竜(うんりゅう)双剣(そうけん)、刀乾雲丸は再び独眼片腕の剣鬼丹下左膳へ。そうして脇差坤竜丸は諏訪栄三郎の腰間(こし)へ――。
 それは、まわりまわってもとへ戻る数奇不可思議(すうきふかしぎ)な輪廻(りんね)の綾であった。
 しばらく頭(こうべ)をめぐらして本来の起相(きそう)を見れば。
 刀縁伝奇(とうえんでんき)の説に曰く。
 二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、凶(きょう)の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈(はらんばんじょう)、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
 そして、刀が哭(な)く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐(のき)も三寸さがるという丑満(うしみつ)のころになると、啾啾(しゅうしゅう)とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 この宿運の両刀。
 はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
 のみならず。
 駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁(よう)して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
 一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
 かれが唯一の助太刀快侠(かいきょう)蒲生泰軒(がもうたいけん)先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
 二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
 死肉の山が現出するであろう!
 生き血の川も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山血河(しざんけっか)をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
 雪の江戸に金いろの朝が来た。
 それからまもなく。
 ある梅日和(びより)の午(ひる)さがり――南町奉行越前守大岡忠相(ただすけ)の役宅では。

 雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
 眼をよろこばせる常磐樹(ときわぎ)のみどり。
 珊瑚(さんご)の象眼(ぞうがん)と見えるのは寒椿(かんつばき)の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
 幽邃(ゆうすい)な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
 数寄屋(すきや)がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
 茶立口、上壇(だん)ふちつきの床、洞庫(どうこ)、釣棚(つりだな)等すべて本格。
 道具だたみの前の切炉(きりろ)をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
 あるかなしかの風にゆらいで、香(こう)のけむりが床(ゆか)しく漂(ただよ)う。
 越前守忠相、ふとり肉(じし)のゆたかな身体を紋服(もんぷく)の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
 茶筅(ちゃせん)、匙(さじ)、柄杓(ひしゃく)、羽箒(はねぼうき)などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
 そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
 ぼつんと切り離したような静寂(しじま)、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒(じょしんけん)に負(お)うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧(さんまい)にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
 こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
 忠相は動(どう)じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂(かも)川、江戸では多摩(たま)川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為(うんい)するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主(ぬし)、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
 泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
 沈黙、
 泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
 忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
 いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有(みぞう)のことには、さっきこうして真(ま)っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術(ようじゅつ)を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
 あいも変わらぬ天下御免(ごめん)の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利(びんぼうどくり)をぶらさげて、大髻(おおたぶさ)を藁(わら)で束ねたいでたちのまま。
 おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
 という無遠慮(ぶえんりょ)な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
 と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑(めいわく)な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
 そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
 言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
 じぶん故(ゆえ)にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
 しかも!
 もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生(やよい)様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛(だいりびな)……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
 ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様(こんにちさま)に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
 自分さえなければ万事(よろず)まるく納まりそう。
 得るも恋なら、退くも恋。
 いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
 それが何よりも栄さまのおため。
 つぎに、お刀と弥生様への義理。
 また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞(ふて)くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
 栄三郎様はこのお艶の心変りを真(ま)にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫(わ)びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
 黙然(もくねん)、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯(ほおひげ)が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
 そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱(しんぼう)……栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
 ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘(わ)び住居を立ちいでたのだった。
 うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落(らいらく)に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
 爾来(じらい)数日。
 野良犬のごとく江戸のちまたに夜(よ)な夜(よ)なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。
 この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
 が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
 そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)――。
「今日はちと肩の凝(こ)るところへ案内をして進ぜよう、だまってついて来なさい」
 こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
 どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった品(ひん)のいいお殿様と、泰軒先生との友達づきあいの会話のあいだに、このお方こそほかならぬ南のお奉行様と知るや、ここで待つようにと泰軒に言われた縁下の地面に土下座して、いっそう身も世もなくちぢまる拍子に、白い額部(ひたい)が土を押した。
 室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
 越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
 躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に前肢(まえあし)をそろえて見ている。
 宇和島伊達(だて)遠江守殿から贈られた隣藩土佐産の名犬、忠相の愛する黒というりこうものである。
「黒よ! いかがいたした」
 忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
 春日遅々(ちち)として、のどかな画面。
 ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
 相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖(こわ)さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀(いぎ)をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣(きぬ)ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来(こ)い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一瞥(べつ)をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内(なか)へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交(かた)みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるありがたいお言葉!
 なんというお情けぶかい!
 お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上御辞退(ごじたい)申すはかえって非礼と、お艶は、はいとお応(こた)えするのも口のうちに、そこは女、手早く裾の土を払い髪をなおして、おそるおそるあがりこむと、お部屋のすみにべたりと手を突いた。
 お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
 と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに悠然(ゆうぜん)と泰軒へ向きなおって、他意なくほほえんでいる。
「わっはっはッ!」
 何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
 しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って床(とこ)の間(ま)から碁盤(ごばん)をおろして来た。
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を小癪(こしゃく)な! 殿様の碁の相手だけはまっぴらだが、貴公なら友だちずくに組(くみ)しやすい。来い!」
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
 なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
 その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
 驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
 パチリ!……と盤面にのった二つの石。
 ひとつは白、他は黒。
 これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
 うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
 が、忠相は平々然……。
 しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、夢語(むご)のごとくにつづけるのだった。
 あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
 この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
 凝(こ)りかたまったようなしずけさの底に、盤をへだてた泰軒と忠相――。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
 と忠相、もの憂(う)そうに手を出してふたつの石を盤の隅へ隅へ遠ざけてみせると。
 黙ったまま碁笥(ごけ)をとった泰軒は、やにわにそれを荒々しく振り立てた。無数の石の触れ合う音が騒然と部屋に流れる。
「ふうむ」と忠相は瞑目(めいもく)して、「いわば擾乱(じょうらん)、災禍(さいか)――じゃな。して、こうなればどうだ?」
 いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
 泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ! 鎮定礼和(ちんていらいわ)の相か。そうか。おもしろい」
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
 と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって哄笑(こうしょう)した。
「碁(ご)だ! 碁だ! 泰軒、碁のはなし、碁の話」
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
 と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
 ふたたび無言の行(ぎょう)――。
 いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように畏友(いゆう)大岡忠相の博知周到(はくちしゅうとう)に驚異と敬服の感をあらたにしておのずから頭のさがるのを禁じ得ないのだった。
 古今東西を通じて判官の職にありし者、挙(あ)げて数うべからずといえども、八代吉宗の信を一身にあつめて、今この江戸南町奉行の重位を占めている忠相にまさる人物才幹はまたとなかったであろう……人を観るには人を要す。これ蒲生泰軒は切実にこう感じて、こころの底からなる恭敬の念にうたれたのだ。その畏怖の情に包まれて、さすがの放胆泰軒居士も、ついぞなく、いま身うごきがとれずにいる不動金縛(ふどうかなしば)り。
 思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
 にこやかに温容(おんよう)をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来(こ)い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
 と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰(さた)という文字は、沙(すな)に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候(そうろう)。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿(せんさく)すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介(やっかい)なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
 蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。

 碁盤(ごばん)をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭(かしら)をもする者ども、軍法だてをして床几(しょうぎ)に腰を掛け、采配(さいはい)を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍(いくさ)に勝たるるものと心得るは大なる了簡(りょうけん)違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時(わじ)における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部(ぼんのくぼ)を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美(さいび)はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
 ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸(いっ)する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷(くちゅう)もその間にあるよ。この二石……」
 手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
 泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
 と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
 いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
 と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
 にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住(てんがいむじゅう)の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
 と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有(ゆう)にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧(か)けとる、ハッハッハ右が欠(か)ける」
「お! そうだったな。眼糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑うのたぐいか――しからば、これはどうだ?」
 忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
 迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
 奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒(よ)って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々(きょきょじつじつ)の烏鷺談議(うろだんぎ)がくりひろげられてゆくのだった。
 泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。

 昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
 丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字(もじ)が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
 ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆袈裟(けさ)がけ辻斬り左腕の下手人だ。
 ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
 これに端緒(たんちょ)を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審(しら)べあがっているのだった。
 が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請(こぶしん)入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼昼行(ちゅうこう)ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲(しらす)に名を出さねばならぬかも知れぬ。
 それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭青山備前守(あおやまびぜんのかみ)というものがついていて、鼠賊(そぞく)をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)なるれっきとした外様(とざま)さまの思召(おぼしめ)しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
 で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類(しゅうるい)のうえに、大鉄槌(てっつい)をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私(こうし)板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
 ちょうどその時、
 きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
 そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在(ありか)がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
 おおよそかくのごとく。
 その強記(きょうき)はいかなる市井(しせい)の瑣事(さじ)にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪(おなみ)女浪(めなみ)ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
 南町奉行大岡越前守忠相様。
 明微洞察(めいびどうさつ)神のごとく、世態人情の酸(す)いも甘(あま)いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議(しんぺんふかしぎ)な探索眼(たんさくがん)には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
 と!

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:759 KB

担当:undef